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 理想郷──アルカディアという名のこの都市で、海の惑星ノアにおける人々の歴史は刻まれている。
 小さくまとまった陸地での文明の発達は自然と、アルカディアの現状を作り上げた。すなわち、政府による高度な管理体制。
 それはいくつかの不安要素を抱えつつも、民衆に対して必要最低限の自由と可能な限りの幸福感を与えることに成功していた。


 そんな中。警察関係者の間で、ある噂がまことしやかに流れることとなる。

『この街では“怪盗”が出没する』

 時代錯誤だ、ナンセンスだと笑い飛ばす声は少なくなかったが、相次ぐ騒動によって消えていった。
 その古風な肩書きとは裏腹に、“彼”による被害は盗みに限らない。ある夜には全アルカディアの電力供給を強制的に停止させ、またついこの間には超高層ビルの数十フロアを外壁ごとすっぱりと四角く切りぬいた。
 全ての犯行について共通して言えることはただ一つ、どうやら“彼”は犯行を楽しんでいる──愉快犯であるらしい、ということである。
 先に上げた事例で説明すると、前者の際には満天の星空を観賞する容疑者の姿が多くの
警察職員に目撃され、後者の現場には『空に架かるの額よりの景観』なる書き置き──作品カードが残されていた。
“彼”は己の持てる多様で並外れた能力に加え、政府の機関をもしのぐ優れた技術力を以って、大迷惑ぶりを発揮する。そして恐ろしくキザな捨て台詞を残し、現場からかき消えるのだ。
 以上の事柄を除いて、“彼”について判明していることはない。素顔はおろか、本当の性別、年齢、共犯者、犯行を繰り返す目的──その有無さえ──に至るまで、何一つ。
 そして神出鬼没の大怪盗である“彼”は、体制側に向けて多く、こう名乗る。

 素敵な不審者。

 これは、警察機構の上層部が“彼”の存在を民間人へ隠蔽するのにも限界を感じ、逮捕を確実とするためにもこの度の緊急増員を行うに至った───そんな時勢の物語。


 午前九時ジャスト。政府の建造物の片隅、何の札もかけられていない扉をスティーマは開けた。今日は彼女たちの隊は休日だというのに、しっかりと制服を着用している。もっとも普段の『外回り』は、私服で行なう訳だが。
 特殊警戒活動係──アルカディアとその地下に存在する“立入禁止区域”の巡回を通常任務とする部署だ。
 詰所の中に入るとそれなりのスペースがあって、十三個のデスクが並ぶ。この係は三人単位、四隊で成っている。残りの一つは、係長の席だ。
「モルガン、おはよう」
 既に出勤して、何やら編み物をしてたアスタリウス・シャルトローネと挨拶を交わす。
「もがごー、ふひぃーは」
『おはよう、スティーマ』だ。彼はアゴ周りを戦闘用に変えられている珍しいサイボーグで、そのため子音の発音が少々(どころじゃない、という声もあるにはあるが、大抵の係官は慣れてしまった)不自由になっている。モルガンとは、そんな彼でも名乗れるようにと考えられた愛称だ。
 色黒の巨躯に、スキンヘッド。たくましい外見とは裏腹に、モルガンは温厚かつ繊細な性格で知られている。大方こちらに回されたきっかけは、アゴと歯の機械化だろう。
 先頃増員された三人の内の一人(ウィドも同じく)で、前はどうやら普通警察に所属していたらしい。
「セーター?」
 デスクの上の毛糸玉を見ながら、スティーマは問いかけた。モルガンは首を縦に振る。どうやら編み物が好きで係官の皆にセーターを編んでいるらしく、スティーマも前に一着もらったことがある。
(そういえば、着てない)
 ここの所、暖かい日が続いているせいだ。別に中心に大きく入っているイニシャルに抵抗がある訳じゃない。断じて。
「……ウィドに?」
 モルガンがもう一回、今度は少し口の端を上げて頷いた。二十以上も歳が離れているウィドに、彼は憧れを抱いているようなのだ。わからないでもない。
「がんばれ」
「もが」
 今朝は勘が良いらしいとぼんやり思いながら、自分のデスクにつくなりパソコンの電源を入れた。今日は『書類の日』だ。

