日朝関係史


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Template:日本の国際関係? 

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係について述べる。

古代

古代には、朝鮮中国と日本(7世紀まで倭国と呼ばれていた)を媒介する位置にあったことから、の生産技術・仏教医学は中国から朝鮮を通過して日本に伝来したと言われている。稲作も朝鮮経由と言われてきたが、遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来したという学説が、考古学的には主流となりつつある。静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中国東北部から朝鮮半島を原産とする改良種群には、当該遺伝子の存在が確認されないことが明確になっている。 また、炭素分析法による年代分析においても、日本での炭化米は紀元前4000年程度まで溯る事が確認されており、これらの証左をもって、東南アジアから南方伝来ルートが日本への稲作伝来ルートであったようである。そのため、各種歴史教科書の稲作の伝来経路も修正されつつある。

この頃の朝鮮は三国時代にあった。日本(倭国)は、6世紀頃まで任那百済との外交関係を通じて朝鮮半島と関わりをもっていた。朝鮮三国は主導権をめぐって争っていた。広開土王碑には、高句麗が日本(倭国)と交戦したとある。660年に中国の新羅の連合軍が百済を滅ぼした。百済の遺臣とそれを救援する倭国と、唐・新羅の連合軍との間で663年白村江の戦いが行われ、日本(倭国)は敗北する。

高句麗は唐と新羅によって滅ぼされた。唐と新羅が朝鮮半島の支配権を巡って戦い、新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。倭国では九州北部に防人を配置するなど唐・新羅に対する防備を固めた。その結果、日本国内でも大きな変革が起き、ヤマト朝廷による律令制が確立し、国号も8世紀初頭に倭から日本へ改めた。9世紀末に日本から中国に対し留学生らを派遣していた遣唐使事業が途絶え、日本独自色の強い文化(国風文化)が形成されはじめた頃から、新羅との外交関係も薄れていった。

ただし、対馬を経由しての交易は行われていたようである。

中世

中世にはが2度にわたる日本遠征(元寇)を行う。高麗は日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当し、日本の鎌倉幕府は国書を黙殺したために戦端が開かれる。蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として送り込まれ、壱岐・対馬や博多において九州御家人を中心とする鎌倉幕府の兵と戦った。なお日本は、元・高麗軍が暴風雨によって大きな被害を受けた際、高麗人の兵はモンゴル兵とともに殺したが、南宋の兵は捕虜として助命した。蒙古襲来に先立ち、1271年に高麗において反モンゴルを掲げて蜂起した三別抄が日本へ救援を求めたが、日本の鎌倉幕府はこれも黙殺している。

日本の南北朝時代から室町時代には、朝鮮の高麗から李朝においては倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海賊、海上勢力が、中国沿岸や朝鮮半島沿岸を荒らした。高麗や室町幕府は懐柔と弾圧で対策を行う。九州探題として派遣されていた今川貞世(了俊)は高麗使節を迎えて交渉し、大内氏らとともに倭寇を討伐した。高麗では倭寇や紅巾賊の討伐に功績のあった李成桂らが宮中で台頭、滅亡に瀕した元王朝の要請で征明軍を率いて北上するが、途中で引き返して実権を握り、1393年李氏朝鮮(李朝)を樹立する。

李朝も室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、また中国のも同様の要請をした。こうした要請を受けて、室町幕府は、3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、制限貿易であったが日朝貿易が行われる。李朝からも通信使が派遣され、宗希璟『老松堂日本行録』や『海東諸国記』などの日本渡来記も書かれた。日本側からの使者には夷千島王遐叉と呼ばれる人物が同行したことがあるが、これがどういう民族なのか、あるいは偽使なのかは定かではない。

1419年、李朝の世宗は倭寇の根拠地と見なされていた対馬を攻撃する(応永の外寇、己亥東征)。世宗は投降や帰化したものに対しては貿易上の特権を与えるなど懐柔策も同時に行い、倭寇の活動は一時的に収束した。1443年には嘉吉条約(癸亥約定)が締結された。

