【双葉学園忌憚研究部 第三話「釘遊び」】

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【双葉学園忌憚研究部 第三話「釘遊び」】」(2010/08/26 (木) 19:33:55) の最新版変更点

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 暗闇の中で自分を呼ぶ声が聞こえる。  救いを求めるようなその声は、東堂 蒼魔(とうどう そうま)を不愉快にさせた。  まだ幼い頃の自分の声だ。無力で、無知で、何かに縋るしかない愚かで哀れな存在であった自分。  今がそうではないと、言い切れる術もなく。蒼魔はその悲痛な叫びを聞き続けた。  助けて、と呼ぶ声に蒼魔は何もしてやれない。手を伸ばす事もなく、ただ、目を伏せる。  体にまとわりつく、気味の悪い「何か」がぴったりとくっついたまま体中を這い蹲っていく。まるで蛞蝓のような、ヌメヌメとした粘液が蒼魔の指を塗らす。  不快に感じてそこから抜け出そうともがくが、鉛のように重い体が動く事を拒む。頭に残った意識だけが、体中を這い蹲る蛞蝓に埋もれていく自分の様をありありと伝えてくる。  蒼魔は恐怖を覚え、必死にもがいた。頭上に見える微かな光に飛びつくように、体中を捩じらせて蛞蝓を剥がしていく。  落ちていく蛞蝓をすり抜けて、ゆっくりと右腕が上がる。それを頭上に伸ばすと、蒼魔はそこでようやく、助けを呼ぶ声がまぎれもなく自分、幼い頃などではなく、今の自分のものであると理解した。  所詮は自己投影でしかなかったのだ。それに哀れむ自分も。助けを拒否する自分も。すべては自らの醜さや、弱さを理解する為にやっていた事で。  こんな不愉快は夢は消えてしまえと、純粋に願った。自らを否定する、自らの夢の存在など許すはずもない。誰かが助けてくれないなら、自分で捨ててみせる。  蒼魔は蛞蝓をすべて払い落とし、頭上の光を引き寄せてすべての暗闇を払拭した。開放される瞬間。心に安堵の感情が広がり、爽やかで心地よい風を感じる。  だが、足元からの声が決して消える事のない暗闇を映し続けていた。  それも、紛れもなく、蒼魔の声だった。 「自分を否定して、のうのうと生きていられると思うな!」  目が覚めると、自分がこんな夢を見ていたのが何故かすぐに理解できた。  窓を閉め切ったまま寝てしまったのか、教室の中はまるで蒸し風呂のように暑く、体中の穴という穴から噴出す汗がシャツやズボンをぴっちりと密着させている。  おまけに壁中に貼られている黒い布が余計に暑さを演出していた。しかし肝心の窓には貼られておらず、燦々と眩しい太陽の光が蒼魔の瞳を焼き付ける。  先程まで蒼魔が突っ伏していた机には、「悪魔」「黒魔術」「都市伝説」といった気味の悪いワードが書かれている本が何冊が詰みあがっており、その奥にある本棚にはそれが何十冊と並べられていた。  その隣の小さな棚には、髑髏のオブジェや数珠、水晶といったこれまたオカルトチックな小物が置かれている。  ―――――これでは、人が近づかないのも頷ける。はっきりいって寝覚めの気分は最悪だった。蒼魔は音楽プレイヤーのイヤホンを外して立ち上がり、窓を開ける。  爽やかな風が一瞬蒼魔の体をするりと通るが、それ以外は何も変わらなかった。むしろ蝉の鳴き声が余計に教室の中に響いて、暑苦しさを演出した。 (……暑い)  蒼魔は耐え切れずにまた机に突っ伏す。最近の暑さは異常だ。寒いのより暑いのが苦手な蒼魔からするとここ数日は地獄だった。  ……嫌な夢を見た。気分が晴れずにため息をつくが、夢のように足元にある暗闇が吹き飛ぶ事はなかった。最近、特にこういった夢にうなされる事が多い。  授業をさぼってこんな教室で寝ているからだろうか? このおどろおどろしい、薄気味の悪い部室ではそれも頷ける。 (やっぱり、忌憚研究部になんか入部したのが運のツキって事だな……)  蒼魔はそう考えてまたため息をついた。忌憚研究部。結局、蒼魔は入部してしまった。「都市伝説を調査・解決する」というオカルトまがいの部活に。  不本意といえば不本意だ。散々、拒絶してきたのだから。だが、蒼魔にはその意見を変更しても忌憚研究部に入らなければならない理由があった。 「白石、総司郎(しらいし そうじろう)」  部員名簿の一番上、顧問と書かれたその名前。それこそが蒼魔が忌憚研究部に入る理由だった。  こんな夢を見るのも、こんな部活に入るのも、こんなに、「普通」や「特別」にこだわっているのも、そして……こんなにも普通と特別を矛盾させて考えているのも。すべて、この男の所為だ。この男が俺の人生を無茶苦茶にしたんだ。 「クソッ」  蒸し暑い空気に加えて、蝉のつんざくような鳴き声が蒼魔の苛々を助長させる。イヤホンから流れるゆるやかな音楽が、その心を落ち着けた。 「すごい音量。耳、悪くするぞ?」  ふいに背後から声がかかり、驚いて振り返る。  そこには2-Cの優等生、水無瀬 響(みなせ ひびき)がいた。大人しく控えめで、成績優秀、教師のいう事を守り、誰にでも平等に優しくする。まさに模範のような生徒である。  そんなところが蒼魔は普段苦手としているが、この季節だけは苦手意識などまるでなかった。夏服になった彼女は、普段ブレザーの上からでは視認しにくいその豊満なバストを明らかにしてくれる。  露出した白い肌にうっすらと汗の膜が張られている。流れるような長い黒髪の隙間を、透き通った細いうなじに汗の雫が垂れていく。それは思春期の少年にとってはご褒美以外の何物でもないのだ。  ……しかし、いつの間に背後に? 窓を閉めた時見回したが、誰もいなかった。ドアが開く音もしなかったし、現に今も教室のドアは閉まっている。 「水無瀬、いつ来たんだ」 「ん? 今だよ。普通にドア開けてきたけど、君、考え事してて気付かなかったから」  そんなにも考え事に没頭していたのだろうか。自分はもっと、音や気配に敏感な方だと思っていたが。 (なんか、話し方もいつもと違うような)  色々と違和感はあったが、彼女もまたこの暑さで開放的になっているのだろう、と気にしない事にした。体内が煮えたぎるような暑さは誰しもを狂わせるものだ。 「水無瀬もサボりか? 珍しいな」  響はクスリと笑う。 「そんな訳、ないよ。真面目だもの。緊急招集で来たんだ」  まるで自分を客観的に語るその言葉に、蒼魔はなんとなく驚いた。実際、彼女は物凄く真面目なのだが。 「また、緊急招集か。このクソ暑いのにやってられないな」  忌憚研究部では時折、緊急招集がかかる事がある。その手段は携帯にメールや電話があったり、三年生の部員が直接迎えに来たりする。  だが大抵、緊急招集といえどもラルヴァとの戦闘といった非日常的な行事が待っている訳ではなかった。むしろやっている事は普段の部活内容と変わらない。  