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「【ユズコクライシス】」(2010/08/10 (火) 22:33:09) の最新版変更点
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一周年記念企画作品
元作品「マスカレード・キッス」
著者:怖い噂
【ユズコクライシス】
恋をする少女にとって、最大の屈辱はなんだろうか。
それはきっと好きな男の子を、“男”に奪われることだろう。
長い年月、たった一人の少年に恋焦がれてきた少女――茅野《かやの》柚子《ゆずこ》はそれを経験した。
初恋だった。そして、初めての失恋であった。
子供のころから隣の家に住む倉田《くらた》太一《たいち》を『お兄ちゃん』と慕い、ずっと想い続けてきた。
なのに、なのに太一は自分ではなく、彼の親友である沢井《さわい》円《まどか》を恋人として選んだのだ。
円は少し前までは男の子だった。いや、今でも生物学上は男であろう。だが、高等部に入ってから円は変わった。円は女装を始めたのだ。女子の制服に身を包み、スカートを翻す姿は、その辺の女子よりよっぽど可愛かった。顔だけで言えば柚子よりも整っているだろう。
最初柚子はなぜ円が女装を始めたのかわからなかった。この学園にはそういう人も多い。柚子は特には気にしていなかった。
しかし、それから円の太一に対する態度が変わったのだ。いつも円は太一とベタベタし、柚子が太一と話をしていると、怖い目で柚子を睨んできた。
だから柚子は気づいた。円は太一を好きになってしまったのだと。彼――いや、彼女は心は本当に少女になったのだと。
同じ病院で、あの二人がいちゃいちゃしているという話を他の患者から間接的に聞いた時、柚子は病院のベッドの上で、夜な夜な涙を流していた。
体力のある円が先に退院し、病院から出て行くのを柚子はこの窓から見た。その時、円は太一と手を繋ぎ、楽しそうに病院を後にしていた。そして、その時見てしまった。円と太一がキスをしているのを。
先日の爆弾魔の事件、それで傷ついた自分の身体を、慰めるように抱きしめる。体の傷は順調に癒えている。だけど彼女の心にはぽっかりと穴が空いたままであった。
どうして、太一は自分ではなく男である円を選んだのだろう。
柚子の頭の中には、そんな思いが溢れていた。
(いけない……こんなこと、考えちゃ駄目……)
柚子は頭をぶんぶんと振って、自分の心の中に生まれる黒い感情を消し去ろうとした。
しかし、それは簡単に消えるものではない。
その爆弾魔の事件で、太一は円を選んだ。
瀕死の自分を他人に預け、太一は円を助けに行った。それは決して間違ったことではない。むしろ柚子は円を見捨てようとはしなかった太一のことを尊敬すらしている。だけどそれとこれとは別だ。
自分だって太一のために、命を捨てまで爆弾魔に立ち向かった。
そう柚子は考えるが、それは結局太一や円に迷惑をかけるだけだった。
自分はどこまで行っても空回り。
好きだと言うこの気持ちも、ずっと空回りを続いていく。
柚子はその事実を受け入れようとした。太一と円が幸せになれるよう、祝福しようと努めた。
もう初恋は終わったのだ。
しかし――
(この気持ちを、忘れられるわけないよ……お兄ちゃん)
夜の病院で、柚子は声を殺して泣いていた。
すると、コンコンという音が聞こえてきた。
柚子の病室は個室だ。自分以外に物音を発する物はいない。
しかし、その音は何度も聞こえてくる。
(なんだろう。窓の方からかな?)
誰かが窓を外からノックしている。
柚子はベッドから起き上がり、シャッとカーテンを開いた。
この時柚子は気づくべきであった。
ここは病院の三階だ。ベランダもなく、誰かが窓をノックすることなんてありえないということを。
窓の外にいた“何か”と目が合う。
そしてそこにいる“何か”が、柚子の身体に入り込んだ。
※ ※ ※
「柚子ちゃんが意識不明!?」
休日、太一の寮室に遊びに来た円は、太一の意外な言葉に驚いた。
「ああ、昨日の夜からずっと眠ったままらしいんだ……。柚子の怪我はほとんど治ってて、問題も無かったってお医者さんは言ってたんだけど……」
太一は俯きながらそう言った。その表情は本当に哀しんでいるようで、見ている円のほうが辛くなってくるほどであった。それはそうだろう。太一と柚子の付き合いは、円よりずっと長い。太一は柚子のことを本当の妹のように思っていたのだから。
いや、それだけじゃない。太一は少なからず、柚子に好意を寄せていたのも事実だ。
結果として自分を選んだとはいえ、こんな風に心配される柚子に円は嫉妬を覚えた。
でも、そんなのは不謹慎だと気持ちを鎮める。柚子がなぜそんなことになってしまったのか、円も心配になっていた。
(どうしちゃったんだろう柚子ちゃん)
少し前にお見舞いに行った時はおかしな様子はなかった。
いや、と円は思った。
おかしなところが無さ過ぎた、のではないだろうか。
柚子が太一のことを好きだったことを円は知っている。
柚子からすれば好きな男を男にとられたということになる。それで平気な女の子がいるだろうか。
いまらさになって、円は自分の軽率さと無神経さに気付いた。太一と恋人同士になり、浮かれてしまっていて、柚子の気持ちなんて少しもくみ取ってあげることが出来なかったのである。
意識が戻ったら謝ろう。いや、謝るというのもおかしな話だ。
円は柚子にどう接したらいいかわからなかった。
「なあ円。このまま柚子の意識が戻らなかったら俺、俺……」
太一はベッドに腰を下ろしたまま、体を震わせていた。
そんな太一の隣に円はぼすっと腰を下ろして優しく彼の手を握りしめる。
「大丈夫よ太一。外傷はほとんど治ってるんだし、きっとお医者様がなんとかしてくれるわ」
「うん……」
その言葉はきやすめでしかなかった。だけどたの高校生でしかない二人に何かが出来るわけではない。こうしてただ、柚子の意識が戻るのを祈るだけだ。太一の回復能力、“リバースオブパズル”は怪我を直すことはできても、病気を直したり意識を取り戻したりは不可能だ。ましてや円の異能などただの怪力、柚子の力になることなど何一つなかった。
「ごめん円。俺ちょっとトイレ行ってくる……」
そうして太一はトイレに入った。中からかすかに泣き声が聞こえてくるのがわかった。
(私の前でならいくらでも泣いてくれていいのに)
そう思いながらごろりとベッドの上に円は寝転がった。
(太一の匂いがする)
太一の温もりが残っているベッドに沈み、円は眠気を覚えた。ふっと意識が眠りに落ちて行きそうになったその時、
――コンコン。
という音が部屋に響いた。
(何の音?)
