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「電磁波爆弾。そうか、そんな物があったか」  ラボラトリの硬いベッドの上で、セーブルは感心したように呟いた。隣には、ウィドとスティーマがいる。 「また他人事みたいに言って。黙って寝てたお前と違って、周りは大変だったんだ」  両義足の機能が停止してしまっているウィドが車椅子を使っているため、スティーマの目は、ウィドの頭よりも高い位置にあった。 「二人、回収、リューゲル、たち」  言われるとセーブルは、心底忌々しげにする。 「よりにもよって、第二隊の連中に借りだな」  彼を担当している、年輩の技師──このラボの主が、二人分の紅茶を淹れながら、静かに笑った。 「いいじゃないですか。効果範囲内に、大きな病院もなかった訳だし」  電磁波爆弾とは、その名称からも察せられる通り、爆発のエネルギーを利用して強力な電磁波を発生させる爆弾である。回路を焼き切り、電子機器を妨害する。  その機能の多くを機械に依存しているアルカディアにおいては、重大な脅威となり得る兵器である。実際、“素敵な不審者”が使用したことによる被害は大きく、その範囲が決して広域ではないにせよ、復旧にはかなりの手間を要しそうだった。 「だからってこんなやり方、癪に障るじゃないか。それに俺はてっきり、セーブルが死にでもしたんじゃないかと思って」  異論ありそうにウィドが技師に言うと、横でスティーマも頷き、同意を示した。技師が、顎に手をやる。 「そうでしたか。確かに初めて見ると、驚くかもしれませんね」  セーブルの体内で、五臓六腑と脳、それに生命維持系統の装置を収めてある内部装甲は内殻と呼ばれ、外部からの振動や電磁波をほぼ完全に遮断する構造になっている。  そのため電磁波爆弾が近距離で炸裂しても、今回のように外側の駆動、感覚機関が停止するだけで済んだのだ。 「こっちだって驚いたぞ? 何せ急に、五感も手足も利かなくなるんだからな。普通のグレネードだった方が、いくらかマシだ」  笑いながら、セーブルは首だけを動かし、ウィドを見上げた。苛ついたように、ウィドが返す。 「だからどうしてそれで、呑気にしてられるかな……」  セーブルだけではない。ウィドの両脚、スティーマの端末、それぞれの装備。特警係第四隊だけを見ても、ダメージは深刻だった。  加えて、体のどこかしらを機械化している係のメンバーは、他にも何人かいる。 『モルガンの(機械化された)顎が開きっぱなしになった』と、第三隊の隊員が大騒ぎしていたのを、スティーマは思い出す。  可哀相に。喉が渇いてしまうだろう。 「幸いなことに、人死にも大怪我もないようだからな」  技師がウィドとスティーマに、ソーサーに乗せたティーカップを差し出して、二人はそれを受け取った。香りの良い湯気が立っている。 「無事な隊の奴らは?」 「検問、外側、巡回してる」  足跡の一つでも見つけられるかね。口の中で言ってから、セーブルは能天気な声を出した。 「まあ怪盗のことは、新手の天災とでも思っておいた方がいい。ウイド? お前もそう、深刻そうな面をするな。不景気顔が癖になるぞ」 「だから、何言ってるんだ。セーブルだろ? 一番やられてるのは」  言われるとセーブルは、何か考えるような間を作って、 「いやぁ。一等はやはり、ミュージアムじゃあないかと思うんだが」  ウィドを脱力させた。 「してないよ……そんな話」  そこはビル街の中に日陰として存在する、細く入り組んだ路地だった。この都市にあっても、誰もが気に止めない、人々の認識の隙間とでも言うべき空間は、そこかしこに残っていた。  路地の突き当たりの壁に背を支えられながら、“彼”はゆっくりと立ち上がる。息を整えようとする。  一メートル先に、男が立つ。高からず低からずの身長で、髪には白いものが混じる。  男の後ろに横たわる体は、“彼”の相棒だった。目立った外傷はないようだが、気を失っている。 『目標の人物を捕捉し、同行させよ。同意を得られない場合は、実力行使もやむを得ない』  それが今回の任務で、目の前の男が『目標の人物』だった。『連行せよ』ではなく『同行させよ』だという点には気にかかるものがあったが、そのような情報の出し惜しみは日常茶飯事であり、今更自分が考えることでもなかった。 “彼ら”の仕事は、与えられた任務をこなすことに他ならない。 “彼ら”は、忠実な狩人であった。 「答えろ」  男が口を開く。低く、抑揚はなく、声量も抑えられていたが、よく耳に伝わる声だった。 「私の体内に仕掛けられた発信機は未だに活動を続けているか、否か」  全く心当たりがなかった。何の話だ、と返す。声が掠れる。  黙って、男は“彼”を見据えていた。 