李朝は朱子学を重視し、仏教を弾圧したために、高麗時代の仏教文化財が国外に多く流出することになった。特に木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取引されたために大量に日本に流れ込んだ。また日本との交易には1426年の三浦(釜山浦、薺捕、塩浦)を利用していたが、現地役人の締め付けが厳しく1510年には現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生している。

近世

日本を統一した豊臣秀吉の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めるが、良い回答がない為、1592年から朝鮮半島に侵攻した(文禄・慶長の役、壬辰・丁酋倭乱)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌咸鏡道まで進撃したが、遠い戦線に明の救援や義勇軍の抵抗と交渉による補給困難や講和交渉を優先させせた為、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。日本軍は最終的に秀吉の死去に伴い撤退した。

明・朝鮮の連合軍と日本軍の交戦、そして治安悪化による食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。 日本軍の諸大名は朝鮮から儒学者などと供に多くの陶工を連れ帰り、日本各地で陶芸が盛んになる。

秀吉の死後、日本では1600年徳川家康による武家政権(徳川幕府)が成立した。秀吉の朝鮮侵攻に消極的で朝鮮半島に派兵していなかった徳川家康は、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と朝鮮王朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、1609年には己酉約条が結ばれて貿易が再開され、日本の銀と中国の生糸や絹などが流通する。

交渉を仲介した日本の対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する朝鮮王朝の返答書を偽造、改竄していたが、1635年には事実が発覚し、関係者が処罰される柳川一件が起こる。柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した。

1607年以降、室町時代からの朝鮮通信使が将軍の代替わりごとに日本へ来訪するようになり、公式の外交関係が保たれた。だが、1811年に最後の通信使が来訪して以来、両国の公式な関係は途絶えた。

李氏朝鮮は、鎖国政策を続けており、また文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢陽(ソウル)に入る事は出来ず、対馬が釜山倭館を構えている以外は、朝鮮との交易や情報は入手しづらい状態であった。

対馬藩は幕府から朝鮮との貿易を許され、倭館による貿易が行われた。また、薩摩藩による武力侵攻で幕藩体制に組み込まれた琉球とも通交が有ったようである。

近代

日本は江戸時代末期に開国した。王政復古により成立した日本の新政府は近代化を目指した。李氏朝鮮を影響下に置く清国や南下政策を取り続ける帝政ロシアに対する日本の国際政策の一環として、日本は朝鮮半島に注目した。朝鮮では大院君が排外的政策を行い鎖国体制が維持されていたが、閔氏政権となると、1875年江華島事件を経て、76年に日朝修好条規を結び朝鮮は開国し、開化政策が行われる。

1894年に、朝鮮を巡る対立から、清国と日本との間で日清戦争が勃発した。日清戦争で日本は勝利した。1895年に日本と清は下関条約を結び、朝鮮が清との冊封体制から離脱すると実質的に日本の影響下に置かれた。これに伴い1897年大韓帝国へと国名を改めた。

ロシアは下関条約後の三国干渉1900年義和団事件の後も満州中国東北部)の占領を続けた。ロシアは朝鮮にも影響を強め、日本と対立する。日本は1902年イギリス日英同盟を結び、アメリカやイギリスの支持を得て、1904年に開戦された日露戦争において勝利、1905年ポーツマス条約において朝鮮に対する排他的指導権を獲得する。

その後、韓国皇帝はハーグ平和会議に、日本の干渉を排除し韓国の外交権保護を要請する密使を送ったが、成功しなかった(ハーグ密使事件)。日本は1910年に韓国と日韓併合条約を結んで朝鮮半島を併合し(韓国併合)、1945年第二次世界大戦敗北まで統治を続けた。日本は朝鮮総督府を通じて朝鮮半島全域を支配し、当初は軍事力を前面に押し出した武断統治、次いで民生面の安定を重視した文化統治を推進した。