ただ、普段は教室の中でオカルトや都市伝説の知識を深めているのを、実際に外に出て調査する程度の事だった。  殺したい人間の名前を焼却炉の薪に書いて川に流す「薪流し」、五人以上の人間が集まって呪いたい人間の名前を思い浮かべるとその人間が病院送りになるという「夢壊し」。  二つとも蒼魔が忌憚研究部に入部するきっかけとなった事件である。この事件では、噂の悪意に引き寄せられたラルヴァと戦う事になった。その戦闘はまさに非日常、普通とかけ離れた時間だった。  だからこそ、忌憚研究部に入れば蒼魔は普通でなくなると危惧していたのだが……。 「んで、今日は何の聞き込みだ?」 「……現地調査だよ。裏山で」  響は簡潔に言うと、つまらなさそうに髪をかきあげる。額から零れる汗が光に反射してキラキラと揺らめいた。 「同行者は?」  普段、都市伝説の調査に部員全員で向かう事はない。小さな都市伝説や面白半分で広められる噂は、驚くほど多いからだ。  それらを全員でしらみつぶしに調査しても効率が悪いので、単に調査するだけなら少人数で動く事になっていた。原則的に調査はツーマンセルで行われる。たまに、それに加えて副顧問の教師や三年生が参加する事もあった。  調査した結果、ラルヴァの退治が必要であるとなされれば、全員を招集して解決する。という事になっているらしいが、未だにそういった事態にはなっていなかった。  響は挑戦的な表情で蒼魔を見つめて、ゆっくりと指を指す。 「ここに一人」  その言葉は、響のものとは思えない程毒々しい、挑発的な発音だった。 「……なるほど」  ここで時々サボって昼寝しているのが、バレていたのだろうか。蒼魔はなんとなくバツが悪くて目を逸らす。 (だって、ここ誰も来ないからサボるのに最適なんだよなあ)  挑発的な言動は、「協力しないとばらすぞこの野郎」、という彼女なりのジョークの効いた脅しなのか。とにかくバラされては困るので、蒼魔はうやうやしく頷いた。 「行かせてもらいます」  響はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。  響の背中を見ながら、蒼魔は淡々と歩く。何処に向かうのか、何の都市伝説の調査なのか、一切彼女は話す気はないようだった。  それどころか隣すら歩いてくれない。こちらを気遣う様子もなく、ただひたすらに、迷う事なく歩いていく。  気がつくと裏山に出ていた。都市伝説の舞台といえば裏山とか校舎の裏とか人気の無い体育館とか大抵そんなものだ。そう考えると、この裏山は一体何人の悪意に染められてきたんだろうと思う。 (……山は涼しいかな)  蒼魔はぼんやりとそんな事を考えながら、響の華奢な体に一定の距離を保ちながらついていく。背筋をぴんと伸ばし、立ち止まる事なく進み続ける凛とした彼女の背中はどこか頼もしかった。  普段はもっと弱々しくて、他人の意見に流されやすい印象があるので、余計にギャップに驚く事が多い。そんな響が忌憚研究部に入部した理由。それは、人を助けたいからというものだ。  響自身、自分の事を「偽善者」だと言ったが、まだ見ぬ都市伝説の被害者を助ける為に忌憚研究部に入った、というのは蒼魔にはやはり理解できなかった。  ボランティア精神なのか、聖人の真似事なのか。他人を助ける事で、優越感に浸っているのだろうか? もしくは、非日常的な毎日に身をおくことで、日々の退屈を紛らわせているのか。  そういった下種な勘繰りしかできない自分にうんざりするが、そうでなければ彼女を理解できないのだ。彼女が、別世界の人間だと思ってしまうのだ。そしてそれこそが、蒼魔が響を苦手としている原因だった。 「一つ、聞いてもいい?」  またくだらない自問自答をしていると、ふいに響が話しかけてくる。いい? と聞いてはいるが、決してNOとは答えられない強い口調だった。 「……どうぞ」 「釘遊び」  心臓がドクンと跳ねた。 「って、東堂君のお父さんが考えたんだよね」  この質問に、蒼魔は不快感を感じずにはいられなかった。何故、人の触れられたくないところに触れるのだろうか。彼女はそういう事をするタイプには見えなかったが。  「夢壊し」の事件の時、都市伝説を再現する為に全員で祈ったところ、蒼魔の異能力である「同調(シンクロニシティ)」が暴走して蒼魔の過去をその時一緒に祈っていた、響を含む忌憚研究部のメンバーに見られてしまった。  それは蒼魔が自身の父親に、「お前は普通ではないから」と掌に釘を刺される「釘遊び」をされるというものであった。その過去は蒼魔の心の中に、今も深い傷として刻み込まれている。  誰にも知られたくなかった過去を、蒼魔は自ら忌憚研究部のメンバーに曝け出してしまったのだ。  しかし、それを知ったメンバーは誰も蒼魔を否定しなかった。むしろ励まし、元気付けてくれた。皆何かしら抱えてる辛い過去がある、気にするなと。  これも過去と向き合え、逃げ続けるなという彼女なりの叱咤なのだろうか。先程の夢が脳裏に浮かぶ。 (自らを否定して、のうのうと……)  蒼魔はその通りだと思った。向き合わなければ何も変わらない。今までずっと、過去から逃げ続けてきたのだ。そしてそれを変える為に、こうして忌憚研究部に入ったのだ。 「父親っていうか、正確には血は繋がってないんだ。俺が五歳くらいの頃に再婚した奴だから」 「そう。その人って、今も家にいるの?」  蒼魔の心情など気にもせず、淡々と質問を続ける。蒼魔は訝しげに思いながらも答えた。 「いや……。中学に入ってすぐだったかな。離婚したよ。いきなり家を出て行った」 「じゃあ、もうどこにいるか分からないんだ」 「いや」  蒼魔はそこで言葉を濁す。響はそれもお見通しといった感じで、蒼魔の次の言葉を待った。 「どこにいるかは、知ってる」 「……白石先生、だよね。忌憚研究部の顧問の」  それには答えなかった。答えない事が肯定だった。顧問は忙しいのか、忌憚研究部の活動に姿を現すことは全くなかった。入部して一ヶ月あまり立つが、未だに一度も姿を見た事はない。  蒼魔に釘遊びをした人間が誰なのかを推測するのは、そう難しくない。白石 総司郎の名を聞いたとき、蒼魔は露骨な反応をしていると自分でも思うし、彼に会うことにかなりの執着を見せているからだ。 「うん、そうだよ。この学園にいるのは知ってたけど、どの学部とかは分からなかったし、広すぎて教師なんて調べ切れなかったからもう諦めてたんだけどな。偶然ってあるもんだよな」  響はそれに何も答えなかった。パキリ、と彼女が枝を踏む音が響く。 「水無瀬?」  蒼魔はふいに奇妙な感覚を覚えた。辺りの木々の隙間から、何者かがこちらを見ているような感覚がした。  涼しげな木漏れ日が地面に影を作っている。柔らかな風が蒼魔の頬を撫でる。その風は響の黒い髪もゆるやかに揺らしていく。 (まさかこいつ……ラルヴァが変身した、とかじゃないだろうな)  まさか、と蒼魔は内心で笑った。