【Es schmeckt gut! (6)】

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 房総半島の東側、太平洋の波風にビクともせずに大洋に屹立する鋼鉄の檻が其処にはあった。ここ数日間続いている強風は今日も太平洋をざわつかせ、高低差のある幾枚もの波がその暗灰色の壁面へと激しく襲いかかり、空気を多分に含んだ白飛沫となって消えていく。一九九九年以降、政府主導で開始された海底資源発掘プロジェクトの一環として急造されたそのプラットフォームは外観だけ見れば全くの立方体としか見えず、しかしその目的は外観からはわからない。何しろ、そこには入口と思しきものが見当たらないのだ。  船で本土からこの建造物へと向かった場合、当然立方体を構成する一面にぶち当たるが、そこには一つのからくりがある。その船から建造物内部の守衛センターに対して暗号通信を行い、マニュアル化されたチェック項目の全てをパスすると、油圧機構の働きによって立方体の一面に切り込みが入る。切り取られたようなその壁面が二分間かけてスライドし、ドックのような奥行きを持つ入口が姿を現す。船がドック内に収容されると壁面は再びスライドし、元の一面へと復元される。  国立希少資源研究所 第二実験棟。  そんな単語が刻まれた巨大なプレートが、ドック内正面上部にはめ込まれていた。  これと似たような立方体が日本の周辺には四つ存在し、択捉、房総半島東、佐渡島、能登半島西にこの奇怪な建造物の姿が見て取れる。択捉のものに関しては他の三つと比較してかなり巨大で、ロシアとの共同研究施設だという名目までついている。この建造物の詳細については機密とされ、その情報を知りたいが為に一線を越えてしまった人間は須らく酷い目に遭うなどと、まことしやかに囁かれている。  現実として、其処は異能者の監獄であった。  一日中薄暗いだけでなく、全体を隙間無く黒く塗装された監房から出され、俺は老人の看守についていった。一つ牢の中で友誼を結んだ男に見送られながら、二人一部屋で割り当てられているその牢を出ると、白く塗りたくられた床に壁、そして強い蛍光灯の光が視神経を灼くように感じられた。点呼や労役に向かう為に外に出る際に感じるこの痛みには、半月経った今でも慣れることはない。この施設に入って初めて、俺は緑と自然光の有り難さを感じていた。  俺の牢は一キロ四方、天井までの高さ四メートルほど広い空間に一定の間隔で設えられている牢部屋の中でも一番隅の牢だったから、フロア中心部にある囚人用のエレベーターに辿り着くまでには碁盤の目のような通路を抜け、他の囚人たちの好奇の視線を集めることになってしまった。このフロアの牢部屋自体は人間二人が生活する分には不自由しない程度の広さを有していたが、まさしく動物輸送用の檻がそうであるように水平四方が壁ではなく格子状であったから、視線と声は筒抜けだった。別の見方をすれば、このフロアには声や視線で悪さが出来る異能者はいないということだった。  前を歩く老人に導かれて、俺は囚人用のエレベーターの前でその到着を待つ。  俺が収監されているこのフロアには、老人の他に看守は一人しかいない。そして現在、牢から連れだされている俺には手錠もかけられていない。ここで生活を始めた当初は、俺も含めた異能者たちを閉じ込めて反省させるにはあんまりな管理体制だと思ったものだが、翌日にはその認識を改めさせられた。  俺と同時期にこの監獄へと連れて来られた人間に【恐腕(テリヴル・ライト)】と名乗る少年がいた。異能を恃んで暴虐を楽しむ歪んだ嗜好と甘やかされて育ったことが丸わかりな風体をした彼は、本土からの船旅でかなり機嫌が悪くなっていた。予想通り、彼は自分に割り当てられた牢を前に、老看守に向かってこう言った。 「俺がこのフロアのボスになって、爺ィ、テメェの仕事を楽にしてやるから、もっと良い部屋を用意しろ」  老看守は耳を貸す素振りすら見せず、速やかに牢に入るよう少年の背中を小突いた。  自分の命令に従わない個人というものを、今までほとんど見たことのなかったその少年は激昂し、重鋼へと変えたその右腕を老看守に向けて振るった。  二時間ほど前に投与された鎮静用のイエロー・トランキライザーは効果が薄かったらしく、少年の【恐腕(テリヴル・ライト)】は常の八割以上を発揮していた。  