日本統治下において、創氏改名などの皇民化政策が行われた。この期間に日本は朝鮮半島のインフラの整備と産業の振興をすすめた。これについては評価が分かれる。日本やアメリカの朝鮮史研究では、日本のインフラ整備が朝鮮の近代化の基礎となったとされるカーター・J・エッカート『帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』小谷まさ代訳、草思社、2004年、ISBN 978-4794212757。。教育制度も整備され、小学校国民学校)網や京城帝国大学ソウル大学校)は独立後の韓国政府に引き継がれた。初等教育では韓国語も教えられたが、高等教育に行くに従って日本の書物や文献を使用する為、日本語による教育が重視された。また、日本軍陸軍士官学校を卒業した朝鮮人士官の多くは後に韓国軍へ参加し、やがて朴正煕大統領を筆頭に韓国政界の中枢を占めた。しかし、朝鮮居住者には日本人、朝鮮人共に参政権が無く、朝鮮に多く住む朝鮮人には不利だった。一方で居住場所にかかわり無く朝鮮人には1945年まで兵役は免除されていた。農村でも日本人入植者が広い土地を占めるようになったTemplate:要出典?李栄薫らの研究によれば、韓国で定説とされてきた収奪論とはまったく違った実態であったことが明らかにされている。李栄薫は韓国日報とのインタビューで「農民たちの未申告地をでたらめに奪ったという教科書の記述と違い、未申告地が発生しないように綿密な行政指導をしたし、土地詐欺を防止するための啓導・啓蒙を繰り返した。農民たちも、自分の土地が測量されて地籍に上がるのを見て、喜んで積極的に協調した。その結果、墳墓、雑種地を中心に0.05%位が未申告地で残った。あの時、私たちが持っていた植民地朝鮮のイメージが架空の創作物なのを悟った。」と語っている。 点で、植民地支配という性格も帯びていた。

この状況に対し、朝鮮側からは1919年三・一独立運動が発生し、同年には李承晩による大韓民国臨時政府の設立が宣言された。朝鮮北部から満州にかけては金日成が指揮する抗日パルチザン運動が展開されたが、いずれも日本の統治を覆す力はなかった。1945年9月、金日成は赤軍ソ連軍)の士官として朝鮮北部の中心都市平壌に入城し、次いで降伏した日本に代わりアメリカ合衆国が朝鮮半島南部で軍事統治を開始すると李承晩や金九などの独立運動家がソウルへ戻った。

大韓民国

1948年、朝鮮半島の南部に大韓民国(韓国)が建国され、李承晩が大統領に就任した。アメリカの強い影響下にあり、反共主義を掲げる点で、韓国は日本との共通性が高かったが、韓国では独立運動家出身の李承晩を筆頭に反日感情を持つ政治家が多く、実際の政策にも反映された。李承晩は1952年に自国領域周辺の公海上に李承晩ラインを設定し、日本漁船への銃撃・拿捕事件が多発した第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている。。1954年には同ラインで韓国側に取り込んだ竹島(韓国名:独島)に軍隊を送り込んで同島を占拠した。その後も現在に至るまで韓国の武装警察が駐在し、日本はこれを韓国による不法占拠と抗議している(竹島問題)。

一方、戦後の日本でも、日本統治終了後の母国に帰らず、従来の虐待・冷遇への報復行動を行う在日コリアン(在日韓国人・朝鮮人)への反発は根強く、蔑視を込めて第三国人と呼ぶ例が多い状況では、韓国民との和解に力を入れる政治家が少なかった。これは相互不信を拡大させ、韓国民の反日感情は増幅したとされる。1950年には朝鮮戦争が勃発し、多くの韓国人難民が日本へ亡命した。その中には不法入国者が含まれていたとも指摘されている。両国間の険悪な関係は、1960年の李承晩失脚までは大きな改善は見られなかった。

1961年5・16軍事クーデターで韓国大統領となった朴正煕は、旧日本軍出身で、日本の事情にも精通していた。また、北の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの圧迫から国家を守るためには、日本との国交回復による経済支援の実現が不可欠と判断していた。一方、日本の自由民主党政権も、北東アジアでの反共同盟強化や第二次世界大戦における負の遺産の清算のために、韓国との国交回復を望んでいた。1965年日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)が締結され、日本は韓国に有償無償5億ドルの金額を支払った(日本政府は賠償ではなく経済協力と位置づけている)。この際、日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認めた。

