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「pD1-1」(2008/08/20 (水) 13:58:28) の最新版変更点
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霧雨の降る深夜、漁港にて。
この地帯でも大きい部類に入る廃倉庫の前で、その少年は憂鬱そうに暗く凪いだ海を眺めていた。
動きやすいようにと後ろでまとめたチャコールグレーの長髪が、それでも湿って重さを増してしまっている。その上真夜中に一仕事とあっては、帰って寝たいと思ってしまうのも無理はない。
少年の名前は、ウィド・アーネクト。歳は十七と若い。
足元には男が二人転がっていた。どちらも夜陰に乗じた一撃によって気持ち良く眠らされている。上着のポケットからは、大振りのナイフがのぞいていた。
(どうやら通報は本物か……)
不快感を振り払うためにか大きくため息をついた後、耳にはめたクリップ型のインカムに呟く。
「見張りの二人を制圧。スティーマ、こっちへ」
了解の返事が聞こえて、倉庫の角からレインコートを着た一人の女性がひょいと顔を出した。フードから覗くショートカットの前髪は、赤煉瓦の色。
スティーマ・ケイオス。ウィドの優秀な同僚だ。実年齢は二十代も半ばなのだが、十歳ばかりサバを読み、更に性別まで偽っても通じそうな身長と顔立ちをしている。
こちらもやや中性的な顔立ちをしているウィドと並ばせると、どこか不思議な組み合わせとなる。
「裏口、板、打ってある」
頭一つ分は小柄な彼女から淡々とした口調で報告を受けて、ウィドはうなずく。その視線の先は、正面シャッターの壊された鍵。
(つまりは、連中に使われている出入り口はここだけなのか)
一考していると、通信が入った。訛りに近い独特の緩急が付いた、低い声。
「セーブルか、どこにいる?」
「連中の頭上だ。屋根の傾斜が低くて助かる」
倉庫裏に据え付けてある梯子から上ったらしい。セーブルと呼ばれた男の姿は言葉通り屋根の上にあり、明かり取りの天窓から中を覗いていた。
身長は二メートル弱。脳と臓器を除いたほぼ全身を機械化し、艶消しスモークブルーの装甲で鎧っている為、大抵の者からは始め“一体のロボット”という印象を抱かれる。
もっとも普通の衣類を身に付けているため、“武骨な趣味のフルヘル男”と紹介してもさして問題はない。ただ一つ、本人の不満を別にするならば。
「それにしてもこの夜間特別営業、どうにも面倒な話だ」
愚痴をこぼして、
「まさか、書類溜めて残業してた俺たちに非がないとは言わないよな?」
内蔵無線から、呆れた声のウィドにたしなめられた。皮肉そうに『俺たち』が強調されている。
築かれた未記入書類の山は、デスクワーク嫌いの全身サイボーグによる日頃の行いの成果なのである。
当局へ『今夜、宝石店襲撃を企んでいる集団がある』という内容で匿名の垂れ込みがあったのは、一刻ばかり前。その時勤務状態にあった唯一の実動隊職員が、彼らだった。
「それはそれ、これはこ「公務執行中、私語、良くない」
割り込んだ真面目なスティーマの言葉からわかるように彼らは公僕であり、それも警察機構の一員だ。
二人は決まり悪そうに言い合いを止めた。セーブルが天窓から覗いた状況を述べる。
「ここから見えるのは五人。会議中だな。武器その他は不明、だ」
彼の頭部には通常のカメラの他に、感熱や暗視といった機能を持つ複合光学センサーが搭載されている。
この装備の使用には上による許可と鍵の解除が必要なのだが、出動までに直属の上司と連絡が付けられなかった為、それらは得られなかったのだ。
似た理由で、ウィドの正式な得物であるレーザーガンは持ち出せなかった。ただし、スティーマが所持している単発型の二丁はあくまでも“私物”なので、その限りではない。
「仕方ないさ。侵入経路は?」
しばらく間があってから返事が来る。別の天窓近くへと移動した様子だ。
「正面から邪魔させてもらえば良い。コンテナで死角になっている」
ああ、とウィドは応じて、ペンライトのような形状をした作業用レーザーナイフを取り出した。軽合金製のシャッターは、人一人が楽に通れる大きさの長方形をたやすく切り抜かれた。
その後ろでスティーマは、肩掛けのホルダーからモバイル端末を取り出してキーボードを叩いている。セーブルから送られた襲撃団メンバーの画像を照会しているらしい。
三十秒と待たずに結果は出た。
「該当、一人。容疑、一件、ある。強盗未遂」
ディスプレイに、中年と思われる男の顔が現れた。頬がこけていて目付きは悪い。ジョージ・W・ホワイトフィールドと名前が振ってある。
「かーっ、ブラックリストかよ。御門違いじゃねえか」
本来彼らの仕事は、指名手配犯を追うような物ではない。
