時は少し遡り、本塔最上階の学院長室にて。
学院の教師である、ミスタ・コルベールは口から泡を飛ばして熱弁をふるっていた。
禿げ上がった頭からは汗が光っている。

「ですからミス・ヴァリエールの使い魔は伝説の『ガンダールブ』なのですよ、オールド・オスマン!」
「落ち着かんか、コルベール君」

オスマンと呼ばれた老人がなだめる。
彼こそがここトリステイン魔法学院の学院長、その人だ。
白い髪に白い口髭の、好々爺の老人である。
その年齢は百歳とも三百歳とも言われているが、定かではない。

「いや、しかし、これは由々しき事態ですぞ!?」

コルベールが興奮しながらオスマンのテーブルを叩く。
衝撃でテーブルの上に置いてあった水キセルが勢いよく跳ねて落ちそうになる。
それに驚いたのか、テーブルの下にいたオスマンの使い魔であるハツカネズミのモートソグニルがちゅうと鳴いた。

「いいから落ち着かんか、コルベール君。モートソグニルが怯えておる」
「おっと。これは失礼を」
「……その平民じゃが、コルベール君の勘違いという事はないのかね?」
「ルーンの形については何度も確認しました。間違い有りません。すぐに王室に報告すべきでは?」
「あんな場所に報告しても仕方あるまい。王室の馬鹿どものいい遊び道具になるだけじゃ。本当に、その平民はただの人間だったのじゃな?」
「はい、間違いありません。『ディテクト・マジック』で確かめたのですが、一切の魔力はありませんでした」
「ふーむ。それにしても『ガンダールブ』とはのう」

オスマンは、腕を組んで唸った。

「それにですな。イチローというあの男、魔力はないかもしれませんがただの平民には……」
「平民は平民じゃろう。何を言っておるのかねコルベール君」

その時、部屋のドアがノックされた。

「誰じゃ?」

扉の向こうからは、オスマンの秘書であるミス・ロングビルの声が聞こえてきた。

「私です。オールド・オスマン」
「何用かの?」
「ヴェストリの広場で決闘をしている生徒がいるようです。かなりの大騒ぎになっていて、教師でも止められないほどです」
「全く、暇だからと言って決闘騒ぎとはどうしようもないのう。で、暴れておるのは誰じゃ?」
「一人は、ギーシュ・ド・グラモン」
「グラモン元帥のとこの馬鹿息子か。女好きのあいつの息子ということは、息子の方も大方女絡みかの。親子そろってどうしようもないのう。で、決闘の相手は誰なんじゃ?」
「……それが、メイジではありません。ミス・ヴァリエールの使い魔の平民のようです」

オスマンとコルベールは顔を見合わせた。

「教師達は、決闘を止めるために『眠りの鐘』の使用許可を求めていますが……」

オスマンは溜め息を吐いた。

「アホか。たかが子供と平民の喧嘩に秘宝を使ってどうするんじゃ。放っておきなさい」
「分かりました」

ミス・ロングビルは去っていった。
やがてミス・ロングビルの足音が聞こえなくなった頃、コルベールが口を開いた。

「オールド・オスマン。決闘の件ですが、場合によっては『眠りの鐘』の使用も検討した方がいいかもしれませんぞ」
「君まで何を言っておるのかね、コルベール君? まぁいいわい。とりあえず、見物してみるかの」

オスマンが杖を振った。
壁にかかった大きな鏡に、ヴェストリ広場の様子が映し出された。

「はぁ?」
「は?」

オスマンとコルベールの口から、同時に呆けたような声が漏れた。
鏡に映し出されたヴェストリ広場には、巨大な竜巻が発生していた。

「ななな、なんじゃねこれは一体!? コルベール君!?」
「わ、私に聞かれても困りますぞ!?」
「竜巻って何じゃ竜巻って!? 子供の喧嘩で何で竜巻が起こるんじゃ!?」
「ですから、私に聞かれても困ります!」
「もし魔法で起こしたんじゃとしたら、スクウェアクラスの力がいるんじゃぞ!?」
「何度も言いますが、私に言わないでください! あ、動きがあるようですぞ!?」