「伝えろ」  男は、変わらない口調で言う。言葉には温度が存在せず、それが命令口調だということさえ、忘れさせる。 「これ以後接触を試みようとは、考えるな」  言葉の意味を飲み込む暇も与えられず、“彼”のみぞおちに、革靴の爪先が突き刺さった。  意識が、暗がりに落ちる。 “サクノツキ”盗難事件の二日後、特警係の朝。  デスクには十三人全員が着き、長であるハリエットが、気怠そうな顔で話していた。 「一昨日はお疲れ様。私物の電化義肢に被害が出てた場合は保証が利くみたいなので、該当者は早めに申請しておくこと」  いくつか返事が上がるが、どれも威勢がよくない。当然、ウィドも同じくだった。  昨日は事件の事後処理に加えて通常の巡回業務もあり、皆多忙だったためだ。  続いて、 「それと作戦行動中、大いに勝手をした二人がいた訳だけど。埋め合わせとして、来たる今年度忘年会の費用を、彼らが出してくれる運びとなりました」  ハリエットが、にやりと笑いながら告げる。おぉ、と地味な歓声、それにまばらな拍手が湧いた。 (後悔するなってのは、これのことか……)  威勢良く言い切ってしまった手前何も言い返せず、この罰を事前に聞かされていたウィドは肩を落とした。 「異議がある」 「……何よ」  セーブルが挙手をすると、ハリエットは面倒くさそうに聞いた。 「俺もウィドも、既にしばしの減俸処分を言い渡されている。ありもしない所から金を搾り取ろうというのは、姉御の手際としてあまりにも切れが悪いとは思わないか?」  自分に有益な意見なのに、どうしてこんなに擁護する気も起きないのだろうか。ウィドはつい感心してしまった。  詭弁を弄すな、金返せ阿呆などと野次を飛ばすメンバーを手で制して、ハリエットは斬り捨てた。 「却下ね。それとこれとじゃ、理由が違う」  机に片手を突き、真っ直ぐにセーブルの双眸――無機質なレンズを見据え、続ける。 「あたしが咎めているのは、あんた達が事前に何も言わずにアクションを起こしたってことだけよ。お上みたいに、『怪盗の追跡を試みたのが、そもそも軽率だった』なんて、考えちゃいない」  装甲サイボーグは、似合わない三つ揃いを着た体を椅子に深く座り直させ、両手の平を見せた。引き下がるポーズらしい。 「了解。粛正に従う」  小さく頷いてから、ハリエットが視線をウィドに移した。 「わかってるとは思うけど、あなたにも言ってるからね」  ウィドは二、三度まばたいた後、不服そうに、 「俺は反省してますから……。以後、気をつけます」  口をとがらせた。その様子を見、ハリエットは愉快げに歯を見せる。  その後彼女は、事件に関する二、三の事柄を告げた。 「反省会はこれまで。あと、業務連絡として……、手配犯リストに追加があるから、見ておくこと。解散ッ」  各々が行動を始め、ウィドもデスクの端末に電源を入れた。 「私も、聞いて、なかった」  隣からスティーマが抗議の声を掛けてきた。相変わらずの無表情なので、本気とも冗談とも識別ができず、参る。 「別にあんなのに一枚噛んだって、何も得なことないじゃないか。……人数が多いと、責任は分散なんかしないで、かえって倍に」  そこまで言って、ウィドは止まった。ディスプレイには、新しく重犯罪者として認定され、特警係の管区に逃げ込む可能性もあると判断された、一人の男のデータが表示されている。 「ウィド?」  スティーマがウィドの顔をうかがうが、彼はディスプレイに映った顔写真を注視している。 (この人確か、一昨日の夜の)  現場近くで見かけた、“奇妙な感覚”の男。髪型は違い、サングラスも掛けていなかったが、同じ人物だと確信できた。  手配犯の名前は、ゲオルク・ラスヴェルとあった。  ギィニの執務机の上に、一枚の書類が置かれた。 「社長、これを」  目の前には、厳しい顔をした秘書が立っていた。表向きの稼業では、アナクロな紙の書類など、滅多に用いない。  書類には、壮年の男の写真と、プロフィールが載っている。経歴の末尾には、強盗事件の容疑者という記述があった。その事件の存在を、ギィニは始めて知った。 「どちら?」 「この情報は今朝、警察のデータベース──ブラックリスト上に出現した物です。同時に、幾つかの実動部署へ向けて、逮捕要請が出されています」  怪盗“素敵な不審者”がサクノツキと呼ばれる高価な黒ダイヤを奪取したのが、一昨日の深夜のことである。 「殺人犯か。悪党だな」  表情のかけらも見つからない写真の顔を眺めながら、ギィニはとぼけたことを言った。 「画像以外の情報は全て、偽装かと。まだ調査段階ですが」  秘書が言い淀んだ。ギィニが眼の動きで促す。 「まだ調査中ではありますが現時点では、以前までこのアルカディアで、殺害請負人として活動していた人物であるという情報が有力です」 「うん……」  頷きかけてギィニは、ふと動きを止めた。