満州国

{{基礎情報 過去の国 |略名 =満州国 |日本語国名 =満洲国 |公式国名 =滿洲國 |建国時期 =1932年 |亡国時期 =1945年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Flag of Manchukuo.svg |国章画像 =Manchukuo Coat Of Arms.svg |国章幅 = 100px |標語 =五族協和の王道楽土 |国歌名 =滿洲國國歌 |国歌追記 =Template:mn? |位置画像 =China-Manchukuo-map.png |公用語 =中国語北京官話)、モンゴル語日本語 |首都 =新京 |最大の都市 =奉天 |元首等肩書 =元首皇帝) |元首等年代始1 =1934年 |元首等年代終1 =1945年 |元首等氏名1 =康徳帝(愛新覚羅溥儀Template:mn? |首相等肩書 =国務総理大臣 |首相等年代始1 =1932年 |首相等年代終1 =1935年 |首相等氏名1 =鄭孝胥 |首相等年代始2 =1935年 |首相等年代終2 =1945年 |首相等氏名2 =張景恵 |面積測定時期1 = |面積値1 =1,133,437 |人口測定時期1 =1937年 |人口値1 =36,933,206 |変遷1 =建国宣言 |変遷年月日1 =1932年3月1日 |変遷2 =皇帝退位宣言 |変遷年月日2 =1945年8月18日 |通貨 =満州国圓 Template:mn? |時間帯 =+9 |夏時間 = |時間帯追記 =Template:mn? |注記 =

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満州国満洲国、まんしゅうこく、Template:Lang-en-short?Template:ピン音?)は、1932年から1945年の間、満州南満洲:現在の中国東北部)に存在した、事実上日本傀儡政権とされている国家である。

大日本帝国(朝鮮領土)および中華民国ソビエト連邦モンゴル人民共和国蒙古自治邦政府と国境を接していた。

概要

満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国以前の女真族の建てた王朝として、後金(後の)がある。

1931年(昭和6年)柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発。関東軍大日本帝国陸軍)は満洲全土を占領、1932年(昭和7年)満洲国を建国し、元首として滅亡した清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を迎えた。溥儀は当初は執政、後に皇帝となった。

満洲国は国家理念として、満州民族漢民族モンゴル民族からなる「満洲人満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言した。

しかし満洲国は依然、関東軍の強い影響下にあった。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。

1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の日本の敗戦により満洲国は崩壊する。その6日前の8月9日に侵攻してきたソ連の支配下となり、次いで、満洲地域は中華民国国民政府に返還された。

満洲国の存在した地域は、古くは満洲(南満州)と呼ばれていたが、現在この地域を統治している中華人民共和国中華民国は満洲という呼称を避け、同地域を「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。

日本の影響力

満洲国は、日本の影響下にあったことから、事実上日本の傀儡政権とされている国家である満洲国については、「日本ないし関東軍の傀儡国家と規定するものも少なくない」(山室信一『キメラ-満州国の肖像-』中公新書1138、1993年、p.6、1993年吉野作造賞受賞)。中華人民共和国中華民国では、満洲国を正式な独立国として見なさず、否定的文脈では「偽満州国」と記述される姜念東・解学詩ほか『偽満州国史』(吉林人民出版社、1980年)など。しかし、現在歴史学上では受け入れられていないが、傀儡国家ではなかったと位置づける説もある<ref name=nakamura>中村粲大東亜戦争への道』(展転社、1990年)・黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』(ワックBUNKO、2005年)など。

国名

1932年大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。日本では第二次世界大戦後、当用漢字字体表(1949年4月28日内閣告示)に従い「満洲国」と表記されるが、「洲」が当用漢字表(1946年11月16日内閣告示)に含まれていないため、文部科学省検定済教科書など教育用図書では同音の漢字による書きかえに基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記する。

この国号は、1934年康徳元年)3月1日、溥儀が皇帝として即位しても変更されなかった。ただし、同日施行された組織法の第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(「政府公報日訳」による)とあるのをはじめとして、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。なお、1934年(康徳元年)4月6日の外交部佈告第5号により、帝政実施後の英称は正称が“Manchoutikuo”または“The Empire of Manchou”、略称が“Manchoukuo”または“The Manchou Empire”と定められている。