 九時五分。歯切れ良く響くかすれ声の「おはよーう」と共に扉が開けられた。この部屋における責任者、彼女らの直属の上司、ハリエット・ヒース係長。
 ウェーブのかかった褐色の髪を肩まで伸ばし、後ろは結ってある。スティーマもそうなのだが、この手の職場としては珍しい、女性である。四十代、家庭持ち。
「ふぅ。夜はご苦労さんね」
 他の十二個を見渡せる位置にあるデスクにつきながら、昨晩の件についてスティーマをねぎらう。するとスティーマは言いにくそうに、
「あの、チーフ。ごめん、なさい」
「ん?何よ、あなたたちが残業してたからあたしが夜中に呼び出し食らったって話?」
 スティーマはこくりとうなずいた。ウィドたちの第四隊が帰還する頃はもう、『草木も眠る』時間帯だったのだ。
「そりゃまぁ確かに、話が来た時に断っとくって手もなかった訳じゃないけど……うん、全部セーブルが悪いのよ。そう考えて忘れとくと良いわ。あいつなら別に気に病むこともないでしょ」
 無責任にそう言って、ハリエットはけらけら笑った。スティーマとしては彼についてむしろ具体的になんとかして欲しいのだが、そこは抑えた。ウィドがしょっちゅう上申しているためだ。
 そこからハリエットの興味はモルガンの編んでいるセーターへと急速に移っていき、スティーマは再度コンピューターに集中することにした。
 元々たまっていた書類がまだ残っている上、昨夜の報告書、更には廃倉庫の破壊や漁船の無断接収に関する始末書も仕上げなくてはならないのだ。
 それでもまあ、ウィドとこなしていけば午前中には終わるだろうと楽観し、自室の掃除など予定していた所に係長のデスクで電話が鳴る。虫の知らせを感じた。
「はい特警係……あらおはよう……うん、来てるわよ……いる訳ないじゃない……う
ん、うん……大丈夫? ……ああ、そう。それじゃ言っておくわ。……はい、お大事に
ー。と、スティーマ!」
 そして、彼女の二十四年の半生から統計すると、その的中率は極めて高い。
「ウィド熱出して、寝込んでるんだと」
 お気の毒様、という笑顔で伝えられた。
(……仕事、しよう)


 ウィドとスティーマ、二人して大通りを歩いている。石畳には長い影。
「やっぱり来なかったな。セーブル」
 鼻をすすりながらウィドが言った。熱は下がったと午後から出てきたのだが、半日コンピューターに向かっていたせいか、また辛そうな表情だ。塩分で荒れてバサバサの長い黒髪も、しんどさの演出に一役買っている。
「仕方、ない、かな」
 部品交換に一日中かかるのかはわからないが、とりあえずスティーマはそう相槌を打っておいた。
「それより、ウィド、平気?」
「見ての通りだけど……ああ、問題ないよ」
 どこかくたびれた笑いを浮かべながら、ウィドは返す。午前中は一人で仕事をさせたこと、海に銃を沈めたことについての詫び代わりにと軽い食事に誘ったのは、彼なのだ。
 どうやらよっぽど申し訳ないと思っているか、それ以上に何やら自分が情けないらしい。
 職場から徒歩九分でたどり着ける、いつもの店の名前は“Le Voyou”。メニューの価格と守備範囲で──もちろん味も──定評がある。
「いらっしゃいませ」
 カウンターでコップを磨いていた店主が、にこやかな口髭顔で迎えてくれた。夕食時には早いせいなのか、客の姿はまだ少ない。
「おう、来たか」
 よく知った顔が、入り口から最も遠い角のテーブルについていた。大入りであっても見落とすことはないだろう。セーブルだ。執行時に装着している面鎧を外してあるため、幾分かは柔らかい印象の顔立ちである。
「お前なぁ。オフィスに顔くらい出せよ」
 あからさまな不満顔で、ウィドは向かいに腰を落ち着けた。スティーマは彼らの側面。
「具合悪そうだな。はかどったか?」
「他人事みたいに言……!」
 どなりかけ、咳き込む。
「セーブル。ウィド、風邪」見ての通り。
「あーあーあーあ。養生しろよ」
 手袋をはめた手でちぎった堅焼きパンを一切れ、セーブルは口に放り込んだ。
「で、一日かけたら脚くらい直ったろうな?」
「まあな。拳銃級のレーザーガンで抜かれたと文句垂れたら技術屋連中、『装甲を鏡面処理してやる』だとよ」
 スティーマの頭の中で一瞬、ミラーボール男がきらめいた。これはちょっとシュールだ。
「実際、朝から今まで修理してた訳でもないんだがね。捜査の連中の所に行ってたんでな」
「遊び?」
 当たり前の如くたずねられて、
「近い。俺たちの仕事には関係ないからな」
 笑った声でセーブルは答えた。