この日韓国交正常化により、韓国は1979年まで続く朴正煕の軍事独裁政権下で、日本からの経済協力(円借款など)も利用してや各種交通インフラ(地下鉄・高速道路等)を整備し、「漢江の奇跡」と呼ばれる工業化・経済発展を実現した。日本の商社は韓国に進出し、労働力の安い韓国は日本への重要な輸出基地となった。韓国の目覚ましい経済成長は、日本人の韓国に対し抱きがちなイメージを「貧しくたくましい人が暮らす国」から「日本と同じ近代的な工業国」へと変化をもたらし、韓国への評価を上げる結果となった。しかし国交は外交と投資に関しては正常化したものの、金大中事件文世光事件といった外交問題に発展した事件も発生し、必ずしも両国の国民感情は良好ではなかった。交流の拡大には犯罪組織の国際化などの側面もあり、日本側では韓国から進出してきた統一協会による霊感商法批判も起こった。ただし、統一協会は国際勝共運動で自由民主党政権とつながり、日韓両国の政治協力拡大に貢献する一面も持っていた。

また、韓国出身や在日韓国人の歌手やスポーツ選手などが活躍する日本に対し、日本文化の流入阻止を理由に厳しい統制策を堅持しながら、その海賊版の流通を根絶出来ない韓国側の閉鎖性にも批判が起こった。1988年にはソウルオリンピックが行われたが、選考の決選投票で日本の名古屋を下して開催されたこの大会では韓国人観衆による日本選手への非難が止まなかった。1992年には韓国文化放送 (MBC)が、李朝の末裔が天皇を狙撃する番組『憤怒の王国』を放送し、これに実際の明仁親王の天皇即位式の映像を用いた為、日本の外務省から抗議を受けた。

1995年国際サッカー連盟 (FIFA)は、日韓両国が激しく争っていた2002年開催のFIFAワールドカップを両国の共催とする決定を行った。これは両国に波紋を広げ、大会の運営方式や呼称問題で両国間は深刻な対立を抱え、「事実上の分催」という指摘も上がった。これらの経緯を通じて韓国への反感を強めた日本国民の一部からは、ソウルで開催された開会式に日本への配慮がほとんど無い上、横浜での決勝戦と閉会式の際には貴賓席着座の際に韓国大統領の金大中が後に続く天皇に進路を譲らずに自分の後ろを通らせたのは非礼という非難の声が出たただし、それぞれの憲法で、国家元首と規定されている韓国の大統領と、国民の象徴と規定されながらも外交上は事実上の元首として扱われる日本の天皇の関係には留意する必要がある。。

ただし、圧倒的に韓国有利に働いた誤判問題などにより、インターネットを中心に「嫌韓」感情を増幅させたことも事実であるが、このワールドカップを通じ、協議を続けた両国の大会関係者の努力は、2国開催というハンディを乗り越えて大会の運営や友好ムードの創出をある程度成功させたともいわれる。これを機に、公式には長らく禁止されていた日本の文化が韓国で開放されるようになっただけでなく、日本でも韓国の映画やドラマが多く輸入され、韓国の俳優や歌手が日本で活躍するようになった。彼(女)らは韓流スターと称賛された。1970年代、その先駆者が演歌歌唱などの「日本化」で活躍の場を見いだしたのとは対照的だった。この大会期間に実施された両国民の「査証(ビザ)なし相互訪問」は大会後に恒常化され、特に観光面での交流拡大に貢献した。両国の都市には英語と並んで相手国の言語による案内標識などが整備されるようになり、それまで日本側からの訪問人数が圧倒していた観光も、日本の観光地に韓国人観光客の姿が増えるなどの変化が見られるようになった。

