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GYOKUJI~旗揚げの時~攻略Wiki    

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Last up date : 2010-01-22 16:48:46 (Fri)


背景ストーリー


第一話 天下の大勢


晋の太熙(たいき)元年、武帝(ぶてい)の跡を継いだ恵帝(けいてい)は暗愚だったために司馬氏一族による「八王の乱」が起こり、その混乱は十六年続いた。ここから司馬氏による晋王朝(しんおうちょう)は弱体化し、永嘉(えいか)四年に匈奴(きょうど)人である劉聡(りゅうそう)によって滅ぼされた。劉聡(りゅうそう)は晋を滅ぼした後に洛陽(らくよう)に都を定め、その国号を漢とした。劉聡(りゅうそう)が死んだ後、旧臣である靳准(きんじゅん)が謀反を起こし、劉氏一族を殺して自らが皇帝になろうとしたが、やがて劉曜(りゅうよう)に滅ぼされてしまった。劉曜(りゅうよう)は靳准(きんじゅん)の乱を平定した後に都を長安に移し、天下に大赦令(たいしゃれい)を発した。
そして、河北の羯族(けつぞく)に石勒(せきろく)という者があり、劉曜(りゅうよう)が靳准(きんじゅん)を討伐する混乱に乗じて、自らも王と称し、襄国(じょうこう)に都を定めて、国号を趙(ちょう)とした。石勒(せきろく)は以前に漢族の奴隷とされたことがあり、それを恨んだ石勒(せきろく)は漢族に対する復讐心に燃えていた。羯軍(けつぐん)は行軍中、兵糧をほとんど持たず、漢人を捕まえては殺して食糧にしていた。戦乱は十年続き、長安は陥落し、劉氏の趙(ちょう)は滅亡した。この時、大地は一面焼け野原となり、漢人の十人のうち七、八人は殺されるという有り様で、南方に避難する人々の数ははかり知れなかった。
また二十年が経ち、石勒(せきろく)の旧将である冉閩(ぜんびん)が石勒(せきろく)とその孫の石鑑(せきかん)を殺し、自らが皇帝となり、国号を大魏(たいぎ)と称した。冉閩(ぜんびん)は漢族で、十二歳の時に父親ともに石勒(せきろく)に捕虜にされた。父親が死ぬと、石勒(せきろく)は冉閩(ぜんびん)のたぐいまれなる智謀と武勇を評価して養子にした。かつて無数の漢族が羯族(けつぞく)に殺されたので、その報復に胡人(こじん)を虐殺する命令を出し、胡人(こじん)であれば老若男女を問わず殺され、三日のうちにその死者は二十万人に及んだ。危険を感じた冀州(きしゅう)、司州(しれい)などの各異民族の百万人は北に向かって逃げたが、あまりに大勢の人々が殺到したので、各地の路上では避難民による殺し合いが起こり、さらに飢餓や疫病の発生で多くの人々が命を落とした。冉氏による魏王朝は人口が激減し、あらゆる産業は衰退してしまった。さらに三年後、国中で飢饉が生じ、冉閔(ぜんびん)は食糧を得るために一万の兵力で北上した。燕国(えんこく)の慕容俊(ぼよう しゅん)はこれを知り、慕容 恪(ぼよう かく)に命じて騎兵十四万で迎え撃ち、冉閔(ぜんびん)を常山(じょうざん)で包囲した。燕(えん)の騎兵は連戦連破だったので、慕容 恪(ぼよう かく)は重装備の騎馬の三人一組を縄でつないだ「拐子馬」または「鉄浮図」と呼ばれる重騎兵を用いたところ、歩兵は手も足も出ず、破竹の進軍を続けた。戦死者は数知れず、冉閔(ぜんびん)は奮闘して三百人余りを殺したが、ついには捕虜になり、慕容俊によって遏陘山で処刑された。
冉氏による魏王朝は滅亡したが、旧臣たちは誰一人として降伏を潔しとせず、南や西に逃れて勢力を築き、鮮卑族(せんぴぞく)の慕容氏に対抗しようとした。

