時事新報


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

時事新報(じじしんぽう)はかつて存在した日刊新聞の名称である。

1882年3月1日福澤諭吉の手により創刊。福澤の関係する慶應義塾及びその出身者が全面協力した。

概要・歴史

当初の福澤の計画では、政府の伊藤博文井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定であった。しかし1881年明治十四年の政変により大隈重信や大隈派官僚が失脚するとその計画も頓挫してしまった。しかし政府系新聞を作るために記者や印刷機械は既に準備していたため慶應義塾で独自に新聞を発行するいきさつになったのである。

創刊時より「不偏不党」を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、僅か1,500部余りだった発行部数が2年後には5,000部余りまで増加した。「慶應義塾豆百科」のNo.42「『時事新報』の創刊」を参照。

1896年ロイター通信社と独占契約を締結、1921年パリ講和会議ワシントン軍縮会議で伊藤正徳特派員が世界的スクープを獲得し活躍。大正中期までは「日本一の時事新報」と呼ばれ、東京五大新聞(東京日日報知國民東京朝日・時事)の一角を占めた。また、1905年には、大阪へ進出している(以下、後述参照)。

しかし、関東大震災による被災で業績は悪化し、部数も低下。
1934年1月17日から武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは財界の不正を糾し、帝人事件(昭和初期の大疑獄事件)にまで発展したが、武藤社長が暴漢に射殺されてシリーズは終了。時事新報の前途にますます暗雲が立ちこめる事となった。

この後、慶應義塾出身者で東京日日新聞の高石眞五郎に経営肩代わりの話がくるが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもあり、これを固辞。代わりに東京日日新聞の社外役員であり、大阪で「夕刊大阪新聞」・「日本工業新聞」を発行していた前田久吉を推挙し、1935年11月より前田が専務となって経営に当たった。しかしながら前田の大阪的経営手法と慶應閥が多い会社の体質が相反し、社業は遂に行き詰まった。高石は責任を取る形で、1936年12月25日時事新報を東京日日新聞に合同した。

1946年1月1日伊藤正徳らの手により復刊。新興紙ブームの時流と名門復活で当初は堅調だったが、やがて既存紙の巻き返しにより再び業績は低下。1950年、「産業経済新聞(産経新聞)」を率いて再度東京進出を目指した前田久吉が、戦前の責任を取る形で時事新報の経営に当たる事となった。この時より産経と兄弟関係となり、1955年産経と合同。東京で発行していた産経は「産経時事」と改題した。(以下産経新聞の項参照。)
現在、「時事新報」の題号並びに著作権など一切に関する権利はフジサンケイグループが有している。

大阪時事新報

  • 1905年3月15日、時事新報が大阪に進出し、「大阪時事新報」を創刊。
  • 1920年6月、大阪時事新報社は東京の時事新報社に合併。
  • 1923年8月、再び大阪時事新報社として独立。
  • 1930年3月、神戸新聞社に買収され、同社の系列会社として新発足する。
  • 1931年8月1日、京都日日新聞社と共に神戸新聞社に合併され、京阪神の新聞トラスト・三都合同新聞株式会社が誕生。同社大阪本店となり「大阪時事新報」を継続発行。
  • 1940年7月30日、三都合同新聞株式会社は解体。元の神戸新聞社に戻り、大阪時事新報は再び独立会社・大阪時事新報社として発足。しかしまもなく読売新聞社(現・読売新聞東京本社読売新聞グループ本社)が株式を買い集め、経営に参加する。
  • 1941年12月8日、「夕刊大阪新聞」と合併。「大阪新聞」となり終刊。
  • 1946年2月1日、大阪新聞社長・前田久吉の手により復刊。
  • 1951年6月、再び「大阪新聞」に合同して終刊。

備考

  • 日本音楽コンクール、大相撲優勝力士額掲示は現在毎日新聞社が継承している(継承当時は東京日日新聞社)。
  • 時事年鑑は、同盟通信社を経て現在は時事通信社が継承し、発行している。
  • 『時事新報』創刊25周年記念号(明治40年3月1日記念号)は、ページ数が224ページに達し、日本の新聞としては最多ページ数記録となった。同号は1961年日本新聞資料協会から縮刷版が発行されている。

参照

関連項目

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月14日 (日) 17:15。











    
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。