ベッドから咄嗟に起き上がった円は、その音の方向へ目を向ける。
窓だ。
窓の外からそれは聞こえる。
円はカーテンを思い切り開いた。
「誰よ悪戯してるのは――」
そう怒鳴ろうとしたが、窓の外にいる人物を見て円は絶句する。
そこには柚子が立っていた。
病院のパジャマ姿のまま、ぽっかりとした虚ろな瞳で円を睨みつけている。彼女は窓にはりつき、無表情のまま指の爪で窓を引っ掻いている。
「柚子ちゃん……!」
ありえない。柚子は今、病院で意識不明になっていると聞いたばかりじゃないか。それともあれは太一の勘違いだったのだろうか。
いや――
円は生気の感じられない柚子の顔を見つめる。
ここは寮の五階だ。窓の外に人が立てるはずがない!
「柚子ちゃん、あなた!」
円はカギを外し、窓を開け放った。
そこで円はあり得ない物を見た。最初円は柚子がてっきり空中に浮いているものだと思ったのだ。
だが違う。
柚子の下半身は五階下の地面に足をつけている。
柚子の上半身が十数メートルもの伸び、この窓まで届かせているのだ。明らかにまともじゃない。人間じゃ――ない!
円が茫然としているうちに、顔を覗かせている円の首に柚子の白い手が伸びてきた。柚子は力強く円の首を締め付ける。
「うぐっ」
柚子の異能は電撃だ。異能は一人一つという前提が覆らない限り、柚子の身体が伸びているのは異能などではない。
(まさか、ラルヴァ?)
円はそう考えるが、首を絞められ、頭に酸素がいかなくなり段々と思考能力が落ちて行った。
(こうなったら仕方ない!)
円は異能を発動させた。円の怪力を使えば柚子の細い腕なんて簡単に外せる。そう思ったのだが、どれだけ力を込めても柚子の腕はびくともしなかった。
(嘘、なんで?)
ギリギリと柚子の指が円の首に食い込んでいく。呼吸は出来ず、意識が遠のいていく。
そんな中、柚子は円に顔を近づけて何かを呟いていた。
その言葉を聞き取り、円はぞっとした。
「お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して……」
そんな怨嗟の言葉が、耳元で延々と続けられた。
このままでは殺される。円は直観した。柚子は自分を恨んでいるのだ。
好きな人を取った自分を。
相手が女なら諦められるかもしれない。だけど自分は男だ。そんな柚子の想いは、円に痛いほど伝わってきた。
(だけど、このまま殺されるわけにはいかないのよ……私は、俺は!)