「なんにしたって、今から応援を呼んでられないからな」
恐らく、残り時間は少ない。ウィドはシャッターの穴をくぐり抜けて侵入した。
「ウィド。銃、貸そうか?」
心配そうにスティーマに問い掛けられたが丁重に断り、
「それじゃあ、行ってくるよ」
そう言って彼女に、見張りの二人の拘束と監視を任せた。倉庫の闇に消える間際つい、
「冷えるから、風邪を引かないように」と、ついまるで子供に注意を促すが如く付け足して、少しばかりのひんしゅくを買ってしまった。
暗闇を物伝いに進む。目が慣れてくると、倉庫の中には大量のコンテナや木箱が残されていて、行動範囲は細く入り組んでいるのだとわかる。
暗い所も狭い所も、どうしようもなく恐ろしく感じていた頃があったと思い出すが、足は止めない。もう大丈夫なのだからと、自分に言い聞かせて。
不意に、左手から洩れている光を見つけた。木箱の山の陰から様子をうかがう。
男が五人、長机代わりなのか二段に積んで並べた木箱を囲んでいた。木箱の上には書類とランプがいくつか。他に光源はない。
「……よし、見取り図は頭に叩き込んだな?仕事は五分で済ませるぞ!」
唯一こちらに背を向けている、ダウンジャケットを着た男が、他の全員に怒鳴っていた。彼がこの襲撃団の首謀者──ジョージなのだろう。
「セーブル、急いでくれ。連中が動き出しそうだ」
レスポンスは早い。
「わかっている。俺が引き付けるから、挟撃の形で突っ込め」
三人のチームでは荒事の際、ウィドとセーブルがそれぞれ前衛後衛、そしてスティーマが各種支援を担当している。そして彼らは、任務をこなす歯車として、割合忠実に機能する。
「突入仕事は二回目だったな。あんまり怖い顔してるなよ?」
余計なお世話だ。ウィドは今一つ感覚がずれる先輩の言葉に、眉をしかめた。
「始める」
セーブルはコートの左袖を肘まで捲り上げ、下腕内側に内蔵されたオート式のクロスボウを展開させた。リリーサー(弦を引いた位置で固定する部品)が前後して、矢をつがえる。
「三、二、一、」
天窓に二本の矢を撃ち込んでから、
「行くぞ」
窓枠もろとも倉庫へ突入した。陽動は派手な方が良い。面白い。
「全員動くな!!」
一応警告はしたが、この人数差で相手が大人しくするとは、元より考えていない。
驚いた男たちが全員、闖入者の方に体を向ける。足元に見えるコンテナへの着地前にリーダーぐらい倒しておけるかと、セーブルが左腕をジョージへと向けた。直線距離15メートル。位置的には余裕だ。
だが。
(少しばかり速過ぎだ!)
男の手には鋭角的なフォルムのレーザーガンが握られ、セーブルからは銃口部分、集束レンズの輝きが良く見えた。
セーブルが撃たれた。その模様をウィドは暗がりから目にした。
照射二発、命中一発。膝を貫かれたらしいセーブルはバランスを崩し、その巨体をコンテナの上へ落下させた。
倉庫内に反響する轟音の中、「政府のイヌか!?」と叫ぶ声が聞こえる。
(その通り……!)
ウィドが駆け出す。判断は冷静に、行動は迅速かつ最善でなくてはならない。このチームの隊長として。
手始めに、自分の同僚への第三射を放とうとしている男の脇腹へと肝臓打ちを突き入れた。ジャケットの上からでも行動不能を奪えるだけの手ごたえ。ジョージの体は前のめりに崩れた。一人目。
まだ誰にも気付かれていない。残った四人を確認する。向かって木箱の左右に、二人ずつ。
再び音もなく動く。棒立ちになっている右側手前の男の延髄に、手刀が叩き込まれた。
「うっ」「?」
打撃自体は成功だったが、頭の後ろで呻かれたもう一人が振り返ろうとする。仕方がない。
気を失った二人目を突き飛ばし、相手が親切にそれを支えている内に回り込んで、先ほどの要領で手刀を入れた。三人目。
「てめえ!」
流石にもう気付かれる。木箱越しに、二人がレーザーガンを向けてきた。
引き金が絞り切られるよりも一瞬早く、ウィドの体が宙を跳んだ。二条の光線は素通りしていく。
助走もなしに自分の頭上を跳び越えて、背後へ着地する青年。それに素早く反応した方の男が、振り返りざまに銃を構えようとすると、
――――ゴッ
回し蹴りによって、ひどく重い踵が彼のこめかみを直撃した。昏倒。四人目。
最後に一人残った男が、反射的にウィドに照準を合わせた。一瞬とも思える時間で自分を残した仲間がやられてしまったというパニックで、頭はもう回っていない。
「この……っ」
不意に甲高い音がして、グリップの感触と銃の重さが消えた。続いて、右二の腕に、左脛に、強い衝撃と鋭い痛みが訪れる。そして、30センチメートル程のシンプルな矢。
軽くひしゃげたコンテナの上に伏せた体勢で、セーブルはクロスボウを構えていた。
矢の行方を確かめてから、笑えない冗談のような言葉を吐く。
「痛いのは我慢しろよ。大人だろ?」