第二話 旗揚げの時


「将軍、この土地は肥沃で屯田に用いることができます。
三里西には山岳地帯で木が生い茂り、伐採して木材にすることができ、その麓(ふもと)では石材を採掘することができます。
三里北の石はみな黒い鉄鉱石で、その鉄から武器や農耕具を鋳造することができるので、なにも心配がありません。ここは天から与えられた安住の地です。
将軍はすみやかに伝令を発し、ここに軍営を設置し、とりでを築き、兵士を帰農させて、樹木の伐採や良鉄の鋳造、石材の採掘により建物や城壁の建築にあたらせて、長期的な計画を図るべきです」
「それはよい。永嘉の乱(えいかのらん)の後、北には慕容氏が燕(えん)を建て、南には晋の残存勢力がまだ残っている。この広い天地に自分の身の置き所はないものと思っていたが、今、このような地相に恵まれた宝物のような土地を得ることができるとは思いもしなかった。
われわれはまずこの地で休養し、ここで再起を図るとしよう。幸い、異民族どもはわれわれの実力を知っている。冉魏(ぜんぎ)の亡き陛下の恨みを晴らすときは今である!
諸将に伝える。お主は百人を率いて西の山に赴き山林を伐採せよ。お主は百人を率いて西の山に赴き石を採掘せよ。お主は百人を率いて屯田し狩猟を行え。木で建物を建て、石で城壁を築くのだ。その他のものは私に従って北に赴き鉄鉱石の採掘だ」
「承知いたしました!」みなはそう言うと、すぐさま鳥や獣を追いやり、しばらく樹木の伐採や石材の採掘、食糧の運搬に黙々と励んだ。
三日の後、木材は一日に三百、石材は一日に三百、開墾した五百ムーの田では三千人を養える食糧、さらに良質の鉄一日一百を産出できるようになった。将軍は木材二百、石材一百で倉庫、食糧庫をそれぞれひとつ作り、木材、石材、鉄鉱石、食糧を保管できるようにした。さらに余った木材と石材で民家も建築させて、四方に触れを出した。
「帰る家のない者は、しばらくここで難を避けるがよい。食べ物と住居を提供するが金は一銭も取らない。もし長く住みたいのであれば、木材の伐採、石材の採掘、屯田の開拓、鉄鉱石の採掘を手伝え」
一ヶ月も経たず、三千人が集まり、みなそのままの居住を望み、将軍とともに進退を共にすることを誓った。こうして、人手が増えたために、木材、石材、食糧、鉄鉱石の生産量は一気に増加し、倉庫や食糧庫は満杯になり、戦乱の世において桃源郷のような光景を呈するようになった。
「将軍、一月余りが経ち、すでに山林は七度、農場は九度、鉱山は三度、石場五度の開拓を行いました。民家も八十五軒になり、人口は三千人余り。毎日百人の者がやって来て将軍と生死を共にすることを誓っております。
民力が充実したこの機会に、石場を拡張も五里四方に拡張し、高さ五丈、幅三尺の城壁を築き、幅三丈、深さ一丈の外堀を掘り、その底には無数の鉄や木を鋭く削って作った串を配し、盗賊や敵の侵入に備えましょう。
さらに鍛冶場を設けて、優秀な鍛冶師を招き、刀、剣、矛などの兵器を作ら、練兵場では教練に命じて流民たちに様々な戦闘技法を教えるのがよろしかろうと存じます」
「うむ。軍師の言葉に従い、すみやかに実行しよう」
まず、朴刀を将兵百人に持たせた。朴刀手の持つ朴刀は重く、振り回すには不便だが殺傷力はきわめて高い。刀手は防具がないと容易に負傷するので、将軍は命じて、厚い牛革の鎧を作って胸や腹を覆わせ、胸の前に「護心鏡」という鉄の鏡ひとつを付けさせ、流れ矢に当たったり刀を受けたりしても怪我をしにくくさせた。
防具も武器も重ければ行動力が鈍るので、朴刀をやめて、その代わりに剣を持たせることにした。毎日、様々な剣の技を練習させ、朴刀を剣に替えても、その攻撃力が朴刀に劣らないようにさせ、これを「濶剣士」と呼ばせた。