 襲撃団の首謀者・ホワイトフィールド本人は、倉庫にあった空コンテナの一つの中で縛り上げられていたこと。
 襲撃団の装備は、相当整えられていたこと。
 襲撃団はそれらを、逃走犯の身であるホワイトフィールドに接触してきた売人から入手したらしいこと。
“素敵な不審者”の名を使うという案も、その人物から出たということ。
 そして当然、その人物の消息は不明だということ。

 たびたび脇道に逸れながら一時間続いた土産話の内容は、こんなものだった。


「本当にあいつは、襲撃団の方には関わりがなかったのか?」
 ウィドが“素敵な不審者”のことを思い出して、誰にともなく訊いた。この少年は、たびたび遭遇するたびに絡んでくるあの自称・怪盗が気に食わなくて仕方ないのだ。
「どうやらな。密告の話は嘘じゃないだろう」
“素敵な不審者”がどんな情報網を持ってるのかは知らないが、どうせなら売人についても教えてくれれば良かったのに。とセーブルは続けた。
「“素敵な不審者”、信用、できない」
 ハーブが添えられたソーセージを肴にウィスキーを飲んでいるスティーマが、いさめるように言った。かなり酒のペースが早いが、顔色に変化は見られない。
「あー……、そうだよ。世界で一等の大悪党に訊いてちゃあ世話ねえな」
「昨日の通報だって、名乗ってたら絶対にいたずら電話扱いじゃないか」
 苦笑しているウィドは未だに、始めに届けられた冷めたラザニアと向き合っていた。
「ま、昨夜のに関してはせいぜい感謝しておくべきだろう。次に会ったら丼物をおごってやってもいいくらいだ」
 軽口を叩くセーブル。
「脚撃たれておいてよく言うよ。俺は死ぬかと思ったんだぞ?銃は突きつけられるし、海には落とされるし」
「相手が真面目にやってないとわかるからなお癪だ、と」
「そういうこと」
 卓上で一つだけ異彩を放っている焼鮭を箸でほぐして口に運び、ウィドは何やら首をかしげた。
「骨董品みたいな潜水艦を間近に見れたってのは貴重な体験だと思うがね……少し行ってくる」
 不意にセーブルが席を立った。
「どこに」
「目が合ったんだ」
 そう説明して彼は、カウンター席に座っている一人の姿を親指で示した。淡い藤色のワンピースドレスを着、愁いの表情でワイングラスを見つめている淑女だ。
「やめろよ、みっともない」
 眉をしかめるウィド。
「ウイド、身も蓋もないこと言わないでおいてくれよ。あの娘は俺がここに座る前から待ちぼうけ食っているんだぞ? 見てただけでも柱時計を六回、懐中時計は十七回も確かめてる」
 数えるなよ。ウィドは呆れ顔になる。
「店のオブジェに声かけられたって、なんの慰めにもならないって」
「おいそりゃあお前、メルヒェンっていうじゃあないか」
「ナンパじゃなければな」
 小声で言い合う二人を、スティーマが止めた。
「ね、あれ」
「?」
 件の女性に、若い男性が話しかけている所だった。灰白のスーツを着ているが、会社員
という印象は受けない。女性の方も、まんざらではないという雰囲気だ。
「運が良かったな、代わりに行ってくれる人がいて」
「はんっ」
 意地悪げなウィドにからかわれて、セーブルは椅子に座りなおした。そうなるともうカウンターへの興味を失ったようで、『深追いのリスク』に関する講釈を垂れようとした。
 その矢先。