ウィドが踏み込んで、男の鳩尾に拳を叩き込むのが見えた。五人目。制圧完了。
「……うん。見張りは俺が運びに行くから、もう少し待ってて」
ウィドがスティーマとの通信をしている間に、セーブルは負傷者に対する応急処置を済ませていた。襲撃団は皆気を失って、後ろ手に縛られている。首謀者も同様だった。
「全員一撃でノックアウト。学者崩れとは思えない腕じゃないか」
「辞めたつもりはない!」
茶化すセーブルに今にも咬み付きそうな勢いで言い返してから、ウィドは相手が脚を引きずっていることに気付いた。融解した装甲の隙間から、編まれたワイヤーが熔けているのが見える。
「脚、大丈夫か?」
「問題ねえよ、これと同じ消耗品だ」
襲撃団の仕事道具が詰まったトランクを漁りながら、セーブルは返す。
「高周波カッターに……指向性爆弾!?ったく、何に使うつもりなのかね」
せめて忍べ。とでも言いたいらしい。
「くすねるなよ」
ウィドが苦笑する。機械だからと体を粗末に扱うのを、彼はあまり好まない。彼自身、両脚は機械化されているということもある。
「こんな密造だか盗品だかわからん物、誰が」
そんなことよりも見張りの二人を、と言いかけたセーブルが何かを見て固まり、ウィドもその視線を追って振り向いた。警戒の目付きに戻る。
「久しいね。まさかお前さんたちに会えるとは思ってもみなかったよ」
不敵な笑みを浮かべたジョージが立っていた。手首の拘束は既に解かれている。
先程までとは別人のようだった。顔付きも背格好も服装も、何一つとして変わってはいないのに、まとっている空気が全く違う。口調も心なしか、若々しさが増している。
「今回の手際はなかなかだったな。そっちの機械仕掛けの旦那には気の毒だったけど……。スリルあったろ?」
いたずら小僧のような愛嬌を見せてニッと白い歯を光らせた男の前で、二人は混乱していた。
ジョージ・W・ホワイトフィールドなんて容疑者を扱った仕事はしたことがない。こいつは誰だ?
「あれ、覚えてないとか?海の底以来の仲じゃないか」
大仰な身振りで『やれやれ』を表現するジョージ。くるくると表情を変えて、話は続く。
「そもそも、俺の名を騙る酔狂な連中がいるって知ったから混じってみたんだけどな。あんまり野暮過ぎる計画だった物で、密告させてもらったんだ」
(名を騙る……?)
木箱の上に散らかった書類の中、名刺サイズの紙片が一枚、ふとウィドの目に留まった。声明だろうか。白いそれに印刷された文字列の中から末尾の一文を選んで、彼は呟く。
「……素敵な、不審者」
「ご名答!」
飛びかかろうと、ウィドが低く身構えた。
「行けずだなぁ。せっかくだから、消える前に声かけてやったっていうのに」
おもむろにジョージが、片手を胸の前まで上げる。
再度展開したクロスボウに肩を狙われた瞬間。
「ごきげんよう」
親しみさえ込めて彼は言い、パチンッ、と小気味の良い音で指を鳴らした。
それを合図として机上のランプに仕掛けられたカラクリが作動し、限界出力をはるかに超えている筈の発光がウィドの眼を、セーブルのセンサーを刺した。
“素敵な不審者”の軽快な足音が、二人から遠ざかっていく。
通信機に酷いノイズが入った。スティーマはハッとしてシャッターを振り返る。
その穴から物凄い勢いで姿を現した人影が一つ。目が合った。
(そうか、この子もいたのか)
(ホワイトフィールド……)
手配犯の顔を認めて臨戦体勢を取る。一歩跳び退き、懐からレーザーガンを抜いた。
「ぉおっと!」
手の平大の銃が自分に向けられる前に、ジョージは間合いを詰める。そしてスティーマの右手首と左肩を捕まえ、銃口を真上に逸らした。
「君とはいつもゆっくり向き合えないけれど、残念ながら今日もそうみたいだ」
失礼、と片目をつぶってみせる。
(……?)
相手の言葉が理解できずとも、体は動く。スティーマが左手首をひねると、
──シャコンッ──
もう一丁の短銃が袖口から滑り出した。手元を見ずに、無警告でトリガーを引く。
「!!」
読まれていたのか、はたまた尋常ではない反射速度の賜物か、光条が脚を貫く前にジョージは駆けていた。海の方向へと。
まだ撃てる方の銃で狙おうとした時、彼の後ろ姿が消えた。
(海、飛び込んだ?)
しかし水音はしなかった。代わりに、甲高いモーター音が辺りに響く。岸壁上と水面の間には二メートル程度の高低差があり、そこにエレキボートを隠していたのだろう。
追わなくてはと考えた瞬間、ウィドが倉庫から転がり出てきた。
「ウィド!」
スティーマは海を指差した。頷くウィド。
「やっぱり借りる!」
銃を受け取ると、彼は全力で走り出す。ボートはもう滑水を始めているようだった。
辺りは薄暗いが、電灯のおかげで足元ははっきりと見える。踏み切りは誤らないし、着地目標に至っては論外だ。
(曲がるなよっ?)