将軍は城郭を巡らせ、盗賊に備えた。胡人(こじん)たちは騎射を得意とし、刀剣ではこれに近づくことができないので、歩兵は対抗することができない。そこで軍師が進言した。
「胡人(こじん)たちの弓は強く、馬は速く、刀は長いので、遠くから攻めれば弓の射程距離で負け、近くで攻めてもわが軍の刀剣ではとても及びません。早急に対策をお考えください」
将軍は「城の四隅に塔楼を多く建て、そこから弓を射て防げばよい。」と答えた。
軍師は「それは国を守るための良策でございます」と言い、続けて「もし野戦になれば、いかが対処いたしますか?」と問うた。
将軍は「将兵たちに胡人(こじん)のように騎射を習わせ、これに対抗すればよい」と答えると、
「いいえ。胡人(こじん)は三歳で羊に乗り、五歳で馬に乗り、七歳で兎を射ることを覚えますので、一朝一夕でこれを真似ることなどできません。もしわが軍にこれの真似をさせても、胡人(こじん)にはるかに及ばず、騎射で対抗することなど不可能です」と軍師が反論した。
将軍が「軍師にはすでに策があるようだな。率直に言ってくれ」と言うと、
軍師は「遠い敵に対抗するには、職人に命じて弩弓を作らせます。弩は胡人(こじん)の弓よりも百歩も遠く飛び、敵の装甲を貫くことができますので、これを用いれば遠方にいる敵に勝つことができます。近い敵には矛を用いて対抗します。柄には木材を使い、長さ二丈、太さ一寸で、その尖端に鋭利に尖らせた鉄器を備えます。敵の騎兵に遭遇した場合、これを林のように並べて防げば、敵騎も容易に近づけませぬ」と答えた。
将軍は「それはよい考えだ。まず学院を建築して制弩の法を研究させ、工匠に長矛を作らせよう。私自らが指揮を取る」と言い、長矛手百人を配備した。
矛の長さが二丈もあるため、その扱いはきわめて困難であったが、戦場においては、これを縦横に使いこなせなくてはならない。将軍は矛手たちに矛での戦い方を教え、横五人、縱五人で列を組み、胡人(こじん)の騎射にその一列を破られても、その次の列の矛手がこれを刺すようにさせた。
さらに一ヶ月余りが経ち、城壁は二十里に及び、塔楼は八つになったので、将軍はこの城を「緑洲城」と名づけた。城中には一万人余りの難民を収容し、生産や鋳造に従事する者以外の精強な者には城を守る兵士にした。その数は二千人になり、うち矛手が千人、刀手と剣士が各五百人であった。弩(おおゆみ)は完成したが弩矢の飛距離が百歩だったので、将軍は不満に思い、さらなる研鑚を命じた。
「将軍、今や鉄も余裕が出てきましたので、それで鉄の鎧を作り、鎖帷子(くさりかたびら)を作って、布や皮の替わりにしましょう」
「将軍、鉄は百回精錬すれば、鋼鉄になると聞き及んでいます。鋼鉄は鉄を泥のようにうがち、鎧を神のように突き破ることができます。職人に命じてこれを作らせましょう。某が自らこれを担当します」(文官がその研究の中心となる)」
さらに一ヶ月余が経ち、弩が完成した。足で弦を引くので矢は二百歩も飛び、百歩の距離なら重装甲も打ち抜けるようになった。将軍は喜び、弩手五百人を配備させた。
「将軍、今や緑洲城の名声は外に聞こえ、三百里四方の家を失った避難民たちはみなここに身を寄せるようになりました。
これではそのうち胡人(こじん)たちに狙われる恐れがあります。敵が通りそうな場所には堅固な関を設け、防御にあたる軍に重弩を持たせ、落石の計も準備させましょう。関の前には深い溝を掘り、騎馬の進軍を防ぎましょう。千人でこれの防御にあたれば、胡人(こじん)の騎兵数万といえども容易に突破はできますまい」

