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291 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 21:51:07.75 ID:Nfzqb4JbP 「ただいま~!」  玄関から、ドタドタと慌ただしい足音。  家の中なんだから走らなくてもいいのに。お姉ちゃん、何かいいことでもあったのかな?  そんなことを考えて、私は作り置いてあった、味噌汁が入っているお鍋を温めなおす。ご飯やオカズはレンジで温めなおそう。 「う~い~! おなかすいた~!」  着替え終わったお姉ちゃんが、リビングに飛び出してきた。  今日のTシャツの『うっちゃり』、と書いてある。いつも思うのだけれど、お姉ちゃんはあのTシャツをどこで買ってくるんだろう? 「ちょっと待ってね、お姉ちゃん。もうすぐで、温め終わるから」 「はやく~」  待ちきれないのか、お椀を橋でカンカン打ち鳴らしている。子供っぽいしぐさ。  可愛いなぁ、お姉ちゃん。  お姉ちゃんはいつまでも変わっていない。子供っぽくて、ちょっとおバカだけど、そんな所も可愛い、いつまでも、私の大切な、大好きなお姉ちゃん。  最近、お姉ちゃんの部活のせいで、あんまり時間が取れなかったけど、今日は久しぶりに、二人きりで夕飯を食べることができそう。  私は食事の乗った皿を机に並べる。お姉ちゃんの分と、私の分。 「あれぇ? 憂、まだ食べてなかったの?」  いつもなら、とっくに食べ終わっている時間だった。 「うん、お姉ちゃんを待っていたの」 「そっか~。じゃあ、一緒に食べよっ!」 「うん!」  こうして私の至福の時間が始まる、と思った……。 293 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 21:53:24.71 ID:Nfzqb4JbP 「それでね、その時、アズにゃんがねぇ――」 「あははっ、そうなんだぁー」  ……また、梓ちゃんの話。  私は心の中でそっと溜息をつく。  ここ最近、お姉ちゃんの話には、梓ちゃんがよく出てきていた。ほとんど、と言ってもいいかもしれない。  あの風邪騒動の後から、お姉ちゃんはやたらと梓ちゃんを気にかけているらしい。紬さんが言っていた。  確かに、梓ちゃんは、私から見ても可愛らしいし、気にかけるのもわかるけど……。  最近、お姉ちゃんが抱きついてこないなぁ、なんてことを気にしてしまう。  梓ちゃん、お姉ちゃんにいっぱい抱きつかれているだろうなぁ。お姉ちゃんの抱き心地って、とってもいいんだよね。やわらかくて、温かくて、ホッと安心できる。  いいなぁ。うらやましなぁ。 「――い? おーい、憂?」 「え! あ、な、なに?」 「何じゃないよ~、食べるの止まってるよ? 調子でも悪いの?」 「あ……」  気がつくと私の箸は止まっていて。並べられた食事は、ほとんど減っていない。 「あ、ううん。なんでもないよ、平気平気」 「ホントに? 平気?」  心の底から私を心配してくれる、そんなお姉ちゃんの表情に、チクリと胸が疼いた。  私、嫌な子だ。 298 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 21:56:57.20 ID:Nfzqb4JbP 「……やっぱり、ちょっと調子悪いかも」 「えぇっ! だいじょうぶ? 救急車よぶっ?」 「大丈夫。……ちょっと、部屋で休んでくるね」  お姉ちゃんに心配をかけないよう、笑顔を繕って、食器を片づけた。せっかく作ったご飯だけど、今は食べる気がしなかった。  心配するお姉ちゃんに一言残して、部屋に入る。 「ハァ……」  扉を閉めて、ため息をひとつ。  電気をつけていない暗い部屋は、私の心をそのまま表しているようだった。  私は、梓ちゃんに嫉妬している。  醜い。  心が醜い。  軽音楽部にお姉ちゃんを取られたと思って。梓ちゃんに、奪われたと思って。  本当に、汚い子だ。 「……お姉ちゃん」  大好きな、お姉ちゃん。  大好きで、大好きすぎて。狂ってしまいそうになる。  身の内であれ狂う、情念の、黒い焔。  私は今、なんとかそれに耐えているけど。いつか、爆発してしまう。  お姉ちゃんを求めて。きっと。 「……嫌だなぁ。……苦しいよぉ」  声は小さく沈んで。音は、誰かに届くことなく消えていった。 428 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 23:32:31.83 ID:Nfzqb4JbP  それから泣いて。泣いた、涙が出なくなるくらい。鏡を見ると、赤く腫れた目をした自分の顔が映った。 「……酷い、顔」  唇から漏れた声もまた、酷く掠れていた。気持ち悪い。  自分は何をしているのだろう。実の姉を想って、身勝手に嫉妬して、情欲に身を焦がして。 本当に、気持ち悪い。妹として、失敗作。こんな私に、お姉ちゃんの妹である資格なんてない。  いっそのこと、この家に生まれなければヨカッタのに―― 「お風呂……入ろ」  気がつくと時計の針が随分と進んでいた。いつもなら、予習を終えてとっくに眠っている時間。  泥沼化してきた思考を洗い流そう。そう思って部屋を出る。  廊下は人気が失せたように真っ暗だった。自分の家ではない、そんな錯覚がさっきの思考とつながりそうになる。  お姉ちゃんはもう寝ただろうか。  そうであってほしい。