加速を続ける船までは七、八メートル。機械製の足が、岸壁の縁を強く、重く蹴った。
シャッターを全身で破って、セーブルが顔を出した。
「畜生、焼き付きが消えねえ。あ、無線も妨害されてるのか」
「……大丈夫?」
「半分な。ウイドは?」
またスティーマが海を指す。小さくなっていくボートが見えた。
セーブルが小さく舌打ちをした。“素敵な不審者”となると、こうだ。
「まあた深追いしやがる。……よしステイマ。この見張り共を中に入れて姐御に連絡、待機しておいてくれ」
そう指示して、どこかに歩き出す。
「セーブル?」
「その辺りで短艇一隻ばかり拝借してくる。あいつを回収しなくちゃあな」
振り向かずに、ひらひらと手を振った。
見かけによらず彼は、繊細な作業にも対応する。具体的に例を挙げれば、キーなしでボートを動かすこと、など。
海面を滑るエレキボートの上。
ウィドが着地後の低い姿勢で、短剣をジョージの首筋に。
ジョージは振り向き様に、拳銃をウィドの胸へと。
腕を交差させ、突き付け合っている。
「こんな所まで追いかけてもらえるとは光栄だなぁ。仕事熱心、大いに結構」
ジョージが無邪気に、楽しげに、笑う。
「そうじゃないさ。お前みたいなのを捕まえておかないとな、仕事が減らないんだ」
敵意を眼光に込め、ウィドが睨みつける。
なるほど、道理だ。ジョージはまた笑う。
「停船しろ。機関部を撃ち抜いた」
言葉通り、跳躍中にウィドはレーザーを放った。弾切れの銃は、着地前に既に手放している。
その射撃による影響で、ボートの推力は落ちてきていた。岸からは順調に遠ざかっているが、モーター音がわずかに低い。
「少しすれば、この船は停まる」
「それだったら尚更、短い旅を楽しもうじゃないか。お互い相手に不満は少なくないだろうけどね」
あくまでもジョージの声には、諦めや悔しさといった感情は含まれていない。計器の光が、ウィドから見た彼を逆光にしていた。
「揺れで手元が狂っても悪く思うなよ。って言ってるんだ」
「この銃の引き金は軽いぜ?正義の味方相手には特にな」
威嚇と牽制。その状態を維持したままの十数秒間。ホバーのモーター音が、小雨とさざ波の音を聞こえなくしている。
不意に波の一つに乗り上げて、船体が跳ねた。立姿勢でいるジョージの銃身が微かにぶれて、ウィドはそれを見逃さない。
ウィドの爪先が、突き付けられた銃を蹴り上げた。
ジョージの手を離れて、後方の闇に消えてゆく拳銃。
切っ先が離れると同時に、ジョージが船首の側、風防の向こうへと跳んだ。
そこへウィドは、最小のモーションで短剣を投げ付ける。
右肩を貫く筈の軌道。
回転しながら飛来したその刃を、ジョージの手は親指と平で挟んで受け止めた。
「………♪」
ジョージが口笛を吹く。やるじゃないか、流石だ。
対峙する相手の身体能力に機械化の可能性も覚えながら、ウィドが次の短剣を、脛の鞘から抜きかけた時。
急速に船首が持ち上がり、彼を閉じ込める形でボートは転覆した。
海面に出ようとウィドは暗い船底で体を動かす。両脚が重い。
ボートからの漏電の恐れが一瞬頭をよぎったが、どうやら安全装置が働いて電源は停止しているらしい。
泳ぐというより船体を伝うようにして、海面に顔を出した。ジョージの姿が見当たらない。
沈んでしまったとはとても思えず、辺りを見回す。そして、ボートを転覆させた原因が何なのかを知った。
「これは……」
巨大な金属の塊が、鯨か中州という感じで浮かんでいた。表面は濃紺に塗装され、闇夜に溶け込んでいる。
塊には同じ色の短い煙突が一本立ち、ジョージはその縁に座ってウィドを見下ろしていた。にこにこと、相変わらず勘に障る笑顔で声をかけてくる。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな!教えちゃくれないか?」
海水で冷えたウィドの頭に、熱が戻る。一瞬だけ歯噛みをして、
「お前が捕まるまで、そのつもりはない!」
吠えた。
それは残念。警察官の元気を確認して、犯罪者は肩をすくめる。
「また踊ろうぜ。あぁ、これはその時にでも!」
ひらひらと短剣を振ってみせてからその姿は煙突の中へと飛び込み、その蓋を閉じた。
そしてゴボゴボと泡を湧かせて、鋼鉄の鯨は潜行していく。
ウィドには、ボートの端にしがみついて見送る他無かった。やがて周囲はほぼ完全に黒く染まり、何種類かの水音以外には何もなくなる。
“素敵な不審者”による今宵の逃走劇の顛末が、これである。
霧雨の降る深夜、漁港にて。
この地帯でも大きい部類に入る廃倉庫の前で、その少年は憂鬱そうに暗く凪いだ海を眺めていた。