 店の扉を勢い良く開け放った紳士が一人。息も切れ切れ、汗だくになって、手は膝頭に置かれている。店中の視線が入り口に集まり、そして、
「……ハインリヒ?」
 カウンター席から、彼の名前を呼ぶ声がした。紳士が顔を上げると、そこには件の女性。
「メアリジェーン……」
 淑女が、弾かれたように椅子を蹴った。
「ハインリッヒ!」
 紳士は一歩、前に出た。
「メアリージェーン!」
 淑女の目の端に、涙の粒が生まれた。
「ハインリッヒ!!」
 紳士が逞しい腕を、大きく広げた。
「メアリージェーン!!」
 互いの名前を呼び合い、抱き合う二人。まず、店主がにこやかなまま、ゆっくりと静かに、手を打ち鳴らし始めた。拍手の渦は幸せな二人を温かく取り巻いて、自然と店中に広がった。
 大四隊の三人は、というと。
 スティーマも『そういう物なのか』と拍手に加わっていたが、ウィドは展開を飲み込めないまま呆然としていた。狐につままれた顔でいるカウンター席の青年を見て、セーブルだけが笑いを堪えている。
 やがて拍手は消え、想い人たちに店主がテーブルを勧める頃、店中には何事もなかったかのようなざわつきが戻っていた。
「お前の言う通りだな。俺は運が良かった」
 セーブルが再び動き出す。今度は静止する暇もなく、ストローが添えられたマグカップを手に、行ってしまった。
「楽しそう。セーブル」
「楽しければ良いって物じゃない……」
 ウィドは口を尖らせた。

 先程の青年の斜め後ろに立つ。気付いたのか彼は、振り返ってセーブルを見上げた。
「よお、色男。隣良いかい?」
 心からの親しみを込めて挨拶をすると、相手は酷く驚いているらしい。それは全く以って珍しいことではないのだが、若者の驚き方はまるで、思いがけない友人に会ったような。
 ──そう、一瞬、とても嬉しげな目と口をしていた。
「初めまして、男前さん。どうぞ」
 何かと思いながら、セーブルは青年の隣の丸椅子に腰掛けた。軋む。
 年は二十かそこら辺りか。改めて青年を見ると、面長で鼻筋が通っていて、なかなか凛々しい顔付きをしている。
(こんな雰囲気の猟犬、いやしなかったかね)
 カール気味の黒い短髪が、そう感じさせるのだろうか。
「……警察の方かな?」
 若者は唐突に、そう振った。人好きしそうな活き活きとした双眸がセーブルを見据えていた。