竜巻の前には人影が見えた。
一人の平民と、一人の生徒の姿だ。
そう、ルイズの使い魔であるイチローと、決闘相手のギーシュである。
その二人の様子を後ろから多数の生徒達が遠巻きに見つめている。
動いたのは、ギーシュが先だった。
薔薇の造花を模した杖を振り、女戦死の形をした青銅のゴーレムを錬金する。
そしてすぐさまゴーレムをイチローに向かわせる。
地を蹴って突撃してくるゴーレムに対して、イチローは奇妙な構えを取った。
オスマンとコルベールには、イチローが何をしようとしているのか全く理解できなかった。

「何かの構え、ですかな? それに手に持っているのは杖……ではなく木の棒?」
「ふーむ。あれが杖でないとしたら魔法を使うはずもないじゃろうしなぁ……。あの竜巻は何なんじゃ?」
「それは分かりませんが……。しかし、あのイチローという男はきっとただの平民ではありませんぞ」
「そうは言うがなコルベール君。木の棒だけで平民に何ができるというのじゃね?」
「それは……」

コルベールが言葉に詰まった時、イチローが木の棒を両手で持って大きく振った。
そう、大きく振ったのだ。
特に意味のない苦し紛れの行動。
もしくは、ただの威嚇か。
少なくともその程度にしか見えなかった。
しかし、二人の予想は裏切られる事となる。

「おおおおおお!?」
「何じゃと!?」

イチローが木の棒を振った瞬間、彼の目の前にいたゴーレムが吹き飛んだのだ。
まるで羽毛が嵐の中を進むかのように、軽々と、そして勢いよく大空へ舞った。
青銅製で出来た重いゴーレムを軽々と飛ばすだけでも奇跡的な出来事だ。
しかも、それだけではない。
ゴーレムを吹き飛ばすと同時に、広場の中央で轟々と渦を巻いていた竜巻まで消し飛ばしたのである。
竜巻があった場所には底が見えないほど巨大な大穴が開いていた。
穴からは土煙が濛々と立ち昇っている。
信じられないような出来事であった。

「こ、これは一体……!? コ、コルベール君!?」
「私に聞かないでください! そ、それよりもですな、オールド・オスマン」

コルベールが深刻な顔でオスマンの名を呼んだ。

「な、なんじゃね、改まって?」
「もしかして、もしかするとですぞ……?」
「も、もったいぶっとらんで早く言わんか」
「先ほど、ゴーレムが吹き飛んだ方向なのですが……」
「え? まさか……」
「その、まさかです……」

コルベールが頷いた。
その瞬間、ゴーレムが凄まじい勢いで窓を突き破り、頭から学院長室へと飛び込んできた。
部屋へと入ってもゴーレムの勢いは衰えなかった。
部屋中をバウンドしながらテーブルを破壊し、本棚を倒し、絨毯を引きちぎり、窓という窓をすべて割る。
途中、比較的脆い間接部から腕や足がもげたりもしたが、それでも硬い青銅製である。
ゴーレムの体は簡単にバラバラにはならなかった。
……そして。

「ゲッ!?」
「ガフッ!?」

最後はオスマンとコルベールの二人に激突してようやく止まった。
ついでに、オスマンとコルベールの動きも止まった。
倒れながらもピクピクと痙攣しているので二人とも生きてはいるようだった。

「オールド・オスマン!? 何事ですか!?」

ミス・ロングビルが音を聞きつけて部屋にやってきて、絶句した。

「これは……本当に、何事ですか?」

ロングビルは部屋を見回してみる。
散々な有様だった。
学院長室は、至近距離から戦艦に砲撃でも受けたかのように半壊していた。
部屋の原型をほとんど留めてはいなかった。
まさかトライアングルクラス以上のメイジが魔法でも暴発させたのか。
ロングビルが思わずそう考えてしまったほどの惨状だった。

「オールド・オスマン。ミスタ・コルベール。生きていますか?」

部屋の隅で、ひび割れたゴーレムと一緒に重なりあって倒れている男二人に声をかけてみる。
だが、口から泡を吹いて激しく痙攣するばかりで返事はなかった。

「まぁ、生きているならそれでいいですけど……。あら?」

ふと、ロングビルはゴーレムへと目をやった。

「これは……?」

ロングビルはゴーレムへと近寄って、しげしげと眺める。
ゴーレムの胴体部分に、はっきりと何かの文字のようなものが見えた。
そこには、異世界の文字で『イチロー』とサインが書いてあったという……。


