{{政党 |国名 = Template:ROC-TW? |党名 = 中国国民党 |公用語名 = 中國國民黨(Kuomintang of China) |党首職名 = 党首 |党首氏名 = 呉伯雄 |議院代表職名 = 秘書長 |議院代表氏名 = 呉敦義 |成立年月日 = 1919年10月10日 |本部所在地 = 台北市中山区八徳路2號232樓 |議院 = 立法院 |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = 2008年1月現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = 2006年 |政治的思想・立場 = 保守、中道右派、泛藍連盟 |ウェブサイト = http://www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト
|シンボル =
|国際組織 = 国際民主同盟 |その他 = }}
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字:"中國國民黨"、簡体字:"中国国民党"、英:"Kuomintang of China" Template:ピン音?)は、中華民国(台湾)の政党。
ウェード式ローマ字表記及びそれを元にした英語表記のKuomintang からKMTと略す場合もある。中華民国の野党最大党で、泛藍連盟に分類される。政策的にはきわめて保守的。台北市長在任中の特別費の使用をめぐり汚職容疑(横領容疑)で起訴された馬英九の主席辞任を受け、2007年2月13日から呉伯雄が代理主席を務め、同年4月7日の主席選挙で改めて呉伯雄が主席に選出された。
1949年以来現在に至るまで、中国国民党は台湾を活動の拠点とし、それ以前の活動の拠点であった中国大陸では実質的な政治活動を行っていない。そのため、日本ではメディアを中心に台湾国民党とも称されていた。
孫文によって1894年11月にハワイで結成された興中会を母体として、1919年10月10日に、ロシア革命の影響を受け、広東において孫文等により結成された(国民革命党からの単なる「改組」「改称」である、との指摘もある)。同年の五四運動に民衆の政治意識の高揚を読み取った上での孫文の決断であり、結成された当初の主要メンバーは、孫文の他、汪兆銘(汪精衛)など。なお、宋教仁により1912年に結成された「国民党」は、別の政党である。
1924年1月20日には、中国共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。孫文の死後、1925年5月30日に上海で発生した五・三〇運動を背景にして、汪兆銘を主席とする広東国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、蒋介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年には北京に入城し、北京政府を消滅させることに成功した。
北伐の完了を受けて、1928年、南京に蒋介石を主席とする国民政府が成立した。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蒋介石の動きを1つの契機として、中原大戦(1930年5月1日‐10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。
1932年には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蒋介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の中国共産党の勢力回復や満州事変以降の日本による侵略に脅かされることになる。
蒋介石は、抗日戦より反共を優先し、1930年から1934年にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は井崗山の革命根拠地を撤収・放棄して長征を行ったことから共産党を消滅させるには至らなかった。1936年には西安事件で、なおも抗日戦における中国共産党との共闘に徹底的に反対していた蒋介石が軟禁され、これが、国共両党の接近をもたらした。
1937年に日中戦争が開始され、同年9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民政府は重慶に移転し、日本軍による攻撃をしのいだ。
1945年に日本が戦争に敗れ中国本土から撤退すると、同年11月から国共内戦が再開されるが、ソ連が支援する中国共産党軍に対する劣勢を挽回できず、1949年には、国民政府(中国国民党)は、内戦に敗れて台湾島に逃れた。このため中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本敗戦後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。
台湾に本拠地を移して以降は長期的な視野で大陸との統一を主張しているが、共産党主導の統一には反発を示しており、短期的な視野では現状維持を志向している。2000年の総統選挙で民進党の陳水扁に敗れて以降は野党になっている。
2005年に国民党主席の連戦らが北京を訪問。中国共産党総書記・中華人民共和国主席の胡錦濤と会談した。両党トップの会談は1945年以来60年ぶりで、台湾独立反対という姿勢で一致した。
国共内戦においては大部分が台湾に逃れたが、四川・雲南方面の部隊はタイ、ミャンマー、ラオス等に逃れ、同地の政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。特に内戦の激しいミャンマーでは麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあった。しかし、国際情勢の変化や高齢化などから現在はその大半が武装解除し、現地に帰順・定住しつつある。タイ北部には国民党の集落がある。[1]
台湾に逃れた国民党は、戒厳令を施行し、一党独裁体制を固めた。国民党以外の政党は、中国青年党、中国民主社会党などの衛星政党が存在するのみで、「便所の花瓶」と揶揄された。 蒋介石を批判する側は(台湾において使用例は少ないが民進党関係者が)党国体制・(日本おいて台湾独立運動家を中心に)擬似マルクス・レーニン主義体制と呼んでいる。
国民の間では、政治的な話題はタブーとなり、たとえば鉄道職員に台北~高雄間を走る特急「自強号」の名前の由来を尋ねるだけでも口を噤まれる状況があった(「自強」は中華民国の国連脱退時のスローガン「荘敬自強、處變不驚」に由来)。このような言論自粛を、台湾では「一人一人の心の中の小さな戒厳司令部」と呼んだ。
1987年7月に戒厳令が解除され、台湾における中国国民党の独裁は廃し、民主化された。 ただし、1986年9月30日、民主進歩党が結成されたとき、国民党当局は、これを公認するのではなく、黙認する形をとった。
中華人民共和国の「民主諸党派」(中国共産党の衛星政党)の一つに「中国国民党革命委員会」がある。孫文夫人の宋慶齢を中心に、蒋介石を嫌って大陸に残存した国民党のメンバーを中心に結成された。現在の党員数は公称で6万ほど。略称は「民革」。
結成から1949年までのものを以下に掲げる。日付は開始日、カッコ内は開催地。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年2月24日 (日) 03:34。