「追われる心当たりでも?」
 内心驚きながら、冗談めかした口調で彼は応じる。どこぞで仕事を目撃されていたんだったら訓告モノだなぁ、と特に困った風でもなく考えていた。
「窃盗未遂。相手は先ほどの美女だ」
 キザな言い回しをする奴。
「残念ながら、捕まえてはやれない。俺はしがない書類書きだよ」
「あれ、ハズレかぁ。失敬」
 事務処理はもっぱらあいつらの仕事だが……。と苦労人の二人を振り返ると、ウィドが『先に帰るぞ』とでも言いたげにこちらを見ていて、その後ろでスティーマが、彼のスカッシュに自分のショットグラスの中身を混入している所だった。
(何やってんだか)
 小さく溜め息をついて、コーヒーをストローで飲み干した。年少者の面倒も見なくてはならないのだ。ったく。
「済まないな、連れが急ぐみたいだ」
 カップをカウンターに置く。青年が微笑んで頷いた。
「もっとも、野郎相手じゃあ不足なんだろうがね」
「そんなことないさ。また機会があったら同席したいな」
 青年はあくまでもにこやかに言って、ロックグラスを額の高さに掲げる。
「事務屋さんの良い夢に」
 同じ仕種の真似でセーブルは、
「負け犬たちの独りの夜に」
 一本。そういう苦笑いで青年は、グラスを傾けた。

「なあセーブル?」
 既に顔が真っ赤になっているウィドが、戻ってきた全身サイボーグを迎えた。
「水飲め、水」
「今の人、どっかで会ったかなぁ」
 年長者のアドバイスは聞こえていないようだ。
「知るか。……おい」
 テーブルに突っ伏して、もう眠ってしまう。こういうタチなのだと、隊の二人も最近知った。
「ステイマ、こいつにアルコール入れるなって。百薬の長って言う気もねえだろう?」
「一人、酔っても、楽しくない」
 セーブルの動きが一瞬止まった。目を丸くして驚いた、という所だろうか。
「……ははっ。そりゃひょっとしてすねてるのか?」
「う」
 予想外の発言が思いのほか愉快にで、彼は笑いながらスティーマの後ろ頭を大きな拳で小突いた。


 紙カップのコーヒーをすする。美味くはない。いかにも自販機という味だ。
 役所の休憩所で贅沢を言っても仕方がないと納得するよう、シュウ・キサラギは心得けていた。
 合成皮革張りの椅子から見えるのは、背の高い観葉植物と水槽を泳ぐ熱帯魚。清潔に磨かれたリノリウムの床が、白く光っている。
 まだ未処理の仕事が残っているというのに、瞼と肩が重い。
 カップに四分の一程の残りのコーヒーを流し込もうとした時、視界の外から声をかけられた。
「ご苦労さんね。こんな時間まで」
 久し振りに見る顔だった。歳は変わらないのだが何の加減か、自分はずっと先に出世してしまった。
「やあ。君も残業か、ハリエット」
「普警の少し偉い人に、色々と物申しとかなきゃいけないことがあるのよ。『走狗の縄張り争い、これ如何に』ってね。手柄が欲しいなら、御自分で常駐していてくれればいいのに」
 聞かなかったことにする。きっとまた特警係が『よろず屋』的な仕事をしたのだろう。
 友人の手にあるカップからは、温かいココアの香りが漂っていた。コーヒーよりかは評判の良い品だ。
「娘さんは元気? エリちゃんて言ったっけ」
 語りかけながらハリエットが壁に背を預けた。隣にある窓の外には、闇ばかりが見える。
「元気ではあるがね、どうにも機嫌がよくない。男連中が家で食事をしないから、だそうだ」
「それ三割方、あたしのせいなのかしらね」
 真顔で応じる。
「多分な」
「フォローしなさいよ」
 半ば本気の不平が妙におかしく、くつくつとシュウが笑った。
 ふて腐れたような顔でハリエットは窓に目をやったが、外の風景はやはり見えない。小さく、肩を震わせる男が見えた。
 しばらく、二人とも黙っていた。ふと思い出したのか、
「悪いわね、ウィド君借りちゃって」
「構わないさ。若い内は色々やっておいた方が良い。それより、隊長なんて務まっているのか?」
 ノープロブレム。とでも言いたげに微笑んで腕を組むハリエット。
「大丈夫、あたしの見立てた通り。ちゃんとこなせてるわよ。まだ少し肩に力が入ってるかな」
「あまり甘やかさないでくれよ」
 冗談か否か、判断しにくい口調でシュウが頼む。
「思い上がってる暇なんてないみたいよ、本人」
 だろうな。シュウは口の中で呟いて、家に帰っては疲れたと言ってすぐに眠ってしまうウィドの顔を思い出した。任されると一所懸命になるのは、変えがたい性分なのだろう。
「そうそう、あの子の体術ってどこ仕込みなの? 訓練にも一発で通ったみたいだし」
「ん?ああ……」
 さて、どう言っておこうか。
 壁掛け時計の長針が、カチリと鳴った。