イチローがギーシュと決闘を終えてから一週間が過ぎた。
イチローの学院での人気はうなぎ上りであった。
平民でありながら紳士的な態度。
どこかミステリアスな微笑み。
自信に満ち溢れた佇まい。
イチローは今やトリステイン魔法学院の平民の星とも呼べる存在だった。
同じ平民層である使用人達からの支持が大きい。
トレーニングのために中庭をランニングすれば、イチローを見かけた人が次々と集まってくる。
特に、厨房へと行った時の人気は半端ではなかった。

「まさか平民でありながら貴族を倒しちまうなんてな! すげぇぜ! さすがは『我らの剣!』」

恰幅のよい中年の男性が大げさにイチローを褒める。
年の頃は四十過ぎ辺り。
彼の名はマルトー。
トリステイン魔法学院でコック長を務める親父さんである。

「あの、イチローさん。この前は逃げ出してしまってすいませんでした」

マルトーの後ろからシエスタが出てきて申し訳なさそうに謝った。
目には少しだけ涙も浮かんでいる。

「気にしなくていいさ、シエスタさん。あの程度、毎朝のトレーニング以下だ」
「イ、イチローさん……」

シエスタは感極まって思わず泣いてしまいそうになった。

「どうだ、今のシエスタへの言葉を聞いたかお前ら!? 『我らの剣』の言葉を!」

マルトーが厨房中に聞こえるように怒鳴った。

若いコックや見習い達が返事を返す。

「聞いてますよ、親方!」
「これが真の達人の姿だ! 本当に実力があるやつは誇ったりはしない! お前らも見習えよ! くぅ~! 俺と同じ平民とは思えねぇぜ! さぁ、お前らも言え! 達人は誇らない!」

コック達が嬉しそうに唱和する。

「達人は誇らない!」

マルトーはイチローを見つめる。

「やい、『我らの剣』。俺はお前が好きになっちまったぞ。どうしてくれるんだ」
「はは。つまり、僕のファンになったって事かい? ファンなら大歓迎だよ」
「ファン? よく分からねぇが、まぁそんなもんかもな」
「わ、私も! イチローさんのファンになりました!」

シエスタも慌てて後に続く。

「ファンならどんな人だって大歓迎だよ。それと、マルトーさん」
「おう、なんだ。『我らの剣』よ?」
「一つだけ訂正しておくよ。僕は、平民じゃない」
「平民じゃない? つまりは、メイジだってのか?」
「いや、魔法は使えないよ」
「じゃあ、何だってんだ?」

イチローはチッチッチ、と人差し指を振った。

「僕は、メジャーリーガーさ」
「めじゃありいがあ?」
「そう言えば、初めてお会いした時もそう言っておられましたね」

首を捻っているマルトーにシエスタが言った。

「いいかい? メジャーリーガーとは、選ばれた存在なんだよ」
「よく分からねぇが……。『我らの剣』はやっぱりすげぇって事だよな? さすがは、めじゃありいがあ!」
「めじゃありいがあ万歳!」

コック達が続けて唱和する。
結局誰もイチローの言ったメジャーリーガーという言葉の本当の意味は理解できなかったが、とにかく厨房は沸き立った。
マルトーがシエスタの方へと振り向いた。

「シエスタ!」
「はい!」

シエスタが元気よく返す。

「我らの勇者に、アルビオンの古いのを注いでやれ」
「分かりました!」

シエスタは満面の笑みで、ぶどう酒の棚からヴィンテージ物のワインを取り出してくる。
そしてイチローのためにグラスを用意すると、そこに並々とワインを注いだ。
上質のぶどうの香りがイチローの鼻腔を刺激してくる。
イチローはワインを優雅な仕草で飲み干した。
グラスが空になると、再びシエスタが甲斐甲斐しくグラスへとワインを注いでくる。
ワインを飲み干すイチローを、シエスタはうっとりと眺めていた。