動きやすいようにと後ろでまとめたチャコールグレーの長髪が、それでも湿って重さを増してしまっている。その上真夜中に一仕事とあっては、帰って寝たいと思ってしまうのも無理はない。
少年の名前は、ウィド・アーネクト。歳は十七と、見かけ通りに若い。
足元には男が二人転がっていた。どちらも夜陰に乗じた一撃によって気持ち良く眠らされている。上着のポケットからは、大振りのナイフがのぞいていた。
(どうやら通報は本物か……)
不快感を振り払うためにか大きくため息をついた後、耳にはめたクリップ型のインカムに呟く。
「見張りの二人を制圧。スティーマ、こっちへ」
了解の返事が聞こえて、倉庫の角からレインコートを着た一人の女性がひょいと顔を出した。フードから覗くショートカットの前髪は、赤煉瓦の色。
スティーマ・ケイオス。ウィドの優秀な同僚だ。実年齢は二十代も半ばなのだが、十歳ばかりサバを読み、更に性別まで偽っても通じそうな身長と顔立ちをしている。
こちらもやや中性的な顔立ちをしているウィドと並ばせると、どこか不思議な組み合わせとなる。
「裏口、板、打ってある」
頭一つ分は小柄な彼女から淡々とした口調で報告を受けて、ウィドはうなずく。その視線の先は、正面シャッターの壊された鍵。
(つまりは、連中に使われている出入り口はここだけなのか)
一考していると、通信が入った。訛りに近い独特の緩急が付いた、低い声。
「セーブルか、どこにいる?」
「連中の頭上だ。屋根の傾斜が低くて助かる」
倉庫裏に据え付けてある梯子から上ったらしい。セーブルと呼ばれた男の姿は言葉通り屋根の上にあり、明かり取りの天窓から中を覗いていた。
身長は二メートル弱。脳と臓器を除いたほぼ全身を機械化し、艶消しスモークブルーの装甲で鎧っている為、大抵の者からは始め“一体のロボット”という印象を抱かれる。
もっとも普通の衣類を身に付けているため、“武骨な趣味のフルヘル男”と紹介してもさして問題はない。ただ一つ、本人の不満を別にするならば。
「それにしてもこの夜間特別営業、どうにも面倒な話だ」
愚痴をこぼして、
「まさか、書類溜めて残業してた俺たちに非がないとは言わないよな?」
内蔵無線から、呆れた声のウィドにたしなめられた。皮肉そうに『俺たち』が強調されている。
築かれた未記入書類の山は、デスクワーク嫌いの全身サイボーグによる日頃の行いの成果なのである。
当局へ『今夜、宝石店襲撃を企んでいる集団がある』という内容で匿名の垂れ込みがあったのは、一刻ばかり前。その時勤務状態にあった唯一の実動隊職員が、彼らだった。
「それはそれ、これはこ「公務執行中、私語、良くない」
割り込んだ真面目なスティーマの言葉からわかるように彼らは公僕であり、それも警察機構の一員だ。
二人は決まり悪そうに言い合いを止めた。セーブルが天窓から覗いた状況を述べる。
「ここから見えるのは五人。会議中だな。武器その他は不明、だ」
彼の頭部には通常のカメラの他に、感熱や暗視といった機能を持つ複合光学センサーが搭載されている。
この装備の使用には上による許可と鍵の解除が必要なのだが、出動までに直属の上司と連絡が付けられなかった為、それらは得られなかったのだ。
似た理由で、ウィドの正式な得物であるレーザーガンは持ち出せなかった。ただし、スティーマが所持している単発型の二丁はあくまでも“私物”なので、その限りではない。
「仕方ないさ。侵入経路は?」
しばらく間があってから返事が来る。別の天窓近くへと移動した様子だ。
「正面から邪魔させてもらえば良い。コンテナで死角になっている」
ああ、とウィドは応じて、ペンライトのような形状をした作業用レーザーナイフを取り出した。軽合金製のシャッターは、人一人が楽に通れる大きさの長方形をたやすく切り抜かれた。
その後ろでスティーマは、肩掛けのホルダーからモバイル端末を取り出してキーボードを叩いている。セーブルから送られた襲撃団メンバーの画像を照会しているらしい。
三十秒と待たずに結果は出た。
「該当、一人。容疑、一件、ある。強盗未遂」
ディスプレイに、中年と思われる男の顔が現れた。頬がこけていて目付きは悪い。ジョージ・W・ホワイトフィールドと名前が振ってある。
「かーっ、ブラックリストかよ。御門違いじゃねえか」
本来彼らの仕事は、指名手配犯を追うような物ではない。
「なんにしたって、今から応援を呼んでられないからな」
恐らく、残り時間は少ない。ウィドはシャッターの穴をくぐり抜けて侵入した。
「ウィド。銃、貸そうか?」
心配そうにスティーマに問い掛けられたが丁重に断り、
「それじゃあ、行ってくるよ」