知的生命体としてのラルヴァの存在もきちんと習ってはいるが、だからといって、蒼魔がラルヴァに狙われる理由がない。  それになにより、彼女は夢壊しの時にしか知れ渡ってないワードを口にした。それは彼女が紛れもなく本物である証明だ。  馬鹿馬鹿しい、と思いながらも、未だ止まらずにずんずんと奥地に向かって歩いていく彼女は、なんとなく別人に見えるのも確かだった。 「なあ水無瀬。今回の都市伝説って……」  と、蒼魔が言った瞬間。ふいに足元に感覚がなくなった。驚いてる暇もないまま、ずぶずぶと右足が沼のようなものに飲み込まれていく。視界はすぐに真っ暗になった。 「!?」  慌てて足を上げようとするが、まるで底なし沼のように右足は深く深く入り込んでいく。気がつけば左足も沼にはまっていた。  ゆっくりと体が沈んでいく中で、気持ち悪い感覚が蒼魔を襲う。内臓の隅々まで覗かれているような、過去に何度か感じた事のある感覚だった。 「水無瀬!? 水無瀬!?」  やはり彼女はラルヴァだったのか? そして、自分は罠にはまってしまったのだろうか? 何故? 自分はここで、殺されてしまうのか……沼に飲み込まれて死んでしまうのか。  恐怖が蒼魔を襲った。死にたくない、と純粋に思った。必死に体をよじらせてもがくが、いつの間にか太ももの辺りまで沈んでしまっている。  まるで、さっきみた夢のようだ……。もしかしてこれは、現実ではないのだろうか。  たまにドラマで見るような、夢から覚めたと思っていればそれも夢だった、というようなものだろうか。そうであればありがたい、というか、そうであってほしい。  だが先程感じていたむせ返るような暑さも、瞳を焼き付ける眩しい太陽の光も、虚像だとは思えない。そしてこの、ふとももをぬらす冷ややかな沼も。 「水無瀬ーーーっ!」  最後に彼女の名前を叫ぶが、暗闇に夢のような一筋の光は現れなかった。そしてそのまま、蒼魔の体はずぶずぶと飲み込まれていった。  沼は口と鼻を塞ぎ、呼吸を阻む。やがて頭のてっぺんまで、無機質で冷たい泥に触れている感覚で支配され、蒼魔の体は完全に動かなくなった。  抜け出そうともがいてみても、ピクリとも動かない。息が出来ない。 (ここで俺は死ぬのか……)  諦めにも近い恐怖が蒼魔の心を満たす。苦しみの中で、ゆっくりと意識が消えていった―――――  雨が降っている。  地面に掌に頭に、容赦なく雨の粒が打ち付けて跳ねる。  あの日もこんな風に雨が降っていただろうか。 (……あの日?)  蒼魔は目を開く。アスファルトのざらざらした感覚が頬をこする。薄暗い街角で、体中に冷たい雨が降り注いでいた。 (これは……これは……あの時の)  激しい雨音に混じって、コツコツと足音が響く。その足音に蒼魔は怯えた。もしこれが自分の記憶であれば、これから自分がどんな目に合うのか、蒼魔は知っているからだ。 「……父さん?」  白石 総司郎をそう呼んでいたのは、蒼魔が中学生の頃だ。そしてこれは、彼がもう二度と蒼魔の前に姿を表さなくなった最後の記憶だ。 「父さん……やめてくれ」  何故ここにいるのか分からない。そして何故、今の自分がこの記憶を体験しているのか分からない。とにかく蒼魔は、これから起こる事を予期してこちらに近づいてくる父を制止した。  しかし足音は何も答えず、蒼魔の視界に黒光りしている革靴を映して傘を捨てる。 「やめて、やめてくれ。いやだ」  蒼魔は何度も呟く。逃げようともがくが、体はピクリとも動かなかった。沼の中で自分は、夢を見ているのだろうか? それともこれは、ラルヴァの呪いなのか。灰色のスーツに身を包んだ父は、ゆっくりと蒼魔の左手を掴む。 「父さん! やめてくれ!」  悲痛な叫びは虚しく雨音に掻き消された。左手に激痛が走る。細長く尖ったものが、手の甲に突き刺さっている。  釘だ。蒼魔は声がでる限りに叫び、逃れようと体を必死によじらせる。 「ぐっ……ああっ! やめてくれ! やめてくれ! 父さん……やめてくれ!」  しかし父は聞こえていないかのように、手の釘をどんどんと押し込んでいく。ぐりぐりと力強く押し込まれた釘が手の甲の肉を削り取っていく。骨がギシギシと軋み、電撃が走るような鋭い痛みが体中を駆け巡った。 「あああああっ! 痛い痛い痛い、やめてくれええええ……やめろよ……やめろよぉ……」  蒼魔はまるで子供のように泣きじゃくって、ひたすらに懇願する。しかし父の手が止まる事はない。傷口からあふれ出す血がアスファルトを汚していく。雨に流れて蒼魔の頬にピタリとついた。 「なんで!? なんでだよ! なんでこんなこと、するんだよ! そんなに俺が普通じゃないのがダメなのかよ! 俺だって、異能力者に生まれたくて生まれた訳じゃない……こんな能力なんていらない! ただ、普通の生活がしたかっただけじゃないか……。父親と母親がいて、当たり前の、普通の、何の特別でもない……」  喚きながらも、左手を貫こうとする釘の勢いは止まらない。ミシミシと骨が悲鳴をあげ、激痛が腕を駆け抜けて蒼魔の声を枯らしていく。 「ぐあああっ! 父さん……何でだ……」  最早声にならない声で、蒼魔はそう呟いた。涙が瞳から零れ落ちて、雨に溶けていく。父の手が高くあがり、鋭く振り下ろされる。激しい衝撃と共に釘は貫通した。  いつもいつも父はこうして、蒼魔の左手に釘を刺す。そして刺し終わった後に、必ず蒼魔の耳元でこうささやく。 「お前は普通じゃない」  その冷たい言葉が、蒼魔の耳に響く時、蒼魔は深い絶望と苦痛に苛まれる。まるで、自分を否定されているようなその言葉。嘲笑されているようなその言葉。何故自分が、こんな言葉を投げかけなければならないんだろう。  考えても考えても答えはでない。ただ、視界には傘を拾ってそのままこちらを振り向きもせずに去っていく父と、自らの血で溢れているアスファルトが映る。  平気だ。この傷は明日にはなくなっている。今までもいつもそうだったから。  コツコツと、無機質な足音が等間隔に響く。このまま自分は取り残されたままなのか……。蒼魔にはそれが悲しかった。結局、俺は過去から逃げられないのか。  静かに目を閉じる。これからどうなるのか、蒼魔にはよくわかる。繰り返すのだ。同じシーンを、いや、過去のシーンかもしれない。とにかく「釘遊び」を、永遠に繰り返すのだ。  このままずっと、過去から逃れられずに――――――― 「光よ……!」  か細くて、だが凛とした声が通る。蒼魔が目を開くと、遠くから一筋の光が放たれた。それは蒼魔に近づくにつれて肥大化していき、やがて眩しくて目が開けていられない程になる。心地よい開放感が蒼魔の体中に溢れる。  蒼魔は目を閉じて、安らかに光に身を任せた。痛みはいつの間にか消えていた。 「東堂君……! 大丈夫?」  目を開くと、ざらりとした小石の感覚が頬にあった。尖った小石の上にうつ伏せになっているので、腹の辺りに突き刺さって痛い。 