私のこんな顔は、お姉ちゃんには見せられない。  閉められたドアの隙間から、光は漏れていない。ということはもう寝たのだろう。  私はホッと安堵して階段を降りる。   460 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 23:58:54.78 ID:Nfzqb4JbP  階段を降りていると、リビングの電気がまだ点いていることがわかった。 「……え?」  まさか、と思う。  お父さんとお母さんは、今日は帰ってこないはず。二人で温泉旅行に行ったから。だから、考えるのは一人しかいない。  平沢の家の中で、一番朝に弱くて、いっつも一番に寝ている人。 「ん~……んー、うい?」  半分寝ぼけた、微睡みのような返事。  リビングに降りた私を向かえたのは、ソファに座ってうつらうつらと船をこぎながら、それでも懸命に起きていようとしている、私の、大好きなお姉ちゃんだった。 「お姉ちゃん、どうしたの? こんな時間まで……」  驚きを含んだ私の声を聞いているのか聞いていないのか。お姉ちゃんは頭をゆらゆらと揺らして、 「んん? ん~~……はっ!」  それから突然ハッと目が開いた。 「あ、あれ? 私?」  と、混乱したように辺りを見渡して、しばらくキョロキョロしてから視線を私の方に固定する。 「おはよぅ、憂~」 「おはようじゃないよ……」  今、何時だと思っているんだろう。 「お姉ちゃん、こんな時間までなんで起きているの?」 「へっ?」  私のぶつけた疑問に、お姉ちゃんは間の抜けた返事をする。 「えーと、なんで?」  それはこっちが聞きたい。  お姉ちゃんの、いつもの愛らしい、ボケっぷりが、今は何となく腹立たしい。 「もお、じゃあ早く寝ちゃいなよ。私はお風呂入ってくるから」 「あっ……憂」  泣き顔を見られないよう、少し早足でリビングを抜ける。  ああ、私はやっぱり最低な妹だ。  お姉ちゃんがどうして、こんな時間まで起きていたのか、わかっているくせに。それを必死で見ないようにしている。  お姉ちゃんの隣に置かれていたギター。それと、梓ちゃんの顔が浮かんでは消えて。  私の心を塗りつぶしていった。 480 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/22(水) 00:20:15.33 ID:ZiNzTu9aP  お風呂に浸かって考える。  自分のこと。お姉ちゃんのこと。梓ちゃんのこと。それから、軽音部のこと。  あの部活に入ってから、お姉ちゃんは少し変わったように思う。  どこが、とは言えない。でも、ずっとお姉ちゃんの事を見てきた私だから分かる、ほんのち ょっとの差異。  そのせいで、お姉ちゃんは益々魅力的になっている。そのことはただでさえ溢れそうだった 、私のお姉ちゃんへの気持ち。水を並々と注がれたコップのようだったそれが、更に危うい均 衡で保たれる。  そして、梓ちゃんが現れて。私のコップは、割れた。  お姉ちゃんへの気持ちが、歯止めが効かなくなっている。  こんなんじゃいけない。私はただの妹なんだ。そう思うけど。意思とは別のところにある熱が、どうしようもなくお姉ちゃんを求めている。女同士なのに。姉妹なのに。  だから、私はお姉ちゃんから離れなくてはいけない。何もかも、壊してしまう前に。  たとえ胸が張り裂けそうに痛くても。それは罪だから、と耐えなければいけない。許されない想いを抱いた罰として。 「……よし」  ひっそりと、誰にも知られることのない決意を固める。これでいい。こんな想いは風化させるしかない。 「よし、よし」  誰も傷つかないために。何も壊さない。私の一番は、お姉ちゃんが、お姉ちゃんの好きな軽音部が、平穏でいられること。そのためには、梓ちゃんとも気まずくなってはいけない。 「よし、よし!」  頬を打って気合を入れる。これでもう大丈夫と自分に言い聞かせ、私は立ち上がる。  頬から伝った水は冷たかったけど。 240 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/22(水) 23:23:12.18 ID:ZiNzTu9aP 「うん。そう、今日も……うん。それじゃあ、ね」  ピッ、という電子音と共に通話が切れる。  通話の相手は自宅。今日はたまたまお母さんがいたから、留守電にしなくて済んだ。 「あっ、憂。電話終わった?」  しばらく呆けていると、純ちゃんが戻ってきた。私が今いる部屋の主。純ちゃんの部屋の、ベッドに私は腰掛けている。 「うん……。ごめんね、何日もお邪魔しちゃって」 「全然気にしないでいいって。ウチこそ、家事とか手伝ってもらって大助かりなんだから」  純ちゃんはあっけらかんとそういうと、私のとなりに腰を下ろした。  私が純ちゃんの家に泊まるようになってから、もう、一週間になる。  泊まる、と言っても一応、家には毎日帰っているし、親の了解も取ってある。テストが近いから友達と勉強会する、と言ったら意外とあっさり許してくれた。  自分から提案しておいてなんだけど、少し娘を信頼しずきなんじゃないかな。なんて、思ったり。  勉強会、というのはあながち嘘じゃないけど。本当の理由は、別にあった。  ――お姉ちゃん。  お姉ちゃんとは、あの日からほとんど顔を合わせていない。部活を終えたお姉ちゃんが帰ってくる前に、私が家を出ているからだ。  もちろん、学校では学年が違うから、それこそ同じ部活にでも入っていない限り、滅多に会うことはない。  