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「【影の舞踏会】」(2011/07/08 (金) 21:00:54) の最新版変更点
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ラルヴァ研究者になるために、ぼくは毎日遅くまで双葉大学の先生のもとで勉強をしている。そのせいか帰る時分にはもう外は真っ暗闇で、街もすっかり寝静まっていた。
早くアパートに帰って布団にもぐりたい。ぼくは明日の朝の講義のためにも今日はとっとと寝てしまおう。帰路を急いだぼくは、ふと近道をしてみようと思った。
ぼくは家と家にある狭い路地を、体を横にして蟹歩きでなんとか通っていく。服が汚れてしまうので、これは帰りにしか使えない近道だろう。
ほどなくして道は開け、広い道路に出た。
そこでぼくは不思議なものを見つけた。
目の前の街灯の光が、塀を照らしているのだが、その塀には人の形をした影が二つ、写し出されていたのである。
その二つの影は若い男女の物のようで、互いに手を取り合い、ダンスを踊っている。
ぼくがぎょっとしたのは、その影のもととなるはずの人間がどこにもいないということだった。
影というのは物が光に照らされて初めて生まれるものだ。だがその場にはぼくしか人間はいない。まるで塀というスクリーンに映像が投影されているかのようで、ぼくは思わず足を止める。
これはいったいどういう現象なのだろう。
影形《シルエット》しかわからないのに、二人が美男美女ということがなんとなく物腰から伝わってくる。男の方は長身で、整った輪郭だ。女の方は枝のように細い肢体をしており、長い髪をポニーテールにしていた。その髪はダンスに合わせてゆらりゆらりと動いていた。
なんてお似合いのカップルだ。恐らく彼らはダンスの相手としても、異性としてもお互いのことを信頼しきっているのだろう。
男女の影は息がぴったりと合っていて、ダンスがとても上手だった。阿吽の呼吸とでもいうのか、まさに一心同体のように、男が右へ動けば女が左に体をずらし、男が腰を落とせば女がくるりと回転する。
ぼくも子供の頃、親にダンスの習い事をさせられていたことがある。そこの講師よりもずっと、彼ら踊りのほうが素晴らしいなとぼくは見惚れてしまう。
やがて踊りを終えたのか、影たちは動きを止め、さっとぼくに向かって頭を下げた。
はっと我に返ったぼくは、パチパチパチと惜しみない拍手を送る。
そして一瞬だけ街灯が点滅し、再び街灯が塀を照らした時には二つの影は消えていた。どうやら今日の演目はこれまでらしい。
ぼくはほんのりと温かい気持ちを胸に抱いて、アパートへと帰った。
☆
「それはきっと“影住人《かげすみびと》”だね」
昨日の出来事をさっそく大学の先生に話した。先生はラルヴァ図鑑のページを開いて見せてくれ、そこにはぼくが遭遇したラルヴァの絵が描かれている。影住人は光の照らされた場所に影だけで現れ、主に男女のつがいでダンスを披露するという珍種のラルヴァらしい。
「やっぱり、あれはラルヴァだったんですね」
「そうだよ。とは言っても、詳しい生態はまだまだ不明でね謎の多い存在さ。いまのところ分かっているのは害のあるラルヴァじゃないということだけだね」
「そうでしょうね。なんだか心優しそうな気がしました」
「うむ。しかしそれだけダンスが上手だというなら、一度見て見たいね」
「どうぞご覧になってください。きっと先生も感動しますよ」
「今は研究が忙しいから、きりがついたら一度訪れてみよう。楽しみにしているよ」
そうしてぼくは先生とラルヴァについて語り合ったり、抗議に出たりと今日も勉学に励んだ。そうしてまた空は真っ暗闇に染まり、またあのラルヴァがいるかもしれないと、例の路地を通ろうと近道をしてみた。