 体全体、上下に心地よく揺れている。ここはどこか。辺りはもう暗いらしい。
「ぅむ……うぇ?」
 揺れに合わせて、何か紐のような物が頬に当たっていた。
「おう、起きたか?ウィド」
「あ、ラグナ」
 そうか。ラグナが俺を背負って歩いてるんだ。この黒いのは三つ編みで。
 ウィドの状況判断は、やっとそこまで働いた。あと一歩。
「お前ね、自分でもわかってると思うけど、アルコール飲むなよなー」
 ああそうか。店で飯食べてて……あれ? 酒なんていつ飲んだっけ。
 今一つ釈然としないけど、どうせ記憶が飛んでいるんだろう。我ながら懲りないもんだ。
「で、どうしてラグナが?」
「ちょうど帰ろうとしてたら、本部に連絡があってさ。セーブルのおっさんから」
 ウィドの同居人であり兄弟代わりでもあるアンドロイド、ラグナ・ウォレストは政府直属の捜査官、通称“ハンター”の一員だ。ハンターも特警係も民間に公表されていない警察の部署という点では同じだが、誤解を恐れずに言うと、公務員としての『格』が違う。
 どうやら目立つ風貌のせいもあってか、セーブルの顔はウィドが思う以上に広いらしい。
「二人は?」
 ふと財布の重さが気になったが、だるさのおかげで確かめる気力も湧かない。
「赤毛の小さい子はおっさんが寮まで送っていくって。あのコンビはちょっと奇妙だな」
 ラグナが思い出し笑いを浮かべて、その凸凹具合を見慣れている筈のウィドも、少し釣られた。

「べくしっ!!」
「ひゃ」
 隣を歩くセーブルのくしゃみに驚いて、スティーマの体が一寸ばかり、びくと跳ねた。
「……うつされたかね」
「ええと。お大事、に」
「どうもな」

「まだ距離はあるから、寝ててもいいけど?」
 熱からかうつらうつらし始めたウィドへ、肩越しの声を掛けるラグナ。
「ん、平気だから……」
 言葉と行動が伴っていない。語尾は半分消えていた。
 ラグナは一人、困った風な笑いを浮かべた。
(ふぅ。エリに何言われるやら)
 休日だというのに帰りが遅くなったこと、風邪なのに無理をしていること、超極度の酒酔い体質なのに酒を飲んだこと。問い詰められても満足には応えられないであろうウィドに代わって、キサラギ家の娘にどう弁明してやればいいか。
 苦笑しながらふと空を仰ぐと、昨夜とはうって変わって晴れ渡っていた。星が幾つか、瞬いている。明日もきっとこうなのだろう。
 どこかよそで遊び疲れた弟を連れて帰る。その心境は、こんなだろうか。


