西安事件

西安事件(せいあんじけん、西安事変 -じへん、ともいう)は民国25年(1936年12月12日西安で起きた、張学良楊虎城らによる蒋介石監禁事件。


概要

1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。

8項目の要求

  1. 南京政府の改組、諸党派共同の救国
  2. 内戦の停止
  3. 抗日七君子の釈放
  4. 政治犯の釈放
  5. 民衆愛国運動の解禁
  6. 人民の政治的自由の保証
  7. 孫文遺嘱の遵守
  8. 救国会議の即時開催

国共合作

国民政府は、当初、張学良を討伐するために西安に対し爆撃を開始し、事態は緊迫したものとなった。しかし、12月7日に共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り、国民政府側の蒋介石、宋子文宋美齢との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放され、国共対立は収拾された。翌1937年に日中戦争が勃発した後に第二次国共合作が成立するが、このことは西安事件を土台としたものであった。

蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害計画を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続する事が、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。

なお、事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。

後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。

関連項目



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 16:14。












     

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最終更新:2009年01月13日 21:36
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