このような経緯を経て、日韓関係は良好になったといわれるが、韓国側では総督府統治(植民地支配)への否定に根ざす反日感情、日本側では嫌韓感情が根強く残っている。歴史教科書問題靖国参拝問題竹島(韓国名:独島)や日本海(韓国名:東海)の呼称問題、日本の国連常任理事国立候補への反発など、日本と韓国の論争がいくつかある。また盧武鉉政権は植民地時代・親日派問題の清算として「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」及び「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、反民族行為認定者の子孫の土地や財産を国が事実上没収する事を可能にし、実際に「親日派」10人の子孫が所有する約13億6000万円相当の土地を没収する(2007年8月13日 読売新聞)など適用がはじまっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を参照のこと。)それに伴い、融和姿勢を保つ日本のマスメディアへの反動として、インターネットに両国間への拒絶感情が顕在化するなどしている。それでも、流血の衝突や支配・抵抗といったかつての先鋭的な対立は徐々に影を潜め、在日韓国人を含めた両国間の協力と共存は徐々に進行している日本統治のありようを客観的事実に基づいて明らかにしていこうとする韓国人研究者も現れている。 [1][2]

朝鮮民主主義人民共和国

この項目では、南の大韓民国と対比させるため、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の略称を「朝鮮」とする。これは、Wikipediaのあらゆる参加者の見解を拘束しない。

1945年、朝鮮半島北部を制圧したソ連は、従来の日本による統治システムを破壊し、共産主義による新体制の建設を進めた。朝鮮北部は旧満州国からの日本人移住者・在住者の帰国経由地ともなったが、その中で多くの生命が失われた。1949年には金日成を首相とした朝鮮民主主義人民共和国が成立したが、1950年には南の大韓民国との間で朝鮮戦争が勃発し、1953年の休戦まで首都平壌法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。を含む国土の広い範囲が戦場となった。朝鮮戦争中の1952年に日本はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復したが、反共主義国家となった日本の自由民主党政権は朝鮮民主主義人民共和国を承認せず、マスメディアと共に「北鮮」と呼んだ。一方、日本社会党総評など、日本の社会主義勢力や労働組合はこの国を朝鮮半島唯一の合法政権と考え、「朝鮮」と呼称して、大韓民国(韓国)をアメリカの軍事支配下にある「南朝鮮」(南鮮)とした。

朝鮮民主主義人民共和国の成立は日本国内の政治状況にも影響を与えた。第二次世界大戦後に再建された日本共産党には多くの朝鮮人活動家がいたが、やがて分離し、朝鮮への帰還か日本国内での在日朝鮮人運動の展開を選択した。その中で、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯、朝鮮総連)が成立した。朝鮮総連による強力な指導により、在日朝鮮人は民族差別解消・生活状況改善などをめざした闘争を全国各地で展開したが、その姿勢が暴力的・強圧的とする日本人からの反発も強く、在日朝鮮人社会は日本の中で隔絶性が高い集団となった。韓国での混乱や圧政は日本でも報じられていたため、朝鮮半島南部の出身者でも朝鮮総連に参加する者が多かった。なお、金日成に率いられた朝鮮の指導政党、朝鮮労働党はやがて日本共産党の議会重視・平和革命路線を批判し、関係を断絶したため、朝鮮労働党の交流相手は日本社会党が中心となった。

1959年、在日朝鮮人の帰還事業が開始された。これは日本赤十字社が所管した、第二次世界大戦や朝鮮戦争の混乱で帰国出来なかった人々を朝鮮民主主義人民共和国へ送ろうという事業で、日本政府も積極的に推進した。数十万人の在日朝鮮人が海を渡ったとされるが、「地上の楽園」と自己宣伝していた朝鮮側の経済状況は厳しく、日本での貧困や差別からの解放を願ったとされる帰国者は一層困難な状況に追い込まれたただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。。さらに、独裁色を強める金日成政権は、日本からの帰国者の多くを「潜在的スパイ」などと見なして警戒し、その多くを処刑、あるいは強制収容所での長期拘禁に処したとされるが、定かではない。いずれにせよ、厳しい情報統制をかいくぐって漏れてくる現地の状況を知った在日朝鮮人の間では帰国への情熱が徐々に退き、高度経済成長に伴って日本での生活状況が改善されていった事もあって、帰還事業は1960年代半ばに終了した。ただし、帰国者の再来日は実現せず、日本国籍を持ったまま家族と共に渡航した配偶者(日本人妻)や子どもの問題が発生した。