「おいおい、僕を酔わせてどうするつもりだい?」

そう言いながらも、イチローはまるで酔っていなかった。
優勝時のビールかけやシャンパン・ファイトで慣れているイチローには、半端なアルコールは通じないのだ。

「さすがは『我らの剣』だ! 酒まで強いとは恐れ言ったぜ! よし、野郎ども! 俺達も飲むか! 今日は祝いの宴だ!」
「おおー!!」

コック達が喜びの混じった怒号を返す。
マルトーの言葉を皮切りに厨房では大宴会が始まった。
飲めや歌えの大騒ぎだ。
……そんな様子をただ一人、厨房の後ろで腕を組んで眺めている男がいた。
一人だけ、雰囲気が違う。
この男の周りだけは空間そのものが凝縮されているかのような、そんな張り詰めた空気があった。
やや俯き気味のその顔からは表情を伺う事はできない。
壁に背を預け、じっとイチロー達の様子を見ている。
オールバックの長い髪を後ろで一つにまとめた、特徴的な髪型の新入りコックである。

「イチロー・スズキ、か……」

新入りの呟きは、誰の耳にも入らない。
そして彼は、宴会に参加する事なく一人厨房の奥へと消えていった。


ある日の夜、イチローは夜間トレーニングが終わって自分の部屋へと戻ろうとしていた。
中庭での朝昼晩のトレーニングはイチローの日課となっている。
今夜のトレーニング内容はランニングの後に素振り八万回。
それにスクワット五万回と腕立て伏せ三万回という軽いものだった。

「どうも最近体が鈍っているな。明日、朝食前に少し走ってみるかな……」

イチローはゲルマニアという隣国まで早朝ランニングをする計画を立てていた。
イチローにとって、隣国までランニングするなど散歩のようなものだ。
かつて日本でパ・リーグの球団に所属していた頃も、試合間での移動は彼一人だけ走って行っていたほどである。
チームメイトの乗るバスと高速道路を併走しながら、窓を開けて話しかけてくる選手達と談笑した事も今では懐かしい思い出だ。

「しかし、帰りに迷子になったら困るしな。うーん、どうしようかな」

イチローはメジャーに移籍してから、何度か迷子になった事があるのだ。
ニューヨークからサンフランシスコへの移動をランニングで行おうとした時の話である。
イチローは、気がつけば海を越えてモスクワにいた。
しまった、ちょっと行き過ぎた。
ここはアメリカじゃなくてロシアだ。
そう思っても後の祭り。
イチロー、痛恨のミスであった。
とりあえずプーチン元大統領と記念写真を撮影し、握手をした後で急いでアメリカに戻った。
試合には何とか間に合ったものの、それ以来あまりの遠距離移動は止めておこうと誓ったのである。

「うーん……」

悩むイチローの背後から、のっそりと近付く影があった。
その気配を見逃すイチローではない。

「誰だ? おや、君は……?」

振り向いたイチローの目に映ったのは、サラマンダーのフレイムだった。
燃える尻尾が温かそうだ。
イチローは優しく声をかけた。

「君は……ルイズさんの友達の、キュルケさんの使い魔だったかな?」

サラマンダーはつぶらな瞳でイチローを少し見つめた後、ちょこちょこと近寄ってきた。
イチローは恐れる様子は全く見せずにサラマンダーを待った。

「僕に何か用なのかい?」

きゅるきゅる、と人懐っこい声で鳴くサラマンダー。
害意はないように見えた。
サラマンダーはイチローのユニフォームの袖をくわえると、まるでついてこいというかのように首を振った。

「一体何だい?」

イチローは苦笑しながらも、されるがままに身を任せる。
基本的にイチローは動物好きなのだ。
アメリカの自宅では犬も飼っていた。
イチローにとって、幻獣も動物も同じようなものだった。
サラマンダーに引かれていくと、ほどなくしてキュルケの部屋の前に辿りついた。
キュルケの部屋のドアは開けっ放しだ。
イチローはサラマンダーの意図をすぐに理解した。
どうやら、あそこにイチローを案内したいらしい。

「キュルケさんが、僕に何か用なのかい?」

イチローはサラマンダーを見る。
サラマンダーは、それに返事をするようにきゅるきゅると鳴いた。
その通りだと言わんばかりの様子だ。
イチローは小さく頷くと、キュルケの部屋のドアをくぐった。
入ると、部屋は真っ暗だった。
サラマンダーの尻尾の周りだけ、ぼんやりと明るく光っている。
暗がりの奥からキュルケの声がした。