そう言って彼女に、見張りの二人の拘束と監視を任せた。倉庫の闇に消える間際つい、
「冷えるから、風邪を引かないように」と、ついまるで子供に注意を促すが如く付け足して、少しばかりのひんしゅくを買ってしまった。
暗闇を物伝いに進む。目が慣れてくると、倉庫の中には大量のコンテナや木箱が残されていて、行動範囲は細く入り組んでいるのだとわかる。
暗い所も狭い所も、どうしようもなく恐ろしく感じていた頃があったと思い出すが、足は止めない。もう大丈夫なのだからと、自分に言い聞かせて。
不意に、左手から洩れている光を見つけた。木箱の山の陰から様子をうかがう。
男が五人、長机代わりなのか二段に積んで並べた木箱を囲んでいた。木箱の上には書類とランプがいくつか。他に光源はない。
「……よし、見取り図は頭に叩き込んだな? 仕事は五分で済ませるぞ!」
唯一こちらに背を向けている、ダウンジャケットを着た男が、他の全員に怒鳴っていた。彼がこの襲撃団の首謀者──ジョージなのだろう。
「セーブル、急いでくれ。連中が動き出しそうだ」
レスポンスは早い。
「わかっている。俺が引き付けるから、挟撃の形で突っ込め」
三人のチームでは荒事の際、ウィドとセーブルがそれぞれ前衛後衛、そしてスティーマが各種支援を担当している。そして彼らは、任務をこなす歯車として、割合忠実に機能する。
「突入仕事は二回目だったな。あんまり怖い顔してるなよ?」
余計なお世話だ。ウィドは今一つ感覚がずれる先輩の言葉に、眉をしかめた。
「始める」
セーブルはコートの左袖を肘まで捲り上げ、下腕内側に内蔵されたオート式のクロスボウを展開させた。リリーサー(弦を引いた位置で固定する部品)が前後して、矢をつがえる。
「三、二、一、」
天窓に二本の矢を撃ち込んでから、
「行くぞ」
窓枠もろとも倉庫へ突入した。陽動は派手な方が良い。面白い。
「全員動くな!!」
一応警告はしたが、この人数差で相手が大人しくするとは、元より考えていない。
驚いた男たちが全員、闖入者の方に体を向ける。足元に見えるコンテナへの着地前にリーダーぐらい倒しておけるかと、セーブルが左腕をジョージへと向けた。直線距離十五メートル。位置的には余裕だ。
だが。
(少しばかり速過ぎだ!)
男の手には鋭角的なフォルムのレーザーガンが握られ、セーブルからは銃口部分、集束レンズの輝きが良く見えた。
セーブルが撃たれた。その模様をウィドは暗がりから目にした。
照射二発、命中一発。膝を貫かれたらしいセーブルはバランスを崩し、その巨体をコンテナの上へ落下させた。
倉庫内に反響する轟音の中、「政府のイヌか!?」と叫ぶ声が聞こえる。
(その通り……!)
ウィドが駆け出す。判断は冷静に、行動は迅速かつ最善でなくてはならない。このチームの隊長として。
手始めに、自分の同僚への第三射を放とうとしている男の脇腹へと肝臓打ちを突き入れた。ジャケットの上からでも行動不能を奪えるだけの手ごたえ。ジョージの体は前のめりに崩れた。一人目。
まだ誰にも気付かれていない。残った四人を確認する。向かって木箱の左右に、二人ずつ。
再び音もなく動く。棒立ちになっている右側手前の男の延髄に、手刀が叩き込まれた。
「うっ」「?」
打撃自体は成功だったが、頭の後ろで呻かれたもう一人が振り返ろうとする。仕方がない。
気を失った二人目を突き飛ばし、相手が親切にそれを支えている内に回り込んで、先ほどの要領で手刀を入れた。三人目。
「てめえ!」
流石にもう気付かれる。木箱越しに、二人がレーザーガンを向けてきた。
引き金が絞り切られるよりも一瞬早く、ウィドの体が宙を跳んだ。二条の光線は素通りしていく。
助走もなしに自分の頭上を跳び越えて、背後へ着地する青年。それに素早く反応した方の男が、振り返りざまに銃を構えようとすると、
――――ゴッ
回し蹴りによって、ひどく重い踵が彼のこめかみを直撃した。昏倒。四人目。
最後に一人残った男が、反射的にウィドに照準を合わせた。一瞬とも思える時間で自分を残した仲間がやられてしまったというパニックで、頭はもう回っていない。
「この……っ」
不意に甲高い音がして、グリップの感触と銃の重さが消えた。続いて、右二の腕に、左脛に、強い衝撃と鋭い痛みが訪れる。そして、三十センチメートル程のシンプルな矢。
軽くひしゃげたコンテナの上に伏せた体勢で、セーブルはクロスボウを構えていた。
矢の行方を確かめてから、笑えない冗談のような言葉を吐く。
「痛いのは我慢しろよ。大人だろ?」
ウィドが踏み込んで、男の鳩尾に拳を叩き込むのが見えた。五人目。制圧完了。
「……うん。見張りは俺が運びに行くから、もう少し待ってて」