殺害請負人? 「俗に言う所の、殺し屋です」  彼の反応を想定していたのだろう、秘書が補足を加える。無意識の内に懐の紙巻き煙草に手を伸ばしかけたギィニだったが、やめて聞き返した。 「殺し屋だって?」 「はい。どうやらプロフェッショナルの、それです」  そうか、プロの殺し屋なのか。 「そんなものが、この街にいたとはな。……冗談みたいな奴」 「あなたと同じですね? 社長」  否定はしない。怪盗も殺し屋も、存在自体が不自然で、アルカディアの在り方とは違和感があった。 「俺を撃ち落としたのが、この男なんだな?」  今現在、裏の本業に関わってギィニまで上ってくる報告として、他の人物情報は考え難かった。  淡々と、秘書は答える。 「恐らくは。使用された弾丸が、記録上のそれと同一のものです」 「まるで名刺だな、それは。『あんたを殺す』って裏書きまで入ってる」  全く律儀な男だと、ギィニは楽しくなってきた。  事件当日、ビル街を逃走中の“素敵な不審者”に向かって放たれた、一つの弾丸があった。  彼が変装していた警備官の装備である、背広の下のボディアーマーがそれを受け止めたが、着弾した衝撃までは殺しきれなかった。  跳躍しようと踏み切る瞬間に直撃をくらったギィニは、ビルの谷間を越えられずに、落下した。  転落死を免れるすべは幾つもあり、実際今も彼は健在だが、“素敵な不審者”の仕事に際して驚くべき事態だということには、変わりがなかった。 「ゲオルク・ラスヴェルの犯行だと思われる事件は、十年ほど前から発生しており、手口は事故や病死の擬装を主として、毒殺・射殺など、多岐に渡っています」  秘書は報告を続ける。 「そしてそれらは、六年前のある時期から、全く確認されなくなっていました」 「一週間前までは、か?」 「はい。一週間前までは」  両肘を机に突き、指を顔の前で組むギィニ。 「なぜ」 「ブランクの理由は不明です。警察当局に捕縛された、もしくは別の状況的変化等、原因となりそうな事柄は把握できていません」  しばらくの沈黙がある。ギィニは机の上の書類を見つめながら、呟く。 「なんにせよ、一度はお目にかからなくちゃならないな。この男には」  意識せず、唇の端が歪んだ。  少なからず愉快そうな様を見て、彼の秘書は眉をひそめる。 「社長が直々になさらずとも、対処は致します。まさか、交渉の余地があるなどとお考えなのでしょうか?」  プロ同士だからな、という言葉を飲み込んで、ギィニが笑いかける。 「俺は、部下を危ない目には会わせない主義の男だ」 「私としては、主義よりも義務で、社長の身を危険に晒したくはないと考えているのですが」  数秒間、二人は身じろぎもせずに視線を交差させた。 「……義務よりも、好意の方がいいな」 「そうですか」  政府の建物内にある休憩所で、シュウ・キサラギが喋っている。手にはコーヒーの紙カップ。 「ゲオルク・ラスヴェル。彼は政府内のある官僚に雇われた、掃除屋だったよ。組織内の粛清や、派閥争いの手っ取り早い解決を担っていたらしい。詳しい資料がそれだ」  それをハリエットは、窓際に寄りかかって聞いている。サイズの大きい茶封筒を持っていた。 「“素敵な不審者”については、知っているね? 君の所は不思議と、奴とは縁があるのだと聞いてる」 「ウィド君も執心みたいよ」  ハリエットが笑って言うと、シュウも苦笑した。 「係長がさ、手配犯のことは自分が調べるから、俺は考えなくていいってさ」  いつもの店“Le Voyou”で、ウィドが不満そうに頬杖をついている。頬がほのかに赤いのは、傍らのノンアルコールビール(1%未満)のおかげだ。 「確かロズウェルとかいったか……」 「セーブル、違う。ゲオルク・ラスヴェル。ウィド、何、気がかり?」 「…………」  説明しようとするが、上手にまとめられない。 「……見れば、二人にも分かるよ。多分」  スティーマとセーブルは、思わず目を見合せる。  瞼の重たいウィド・アーネクトは、それ以上多くを語らなかった。喋ってはいたが言語になっていなかった、とも言える。 「あの怪盗を街から排除するために警察が打ち出した、苦肉の策がある」 「秘密裏に?」 「そう。一連の偽怪盗事件だよ。“素敵な不審者”を騙って、本物をおびき寄せようとした」  ハリエットは、“素敵な不審者”を名乗るタレコミによって事前に潰された、宝石店襲撃計画のことを思い出した。主犯のホワイトフィールドは強盗未遂の手配犯だったが、共犯のメンバーにも何らかの、小さい犯歴があるということが、後から判っていた。  不自然だとは思ったが、そこを追求する暇も理由も、手段もなかった。 「犯罪者を使って……」  既に裏付けを取っているシュウは、頷いて肯定する。