だから、かれこれ一週間、私とお姉ちゃんにまともな会話はなかった。私がお姉ちゃんを避けている。  純ちゃんは、突然の私の願いを快く引き受けてくれた。勉強会したいから、なんて言ったけど、あるいは何か感づいているのかも。けど、純ちゃんがそれを詮索してくることはなかった。  それは、本当にありがたい。  こんな外泊の理由を言えるわけがない。ましてや、そこにある想いなんて。  これ以上、近くにいると、私はきっと「妹」ではいられない―― 「でも、お母さん、憂のこと相当気に入ったみたいだよ。憂の方が娘だったらいいのに、なんて言うんだから」 「あ、あはは……」  純ちゃんの軽口。会話のためのクッション。いつもだったら軽く流しているそれは、今の私には少し辛い。  もし、この家に生まれていて、私が「平沢」じゃなかったら。こんな思いは、しなくて済んだのかな。でも、そうなったら、きっと私とお姉ちゃんは、出会うことがなくて。 「う、憂?」 245 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/22(水) 23:24:18.48 ID:ZiNzTu9aP  それは、辛い、なぁ……。 「あ、あはは、は」 「……憂、泣いてるよ」  えっ。 「あ、うそ。やだ、こんなことで……」  気がつくと、純ちゃんの顔は滲んでいて、ポロポロと冷たいものが、私の頬を伝うのを感じた。  ダメだ、私。この前から、泣いて、ばかりいる。 「……う、くっ。ひっ……」 「憂。私、お風呂入ってくるね」  嗚咽を堪える私に気を遣ったのか、純ちゃんが部屋から出る。ドアがパタンと閉まって、部屋には私一人。  一人になると、急に胸が寂寥感に訪れる。それだけではない、感情の奔流。  溢れ出たそれらは蠱毒になって、私の弱い心を蝕む。身体が、心が、特別な人の温もりを求める。  そうだ、昔から。私が泣いたときは、お姉ちゃんが抱きしめてくれてたっけ。 「う、ぇ……お、ねえちゃ……」  それを思い出しただけで、私の身体の底が、熱く疼く。欲しい。その匂いが、暖かさが、お姉ちゃんが。  そうして灯った肉欲の熱は、さらに私の中で黒い竜巻となって、蹂躙する。 「っく、ァァ――」  言葉にならない叫びをあげて、どうしようもならない想いを抱えたまま、私は啼いた。  抱きしめてくれる人がいないまま……。 327 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 00:07:33.27 ID:BStdoc/PP 「ねえ、憂? ちょっと話があるんだけど、いいかな?」 「あ、梓ちゃん……」  放課後。今日も、勉強会をしようと急いで帰り支度をしていた私の元へ、梓ちゃんが訪れた。  その眼は、いつになく真剣で。だから私は一刻も早くこの場から逃げなくては、と思った。 「えっと、その……。また今度でいい? 今日はちょっと、急いでるから」 「また、勉強会なの?」 「……」  梓ちゃんの口から、その言葉が出る。不思議じゃない。梓ちゃんとお姉ちゃんの仲だから、私と会えないことをお姉ちゃんが話していても不思議じゃない。 「ねえ、憂。どうしたの? 最近、変じゃない?」 「そんなこと、ないよ」 「嘘! なんにもないって言うなら、どうして唯先輩に会おうとしないの!」 「違うよ、それは偶々で……」  違わない。私はお姉ちゃんを避けている。それは紛れもない事実。なのだけど。 「そんなわけないよ! あのお姉ちゃん子の憂が、偶然だからって一週間以上も話さないなんておかしいって!」  なんで。なんで梓ちゃんはこんなことを言うのだろう。こんな、お節介……。 「どうして……」  私の口から疑問の言葉が漏れて出る。 「えっ?」 「どうして、梓ちゃんに、そんなこと言われなきゃいけないの……!」  こんな攻められる風に。よりにもよって梓ちゃんに。  私の、気持ちを、葛藤を、苦しみを知らないくせに。  お姉ちゃんを、私から取って行った、梓ちゃんに――! 「だって」  熱した私に、梓ちゃんの言葉が被さる。  その声は、瞳は、濡れていた。 「嫌なんだもん。二人が、私の大好きな二人が、そんな風になって……」  先ほどまでの気丈な振る舞いとは打って変わって、彼女の声は弱々しくなる。傷ついた猫の様に。  激情に流されていた私の頭から、スゥッと熱が引いていく。梓ちゃんへの一方的だった理不尽な怒りや嫉妬が、彼女の涙で流されていくようだった。 341 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 00:31:04.46 ID:BStdoc/PP 「憂はなんだか暗くて、思いつめたようだし、唯先輩も、いつもの元気がなくて、演奏にも全然身が入ってなくて」 「梓、ちゃん……」 「二人共、私の大切、なのに……。そんな風になっちゃって、だから、せめて二人の力になれたらって……」  ああ。  やっぱり、この子はいい子だよ。とっても小っちゃくて可愛くて、すごく、優しい子だ。  私なんかとは、比べ物にならない。それぐらい、いい子。  こんないい子に、私は醜く嫉妬して。お姉ちゃんは自分のものだと思って、奪われたと感じて。  お姉ちゃんのために? 何も壊さないために?  バカじゃないか。  結局、私は自分のことしか考えていなかったんだ。  お姉ちゃんが離れていくのを感じるのが怖いから、だから、自分から距離をおいた。  