ウィドがスティーマとの通信をしている間に、セーブルは負傷者に対する応急処置を済ませていた。襲撃団は皆気を失って、後ろ手に縛られている。首謀者も同様だった。
「全員一撃でノックアウト。学者崩れとは思えない腕じゃないか」
「辞めたつもりはない!」
茶化すセーブルに今にも咬み付きそうな勢いで言い返してから、ウィドは相手が脚を引きずっていることに気付いた。融解した装甲の隙間から、編まれたワイヤーが熔けているのが見える。
「脚、大丈夫か?」
「問題ねえよ、これと同じ消耗品だ」
襲撃団の仕事道具が詰まったトランクを漁りながら、セーブルは返す。
「高周波カッターに……指向性爆弾!? ったく、何に使うつもりなのかね」
せめて忍べ。とでも言いたいらしい。
「くすねるなよ」
ウィドが苦笑する。機械だからと体を粗末に扱うのを、彼はあまり好まない。彼自身、両脚は機械化されているということもある。
「こんな密造だか盗品だかわからん物、誰が」
そんなことよりも見張りの二人を、と言いかけたセーブルが何かを見て固まり、ウィドもその視線を追って振り向いた。警戒の目付きに戻る。
「久しいね。まさかお前さんたちに会えるとは思ってもみなかったよ」
不敵な笑みを浮かべたジョージが立っていた。手首の拘束は既に解かれている。
先程までとは別人のようだった。顔付きも背格好も服装も、何一つとして変わってはいないのに、まとっている空気が全く違う。口調も心なしか、若々しさが増している。
「今回の手際はなかなかだったな。そっちの機械仕掛けの旦那には気の毒だったけど……。スリルあったろ?」
いたずら小僧のような愛嬌を見せてニッと白い歯を光らせた男の前で、二人は混乱していた。
ジョージ・W・ホワイトフィールドなんて容疑者を扱った仕事はしたことがない。こいつは誰だ?
「あれ、覚えてないとか? 海の底以来の仲じゃないか」
大仰な身振りで『やれやれ』を表現するジョージ。くるくると表情を変えて、話は続く。
「そもそも、俺の名を騙る酔狂な連中がいるって知ったから混じってみたんだけどな。あんまり野暮過ぎる計画だった物で、密告させてもらったんだ」
(名を騙る……?)
木箱の上に散らかった書類の中、名刺サイズの紙片が一枚、ふとウィドの目に留まった。声明だろうか。白いそれに印刷された文字列の中から末尾の一文を選んで、彼は呟く。
「……素敵な、不審者」
「ご名答!」
飛びかかろうと、ウィドが低く身構えた。
「行けずだなぁ。せっかくだから、消える前に声かけてやったっていうのに」
おもむろにジョージが、片手を胸の前まで上げる。
再度展開したクロスボウに肩を狙われた瞬間。
「ごきげんよう」
親しみさえ込めて彼は言い、パチンッ、と小気味の良い音で指を鳴らした。
それを合図として机上のランプに仕掛けられたカラクリが作動し、限界出力をはるかに超えている筈の発光がウィドの眼を、セーブルのセンサーを刺した。
“素敵な不審者”の軽快な足音が、二人から遠ざかっていく。
通信機に酷いノイズが入った。スティーマはハッとしてシャッターを振り返る。
その穴から物凄い勢いで姿を現した人影が一つ。目が合った。
(そうか、この子もいたのか)
(ホワイトフィールド……)
手配犯の顔を認めて臨戦体勢を取る。一歩跳び退き、懐からレーザーガンを抜いた。
「ぉおっと!」
手の平大の銃が自分に向けられる前に、ジョージは間合いを詰める。そしてスティーマの右手首と左肩を捕まえ、銃口を真上に逸らした。
「君とはいつもゆっくり向き合えないけれど、残念ながら今日もそうみたいだ」
失礼、と片目をつぶってみせる。
(…………?)
相手の言葉が理解できずとも、体は動く。スティーマが左手首をひねると、
──シャコンッ──
もう一丁の短銃が袖口から滑り出した。手元を見ずに、無警告でトリガーを引く。
「!!」
読まれていたのか、はたまた尋常ではない反射速度の賜物か、光条が脚を貫く前にジョージは駆けていた。海の方向へと。
まだ撃てる方の銃で狙おうとした時、彼の後ろ姿が消えた。
(海、飛び込んだ?)
しかし水音はしなかった。代わりに、甲高いモーター音が辺りに響く。岸壁上と水面の間には二メートル程度の高低差があり、そこにエレキボートを隠していたのだろう。
追わなくてはと考えた瞬間、ウィドが倉庫から転がり出てきた。
「ウィド!」
スティーマは海を指差した。頷くウィド。
「やっぱり借りる!」
銃を受け取ると、彼は全力で走り出す。ボートはもう滑水を始めているようだった。
辺りは薄暗いが、電灯のおかげで足元ははっきりと見える。踏み切りは誤らないし、着地目標に至っては論外だ。
(曲がるなよっ?)