警察と犯罪者たちとの間に何かの取引があったことは確実である。そこに“取引”と呼べるほどの公平性があったとは考え難いが。 「その計画に、ラスヴェルも組み込まれていた」  秘密兵器とでも呼ぶべき、政府の暗部にいる掃除屋である。“素敵な不審者”の殺害などという目立つ任務を与えたくはなかった筈であり、そのことからも、現在の警察の切羽詰った状況が推察される。 「それがどうして、今手配されてるのかしら」  ここからが問題だ、とシュウが呟いた。今までの話も到底見過ごしていい事柄ではないのだが、この先の話は、警察の末端である特警係にも、直接的に関係してくる。 「サクノツキ強奪の一件では――この事件もそもそも、警察が仕組んでいたんだが――怪盗が小型の電磁波爆弾を使っただろう? ラスヴェルもあの現場にいたんだ。銃を携えて」  一旦、途切れる。 「電磁波爆弾によって、彼に注入されていた行動監視及び通信用のマイクロマシンが機能を停止した」  ハリエットが、事態を理解したのか顔を強張らせる。殺し屋の枷が外れ、野に放たれたのだ。 「そして事件の翌日のことだ。一組のハンターが『ラスヴェルを連れ戻せ』と、彼の雇い主だった官僚から直々の指示を受けて動いた。結果、捕捉はしたが返り討ちに合い、目標をロスト。警察はここでやっとラスヴェルの反抗の意思を確実なものと判断し、今に至る」 「ハンター二人を相手に……?」 「そう、彼は危険だ。ブラックリストには射殺も許可すると記してあったろう? ハンターの二人は銃を抜く間もなく意識を奪われたようだが、こちらが本気で止めようとかかった場合、何の保証もないと考えられる」  シュウは立ち上がって、紙コップを回収箱に放り入れた。 「ところでどうしてこんな調査依頼をよこしたのか知らないけれど、ウィドは関わってないだろうね?」  ハリエットが、口ごもりながら答える。 「ん? ああ、うん。関わってないというか、誰もあんまり関わらせたくないというか……」 「そうだな。生きているラスヴェルと接触すれば、上層部のいさかいに巻き込まれる可能性もある」   何やら脅されているような気もしたが、シュウの正直な危惧なのだと受け取ることにした。彼自身、ウィドを特警に置いておくのには、不安な点も少なからずあるのだろう。 「そろそろ私は、残業に戻るよ。ラスヴェルに関する動きは、可能な限り把握しておこう」 「うん。……危ない橋渡らせて、悪いね。何かで借りは返すわ」  三、四歩歩いて、シュウは振りかえった。 「ハリエット」  もう少しさぼっていようと椅子に座りかけていたハリエットは、腰を浮かせた姿勢のまま止まった。 「何?」 「君が正しいと思うように、あの子は使ってやってくれ。そうでないと、わざわざ君の所まで出向かせた意味がない」  その言葉は、彼が振り絞る、子のための勇気なのかもしれない。特警係の女係長はふと笑い、深く座り込む。 「まあ、見ときなさい。そういうのは得意なの」  信じるよと、小さく言い、シュウがまた苦笑いを浮かべた。  ラスヴェルは、見上げた。  灰色の建築の隙間に、ちぎれ雲が浮く、藍色の空がある。  彼が生まれた場所に、このような色はなかった。知識は持っていたが、何年か前に地上に上がってきた時、空とはこれかと、感動した覚えがある。  彼に仕事を斡旋していた情報屋が検挙され、安定した食いぶちを失いかけた頃に、政府がコンタクトを試みてきた。それからこっち、先よりも遥かに少ない仕事量で生命の継続が保障される、悪くはない生活だった。  それもここまでと決め、地下の世界へ戻ろうとしているのは、何故だろうか。あの暗く厳しい故郷へ帰りたいと、心で思った訳でも、頭が考えた訳でもない。  ただ、体は、全く自然に、そう望んでいるように、判断し、動いていた。この街へ上がってきた時とも、似た感覚だった。  何か、必然性があるのかも知れない。ないのかも知れないが、まあ、構わない。  自分が飽きを感じ始めているのではないかと、漠然と考える。世界は狭いな、と、頭の中で呟く。実感はない。  他に何か──。  死期だろうか。  足音を伴わない死の神を察知し、命、もしくは魂、それか本能のような物が、追いつかれる前に、発生した場所へ帰りたいと願う。  考えられない話ではなく、それを否と言う理由も、特になかった。  しかし未だ。  あの標的が生きていると、左の腕が、左の眼が、両の耳が、全身の神経が、認めていた。怪盗を、殺さなくてはならない。  契約の履行。妥協の余地はなく、それが自身。  空が見える街での、最後の仕事をこなして、生きる為に死ぬまで働く土地として、もう一度、地の底の街を選ぼう。  死を迎えるまでにまた気が変わっていないという保証は、何もないが。  殺しの犬は、歩き出した。