「扉を閉めてくださる?」

イチローは言われた通りにした。

「ようこそ。さ、こっちへいらっしゃって」
「分かった」

イチローは暗闇の中、迷う事無くキュルケのいる場所へと歩みを進めようとした。

「え? あ、あなた、あたしの姿が見えるの?」

慌てたように言うキュルケに、イチローが立ち止まって答える。

「この程度の暗闇、ナイターで慣れている僕の目には昼間と変わらないよ」
「そ、そう? でも、一応明かりをつけるわね?」

キュルケが指を弾く。
すると、部屋の中に立てられたロウソクが一本ずつ灯っていく。
イチローの近くに置かれたロウソクから順に火は灯り、キュルケの側のロウソクがゴールだった。
街に灯る明かりのように等間隔に連続して点された光。
一種、幻想的な光景でもあった。
淡い明かりの中、キュルケはベッドに腰掛けていた。
それも下着だけの姿で。
モデルのようなスタイルが、はっきりと見て取れた。
妖しく、キュルケが微笑む。
イチローは無言でその姿を見ていた。

「そんなところに立っていないで、こちらへいらっしゃって?」

キュルケが色っぽい声でイチローを誘惑する。
何も言わないイチローを見て悩ましげに首を振り、キュルケは話を続ける。

「あなたは、あたしをはしたない女だと思うでしょうね」

イチローは何も答えない。

「思われても、仕方がないの。分かる? あたしの二つ名は『微熱』」
「微熱、か」

イチローは部屋に入って初めて声を出した。
つまり二つ名とは『オバマの怪人』とか『キューバの至宝』みたいなものかな。
そんな風に考えていた。

「あたしは、燃え上がりやすいの。心に炎が燃え上がると、もうどうしようもないの。いきなり呼び出して悪かったと思うわ。いけない事なのは分かってる。これは、いけないことよ」
「そうか」

淡々とした返事だが、キュルケは気にしない。
潤んだ瞳でイチローを見つめている。

「イチローさん」

キュルケはイチローの名を呼びながら、すっと手を握ってきた。
イチローはその手を普通に握り返し、そしてすぐ離した。

「あ、あら? 何で手を離すの?」
「うん? 僕のファンだから部屋まで呼んで握手がしたかったんじゃなかったのかい?」
「違う! 違うわよ!?」
「違うのかい?」

イチローは何も分かっていなかった。

「恋してるのよ、あたし。あなたに。恋は全く突然ね」
「なるほど、恋か」

イチローはようやく納得した。
キュルケの顔は真剣そのものだった。

「あなたが、ギーシュを倒した時のその姿。かっこよかったわ……。まるで伝説のイーヴァルディの勇者……いえ、勇者そのものだったわ! あたしね、それを見て痺れたの! 痺れたのよ! 信じられる!? 情熱よ。これは情熱なのよ!」

興奮したキュルケの話は止まらない。
ベッドから身を乗り出し、大きな胸を揺らしながらイチローへと迫る。
イチローは手を顎に当てて、冷静に答えた。

「つまり、だ」
「ええ」
「君はとても惚れっぽいと」
「そうね」
「で、そのせいでメジャーリーガーである僕に惚れてしまったと」
「え? えぇ、その通りよ」

メジャーリーガーの意味は分からなかったようだが、その他は図星だったようで、キュルケは顔を赤らめた。

「確かにあたしは惚れっぽいかもしれないけど、恋はいつだって突然よ。恋をしたら、あたしの体は炎のように燃え上がってしまうのよ」
「一度アイシングした方がいいんじゃないか?」
「よ、よく分からないけど、とにかくあなたに惚れてしまったの! 好きなのよ!」

キュルケがそう言った時、窓の外が叩かれた。
そこにはうらめしげな顔で部屋の中を覗く男の姿があった。
ちなみに、この部屋は三階にある。
どうやら魔法で浮いているらしかった。

「キュルケ、待ち合わせの時間に君が来ないと思ったら……」
「ベリッソン! ええと、二時間後に!」
「話が違う! そもそも、そこの男は誰だ!? 平民じゃないのか!?」

キュルケは煩そうに、胸の谷間に挿した派手な杖を手に取ると、そちらの方を見もせずに杖を振った。
ロウソクの火が瞬間的に大きくなり、蛇のように伸びて窓ごと男を吹っ飛ばした。