やはり今日も、男女の影はダンスを踊っていた。今日はカルメンを踊っているようで、情熱的に影の身を寄せ合い、今にもカスタネットの音が響いてきそうなほどに迫力があった。彼らは二人で踊ることを楽しんでいるようだ。
それからもぼくは毎夜、二つの影が織り成す舞踏会を楽しんだ。
幻想的な動きを見せる影の踊りは、ぼくの胸を弾ませ、癒してくれる。二人が幸せそうに踊っているのを見るのが、ぼくの楽しみになっていた。
だがそんな毎日が続いていたある日、影たちに変化が訪れる。
ある日の夜、いつものようにぼくは影たちの舞踏会を観覧していた。そこでふと気が付いた。最初は小さな違和感だ。ダンスを習っていたぼくは、その小さな変化を見逃すことはなかった。
舞踏の際の息が、わずかに合っていない。
あれほどまでに完璧にあっていたタイミングがずれている。これはミスとは違う、そういった範疇の問題ではない。ずれは些細なものだ。だが決定的に何かがすれ違っている。そんな気がぼくはしたのだ。
その違和感に女の影も気づいたのか、なんだか睫がいつもよりも下に下がっていて、悲しげに舞踏を早々と切り上げてしまう。ダンスのずれの原因は、男にある。男の女に対する紳士的な気遣いが、無くなっているようにぼくには見えた。
そんなことが連日連夜続いた。男の呼吸の乱れは日に日に大きくなっていき、男だけがあの場所に遅れてやってくるということもあった。そのたびに女の方は男に何かいいたげに腕を動かして抗議をしていたが、男のほうはどこ吹く風と肩をすくめている。
しょんぼりとする女の影を見て、ぼくは悲しくなってきた。ついこの間まで楽しそうにダンスをしていたのに、何が男を変えてしまったのだろう。
影たちの事情を知るすべのないぼくはただ彼らの悲しき舞踏を見つめるしかなかった。
そんなある日――研究所のメンバーと飲み会をしていたぼくは、例の路地ではなく、別の方向から帰路についていた。
そこで街灯の光が商店街の締められたシャッターをちょうど照らしていることに気が付く。何気なしにそこを見ていると、ふっと女の影が現れたのだ。
「え?」
どうしてこんなところに現れたんだ――と思ったのだが、違った。ぼくの前の前に現れた影は、いつものポニーテールの女ではない。まったくの別人だった。たとえ影だけでも、毎日見ていたぼくがその違いに気づかないわけがない。その女の影は彼女とは違い、肉感的で、シルエットからでも豊満な肉体がよくわかる。髪型もポニーテールではなく、ウェーブのかかった長い髪である。
その女の影が泡われた数秒後、男の影もシャッターに映し出される。
だがその男の影は女と違って、あの塀の男と同じ影だった。
男は別の女の影と、逢引をしていた。
二つの影は抱き合うように重なり合い、甘いひと時を過ごしているように見える。女の影は男の口元に顔を近づけ、触れあっていた。
本来ならポニーテールの彼女とダンスをしている時間だ。だけど男はここにいて、別の女と会っている。
すっかり酔いの冷めたぼくは、足の方向を変え、例の路地へと走った。
いつものように街灯は塀を照らし、いつものようにポニーテールの彼女はその場にいた。
だけどいつもと違って彼女の隣に男はいない。
いつもと違って、女の影はまるで泣いているように目をこすり、しゃがみ込んでいた。
拭っても、拭っても隠し切れないようで、ぽたぽたと黒い影の涙が地面に落ちていく。泣いていても影だから声も上げられない。悲しくても、何も言えない。
一体彼らの間に何があったのだろう。どんなドラマがあったのだろうか。ぼくが日常を過ごしているうちに、きっと男の心に変化があったのだろう。女はダンスを通じてそれを薄々感じていたのかもしれない。それでも信じていたはずだ。だが彼がここにいないことで、すべてを悟ったのだろう。
ことの真実は影ではないぼくには知ることはできない。影たちの事情に首を突っ込むことは不可能だ。