第三話 初陣での小手調べ


「軍師、流星馬の調査によると、ここから北方百里のところに流寇の巣窟があり、盗賊千人がいるという。先帝が胡人(こじん)を虐殺した時に逃れて隠れた者たちで、略奪、殺戮を繰り返して民衆を苦しめ、悪逆非道の限りを尽くしているそうだ。すでにわが軍には装備を備えた軍隊三千人があるので、これを討って民衆の害を除こうと思うのだが」
「もし流寇たちが野戦でわれわれを迎撃するならばわが軍に勝ち目がありますが、もし敵が山寨にこもって堅く守ればわが軍になす術はございませぬ」
「私は大魏(たいぎ)の将軍である。どうして胡人(こじん)の盗賊くずれに遅れを取ることがあろうか。すでに決めた。討伐に赴くぞ。」
「将軍、どうか落ち着きください。
最善の攻撃をしようとすれば、まず必ずそれに応じた武器を得なければなりません。今わが軍には三千人の将兵がおりますが、城を攻めるための武器がございませぬ。
胡人(こじん)がもし城門を堅く閉じて打って出てこない場合、わが軍が殺到したところでこれを打ち破る良策がありません。無理をして城壁を登ろうとすれば、必ず石や木を落とされて甚大な被害をこうむるでしょう。
今の策としましては、まず工場を建設し、職人たちに衝車(しょうしゃ)や雲梯(うんてい)、投石車を製造する方法を研究させます。そうすれば兵卒たちが城壁を登ることがでるようになり、投石車でその塔楼を落とすこともできましょう。
もしこの三つを備えることができれば、胡寨の攻略など物の数ではありません」
将軍はこれを聞いて大いに喜び、ただちに実行させた。

さらに二十日が経ち、衝車(しょうしゃ)二台、雲梯(うんてい)十台、投石車六台が完成した。投石車は三百斤の巨石を三百歩の距離まで届かせることができたので、将軍は特にこれを気に入り、「霹靂車(へきれきしゃ)」と名づけた。
諸事すべて備わったので、兵二千人を率いて討伐に出発した。
胡寨に着くと、胡人(こじん)の流寇たちの勢力は大きかったが、案の定、籠城戦に及び、弓手を塔楼に登らせて、漢族の軍が近づくとこれに射掛けさせた。将軍は山寨から三百歩の距離に陣を布き、弩手を前列に、矛手をその後ろに、朴刀手と剣士たちを矛手の横に立たせた。
陣太鼓を三度鳴らして、胡人(こじん)たちが出てこないのを見ると、霹靂車(へきれきしゃ)で攻撃させた。瞬く間に、三百斤の巨石数個が胡寨に飛んで行き、弓手のいる塔楼や山寨の城壁を粉砕した。木を組んで築いただけのものが、三百斤の巨石に敵うわけがない。弩はこれらを紙のように撃ち抜き、ことごとく粉砕した。
胡人(こじん)たちは胆を冷やし、これ以上、山寨を守ることは不可能と見て、全軍が馬に跨って出撃して、漢族の軍がやって来るのを待った。将軍は弩手に矢をつがえさせ、二百歩の距離に近づくのを待って、五百の弩手に一斉に攻撃させると、百人の胡人(こじん)の騎兵が落馬した。さらに弓をつがえ、胡人(こじん)たちが百歩の距離に近づいた時に先頭の百騎を攻撃させたが数十の弩手が敵の矢にあたった。再び攻撃させると胡人(こじん)の騎兵のうちさらに百人が落馬した。敵の騎兵が近くに迫ってきたので、弩手たちを後退させ、矛手たちを前線に立たせた。
一千の矛手たちは五列に分かれて立ち、矛を林のように立てて、騎馬兵たちをことごとく地面に突き落とし、再び馬に乗ろうとする者は矛手によって斬られ、他の者たちもみな朴刀手や剣士たちによって殺された。二千の兵力のうち戦死者はたった百人で、敵の首は一千にもなり、戦闘は完勝に終わった。

山寨はすでに主人を失い、将軍によって占拠された。そこで食糧一万斤、兵器数百、良質の騎馬百匹を得た。さらに兵士に命じて騎射の技を練習させた(技能獲得)。そして緑洲城から民夫千人を募って、山寨を拡張し、石の城壁、木の家屋を建設して、寨民たちを安んじた。山寨は山地にあったので将軍はこれを「流雲城」と名づけた。

