ナチス・ドイツ


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ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党が支配した1933年から1945年の元首制的共和国としてのドイツを指す。

国名

正式な国名は帝政ドイツヴァイマル共和国を通じてDeutsches Reichドイツ国)である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国962年1806年)、帝政ドイツ1871年1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国」 (Drittes Reich) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。またナチス・ドイツは帝政(帝国)ではなく共和政(共和国)であることから、英語では帝政でない国を Third Empire とは言えないのでドイツ語のまま Third Reich といった。日本では戦後になって英語の Third Reich の訳語として第三帝国がより広く知られるようになった。

政治

一党独裁体制

  • ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失い、ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第一党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強める。
  • 1933年1月には途絶えていた財界からナチスへの献金も再開され、30日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、周囲に説得されてクルト・フォン・シュライヒャーに代わってアドルフ・ヒトラー首相に任命した。
  • 1933年2月27日の国会議事堂放火事件でヒトラーは緊急大統領令を布告して非常事態を宣言、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止させた。オランダ人の共産党員、マリヌス・ファン・デア・ルッベを放火犯として逮捕、共産党への弾圧を開始した。
  • 1933年3月5日の総選挙で共産党は大きく後退し、ナチスは43.9%の得票を得た。1933年3月12日に新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
  • 1933年3月23日にヒトラーは議会で授権法(全権委任法)を成立させ、議会から立法権を取上げ、独裁体制を確立した。
  • 1933年4月26日秘密警察を設置。批判者や反対者がナチスに報告され、ナチスが直接ドイツの社会をコントロールする手段を保持する。多くのナチスの政敵、特に共産党および社民党員が政治犯として収容所に収容された。
  • 1934年1月30日には「国家再建法」を成立させた。同法はヴァイマル共和国時代に大きく地方自治を許されていたドイツを一元的な中央集権国家に変貌させた。州議会が解散され、州総督(国家代理官、Reichsstatthalter)としてナチ党幹部が送り込まれた。
  • 1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去すると、首相であるアドルフ・ヒトラーは国家元首の大統領職を兼務した「総統」となり、独裁者として全権を担う。

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経済政策

ヒトラーの経済政策を参照。

社会政策

ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調。人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。また抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。

ナチスは政敵のドイツ人ユダヤ人ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者障害者など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を通じてその目的を追求した。

1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病アルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4 安楽死プログラムによって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」Herrenvolk とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。

1935年ニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどのユダヤ人はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。1938年11月9日に、ナチスはユダヤ人商店の破壊を行った。それはあたかも通りが割れたガラスによって水晶で覆われているかのように見えたため「水晶の夜Kristallnacht(クリスタルナハト)と呼ばれた。1939年9月までに20万人を越えるユダヤ人がドイツを去った。またドイツ政府は彼らが残していった全ての財産を没収した。

ナチスとバチカン

ドイツ・カトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となり、これを終止させることを条件として1933年7月20日当時バチカンの国務長官を務めたパチェッリ枢機卿(後の教皇ピウス12世)とフランツ・フォン・パーペンとの署名により、ナチス・ドイツはローマ教皇庁とのコンコルダート(政教条約 Reichskonkordat 1933)を締結することとなった。ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日ヴァチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダード批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。

しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会内に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。こういった状況が続く中で、後に即位した教皇ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害に沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。しかし歴史的調査によると、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国ルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことが明らかにされている。

第二次世界大戦

ドイツは第一次世界大戦で失った旧ドイツ帝国西プロイセンの返還をポーランドに要求。拒否されると1939年ポーランド侵攻する。また、独ソ秘密協定によってソ連も侵攻する。これに対しイギリスフランス宣戦布告第二次世界大戦が始まる。ドイツ軍電撃戦によりポーランドフランスデンマークノルウェーベルギーおよびオランダを征服、イギリスは本土上陸の脅威にさらされた。攻勢に転じたことでギリシアおよび北アフリカへの侵攻後、ドイツは1941年ソ連に侵攻する。

しかし1943年スターリングラード攻防戦および1944年ノルマンディー上陸作戦での敗北後、政権は崩壊を始めた。西と南からの連合軍および東からの赤軍ならびにポーランド軍によって占領地は縮小し、1945年春には連合軍はドイツ国内へ侵攻した。1945年4月にヒトラーは自殺し、5月の最初の週にドイツは連合国に対し無条件降伏した。

ホロコースト

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大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。ラインハルト・ハイドリヒの監督下、1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終解決策」Endlösung der Judenfrage が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者身体障害者スラブ人政治犯エホバの証人を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この大量虐殺はホロコースト、ヘブライ語ではショアー(Shoah)と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策」Endlösung という用語を使用した。

ホロコーストと平行してナチスは占領下のソ連で「征服、植民地化と搾取」を行った。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士を含むおよそ2,500万人の市民がナチスの虐待下で死んだ。ナチスの計画はドイツの「生存圏」Lebensraum を東方に拡張することだったが、対ソ戦の口実は「ボルシェヴィズムからの防衛」だった。

戦後

ポツダム会議によってドイツ本土は分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、オストプロイセンについては半分はソ連に併合された。チェコスロバキアユーゴスラビアルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国となり、東側のソ連占領地域は共産主義ドイツ民主共和国になった。

ヨーロッパのみならず世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーはその敗戦直前に自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングヨアヒム・フォン・リッベントロップヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判で裁かれることになった。

その他にも、ヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールや、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていたココ・シャネルなど、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担した芸術家や実業家なども戦後罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。

すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。

ナチス・ドイツの武力組織

正規軍

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ナチ党軍事組織

準軍事組織

警察組織

  • 政治警察部門 (国家保安本部, RSHA, Reichssicherheitshauptamt)
    • 治安警察 (Sipo, Sicherheitspolizei)
    • 親衛隊保安部 (SD, Sicherheitsdienst des Reichsführer der SS)
  • 一般警察部門

政治結社

  • 国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP, Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)

ナチス・ドイツの台頭を背景にした映画作品

  • オリンピアOlympia(第1部:『民族の祭典』 - Fest der Völker (Olympia Teil I) /第2部:『美の祭典』- Fest der Schönheit (Olympia Teil II)(1938年、ドイツ映画):1936年のベルリンオリンピックの記録映画。健全な肉体と精神を賛美し、身体・精神障害者を迫害し、強制的に避妊手術を施し、さらには絶滅政策を行ったナチスが国威発揚のために作らせたものだが、映画芸術上の評価は高い。なお映画自体には、民族差別色は薄い。レニ・リーフェンシュタール監督作品。
  • 我輩はカモである』 - Duck Soup(1933年、アメリカ映画):チャップリンキートンと共に、「アメリカ三大喜劇王」と言われる、マルクス兄弟による、独裁者により戦争の恐怖へ突き落とされる、架空の独裁国家フリードニアを舞台とした風刺喜劇映画。
  • 独裁者』 - The Great Dictator(1940年、アメリカ映画):仮想の独裁者ヒンケルと迫害されるユダヤ人の二役をチャップリンが演じた風刺喜劇映画。撮影中も上映中も、ファシズム・ナチズムに共感する極右アメリカ人による様々な妨害を受けた。また、戦後アメリカの「赤狩り」の際、チャップリンは左翼的であるとして追放される原因となった。なお、ヒトラーはこの映画を部下とともに極秘に鑑賞したが、チャップリンに対する処刑命令は出していない。
  • サウンド・オブ・ミュージック』 - The Sound of Music(1965年、アメリカ映画):ナチス・ドイツ併合下のオーストリアを舞台にしたアメリカミュージカル映画の代表作。修道女マリアが音楽を通じて厳格なオーストリア海軍軍人の家庭を癒していく様を描いた。ナチスに協力を求められた海軍大佐は家族ともに国外へ脱出する。唱歌として知られる『ドレミのうた』は、この映画が発祥。
  • 地獄に堕ちた勇者ども』 - La caduta degli dei(1969年、イタリア・スイス・西ドイツ合作映画):ナチス突撃隊粛清(長いナイフの夜事件)とナチスによるルール地方の鉄鋼王一族の退嬰を描いたルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作。ヴィスコンティに重用されたヘルムート・バーガー主演。
  • 特別な一日』 - Una Giornata Particolare(1977年、イタリア・カナダ合作映画)
  • インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 - Indiana Jones and the Last Crusade(1989年、アメリカ映画)・『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年、アメリカ映画):いずれもスティーヴン・スピルバーグの作品で、大いなる力を宿す聖杯聖櫃を奪い世界の支配権を握ろうと企むナチスやヒトラーと戦う正義のヒーローを描く娯楽大作。
  • 戦場のピアニスト』 - The Pianist(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)
  • ブリキの太鼓』-(1979年、西ドイツ・フランス合作):ギュンター・グラス原作。第一次世界大戦後の国際自由都市ダンツィヒを舞台に、人間の醜悪な姿を、三歳で成長を止めた少年の視点からナチの台頭を交えて描く。
  • ライフ・イズ・ビューティフル』-(1998年、イタリア):ロベルト・ベニーニ主演・監督作品。北イタリアにおけるナチの駐留、ユダヤ人狩りをテーマにした映画。収容所に入れられたユダヤ人のグイドは、絶望的な状況の中で自分の幼い息子を必死で守ろうとする。
  • 『さよなら子供たち』-(1987年、フランス・西ドイツ合作):ルイ・マル監督作品。ナチス占領下のフランスにおけるユダヤ人狩りを描いた作品。主人公のフランス人少年と、教会の学校に匿われているユダヤ人少年との交流を中心に、ナチに協力したフランス人がいた現実、密告や裏切りなどの醜悪な姿などを綿密に描いている。

ナチズム・ファシズムの台頭を主題とした映画の一覧も参照のこと。

文献

  • アドルフ・ヒトラーMein Kampf, Erster Band, Eine Abrechnung』、1925年、ドイツ(邦訳:わが闘争(上)I民族主義的世界観)
  • アドルフ・ヒトラー『Mein Kampf, Zweiter Band, Die nationalsozialistische Bewegung』、1927年、ドイツ(邦訳:わが闘争(下)II国家社会主義運動)
  • 澤田謙『ヒットラー傳』、大日本雄弁会講談社、1934年
  • 四宮恭二『ナチス』、政経書院、1934年
  • 森川覚三『ナチス独逸の解剖』、コロナ社、1940年
  • トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった(原題:Bis zur letzten Stunde)』、 (2002年、ドイツ)
  • ヨアヒム・フェスト『ヒトラー最後の12日間(原題:Der Untergang-Hitler und das Ende des Dritten Reiches)』、(2002年、ドイツ)
  • ウワディスワフ・シュピルマン戦場のピアニスト(原題:THE PIANIST: The extraordinary story of one man's survival in Warsaw, 1939-45)』、(1999年、イギリス)

関連項目

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外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月3日 (月) 11:15。












     
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