「無粋なフクロウね。せっかくの逢引中に邪魔な輩だわ」

ベリッソンと呼ばれた男は悲鳴を上げて落ちていった。

「うん?」

研ぎ澄まされたイチローの感覚は、ベリッソンとは別の気配を察知していた。
窓に近付いて外を眺めてみる。

「まだ、何人かいるようだね」
「あら? しつこい方達ね」

窓の外では、今度は三人の男達が押し合いへし合いをしていた。

「マニカン! エイジャックス! ギムリ!」

男達の動きが止まる。
キュルケの言葉を逃すまいと、耳を傾けている。

「ええと、とりあえずみんな六時間後に!」
「朝だよ!」

三人の言葉が仲良く唱和した。
彼らは口々に言う。

「キュルケ! 恋人はいないんじゃなかったのか!? 平民がどうして部屋にいる!?」
「そこの平民は誰だ!?」
「待ち合わせの約束はどうなったんだ!? 平民と何をしている!?」

イチローが、その言葉にぴくりと反応した。

見逃すわけにはいかない言葉だった。
イチローは三人へ向かって、つかつかと歩いていく。

「そこの君達」

イチローは窓の前で立ち止まった。

「な、何か用か平民?」
「平民が貴族に意見でもあるのか?」

ただならぬイチローの様子にやや怯えながらも、彼らはイチローに対峙する。

「いいかい、僕は平民じゃない」
「平民じゃないなら、何なんだ?」
「よく聞くんだ、僕は……」

そこで一旦言葉を区切る。
不思議な威厳というものがイチローには溢れていた。
何故だか分からないが、三人は不可思議な威圧感に気圧されて黙り込んだ。
イチローは静かに三人を見回し、大きく息を吸う。

「僕は、メジャーリーガーだ」

堂々と言い放った。

「……はぁ?」
「何を言ってるんだ、こいつ?」
「めじゃあ?」

三人とも、ぽかんとしている。
が、すぐに動きを取り戻した。

「この平民は頭がおかしいんじゃないか!?」
「キュルケ! こんな変な平民よりも僕と!」
「ええい! 僕が先に約束したんだぞ!?」

イチローはやれやれと首を振った。

「君達に、メジャーを……。いや、僕の国での野球というものの流儀を少し教えてあげよう」

そう言うと、イチローは窓の外の三人を無造作に掴み、部屋へと引きずり込んだ。
呻き声を上げて男達が部屋へと雪崩れ込んでくる。

「な、何をするんだ平民!?」
「無礼だぞ!」
「平民の分際で!?」

イチローは無言で男達の襟首を掴むと、順番に自分の目の前に立たせていった。
三人は抵抗しようとするが、イチローの凄まじい膂力にどうする事もできない。
常人離れした怪力であった。
いや、それでもイチローにとっては力をセーブしているのだが、それが三人には分かるはずもない。
なすすべなく立ち尽くす三人に、イチローは言った。

「全員、窓の方を向いてもらおうか」

イチローの言葉には有無を言わさぬ強制力があった。
逆らうのは絶対に許さない。
逆えば殺される。
そんな予感すら三人は感じた。
生物としての本能が危険を訴えていたのだ。
仕方なく三人は渋々と従う。
壊れた窓枠の向こうでは、星々が瞬いていた。

「メジャーを馬鹿にしたお仕置きだ」

そう言うや否や、イチローはバットを振り上げた。
構えも何もない。
ただ純粋に軽くバットを振っただけ。
それでも、風を切ってバットは唸る。
景気のいい音と共に、男達の尻にイチローのバットスイングが炸裂した。

「ギャアアアアアアアアア!?」

三人は仲良く悲鳴を合唱しつつ、夜空の彼方へと吹き飛んだ。
悲鳴は徐々に小さくなり、やがて彼らは星々の輝きの一つに混ざって消えていった。

「場外ホームランだな」

イチローは満足そうに頷いた。
三人同時なので、満塁ホームランだ。
グリーンモンスターですら余裕で越えそうなホームランであった。
──ケツバット。
日本野球における、古代より伝わる伝統的なお仕置きである。
一説によるとその起源は数千年以上前に遡るとも言われているが、定かではない。
こうして、イチロー流のお仕置きは完了した。