でも、梓ちゃんに気遣われるほどに、私の態度はあからさまで。  それがお姉ちゃんへの迷惑にもなって。 「あはは、ホントにバカだなぁ、私」  こんないい子に心配かけて。自分の間違いを気づかされた。 「梓ちゃん、ゴメンね」 「……ぐすっ。謝るなら、私じゃなくて別の人に謝って……多分、あの人が一番辛かったよ」 「うん、ゴメンね。それじゃ」  素早く荷物を詰め込んで、私は、何事かと集まってきていたギャラリーを追い払っていた純ちゃんに一言。 「今日は、泊まらないから」  とだけ告げて、駆け足で向かう。  大切な、私の大好きな人のところへ。  鬱々とした気持ちと、黒い情念が、風に流されるのを感じながら。 359 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 00:56:10.50 ID:BStdoc/PP  部室へ向かうとお姉ちゃんはもう帰ったと告げられた。 『唯には珍しく、やけに急いでいたなぁ。授業が終わったら一目散に帰っちゃてさ。まるで競争でもしているみたいだったよ』  お姉ちゃんと同じクラスの律さんは、こう言っていた。  競争。誰かより、速く、目的地につくこと。  じゃあ、その誰かは誰?  わかっている。そんなこと。  お姉ちゃんはいつもぐうたらで、オッチョコチョイで、どこか抜けていて、自立という言葉から縁遠い人だけど。それでも、大事なことはきちんと見えている人だ。  人に、正しく手をさしのばせる人。そんなこと、私はずっと前から知っていたじゃないか。  だって、私の、お姉ちゃんなんだから。 「ハッ、ハッ、ハッ」  私は走っている。いつもの通学路を。息を切らしながら、それでも足の動きを緩めることはしない。  少しでも、一秒でも早く、たどり着きたいから。  やがて見えてくる、見慣れた建物。よく見知ったドア。  ドアの前に立ち、流行る気持ちを抑えて深呼吸を一回。息を大きく吸うと、激しい動悸が聞こえる。 「……ふぅ。よし!」  気持ちを入れた。ノブに手をかけて、引く。鍵はかかっていない。  開けて、目に入ったのは、茶色のローファー。だらしなく脱ぎ捨てられて、バラバラの方向を向いている。  私は苦笑して、心に暖かいものを感じながら、それらを揃えて。階段を上がる。  上がっていくと、リビングの明かりが見えてきた。いる、あそこに。  どうしよう。どんな顔して会おう。最初に謝ろうか。走ってきたから髪は乱れてないだろうか。それとも――  いろいろなことが矢継ぎ早に、ぐるぐると、走馬灯みたく、駆けめぐり。  そして―― 「憂!!」 400 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 01:27:32.25 ID:BStdoc/PP 「えっ、わ!」  突然の衝撃に体が揺れる。 「お、お姉ちゃん!? わ、ちょ、ちょっと!」 「あーもー! 一週間ぶりの憂だー!」  リビングから飛び出てきたお姉ちゃんは、私の首にしっかりと手を回して、少しきつめの抱擁をしてくる。あと、頬ずりも。 「憂ー憂ー憂ー」 「お、お姉ちゃ、ここ階段だから、あぶな――きゃ!」 「えっ。あ、わー!」  すってんコロリン。  お姉ちゃんの全体重をかけた抱擁は、私にたくさんの安堵と痛みを与えるものだった。 404 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 01:29:35.43 ID:BStdoc/PP 「ごめんねー。痛かったでしょ?」 「う、ううん。元を辿れば私が悪いんだし……」  これくらいの痛み、私の身勝手な行動に比べたら、罰としては足りないくらい。せいぜい背中を打った程度なんだから。どうってことはない。  今、私たちはリビングのソファで、二人、横に並んでいる。 「? どうして憂が悪いの?」 「どうしてって……」  私がお姉ちゃんを避けていたから、なんて言ったら嫌われるだろうか。そんな不安が胸を過る。  だけど、もう、逃げてはいられない。  自分を正当化するのは、やめにしよう。 「お姉ちゃん、聞いて。私……」  避けていたの、という前にお姉ちゃんの指が私の言葉を止める。 「それは違うよ。憂」 「えっ……」  何が、違うというのだろう。 「悪いのはね、ぜーんぶ、私なんだよ」 「お姉ちゃん、それは――」 「違わないよ。だって、私は、お姉ちゃんだもん」 「……おねえ、ちゃん」  予想外の言葉に、私は二の句が継げなくなる。  そんな私を見て、お姉ちゃんはさらに言葉を紡ぐ。 「お姉ちゃんだから、何かあったとき、全部私が悪いの。だから、憂は謝らなくていいんだよ」  その言葉。  昔に、よく聞いた言葉。  私が何かヘマしてしまったとき、お姉ちゃんはいつもこう言って、私のことを庇ってくれた。  いつだって、お姉ちゃんだからって。  だから、私はお姉ちゃんに迷惑をかけないようにしっかりしよう、って思って。いた、のに。 「ね、だから憂。泣かないで、笑って? お姉ちゃんは、憂に笑っていてほしいんだから。だって――」 「憂は、世界でたった一人の、私の妹なんだから」