流雲城は拡張工事が始まったばかりの頃は、緑洲城からの木材、石材、鉄鉱石の輸送が必要だった。その路程は百里におよび、人力での運搬は不便であったために、軍師は輜重車(しちょうしゃ)を製造させ、牛馬にこれを引かせたところ、一台あたり、千斤の物資を運ぶことが可能になった。輜重車(しちょうしゃ)を狙う流寇たちによって資源を略奪されることが頻発したので、将軍は怒って、百人の剣士にこれを守らせたところ、流寇たちも手を出せなくなった。

第四話 連盟して敵に立ち向かう


半年も経たず、将軍は大小百におよぶ戦闘を経験し、殲滅した胡人(こじん)の流寇は数十万人にもなった。所有する城郭は五つ、民衆は十三万人、将兵は一万八千人、支配地は二百里になった。
支配地の民衆たちは安心して産業に従事し、将兵も勇猛果敢に戦に臨むので、将軍は心から喜び、大魏(たいぎ)王朝の栄光をいかにして取り戻すかということを考えるようになった。
軍師は言った。
「先帝の時代、中原の胡人(こじん)は散り散りに四散しましたが、今は慕容氏が燕(えん)を建て、胡人(こじん)たちは捲土重来を期しています。江南には東晋がありますが、現状に甘んじて、北伐に臨む気配はありません。先帝に背いた賊徒どもも用いるに足りません。大魏(たいぎ)の栄光を取り戻すのは易しいことではございませぬ」
そこで将軍は「まず東晋を討ってから、中原を目指すのはどうであろうか?」と問うた。
「それは決してなりませぬ。東晋は暗弱とは言え、百足虫が死しても固まらぬように、その力はいまだ健在です。われらがこれに立ち向かうのは卵を石に投げつけるようなものです。
さらにわれらも晋も漢族です。これを討とうとして軍を起こしても、加勢するものは少ないでしょう。
当面の策としては、まず晋に臣下の礼を取り、貢ぎ物をして敵意をそらせましょう。われわれはその間に安心して屯田、募兵することができます。そしてこの地の千里四方の漢人たちと連合して、唇歯(しんし)の関係を結び、将軍に胡人(こじん)を討伐する盟主に推挙させるのです。そうすれば出陣に大義名分が得られ、人々は必ず加勢に参りましょう。
鮮卑族(せんぴぞく)の慕容氏はすでに国を建て、国内の羯族(けつぞく)や匈奴(きょうど)などの各民族は表面上は服属していますが、心服してはおりません。いつの日かこれを討つ時に、弁舌の立つものを遣わして利害を説けば、かならず叛旗を翻すでしょう。そうすれば慕容氏は前後を顧みることができず、大事は必ず成し遂げることができます」と軍師が答えると、
将軍は怒って「私は魏将軍である。死んでも晋の臣下などになりはせぬぞ!」と言った。
しかし軍師が「かつて漢の高祖劉封(りゅうほう)は甘んじて項羽(こうう)の軍門に下りました。大丈夫たるもの、大事をなすには時には身を屈することも必要です。匹夫の勇だけでは,項羽(こうう)の最後のようになりかねませぬぞ」と言うと、将軍は長い間、考えた挙げ句、その策を容れた。

そして、晋に書状を送って臣下の礼を取り、金や食糧を貢ぎ物とした。晋の皇帝は大いに喜び、将軍を魏王に封じて、九錫を与えた。さらに戦車百台、攻城兵器百台を与え、その威厳を示した。そして四方千里の将軍や勢力を抱える城主たちに書状を出して、燕(えん)の討伐を呼びかけた。将軍の軍隊は精強であり、その戦功も第一であったので、盟主に任命された。
連合軍に加わった都市は三十八、人口は百万、将兵は十万にもなり、この連合を「討胡の盟」と称した。

