李氏朝鮮-2


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前半は、李氏朝鮮参照


開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期~中期

59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)とTemplate:lang?Template:lang?は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。Template:lang?応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位についた。このとき高宗は11歳であった。

興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。

一方で、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となってしまう。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に発生した2つの戦闘で(文珠山城戦闘鼎足山城戦闘)で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾。擾は手偏に憂)。

一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。

大院君はこれらの成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。

閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた。開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年日朝修好条規(江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ(朝米修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。

一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。

また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派の煽動も有って、1882年閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午軍乱)。この軍乱で一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。壬午軍乱により閔氏政権は、親日政策から親清政策へ大きく転換する事になる。この政策は親日開化派の不満を招き、また朝鮮の軍隊は清と日本の干渉により有名無実化していく。また混乱から国内では反乱が生じる。

1884年12月、金玉均朴泳孝開化派(独立党)がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発する。東学党の乱が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾にこの戦争に介入した。東学党の乱は2国の介入により、官軍と農民軍の和議という形で終結するが、清軍と日本軍は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。

その後東学党の乱の鎮圧に朝鮮政府が清に援軍を要請し、それに対抗して日本が朝鮮に出兵を行ったことから日清戦争が勃発し(1894年-1895年)日本軍の勝利に終わると、下関条約により、朝鮮と清の冊封関係は終り、日本の影響下におかれる。一方、朝鮮での立場が弱くなった閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより朝鮮人と日本人の手で1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。

自分の后が暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。日本は朝鮮の保護国化と主権剥奪の路線を進めていく。

日本による保護国化から併合-高宗後期~純宗時代

1904年になると、日露戦争が勃発し、日本側の勝利に終わる。1905年には軍事力を背景とした日本側の威圧のもとで第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、アメリカ、イギリスともに日本の保護国化政策を認めていたため、この主張は認められなかった。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及びその後ろ盾である韓国統監伊藤博文は日本の軍事力を背景に高宗に譲位するよう迫り、同年退位することとなった。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。

1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。これに続き日本政府内では最終的な併合の時期をめぐって話し合いがもたれた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は早期併合派に対して異論を唱え、当初は早期併合には反対の姿勢をとった。彼が早期併合に反対する理由として述べたのは、

  1. 現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国侵出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
  2. 上記の理由に加え、財政支出の増大を招くことからも早期併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。

ということであった。

しかしその後、韓国国内での義兵闘争はますます苛烈となり、また朝鮮宮廷の懐柔も伊藤が想定したほどの効果は上がらなかった。業を煮やした伊藤は自分の取った方針が不適切だったと感じ、遂に1909年7月6日の閣議で他の閣僚の進言を受け入れ積極的併合策への転向を明言したTemplate:要出典?。韓国侵出の実質的な総責任者であった伊藤の方針転換により韓国併合への障害は無くなり、同会議で日韓併合が正式決定された。1909年10月26日に伊藤博文は安重根によって暗殺されたが、既に韓国併合の流れは決定的なものとなっていた。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉をすすめ、1910年8月22日、日本の軍隊が王宮を取り囲み、反対派を威圧するという厳戒状態の中日韓併合条約は締結された。ここに韓国は日本に併合され、地域名を示す朝鮮と改称した(したがって、植民地に適用されないと条文で明記されている条約等は、当時の日本政府の解釈により、朝鮮には適用されていない)。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。

政治

国王

朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。

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官制

官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。

官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。

王朝に使える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に低くおかれていた。また中人階級が付ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。

王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。宗室において最も上の官職は君と呼ばれ、正一品から従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。

行政の最高機関は議政府であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。

議政府の次に位置するのが正二品の判書であり六曹の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。

また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けずとも官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。

首都

当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。

李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。

首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。

また汚水処理の施設や対策は1905年第二次日韓協約の直前の10月までに行われず、韓国政府と皇太子(後の大正天皇)の寄付をもってようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物に汚れるに任せていた。19世紀初めのロンドンの下町では、アパートの上層の住民が排泄物をおまるで路上にぶちまけるので、常に頭上を注意しなければならなかったという逸話があるが、そのイギリス人で開国後の李氏朝鮮を旅行したイザベラ・バードや、李氏朝鮮末期の開国前にキリスト教布教に携わった宣教師などの西洋人ですら、漢陽(現在のソウル)を世界でも指折りの不衛生な都市と指摘している。

地方行政

朝鮮八道という、大きく八つの道に分けて行政を行った。なお、現代の北朝鮮韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都ソウル開城江華水原広州の4都は直轄地とされ京官府に属し、ソウルは漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。

対外関係

中国との関係

日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼をつくしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただひとりの天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。とくに日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。

事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間は例え犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた<ref name=book>村井章介『中世倭人伝』。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった朝鮮王朝実録 明宗21年7月辛卯。

朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使を歓待して、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外につくられたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。

中国以外の国との関係

中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると中原の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。

南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、きびしく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(鎮海)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩の必死の努力によって1607年日朝の国交が回復し、釜山に倭館新設も認められた。日本使節のソウル上京は認められなかったが、将軍の代替わりを祝賀する朝鮮通信使江戸を訪問し、対馬藩による釜山貿易も江戸時代を通じて続いた。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、室町時代足利氏が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われたが、対馬藩主の宗氏は朝鮮に対して朝貢に近い服属儀礼を要求され、釜山の倭館では国王に対する拝礼の儀式が行われていた。 Template:Main?