「電磁波爆弾。そうか、そんな物があったか」  ラボラトリの硬いベッドの上で、セーブルは感心したように呟いた。隣には、ウィドとスティーマがいる。 「また他人事みたいに言って。黙って寝てたお前と違って、周りは大変だったんだ」  両義足の機能が停止してしまっているウィドが車椅子を使っているため、スティーマの目は、ウィドの頭よりも高い位置にあった。 「二人、回収、リューゲル、たち」  言われるとセーブルは、心底忌々しげにする。 「よりにもよって、第二隊の連中に借りだな」  彼を担当している、年輩の技師──このラボの主が、二人分の紅茶を淹れながら、静かに笑った。 「いいじゃないですか。効果範囲内に、大きな病院もなかった訳だし」  電磁波爆弾とは、その名称からも察せられる通り、爆発のエネルギーを利用して強力な電磁波を発生させる爆弾である。回路を焼き切り、電子機器を妨害する。  その機能の多くを機械に依存しているアルカディアにおいては、重大な脅威となり得る兵器である。実際、“素敵な不審者”が使用したことによる被害は大きく、その範囲が決して広域ではないにせよ、復旧にはかなりの手間を要しそうだった。 「だからってこんなやり方、癪に障るじゃないか。それに俺はてっきり、セーブルが死にでもしたんじゃないかと思って」  異論ありそうにウィドが技師に言うと、横でスティーマも頷き、同意を示した。技師が、顎に手をやる。 「そうでしたか。確かに初めて見ると、驚くかもしれませんね」  セーブルの体内で、五臓六腑と脳、それに生命維持系統の装置を収めてある内部装甲は内殻と呼ばれ、外部からの振動や電磁波をほぼ完全に遮断する構造になっている。  そのため電磁波爆弾が近距離で炸裂しても、今回のように外側の駆動、感覚機関が停止するだけで済んだのだ。 「こっちだって驚いたぞ? 何せ急に、五感も手足も利かなくなるんだからな。普通のグレネードだった方が、いくらかマシだ」  笑いながら、セーブルは首だけを動かし、ウィドを見上げた。苛ついたように、ウィドが返す。 「だからどうしてそれで、呑気にしてられるかな……」  セーブルだけではない。ウィドの両脚、スティーマの端末、それぞれの装備。特警係第四隊だけを見ても、ダメージは深刻だった。  加えて、体のどこかしらを機械化している係のメンバーは、他にも何人かいる。 『モルガンの(機械化された)顎が開きっぱなしになった』と、第三隊の隊員が大騒ぎしていたのを、スティーマは思い出す。  可哀相に。喉が渇いてしまうだろう。 「幸いなことに、人死にも大怪我もないようだからな」  技師がウィドとスティーマに、ソーサーに乗せたティーカップを差し出して、二人はそれを受け取った。香りの良い湯気が立っている。 「無事な隊の奴らは?」 「検問、外側、巡回してる」  足跡の一つでも見つけられるかね。口の中で言ってから、セーブルは能天気な声を出した。 「まあ怪盗のことは、新手の天災とでも思っておいた方がいい。ウイド? お前もそう、深刻そうな面をするな。不景気顔が癖になるぞ」 「だから、何言ってるんだ。セーブルだろ? 一番やられてるのは」  言われるとセーブルは、何か考えるような間を作って、 「いやぁ。一等はやはり、ミュージアムじゃあないかと思うんだが」  ウィドを脱力させた。 「してないよ……そんな話」  そこはビル街の中に日陰として存在する、細く入り組んだ路地だった。この都市にあっても、誰もが気に止めない、人々の認識の隙間とでも言うべき空間は、そこかしこに残っていた。  路地の突き当たりの壁に背を支えられながら、“彼”はゆっくりと立ち上がる。息を整えようとする。  一メートル先に、男が立つ。高からず低からずの身長で、髪には白いものが混じる。  男の後ろに横たわる体は、“彼”の相棒だった。目立った外傷はないようだが、気を失っている。 『目標の人物を捕捉し、同行させよ。同意を得られない場合は、実力行使もやむを得ない』  それが今回の任務で、目の前の男が『目標の人物』だった。『連行せよ』ではなく『同行させよ』だという点には気にかかるものがあったが、そのような情報の出し惜しみは日常茶飯事であり、今更自分が考えることでもなかった。 “彼ら”の仕事は、与えられた任務をこなすことに他ならない。 “彼ら”は、忠実な狩人であった。 「答えろ」  男が口を開く。低く、抑揚はなく、声量も抑えられていたが、よく耳に伝わる声だった。 「私の体内に仕掛けられた発信機は未だに活動を続けているか、否か」  全く心当たりがなかった。何の話だ、と返す。声が掠れる。  黙って、男は“彼”を見据えていた。 「伝えろ」  男は、変わらない口調で言う。言葉には温度が存在せず、それが命令口調だということさえ、忘れさせる。 