燕(えん)との戦いは三十余度におよび、破った関所も十有余、斬首した数も二十万に達した。中原の胡人(こじん)たちは、みなわれ先にと逃げ出した。燕(えん)の皇帝である慕容俊はこれを激しく恨み、精鋭騎馬隊による鉄浮図の軍を率いて自ら迎撃に出た。
両軍は野戦で激突し、漢軍の血で千里が赤く染まった。鉄浮図の兵士はその身を鏡鎧(きょうがい)で覆っている。鏡鎧(きょうがい)とは鎧の表面が鏡のように輝いている精鋼で作られたもので、遠距離戦では、重弩で三十歩の距離で射ても傷つけることができず、接近戦では矛手でも貫き通すことができない。漢軍の七、八割が戦死し、千里の潰走を余儀なくされ、「討胡の盟」は千里四方の支配地を失ってしまった。
.将軍は緑洲城へ退却し、全連合軍に、城を守るための援軍を派遣するように要請した。まず弩手で燕(えん)軍の先鋒の軽騎兵三千人を関所前で撃退した。
三日後、連合軍の敗残兵を緑洲城に集めて、軍馬の数を数えたところ、三万五千人しかいなかった。将軍は五千人に関所を守らせ、残りの兵士で緑洲城を堅守させた。
さらに二日後、大将軍慕容 恪(ぼよう かく)は燕(えん)軍十万を率いて、関所の前まで来ると、
「貴様らはこのような小さな関所で、わが十万の兵を防げると思っているのか?すみやかに投降を申し出るものがあれば命だけは助けてやろう」と兵に叫ばせたが、関所の兵は誰一人として答えなかった。
慕容 恪(ぼよう かく)は怒って、攻撃命令を出した。燕(えん)軍は軍から雲梯(うんてい)百台を繰り出した。一台に十数人が乗り、その周囲を木の板で守っていた。
兵士たちは合図の太鼓の音を聴くと、一斉に関所を目指して殺到してきた。守備の将はこれを見て、火矢を射かけると、ことごとく命中し、雲梯(うんてい)の上の兵士の多くが焼き殺され、死ななかった者も次々に地面に落ちた。関所からは矢や石が雨のように降り注ぎ、無数の燕(えん)兵が死んだ。
慕容 恪(ぼよう かく)は戦況が不利と見て、とうとう合図の銅鑼(どら)を鳴らして撤兵した。
守備の将は「慕容 恪(ぼよう かく)は緒戦が不利と知って、必ずや戦法を変えて来るだろう。われわれはそれを探らなければならない」と言い、斥候数十人を燕(えん)の陣に派遣して探索させた。
半日して斥候が戻ってきて言うには
「燕(えん)軍は多数の衝車(しょうしゃ)を配備しているので、門を衝車(しょうしゃ)で攻撃してくる可能性があります」ということだったので、守備の将は急いで百斤の大石に穴を掘り、これに縄を結んで「飛石」という武器を作らせた。
その翌日、燕(えん)軍は果たして衝車(しょうしゃ)数十台を繰り出して、関門を破ろうとして来たので、守備の将が飛石でこれを攻撃させると衝車(しょうしゃ)はみな破壊されてしまった。燕(えん)軍は再び功なく退却することになった。
慕容 恪(ぼよう かく)は激怒して
「このような小さな関所にいつまでも足止めを食っているわけにはゆかぬ。明日は兵士に土嚢(どのう)を持たせ、それを関所の前に積み上げて総攻撃させよ。退く者があればその場で斬れ!」と命令した。

三日目、三発の陣太鼓を合図に、燕(えん)軍は次々に殺到して来て、土嚢(どのう)を関の壁の下に積み上げた。関から矢や石が雨のように降り注ぎ、さらには檑木を落としたので、燕(えん)軍には無数の死傷者が出たが、一人も後に退かなかった。関の下に積まれた土嚢(どのう)は丘のようになり、燕(えん)兵たちはそれを登って、連合軍に襲いかかってきた。
燕(えん)兵の数は多く、連合軍は次第に劣勢となり、五千人の将兵がことごとく戦死し、燕(えん)軍の死傷者も八千におよんだ。関所は落ち、慕容 恪(ぼよう かく)はこれを二日かけて修復させ、三日目に城を攻めて来た。
慕容 恪(ぼよう かく)は数日の間休息するつもりだったが、兵糧不足のために、即時決戦を選び、三日目にやむなく城攻めを実行したのである。(関所では食糧が供給されないが、もし食糧があれば、さらに数日軍隊を駐屯させて、士気や傷兵を回復させることが可能である)
その後、燕(えん)兵は緑洲城の四方を包囲し、数十日に渡って攻め続け、ついにこれを陥落させた。落城の寸前、将軍は腹心の部下たちとともにひそかに城を脱出し、再起を期した。落城後、慕容 恪(ぼよう かく)は三日かけて都市の人々を皆殺しにし、後顧の憂いを断った。三日後、緑洲城は跡形もなくなった。