「水無瀬が助けてくれたのか?」  蒼魔はゆっくりと起き上がり、制服や肌についた砂を払う。響は穏やかに微笑んで頷く。安心したようだった。 「うん……。緊急招集があって、裏山に来いってメールがあったから、来てみたら東堂君が倒れてるのが見えて、その周りに黒い霧みたいなものがあったから……これで」  そう言って響はポケットから小さな十字架を取り出す。それは以前、「夢壊し」の時に副顧問からもらった霊具だった。魂源力を籠めると擬似的な異能が使えるというものだ。 「そうか……俺はやっぱり、ラルヴァに襲われたのか。水無瀬に連れられて裏山まで来たら突然……」 「! 私に……?」  響は驚いて眉を潜める。それはそうだ、自分と同じ姿をしたラルヴァが居ただなんて、驚くだろう。 「でも……何でだ。水無瀬の姿したラルヴァは、俺の過去を知っていた。夢壊しの時にバレた俺の過去を」  響は少し考えるようなそぶりを見せて、やがて小さく口を開く。 「分からない。もしかしたら夢壊しの亜種とか……なのかな。あの時消滅せずに残っていたとか」  確かに、そう考えれば納得がいかない事もない。だとすれば、今回もまた逃したという事になるが。 「大丈夫? 顔色が悪いよ」  心配そうに呟く響に、蒼魔は答えなかった。何故か今は、途方もなく虚しい。胸の内に抱え込んだ想いが、言葉を紡いで零れていく。 「……なんでだろう。あいつが……あの男が、俺に釘を刺す度に、俺は自分なんていなくなってしまえばいいのかと思った。普通じゃないってそういう事なのかと。俺が異能力者だから、こんな目にあうのかって、毎日毎日やるせなかった。こんな目に合うなら……いっその事、生まれない方がマシだとも思った」  響は何も言わず、蒼魔を見つめる。蒼魔は響の顔を見ずに、地面を見つめたまま尚もボロボロと言葉を零す。 「夜中にな。釘遊びが終わって……一人で天井を眺めながら寝ると、自分は本当に世界で一人きりなんじゃないかって思えてきて。自分が今ここで死んだら、きっと誰も悲しまないんじゃないかって。そう思うとな、死ぬとか、死なないとかじゃなくてさ、怖くなったんだ。単純に怖くて怖くてたまらなくなった。」  何故こんな話をしているんだろう。情けない。一人で抱えているのに、もう耐えられなくなったのだろうか? 誰かに少しでも自分の苦しみを共有してほしかったのだろうか……。それを証明するかのように、あふれ出す言葉は止まらなかった。 「死ぬ事が怖いんじゃない。自分の存在が……誰の心にも残らないのが怖い。俺は普通が大好きだよ。普通でいたいって思う。ただ、誰かにとって『特別』でありたいだけなんだ」  それは家族だっていい。友達だっていい。恋人でもいい。とにかく特別に、自分の存在を確立させたい。人という媒介を通じて。  ただそれだけの望みなのに、何故それが叶わないのだろう……。蒼魔はまた悲痛な想いを感じて、そのまま黙り込んでしまった。響は沈痛な面持ちでそれを眺めている。  ややあって、口を開いた彼女から出た言葉は驚くべきものだった。 「……ウジウジウジウジ。いつまでも、そうやって後ろを向いているの?」  蒼魔は顔を上げて響を見る。彼女の瞳は、怒りや、哀しみや、様々な感情の混じった強い光を宿していた。 「私は、東堂君の気持ちが分からない。死ぬ事が怖くないなんて、言えちゃうのが信じられない。……だって貴方は今、生きてるじゃない。普通とか、特別とかじゃなくて、確かにここで生きてるじゃない」  悲愴感のある彼女の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。普段感情を露にしない彼女が、何故こんなに怒っているのだろう。蒼魔は驚いていた。 「今、この一瞬に、この一秒に、誰かが死んでる。この刹那に、自ら命を捨てたり、望まないで命を失ったりしてる。そんな中で、貴方は確かに今、生きてる。今、一秒一秒、貴方はこの生存競争に勝ってるじゃない!」  強く叫ぶ彼女の言葉が次々と蒼魔の胸に刺さる。 「そんな貴方がまだ、何かを求めるの。自分から心も開かないクセに。自分は普通だって、誰の目にも映らない平凡だって言い張るクセに。本当は助けてほしいって言うの。本当は特別になりたいって言うの。それは傲慢よ。哲学の真似事よ。命を弄ぶ冒涜よ」  言い返せなかった。確かに自分は、矛盾している。何も行動を起こさないで、自分の未来に絶望している。端から見れば本当に情けないんだろうなと、蒼魔は自嘲気味に笑った。 「水無瀬の言うとおりだな。俺は……何もしていない。全部、過去の……釘遊びの所為にして、悲劇のヒーローぶってるだけだ」  認めてみると、案外気持ちが楽になった。彼女に許しを請う事で、許された気になっているのだろうか。今までの自分を救えた気になったのだろうか。とにかく、今は体中の重しが取れたような気分になった。 「……白石先生の事は、すごく辛かったんだと思う。でも、誰しも、辛い思いを抱えて生きてるんだもの。東堂君にだって乗り越えられるはずだよ」  響はそう言うと、立ち上がった。 「帰ろう。今回のこと、先生に報告しとかないと」  蒼魔は頷いて、勢いよく立ち上がる。心地よい風が木々の枝を揺らす。蒼魔の頬を撫でて、若葉の匂いが鼻をすうっと通っていった。  苦しい過去が消えたわけではない。未来への不安がなくなった訳ではない。だが、今はもう少し、踏ん張ってみよう。そう思うようになっていた。  忌憚研究部で自分がどこまで変われるか、試してみるのも悪くは無い。過去を克服する為に、ここにいるのだから。 「悪いな、カッコ悪いとこばっかり見せちゃってさ。恥ずかしいよ」 「ううん、気にしないで」  響は首を振って、穏やかに微笑む。……これは本当に、脈有りと考えてもいいのだろうか? 彼女がここまで自分に激情をぶつけてくるとは思わなかったので、蒼魔はなんとなくドギマギしていた。 「……なあ、もし、水無瀬も何か悩んでる事があれば、俺に言ってくれよ。俺ばっかり、愚痴言うのはなんだか申し訳ないしさ」  蒼魔がそう言うと、響は何故か悲しそうな顔をした。 「うん……。考えとく」  それが何故かは分からなかったが、何かしら彼女も深いものを抱えているのだろう。蒼魔はこれ以上、追求しない事にした。  むせ返るような暑さは、木漏れ日と涼しい風のおかげで幾分かマシになっていた。それでも汗が噴き出る事に変わりは無い。蒼魔は制服の胸元を掴んで、パタパタと団扇代わりに扇いだ。  でこぼこの砂利道を、どちらからともなく歩き出す。蒼魔はなんとなく今の時間が心地よく感じた。彼女に対する苦手意識が、減ったように思えた。  それも少し自分が成長した証なのだと思えて、なんとなく誇らしい。しばらく二人は、沈黙のまま校舎に続く道を歩いた。相変わらず耳を劈く蝉の鳴き声は響き続けたままで。                                                   つづく ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]