  • 満州の語源として、後金時代に五行思想に基づいてである王朝を継承する王朝であるを構成する民族名として女真蒙古漢族の統合の象徴として「さんずい」で構成される満洲が選ばれた経緯もあり、少なくとも文化的に満州を使用する場合は満洲と記載されるべきとの立場もある。

元号

  1. 大同1932年3月1日-1934年2月28日
  2. 康徳1934年3月1日-1945年8月18日

歴史

建国の背景

前史

日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期に既に現れていた。経世家佐藤信淵は、文政6年(1823年)に著した『混同秘策』で「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし。」と満洲領有を説いた。また、幕末の尊皇攘夷家吉田松陰は『幽囚録』にて、「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と似た主張をしている。

日本の生命線

20世紀初頭の日本では、すでに外満州沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企画する帝政ロシア南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団事変に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。ついにロシアと日本は1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国の権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった。この状況について当時日本に在住していたポルトガルの外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えているヴェンセスラウ・デ・モラエス『日本通信』 京都外国語大学付属図書館。

1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。日本はシベリア出兵で満洲の北にあるロシア極東に内政干渉を行うも失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになった。

満洲における状況

満洲は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。さらに中国内地では蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。

満洲事変

詳しくは満州事変を参照。

1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断、独自の判断で張作霖を殺害したとされる(張作霖爆殺事件)。関東軍は自ら実行した事を隠蔽するものの公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ一子張学良は日本の侵略に抵抗する意を鮮明にして、日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日満州事変を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。

また、日本国内の問題として、昭和恐慌(1930年:昭和5年)以来の不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、明治後半以降、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。

建国

1931年9月、満洲事変を起こして全満洲を日本の関東軍が占領すると、翌1932年2月に、遼寧(当時は奉天省)・吉林黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀満洲国執政として即位し、1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。

その後1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号康徳に改元(当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更))。国務総理大臣首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。

満洲国をめぐる国際関係

一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人のヴィクター・リットンを団長とするリットン調査団を派遣することを決議した。1932年3月から6月まで中国と満洲を調査したリットン調査団は、10月2日に至って満洲事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する報告書を提出した。

9月15日斎藤内閣のもとで政府としても満洲国の独立を承認日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送り満洲国建国の正当性を訴えたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(シャム、後のタイ王国)で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。

第二次世界大戦

大東亜戦争太平洋戦争)の開戦直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上適性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止しする一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。

しかし、日本の敗戦の色の濃くなった1944年に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にアメリカ軍ボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで下がった。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。

1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本はたった1国でアメリカ、中華民国、イギリス、フランスオランダなどの連合国との戦いを続けることになる。第二次世界大戦もいよいよ大詰めを迎え、太平洋戦線では前年のフィリピンに続き3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題となっていた。

崩壊

Template:中国の歴史? そんな中、ソビエト連邦ヤルタ会談において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して、8月8日に日本に宣戦布告し直後に対日参戦した。この参戦の背景にはスパイのゾルゲから得ていた関東軍特殊演習の真意に関する情報もあった。まもなくソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。なお、ソ連は参戦にあたり、日本政府に対しては宣戦を布告したが、満洲国に対しては、そもそも国家として承認していなかったことから、何の外交的通告も行われなかった。また、満洲国は満洲国防衛法を発動し戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱等により最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。

一方、満洲国を防衛する日本の関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかった。兵力の数的な不足と同時に、精鋭部隊を失ったことによる戦闘力の弱体化、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった(ソ連対日参戦を参照)。

そのため関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は8月10日、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員(後述)をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。

ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生したとされる(但し被害を証明する文献は少ない)。また日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ満洲族や漢族、朝鮮族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。

この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く46年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。

一方ソ連軍の侵攻は満洲国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては『解放』であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。

皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日の玉音放送によって戦争、そして自らの帝国の終わりを知ることとなる。2日後の8月17日、国務院は満洲国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。

なお溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に逃亡する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束・逮捕され、通遼を経由してソ連・チタの収容施設に護送された。