291 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 21:51:07.75 ID:Nfzqb4JbP 「ただいま~!」  玄関から、ドタドタと慌ただしい足音。  家の中なんだから走らなくてもいいのに。お姉ちゃん、何かいいことでもあったのかな?  そんなことを考えて、私は作り置いてあった、味噌汁が入っているお鍋を温めなおす。ご飯やオカズはレンジで温めなおそう。 「う~い~! おなかすいた~!」  着替え終わったお姉ちゃんが、リビングに飛び出してきた。  今日のTシャツの『うっちゃり』、と書いてある。いつも思うのだけれど、お姉ちゃんはあのTシャツをどこで買ってくるんだろう? 「ちょっと待ってね、お姉ちゃん。もうすぐで、温め終わるから」 「はやく~」  待ちきれないのか、お椀を橋でカンカン打ち鳴らしている。子供っぽいしぐさ。  可愛いなぁ、お姉ちゃん。  お姉ちゃんはいつまでも変わっていない。子供っぽくて、ちょっとおバカだけど、そんな所も可愛い、いつまでも、私の大切な、大好きなお姉ちゃん。  最近、お姉ちゃんの部活のせいで、あんまり時間が取れなかったけど、今日は久しぶりに、二人きりで夕飯を食べることができそう。  私は食事の乗った皿を机に並べる。お姉ちゃんの分と、私の分。 「あれぇ? 憂、まだ食べてなかったの?」  いつもなら、とっくに食べ終わっている時間だった。 「うん、お姉ちゃんを待っていたの」 「そっか~。じゃあ、一緒に食べよっ!」 「うん!」  こうして私の至福の時間が始まる、と思った……。 293 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 21:53:24.71 ID:Nfzqb4JbP 「それでね、その時、アズにゃんがねぇ――」 「あははっ、そうなんだぁー」  ……また、梓ちゃんの話。  私は心の中でそっと溜息をつく。  ここ最近、お姉ちゃんの話には、梓ちゃんがよく出てきていた。ほとんど、と言ってもいいかもしれない。  あの風邪騒動の後から、お姉ちゃんはやたらと梓ちゃんを気にかけているらしい。紬さんが言っていた。  確かに、梓ちゃんは、私から見ても可愛らしいし、気にかけるのもわかるけど……。  最近、お姉ちゃんが抱きついてこないなぁ、なんてことを気にしてしまう。  梓ちゃん、お姉ちゃんにいっぱい抱きつかれているだろうなぁ。お姉ちゃんの抱き心地って、とってもいいんだよね。やわらかくて、温かくて、ホッと安心できる。  いいなぁ。うらやましなぁ。 「――い? おーい、憂?」 「え! あ、な、なに?」 「何じゃないよ~、食べるの止まってるよ? 調子でも悪いの?」 「あ……」  気がつくと私の箸は止まっていて。並べられた食事は、ほとんど減っていない。 「あ、ううん。なんでもないよ、平気平気」 「ホントに? 平気?」  心の底から私を心配してくれる、そんなお姉ちゃんの表情に、チクリと胸が疼いた。  私、嫌な子だ。 298 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 21:56:57.20 ID:Nfzqb4JbP 「……やっぱり、ちょっと調子悪いかも」 「えぇっ! だいじょうぶ? 救急車よぶっ?」 「大丈夫。……ちょっと、部屋で休んでくるね」  お姉ちゃんに心配をかけないよう、笑顔を繕って、食器を片づけた。せっかく作ったご飯だけど、今は食べる気がしなかった。  心配するお姉ちゃんに一言残して、部屋に入る。 「ハァ……」  扉を閉めて、ため息をひとつ。  電気をつけていない暗い部屋は、私の心をそのまま表しているようだった。  私は、梓ちゃんに嫉妬している。  醜い。  心が醜い。  軽音楽部にお姉ちゃんを取られたと思って。梓ちゃんに、奪われたと思って。  本当に、汚い子だ。 「……お姉ちゃん」  大好きな、お姉ちゃん。  大好きで、大好きすぎて。狂ってしまいそうになる。  身の内であれ狂う、情念の、黒い焔。  私は今、なんとかそれに耐えているけど。いつか、爆発してしまう。  お姉ちゃんを求めて。きっと。 「……嫌だなぁ。……苦しいよぉ」  声は小さく沈んで。音は、誰かに届くことなく消えていった。 428 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 23:32:31.83 ID:Nfzqb4JbP  それから泣いて。泣いた、涙が出なくなるくらい。鏡を見ると、赤く腫れた目をした自分の顔が映った。 「……酷い、顔」  唇から漏れた声もまた、酷く掠れていた。気持ち悪い。  自分は何をしているのだろう。実の姉を想って、身勝手に嫉妬して、情欲に身を焦がして。 本当に、気持ち悪い。妹として、失敗作。こんな私に、お姉ちゃんの妹である資格なんてない。  いっそのこと、この家に生まれなければヨカッタのに―― 「お風呂……入ろ」  気がつくと時計の針が随分と進んでいた。いつもなら、予習を終えてとっくに眠っている時間。  泥沼化してきた思考を洗い流そう。そう思って部屋を出る。  廊下は人気が失せたように真っ暗だった。自分の家ではない、そんな錯覚がさっきの思考とつながりそうになる。  お姉ちゃんはもう寝ただろうか。  そうであってほしい。私のこんな顔は、お姉ちゃんには見せられない。  閉められたドアの隙間から、光は漏れていない。ということはもう寝たのだろう。  私はホッと安堵して階段を降りる。   460 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/21(火) 23:58:54.78 ID:Nfzqb4JbP  階段を降りていると、リビングの電気がまだ点いていることがわかった。 