汪兆銘政権

汪兆銘政府(おうちょうめいせいふ)は、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)にかけて中国に存在した中華民国国民政府の一つ。行政院長(首相)は汪兆銘。なお、首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼称された。

{{基礎情報 過去の国 |略名 =中華民国 |日本語国名 =中華民国南京国民政府 |公式国名 =Template:Lang? |建国時期 =1940年 |亡国時期 =1945年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Wang flag.png |国旗コメント= 青天白日滿地紅旗 |国章画像 =Republic of China National Emblem.svg |標語 =和平・反共・建国 |国歌名 =三民主義 |位置画像 = |公用語 =國語 (中国語) |首都 =南京 |元首等肩書 =国民政府主席 |元首等年代始1 =1940年 |元首等年代終1 =1944年 |元首等氏名1 =汪兆銘(代理) |元首等年代始2 =1944年 |元首等年代終2 =1945年 |元首等氏名2 =陳公博(代理) |首相等肩書 =行政院長 |首相等年代始1 =1940年 |首相等年代終1 =1944年 |首相等氏名1 =汪兆銘 |首相等年代始2 =1944年 |首相等年代終2 =1945年 |首相等氏名2 =陳公博 |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 =樹立 |変遷年月日1 =1940年3月30日 |変遷2 =崩壊 |変遷年月日2 =1945年 |通貨 =元 |時間帯 =+8 |夏時間 = }}

歴史

成立

日中戦争支那事変)の勃発に伴い、蒋介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も当時の首相近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手を求め、日本との和平交渉の道を探っていた汪兆銘を擁立することとした。

汪兆銘は日本の力を背景として、北京中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結し、蒋介石とは別個の国民政府を1940年(昭和15年)に設立した。汪はあくまで国民党の正統であるとして、国民政府が南京に戻ったという理由から政府の発足式を「還都式」と称したが、国際的な承認は得られず、日本の同盟国のドイツでさえ、承認したのは1941年(昭和16年)7月になってからだった。

消滅

汪兆銘政府は、外交・内政において日本の介入を受け、日本政府が第二次世界大戦における日本軍の戦況悪化と共に重慶政府との和平を目指すようになり、さらには民衆の支持も得られなかったことから孤立し、1944年(昭和19年)に汪兆銘が病死すると、更に求心力を低下させた。同政権は1945年(昭和20年)の日本の敗戦と共に消滅した。今日では汪兆銘政権を傀儡政府と見なすのが一般的である。


軍隊

汪兆銘政府の軍隊は、物資的供給を受けている日本軍とは全く協力せず、蒋介石政権と本来の共通の敵であった共産ゲリラに対して軍事的な協力のもとで攻撃していたという。そのため、日本軍からすると軍事的価値は少なかったと言われている。

関連項目



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月31日 (水) 21:04。












    

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最終更新:2009年02月05日 23:29
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