「さて、僕はそろそろ戻るよ」

イチローはベッドの上で呆然としていたキュルケに声をかけた。

「……え? えぇッ!? ちょ、ちょっと待ってくださる!?」
「悪いね。お誘いは嬉しいんだが、僕は紳士だから子供には手を出さないんだ。夜の三冠王は清原さんだけで十分だよ。それに……」
「それに?」

キュルケはイチローの言葉を待つ。

「女性問題は野球選手にはご法度だしね。また何年かして、君が大人になったらその時は改めてデートでもしよう」

ひらひらと手を振りながらイチローはキュルケの部屋を去っていった。
その後ろ姿は未練など何もないように、優雅で華麗であった。

「素敵……。ダーリン……」

甘い、うっとりしたような声。
キュルケはイチローが部屋から去った後、いつまでもドアの方を見つめていた。
それは、恋する乙女の眼差しそのものであった。
……ちなみに、この話には余談がある。
イチローが去る直前の事。
キュルケの部屋の前で、桃色の髪の女生徒が不審な動きをしていたのが目撃されている。
やや太り気味の証言者である男子生徒は語る。

「夜食を食べようと思って。食堂に行った時に見かけたんだ。あれは絶対ルイ……。あ、いや、何でもないよ!?」

そこまで言って、証言者は爆発音と共に吹き飛んだという。
結局、誰が何をしていたのかは、定かではない。


翌日の朝。
早朝トレーニングを終えたイチローは、学院から少し離れた草原にルイズと二人でいた。
この場所は、イチローがルイズによって召喚された場所である。
授業の時間が始まるまではまだ余裕がある。
イチローが少し話があると言ってルイズを誘って出てきたのだ。
陽光は暖かだし、朝の空気はルイズにとっても心地良かった。
頬を撫でていくそよ風も、心が洗われるようで気持ちいい。

「イチロー。こんな場所で一体何をするの?」
「まぁ、いいからいいから」

イチローはそう言って、ルイズにある物を手渡した。

「この赤茶色の物は何? 何かの革……?」
「これはね、グローブというんだよ」

陽光に反射して鈍く光るグローブを、ルイズは不思議そうに眺めていた。

「こうやって指を入れて左手にはめるんだ」

イチローはルイズの手に、グローブをはめてあげる。
意外にも肌に馴染むその感覚に、ルイズは驚いた。

「結構しっくり来るわね、これ」
「そうだろう? ルイズさんの手のサイズに合わせて僕がさっき作ったんだよ」
「イチローが作ったの、これ!? しかもさっき!?」
「グローブとバットは自分用の物しか持ってきてなかったからね」
「で、でも、どうやって……?」
「ん? 革は野生の動物の物を使わせてもらったよ」
「や、野生の動物……?」

ルイズは左手にはまっているグローブをしげしげと眺めてみる。
右手の指でそっと表面をなぞってみると、弾力がありながらも柔らかい感触がした。
さらさらしているようで、どこかざらついた面もある。
奇妙な感触だ。確かに、何かの革には違いないだろう。
違いないのだが……。
恐る恐るルイズは聞いてみる。

「ど、動物って、何の動物を使ったの……?」
「早朝ランニング中に、ゲルマニアって国の火山で羽の生えた大きな赤いトカゲを見かけたんだ。僕はそのまま無視してランニングを続けようとしたんだが、突然トカゲが空を飛びながら火を吐いて襲ってきてね。お仕置きのつもりで軽く撫でてやったら、どうも打ち所が悪くて死んでしまって。僕は本来動物好きなんだが、さすがに襲われてはね……。とりあえず、死骸は有効利用しようと思って皮を頂いてきたって寸法さ」

イチローは軽い口調で言った。

「そ、それトカゲじゃないわ! トカゲじゃないわよ!?」

ルイズの声が震えている。
額からは汗がだらだらと流れて止まらない。
何を言っているのだこの男は?
空飛ぶ火トカゲを退治してきた?