また、半島の北の満州マンチュリア)に住んでいた女真人との交易も行われていたが、彼らは日本人以上に組織化されていなかったこともあり、より朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになる。

このような状況であったため、西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに琉球王国などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった。

近代の外圧

19世紀末期になると、朝鮮は西洋諸国や日本からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を植民地化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。

日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された下関条約によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての迎恩門も破壊され、代わりに独立門が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、みずから皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に1910年に朝鮮は日本に併合され植民地となった。

社会階層

朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。

戸籍上の身分は、当初は良民と賤民(奴婢白丁)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は両班(科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術職を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。

儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。さらにその下層にある賤民階層は、李氏朝鮮初期の比率で人口の30%程度ほどを占めた。

社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば中人から両班に上昇する家族もあったことが分かっている。事実、19世紀後半には両班の占める割合が70%に達した地域もあった。

民族構成

民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く「単一民族国家」という意識が残存している。

経済

朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では商人は極めて卑しいものとされたためであった。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着しなかった。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、商人を卑しむ儒教イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。

第4代世宗の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉の侵略や清の侵攻で国内の産業基盤がズタズタにされたことで意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通は余りにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。

とはいえこのような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。その発展度は日本、中国に遠く及ばなかった。李氏朝鮮末期に至っても物々交換は完全になくなったわけではなく、村落部を中心に残存していた。李氏朝鮮末期に至り西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、交易を行う釜山などを中心とした高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100円銀貨に相当する貨幣を運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。

李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参貂皮海獺皮昆布、日本から輸入したなどであり、代わりに生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、木綿朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりにを大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで、日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に自給体制を整えたために朝鮮から日本への輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。

文化

李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。

ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を返って保護し、ソウル内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。

そして各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活字を改良して他の国より2倍以上の印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴ない、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。

李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の校書館が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった、書籍は王から賜っり先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。

公的な文化の中心となるのは中国語文語である漢文であり、朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。漢字のみでは朝鮮語をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために1443年ハングルの起源になる訓民正音が作成された、ハングルは朝鮮語の表記に適した科学的な文字であっが、中華思想に骨の髄まで支配された両班ら男性知識人はこれを諺文(オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。しかし李朝末期には民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まり、急速に識字率の向上に寄与した。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使うものが現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『春香伝』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。

李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「書堂」もあった。一方地域ごとには偉いソンビや功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。

李朝絵画は前半期には中国山水画の模倣だったが、18世紀後半に金弘道と申潤福が出て独自の境地を開いた。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。磁器は、朝鮮白磁と呼ばれる磁器が作られており、前代の高麗青磁に比して華麗さでは見劣りしたが優美さでは先んじていた。李朝時代に白磁が尊ばれたのは朱子学で白が高貴な気高い色とされているためである。しかし、赤土しか産出できない地域も当然ある。「なんとか白い器が欲しい…」そうした人たちが生み出したのが粉引粉吹)である。粉引とは、赤土で成形された作品に化粧土という泥を塗り、その上に透明の釉薬をかけ、還元焼成する(酸化でも可)。李朝の粉引は日本に伝わり、酒器として大変高い評価を得た。李朝陶磁器は儒教道徳を名目とした職人階級に対する非常に厳しい差別にも関わらず、優れた職人の存在により着実な進歩を遂げた。

医学分野では高麗の医学の伝統をそのまま受け継いだが、徐々に医療制度の改革、医学教育、専門医学書編纂を通じて東洋医学の集大成を成した。漢城には王族の疾病治療を担当する「内医院」、医学教育と医学取才を総括する「典医監」、一般民を無料で治療する「恵民署」を設置し、地方には「医院」、「医学教授」、「医学教諭」、「医学院」、「医学丞」などの医療機関を配置した。李氏朝鮮で刊行になった医学書は1433年に完成された『郷薬集成方』、1445年に完成された医学百科事典『医方類聚』、1610年に完成された許浚の『東医宝鑑』などがある。19世紀に李済馬は『東医寿世保元』を著述して「四象医学」を主張した。四象医学は人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人で区分して治療する体質医学理論で、現在でも韓医学界では通用している。

18世紀後半には、さまざまな分野で西欧の影響を受けて新たな試みが見られた。19世紀初頭にキリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。

なお、1910年における朝鮮の文盲率は90パーセントを越えていた。

環境

外国人訪問者が漢陽(現在のソウル)を世界有数の不衛生な街と評したが、これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。朝鮮は20世紀初頭からの日本に併合されるまで、糞尿を道端ですることがごく当たり前に行われていた。

かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさから薪にするために大量に木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また植林を殆ど行わなかったため、末期にはほとんどの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な満州に移民した(間島)。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした。(禁松令)なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われた。

年表

大韓帝国 1897-1910

注釈

参考文献

  • ブルース・カミングス 『現代朝鮮の歴史』
  • 海野福寿 『韓国併合』
  • 梶原秀樹 『朝鮮史の意味』
  • 旗田巍 『朝鮮史』
  • 旗田巍 『朝鮮の歴史』
  • 藤永壯 『「植民地支配は絶対悪」という真理』・・・『マンガ嫌韓流のここがデタラメ』第八章
  • 金泰俊  『虚学から実学へ-18世紀朝鮮知識人洪大容の北京旅行』
  • 宮嶋博史 『両班-李朝社会の特権階層』
  • 原田武夫 『「日本封じ込め」の時代-日韓併合から読み解く日米同盟』PHP新書

関連項目

外部リンク




  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 12:15。










    
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