彼が入る予定だった牢は俺の牢の隣だったから、思わず、やっちまえ!と心の中で声援を送った。どう考えても馬が合いそうには見えない少年だったが、牢での生活に退屈し始めていたのでつい、というやつだ。  実際、期待していたような面白い展開にはならなかった。  対人戦闘において水準以上の速度と過剰なまでの威力を備えた少年の右腕は、音も無く彼の懐に入ってきた老看守の頭を捉えることが出来ず、逆に、老看守の放った目にも留まらぬ左の掌打が少年の顎先を揺らした。初手で相手の意識を掻き混ぜた老看守は左腕を引く動きを利用して更に踏み込み、少年の顔面に右拳を叩きこんだ。一連の動作のどこにも隙が無いように見えた。牢の格子を背にしていたことが災いし、顔面に叩きこまれたエネルギーは少年の後頭部にも反射して脳を前後に酷く揺さぶられるという結果を招いた。  崩れ落ちた少年の頭を踵で踏み抜いて追い打ちとし、老看守は何事も無かったかのような面持ちで、監房付の医者に見せるように、と雑役を行う職員に告げて少年の身体を運ばせた。しかし、どう見ても少年に必要なのは医者ではなく坊主らしかった。  更に牢名主とされている古参の囚人曰く、たとえあの少年が牢看守を倒したところで、施設内に備えられたあらゆるシステムと囚人(当然異能者である)によって編成された懲罰部隊とによって一時間以内に処理されるのは間違い無いとのこと。  それ以来、俺は異能についての価値観を大幅に下方修正し、大過なく刑期を終えられるようになることだけを願うようになっていた。  羽虫の群れが作り出すような音を伴ってエレベーターが到着した。  老看守が押したのは海上階へと行く為のボタンだった。そのボタンの羅列を見れば推測出来るが、俺の牢があるフロアは建造物海中部分でもかなり上の階層、海面に近い位置にある。海底に近ければ近いほど、厄介な異能を持つ犯罪者が押し籠められているという話だから、俺の評価は推して知るべしだ。俺の異能は発動に条件があるから仕方が無い。  ちなみに、立方体に見える海上建造物の下に隠されている、海底まで続く長大な直方体にこそ異能者の監獄がある。多くの囚人にとって海上階を見ることが出来るのは、この施設に入る為に戦闘機にロックされながら本土からの移送船に乗ってきた時と刑を終えるか、若しくはその他の理由で、再び空から監視されながら本土へと戻る時だけだ。  それならば何故俺が、という疑問を抱きながら海上階のフロアに降り立つと、そこには博物館の廊下に似た通路がある。入監した時のことを思い出そうとしたが、半月前のことにもかかわらず、大して記憶に残っていなかった。  海上階はその大部分が、施設の安全を脅かす外部からの敵に備えた防衛態勢を維持する為の部署と、対外的な対応を担当する部署に占められているという話だった。なるほど、この海上階には海面下よりも人間らしさが感じられる。白い壁、磨かれた鋼鉄の床。本土のまともな人間からすればそれでも非人間的な印象を受けるかもしれないが、海面下の監房フロア、労役フロア、研究フロアと比較すれば断然マシなのだ。廊下に置いてある観葉植物の鉢植えなど、なかなか良い感じだ。海面下に棲み、囚人たちを観察対象にしている研究者たちにはインテリアや癒しとしての植物に価値を見出す人間は少ないだろう。  幾度か角を曲がり、重厚な扉の前に来た。  老看守は、行儀良くするんだぞ、という父性的な一言を俺にかけると扉を力強くノックして、自分の名と囚人である俺の名、そして入室を伝える声をあげた。そのおかげで、入監以来聞けなかった老看守の名が村田であるということを知ることが出来た。 「失礼しまーす」  殺風景な部屋であった。廊下と同様の白い壁と鋼鉄の床。それにパイプ椅子が六台、手前に二台、奥に四台、その四台の前には中学校の視聴覚室で見たような折り畳み式の長机が並べられている。  老看守に促され、手前に並べられた椅子の近くに立つと、それに応えるようにして奥の四人の視線が集まった。向かって右から時代錯誤なカイゼル髭の小太りな中年男、フェミニズム教の教祖補佐でも務めていそうな中年女、目の覚めるような美人だが目つきがキツすぎる俺と同い年くらいの金髪の女の子、仏頂面で口をへの字に曲げているがっしりとした大男。全員がスーツを着ていた。  あまりにも奇怪なその取り合わせに、俺は思わず噴き出しそうになった。特にカイゼル髭の男の表情が逸品である。