「あれ? 違ったのかい?」

イチローはとぼけた声を上げた。

「トカゲが空飛んで火を吐くわけないでしょう!?」
「てっきりここにはそういうトカゲもいるのかと思ってたんだが」
「そんなトカゲいないわよ! ぜ、絶対ドラゴンよそれ!? しかもきっと火竜よ!? お願いだから、ハルケギニア最強の幻獣を散歩ついでに倒さないで!?」
「散歩じゃなくてランニングだよ、ルイズさん」
「同じ事よッ!」

ルイズは真っ赤な顔をして、荒い息を吐きながら興奮している。
今にも口から火でも吹きそうだ。
これでは本題に入れない。
イチローはルイズの背中を軽くさすって、彼女を落ち着かせた。
ルイズの息が整うのをゆっくりと待ってから、イチローは話し始めた。

「落ち着いたかい、ルイズさん?」
「え、えぇ……。イチローの非常識にはそろそろ慣れたとは思ったんだけどね……」
「まぁ、それはともかくとして。キャッチボールをしよう、ルイズさん」
「キャッチボール?」

ルイズの頭の中に疑問符が浮かぶ。

「僕がボールを投げるから、このグローブを使ってキャッチする。そして今度はルイズさんが僕に向かってボールを投げる。それを繰り返すのをキャッチボールって言うんだよ」
「ふーん?」
「僕のいた世界では軽いスポーツみたいなもんだよ」
「スポーツねぇ……」
「ま、やってみれば分かるよ。あ、ちなみにボールはトカゲの骨から作ったんだ」
「げッ!? あ、あんた、何やってんの!? それに、トカゲじゃなくてドラゴンだって言ってるでしょう!?」
「まぁまぁ。じゃあ、始めようか」

イチローがルイズから距離を取って離れる。
ルイズはいまいち釈然としなかったが、イチローの言う通りキャッチボールをしてみる事にした。
グローブを使用した未知のスポーツにも興味があった。

「いくよ、ルイズさん」 
「いいわよー」

キャッチボールの開始だ。

ルイズの返事を聞き届けたイチローが頷いた。
軽く振りかぶって、ボールが山なりに投げられる。
イチローは紳士なので、もちろん本気で投げたりはしない。
本来の力の数万分の一以下で投げたので、ルイズでも取れる程度のボールだ。
これなら問題はない。

「あ、取れたわ」

ルイズのグローブには、しっかりとボールがキャッチされていた。
結構楽しいかもとルイズは思った。

「じゃあ、今度は私の番ね。行くわよ!」

今度はルイズが投げる。
ボールは真っ直ぐにイチローへ向かって飛んでいく。
ルイズは意外にも運動神経は悪くないようだった。

「ナイスボール!」
「やったわ!」

イチローはルイズを褒めつつボールを受け止めた。
また、イチローからすぐにボールが投げ返される。
それをルイズが受け、時には落とし、また返していく。
ボールがグラブに入る音が何度も何度も響いた。
朝の草原に二人のかけ声が木霊する。
──気が付くと、数十分が過ぎていた。

「そろそろ終わりにしようか。ルイズさんの授業も始まるしね」

イチローのその一言で、キャッチボールは終わりになった。

ルイズは額の汗をハンカチで拭く。
心地良い疲労感が体を包んでいた。
こんなに運動したのは久しぶりだった。

「あら、そういえばそろそろ授業ね。それじゃ、私は戻るわよ」
「僕はもう少しここにいるよ。朝から付き合わせて悪かったね」
「結構いい運動になったから構わないわ。それじゃあね、イチロー」
「あぁ、行ってらっしゃい。授業頑張ってね、ルイズさん」

ルイズは学院へと戻っていった。
イチローは、ルイズの後ろ姿が見えなくなるまで黙って見送っていた。

「ルイズさんの魔法……。属性は失われた系統の虚無、か……」

ぽつりと漏らす。
イチローはルイズについて、今や完全にその在り様を理解していた。
キャッチボールとは、心と心の会話であり、対話でもある。
アメリカでは、古来より父と子は何かあればキャッチボールをすると言われている。
日本でも休日に空き地で父と子がキャッチボールをする光景は今でも見られる。
とにかく基本的に、家庭問題から心の悩みまで、キャッチボールをすれば解決するのだ。
メジャーリーガークラスともなれば、キャッチボールさえすれば相手の全てを理解できる。
たった数十分のキャッチボール。
それでもイチローは、ルイズについて魔法系統から家庭事情、友人関係から身長体重まで全てを把握していた。

「まだ、ルイズさんには知らせない方がいいな」

イチローの声は、草原の風に乗って消えていった。



























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最終更新:2008年08月28日 14:43