そう思った瞬間、ザーとトイレの水が流れる音がした。
そしてトイレの扉が開く音も同時に聞こえる。
その瞬間柚子の顔は一瞬動揺し、円から手を放してその場から消えた。
「かはっ!ごほ、ごほ!」
解放された円はえづきながらもなんとか呼吸を整えた。あと少し手を放すのが遅かったら、死んでいたかもしれない。なんとか立ちあがり円は窓の外を見た。もうそこには誰もいない。
「何してるんだ円。気分でも悪いのか?」
泣きはらした顔で、太一はそう尋ねた。
彼はなにも見ていないようである。いや、太一が出てきたからこそ柚子は退いたのだと円は理解した。
「ううん。何も無いよ。ちょっとつわりが……てへへ」
などと冗談のように笑顔で言い、このことは太一には黙っておこうと円は思った。
翌日の放課後、円は「用事があるから」と太一を一人で帰し、彼女は学園のラルヴァ資料室へ訪れていた。
柚子のあれは間違いなくラルヴァが関係しているに違いない。
現に柚子本人は病院のベッドの上で眠っているのだと確認もとった。
(柚子ちゃんは私を狙っている。ならこれは私たちの問題だ)
このことを円は学園側に報告はしなかった。それは柚子のことを汲んでのことであった。化け物になってしまったのを、他人に、自分の好きな人に知られたくはないだろう。
円はこれまでにああいう事例がないか調べた。似たようなラルヴァを探し始める。
ラルヴァの情報が集められている資料室のパソコンにアクセスし、円は検索を始めた。
体が伸びて窓を覗くラルヴァ。
それは簡単に見つかった。
「『高女《たかおんな》』……?」
高女と名付けられているそれは、悪霊タイプのラルヴァであった。
女の嫉妬心に取りつき、憎悪を駆り立てる存在。
取りつかれた女は生き霊となり、憎悪の対象を殺しに来るのだと言う。高女の名前の由来は、霊体を自由に伸縮させ、窓から愛する男と、憎い女を覗き見することからだという。それは江戸の日本から存在する哀れな女の念が生んだラルヴァだった。
(柚子ちゃんは高女に取りつかれたんだ)
嫉妬。柚子はやはり自分たちのことを気にしていたのだとわかった。
当たり前だ。気にしない女の子なんていない。
自分もそうだったと昔のことを思い返す。柚子が太一と仲良く話しているたびに、円は柚子を恨めしそうに睨み、心の中で何度も愚痴った。醜い嫉妬心を持っているのは円も同じだ。ただ、立場が逆転してしまっただけ。
円は暴れ、我がままを言うことでその嫉妬心を解消してきた。
だけど柚子は違う。
彼女はその思いをずっと吐き出せずにいたのだ。
どれだけ柚子が自分のことを恨んでいるか、計り知れないと円は思った。だけど柚子を責める気にはならな。ただただ気の毒。いや、そう思いことすらもおこがましいのではないかと円は唇を噛んだ。
「だけど、恋愛は戦いだ。女の子の人生は愛と言う戦場にある。私は太一を譲れないし、譲る気もない」
そう呟き、自分に言い聞かせる。
このまま退く気は一切ない。
円はどこからか視線を感じることに気づいた。
今もどこからか柚子は円を睨んでいるのだろう。
円は椅子から立ち上がり、その場から駆けだした。
円は逃げ込んだのは人気のない廃工場だ。
否、逃げ込んだのではない。誘い込んだのだ。
ここなら誰にも見られることはない。ラルヴァ状態の柚子も見られないし、誰にも止められることはないだろう。
これはただの女の子同士の喧嘩だ。
一人の男をめぐる、よくある三角関係のもつれだ。
「柚子ちゃん。いるんでしょ。出て来なさい!」
円は鞄を投げ捨て、ファイティングポーズをとる。
すると、廃工場の入口に小さな人影が見えた。足音を立てずに歩み寄って来るそれは、間違いなく柚子であった。無表情で、黒く淀んでいる瞳が不気味だ。まるで目玉がそこになく、大きな空洞が空いているのではないかと錯覚するほどに黒い。
「あなた、私が憎いんでしょ。太一をとられて、悔しいんでしょ。だったらかかってきなさいよ。あなたの嫉妬も、恨みも、哀しみも、全部受け止めてあげるから!」
円がそう叫んだ瞬間、柚子の身体に異変が起きる。上半身が異常に伸び始め、廃工場の高い天井に頭が付いている。それにともなって両腕も無限に伸びて行く。柚子は不気味にゴキゴキと首を傾け、その唇から「お兄ちゃんを返して」と呟き続けている。
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
円は怒声を上げる。その声はもはやただの男の声になっていた。拳を堅く握り締め、奇形化した柚子に向かって駆けだした。
作戦はない。ただ自分の力だけを振り絞って立ち向かう。それだけしか円にはできない。いや、それこそが円の柚子に対する礼儀であった。
しかし、数メートル進んだ瞬間、柚子の長い手が円に向かって伸びてきた。柚子のその手も拳を型作り、凄まじいスピードで円の顔面に衝突した。
ゴキ、と嫌な音がした。円の鼻からは血が噴き出し、その衝撃のまま円の頭はのけ反り、後方へ吹き飛んでいく。数回転しながら地面を転がり、円はなんとか立ち上がろうとした。
「いたた……私の可愛い顔が台無しじゃないのもう」
円は片方の鼻の穴を抑え、ブッと吹き出し鼻の中で溜まってしまっていた血液を出す。顔面が痛むものの、幸い鼻も歯も折れていないようだ。
「ちょっと油断したわ」
そうして再び立ち向かおうとした瞬間、今度はいつの間にか円の視界に入らぬよう、大きく迂回して伸びてきた柚子の左手が円の脇腹を殴りつけた。肋骨が折れる音がした。柚子の手が喰い込み、その勢いのまま円は廃材置き場まで吹き飛ばされる。
「ぐは!」
円は廃材の山に埋もれながら動けないでいた。
そんな円に容赦も無く、柚子は追い打ちをかける。今度は両腕で何度も何度も円を殴りつけた。一撃がまるで砲丸のように重く、円の身体はボロボロになっていく。いくら身体強化をしているとはいえ、円の体力はもはや限界に近付いていた。
「負けるもんですか……!」
そう意気込み、立ち上がろうとするも、またも柚子の伸びる手が向かってくる。
「うりゃあああああああああああああああああああああああ!」
すんでのところで円は避けた。そして地面を蹴り、まっすぐ柚子のほうへ走る。それを阻止しようと後ろから柚子の手が伸びてくるが、それを円は何度も避ける。すると、柚子の伸びた腕は、まるでリボンのように絡まって身動きができなくなった。
「しめた!」
円は渾身のパンチを柚子に向かって放った――
が、円はその拳を寸止めした。
「やっぱできないよ柚子ちゃん。ねえ、元に戻ってよ柚子ちゃん!」
がくりと力なく膝を地面につき、円はそう懇願した。
しかし、柚子は体を縮め、その小さな口をぽっかりと開いて円の首筋に思い切り噛みついた。
「うっ!