異能者を前にして恐怖している人間の戯画的なイメージを集約したような態度と表情だった。 「座ってください」  俺に向かってそう口を開いたのは、意外なことに金髪の女の子だった。意外といえば、そんな女の子がこんな場に居ること自体が意外だが、彼女の発言に他の三人が口を差し挟まないところを見ると、彼女がこの場の音頭を取るということらしかった。  呆気にとられていた俺は村田サンに後ろから小突かれて、ようやく腰を下ろした。 「アナタの名前は金刃澄斗。十六歳。懲役三年で服役中。間違いないですか?」  澄んだ声音で聞かれ、はい、その通りですと応える。  気の強そうな彼女を見て、おちょくってやりたい気持ちも湧いたが、この場でそんなことをすれば俺の隣に腰を下ろした村田サンにどんな折檻を受けるかわからない。あの少年のように頭蓋骨の破片を脳に突き刺して死ぬのは御免だった。  彼女は俺の応えに満足げに頷くと、御丁寧にも自分を含めた四人の自己紹介を始めた。  彼女自身は上級監理官という法務省関係の肩書きをもっていると語り、カマキリのような中年女は人権団体に所属する弁護士、巌のような大男は警察関係者、そして驚くべきことに、脂汗を浮かべるカイゼル髭のぽっちゃりはこの施設の最高責任者らしかった。  それを紹介されたところでどんな反応をすればよいのかわからなかったので、とりあえ曖昧に頷いた。自分と同い年くらいの女の子が法務省の役人だというのは確かに驚いたが、世の中には異能者やラルヴァがいるくらいなので、そのくらいでいちいち驚いてはいられない。それに、どう考えても冗談を言ったように見えないし。 「これから、アナタに選択をしてもらわねばなりません」  そう言って彼女が語り始めたのは『二〇一三特別更生プログラム』という制度のことだった。語る彼女の瞳には熱意と使命感が燃え、訴えかけてくるような力があったが、結局俺に理解できたのは、単純で、自分にとって一番重要な部分だけだった。  警察の活動に協力すれば、刑期を短くする上に、その後の喰い扶持の面倒も見てやる。  俺にとっての『二〇一三特別更生プログラム』というのは、そう要約出来るものらしかった。彼女に言わせれば、もっと広く、多くの意義を持つことらしかったが。  一通りの説明を終えた後、彼女は俺の選定理由を語った。   「私の活動構想において、アナタの能力が必要なのです。私の能力との相性も良い」 「正義の味方になれ、と言っているのではありません。私と共に、より良い未来を築くための礎になってほしいのです。アナタの犯した罪は重大ですが、この施設の中に居て、何が変わるというのです?贖罪とは積極的な行動でのみ為されるものだと私は信じます」 「それに、犯罪者にもそうでない人にも共通した問題があります。もし、世界が歯車で出来ているとすれば、人間に用意された役割は二つです。歯車となって世界を廻すか、若しくは歯車に押し潰されて潤滑油となるか。自覚が無ければどちらも辛いけれど、自覚をすれば役割を変えることができる。この世界、その自覚のある人間がどれだけいるのでしょう?」 「どうです?正義の生み出す恩恵に与ってみませんか?」  超然とした雰囲気で、一方的に語る彼女に、不思議と腹は立たなかった。笑う気にもなれなかった。何故なら、彼女は本気で語っていたからだ。    三日後。俺は牢獄を出て、本土へと還った。  結局、監獄にいたのは半月と少しの間だったが、俺が得られたものは異能者も所詮は社会の一部でしかないという事実と格子の中で得た友情、そして決して理解出来ない思想の持ち主から差しだされた手を握る機会だけだった。                    *  支給された携帯電話からの電子音で、澄斗は目を覚ます。  発信者を確認しなくとも、この携帯の電話番号を知っている上に電話をかけてくるような人間は二人ぐらいしか考えられないので、彼はすぐに応答する。チラリと時計を確認すると、午前七時。昨夜のあれだけの騒動についての事後処理をある程度済ませて、部屋に帰って眠ったのが昨日の午後三時であるから、都合十六時間弱は眠っていたことに彼は気付いた。双葉島へ来てから、というよりもあの実験棟に収監されて以来最長の睡眠記録だ。 「金刃くん、出動要請です。五分以内に詰所へ集合」  返答する暇も無く電話は切れた。織姫がその必要を認めていないからだ。  上級監理官の命令には絶対服従。