 暗闇の中で自分を呼ぶ声が聞こえる。  救いを求めるようなその声は、東堂 蒼魔(とうどう そうま)を不愉快にさせた。  まだ幼い頃の自分の声だ。無力で、無知で、何かに縋るしかない愚かで哀れな存在であった自分。  今がそうではないと、言い切れる術もなく。蒼魔はその悲痛な叫びを聞き続けた。  助けて、と呼ぶ声に蒼魔は何もしてやれない。手を伸ばす事もなく、ただ、目を伏せる。  体にまとわりつく、気味の悪い「何か」がぴったりとくっついたまま体中を這い蹲っていく。まるで蛞蝓のような、ヌメヌメとした粘液が蒼魔の指を塗らす。  不快に感じてそこから抜け出そうともがくが、鉛のように重い体が動く事を拒む。頭に残った意識だけが、体中を這い蹲る蛞蝓に埋もれていく自分の様をありありと伝えてくる。  蒼魔は恐怖を覚え、必死にもがいた。頭上に見える微かな光に飛びつくように、体中を捩じらせて蛞蝓を剥がしていく。  落ちていく蛞蝓をすり抜けて、ゆっくりと右腕が上がる。それを頭上に伸ばすと、蒼魔はそこでようやく、助けを呼ぶ声がまぎれもなく自分、幼い頃などではなく、今の自分のものであると理解した。  所詮は自己投影でしかなかったのだ。それに哀れむ自分も。助けを拒否する自分も。すべては自らの醜さや、弱さを理解する為にやっていた事で。  こんな不愉快は夢は消えてしまえと、純粋に願った。自らを否定する、自らの夢の存在など許すはずもない。誰かが助けてくれないなら、自分で捨ててみせる。  蒼魔は蛞蝓をすべて払い落とし、頭上の光を引き寄せてすべての暗闇を払拭した。開放される瞬間。心に安堵の感情が広がり、爽やかで心地よい風を感じる。  だが、足元からの声が決して消える事のない暗闇を映し続けていた。  それも、紛れもなく、蒼魔の声だった。 「自分を否定して、のうのうと生きていられると思うな!」  目が覚めると、自分がこんな夢を見ていたのが何故かすぐに理解できた。  窓を閉め切ったまま寝てしまったのか、教室の中はまるで蒸し風呂のように暑く、体中の穴という穴から噴出す汗がシャツやズボンをぴっちりと密着させている。  おまけに壁中に貼られている黒い布が余計に暑さを演出していた。しかし肝心の窓には貼られておらず、燦々と眩しい太陽の光が蒼魔の瞳を焼き付ける。  先程まで蒼魔が突っ伏していた机には、「悪魔」「黒魔術」「都市伝説」といった気味の悪いワードが書かれている本が何冊が詰みあがっており、その奥にある本棚にはそれが何十冊と並べられていた。  その隣の小さな棚には、髑髏のオブジェや数珠、水晶といったこれまたオカルトチックな小物が置かれている。  ―――――これでは、人が近づかないのも頷ける。はっきりいって寝覚めの気分は最悪だった。蒼魔は音楽プレイヤーのイヤホンを外して立ち上がり、窓を開ける。  爽やかな風が一瞬蒼魔の体をするりと通るが、それ以外は何も変わらなかった。むしろ蝉の鳴き声が余計に教室の中に響いて、暑苦しさを演出した。 (……暑い)  蒼魔は耐え切れずにまた机に突っ伏す。最近の暑さは異常だ。寒いのより暑いのが苦手な蒼魔からするとここ数日は地獄だった。  ……嫌な夢を見た。気分が晴れずにため息をつくが、夢のように足元にある暗闇が吹き飛ぶ事はなかった。最近、特にこういった夢にうなされる事が多い。  授業をさぼってこんな教室で寝ているからだろうか? このおどろおどろしい、薄気味の悪い部室ではそれも頷ける。 (やっぱり、忌憚研究部になんか入部したのが運のツキって事だな……)  蒼魔はそう考えてまたため息をついた。忌憚研究部。結局、蒼魔は入部してしまった。「都市伝説を調査・解決する」というオカルトまがいの部活に。  不本意といえば不本意だ。散々、拒絶してきたのだから。だが、蒼魔にはその意見を変更しても忌憚研究部に入らなければならない理由があった。 「白石、総司郎(しらいし そうじろう)」  部員名簿の一番上、顧問と書かれたその名前。それこそが蒼魔が忌憚研究部に入る理由だった。  こんな夢を見るのも、こんな部活に入るのも、こんなに、「普通」や「特別」にこだわっているのも、そして……こんなにも普通と特別を矛盾させて考えているのも。すべて、この男の所為だ。この男が俺の人生を無茶苦茶にしたんだ。 「クソッ」  蒸し暑い空気に加えて、蝉のつんざくような鳴き声が蒼魔の苛々を助長させる。イヤホンから流れるゆるやかな音楽が、その心を落ち着けた。 「すごい音量。耳、悪くするぞ?」  ふいに背後から声がかかり、驚いて振り返る。  そこには2-Cの優等生、水無瀬 響(みなせ ひびき)がいた。大人しく控えめで、成績優秀、教師のいう事を守り、誰にでも平等に優しくする。まさに模範のような生徒である。  そんなところが蒼魔は普段苦手としているが、この季節だけは苦手意識などまるでなかった。夏服になった彼女は、普段ブレザーの上からでは視認しにくいその豊満なバストを明らかにしてくれる。  露出した白い肌にうっすらと汗の膜が張られている。流れるような長い黒髪の隙間を、透き通った細いうなじに汗の雫が垂れていく。それは思春期の少年にとってはご褒美以外の何物でもないのだ。  ……しかし、いつの間に背後に? 窓を閉めた時見回したが、誰もいなかった。ドアが開く音もしなかったし、現に今も教室のドアは閉まっている。 「水無瀬、いつ来たんだ」 「ん? 今だよ。普通にドア開けてきたけど、君、考え事してて気付かなかったから」  そんなにも考え事に没頭していたのだろうか。自分はもっと、音や気配に敏感な方だと思っていたが。 (なんか、話し方もいつもと違うような)  色々と違和感はあったが、彼女もまたこの暑さで開放的になっているのだろう、と気にしない事にした。体内が煮えたぎるような暑さは誰しもを狂わせるものだ。 「水無瀬もサボりか? 珍しいな」  響はクスリと笑う。 「そんな訳、ないよ。真面目だもの。緊急招集で来たんだ」  まるで自分を客観的に語るその言葉に、蒼魔はなんとなく驚いた。実際、彼女は物凄く真面目なのだが。 「また、緊急招集か。このクソ暑いのにやってられないな」  忌憚研究部では時折、緊急招集がかかる事がある。その手段は携帯にメールや電話があったり、三年生の部員が直接迎えに来たりする。  だが大抵、緊急招集といえどもラルヴァとの戦闘といった非日常的な行事が待っている訳ではなかった。むしろやっている事は普段の部活内容と変わらない。  ただ、普段は教室の中でオカルトや都市伝説の知識を深めているのを、実際に外に出て調査する程度の事だった。  殺したい人間の名前を焼却炉の薪に書いて川に流す「薪流し」、五人以上の人間が集まって呪いたい人間の名前を思い浮かべるとその人間が病院送りになるという「夢壊し」。  