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草木も眠る深夜。
月は雲に覆われて、すっかりその身を隠している。
トリステイン魔法学院は夜の闇に包まれていた。
普段なら聞こえてくるはずの虫の鳴き声すらもない。
定期的に見回りをしているはずの衛兵の姿すら見えない。
すでに学院の生徒達は夢の中だろう。
だからこそ、この異質な雰囲気には誰も気付いていない。
澱のように濁った空気は、暗澹とした未来を啓次しているようである。
今夜は何かが起こる。
そんな夜であった。

「これで……二十五万ッ!」

一部の無駄もない、完成されたスイングが空気を切り裂いた。
手加減はしているものの、それでも轟音が発生する。
塔の室内で練習すると音がうるさいとルイズから苦情があるため、
基本的に素振りは外でなければできない。
そのため、中庭でイチローは日課のトレーニングを一人黙々と行っていた。
二十五万本の素振りを終えて、軽く息を吐く。
本来ならとっくに切り上げて眠っている時間だが、今夜のイチローは違った。
何か予感とでもいうようなものがあった。
そのため、気が付くといつもよりトレーニングに熱が入ってしまっていたのである。

「隠れてないで、そろそろ出てきたらどうだい?」

無人の中庭に向かって、イチローは声をかけた。
イチローの周囲には誰もいない。
では、独り言なのか。
それともただの勘違いか。
どちらも違う。
イチローはそんなミスを決して犯さない。

「やはり気付いていたのか」

闇の中から、答えがあった。
夜の影に溶け込んでいた一人の人間が、イチローの前にゆっくりと姿を現した。

「いつからだ?」

バリトンの響く低い声。
どうやら男のようだ。

「気付いたのはついさっきさ。それにしても驚いたな。僕がこれほどまでに人の接近に気付かないなんて」
「気配を絶つのは得意でな」

自嘲するように男が答えた。

「で、君はどこの誰で、一体僕に何の用なんだい? 格好からしてコックのようだけど」
「こんな暗闇でもそこまで見えるのか。さすがだな」
「僕はメジャーリーガーだよ。夜はナイターで慣れているし、選球眼にも自信があってね」
「なるほどな」
「それで、まだ答えを聞いてないんだけど?」
「フン……。名前くらいは教えてやろう。俺はライバック。ケイシー・ライバックだ」
「……ライバック? もしかして、アメリカ人かな? どうやってこの世界へ?」
「さぁな。俺はただのコックだ。そんな事は知らんな」
「まともに答える気はないって事か。この様子じゃ、用事の内容も教えてもらえなさそうだ」

イチローが肩をすくめた。
そんなイチローの様子を皮肉気にライバックは見ている。

「俺の用が聞きたいのか?」
「差し支えがなければ、教えてくれると助かるんだけど」
「それはな……」

ライバックの姿が霞むようにぶれた。

「こういう事だッ!」

ライバックが地を蹴る。
体がぶれたように見えたのは、残像が出るほどの動きのためだ。
イチローがどれだけ離れていようと関係ない。
瞬きする間に距離を詰めてくる。
姿勢は、四足歩行をする動物のように低い。
まるで獲物を狙う獰猛な肉食獣の如きだ。
地を駆けるライバック。
助走も何もない、初速からしてすでにトップスピード。
その速度は虎やライオンのそれを遥かに凌駕している。
常人には、ライバックが消えたように目に映るだろう。
だが、イチローは常人ではなかった。
メジャーで百マイルの速球を軽々と打ち返す動体視力は並ではない。
闇の中、しっかりとライバックの動きを捉えていた。
メジャーで鍛え抜かれた肉体は即座に反応し、対応策を頭脳が瞬時に叩き出す。

「思った以上に速い!? だけどッ!」

避けるか。
──否、ライバックの動きが速すぎる。避け切れない。
迎撃は。
──それも否。バットを構えている間にやられる。
防御を。
──可。かろうじて間に合う。

「ぐうッ!?」
「がッ!?」

闇夜の中、中庭に二人の呻き声が響いた。
高速で迫るライバックを、神速で防いでみせたイチロー。
超スピード同士の激突だ。
攻防によって衝撃波が発生する。
大地には激震が走り、世界が揺れた。
二人を中心に地面は陥没し、偶然近くにあった馬小屋は無残にも崩壊していく。
嘶きを残し、崩れる小屋から逃げた馬達が走り去る。
それだけでは終わらない。
余波で学院の塔は大きく揺れ、窓という窓が一斉に割れた。
驚いて叫び声を上げる使い魔達の鳴き声が聞こえてくる。
余波といえど、大地震クラスの揺れだ。
塔に『固定化』の魔法がかかっていなければ、確実に倒壊していたことだろう。
恐らく学院の生徒達は何事かと思い、全て目を覚ましたはずだ。
──やがて、雲が晴れて月が顔を覗かせる。
月の光に照らされ、男達の姿がはっきりと露になった。
互いの腕と腕を顔の前で交差させ、微動だにしない二人。
力は拮抗しているように見えた。