これがあの檻を出る為に必要とされた代償のひとつだった。眠いだの疲れただのと言ってボイコットすれば刑期が縮まらないどころか、体制に非協力的だと見做される。刑徒が労役を行うのは義務なのだ。  それに、最近の年末進行とやらで不規則な活動時間には慣れ始めている。  透湿性に優れた長袖のロングネックシャツの上に、革製のストラップを装着する。脇のホルスターに納めるのは中国製のモーゼル。精密射撃にも向いていないとされる銃ではあるが、彼の【不可視の弾殻】ならばそれを無視できる。ならばお気に入りを使って悪いはずはない。携帯するには大きい上に重いが、そこは仕方ない。  クローゼットの中から日勤用として支給されている紺色の作業着を引っ張り出した。夜勤用のそれと同じように左胸には朝日影のワッペンが縫い付けられている。脇に吊ったホルスターが見えないように、そして冷気が懐に入り込まないようジッパーを首まで上げると、澄斗はこの島に来た時に割り当てられた中級マンションの一室を出た。 「おはようございます」  入るなり、聞き慣れた織姫の声が澄斗を迎えた。  どんな時間帯でも織姫の挨拶はおはようございます、であることが多い。こんにちはでもこんばんはでもない。おはようございます、だ。大抵の場合、澄斗は勤務開始(伝達・準備時間含む)まで寝ているので違和感は感じない。  マンションの一階にある住民用に設けられた共同集会所。織姫の指示にあった詰所とは、会議室のような雰囲気を帯びたこの広い部屋のことを指していた。濃淡の落ち着いたビニール床材の上にはパイプ椅子が規則性を持たぬままに配置され、部屋の隅には折り畳まれた長机が積まれている。カーテンは一部のみが開けられているだけで、顔を出して間もない太陽の陽射しが差し込んでいる。部屋の北西方向の壁の前には数枚のキャスター付ホワイトボードが置かれており、そこには双葉島の地図やその他の情報資料がマグネットで留められている。  どう贔屓目に見ても住民たちの憩いの場からは程遠い光景だったが、その懸念は無為なものであった。何故なら、このマンションの住民たちは近年とみに失われているらしいご近所付き合いなど必要としていない。何しろここは本土の政府が双葉島に派遣される関係職員の為に用意した寮施設の一つであるからであった。だからこそ織姫も澄斗も、活動が正しく行われているか監査しにくる役人たちもこのマンションを利用している。  越智織姫はホワイトボードの前に立っていた。黒のフリルブラウスにダークグレーのパンツスーツ。流麗な金髪は完璧に整えられ、全身に微塵の隙も無い。一昨夜の失態の影響を全く感じさせない出で立ちであった。彼女は腕を組んで、部屋に入ってきた金刃を一瞥した後、ホワイトボードへと目を向ける。 「はざっス」  挨拶を返しながら、彼女の方へと駆け足で向かう。織姫が勤務前に情報整理、確認を重視することを重々承知しているので、澄斗は真剣な態度にならざるを得ない。  ホワイトボードに貼り出されていたのは双葉島南東部沿岸の地図、ラルヴァについての資料、そして民間のものらしい車両のデータだった。 「先程、双葉区警察署から応援要請がありました。捜索願です」 「捜索願?それをわざわざ俺たちに?」 「昨日の午後五時過ぎ以降、南東部沿岸の第十一特別管理街区に向かう途中だった一台の重装タクシーからの応答がないそうです」  よりによって車両丸々一台を探してくれと言うのは、SBに頼むにしてはあまりにもお粗末な任務だと澄斗は感じた。 「そういうのって、会社側が車両の位置マーカーとか追っかけてるんじゃないんスか?」  普通の車でもGPS情報を使えば位置が特定できるのだから、そういった警護用のタクシーならば尚更だろう。 「ええ。位置マーカーは健在です。まさに目的地へと通じる一本道の途中、道路から少々外れた林の中から発信されています」 「じゃあ捜索対象は運転手ですか。急病っていう線はどうです?」  急病ならば、必要なのは医者であって俺たちじゃない。澄斗がそう考えたのは任務に消極的な為ではなく、効率的な問題からであった。  いくら補助要員扱いの便利屋とはいえ、この年末に人員を遊ばせておくのは問題だろう。急病人の傍に行ったところで医者の真似事ができるわけでもなし、監視カメラの点検でもしていた方が幾分か有意義であるはずだ。  彼は使命感に燃える男ではないが、わざわざ非効率的な行動に疑問を抱かずにいられる人間でもなかった。  