長征

長征(ちょうせい)は、中国国民政府中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。

概要

共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、国民党蒋介石政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。

背景

国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠くはなれた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。 当時共産党正規軍は中国工農紅軍第一軍と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約十万、民兵を含めても十五万に満たない兵力であったという。

第1次-第4次囲剿

第1次-第4次までは国民党軍は兵力を小出しにしたこと、また紅軍側は山岳地帯でのゲリラ戦を展開したことで、これを打ち破った。

第5次囲剿

蒋介石は第1次-第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の装備が貧弱であることから軍隊としての能力そのものも低いであろうと見くびっていたことにあると判断した。このため、第5次囲剿においては兵力もそれまでの4-5倍に相当する100万人規模を投入、塹壕トーチカを設置した本格的地上戦を展開し、さらには当時僅かしか保有していなかった航空兵力まで投入した。

この包囲網に対し、当時共産党の実質的最高指導者であった秦邦憲コミンテルンより派遣された軍事顧問ウィッテの提言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。周恩来鄧小平毛沢東らは、圧倒的優位な包囲軍に対して塹壕戦を展開するのはあまりに無謀であると反対したものの、党中央の決定は覆らず、ここに中国史上初めての中国人同士による近代的塹壕戦が展開されることとなった。

秦邦憲の考えは、この戦いは国民党と共産党の最終決戦であり、また瑞金中華ソビエト地区の経済基盤は脆弱そのもので、戦闘を繰り返せば疲弊し、戦わずして根拠地を喪失する、よって短期に決戦を挑む、ここで勝利できなければ革命そのものが敗北するというものであった。また、ウィッテは第一次世界大戦ロシア革命を戦ったソ連の陸戦を模範にした軍事顧問であり、ゲリラ戦を展開する紅軍に苛立ちを覚えていたという。当時の国民党軍はドイツの軍事顧問を迎えており、対抗意識も多分にあったろう。

しかし、兵力・装備とも圧倒的に不利な紅軍は順次防衛線を後退させ、ついに防衛線は首都瑞金の北辺まで後退、広昌失陥に際しては1万以上の兵力を失うという大敗を喫した。

出立

1934年10月、ついに共産党中央は残存の紅軍第一軍八万の兵力の撤退・南下して包囲網の突破と、併せて中央指導部の移転を決定した。後に残されたのは項英陳毅など僅かな部隊で、ゲリラ戦を展開、根拠地維持を託された。

転戦

南下を開始した紅軍第一軍は、明確な目的地を示すことができなかった。ただただ逃げ惑う軍団は、それでも10月21日には国民党軍の第一次防衛線を突破、11月15日には第2・第3の防衛線を突破した。しかし、12月に湘江を渡河した第1軍は3万あまりの兵力に激減していた。

ここに至り、共産党中央は湖南省西部に転進し、第二軍(総指揮官賀龍)との合流を企図した。しかし、この目論見は蒋介石も見通しており、兵力を湖南省に集中させた。蒋介石は経済基盤の強い大都市の失陥を恐れ、重点的に都市を防衛したのである。

国民党軍の動きにより再び進路を失った紅軍部隊は貴州省方面へ転進、長征途上唯一といっても良い都市・遵義に入城する。

遵義会議

(遵義会議を記した当時の文書は存在せず、また共産党からも公開されてない。以下は1949年以降共産党が出した文書を元に通説を記す。) ここまでの行軍で疲弊しきった紅軍及び党中央は遵義で10日あまりの休養を得る。この休養期間中、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、毛沢東が政治局員のリーダーに選出される。しかし、海外留学経験のない毛沢東はまだ単独で共産党を指導できる立場に無く、周恩来王稼祥との三頭政治となった。また、瑞金第5次囲剿に際して戦略的にも戦術的にも致命的ミスを起こしたウィッテは更迭された。この遵義会議が中国共産党における一大転換点となっている。

西進・北進

遵義に中華ソビエト地区を設定した紅軍・中国共産党は、まず貴州から四川省に入る。ここでさらに西進した第一軍は念願の紅軍別働隊との合流を果たすが、目指していた第二軍ではなく第四軍(総指揮官徐向前)との邂逅となった。第四軍も同様に長征中であったが、敵は国民党軍ではなく四川軍閥であった。引き続き行く手には国民党・共産党とも受け入れを拒否する少数民族、急峻な山々や執拗に追いすがる国民党軍が待ち受けていた。

四川省を転戦中に紅軍は赤水河長江の南の支流)を4度渡河し、四川盆地を迂回して長江上流の大渡河の瀘定橋を渡り、大雪山を踏破した。この過程で国民党軍は紅軍の捕捉が不可能となり、追尾を放棄した。

かくして、1936年10月に江西省湖南省貴州省四川省甘粛省陝西省と転戦、大自然・軍閥・国民党軍を相手に戦った第一方面軍は忽然と延安に姿を現し、長征の完了を宣言したのである。しかし、尚一部の部隊は西進し、新疆まで達している。

この過程で八万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。

意義

長征の過程で内部粛清もあり共産党軍が延安に着いた時は壊滅状態になった。コミンテルンの資金援助で何とか食いつないでいる状態であった。共産党はこの逃避行を英雄叙事詩に仕上げて、「長征の過程で多くの革命根拠地を設営し、数千万の共産党シンパを獲得した。そもそもが戦略の失敗で始まった長征であったが、巨大な革命の種まき期であった。物資の調達などで略奪を厳禁したので、このことにより中国共産党に対する人民の信頼を勝ち得た」と宣伝しているが、実際は人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収、そして小作人からの「革命税」徴収によって食いつないだというのが実態であり、一概に「信頼を得た」とは言い難い。なお、この手法は後のセンデロ・ルミノソなどの共産ゲリラによって引き継がれた。

壊滅状態から復活し得たのは、コミンテルンの指示で国民党との協力に抗日統一戦線結成の呼掛けて方針を転換したのと、西安事件と盧溝橋事件の発生により、国民党蒋介石政府が剿共政策から抗日の為に国内統一政策に優先順位を切り替えざるを得ない状況に追い込まれた為である。

関連項目

これを従軍取材した、アメリカ人記者エドガー・スノーの著作も有名である。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月10日 (金) 17:23。











    

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最終更新:2008年10月30日 22:30
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