「……え?」  まさか、と思う。  お父さんとお母さんは、今日は帰ってこないはず。二人で温泉旅行に行ったから。だから、考えるのは一人しかいない。  平沢の家の中で、一番朝に弱くて、いっつも一番に寝ている人。 「ん~……んー、うい?」  半分寝ぼけた、微睡みのような返事。  リビングに降りた私を向かえたのは、ソファに座ってうつらうつらと船をこぎながら、それでも懸命に起きていようとしている、私の、大好きなお姉ちゃんだった。 「お姉ちゃん、どうしたの? こんな時間まで……」  驚きを含んだ私の声を聞いているのか聞いていないのか。お姉ちゃんは頭をゆらゆらと揺らして、 「んん? ん~~……はっ!」  それから突然ハッと目が開いた。 「あ、あれ? 私?」  と、混乱したように辺りを見渡して、しばらくキョロキョロしてから視線を私の方に固定する。 「おはよぅ、憂~」 「おはようじゃないよ……」  今、何時だと思っているんだろう。 「お姉ちゃん、こんな時間までなんで起きているの?」 「へっ?」  私のぶつけた疑問に、お姉ちゃんは間の抜けた返事をする。 「えーと、なんで?」  それはこっちが聞きたい。  お姉ちゃんの、いつもの愛らしい、ボケっぷりが、今は何となく腹立たしい。 「もお、じゃあ早く寝ちゃいなよ。私はお風呂入ってくるから」 「あっ……憂」  泣き顔を見られないよう、少し早足でリビングを抜ける。  ああ、私はやっぱり最低な妹だ。  お姉ちゃんがどうして、こんな時間まで起きていたのか、わかっているくせに。それを必死で見ないようにしている。  お姉ちゃんの隣に置かれていたギター。それと、梓ちゃんの顔が浮かんでは消えて。  私の心を塗りつぶしていった。 480 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/22(水) 00:20:15.33 ID:ZiNzTu9aP  お風呂に浸かって考える。  自分のこと。お姉ちゃんのこと。梓ちゃんのこと。それから、軽音部のこと。  あの部活に入ってから、お姉ちゃんは少し変わったように思う。  どこが、とは言えない。でも、ずっとお姉ちゃんの事を見てきた私だから分かる、ほんのち ょっとの差異。  そのせいで、お姉ちゃんは益々魅力的になっている。そのことはただでさえ溢れそうだった 、私のお姉ちゃんへの気持ち。水を並々と注がれたコップのようだったそれが、更に危うい均 衡で保たれる。  そして、梓ちゃんが現れて。私のコップは、割れた。  お姉ちゃんへの気持ちが、歯止めが効かなくなっている。  こんなんじゃいけない。私はただの妹なんだ。そう思うけど。意思とは別のところにある熱が、どうしようもなくお姉ちゃんを求めている。女同士なのに。姉妹なのに。  だから、私はお姉ちゃんから離れなくてはいけない。何もかも、壊してしまう前に。  たとえ胸が張り裂けそうに痛くても。それは罪だから、と耐えなければいけない。許されない想いを抱いた罰として。 「……よし」  ひっそりと、誰にも知られることのない決意を固める。これでいい。こんな想いは風化させるしかない。 「よし、よし」  誰も傷つかないために。何も壊さない。私の一番は、お姉ちゃんが、お姉ちゃんの好きな軽音部が、平穏でいられること。そのためには、梓ちゃんとも気まずくなってはいけない。 「よし、よし!」  頬を打って気合を入れる。これでもう大丈夫と自分に言い聞かせ、私は立ち上がる。  頬から伝った水は冷たかったけど。 240 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/22(水) 23:23:12.18 ID:ZiNzTu9aP 「うん。そう、今日も……うん。それじゃあ、ね」  ピッ、という電子音と共に通話が切れる。  通話の相手は自宅。今日はたまたまお母さんがいたから、留守電にしなくて済んだ。 「あっ、憂。電話終わった?」  しばらく呆けていると、純ちゃんが戻ってきた。私が今いる部屋の主。純ちゃんの部屋の、ベッドに私は腰掛けている。 「うん……。ごめんね、何日もお邪魔しちゃって」 「全然気にしないでいいって。ウチこそ、家事とか手伝ってもらって大助かりなんだから」  純ちゃんはあっけらかんとそういうと、私のとなりに腰を下ろした。  私が純ちゃんの家に泊まるようになってから、もう、一週間になる。  泊まる、と言っても一応、家には毎日帰っているし、親の了解も取ってある。テストが近いから友達と勉強会する、と言ったら意外とあっさり許してくれた。  自分から提案しておいてなんだけど、少し娘を信頼しずきなんじゃないかな。なんて、思ったり。  勉強会、というのはあながち嘘じゃないけど。本当の理由は、別にあった。  ――お姉ちゃん。  お姉ちゃんとは、あの日からほとんど顔を合わせていない。部活を終えたお姉ちゃんが帰ってくる前に、私が家を出ているからだ。  もちろん、学校では学年が違うから、それこそ同じ部活にでも入っていない限り、滅多に会うことはない。  だから、かれこれ一週間、私とお姉ちゃんにまともな会話はなかった。私がお姉ちゃんを避けている。  純ちゃんは、突然の私の願いを快く引き受けてくれた。勉強会したいから、なんて言ったけど、あるいは何か感づいているのかも。けど、純ちゃんがそれを詮索してくることはなかった。  それは、本当にありがたい。  こんな外泊の理由を言えるわけがない。