二つとも蒼魔が忌憚研究部に入部するきっかけとなった事件である。この事件では、噂の悪意に引き寄せられたラルヴァと戦う事になった。その戦闘はまさに非日常、普通とかけ離れた時間だった。  だからこそ、忌憚研究部に入れば蒼魔は普通でなくなると危惧していたのだが……。 「んで、今日は何の聞き込みだ?」 「……現地調査だよ。裏山で」  響は簡潔に言うと、つまらなさそうに髪をかきあげる。額から零れる汗が光に反射してキラキラと揺らめいた。 「同行者は?」  普段、都市伝説の調査に部員全員で向かう事はない。小さな都市伝説や面白半分で広められる噂は、驚くほど多いからだ。  それらを全員でしらみつぶしに調査しても効率が悪いので、単に調査するだけなら少人数で動く事になっていた。原則的に調査はツーマンセルで行われる。たまに、それに加えて副顧問の教師や三年生が参加する事もあった。  調査した結果、ラルヴァの退治が必要であるとなされれば、全員を招集して解決する。という事になっているらしいが、未だにそういった事態にはなっていなかった。  響は挑戦的な表情で蒼魔を見つめて、ゆっくりと指を指す。 「ここに一人」  その言葉は、響のものとは思えない程毒々しい、挑発的な発音だった。 「……なるほど」  ここで時々サボって昼寝しているのが、バレていたのだろうか。蒼魔はなんとなくバツが悪くて目を逸らす。 (だって、ここ誰も来ないからサボるのに最適なんだよなあ)  挑発的な言動は、「協力しないとばらすぞこの野郎」、という彼女なりのジョークの効いた脅しなのか。とにかくバラされては困るので、蒼魔はうやうやしく頷いた。 「行かせてもらいます」  響はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。  響の背中を見ながら、蒼魔は淡々と歩く。何処に向かうのか、何の都市伝説の調査なのか、一切彼女は話す気はないようだった。  それどころか隣すら歩いてくれない。こちらを気遣う様子もなく、ただひたすらに、迷う事なく歩いていく。  気がつくと裏山に出ていた。都市伝説の舞台といえば裏山とか校舎の裏とか人気の無い体育館とか大抵そんなものだ。そう考えると、この裏山は一体何人の悪意に染められてきたんだろうと思う。 (……山は涼しいかな)  蒼魔はぼんやりとそんな事を考えながら、響の華奢な体に一定の距離を保ちながらついていく。背筋をぴんと伸ばし、立ち止まる事なく進み続ける凛とした彼女の背中はどこか頼もしかった。  普段はもっと弱々しくて、他人の意見に流されやすい印象があるので、余計にギャップに驚く事が多い。そんな響が忌憚研究部に入部した理由。それは、人を助けたいからというものだ。  響自身、自分の事を「偽善者」だと言ったが、まだ見ぬ都市伝説の被害者を助ける為に忌憚研究部に入った、というのは蒼魔にはやはり理解できなかった。  ボランティア精神なのか、聖人の真似事なのか。他人を助ける事で、優越感に浸っているのだろうか? もしくは、非日常的な毎日に身をおくことで、日々の退屈を紛らわせているのか。  そういった下種な勘繰りしかできない自分にうんざりするが、そうでなければ彼女を理解できないのだ。彼女が、別世界の人間だと思ってしまうのだ。そしてそれこそが、蒼魔が響を苦手としている原因だった。 「一つ、聞いてもいい?」  またくだらない自問自答をしていると、ふいに響が話しかけてくる。いい? と聞いてはいるが、決してNOとは答えられない強い口調だった。 「……どうぞ」 「釘遊び」  心臓がドクンと跳ねた。 「って、東堂君のお父さんが考えたんだよね」  この質問に、蒼魔は不快感を感じずにはいられなかった。何故、人の触れられたくないところに触れるのだろうか。彼女はそういう事をするタイプには見えなかったが。  「夢壊し」の事件の時、都市伝説を再現する為に全員で祈ったところ、蒼魔の異能力である「同調(シンクロニシティ)」が暴走して蒼魔の過去をその時一緒に祈っていた、響を含む忌憚研究部のメンバーに見られてしまった。  それは蒼魔が自身の父親に、「お前は普通ではないから」と掌に釘を刺される「釘遊び」をされるというものであった。その過去は蒼魔の心の中に、今も深い傷として刻み込まれている。  誰にも知られたくなかった過去を、蒼魔は自ら忌憚研究部のメンバーに曝け出してしまったのだ。  しかし、それを知ったメンバーは誰も蒼魔を否定しなかった。むしろ励まし、元気付けてくれた。皆何かしら抱えてる辛い過去がある、気にするなと。  これも過去と向き合え、逃げ続けるなという彼女なりの叱咤なのだろうか。先程の夢が脳裏に浮かぶ。 (自らを否定して、のうのうと……)  蒼魔はその通りだと思った。向き合わなければ何も変わらない。今までずっと、過去から逃げ続けてきたのだ。そしてそれを変える為に、こうして忌憚研究部に入ったのだ。 「父親っていうか、正確には血は繋がってないんだ。俺が五歳くらいの頃に再婚した奴だから」 「そう。その人って、今も家にいるの?」  蒼魔の心情など気にもせず、淡々と質問を続ける。蒼魔は訝しげに思いながらも答えた。 「いや……。中学に入ってすぐだったかな。離婚したよ。いきなり家を出て行った」 「じゃあ、もうどこにいるか分からないんだ」 「いや」  蒼魔はそこで言葉を濁す。響はそれもお見通しといった感じで、蒼魔の次の言葉を待った。 「どこにいるかは、知ってる」 「……白石先生、だよね。忌憚研究部の顧問の」  それには答えなかった。答えない事が肯定だった。顧問は忙しいのか、忌憚研究部の活動に姿を現すことは全くなかった。入部して一ヶ月あまり立つが、未だに一度も姿を見た事はない。  蒼魔に釘遊びをした人間が誰なのかを推測するのは、そう難しくない。白石 総司郎の名を聞いたとき、蒼魔は露骨な反応をしていると自分でも思うし、彼に会うことにかなりの執着を見せているからだ。 「うん、そうだよ。この学園にいるのは知ってたけど、どの学部とかは分からなかったし、広すぎて教師なんて調べ切れなかったからもう諦めてたんだけどな。偶然ってあるもんだよな」  響はそれに何も答えなかった。パキリ、と彼女が枝を踏む音が響く。 「水無瀬?」  蒼魔はふいに奇妙な感覚を覚えた。辺りの木々の隙間から、何者かがこちらを見ているような感覚がした。  涼しげな木漏れ日が地面に影を作っている。柔らかな風が蒼魔の頬を撫でる。その風は響の黒い髪もゆるやかに揺らしていく。 (まさかこいつ……ラルヴァが変身した、とかじゃないだろうな)  まさか、と蒼魔は内心で笑った。知的生命体としてのラルヴァの存在もきちんと習ってはいるが、だからといって、蒼魔がラルヴァに狙われる理由がない。  それになにより、彼女は夢壊しの時にしか知れ渡ってないワードを口にした。それは彼女が紛れもなく本物である証明だ。  