短編・箱の灰猫


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「駄目かな、これは」
 岸野涼子は、思わず呟いてしまう。半時間近くその場で迷っていてもそんなことしか口に出せないのが情けなくて、ため息もついた。
 仕事帰りの道すがら、小さな公園の入り口近くに置かれたダンボール箱から、何やらがさごそと聞こえていることに気付いてしまったのが、どうにも悪かった。中には猫。両の手のひらに乗せられそうな大きさの、灰色の猫がいた。
(捨て猫だよね、やっぱり)
 タオルと昨日の新聞紙にくるまれて丸まっているその猫は、眠っているのか鳴きもしないけれど、触ってみると意外なほどに温かい。
 猫は好きだし、これも何かの巡りあわせだと連れて帰りたいのが本心だが、気は進まなかった。
 第一、連れ帰ってどうするというのか。自分は働いていてろくな世話はできないのだし、それを主夫である旦那に任せるのも、無責任な気がして嫌だった。そういえば彼は猫好きなのだろうか、嫌いなのだろうか。
 他にもためらう理由はあった。見た所、この子猫はまぶたが腫れていて、目やにの量もやけに多い気がする。こういう症状が出る猫の病気が、確かあった。
 もしそうだった場合、診察を受けさせるのも一苦労だ。正直、獣医に行くのは金がかかる。
(この子を置いていった人も、同じことを考えてたんだろうな。多分)
 想像して、またため息をついた。猫には悪いのだが、自分もとても責任は持てそうにない。
 子供ではないのだから、思いつきで行動してばかりもいられないのだ。それに今時捨て猫を拾うなんて、学生だって滅多にしないだろう。
 そんな風に諦めをつけながら、彼女は立ちあがった。夕暮れ時は過ぎて、辺りは暗くなり始めていた。
「ちゃんと愛嬌振りまいて、誰かに拾ってもらいなね」
 伝わっているのか、言う通りにできるのかは別としてそう言い残し、歩き出そうとした時だった。
 猫が、にいと一声、かぼそく鳴いた。

『案ずるより産むが易し』や、『自分の意志も貫かないで何が大人か』といった理屈で心を決めてダンボール箱をかかえ、岸野は帰宅した。身も蓋もなく言えば、内なる誘惑に負けた形になる。
 電車に乗っている間、好奇の目で見られているような気もしたが、さしたる問題ではなかった。

 タオルの中で手足を動かす子猫を見るなり、いつも通りのにこやかな顔で、旦那が言った。
「何、猫? いいね。鍋?」
 そんなくだらない冗談で、迷っていたことを馬鹿らしく思えたのは、救いだった。

 すっぱりと決断したのが良かったのか、その後は大きな問題もなくことが運び(少なくとも、それなりの支出が岸野家の家計を壊滅的に揺るがすこともなく)、件の灰猫は岸野宅で暮らしている。
 弱りがちだった彼はむしろ逞しく育ち、三年ほどを経た今では体重五キログラム強、ややオーバーウェイト気味にまでなっている。これはもしや、彼を食わんとする旦那の陰謀ではなかろうか、と岸野は案じているが、果たしてどうだろう。
 何はともあれ晴れた休日、ベランダの陽だまりで眠る丸い猫はやたらと幸せそうで、それは間違いなく結構なことなのであった。