」
激しい痛みが走る。しかし、円はそれを振りほどこうとせず、ただ言った。
「ねえ柚子ちゃん。あなたは、私にとってずっと恋敵だったわ。柚子ちゃんが太一と話してるのを見るだけで、私の中にも嫉妬心が芽生えたの。そして今は、あなたにとって私が恋敵でしょうね。でも、それでも私は……」
ぽろぽろと円は涙を流していた。
恥も外聞も無く、ただ泣いていた。
「太一があなたを妹のように大切にしていたのと同じで、柚子ちゃんは私にとっても大事な友達なんだよ……だからお願い、元に戻って……」
それは円の本音であった。
柚子は恋のライバルだ。それでも円と、太一と柚子の三人で遊んでいる時は楽しかった。自分が女装を始め、周りから奇異の目で見られても、柚子は自分を気持ち悪がったりはしなかった。女の子として、対等に扱ってくれた。
同じ男の子を好きになっている段階で、友情が成立するなんて甘いことは考えていない。だけどそれでも円は柚子とは争いたくなかった。
「勝手なことだとはわかってる。許されようとも思ってない。だけど、柚子ちゃんには化け物になって欲しくない。そんなの、太一だって望んでないよ。目を覚まして、悪霊なんかに呑みこまれないで……!」
「マドカ……チャン……」
ふと、そんな声と同時に円に噛みつく力が緩んだ。
その直後、柚子は苦しそうに叫び出し、その口から奇妙な物を吐きだした。
「!」
それは不気味な顔をした女の悪霊だった。それは憎悪に満ちた顔で円を睨む。
「なぜだ、なぜあたしを拒絶する! この女を殺せば男が手に入るというのにいいいいいいいいいい!」
その悪霊こそ、高女と呼ばれる嫉妬を操るラルヴァであった。
「お前が、柚子ちゃんをそそのかしたんだな。くたばれー!」
円は悪霊対策に持ってきていた数珠を手に巻き付け、その拳を、渾身の力を込めて高女に向かって叩きつけた。
その直後、円は力尽き、その場で失神した。
※ ※ ※
「おい円! 柚子が目を覚ましたって!」
太一はそんな朗報を円に知らせようと円の部屋に飛び込んだ。すると、そこには顔にはガーゼ、体は包帯まみれの円の姿があった。ボロボロだ。一体何があったというのだろう。
「どうしたんだよお前それ!」
心配になった太一は円に駆け寄りそう尋ねた。円は照れ臭そうに頬をかき、「てへへ」と笑っていた。
「いや、私も覚えてないのよ。助けてくれた先生たちによると、ラルヴァか何かと戦って、昨日からの記憶が飛んでるみたいなの」
そう笑う円を、太一はぎゅっと抱きしめた。
「何が合ったか知らないけど、無茶すんなよ馬鹿。お前に何かあったら俺は……」
太一の胸に顔をうずめ、円は幸せそうに頷いた。太一の異能“リバースオブパズル”が発動し、ゆっくりとだが円の傷は癒されていく。
「うん。私は大丈夫だから……それゆり太一、柚子ちゃんが目を覚ましたってほんと?」
「ああ、さっき目覚めたんだってよ。よかった。ほんとによかった」
太一は本当に嬉しそうにして、目には涙が浮かんでいた。
円も嬉しかった。友達が無事だったのだから。
翌日、太一と円は柚子の病室を訪れた。
「わざわざお見舞いに来てくれたの? お兄ちゃん。円ちゃん」
柚子は元気そうで、ベッドから体を起こしている。
なぜ意識不明になっていたのかは原因が分からず仕舞いだが、体の傷もあと痕に残ることはなく、あと数日で退院することができるという。
「ねえ柚子ちゃん。眠ってる間、どうしてた?」
円はふと、そんな質問を柚子にした。その質問の意図は円自身にもわからなかった。意味なんてないのかもしれない。自然とそんな言葉が出てしまったのだ。
「何してたって。眠ってるんだから何もできないよ円ちゃん。ああ、なんだか変な夢は見たよ」
「それはどんな夢?」
「うん。なんだかとっても怖い夢。よく覚えてないんだけど……私が怪物になっちゃう、そんな夢だったの……」
そう言う柚子の目は遠くを見つめていた。
円も、それを見てなんとも言えぬ感傷がこみ上げてきた。
「ねえお兄ちゃん。私喉が渇いたな」
くるりとこっちに目を向け、突然柚子は笑顔で太一にそう言った。太一はぽかんとしたが「しょうがないなぁ柚子は」と言って病室から出て行った。
この部屋に残されたのは柚子と円の二人だけであった。
「もう、太一ったら何買ってくるか聞いてないのにもう出て行っちゃった」
円が太一のそそっかしさに呆れていると、柚子が彼女の名を呼んだ。
「円ちゃん」
「……なに?」
少しだけ間を置き、すっと力強い目で円を見つめた。
「私、負けないから。円ちゃんのことは友達だけど、負けないから」
そしてそうぽつりと呟いた。
それに円は苦笑し、
「上等」
と言って彼女の拳を自分の拳で軽く小突いた。
そして二人は同時にクスクスと笑う。
恋敵と書いてライバルと読む。
そして、ライバルと書いて友と読む。
女の友情というものは、かくも不思議に満ちているものであった。
「でも円ちゃんは男だよね」
「そう言う野暮な突っ込みはやめなさい柚子ちゃん」
オワリ
もとの作者様には多大な感謝を
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一周年記念企画作品
元作品「マスカレード・キッス」
著者:怖い噂
【ユズコクライシス】
恋をする少女にとって、最大の屈辱はなんだろうか。
それはきっと好きな男の子を、“男”に奪われることだろう。
長い年月、たった一人の少年に恋焦がれてきた少女――茅野《かやの》柚子《ゆずこ》はそれを経験した。
初恋だった。そして、初めての失恋であった。
子供のころから隣の家に住む倉田《くらた》太一《たいち》を『お兄ちゃん』と慕い、ずっと想い続けてきた。
なのに、なのに太一は自分ではなく、彼の親友である沢井《さわい》円《まどか》を恋人として選んだのだ。
