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中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国広州軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校蒋介石中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデター第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。

事件の背景

1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連コミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(士官学校)を建設することを決定した。国共合作の実を挙げるため、同校の校長には蒋介石が就任する一方で、政治部主任などの要職に国民党幹部の廖仲愷戴季陶や共産党幹部の葉剣英周恩来などが就き、さらにソ連からの軍事顧問団が教官となるなど、呉越同舟の組織となり、三民主義マルクス主義が同時に教えられた。しかし、国民党主催の学校であるにも関わらず、共産党やソ連軍事顧問団が擡頭してきたことに校長の蒋介石は危機感を募らせていた。

また、1925年孫文の死にともない、国民党首脳部は混迷を極める。党内左派の領袖廖仲愷が暗殺され、その暗殺の首謀者と目された右派の胡漢民は国外へ逃亡。常務委員会主席・軍事委員会主席で人望のあった汪精衛(汪兆銘)も指導力を発揮できず、国民党の悲願である北伐(全国統一)を開始できない状況にあった。発言力の大きかったソ連軍事顧問団のキサンガらも北伐は時期尚早であると反対しており、北伐推進派の蒋介石はこの状況の中で主導権を握る機会を狙っていた。

中山艦の回航と弾圧開始

1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。

蒋介石の主張によれば、この中山艦の行動は、汪精衛とソ連軍事顧問らが共謀して蒋介石を拉致し、ウラジヴォストークへ強制連行しようと謀議し、共産党員が実行に移したものであるという。しかし、果たして本当にそのような計画が存在していたかは定かではない。この事件をきっかけに蒋介石の党内の地位は急速に上昇していくことになった。

事件の影響

それまで蒋介石は国民党軍の総監という比較的低い地位に留まっていたが、事件後には国民党軍事委員会主席に就任し、党内の実権を握っていった。汪精衛は蒋介石の傀儡となることを拒み自発的に辞任して、妻を伴いフランスへ逃れた。国民党の主導権を確立した蒋介石は以前から危機感を持っていた共産党員の擡頭に対処するため、軍事委員会に「整理党務案」を通過させ、共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、国民党の要職から共産党員を排除していく。共産党員は当然これに反撥したが、スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団はこれを抑制。むしろ蒋介石と対立していたキサンガらを召還するなど、蒋介石に妥協している。こうしてかろうじて国共合作は引き続けられた。

邪魔者を排斥した蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、同年7月1日念願の「北伐宣言」を発表して北伐戦争を開始した。北伐戦争は順調に進み各地軍閥を圧倒、翌1927年には武漢南京上海などを占領する。しかし、蒋介石の独善的な指導に党内にも反蒋的な空気が横溢し、解放された武漢や上海では共産党員・国民党員らが蒋介石から独立した動きを見せるようになり、南昌に本拠を移した蒋介石に対抗した。こうしたなかの4月12日蒋介石の指揮により上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)が開始され、第一次国共合作は完全に崩壊するに至った。

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 14:47。










    

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最終更新:2008年10月04日 00:51
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