「これほどとはね……。一体何者だい、君は?」

ユニフォームを着た男が顔を歪めながら問いかけた。
イチローだ。
余裕のある普段とは違って、今までにないほど真剣な顔をしている。

「俺はただのコックさ。しかし、これがメジャーリーガーの力か……」

オールバックにした長い髪を後ろでまとめた、大柄な男が答えた。
トリステイン魔法学院の厨房で働く新入りのコック、ケイシー・ライバックである。

「お前さんは俺について色々聞きたいようだな?」
「興味がないといえば嘘になるね」
「それなら、力ずくで聞かせてみたらどうだ?」
「そいつは……いい考えだねッ!」

イチローが距離を取って離れる。
バットを構え、ライバックを見据えようと──。

「いない!?」

目の前から、ライバックの姿が消えていた。

「後ろ……いや、上か!?」
「正解だ」

とっさに気配を察知し、見上げる。
視界に映るのはライバックの姿。
月を背に急降下してくる。
紫電一閃。
まるで夜空を切り裂く流星の如き動き。
雷光の速さでの飛び蹴りだ。

「くッ!?」

スイング途中のこの体勢では、迎撃はおろか避ける事すら無理だ。
受け流すのも不可能。
それなら、不本意ながらもバットを盾に防ぐしかない。

「おおおおおおおッ!」
「ああああああッ!」

男達の声が共鳴し、夜空に響いた。
これが超越者同士の争い。
トリステイン魔法学院が、いや、ハルケギニア全土が震えた。
──機先を制したのはライバックだった。
イチローが地に膝をつく。
慈悲のない圧倒的な暴力。
ライバックの蹴りはバットごしでも、イチローに強烈な衝撃を伝えていた。
さすがのイチローも、不完全な体勢からでは攻撃の全てを受け止め切れなかったのだ。
苛烈かつ、熾烈で激烈な戦いだ。
攻めるライバックが龍ならば、守るイチローは虎であろう。
月下に竜虎の絢爛舞踏は続く。

「くうッ!」

ミシリ、と嫌な音がした。
イチローのバットに、細かな亀裂が広がっていく。
──このままでは、バットごとやられる。
イチローは判断を瞬時に下すと、バットを捨てて地を転がった。
バットは音を立てて真っ二つに砕け、イチローが今までいた場所にライバックが降り立つ。
いつまでも地に体を横たえ、敵に無防備な姿を晒すイチローではない。
すぐに受け身を取って跳ね起きると、ライバックに向かって対峙した。
空気が張り詰め、緊張感が辺りを支配した。
イチローもライバックも、お互いを警戒して動かない。
どちらとも、何も喋らない。
しばしの沈黙が流れる。
風が、イチローの頬を撫でていった。
最初に口を開いたのはイチローからだった。

「参ったな、バットを折られるなんて久々だよ」
「バット一本で被害を最小限に抑えたか。さすがはメジャーリーガーだな」
「そりゃどうも」
「しかし悪いが俺も、メジャー以上にプロフェッショナルなんでね。この程度ならまだまだだな」

ライバックの言葉にイチローの雰囲気が変わった。
闘気のようなオーラ的な何かが、体からは立ち昇っている。
イチローは、静かに怒っていた。

「……メジャーの力を、この程度だと思ってもらっては困るな」
「まだ何かあるというのか? すでにお前の武器であるバットはないぞ」
「バットは武器じゃないよ。野球をするための道具さ。それに、実は僕は元々ピッチャー畑の出身でね」
「それがどうした?」
「こういうことさ」
「何……? うおッ!?」

ライバックは思わず驚きに声を上げた。
イチローが一瞬の早業でライバックの腕を取ったのだ。
メジャーリーガーであるイチローにとって、ボールも人間も大して変わらない。
どちらも同じ、質量ある固体でしかない。
ならば、投げられぬ道理はどこにもない。
ライバックの体を白球に見立て、イチローは掴んだ腕を強引に振りかぶった。
軽々とライバックの体が持ち上がる。

「うおおおッ!!」

雄叫びを上げるイチロー。
その姿は、さながらマウンドで咆哮する投手そのものであった。
強敵を前に脳内ではアドレナリンが分泌され、鍛え上げられた筋肉が躍動する。
芸術的なまでのワインドアップから、背負い投げの要領でのオーバースロー投法。
狙うはど真ん中のストレート。
指先に集約された爆発的なパワーが、レーザービームのごとく放たれる。