円は少し前までは男の子だった。いや、今でも生物学上は男であろう。だが、高等部に入ってから円は変わった。円は女装を始めたのだ。女子の制服に身を包み、スカートを翻す姿は、その辺の女子よりよっぽど可愛かった。顔だけで言えば柚子よりも整っているだろう。
最初柚子はなぜ円が女装を始めたのかわからなかった。この学園にはそういう人も多い。柚子は特には気にしていなかった。
しかし、それから円の太一に対する態度が変わったのだ。いつも円は太一とベタベタし、柚子が太一と話をしていると、怖い目で柚子を睨んできた。
だから柚子は気づいた。円は太一を好きになってしまったのだと。彼――いや、彼女は心は本当に少女になったのだと。
同じ病院で、あの二人がいちゃいちゃしているという話を他の患者から間接的に聞いた時、柚子は病院のベッドの上で、夜な夜な涙を流していた。
体力のある円が先に退院し、病院から出て行くのを柚子はこの窓から見た。その時、円は太一と手を繋ぎ、楽しそうに病院を後にしていた。そして、その時見てしまった。円と太一がキスをしているのを。
先日の爆弾魔の事件、それで傷ついた自分の身体を、慰めるように抱きしめる。体の傷は順調に癒えている。だけど彼女の心にはぽっかりと穴が空いたままであった。
どうして、太一は自分ではなく男である円を選んだのだろう。
柚子の頭の中には、そんな思いが溢れていた。
(いけない……こんなこと、考えちゃ駄目……)
柚子は頭をぶんぶんと振って、自分の心の中に生まれる黒い感情を消し去ろうとした。
しかし、それは簡単に消えるものではない。
その爆弾魔の事件で、太一は円を選んだ。
瀕死の自分を他人に預け、太一は円を助けに行った。それは決して間違ったことではない。むしろ柚子は円を見捨てようとはしなかった太一のことを尊敬すらしている。だけどそれとこれとは別だ。
自分だって太一のために、命を捨てまで爆弾魔に立ち向かった。
そう柚子は考えるが、それは結局太一や円に迷惑をかけるだけだった。
自分はどこまで行っても空回り。
好きだと言うこの気持ちも、ずっと空回りを続いていく。
柚子はその事実を受け入れようとした。太一と円が幸せになれるよう、祝福しようと努めた。
もう初恋は終わったのだ。
しかし――
(この気持ちを、忘れられるわけないよ……お兄ちゃん)
夜の病院で、柚子は声を殺して泣いていた。
すると、コンコンという音が聞こえてきた。
柚子の病室は個室だ。自分以外に物音を発する物はいない。
しかし、その音は何度も聞こえてくる。
(なんだろう。窓の方からかな?)
誰かが窓を外からノックしている。
柚子はベッドから起き上がり、シャッとカーテンを開いた。
この時柚子は気づくべきであった。
ここは病院の三階だ。ベランダもなく、誰かが窓をノックすることなんてありえないということを。
窓の外にいた“何か”と目が合う。
そしてそこにいる“何か”が、柚子の身体に入り込んだ。
※ ※ ※
「柚子ちゃんが意識不明!?」
休日、太一の寮室に遊びに来た円は、太一の意外な言葉に驚いた。
「ああ、昨日の夜からずっと眠ったままらしいんだ……。柚子の怪我はほとんど治ってて、問題も無かったってお医者さんは言ってたんだけど……」
太一は俯きながらそう言った。その表情は本当に哀しんでいるようで、見ている円のほうが辛くなってくるほどであった。それはそうだろう。太一と柚子の付き合いは、円よりずっと長い。太一は柚子のことを本当の妹のように思っていたのだから。
いや、それだけじゃない。太一は少なからず、柚子に好意を寄せていたのも事実だ。
結果として自分を選んだとはいえ、こんな風に心配される柚子に円は嫉妬を覚えた。
でも、そんなのは不謹慎だと気持ちを鎮める。柚子がなぜそんなことになってしまったのか、円も心配になっていた。
(どうしちゃったんだろう柚子ちゃん)
少し前にお見舞いに行った時はおかしな様子はなかった。
いや、と円は思った。
おかしなところが無さ過ぎた、のではないだろうか。
柚子が太一のことを好きだったことを円は知っている。
柚子からすれば好きな男を男にとられたということになる。それで平気な女の子がいるだろうか。
いまらさになって、円は自分の軽率さと無神経さに気付いた。太一と恋人同士になり、浮かれてしまっていて、柚子の気持ちなんて少しもくみ取ってあげることが出来なかったのである。
意識が戻ったら謝ろう。いや、謝るというのもおかしな話だ。
円は柚子にどう接したらいいかわからなかった。
「なあ円。このまま柚子の意識が戻らなかったら俺、俺……」
太一はベッドに腰を下ろしたまま、体を震わせていた。
そんな太一の隣に円はぼすっと腰を下ろして優しく彼の手を握りしめる。
「大丈夫よ太一。外傷はほとんど治ってるんだし、きっとお医者様がなんとかしてくれるわ」
「うん……」
その言葉はきやすめでしかなかった。だけどたの高校生でしかない二人に何かが出来るわけではない。こうしてただ、柚子の意識が戻るのを祈るだけだ。太一の回復能力、“リバースオブパズル”は怪我を直すことはできても、病気を直したり意識を取り戻したりは不可能だ。ましてや円の異能などただの怪力、柚子の力になることなど何一つなかった。
「ごめん円。俺ちょっとトイレ行ってくる……」
そうして太一はトイレに入った。中からかすかに泣き声が聞こえてくるのがわかった。
(私の前でならいくらでも泣いてくれていいのに)
そう思いながらごろりとベッドの上に円は寝転がった。
(太一の匂いがする)
太一の温もりが残っているベッドに沈み、円は眠気を覚えた。ふっと意識が眠りに落ちて行きそうになったその時、
――コンコン。
という音が部屋に響いた。
(何の音?)