1965年には日韓基本条約が締結され、日本はようやく大韓民国との国交を締結した。この中で日本政府は大韓民国を朝鮮半島唯一の合法政府としたため、朝鮮民主主義人民共和国との国交締結を求める朝鮮総連や日本社会党などの強い抵抗を受けたが、佐藤栄作政権は国会での強行採決でこれを押し切った。この条約により日本は大韓民国の国籍を認めたため、在日朝鮮人の中には朝鮮籍からの切り替えを行う者が表れた。また、これを機に大韓民国は「韓国」という表記が一般に定着し日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。、朝鮮民主主義共和国は「北朝鮮」と表記される例が増えた。

1970年日本航空の航空機が乗っ取られるよど号事件が発生した。犯人は日本国内での革命運動に行き詰まり、国外に新たな根拠地を求めた田宮高麿などの新左翼に属する共産主義者同盟赤軍派グループで、朝鮮民主主義人民共和国は彼らの亡命を受け入れる一方、機体や乗員の日本返還に応じた。田宮達の思想や行動方針は朝鮮側とは一致せず、いわば「招かれざる客」だったが、やがて田宮らは平壌郊外に小グループを形成し、北朝鮮の意を受けた対日宣伝・工作活動に従事した。

1972年東西冷戦デタント期に入り、南北共同宣言により大韓民国との対立がある程度緩和され、日本が中華人民共和国との国交を回復する中、日朝関係も徐々に貿易額を拡大した。日本の工業製品が徐々に朝鮮側に入り、朝鮮産の安価なマツタケや海産物が日本へ輸出された。在日朝鮮人の集団帰国事業は、万景峰号による祖国・親族訪問へと変化して続いたが、朝鮮帰国者の再訪日は認められず、旧態然としたプロパガンダが唱えられた。

また、この頃から韓国の経済力が朝鮮を逆転し、大きく引き離していく事になる。これに危機感を持った朝鮮側は対南工作に日本人を拉致して自らの工作員に置き換え、韓国に入国させる事を計画した。1977年、後に日朝両国政府が事実認定を行う最初の日本人拉致事件が発生した。同年11月15日には、新潟市で13歳の横田めぐみが拉致され、後にこの問題のシンボル的存在として取り上げられるようになったが、1983年まで続く一連の事件が明らかになるのにはさらなる年数を要したなお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、この事件の被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。。この事件には、よど号事件の犯人グループ、及びその妻達が関与したともされ、日本の検察庁から起訴されている。

1980年代に日朝間の大きな懸案事項になったのは、拉致問題ではなく、第十八富士山丸事件だった。1983年11月1日、日朝間を航行中だった日本の貨物船、第十八富士山丸が船内に朝鮮人民軍兵士の閔洪九が潜んでいるのを発見した。閔洪九は日本で拘束されたが、日朝間には国交が無く、さらに閔が亡命申請をしたため、日本は彼の国内滞在を認めて釈放したその後、閔は韓国国籍と日本への特別在留許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。。一方、11月11日に再び北朝鮮へ入港した第十八富士山丸は乗員が拘束された。紅粉勇船長と栗浦好雄機関長には朝鮮国民を拉致したスパイ容疑で教化労働15年の判決を下され、船体は没収された。日本の国民世論は日本人船員の釈放を求めたが、外交関係が無い両国間では交渉の糸口すら見つけるのが困難だった。この第十八富士山丸事件は、前月に起こったラングーン事件、つまり第三国ビルマの閣僚も巻き込んだ韓国大統領全斗煥暗殺未遂爆破テロ事件が朝鮮工作員の犯行と発表された直後の事件だった。この重複で日本の対朝鮮警戒感は再び高まり、日本の対朝鮮輸出額は減少した三菱総合経済研究所レポート、2005年3月14日付 [3]。さらに、1987年大韓航空機爆破事件も日朝関係を冷え込ませた。テロ実行犯としてバーレーンで拘束され、服毒自殺を図ったのは日本人を名乗る「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」だったが、生き残った蜂谷真由美は韓国に送致され、自らが朝鮮工作員の金賢姫であることを自白した。さらに、その高度な日本人化教育は李恩恵という日本人女性から受けたと述べたため、謎に包まれた彼女の出自を含め、日本側の対朝不信は増幅した。


注釈

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月24日 (日) 06:18。












     
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