それを知っている織姫は、行きたくないのか、などと訊いたりはしない。 「可能性は零ではありません。しかし、そうではない可能性の方が高い」 「というと?」 「この重装タクシーには対ラルヴァ用の物騒なシステムが搭載されているのですが……」  そう言って織姫が視線を向けるのは車両データの書類。そこにはアーマースパイク、指向性爆薬、急加速装置などの単語が見られる。 「これらが作動した形跡があります」  そこから導き出される有力な推測は一つ。 「ラルヴァの襲撃」 「その可能性が高いですね」  澄斗はようやく得心がいった。SBが呼び出されたことについても、昨日の夕方に起きた事件を今朝扱うことについても。結局はラルヴァが原因ということになる。  年々増強されているとはいえ、ラルヴァに対応できる警察職員は不足しがちであるから、二人揃って異能者であるSBに頼むのは道理だと言える。それに地図から判断すると、重装タクシーのマーカーの発信源は双葉島中枢からかなりの距離があり、防風林の中であるらしい。陽が落ちてからの捜索活動には常に危険が伴う上、ラルヴァ潜伏の可能性があるならば言語道断であった。  次いで織姫の視線を追えば、そこには【三等犬】という単語がある。  写真は無く、目撃者からの証言を元にして書かれたのであろうイラストが描かれた書類が一枚。灰黒の毛並みを持つ獰猛そうな獣が牙を剥き出しにしているイラストだった。続く数枚には関連する事件の詳細、予測されうる出現範囲、少ない情報から導き出された暫定的な脅威度評価、etc……といった情報が記載されている。  とりわけ澄斗の目についたのは関連事件の項目であった。 「先輩。こいつ、かなり前から確認されているんスね」  織姫は澄斗の疑問に共感するように頷く。彼女も【三等犬】についてのデータを目にした時に、疑問に感じたポイントであった。  関連事件の項目に記載されている最も古い事件の日付は二〇〇二年十一月二十三日。澄斗がこの世に生を受ける以前のことであり、この島の黎明期に当たる。 「ずっと放置されてたんですか?」  当時は確立された対ラルヴァ戦術もなく、異能者頼みの場当たり的な対処も少なくなかったことを澄斗もSBとして必修の座学を通じて知ってはいた。しかし、驚きを禁じ得ない。彼らにとっては天敵だらけのこの双葉島で、定期的に事件を起こしながらもここまで長生きしているラルヴァがいるとは思わなかったのである。 「それにはいくつかの要因があったようです」  一つは事件の頻度。【三等犬】の引き起こす事件は半年に一回というペースで、それも被害者は多くて三人。当時の警察や治安維持機関の人員状況を考えれば他に注力すべき案件が多々ある場合、粘り強い捜査は不可能であったのは容易に想像できる。  一つは出現範囲。【三等犬】は双葉島南東部、それも沿岸付近にしか出現していない。風紀委員が積極的に活動するのは島中枢、人口の多い学園都市周辺であり、警察も当然人口密度が高い地域に活動の重点を置く。  一つは出現場所の環境。【三等犬】の出現する南東沿岸部には防風林が配されており、ラルヴァ警戒システムや人員の配置に難があること。  そして第十一特別管理街区の存在。 「この街に何か問題でも?」  地図上と資料写真からは、街区とすら言えない木造建築物の寄せ集めにしか見えないその場所。ここに派出所でも置けば良いのではないか、という提案は誰にでも思いつくだろう。それが為されていないのは『特別管理街区』の特別、という部分が関係している。 「ここは、療養地区です」  そう言う織姫の表情に、ほんの少し翳りが差す。  もちろん澄斗は翳りの理由など問い質さない。ただ、未知の単語を鸚鵡返しする。 「療養地区」 「ええ。身体ではなく、『こころの病』を療養する場所です」  澄斗はそれを詳しく説明されるまでもなく理解した。  精神疾患。それは近現代社会に蔓延する深刻な病弊であり、それはこの双葉島内に形成された特殊な小社会においても例外ではない。むしろ、この異常な小社会にあっては患者の割合は単純に比較できない(双葉島内の人口比率は本土のそれとは大きく違っており、比較は難しい)が、症状の度合いと多様さは本土のそれを超えていた。  当然その原因としては、この島の特殊な環境がその筆頭であろう。  ラルヴァ・異能者研究に携わる間に狂を発してしまった者。