ベッドから咄嗟に起き上がった円は、その音の方向へ目を向ける。
窓だ。
窓の外からそれは聞こえる。
円はカーテンを思い切り開いた。
「誰よ悪戯してるのは――」
そう怒鳴ろうとしたが、窓の外にいる人物を見て円は絶句する。
そこには柚子が立っていた。
病院のパジャマ姿のまま、ぽっかりとした虚ろな瞳で円を睨みつけている。彼女は窓にはりつき、無表情のまま指の爪で窓を引っ掻いている。
「柚子ちゃん……!」
ありえない。柚子は今、病院で意識不明になっていると聞いたばかりじゃないか。それともあれは太一の勘違いだったのだろうか。
いや――
円は生気の感じられない柚子の顔を見つめる。
ここは寮の五階だ。窓の外に人が立てるはずがない!
「柚子ちゃん、あなた!」
円はカギを外し、窓を開け放った。
そこで円はあり得ない物を見た。最初円は柚子がてっきり空中に浮いているものだと思ったのだ。
だが違う。
柚子の下半身は五階下の地面に足をつけている。
柚子の上半身が十数メートルもの伸び、この窓まで届かせているのだ。明らかにまともじゃない。人間じゃ――ない!
円が茫然としているうちに、顔を覗かせている円の首に柚子の白い手が伸びてきた。柚子は力強く円の首を締め付ける。
「うぐっ」
柚子の異能は電撃だ。異能は一人一つという前提が覆らない限り、柚子の身体が伸びているのは異能などではない。
(まさか、ラルヴァ?)
円はそう考えるが、首を絞められ、頭に酸素がいかなくなり段々と思考能力が落ちて行った。
(こうなったら仕方ない!)
円は異能を発動させた。円の怪力を使えば柚子の細い腕なんて簡単に外せる。そう思ったのだが、どれだけ力を込めても柚子の腕はびくともしなかった。
(嘘、なんで?)
ギリギリと柚子の指が円の首に食い込んでいく。呼吸は出来ず、意識が遠のいていく。
そんな中、柚子は円に顔を近づけて何かを呟いていた。
その言葉を聞き取り、円はぞっとした。
「お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんを返して……」
そんな怨嗟の言葉が、耳元で延々と続けられた。
このままでは殺される。円は直観した。柚子は自分を恨んでいるのだ。
好きな人を取った自分を。
相手が女なら諦められるかもしれない。だけど自分は男だ。そんな柚子の想いは、円に痛いほど伝わってきた。
(だけど、このまま殺されるわけにはいかないのよ……私は、俺は!)
そう思った瞬間、ザーとトイレの水が流れる音がした。
そしてトイレの扉が開く音も同時に聞こえる。
その瞬間柚子の顔は一瞬動揺し、円から手を放してその場から消えた。
「かはっ!ごほ、ごほ!」
解放された円はえづきながらもなんとか呼吸を整えた。あと少し手を放すのが遅かったら、死んでいたかもしれない。なんとか立ちあがり円は窓の外を見た。もうそこには誰もいない。
「何してるんだ円。気分でも悪いのか?」
泣きはらした顔で、太一はそう尋ねた。
彼はなにも見ていないようである。いや、太一が出てきたからこそ柚子は退いたのだと円は理解した。
「ううん。何も無いよ。ちょっとつわりが……てへへ」
などと冗談のように笑顔で言い、このことは太一には黙っておこうと円は思った。
翌日の放課後、円は「用事があるから」と太一を一人で帰し、彼女は学園のラルヴァ資料室へ訪れていた。
柚子のあれは間違いなくラルヴァが関係しているに違いない。
現に柚子本人は病院のベッドの上で眠っているのだと確認もとった。
(柚子ちゃんは私を狙っている。ならこれは私たちの問題だ)
このことを円は学園側に報告はしなかった。それは柚子のことを汲んでのことであった。化け物になってしまったのを、他人に、自分の好きな人に知られたくはないだろう。
円はこれまでにああいう事例がないか調べた。似たようなラルヴァを探し始める。
ラルヴァの情報が集められている資料室のパソコンにアクセスし、円は検索を始めた。
体が伸びて窓を覗くラルヴァ。
それは簡単に見つかった。
「『高女《たかおんな》』……?」
高女と名付けられているそれは、悪霊タイプのラルヴァであった。
女の嫉妬心に取りつき、憎悪を駆り立てる存在。
取りつかれた女は生き霊となり、憎悪の対象を殺しに来るのだと言う。高女の名前の由来は、霊体を自由に伸縮させ、窓から愛する男と、憎い女を覗き見することからだという。それは江戸の日本から存在する哀れな女の念が生んだラルヴァだった。
(柚子ちゃんは高女に取りつかれたんだ)
嫉妬。柚子はやはり自分たちのことを気にしていたのだとわかった。
当たり前だ。気にしない女の子なんていない。
自分もそうだったと昔のことを思い返す。柚子が太一と仲良く話しているたびに、円は柚子を恨めしそうに睨み、心の中で何度も愚痴った。醜い嫉妬心を持っているのは円も同じだ。ただ、立場が逆転してしまっただけ。
