華北分離工作


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華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省察哈爾省綏遠省山西省山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。

概要

1934年冬から1935年1月にかけては、満州国中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。

1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。

こうして支那駐屯軍や関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府に対して高圧的な協定(6月10日梅津・何応欽協定6月27日土肥原・秦徳純協定)を結ばせ、河北省から国民党勢力と中国軍を、察哈爾省からも国民党勢力と第29軍をそれぞれ撤退させた。

次いで、11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は華北で国民政府の経済的支配力が強まることを恐れて、河北省・察哈爾省に親日的な傀儡政権を樹立しようとしたが国民政府の強硬な抵抗にあい、また日本軍が誘いをかけた諸軍閥にも応じる者がいなかったため、一時しのぎとして塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。それに対して、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置して、緩衝地帯を設定した。

1936年1月13日、日本は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは華北分離方針を国策として決定したものといえた。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月~6月に北平天津豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による華北分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。

日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。華北五省に防共親日満地帯設定を企図したものだったが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。

それを受けて日本では、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、それも確固とした政策とはならず、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争に突入していくこととなった。

参考文献

  • 臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000年
  • 太平洋戦争研究会・編、森山康平・著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年
  • 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19:10。











    
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