加速を続ける船までは七、八メートル。機械製の足が、岸壁の縁を強く、重く蹴った。
シャッターを全身で破って、セーブルが顔を出した。
「畜生、焼き付きが消えねえ。あ、無線も妨害されてるのか」
「……大丈夫?」
「半分な。ウイドは?」
またスティーマが海を指す。小さくなっていくボートが見えた。
セーブルが小さく舌打ちをした。“素敵な不審者”となると、こうだ。
「まあた深追いしやがる。……よしステイマ。この見張り共を中に入れて姐御に連絡、待機しておいてくれ」
そう指示して、どこかに歩き出す。
「セーブル?」
「その辺りで短艇一隻ばかり拝借してくる。あいつを回収しなくちゃあな」
振り向かずに、ひらひらと手を振った。
見かけによらず彼は、繊細な作業にも対応する。具体的に例を挙げれば、キーなしでボートを動かすこと、など。
海面を滑るエレキボートの上。
ウィドが着地後の低い姿勢で、短剣をジョージの首筋に。
ジョージは振り向き様に、拳銃をウィドの胸へと。
腕を交差させ、突き付け合っている。
「こんな所まで追いかけてもらえるとは光栄だなぁ。仕事熱心、大いに結構」
ジョージが無邪気に、楽しげに、笑う。
「そうじゃないさ。お前みたいなのを捕まえておかないとな、仕事が減らないんだ」
敵意を眼光に込め、ウィドが睨みつける。
なるほど、道理だ。ジョージはまた笑う。
「停船しろ。機関部を撃ち抜いた」
言葉通り、跳躍中にウィドはレーザーを放った。弾切れの銃は、着地前に既に手放している。
その射撃による影響で、ボートの推力は落ちてきていた。岸からは順調に遠ざかっているが、モーター音がわずかに低い。
「少しすれば、この船は停まる」
「それだったら尚更、短い旅を楽しもうじゃないか。お互い相手に不満は少なくないだろうけどね」
あくまでもジョージの声には、諦めや悔しさといった感情は含まれていない。計器の光が、ウィドから見た彼を逆光にしていた。
「揺れで手元が狂っても悪く思うなよ。って言ってるんだ」
「この銃の引き金は軽いぜ? 正義の味方相手には特にな」
威嚇と牽制。その状態を維持したままの十数秒間。ホバーのモーター音が、小雨とさざ波の音を聞こえなくしている。
不意に波の一つに乗り上げて、船体が跳ねた。立姿勢でいるジョージの銃身が微かにぶれて、ウィドはそれを見逃さない。
ウィドの爪先が、突き付けられた銃を蹴り上げた。
ジョージの手を離れて、後方の闇に消えてゆく拳銃。
切っ先が離れると同時に、ジョージが船首の側、風防の向こうへと跳んだ。
そこへウィドは、最小のモーションで短剣を投げ付ける。
右肩を貫く筈の軌道。
回転しながら飛来したその刃を、ジョージの手は親指と平で挟んで受け止めた。
「…………♪」
ジョージが口笛を吹く。やるじゃないか、流石だ。
対峙する相手の身体能力に機械化の可能性も覚えながら、ウィドが次の短剣を、脛の鞘から抜きかけた時。
急速に船首が持ち上がり、彼を閉じ込める形でボートは転覆した。
海面に出ようとウィドは暗い船底で体を動かす。両脚が重い。
ボートからの漏電の恐れが一瞬頭をよぎったが、どうやら安全装置が働いて電源は停止しているらしい。
泳ぐというより船体を伝うようにして、海面に顔を出した。ジョージの姿が見当たらない。
沈んでしまったとはとても思えず、辺りを見回す。そして、ボートを転覆させた原因が何なのかを知った。
「これは……」
巨大な金属の塊が、鯨か中州という感じで浮かんでいた。表面は濃紺に塗装され、闇夜に溶け込んでいる。
塊には同じ色の短い煙突が一本立ち、ジョージはその縁に座ってウィドを見下ろしていた。にこにこと、相変わらず勘に障る笑顔で声をかけてくる。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな!教えちゃくれないか?」
海水で冷えたウィドの頭に、熱が戻る。一瞬だけ歯噛みをして、
「お前が捕まるまで、そのつもりはない!」
吠えた。
それは残念。警察官の元気を確認して、犯罪者は肩をすくめる。
「また踊ろうぜ。あぁ、これはその時にでも!」
ひらひらと短剣を振ってみせてからその姿は煙突の中へと飛び込み、その蓋を閉じた。
そしてゴボゴボと泡を湧かせて、鋼鉄の鯨は潜行していく。
ウィドには、ボートの端にしがみついて見送る他無かった。やがて周囲はほぼ完全に黒く染まり、何種類かの水音以外には何もなくなる。
“素敵な不審者”による今宵の逃走劇の顛末が、これである。