ぼくは彼女を慰めようと、そっと手を伸ばす。
肩に触れようと思ったが、ぼくの指に伝う感触は塀のセメントのものだけだった。やはりぼくでは彼女と関わり合うことはできない。
でもさめざめと泣いている彼女を見て、ぼくは何かをしてあげたくなっていた。せめて一緒に踊ることができたなら少しは気を紛らわせることができるだろうか。
「そうだ。ねえきみ。少しここで待っていてくれないか」
果たしてぼくの言葉が聞こえているのかはわからないが、ぼくはその場から駆け出してアパートへと向かった。
部屋の中をひっくり返し、あるものを手に取る。
彼女がいなくなってしまう前に、ぼくは塀の場所へと戻った。彼女は待っていた。 ぼくは勇気を振り絞り言葉を紡ぐ。影とはいえ女の子とこうして面と向かって話すのは、いつ以来だろう。
「ねえきみ。ぼくと踊ってくれないか」
ぼくがそう言うと、彼女は驚くように顔を上げる。
アパートから持ってきたそれ――大きめの懐中電灯のスイッチを入れ、その光で彼女が映っている塀と同じ場所を照らす。
そして、その間にぼくは立つ。
「さあ。これでぼくもきみの横に並ぶことができた」
真横から灯りをつけることで、ぼくの影が彼女の隣に映し出される。塀と言う舞台に、ぼくも上がることができたのだ。
ぼくはそっと手を差出し、ぼくの影が彼女の目の前に動くように調整する。
「シャルウイーダンス?」
差し出されたぼくの影の手を、彼女はじっと見つめていた。
彼女は恐る恐るぼくの影の手に自分の手を伸ばして、そっと手を取る。
影だから温もりは感じない。
影だから感触はない。
だけどぼくは確かに彼女とのつながりを感じていた。
「さあ踊りましょう。夜が明けるまで」
ぼくの影の手はしっかりと彼女の小さな手を握り返し、それに呼応するように影の彼女は動き出す。
影越しの舞踏。
ぼくたちはチグハグで、ぎこちないながらも必死に踊る。嫌なことを忘れるために、新しい何かを見つけるために、ただ踊った。
夜明けまで踊る――とは言ったもの影である彼女と違い、実際のぼくは体力の限界というものがあった。ダンスの習い事をしていたと言っても何年もブランクがある。次第にぼくの動きはのろくなっていき、疲労のあまり動けなくなっていた。
「はあ……はあ……」
ぼくは彼女に少し待ってくれと言おうと体を止める。だがその時、信じられないことが起こった。
ぼくが動きを止めているのに、ぼくの影は彼女とダンスを続けていたのだ。
まるで影が個別の意志を持ち動いているようで、滑らかに彼女と呼吸を合わせて踊っている。
ぼくはぺたりとへたり込み、いつものようにただの観客となる。
自分自身の影と彼女のダンスに、ぼくは拍手と喝采を送った。
☆
「なるほど。それできみは影がなくなったのかい」
翌日、徹夜でダンスを見続けたぼくは眠たいのを我慢してなんとか研究室にやってきた。そしてぼくの話を聞き、足元を見るなり先生はそう言った。
「はい。でも後悔はしてません。不便なことはありませんし。ただまあ、知らない人が見たらびっくりするでしょうけどね」
ぼくも自分の足元に目を向ける。そこになければならない、自分の影がすっかりと消えていた。いったいどういう原理や理屈なのかわからないが、ぼくの影は彼女と共に行ってしまったのだ。
人間のぼくは影の住人である彼女と関わりは持てないが、ぼくの影は違う。せめてぼくの影だけでも、彼女の傍にいて欲しいと思った。
どうしてぼくが毎日毎夜、影住人のダンスを見ていたのかその理由をぼくは悟る。ぼくは彼女に魅かれていたのだ。美しく踊る彼女から目を離せず、男と別れて泣く彼女を放っておくことはできなかった。
それからというもの、夜に街を歩いていると時折影たちを見つける。塀やビルの壁、シャッターに看板の上。街灯というスポットライトが照らされている場所ならどこでも見かけることができた。