円は暴れ、我がままを言うことでその嫉妬心を解消してきた。
だけど柚子は違う。
彼女はその思いをずっと吐き出せずにいたのだ。
どれだけ柚子が自分のことを恨んでいるか、計り知れないと円は思った。だけど柚子を責める気にはならな。ただただ気の毒。いや、そう思いことすらもおこがましいのではないかと円は唇を噛んだ。
「だけど、恋愛は戦いだ。女の子の人生は愛と言う戦場にある。私は太一を譲れないし、譲る気もない」
そう呟き、自分に言い聞かせる。
このまま退く気は一切ない。
円はどこからか視線を感じることに気づいた。
今もどこからか柚子は円を睨んでいるのだろう。
円は椅子から立ち上がり、その場から駆けだした。
円は逃げ込んだのは人気のない廃工場だ。
否、逃げ込んだのではない。誘い込んだのだ。
ここなら誰にも見られることはない。ラルヴァ状態の柚子も見られないし、誰にも止められることはないだろう。
これはただの女の子同士の喧嘩だ。
一人の男をめぐる、よくある三角関係のもつれだ。
「柚子ちゃん。いるんでしょ。出て来なさい!」
円は鞄を投げ捨て、ファイティングポーズをとる。
すると、廃工場の入口に小さな人影が見えた。足音を立てずに歩み寄って来るそれは、間違いなく柚子であった。無表情で、黒く淀んでいる瞳が不気味だ。まるで目玉がそこになく、大きな空洞が空いているのではないかと錯覚するほどに黒い。
「あなた、私が憎いんでしょ。太一をとられて、悔しいんでしょ。だったらかかってきなさいよ。あなたの嫉妬も、恨みも、哀しみも、全部受け止めてあげるから!」
円がそう叫んだ瞬間、柚子の身体に異変が起きる。上半身が異常に伸び始め、廃工場の高い天井に頭が付いている。それにともなって両腕も無限に伸びて行く。柚子は不気味にゴキゴキと首を傾け、その唇から「お兄ちゃんを返して」と呟き続けている。
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
円は怒声を上げる。その声はもはやただの男の声になっていた。拳を堅く握り締め、奇形化した柚子に向かって駆けだした。
作戦はない。ただ自分の力だけを振り絞って立ち向かう。それだけしか円にはできない。いや、それこそが円の柚子に対する礼儀であった。
しかし、数メートル進んだ瞬間、柚子の長い手が円に向かって伸びてきた。柚子のその手も拳を型作り、凄まじいスピードで円の顔面に衝突した。
ゴキ、と嫌な音がした。円の鼻からは血が噴き出し、その衝撃のまま円の頭はのけ反り、後方へ吹き飛んでいく。数回転しながら地面を転がり、円はなんとか立ち上がろうとした。
「いたた……私の可愛い顔が台無しじゃないのもう」
円は片方の鼻の穴を抑え、ブッと吹き出し鼻の中で溜まってしまっていた血液を出す。顔面が痛むものの、幸い鼻も歯も折れていないようだ。
「ちょっと油断したわ」
そうして再び立ち向かおうとした瞬間、今度はいつの間にか円の視界に入らぬよう、大きく迂回して伸びてきた柚子の左手が円の脇腹を殴りつけた。肋骨が折れる音がした。柚子の手が喰い込み、その勢いのまま円は廃材置き場まで吹き飛ばされる。
「ぐは!」
円は廃材の山に埋もれながら動けないでいた。
そんな円に容赦も無く、柚子は追い打ちをかける。今度は両腕で何度も何度も円を殴りつけた。一撃がまるで砲丸のように重く、円の身体はボロボロになっていく。いくら身体強化をしているとはいえ、円の体力はもはや限界に近付いていた。
「負けるもんですか……!」
そう意気込み、立ち上がろうとするも、またも柚子の伸びる手が向かってくる。
「うりゃあああああああああああああああああああああああ!」
すんでのところで円は避けた。そして地面を蹴り、まっすぐ柚子のほうへ走る。それを阻止しようと後ろから柚子の手が伸びてくるが、それを円は何度も避ける。すると、柚子の伸びた腕は、まるでリボンのように絡まって身動きができなくなった。
「しめた!」
円は渾身のパンチを柚子に向かって放った――
が、円はその拳を寸止めした。
「やっぱできないよ柚子ちゃん。ねえ、元に戻ってよ柚子ちゃん!」
がくりと力なく膝を地面につき、円はそう懇願した。
しかし、柚子は体を縮め、その小さな口をぽっかりと開いて円の首筋に思い切り噛みついた。
「うっ!」
激しい痛みが走る。しかし、円はそれを振りほどこうとせず、ただ言った。
「ねえ柚子ちゃん。あなたは、私にとってずっと恋敵だったわ。柚子ちゃんが太一と話してるのを見るだけで、私の中にも嫉妬心が芽生えたの。そして今は、あなたにとって私が恋敵でしょうね。でも、それでも私は……」
ぽろぽろと円は涙を流していた。