馬鹿馬鹿しい、と思いながらも、未だ止まらずにずんずんと奥地に向かって歩いていく彼女は、なんとなく別人に見えるのも確かだった。 「なあ水無瀬。今回の都市伝説って……」  と、蒼魔が言った瞬間。ふいに足元に感覚がなくなった。驚いてる暇もないまま、ずぶずぶと右足が沼のようなものに飲み込まれていく。視界はすぐに真っ暗になった。 「!?」  慌てて足を上げようとするが、まるで底なし沼のように右足は深く深く入り込んでいく。気がつけば左足も沼にはまっていた。  ゆっくりと体が沈んでいく中で、気持ち悪い感覚が蒼魔を襲う。内臓の隅々まで覗かれているような、過去に何度か感じた事のある感覚だった。 「水無瀬!? 水無瀬!?」  やはり彼女はラルヴァだったのか? そして、自分は罠にはまってしまったのだろうか? 何故? 自分はここで、殺されてしまうのか……沼に飲み込まれて死んでしまうのか。  恐怖が蒼魔を襲った。死にたくない、と純粋に思った。必死に体をよじらせてもがくが、いつの間にか太ももの辺りまで沈んでしまっている。  まるで、さっきみた夢のようだ……。もしかしてこれは、現実ではないのだろうか。  たまにドラマで見るような、夢から覚めたと思っていればそれも夢だった、というようなものだろうか。そうであればありがたい、というか、そうであってほしい。  だが先程感じていたむせ返るような暑さも、瞳を焼き付ける眩しい太陽の光も、虚像だとは思えない。そしてこの、ふとももをぬらす冷ややかな沼も。 「水無瀬ーーーっ!」  最後に彼女の名前を叫ぶが、暗闇に夢のような一筋の光は現れなかった。そしてそのまま、蒼魔の体はずぶずぶと飲み込まれていった。  沼は口と鼻を塞ぎ、呼吸を阻む。やがて頭のてっぺんまで、無機質で冷たい泥に触れている感覚で支配され、蒼魔の体は完全に動かなくなった。  抜け出そうともがいてみても、ピクリとも動かない。息が出来ない。 (ここで俺は死ぬのか……)  諦めにも近い恐怖が蒼魔の心を満たす。苦しみの中で、ゆっくりと意識が消えていった―――――  雨が降っている。  地面に掌に頭に、容赦なく雨の粒が打ち付けて跳ねる。  あの日もこんな風に雨が降っていただろうか。 (……あの日?)  蒼魔は目を開く。アスファルトのざらざらした感覚が頬をこする。薄暗い街角で、体中に冷たい雨が降り注いでいた。 (これは……これは……あの時の)  激しい雨音に混じって、コツコツと足音が響く。その足音に蒼魔は怯えた。もしこれが自分の記憶であれば、これから自分がどんな目に合うのか、蒼魔は知っているからだ。 「……父さん?」  白石 総司郎をそう呼んでいたのは、蒼魔が中学生の頃だ。そしてこれは、彼がもう二度と蒼魔の前に姿を表さなくなった最後の記憶だ。 「父さん……やめてくれ」  何故ここにいるのか分からない。そして何故、今の自分がこの記憶を体験しているのか分からない。とにかく蒼魔は、これから起こる事を予期してこちらに近づいてくる父を制止した。  しかし足音は何も答えず、蒼魔の視界に黒光りしている革靴を映して傘を捨てる。 「やめて、やめてくれ。いやだ」  蒼魔は何度も呟く。逃げようともがくが、体はピクリとも動かなかった。沼の中で自分は、夢を見ているのだろうか? それともこれは、ラルヴァの呪いなのか。灰色のスーツに身を包んだ父は、ゆっくりと蒼魔の左手を掴む。 「父さん! やめてくれ!」  悲痛な叫びは虚しく雨音に掻き消された。左手に激痛が走る。細長く尖ったものが、手の甲に突き刺さっている。  釘だ。蒼魔は声がでる限りに叫び、逃れようと体を必死によじらせる。 「ぐっ……ああっ! やめてくれ! やめてくれ! 父さん……やめてくれ!」  しかし父は聞こえていないかのように、手の釘をどんどんと押し込んでいく。ぐりぐりと力強く押し込まれた釘が手の甲の肉を削り取っていく。骨がギシギシと軋み、電撃が走るような鋭い痛みが体中を駆け巡った。 「あああああっ! 痛い痛い痛い、やめてくれええええ……やめろよ……やめろよぉ……」  蒼魔はまるで子供のように泣きじゃくって、ひたすらに懇願する。しかし父の手が止まる事はない。傷口からあふれ出す血がアスファルトを汚していく。雨に流れて蒼魔の頬にピタリとついた。 「なんで!? なんでだよ! なんでこんなこと、するんだよ! そんなに俺が普通じゃないのがダメなのかよ! 俺だって、異能力者に生まれたくて生まれた訳じゃない……こんな能力なんていらない! ただ、普通の生活がしたかっただけじゃないか……。父親と母親がいて、当たり前の、普通の、何の特別でもない……」  喚きながらも、左手を貫こうとする釘の勢いは止まらない。ミシミシと骨が悲鳴をあげ、激痛が腕を駆け抜けて蒼魔の声を枯らしていく。 「ぐあああっ! 父さん……何でだ……」  最早声にならない声で、蒼魔はそう呟いた。涙が瞳から零れ落ちて、雨に溶けていく。父の手が高くあがり、鋭く振り下ろされる。激しい衝撃と共に釘は貫通した。  いつもいつも父はこうして、蒼魔の左手に釘を刺す。そして刺し終わった後に、必ず蒼魔の耳元でこうささやく。 「お前は普通じゃない」  その冷たい言葉が、蒼魔の耳に響く時、蒼魔は深い絶望と苦痛に苛まれる。まるで、自分を否定されているようなその言葉。嘲笑されているようなその言葉。何故自分が、こんな言葉を投げかけなければならないんだろう。  考えても考えても答えはでない。ただ、視界には傘を拾ってそのままこちらを振り向きもせずに去っていく父と、自らの血で溢れているアスファルトが映る。  平気だ。この傷は明日にはなくなっている。今までもいつもそうだったから。  コツコツと、無機質な足音が等間隔に響く。このまま自分は取り残されたままなのか……。蒼魔にはそれが悲しかった。結局、俺は過去から逃げられないのか。  静かに目を閉じる。これからどうなるのか、蒼魔にはよくわかる。繰り返すのだ。同じシーンを、いや、過去のシーンかもしれない。とにかく「釘遊び」を、永遠に繰り返すのだ。  このままずっと、過去から逃れられずに――――――― 「光よ……!」  か細くて、だが凛とした声が通る。蒼魔が目を開くと、遠くから一筋の光が放たれた。それは蒼魔に近づくにつれて肥大化していき、やがて眩しくて目が開けていられない程になる。心地よい開放感が蒼魔の体中に溢れる。  蒼魔は目を閉じて、安らかに光に身を任せた。痛みはいつの間にか消えていた。 「東堂君……! 大丈夫?」  目を開くと、ざらりとした小石の感覚が頬にあった。尖った小石の上にうつ伏せになっているので、腹の辺りに突き刺さって痛い。 「水無瀬が助けてくれたのか?」  蒼魔はゆっくりと起き上がり、制服や肌についた砂を払う。響は穏やかに微笑んで頷く。安心したようだった。 「うん……。