「ぬおおおおおおおッ!?」

己が身を弾丸ライナーと化し、ライバックは豪速球のように飛んでいった。
慣性の法則を無視し、地面とは並行にどこまでも真っ直ぐ突き進んでいく。
大きな爆発音がした。
速度が一瞬で音速を突破し、その壁を超えたのだ。
強烈な風圧に抉られた空気は真空の刃を生み出し、地面に深く傷跡を残していく。
ライバックの服は空気との摩擦熱で焼け焦げ、体からは激しく炎が燃え上がった。
勢いは止まらない。
イチローの投球に障害物など関係ない。
炎上するライバックはそのまま学院の風の塔を突き破り、子供がおもちゃを倒すように呆気なく倒壊させた。
『固定化』の魔法がかかっているはずの硬い石壁が、まるで粘土のように簡単に崩れさっていく。
ライバックはそれでもまだ止まらずに、学院の裏手の森まで吹き飛んでいった。
大木を何十本も薙ぎ倒し、石を砕き、土を抉り、森の中にあった小屋を半壊させ、そこでようやく止まった。
木造製の小屋の室内で、大の字になって倒れているライバック。
体は焼け焦げ、炭化しかけた服からは煙が上がっていた。
彼は死んでしまったのか。

「やれやれ。仕事用の一張羅が台無しだ」

そう言ってライバックは無造作に体を起こした。
ライバックは死んでなどいなかった。
コック用の服は焼け落ちてしまったものの、ライバック自身はほぼ無傷であった。
内臓系に多少ダメージはあるが、鋼のような肉体に簡単に傷はつかない。
まさしく不死身のコックである。
イチローが常人ではないように、ライバックもまた常人ではなかったのだ。

「あれでもまだ手加減していたみたいだな。イチロー・スズキ、か。次は俺も、もう少し本気でやるかな」

ライバックは予感していた。
もし次にイチローと戦う時があれば、この程度では済まないだろうと。
それは予感というより、確信に近かった。

「しかし、どうしたもんかな」

自分の体を眺めてみる。
かろうじてズボンは無事だが、上半身を覆っていた服は全て焼けてしまっていた。

「マルトーさんに怒鳴られるな、こりゃ」

ライバックは苦笑しながら学院へと戻っていった。
余談であるが、この後森の小屋をアジトに使用していた某盗賊が、惨状を見て大変困惑したのはまた別の話である。


イチローは中庭で一人、煌々と輝く二つの月を眺めていた。
先ほどの戦いに思いを馳せる。

「まさか、異世界でメジャー級の相手に会えるとはね」

どこか嬉しそうな口調だった。
いや、現にイチローは喜んでいた。
日本でも、アメリカでも、イチローの相手を満足にできる者は少なかった。
真の強敵との対戦は、メジャーリーガーとしての血が騒ぐのだ。

「ライバックか。また、会えるかな」

呟きは、風に乗って消えていく。

「イチロー!」

背後からイチローを呼ぶ声があった。
ルイズが息を切らせて駆け寄ってくる。

「あんた、ここで何やってんの!?」
「やぁ、ルイズさん」
「やぁじゃないわよ! こ、この惨状は何!? 何があったの!? な、何か変な音とか地震がしたと思って外に出てみたら、ま、ま、ま、またこんな、こ、こんな……」

ルイズが小刻みにプルプルと震えている。
どうやら怒りと困惑のあまり、上手く言葉が出てこないようだ。

ルイズが目にしたものは、先日の決闘後のヴェストリ広場のように荒れ果てた中庭の光景だった。

「ちょっとトレーニングに熱が入ってね」
「またトレーニング!? どんなトレーニングしたらこんな風になるの!?」
「色々あってね」 
「色々って……。あれ、あんた、その手……」
「ん? これかい?」

イチローは右手を上げてみせた。
手首から下が、不自然に曲がってプラプラと揺れている。

「お、折れてるの……?」
「いや、折れてはいないよ。脱臼しているだけさ。この程度なら一日あれば治るよ。しかしまさか、あの瞬間に関節を決められていたとはね……」

厳しい目をして、イチローが遠くを見つめた。

「よ、よくわかんないけど、イチローの怪我はとりあえずいいわ。そ、それよりも……」

ルイズはある方向を見て、わなわなと震えている。

「あれ、もしかして……?」
「どうしたんだい、ルイズさん?」

瓦礫の山に向かって、ルイズは指をさす。

「か、か、か、か、か……」
「か?」
「風の塔が壊れてるぅッ!?」
「ルイズさん!?」

ルイズは泡を吹いてその場に卒倒した。

「困ったな」

慌ててルイズの体を起こして抱き上げたものの、
イチローはどうしていいか悩んだ。
とりあえず呼びかけてみる。

「おーい、ルイズさん?」

返事はない。
よっぽどショックだったようで、完璧に気絶している。
これはしばらく目を覚ましそうにない。

「とりあえず、僕が運んであげるか」

イチローは脱臼した手首を自分で嵌めて戻し、
ルイズを抱えたまま歩き出した。
結局この日の出来事は、局地的な大地震が起こったとして処理されたようだ。
真相はイチローとライバックだけが知っている。
ちなみに、倒壊した風の塔では奇跡的に死者は出なかったらしい。
風の塔の建て直し自体はイチローが工事を手伝ったので数日で完了したという。
ただし、莫大な修繕費がかかってオスマン学院長が頭を抱えたとか。


























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