その後の満洲地域

日本兵と日本人入植者

戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除させ捕虜とし、シベリアや中央アジア等の極北の僻地に強制連行して抑留し、過酷な労働を強要した。更には民間人も18歳から45歳までの男性を有無を言わさず逮捕収用し、65万からの日本人が極度の栄養失調状態のうえ極寒の環境にさらされた、このシベリア抑留によって帰国を待たずその地で命を落とす者が25万人以上出たといわれる。

一方、逃避行の果てに、ようやく内地の日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓移民団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

統治

満洲は翌1946年4月までソ連軍に占領され、彼らは東欧地域同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪してソ連本国に持ち帰ったりした。5月には完全に撤退し、蒋介石率いる中華民国に返還された。

しかし、その頃から農村部を拠点とする八路軍による中華民国軍へのゲリラ戦が活発化し、1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党人民解放軍が都市部も含む満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注ぎ、八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。

中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。その後、後ろ盾であったアメリカからの軍事支援が減った中華民国軍は、ソ連からの支援を受け続けていた人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に遷都した。その後の1949年に設立された中華人民共和国は、満洲国のあったエリアに新たに内モンゴル自治区を新設した。

現在

満洲国の崩壊から60年を経た現在では、満州族も数ある周辺少数民族の1つという位置付けになり、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内でも多用されない言葉になっている。今日、満洲国の残滓は歴史資料や文学、そして一部の残存建築物などの中にだけ存在し、政治的に有用な歴史的遺構は「日本統治時代の残虐行為の証拠」として中国共産党政権のプロパガンダに使用されている。

地理

主な都市

行政区分

上記の括弧に記載した省・自治区はこれらの満洲の省が属する現在の中華人民共和国の行政区分である。
  • 関東州 - 満洲国建国以前から日本の中国からの租借地であったが、満洲国建国後は満洲国の領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。

人口

1908年の時点で、満洲の人口は1583万人だったが、満洲国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年には人口は5000万人にまで増加していた。男性の方が多かったことに移民国家としての側面が強かったことがうかがえる。

1934年の初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、

満洲人(漢族、満洲族、朝鮮族) 30,190,000人 (97.8%)
日本人 590,760人 (1.9%)
ロシア人・モンゴル人等の他人種 98,431人 (0.3%)

上記の『満洲人』の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。

日本側の資料によると、1940年の満洲国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。

主要都市の人口は下記のとおり。

営口119,000人もしくは 180,871人(1940年)
奉天339,000人もしくは 1,135,801人(1940年)
新京126,000人もしくは 544,202人(1940年)
ハルビン405,000人もしくは 661,948人(1940年)
大連400,000人もしくは 555,562人(1939年)
安東92,000人もしくは 315,242人(1940年)
吉林119,000人もしくは 173,624人(1940年)
チチハル75,000人 (1940年)

統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満洲国に国籍というものがなく、国勢調査が実質実施不能だったという事によるものである。また、満洲国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。

国籍法の不存在

満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味においては、満洲「国民」は存在しなかった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題などがあったと考えられる。

日本人の人口

1931年から1932年、満洲には59万人の在満洲の日本人がいて、うち10万人は農家だった。営口では人口の25%が日本人だったという。

日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画しており、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。(後述

終戦時、ソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、実に85万人の日本人移住者を捕獲した。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人は1946年から1947年にかけて段階的に日本に送り返されている。

ユダヤ人自治州

日本政府はユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図しており、明らかにユダヤ人を必要としないナチス党率いるドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。それは一種の亜流シオニズムとも言えるが、満洲国にユダヤ人自治州ができれば、アメリカ財界の中核をなすユダヤ人の巨額な支援が得られる事を狙ったものだという向きが強い。

同じ様な施策・構想として、ソビエト政府のユダヤ自治州ドイツ政府が検討していたマダガスカル強制移住構想があるが、既に戦時中であった日独両国については計画を遂行する余裕は無く、少数のユダヤ人が満洲国に移住しただけだった。


後半は、満州国-2参照


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月18日 (土) 17:44。










    

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最終更新:2008年10月19日 20:04
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