ラルヴァや異能者の被害者として、精神を病んでしまった者。自分に発現した異能を受け入れられずに壊れてしまった者。本土から双葉島に派遣され、未知の現実に耐えられなかった者。個性の強い異能者たちの形成する社会に居場所を見つけられなかった者。  知らなくてもいい現実を知ってしまった哀れな彼らは、本土の社会に復帰したところで世間では存在しないとされている社会を忘れることもできず、薬や異能によってその記憶を消そうとすれば人格に齟齬が生まれ、人道的な見地からも問題が生まれる。  結局のところ、双葉島内に用意された特別管理街区と呼称されるいくつかの地域で療養し、時間という名の万能の治療薬を処方されるのが患者たちにとっても周囲の人間たちにとっても最良の対策だとされた。  勿論、異能者の保護と管理を目的とした双葉島には心療に通じたカウンセラーも数多くいる。それでも彼らが救える数には限界があるし、どうしても立ち直れない人間は出てくる。それは双葉島や精神疾患に限ったことではない、人間社会の普遍の法則だろう。 「つまり、第十一管理街区は心の弱い奴らが暮らす集落ってことッスか?」 「強い弱いなどと断じるのはやめなさい。それに強弱と善悪を直結したようなその口調も控えなさい。二元論を当てはめる問題じゃありません」  織姫の叱責は厳しい。澄斗は素直に自分の発言を改める。  一方で、俺が経験したのは黒と白の二元論だったけどな、と澄斗は心の中で呟いた。  周囲の環境が動機と目される異能者犯罪は少なくない。欲しくもなかった異能を背負わされ、心を病んで罪を犯した人間は被害者ではないのか。そういった疑問は多くの人間を悩ませ、その定義は曖昧なまま。異能者犯罪の難しい部分であった。 「とにかく。そういった理由から第十一特別管理街区は外部からの干渉を制限され、忌避される対象となっているようです。常駐する心療医が二、三人がいるだけですね」  それは妥当な配置だと言えた。健康な社会でさえ、制服の与える周囲への圧力バランスは難しいとされている。強すぎれば一般人に余計なストレスを与え、弱すぎれば犯罪に対しての予防効果を失う。心を病んだ人間に対して、制服が悪影響を与える可能性は十分あった。 「興味本位で訪れる人間も当初は少なからずいたようですが、二〇〇五年に双葉学園の学生三人が肝試しと称して街区を訪れようとして……」 「【三等犬】に喰い殺された」  典型的な話である。 「その通りです。以来、街区を忌避する傾向は強まり、【三等犬】が街区の人間を襲った事例がないことから、街区の番犬であるとまで言われているそうです」 「……。なるほど」 「他に質問は?」  織姫が資料から目を離し、視線を向けて澄斗に問いかける。  そこからは、例の一件の影響は微塵も感じられない。  もちろん、彼女が憎悪、後悔、反省に煮え滾る腹蔵を抱えているかどうかなど澄斗にはわからない。しかし、少なくとも表には出していない。澄斗に勘付かれるような違和感は無く、常のように真摯で大人びた雰囲気を纏っている。  それでこそだよ。澄斗はそう評価した。  彼は自分が頭を垂れて従う少女に対して、肉体面でも精神面でも水準以上の強靭さを要求していた。それは付き従う自分の価値を高めたり、自分の脆弱さを補ってくれる人物を求めているためではなかった。  人間誰しも、自分が乗る船の安全性は高ければ高い方が良い。  そういった理由からであった。 「無いなら出発しましょう」  織姫はホワイトボードに貼り付けられた書類をファイルブックへと仕舞い込み、部屋の出口へと向かう。  その後ろ姿を追いかけながら、澄斗は彼女に問うた。 「運転手はまだ生きてますかね?」  その答えは既に澄斗の中では出ている。故にその問いは単なる確認作業でしかない。 「十中八九手遅れでしょう。この【三等犬】はそれほど甘い相手ではなさそうです」  彼女の淡々とした返答を聞いて澄斗は重大なことに気付き、そして安心した。  俺たちが課されたのは捜索任務であって、救出任務では無い。  運転手が生きてようが死んでようが構わないだろう。  何よりも心配なのは我が身の安全だ。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]

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