緊急招集があって、裏山に来いってメールがあったから、来てみたら東堂君が倒れてるのが見えて、その周りに黒い霧みたいなものがあったから……これで」  そう言って響はポケットから小さな十字架を取り出す。それは以前、「夢壊し」の時に副顧問からもらった霊具だった。魂源力を籠めると擬似的な異能が使えるというものだ。 「そうか……俺はやっぱり、ラルヴァに襲われたのか。水無瀬に連れられて裏山まで来たら突然……」 「! 私に……?」  響は驚いて眉を潜める。それはそうだ、自分と同じ姿をしたラルヴァが居ただなんて、驚くだろう。 「でも……何でだ。水無瀬の姿したラルヴァは、俺の過去を知っていた。夢壊しの時にバレた俺の過去を」  響は少し考えるようなそぶりを見せて、やがて小さく口を開く。 「分からない。もしかしたら夢壊しの亜種とか……なのかな。あの時消滅せずに残っていたとか」  確かに、そう考えれば納得がいかない事もない。だとすれば、今回もまた逃したという事になるが。 「大丈夫? 顔色が悪いよ」  心配そうに呟く響に、蒼魔は答えなかった。何故か今は、途方もなく虚しい。胸の内に抱え込んだ想いが、言葉を紡いで零れていく。 「……なんでだろう。あいつが……あの男が、俺に釘を刺す度に、俺は自分なんていなくなってしまえばいいのかと思った。普通じゃないってそういう事なのかと。俺が異能力者だから、こんな目にあうのかって、毎日毎日やるせなかった。こんな目に合うなら……いっその事、生まれない方がマシだとも思った」  響は何も言わず、蒼魔を見つめる。蒼魔は響の顔を見ずに、地面を見つめたまま尚もボロボロと言葉を零す。 「夜中にな。釘遊びが終わって……一人で天井を眺めながら寝ると、自分は本当に世界で一人きりなんじゃないかって思えてきて。自分が今ここで死んだら、きっと誰も悲しまないんじゃないかって。そう思うとな、死ぬとか、死なないとかじゃなくてさ、怖くなったんだ。単純に怖くて怖くてたまらなくなった。」  何故こんな話をしているんだろう。情けない。一人で抱えているのに、もう耐えられなくなったのだろうか? 誰かに少しでも自分の苦しみを共有してほしかったのだろうか……。それを証明するかのように、あふれ出す言葉は止まらなかった。 「死ぬ事が怖いんじゃない。自分の存在が……誰の心にも残らないのが怖い。俺は普通が大好きだよ。普通でいたいって思う。ただ、誰かにとって『特別』でありたいだけなんだ」  それは家族だっていい。友達だっていい。恋人でもいい。とにかく特別に、自分の存在を確立させたい。人という媒介を通じて。  ただそれだけの望みなのに、何故それが叶わないのだろう……。蒼魔はまた悲痛な想いを感じて、そのまま黙り込んでしまった。響は沈痛な面持ちでそれを眺めている。  ややあって、口を開いた彼女から出た言葉は驚くべきものだった。 「……ウジウジウジウジ。いつまでも、そうやって後ろを向いているの?」  蒼魔は顔を上げて響を見る。彼女の瞳は、怒りや、哀しみや、様々な感情の混じった強い光を宿していた。 「私は、東堂君の気持ちが分からない。死ぬ事が怖くないなんて、言えちゃうのが信じられない。……だって貴方は今、生きてるじゃない。普通とか、特別とかじゃなくて、確かにここで生きてるじゃない」  悲愴感のある彼女の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。普段感情を露にしない彼女が、何故こんなに怒っているのだろう。蒼魔は驚いていた。 「今、この一瞬に、この一秒に、誰かが死んでる。この刹那に、自ら命を捨てたり、望まないで命を失ったりしてる。そんな中で、貴方は確かに今、生きてる。今、一秒一秒、貴方はこの生存競争に勝ってるじゃない!」  強く叫ぶ彼女の言葉が次々と蒼魔の胸に刺さる。 「そんな貴方がまだ、何かを求めるの。自分から心も開かないクセに。自分は普通だって、誰の目にも映らない平凡だって言い張るクセに。本当は助けてほしいって言うの。本当は特別になりたいって言うの。それは傲慢よ。哲学の真似事よ。命を弄ぶ冒涜よ」  言い返せなかった。確かに自分は、矛盾している。何も行動を起こさないで、自分の未来に絶望している。端から見れば本当に情けないんだろうなと、蒼魔は自嘲気味に笑った。 「水無瀬の言うとおりだな。俺は……何もしていない。全部、過去の……釘遊びの所為にして、悲劇のヒーローぶってるだけだ」  認めてみると、案外気持ちが楽になった。彼女に許しを請う事で、許された気になっているのだろうか。今までの自分を救えた気になったのだろうか。とにかく、今は体中の重しが取れたような気分になった。 「……白石先生の事は、すごく辛かったんだと思う。でも、誰しも、辛い思いを抱えて生きてるんだもの。東堂君にだって乗り越えられるはずだよ」  響はそう言うと、立ち上がった。 「帰ろう。今回のこと、先生に報告しとかないと」  蒼魔は頷いて、勢いよく立ち上がる。心地よい風が木々の枝を揺らす。蒼魔の頬を撫でて、若葉の匂いが鼻をすうっと通っていった。  苦しい過去が消えたわけではない。未来への不安がなくなった訳ではない。だが、今はもう少し、踏ん張ってみよう。そう思うようになっていた。  忌憚研究部で自分がどこまで変われるか、試してみるのも悪くは無い。過去を克服する為に、ここにいるのだから。 「悪いな、カッコ悪いとこばっかり見せちゃってさ。恥ずかしいよ」 「ううん、気にしないで」  響は首を振って、穏やかに微笑む。……これは本当に、脈有りと考えてもいいのだろうか? 彼女がここまで自分に激情をぶつけてくるとは思わなかったので、蒼魔はなんとなくドギマギしていた。 「……なあ、もし、水無瀬も何か悩んでる事があれば、俺に言ってくれよ。俺ばっかり、愚痴言うのはなんだか申し訳ないしさ」  蒼魔がそう言うと、響は何故か悲しそうな顔をした。 「うん……。考えとく」  それが何故かは分からなかったが、何かしら彼女も深いものを抱えているのだろう。蒼魔はこれ以上、追求しない事にした。  むせ返るような暑さは、木漏れ日と涼しい風のおかげで幾分かマシになっていた。それでも汗が噴き出る事に変わりは無い。蒼魔は制服の胸元を掴んで、パタパタと団扇代わりに扇いだ。  でこぼこの砂利道を、どちらからともなく歩き出す。蒼魔はなんとなく今の時間が心地よく感じた。彼女に対する苦手意識が、減ったように思えた。  それも少し自分が成長した証なのだと思えて、なんとなく誇らしい。しばらく二人は、沈黙のまま校舎に続く道を歩いた。相変わらず耳を劈く蝉の鳴き声は響き続けたままで。                                                   つづく ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]

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