第五話 再起を図る


将軍はすでに好機が過ぎ去ったことを知ると、晋の皇帝に上表して、南に帰ることを希望した。晋の皇帝はその武勇の卓越していることを惜しみ、留まるように望んだが、慕容俊がその怒りを晋に向けることを恐れて、とうとう将軍の願いを容れて、食糧を車百台分、鉄千斤、木材、石材をそれぞれ一万斤、そして五千の兵士を与えて、将軍を援助した。
南に向かえないので、西に赴いて良い土地を探し、そこで屯田することにした。将軍は燕(えん)軍の主力が追撃することに備え、緑洲城のあった土地の西方八百里のところに留まった。民衆たちは将軍がまだ生きていることを知ると、再びおびただしい数の流民が身を寄せてきたので、これを整理し、兵士一万人を得て、民衆の数は数万に達した。再び、良い土地を求めて城を築き、田畑を作ったところ、民衆たちは心をひとつにして励んだので、たった三ヶ月で大都市を築き上げることができ、その広さは緑洲城の三倍にもなり、食糧、鉄鉱石、木材、石材の生産量も緑洲城の十倍になった。
将軍はここを涅槃(ねはん)の意味をこめて「鳳凰(ほうおう)城」と名づけた。
「軍師よ、燕(えん)の騎兵は精強で、鉄浮図の軍に突撃されては、わが軍は羊の群れに虎に飛び込まれたようなもので、弩弓も矛も役に立たない。どうすればよかろうか?」と将軍が問うと、
軍師は「敵の装備は精鋼です。目下の策としては、ただ精錬法の研究に励み、鉄を鋼鉄に替えれば勝算があるでしょう。さらに弩弓の製造法にも改良を加え、もし三百歩の距離に届き、精鋼の鏃を用いれば鉄浮図を破ることが可能です」と答えた。
「今は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の時だ。以前の恥辱を雪ぐために、軍師は精錬法と弩弓の製造法の開発研究にあたってもらいたい。ここは四方を山に囲まれ、守るに易く、攻めるに難い要害の地である。ここに再び関を設け、城を守る武器を研究し、賊軍の襲来に備えよう」

ひと月余り後、突然、関の外に装甲兵千人が近づいているという報が届いた。将軍はただちに弩手を登楼させ、その他の兵士にも落石、檑木の計の準備をさせた。敵軍が近づくと、兵士の装備が燕(えん)のものではなかったので、攻撃を止まらせた。
関の下に来たところで、首領と思しき将が大声で叫んだ。
「私は討胡の盟の副盟主の王真である。先の戦では胡人(こじん)どもに一敗地にまみれ申したが、ここで将軍が再起を図っていると聞き及び、馳せ参じた次第でござる。どうか帰参をお聞き届けくだされ」将軍は承諾して、民夫千人を与えて王真を東に向かわせて屯田にあたらせた。その月の鉄鉱石の生産はわずかであった。(盟友の生産能力、軍事能力の回復を助ける)
「将軍、私はすでに新たな弩を完成させております。矢は三百歩の距離まで届き、足で弓を引くのです。二百歩以内なら、重装備の鎧といえども軽く貫き通します」
「鉄浮図の鏡鎧(きょうがい)も貫くことができるか?」
「百歩以内なら貫けましょう」
将軍は大いに喜んで、自らこれを試したところ、矢をつがえるのに相当の腕力が必要だったので、これを「神臂弓(しんぴきゅう)」と名づけた。神臂弓(しんぴきゅう)は製造が困難で、一人の優秀な職人が三日で一本を作るのがやっとであったので、将軍は兵器工房を拡張し、戦での需要に備えた。