「これ以後接触を試みようとは、考えるな」  言葉の意味を飲み込む暇も与えられず、“彼”のみぞおちに、革靴の爪先が突き刺さった。  意識が、暗がりに落ちる。 “サクノツキ”盗難事件の二日後、特警係の朝。  デスクには十三人全員が着き、長であるハリエットが、気怠そうな顔で話していた。 「一昨日はお疲れ様。私物の電化義肢に被害が出てた場合は保証が利くみたいなので、該当者は早めに申請しておくこと」  いくつか返事が上がるが、どれも威勢がよくない。当然、ウィドも同じくだった。  昨日は事件の事後処理に加えて通常の巡回業務もあり、皆多忙だったためだ。  続いて、 「それと作戦行動中、大いに勝手をした二人がいた訳だけど。埋め合わせとして、来たる今年度忘年会の費用を、彼らが出してくれる運びとなりました」  ハリエットが、にやりと笑いながら告げる。おぉ、と地味な歓声、それにまばらな拍手が湧いた。 (後悔するなってのは、これのことか……)  威勢良く言い切ってしまった手前何も言い返せず、この罰を事前に聞かされていたウィドは肩を落とした。 「異議がある」 「……何よ」  セーブルが挙手をすると、ハリエットは面倒くさそうに聞いた。 「俺もウィドも、既にしばしの減俸処分を言い渡されている。ありもしない所から金を搾り取ろうというのは、姉御の手際としてあまりにも切れが悪いとは思わないか?」  自分に有益な意見なのに、どうしてこんなに擁護する気も起きないのだろうか。ウィドはつい感心してしまった。  詭弁を弄すな、金返せ阿呆などと野次を飛ばすメンバーを手で制して、ハリエットは斬り捨てた。 「却下ね。それとこれとじゃ、理由が違う」  机に片手を突き、真っ直ぐにセーブルの双眸――無機質なレンズを見据え、続ける。 「あたしが咎めているのは、あんた達が事前に何も言わずにアクションを起こしたってことだけよ。お上みたいに、『怪盗の追跡を試みたのが、そもそも軽率だった』なんて、考えちゃいない」  装甲サイボーグは、似合わない三つ揃いを着た体を椅子に深く座り直させ、両手の平を見せた。引き下がるポーズらしい。 「了解。粛正に従う」  小さく頷いてから、ハリエットが視線をウィドに移した。 「わかってるとは思うけど、あなたにも言ってるからね」  ウィドは二、三度まばたいた後、不服そうに、 「俺は反省してますから……。以後、気をつけます」  口をとがらせた。その様子を見、ハリエットは愉快げに歯を見せる。  その後彼女は、事件に関する二、三の事柄を告げた。 「反省会はこれまで。あと、業務連絡として……、手配犯リストに追加があるから、見ておくこと。解散ッ」  各々が行動を始め、ウィドもデスクの端末に電源を入れた。 「私も、聞いて、なかった」  隣からスティーマが抗議の声を掛けてきた。相変わらずの無表情なので、本気とも冗談とも識別ができず、参る。 「別にあんなのに一枚噛んだって、何も得なことないじゃないか。……人数が多いと、責任は分散なんかしないで、かえって倍に」  そこまで言って、ウィドは止まった。ディスプレイには、新しく重犯罪者として認定され、特警係の管区に逃げ込む可能性もあると判断された、一人の男のデータが表示されている。 「ウィド?」  スティーマがウィドの顔をうかがうが、彼はディスプレイに映った顔写真を注視している。 (この人確か、一昨日の夜の)  現場近くで見かけた、“奇妙な感覚”の男。髪型は違い、サングラスも掛けていなかったが、同じ人物だと確信できた。  手配犯の名前は、ゲオルク・ラスヴェルとあった。  ギィニの執務机の上に、一枚の書類が置かれた。 「社長、これを」  目の前には、厳しい顔をした秘書が立っていた。表向きの稼業では、アナクロな紙の書類など、滅多に用いない。  書類には、壮年の男の写真と、プロフィールが載っている。経歴の末尾には、強盗事件の容疑者という記述があった。その事件の存在を、ギィニは始めて知った。 「どちら?」 「この情報は今朝、警察のデータベース──ブラックリスト上に出現した物です。同時に、幾つかの実動部署へ向けて、逮捕要請が出されています」  怪盗“素敵な不審者”がサクノツキと呼ばれる高価な黒ダイヤを奪取したのが、一昨日の深夜のことである。 「殺人犯か。悪党だな」  表情のかけらも見つからない写真の顔を眺めながら、ギィニはとぼけたことを言った。 「画像以外の情報は全て、偽装かと。まだ調査段階ですが」  秘書が言い淀んだ。ギィニが眼の動きで促す。 「まだ調査中ではありますが現時点では、以前までこのアルカディアで、殺害請負人として活動していた人物であるという情報が有力です」 「うん……」  頷きかけてギィニは、ふと動きを止めた。殺害請負人? 