ぼくの影と彼女は幸せそうに踊っており、素晴らしいダンスを披露している。ぼくはそれを微笑ましく思いながらも、自分自身の影にちょっとだけ嫉妬したのだった。
おわり
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ラルヴァ研究者になるために、ぼくは毎日遅くまで双葉大学の先生のもとで勉強をしている。そのせいか帰る時分にはもう外は真っ暗闇で、街もすっかり寝静まっていた。
早くアパートに帰って布団にもぐりたい。ぼくは明日の朝の講義のためにも今日はとっとと寝てしまおう。帰路を急いだぼくは、ふと近道をしてみようと思った。
ぼくは家と家にある狭い路地を、体を横にして蟹歩きでなんとか通っていく。服が汚れてしまうので、これは帰りにしか使えない近道だ。
ほどなくして道は開け、広い道路に出た。
そこでぼくは不思議なものを見つけた。
目の前の街灯の光が、塀を照らしているのだが、その塀には人の形をした影が二つ、写し出されていたのである。
その二つの影は若い男女の物のようで、互いに手を取り合い、ダンスを踊っている。
ぼくがぎょっとしたのは、その影のもととなるはずの人間がどこにもいないということだった。
影というのは物が光に照らされて初めて生まれるものだ。だがその場にはぼくしか人間はいない。まるで塀というスクリーンに映像が投影されているかのようで、ぼくは思わず足を止める。
これはいったいどういう現象なんだ。
影形《シルエット》しかわからないのに、二人が美男美女ということがなんとなく物腰から伝わってくる。男の方は長身で、整った輪郭だ。女の方は枝のように細い肢体をしており、長い髪をポニーテールにしていた。その髪はダンスに合わせてゆらりゆらりと動いていた。
なんてお似合いのカップルだ。恐らく彼らはダンスの相手としても、異性としてもお互いのことを信頼しきっているのではないかと思った。
男女の影は息がぴったりと合っていて、阿吽の呼吸とでもいうのか、まさに一心同体のと言える。
ぼくも子供の頃、親にダンスの習い事をさせられていたことがあるが、そこの講師よりもずっと、彼ら踊りのほうが素晴らしいなとぼくは見惚れてしまう。
やがて踊りを終えたのか、影たちは動きを止め、さっとぼくに向かって頭を下げた。
はっと我に返ったぼくは、パチパチパチと惜しみない拍手を送る。
そして一瞬だけ街灯が点滅し、再び街灯が塀を照らした時には二つの影は消えていた。どうやら今日の演目はこれまでらしい。
ぼくはほんのりと温かい気持ちを胸に抱いて、アパートへと帰った。
☆
「それはきっと“影住人《かげすみびと》”だね」
昨日の出来事をさっそく大学の先生に話した。先生はラルヴァ図鑑のページを開いて見せてくれ、そこにはぼくが遭遇したラルヴァの絵が描かれている。影住人は光の照らされた場所に影だけで現れ、主に男女のつがいでダンスを披露するという珍種のラルヴァらしい。
「やっぱり、あれはラルヴァだったんですね」
「そうだよ。とは言っても、詳しい生態はまだまだ不明でね謎の多い存在さ。いまのところ分かっているのは害のあるラルヴァじゃないということだけだね」
「そうでしょうね。なんだか心優しそうな気がしました」
「うむ。しかしそれだけダンスが上手だというなら、一度見て見たいね」
「どうぞご覧になってください。きっと先生も感動しますよ」
「今は研究が忙しいから、きりがついたら一度訪れてみよう。楽しみにしているよ」
そうしてぼくは先生とラルヴァについて語り合ったり、講義に出たりと今日も勉学に励んだ。そうしてまた空は真っ暗闇に染まり、またあのラルヴァがいるかもしれないと、例の路地を通ろうと近道をしてみた。
やはり今日も、男女の影はダンスを踊っていた。今日はカルメンを踊っているようで、情熱的に影の身を寄せ合い、今にもカスタネットの音が響いてきそうなほどに迫力があった。二人にとってダンスとは愛の表現なのかもしれない。