さらにひと月余りが経つと、ついに精鋼の精錬法が完成し、鉄器の鋭利さにはるかに勝る精鋼で刀、剣など製造できるようになった。将軍はあらゆる兵器を鉄から精鋼に替えた。
鉄鉱資源の需要が急激に増加したので、将軍はあちこちに人を遣って探させ、鉄を売る者はその貴賎(きせん)を問わず、ことごとく仕えさせた。瞬く間に、鉄の値段は高騰し、五の食糧で鉄一に替えられたが、今や八の食糧になってしまった。
人々はふざけて「鳳凰(ほうおう)城の鉄は高い」と言い合った。(需要供給の変化は価格の変動を引き起こす)
辺鄙な場所にあったので、燕(えん)軍は数度にわたって押し潰され、いずれも関に近づく前に敗退した。神臂弓(しんぴきゅう)手は燕(えん)軍を恐れさせ、まだ隊列を組んでいないうちに、すでに百十人が倒されてしまった。
慕容俊は国内の混乱が続き、鳳凰(ほうおう)城攻めに割く余力がなかったので、鳳凰(ほうおう)城から中原に至る経路の要所に関を設けて、「重関」と名づけた。その関は城壁の高さ二十丈、幅三丈で、数万人の兵士を配備できた。そして関には強力な弩弓を配し、連合軍の進軍を阻もうとした。

三年の後、討胡の盟は再び勢力を盛り返し、兵は精強になり、食糧も充分な備蓄を得た。さらに矢を三里の距離に飛ばすことのできる床子弩(しょうしど)を新たに開発した。
床子弩(しょうしど)は前弓、中弓、後弓から成り、三つの弓で一本の矢を射るのだが、それには四人の力を必要とした。三つの弓を使うので「三弓床弩」と呼ばれた。
また霹靂車(へきれきしゃ)を改良して、火石弹を投擲(とうてき)できるようにし、これを「火霹靂」と名づけた。
将軍は連合軍に伝令を出し、
「魏王の名において天下に号令する。燕(えん)の皇帝の非道は、われわれの仁義の兵で討伐せねばならない。諸侯は兵を出して重関を攻めるべし。
重関の城壁は高く、兵も多い。守るに易く、攻めるに難い難所ではあるが、魏王自ら火霹靂で関の兵士を焼き尽くし、三弓床弩で関門を攻めるであろう」と呼びかけた。
関を守る弩弓は二百歩の距離までしか飛ばず、連合軍には届かなかった。攻撃は数日に渡って続き、関門、城楼、弓櫓などはみな破壊されて将兵の士気が低下したので、魏王は攻城命令を発し、半日の白兵戦の後、重関はついに破られた。

第六話 燕(えん)を滅ぼして皇帝となる


魏王は再び天下に号令した。
「燕(えん)の皇帝の天にそむく所業はすでに天の報いを受け、その運気はすでに尽きている。人々は決起してこれを滅ぼせ」
すると、たちまち非鮮卑族(せんぴぞく)の人々が決起し、反乱を起こした。燕(えん)の皇帝は慌てふためいて、これを皆殺しにした。
魏王は三ヶ月に渡って攻撃を続け、数多くの城を落としながら、都である鄴の城下に迫ったので、慕容俊は精鋭部隊全軍を配して対抗した。
しかし、三年の歳月は形勢を全く逆転させており、三弓床弩と神臂弓(しんぴきゅう)によって鉄浮図の軍は百歩の距離に近づく前に殲滅されてしまった。接近戦では、兵器をすべて精鋼に替えているので、精強な将兵たちは奮迅して鏡鎧(きょうがい)の兵を次々に撃ち破った。
この戦争は天地を揺るがし、鬼神も涙するほどの凄惨を極め、鉄浮図の軍を破っても、燕(えん)軍の選り抜きの精鋭が挑んできたので、戦闘は七日七晩続いた。
ようやく慕容俊の軍を殲滅した時には同盟軍もその七、八割を失っていた。都は陥落し、燕(えん)は滅亡した。
魏王は鄴を落とすと、ここに遷都し、宮中を探して国を治める者の印である王鼎を見つけ、大魏(たいぎ)の栄光を取り戻そうとした。
翌日、魏王は帝位に就き、詔を天下に発して、国号を魏と改め、年号を天啓元年とした。天下に大赦令を出すと同時に、兵を出して燕(えん)の残存勢力を討伐させた。
晋の皇帝も、魏王が帝を称するや、魏帝を名乗る逆賊を誅すべしと詔を発した。そして同時に魏討伐の北伐軍を進めた。
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