「俗に言う所の、殺し屋です」  彼の反応を想定していたのだろう、秘書が補足を加える。無意識の内に懐の紙巻き煙草に手を伸ばしかけたギィニだったが、やめて聞き返した。 「殺し屋だって?」 「はい。どうやらプロフェッショナルの、それです」  そうか、プロの殺し屋なのか。 「そんなものが、この街にいたとはな。……冗談みたいな奴」 「あなたと同じですね? 社長」  否定はしない。怪盗も殺し屋も、存在自体が不自然で、アルカディアの在り方とは違和感があった。 「俺を撃ち落としたのが、この男なんだな?」  今現在、裏の本業に関わってギィニまで上ってくる報告として、他の人物情報は考え難かった。  淡々と、秘書は答える。 「恐らくは。使用された弾丸が、記録上のそれと同一のものです」 「まるで名刺だな、それは。『あんたを殺す』って裏書きまで入ってる」  全く律儀な男だと、ギィニは楽しくなってきた。  事件当日、ビル街を逃走中の“素敵な不審者”に向かって放たれた、一つの弾丸があった。  彼が変装していた警備官の装備である、背広の下のボディアーマーがそれを受け止めたが、着弾した衝撃までは殺しきれなかった。  跳躍しようと踏み切る瞬間に直撃をくらったギィニは、ビルの谷間を越えられずに、落下した。  転落死を免れるすべは幾つもあり、実際今も彼は健在だが、“素敵な不審者”の仕事に際して驚くべき事態だということには、変わりがなかった。 「ゲオルク・ラスヴェルの犯行だと思われる事件は、十年ほど前から発生しており、手口は事故や病死の擬装を主として、毒殺・射殺など、多岐に渡っています」  秘書は報告を続ける。 「そしてそれらは、六年前のある時期から、全く確認されなくなっていました」 「一週間前までは、か?」 「はい。一週間前までは」  両肘を机に突き、指を顔の前で組むギィニ。 「なぜ」 「ブランクの理由は不明です。警察当局に捕縛された、もしくは別の状況的変化等、原因となりそうな事柄は把握できていません」  しばらくの沈黙がある。ギィニは机の上の書類を見つめながら、呟く。 「なんにせよ、一度はお目にかからなくちゃならないな。この男には」  意識せず、唇の端が歪んだ。  少なからず愉快そうな様を見て、彼の秘書は眉をひそめる。 「社長が直々になさらずとも、対処は致します。まさか、交渉の余地があるなどとお考えなのでしょうか?」  プロ同士だからな、という言葉を飲み込んで、ギィニが笑いかける。 「俺は、部下を危ない目には会わせない主義の男だ」 「私としては、主義よりも義務で、社長の身を危険に晒したくはないと考えているのですが」  数秒間、二人は身じろぎもせずに視線を交差させた。 「……義務よりも、好意の方がいいな」 「そうですか」  政府の建物内にある休憩所で、シュウ・キサラギが喋っている。手にはコーヒーの紙カップ。 「ゲオルク・ラスヴェル。彼は政府内のある官僚に雇われた、掃除屋だったよ。組織内の粛清や、派閥争いの手っ取り早い解決を担っていたらしい。詳しい資料がそれだ」  それをハリエットは、窓際に寄りかかって聞いている。サイズの大きい茶封筒を持っていた。 「“素敵な不審者”については、知っているね? 君の所は不思議と、奴とは縁があるのだと聞いてる」 「ウィド君も執心みたいよ」  ハリエットが笑って言うと、シュウも苦笑した。 「係長がさ、手配犯のことは自分が調べるから、俺は考えなくていいってさ」  いつもの店“Le Voyou”で、ウィドが不満そうに頬杖をついている。頬がほのかに赤いのは、傍らのノンアルコールビール(1%未満)のおかげだ。 「確かロズウェルとかいったか……」 「セーブル、違う。ゲオルク・ラスヴェル。ウィド、何、気がかり?」 「…………」  説明しようとするが、上手にまとめられない。 「……見れば、二人にも分かるよ。多分」  スティーマとセーブルは、思わず目を見合せる。  瞼の重たいウィド・アーネクトは、それ以上多くを語らなかった。喋ってはいたが言語になっていなかった、とも言える。 「あの怪盗を街から排除するために警察が打ち出した、苦肉の策がある」 「秘密裏に?」 「そう。一連の偽怪盗事件だよ。“素敵な不審者”を騙って、本物をおびき寄せようとした」  ハリエットは、“素敵な不審者”本人のタレコミによって事前に潰された、宝石店襲撃計画のことを思い出した。主犯のホワイトフィールドは強盗未遂の手配犯だったが、共犯のメンバーにも何らかの、小さい犯歴があるということが、後から判っていた。  不自然だとは思ったが、そこを追求する暇も理由も、手段もなかった。 「犯罪者を使って……」  既に裏付けを取っているシュウは、頷いて肯定する。警察と犯罪者たちとの間に何かの取引があったことは確実である。そこに“取引”と呼べるほどの公平性があったとは考え難いが。 