それからもぼくは毎夜、二つの影が織り成す舞踏会を楽しんだ。
幻想的な動きを見せる影の踊りは、ぼくの胸を弾ませ、癒してくれる。二人が幸せそうに踊っているのを見るのが、ぼくの楽しみになっていた。
だがそんな毎日が続いていたある日、影たちに変化が訪れる。
その夜、いつものようにぼくは影たちの舞踏会を観覧していた。そこでふと気が付いた。最初は小さな違和感だ。ダンスを習っていたぼくは、その小さな変化を見逃すことはなかった。
舞踏の際の息が、わずかに合っていない。
あれほどまでに完璧にあっていたタイミングがずれている。これはミスとは違う、そういった範疇の問題ではない。ずれは些細なものだ。だが決定的に何かがすれ違っている。そんな気がぼくはしたのだ。
その違和感に女の影も気づいたのか、なんだか睫がいつもよりも下に下がっていて、悲しげに舞踏を早々と切り上げてしまう。ダンスのずれの原因は、男にある。男の女に対する紳士的な気遣いが、無くなっているようにぼくには見えた。
そんなことが連日連夜続いた。男の呼吸の乱れは日に日に大きくなっていき、男だけがあの場所に遅れてやってくるということもあった。そのたびに女の方は男に何かいいたげに腕を動かして抗議をしていたが、男のほうはどこ吹く風と肩をすくめている。
しょんぼりとする女の影を見て、ぼくは悲しくなってきた。ついこの間まで楽しそうにダンスをしていたのに、何が男を変えてしまったのだろう。
影たちの事情を知るすべのないぼくはただ彼らの悲しき舞踏を見つめるしかなかった。
そんな日々が続いたある日、研究所のメンバーと飲み会をしていたぼくは、例の路地ではなく、別の方向から帰路についていた。
そこで街灯の光が商店街の締められたシャッターをちょうど照らしていることに気が付く。何気なしにそこを見ていると、ふっと女の影が現れたのだ。
「え?」
どうしてこんなところに現れたんだ――と思ったのだが、違った。ぼくの前の前に現れた影は、いつものポニーテールの女ではない。まったくの別人だった。たとえ影だけでも、毎日見ていたぼくがその違いに気づかないわけがない。その女の影は彼女とは違い、肉感的で、シルエットからでも豊満な肉体がよくわかる。髪型もポニーテールではなく、ウェーブのかかった長い髪である。
その女の影が泡われた数秒後、男の影もシャッターに映し出される。
だがその男の影は女と違って、あの塀の男と同じ影だった。
男は別の女の影と、逢引をしていた。
二つの影は抱き合うように重なり合い、甘いひと時を過ごしているように見える。女の影は男の口元に顔を近づけ、触れあっていた。
本来ならポニーテールの彼女とダンスをしている時間だ。だけど男はここにいて、別の女と会っている。
すっかり酔いの冷めたぼくは、足の方向を変え、例の路地へと走った。
いつものように街灯は塀を照らし、いつものようにポニーテールの彼女はその場にいた。
だけどいつもと違って彼女の隣に男はいない。
女は泣いていた。拭っても、拭っても隠し切れないようで、ぽたぽたと黒い影の涙が地面に落ちていく。泣いていても影だから声も上げられない。悲しくても、何も言えない。
一体彼らの間にどんなドラマがあったんだ。ぼくが日常を過ごしているうちに、男の心に変化があったのかもしれない。女はダンスを通じてそれを薄々感じていたのかもしれない。それでも信じていたはずだ。だが彼がここにいないことで、すべてを悟ったのだろう。
ことの真実は影ではないぼくには知ることはできない。影たちの事情に首を突っ込むことは不可能だ。
ぼくは彼女を慰めようと、そっと手を伸ばす。
肩に触れようと思ったが、ぼくの指に伝う感触は塀のセメントのものだけだった。やはりぼくでは彼女と関わり合うことはできない。