恥も外聞も無く、ただ泣いていた。
「太一があなたを妹のように大切にしていたのと同じで、柚子ちゃんは私にとっても大事な友達なんだよ……だからお願い、元に戻って……」
それは円の本音であった。
柚子は恋のライバルだ。それでも円と、太一と柚子の三人で遊んでいる時は楽しかった。自分が女装を始め、周りから奇異の目で見られても、柚子は自分を気持ち悪がったりはしなかった。女の子として、対等に扱ってくれた。
同じ男の子を好きになっている段階で、友情が成立するなんて甘いことは考えていない。だけどそれでも円は柚子とは争いたくなかった。
「勝手なことだとはわかってる。許されようとも思ってない。だけど、柚子ちゃんには化け物になって欲しくない。そんなの、太一だって望んでないよ。目を覚まして、悪霊なんかに呑みこまれないで……!」
「マドカ……チャン……」
ふと、そんな声と同時に円に噛みつく力が緩んだ。
その直後、柚子は苦しそうに叫び出し、その口から奇妙な物を吐きだした。
「!」
それは不気味な顔をした女の悪霊だった。それは憎悪に満ちた顔で円を睨む。
「なぜだ、なぜあたしを拒絶する! この女を殺せば男が手に入るというのにいいいいいいいいいい!」
その悪霊こそ、高女と呼ばれる嫉妬を操るラルヴァであった。
「お前が、柚子ちゃんをそそのかしたんだな。くたばれー!」
円は悪霊対策に持ってきていた数珠を手に巻き付け、その拳を、渾身の力を込めて高女に向かって叩きつけた。
その直後、円は力尽き、その場で失神した。
※ ※ ※
「おい円! 柚子が目を覚ましたって!」
太一はそんな朗報を円に知らせようと円の部屋に飛び込んだ。すると、そこには顔にはガーゼ、体は包帯まみれの円の姿があった。ボロボロだ。一体何があったというのだろう。
「どうしたんだよお前それ!」
心配になった太一は円に駆け寄りそう尋ねた。円は照れ臭そうに頬をかき、「てへへ」と笑っていた。
「いや、私も覚えてないのよ。助けてくれた先生たちによると、ラルヴァか何かと戦って、昨日からの記憶が飛んでるみたいなの」
そう笑う円を、太一はぎゅっと抱きしめた。
「何が合ったか知らないけど、無茶すんなよ馬鹿。お前に何かあったら俺は……」
太一の胸に顔をうずめ、円は幸せそうに頷いた。太一の異能“リバースオブパズル”が発動し、ゆっくりとだが円の傷は癒されていく。
「うん。私は大丈夫だから……それゆり太一、柚子ちゃんが目を覚ましたってほんと?」
「ああ、さっき目覚めたんだってよ。よかった。ほんとによかった」
太一は本当に嬉しそうにして、目には涙が浮かんでいた。
円も嬉しかった。友達が無事だったのだから。
翌日、太一と円は柚子の病室を訪れた。
「わざわざお見舞いに来てくれたの? お兄ちゃん。円ちゃん」
柚子は元気そうで、ベッドから体を起こしている。
なぜ意識不明になっていたのかは原因が分からず仕舞いだが、体の傷もあと痕に残ることはなく、あと数日で退院することができるという。
「ねえ柚子ちゃん。眠ってる間、どうしてた?」
円はふと、そんな質問を柚子にした。その質問の意図は円自身にもわからなかった。意味なんてないのかもしれない。自然とそんな言葉が出てしまったのだ。
「何してたって。眠ってるんだから何もできないよ円ちゃん。ああ、なんだか変な夢は見たよ」
「それはどんな夢?」
「うん。なんだかとっても怖い夢。よく覚えてないんだけど……私が怪物になっちゃう、そんな夢だったの……」
そう言う柚子の目は遠くを見つめていた。
円も、それを見てなんとも言えぬ感傷がこみ上げてきた。
「ねえお兄ちゃん。私喉が渇いたな」
くるりとこっちに目を向け、突然柚子は笑顔で太一にそう言った。太一はぽかんとしたが「しょうがないなぁ柚子は」と言って病室から出て行った。
この部屋に残されたのは柚子と円の二人だけであった。
「もう、太一ったら何買ってくるか聞いてないのにもう出て行っちゃった」
円が太一のそそっかしさに呆れていると、柚子が彼女の名を呼んだ。
「円ちゃん」
「……なに?」
少しだけ間を置き、すっと力強い目で円を見つめた。
「私、負けないから。円ちゃんのことは友達だけど、負けないから」
そしてそうぽつりと呟いた。
それに円は苦笑し、
「上等」
と言って彼女の拳を自分の拳で軽く小突いた。
そして二人は同時にクスクスと笑う。
恋敵と書いてライバルと読む。
そして、ライバルと書いて友と読む。
女の友情というものは、かくも不思議に満ちているものであった。
「でも円ちゃんは男だよね」
「そう言う野暮な突っ込みはやめなさい柚子ちゃん」
オワリ
もとの作者様には多大な感謝を
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