「その計画に、ラスヴェルも組み込まれていた」  秘密兵器とでも呼ぶべき、政府の暗部にいる掃除屋である。“素敵な不審者”の殺害などという目立つ任務を与えたくはなかった筈であり、そのことからも、現在の警察の切羽詰った状況が推察される。 「それがどうして、今手配されてるのかしら」  ここからが問題だ、とシュウが呟いた。今までの話も到底見過ごしていい事柄ではないのだが、この先の話は、警察の末端である特警係にも、直接的に関係してくる。 「サクノツキ強奪の一件では――この事件もそもそも、警察が仕組んでいたんだが――怪盗が小型の電磁波爆弾を使っただろう? ラスヴェルもあの現場にいたんだ。銃を携えて」  一旦、途切れる。 「電磁波爆弾によって、彼に注入されていた行動監視及び通信用のマイクロマシンが機能を停止した」  ハリエットが、事態を理解したのか顔を強張らせる。殺し屋の枷が外れ、野に放たれたのだ。 「そして事件の翌日のことだ。一組のハンターが『ラスヴェルを連れ戻せ』と、彼の雇い主だった官僚から直々の指示を受けて動いた。結果、捕捉はしたが返り討ちに合い、目標をロスト。警察はここでやっとラスヴェルの反抗の意思を確実なものと判断し、今に至る」 「ハンター二人を相手に……?」 「そう、彼は危険だ。ブラックリストには射殺も許可すると記してあったろう? ハンターの二人は銃を抜く間もなく意識を奪われたようだが、こちらが本気で止めようとかかった場合、何の保証もないと考えられる」  シュウは立ち上がって、紙コップを回収箱に放り入れた。 「ところでどうしてこんな調査依頼をよこしたのか知らないけれど、ウィドは関わってないだろうね?」  ハリエットが、口ごもりながら答える。 「ん? ああ、うん。関わってないというか、誰もあんまり関わらせたくないというか……」 「そうだな。生きているラスヴェルと接触すれば、上層部のいさかいに巻き込まれる可能性もある」   何やら脅されているような気もしたが、シュウの正直な危惧なのだと受け取ることにした。彼自身、ウィドを特警に置いておくのには、不安な点も少なからずあるのだろう。 「そろそろ私は、残業に戻るよ。ラスヴェルに関する動きは、可能な限り把握しておこう」 「うん。……危ない橋渡らせて、悪いね。何かで借りは返すわ」  三、四歩歩いて、シュウは振りかえった。 「ハリエット」  もう少しさぼっていようと椅子に座りかけていたハリエットは、腰を浮かせた姿勢のまま止まった。 「何?」 「君が正しいと思うように、あの子は使ってやってくれ。そうでないと、わざわざ君の所まで出向かせた意味がない」  その言葉は、彼が振り絞る、子のための勇気なのかもしれない。特警係の女係長はふと笑い、深く座り込む。 「まあ、見ときなさい。そういうのは得意なの」  信じるよと、小さく言い、シュウがまた苦笑いを浮かべた。  ラスヴェルは、見上げた。  灰色の建築の隙間に、ちぎれ雲が浮く、藍色の空がある。  彼が生まれた場所に、このような色はなかった。知識は持っていたが、何年か前に地上に上がってきた時、空とはこれかと、感動した覚えがある。  彼に仕事を斡旋していた情報屋が検挙され、安定した食いぶちを失いかけた頃に、政府がコンタクトを試みてきた。それからこっち、先よりも遥かに少ない仕事量で生命の継続が保障される、悪くはない生活だった。  それもここまでと決め、地下の世界へ戻ろうとしているのは、何故だろうか。あの暗く厳しい故郷へ帰りたいと、心で思った訳でも、頭が考えた訳でもない。  ただ、体は、全く自然に、そう望んでいるように、判断し、動いていた。この街へ上がってきた時とも、似た感覚だった。  何か、必然性があるのかも知れない。ないのかも知れないが、まあ、構わない。  自分が飽きを感じ始めているのではないかと、漠然と考える。世界は狭いな、と、頭の中で呟く。実感はない。  他に何か──。  死期だろうか。  足音を伴わない死の神を察知し、命、もしくは魂、それか本能のような物が、追いつかれる前に、発生した場所へ帰りたいと願う。  考えられない話ではなく、それを否と言う理由も、特になかった。  しかし未だ。  あの標的が生きていると、左の腕が、左の眼が、両の耳が、全身の神経が、認めていた。怪盗を、殺さなくてはならない。  契約の履行。妥協の余地はなく、それが自身。  空が見える街での、最後の仕事をこなして、生きる為に死ぬまで働く土地として、もう一度、地の底の街を選ぼう。  死を迎えるまでにまた気が変わっていないという保証は、何もないが。  殺しの犬は、歩き出した。

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