 照明の切られた室内では、微かに換気扇の音がしている。
 壁一面に張られたガラス越しには、ビル街が見下ろせる。この時間帯になっても、光が見える窓はいくつもあった。
 青年はマホガニーの重々しい執務机の上に腰掛けて、煙草をくゆらしている。時間は、限りなく遅く進む。
 巨大複合企業ゴロワーズ、本社ビル。その最上フロアにある社長室で一服しているのは、先刻“Le Voyou”にてセーブルの相手をしていた青年。
 不意にノックが聞こえて、彼は煙草の火を灰皿に押しつけた。
 入ってきたのは、スーツを着こなしたブロンドの美しい女性だった。
「社長、一つお話が」
 電灯が部屋全体を照らした。女性は、常に振りまいている業務用の笑顔ではなく、怒ったような固い表情をしている。
「ああ、君も残業か。見てごらん。街中、君の仲間ばかりだ」
「社長」
 語調が厳しくなった。心中の苛立ちが察せられる。
「その肩書きも嫌いじゃないけど、気さくにギィニって呼んでくれても、嬉しいかもしれない」
 青年はそれを察知したのか、話題を逸らそうとささやかな抵抗を試みた。ギィニとは彼の愛称だ。
「…………」
 視線の交錯と、沈黙。
「……何」
 状況を進展させるための、漠然とした問い。ばつの悪い表情。
「副業の、それも遊びに潜水艦まで運用するのは、いかがな物かと」
 やっぱりそれか。溜め息を吐きながら、“素敵な不審者”その人は視線を街の灯りへ戻した。
(本業の、それも必須事項なつもりなんだけどな)
「技研会の連中が実地試験をしたいと言ってたからさ。乗り心地は、見た目より遥かによかったな。贅沢言うなら、窓さえあれば……」
「ギィ・ノワール社長」
 悪化した。こうなると彼女は強情だから、説得に回らなくてはならない。
「大丈夫、別にいつか捕まるつもりで派手にやってる訳じゃない。安心してくれたまえ」
(当たり前でしょう……)という意味の、いつになく冷たい視線を横顔に受けながらギィニは返答を待った。
「そうなのでしたら、私から言うことは何も御座いません。歯は磨いてからお休みになられますよう」
 分厚い絨毯をゆっくりと重い木が撫でる音。扉が閉じ切って、ギィニはまた暗がりの中に戻された。
「別件逮捕なんてなったら、つまらないからな」
 独りごちながらふと、寂しい感慨に捕らわれた。
(煙草の香りを知ってる奴も、そういないだろうけど……)
 ケースからもう一本、煙草を抜く。とうの昔から生産されていない、燻し銀のオイルライターで火を点ける。
 様になった手付きで一連の動作を済ませ、紫煙をのぼらせる紙巻を口に咥えた。

 アルカディアでは現在、かつて人の営みの中に存在していた多くの物が禁制品として扱われている。煙草飲みは『肩身が狭い』などというレベルではなく、存在しない筈の人種なのだ。
 そして、彼のような“怪盗”も。
(酒の規制が軽いのは天佑だよなぁ)
 それらに対する扱いさえも明日にはどうなっているかわからないのが、この都市なのだが。
 そんな仕組みは、政府は、体制は気に入らない。面白く、ない。
 ギィニが愉快犯であろうとする動機である。ある種の使命感とも取れるが、彼に言わせれば子供じみた一言でケリが付く。

『もっと楽しくしようじゃないか!』


(それにしても、あの連中……)
 縁があるのか最近頻繁に接触する、三人組の警察職員に思いを走らせた。
 アルカディアの警察機構は有能な分真面目で、からかっても今一つ面白みに欠けると思っていたのだが、あの一隊は格別なのだ。小回りは利くし、何より必死でこちらの演目に乗って、その上で捕まえにくる。
 他じゃあちょっと見つからない、格好の遊び相手だ。
 先程怒らせてしまった秘書に頼んで、所属を調べてもらおうか。いや、とりあえず今は賽に全てを託しながら、次の遭遇を心待ちにしよう。

 自分以外のトリックスターの匂いも感じる。不確定要素ばかりの新しい玩具だ、この街は。まだまだ楽しめるだろう。


 状況をいかにかき回して愉悦を得るか。
 彼が生きる限りの永遠の命題について、思案する。
 さて、今度は何をしよう!!

 また一つ、ビル街から灯が消えた。