国共合作

国共合作(こっきょうがっさく)とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に渡り中国国民党中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は協力関係を意味する。

第一次国共合作

第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。

1925年孫文が死去し、蒋介石が国民革命軍総司令官になった。1926年に北伐を開始し、1927年に南京国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。

第二次国共合作

1937年から1945年における第二次国共合作は、1936年西安事件および翌年の盧溝橋事件と、その後の日中戦争支那事変)を背景として協力して日本軍と戦うことを目的に結成された、「抗日民族統一戦線」である。

歴史

国共内戦の激化

中華民国の国家主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていった。

日本による満州の掌握

同時期には日本関東軍が、1931年9月に勃発した満州事変を契機として満州地域一帯を掌握し、その後の1932年3月1日に、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝の愛新覚羅溥儀を「執政」に推戴する親日国家の満州国を建国した(いわゆる、十五年戦争の始まり)。

これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は日本との国力の差を考慮した上で国内の統一による国力増強を最優先目標とし、また反共主義の立場から、抗日政策より中国共産党との戦いの方を優先・強化していった。

第二次国共合作の成立

そのような中、父である張作霖を関東軍に殺された満州の軍閥・張学良は、1936年12月に共産党の取締りに対する協力を求めて西安を訪問した蒋を軍隊の動員によって西安に抑留し、日本軍に対峙することを目的に中国国民党と中国共産党の再合作を要求した(西安事件)。蒋は最終的にこれを受諾し、西安を訪問した中国共産党代表の周恩来との会談を通じてこれを公式に宣伝した後に共産党軍を「国民党所属第八路軍」として中華民国軍に組み入れ、ここに第二次国共合作が成立した。

中国共産党が、中国国民党の弱体化を狙って行ったという面もある。実際に日本軍と中国国民党の中華民国軍が戦っている間に、中国共産党は日本軍との前線の後方の非戦闘地域で勢力を伸ばし兵力を増強した。

ちなみに「イデオロギー的に全く共存できない二者は団結できない」と考えていた日本は、この第二次国共合作の成立を全く予想できなかった。

米ソからの援助

また、その設立時から中国共産党を支援しており、日本と緊張関係にあったソビエト連邦は中国共産党軍と中華民国軍の両方に軍事支援を行っていた他、同じく日本と対峙していたアメリカは、蒋介石の妻の宋美齢によるフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。

解消

1945年8月の日本の大東亜戦争太平洋戦争)における敗戦後、同国と戦うことを目的としていた両者の合作は解消され、中国国民党と中国共産党との間に再び内戦(国共内戦)が再開し、アメリカからの支援が減ったこともあり1949年に敗れた中国国民党は台湾島に遷都した。

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月4日 (日) 04:33。










    

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最終更新:2008年09月26日 22:50
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