ましてや、そこにある想いなんて。  これ以上、近くにいると、私はきっと「妹」ではいられない―― 「でも、お母さん、憂のこと相当気に入ったみたいだよ。憂の方が娘だったらいいのに、なんて言うんだから」 「あ、あはは……」  純ちゃんの軽口。会話のためのクッション。いつもだったら軽く流しているそれは、今の私には少し辛い。  もし、この家に生まれていて、私が「平沢」じゃなかったら。こんな思いは、しなくて済んだのかな。でも、そうなったら、きっと私とお姉ちゃんは、出会うことがなくて。 「う、憂?」 245 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/22(水) 23:24:18.48 ID:ZiNzTu9aP  それは、辛い、なぁ……。 「あ、あはは、は」 「……憂、泣いてるよ」  えっ。 「あ、うそ。やだ、こんなことで……」  気がつくと、純ちゃんの顔は滲んでいて、ポロポロと冷たいものが、私の頬を伝うのを感じた。  ダメだ、私。この前から、泣いて、ばかりいる。 「……う、くっ。ひっ……」 「憂。私、お風呂入ってくるね」  嗚咽を堪える私に気を遣ったのか、純ちゃんが部屋から出る。ドアがパタンと閉まって、部屋には私一人。  一人になると、急に胸が寂寥感に訪れる。それだけではない、感情の奔流。  溢れ出たそれらは蠱毒になって、私の弱い心を蝕む。身体が、心が、特別な人の温もりを求める。  そうだ、昔から。私が泣いたときは、お姉ちゃんが抱きしめてくれてたっけ。 「う、ぇ……お、ねえちゃ……」  それを思い出しただけで、私の身体の底が、熱く疼く。欲しい。その匂いが、暖かさが、お姉ちゃんが。  そうして灯った肉欲の熱は、さらに私の中で黒い竜巻となって、蹂躙する。 「っく、ァァ――」  言葉にならない叫びをあげて、どうしようもならない想いを抱えたまま、私は啼いた。  抱きしめてくれる人がいないまま……。 327 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 00:07:33.27 ID:BStdoc/PP 「ねえ、憂? ちょっと話があるんだけど、いいかな?」 「あ、梓ちゃん……」  放課後。今日も、勉強会をしようと急いで帰り支度をしていた私の元へ、梓ちゃんが訪れた。  その眼は、いつになく真剣で。だから私は一刻も早くこの場から逃げなくては、と思った。 「えっと、その……。また今度でいい? 今日はちょっと、急いでるから」 「また、勉強会なの?」 「……」  梓ちゃんの口から、その言葉が出る。不思議じゃない。梓ちゃんとお姉ちゃんの仲だから、私と会えないことをお姉ちゃんが話していても不思議じゃない。 「ねえ、憂。どうしたの? 最近、変じゃない?」 「そんなこと、ないよ」 「嘘! なんにもないって言うなら、どうして唯先輩に会おうとしないの!」 「違うよ、それは偶々で……」  違わない。私はお姉ちゃんを避けている。それは紛れもない事実。なのだけど。 「そんなわけないよ! あのお姉ちゃん子の憂が、偶然だからって一週間以上も話さないなんておかしいって!」  なんで。なんで梓ちゃんはこんなことを言うのだろう。こんな、お節介……。 「どうして……」  私の口から疑問の言葉が漏れて出る。 「えっ?」 「どうして、梓ちゃんに、そんなこと言われなきゃいけないの……!」  こんな攻められる風に。よりにもよって梓ちゃんに。  私の、気持ちを、葛藤を、苦しみを知らないくせに。  お姉ちゃんを、私から取って行った、梓ちゃんに――! 「だって」  熱した私に、梓ちゃんの言葉が被さる。  その声は、瞳は、濡れていた。 「嫌なんだもん。二人が、私の大好きな二人が、そんな風になって……」  先ほどまでの気丈な振る舞いとは打って変わって、彼女の声は弱々しくなる。傷ついた猫の様に。  激情に流されていた私の頭から、スゥッと熱が引いていく。梓ちゃんへの一方的だった理不尽な怒りや嫉妬が、彼女の涙で流されていくようだった。 341 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 00:31:04.46 ID:BStdoc/PP 「憂はなんだか暗くて、思いつめたようだし、唯先輩も、いつもの元気がなくて、演奏にも全然身が入ってなくて」 「梓、ちゃん……」 「二人共、私の大切、なのに……。そんな風になっちゃって、だから、せめて二人の力になれたらって……」  ああ。  やっぱり、この子はいい子だよ。とっても小っちゃくて可愛くて、すごく、優しい子だ。  私なんかとは、比べ物にならない。それぐらい、いい子。  こんないい子に、私は醜く嫉妬して。お姉ちゃんは自分のものだと思って、奪われたと感じて。  お姉ちゃんのために? 何も壊さないために?  バカじゃないか。  結局、私は自分のことしか考えていなかったんだ。  お姉ちゃんが離れていくのを感じるのが怖いから、だから、自分から距離をおいた。  でも、梓ちゃんに気遣われるほどに、私の態度はあからさまで。  それがお姉ちゃんへの迷惑にもなって。 「あはは、ホントにバカだなぁ、私」  こんないい子に心配かけて。自分の間違いを気づかされた。 「梓ちゃん、ゴメンね」 「……ぐすっ。謝るなら、私じゃなくて別の人に謝って……多分、あの人が一番辛かったよ」 「うん、ゴメンね。それじゃ」  素早く荷物を詰め込んで、私は、何事かと集まってきていたギャラリーを追い払っていた純ちゃんに一言。 