でもさめざめと泣いている彼女を見て、ぼくは何かをしてあげたくなっていた。せめて一緒に踊ることができたなら少しは気を紛らわせることができるかもしれない。
「そうだ。ねえきみ。少しここで待っていてくれないか」
果たしてぼくの言葉が聞こえているのかはわからないが、ぼくはその場から駆け出してアパートへと向かった。
部屋の中をひっくり返し、あるものを手に取る。
彼女がいなくなってしまう前に、ぼくは塀の場所へと戻った。彼女は待っていた。 ぼくは勇気を振り絞り言葉を紡ぐ。影とはいえ女の子とこうして面と向かって話すのは、いつ以来だろう。
「ねえきみ。ぼくと踊ってくれないか」
ぼくがそう言うと、彼女は驚くように顔を上げる。
アパートから持ってきたそれ――大きめの懐中電灯のスイッチを入れ、その光で彼女が映っている塀と同じ場所を照らす。
そして、その間にぼくは立つ。
「さあ。これでぼくもきみの横に並ぶことができた」
真横から自分を照らすことで、ぼくの影が彼女の隣に映し出される。塀と言う舞台に、ぼくも上がることができたのだ。
ぼくはそっと手を差し出し、ぼくの影が彼女の目の前に動くように調整する。
「シャルウイーダンス?」
差し出されたぼくの影の手を、彼女は恐る恐るぼくの影の手に自分の手を伸ばして、そっと取る。
影だから温もりは感じない。
影だから感触はない。
だけどぼくは確かに彼女とのつながりを感じていた。
「さあ踊りましょう。夜が明けるまで」
ぼくの影の手はしっかりと彼女の小さな手を握り返し、それに呼応するように影の彼女は動き出す。
影越しの舞踏。
ぼくたちはチグハグで、ぎこちないながらも必死に踊る。嫌なことを忘れるために、新しい何かを見つけるために、ただ必死に踊った。
夜明けまで踊る――とは言ったもの影である彼女と違い、実際のぼくは体力の限界というものがあった。ダンスの習い事をしていたと言っても何年もブランクがある。次第にぼくの動きはのろくなっていき、疲労のあまり動けなくなっていた。
「はあ……はあ……」
ぼくは彼女に少し待ってくれと言おうと体を止める。だがその時、信じられないことが起こった。
ぼくが動きを止めているのに、ぼくの影は彼女とダンスを続けていたのだ。
まるで影が個別の意志を持ち動いているようで、滑らかに彼女と呼吸を合わせて踊っている。
ぼくはぺたりとへたり込み、いつものようにただの観客となる。
自分自身の影と彼女のダンスに、ぼくは拍手と喝采を送った。
☆
「なるほど。それできみは影がなくなったのかい」
翌日、徹夜でダンスを見続けたぼくは眠たいのを我慢してなんとか研究室にやってきた。そしてぼくの話を聞き、足元を見るなり先生はそう言った。
「はい。でも後悔はしてません。不便なことはありませんし。ただまあ、知らない人が見たらびっくりするでしょうけどね」
ぼくも自分の足元に目を向ける。そこになければならない、自分の影がすっかりと消えていた。いったいどういう原理や理屈なのかわからないが、ぼくの影は彼女と共に行ってしまったのだ。
人間のぼくは影の住人である彼女と関わりは持てないが、ぼくの影は違う。せめてぼくの影だけでも、彼女の傍にいて欲しいと思った。
どうしてぼくが毎日毎夜、影住人のダンスを見ていたのかその理由をぼくは悟る。ぼくは彼女に魅かれていたのだ。美しく踊る彼女から目を離せず、男と別れて泣く彼女を放っておくことはできなかった。
それからというもの、夜に街を歩いていると時折影たちを見つける。塀やビルの壁、シャッターに看板の上。街灯というスポットライトが照らされている場所ならどこでも見かけることができた。
ぼくの影と彼女は幸せそうに踊っており、素晴らしいダンスを披露している。ぼくはそれを微笑ましく思いながらも、自分自身の影にちょっとだけ嫉妬したのだった。
おわり
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