「今日は、泊まらないから」  とだけ告げて、駆け足で向かう。  大切な、私の大好きな人のところへ。  鬱々とした気持ちと、黒い情念が、風に流されるのを感じながら。 359 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 00:56:10.50 ID:BStdoc/PP  部室へ向かうとお姉ちゃんはもう帰ったと告げられた。 『唯には珍しく、やけに急いでいたなぁ。授業が終わったら一目散に帰っちゃてさ。まるで競争でもしているみたいだったよ』  お姉ちゃんと同じクラスの律さんは、こう言っていた。  競争。誰かより、速く、目的地につくこと。  じゃあ、その誰かは誰?  わかっている。そんなこと。  お姉ちゃんはいつもぐうたらで、オッチョコチョイで、どこか抜けていて、自立という言葉から縁遠い人だけど。それでも、大事なことはきちんと見えている人だ。  人に、正しく手をさしのばせる人。そんなこと、私はずっと前から知っていたじゃないか。  だって、私の、お姉ちゃんなんだから。 「ハッ、ハッ、ハッ」  私は走っている。いつもの通学路を。息を切らしながら、それでも足の動きを緩めることはしない。  少しでも、一秒でも早く、たどり着きたいから。  やがて見えてくる、見慣れた建物。よく見知ったドア。  ドアの前に立ち、流行る気持ちを抑えて深呼吸を一回。息を大きく吸うと、激しい動悸が聞こえる。 「……ふぅ。よし!」  気持ちを入れた。ノブに手をかけて、引く。鍵はかかっていない。  開けて、目に入ったのは、茶色のローファー。だらしなく脱ぎ捨てられて、バラバラの方向を向いている。  私は苦笑して、心に暖かいものを感じながら、それらを揃えて。階段を上がる。  上がっていくと、リビングの明かりが見えてきた。いる、あそこに。  どうしよう。どんな顔して会おう。最初に謝ろうか。走ってきたから髪は乱れてないだろうか。それとも――  いろいろなことが矢継ぎ早に、ぐるぐると、走馬灯みたく、駆けめぐり。  そして―― 「憂!!」 400 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 01:27:32.25 ID:BStdoc/PP 「えっ、わ!」  突然の衝撃に体が揺れる。 「お、お姉ちゃん!? わ、ちょ、ちょっと!」 「あーもー! 一週間ぶりの憂だー!」  リビングから飛び出てきたお姉ちゃんは、私の首にしっかりと手を回して、少しきつめの抱擁をしてくる。あと、頬ずりも。 「憂ー憂ー憂ー」 「お、お姉ちゃ、ここ階段だから、あぶな――きゃ!」 「えっ。あ、わー!」  すってんコロリン。  お姉ちゃんの全体重をかけた抱擁は、私にたくさんの安堵と痛みを与えるものだった。 404 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 01:29:35.43 ID:BStdoc/PP 「ごめんねー。痛かったでしょ?」 「う、ううん。元を辿れば私が悪いんだし……」  これくらいの痛み、私の身勝手な行動に比べたら、罰としては足りないくらい。せいぜい背中を打った程度なんだから。どうってことはない。  今、私たちはリビングのソファで、二人、横に並んでいる。 「? どうして憂が悪いの?」 「どうしてって……」  私がお姉ちゃんを避けていたから、なんて言ったら嫌われるだろうか。そんな不安が胸を過る。  だけど、もう、逃げてはいられない。  自分を正当化するのは、やめにしよう。 「お姉ちゃん、聞いて。私……」  避けていたの、という前にお姉ちゃんの指が私の言葉を止める。 「それは違うよ。憂」 「えっ……」  何が、違うというのだろう。 「悪いのはね、ぜーんぶ、私なんだよ」 「お姉ちゃん、それは――」 「違わないよ。だって、私は、お姉ちゃんだもん」 「……おねえ、ちゃん」  予想外の言葉に、私は二の句が継げなくなる。  そんな私を見て、お姉ちゃんはさらに言葉を紡ぐ。 「お姉ちゃんだから、何かあったとき、全部私が悪いの。だから、憂は謝らなくていいんだよ」  その言葉。  昔に、よく聞いた言葉。  私が何かヘマしてしまったとき、お姉ちゃんはいつもこう言って、私のことを庇ってくれた。  いつだって、お姉ちゃんだからって。  だから、私はお姉ちゃんに迷惑をかけないようにしっかりしよう、って思って。いた、のに。 「ね、だから憂。泣かないで、笑って? お姉ちゃんは、憂に笑っていてほしいんだから。だって――」 「憂は、世界でたった一人の、私の妹なんだから」 408 :渚色紳士 ◆3ETBrHim5U :2009/07/23(木) 01:36:58.91 ID:BStdoc/PP  ダメだ、と思ったときにはもう遅かった。 「あ、ぅぁぁああああああああんっ!」  涙。  私は、お姉ちゃんにしがみついて、みっともなく泣きわめいていた。それこそ、子供のように。 「よしよし。よくわかんないけど、ゴメンね、憂」  そう言って、お姉ちゃんは私の頭を撫でてくれる。私のことを、ギュッとしながら。  やわらかくて、温かくて、ホッと安心できる、お姉ちゃんを抱きしめて。  私はいつまでも泣いた。  今までと違って、頬に触れた涙はどこまでも暖かかった。

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