【異能力研究者の夜】

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異能力研究者の夜  七月六日、午後 六時  双葉学園研究棟内にある私室で、私は生徒たちの提出した小論文に目を通していた。  私の講座は中間、期末考査などは設けておらず、その代わりに月末締めで、400字詰め原稿用紙10枚程度の小論文を提出することを生徒たちに義務付けている。  といっても毎月必ず提出しろと言うのではなく、学期ごとに一度、1年で計3回の提出だ。  せっかちな、または勤勉な生徒は4月末にいきなり提出する場合もあるし、マイペースな学生は6月末(事実上、一学期最後の締め切り)に提出する場合もある。  大半が最終締め切りの提出だったが、こういった提出物一つとってもみても彼らの個々の個性が見える気がして楽しいものだった。  現在、この手の文書はそのほとんどがデータで扱われるようになっているが、私は生徒たちに「紙」で提出させている。  単純に私自身がモニターよりも紙媒体で文字を読むのが好きなこともあるが、提出物への添削や私見を書き加える場合などは、やはりデジタルデータよりも紙のほうが便利だった。  提出された小論文はほとんどがPCからの打ち出しだったが、まれに手書きの物もあり、そういった物は書き直した鉛筆の跡などからその生徒がどこで悩んだか、どう考え直したかが伺えて実に良い。  さて、切り上げ予定の時間まではまだまだ間がある。 一つずつ、じっくり読んでいくとしよう。  午後 八時  ふいに外から「ポン」と言う音が聞こえてきた。 その音は二度、三度と続き、窓からは赤や青の光が差し込んでくる。  明日のために花火の試し打ちでもしているのだろうか。  私は机上の「七夕祭り」と題されたチラシに目をやる。 イベントのプログラムとともに派手なコスチュームに身を包んだ男女一組のレスラーがプリントされていた。  この二人は私が知る限り、ここ五年ほど七夕祭りのたびに双葉学園にやってきてはプロレス興行を打っていて、毎回お約束の接戦を繰り広げては引き分け、それでも人気が衰えないという不思議なレスラーだった。 ……何らかの異能が働いていると考えるのは穿ちすぎだろうか。  そんな考えを中断して私は再び生徒たちの提出物に没頭することにした。  午後 十一時三十分  デスクに置いた教員証からアラーム音が響く。  午後九時ごろに食事を取ってから約二時間、目を通した小論文の数は全体の三分の一ほどになっていた。  私の講座は他のカリキュラムに比べ小さな物だが、それでも常軌を逸した規模のこの学園、受け持つ生徒の数もまたそれなりの数になる。  小論文すべてに目を通し終わるのは二、三日後になりそうだ。  私は教員証に手を伸ばしアラームをとめると上着の右ポケットにねじ込み席を立つ。  思わず「どっこいしょ」という言葉が出てしまうのは若くない証拠だろうか。  積み重なった小論文の山から一つを手に取りつつ、左ポケットに入れてあった屋上の鍵を引っ張り出し、キーホルダーの札に「研究棟・屋上」と書かれているのを確認してまたしまう。  そして私は屋上への階段に向かった。  研究棟内は既に私以外の人影はなく、廊下にも非常灯が点っているのみだった。  私は右ポケットから教員証を取り出し、簡易照明を点灯し前方にかざす。  この教員証はモバイル、携帯電話、GPSなどの機能がこれでもかと盛り込まれた便利な代物で、懐中電灯代わりに使える簡易照明もそれらの機能のうちの一つだ。  これと飲食物さえあれば災害時も安心、といった風情だ。  一体、誰がここまで大量の機能を一つにまとめようと思ったのだろうか。  午後 十一時三十五分  屋上と階段を隔てる扉にたどり着いた私は早速、鍵をポケットから引きずり出して鍵穴に挿しこみ回転させる。  すると鍵はすぐに「カチャリ」と音を立てて開き、私は鍵を引き抜いてから扉を開け放った。  研究棟の屋上は大きな配電盤や配管、エアコンの室外機などがいくつも並び、普段はメンテナンス業者以外の者はめったに出入りしない場所だ。  私は配管に躓かないように注意しながら、商業区画などの明るい場所から最も離れた屋上東端に向かう。  少しでも星が見えやすいように、という気休めだ。  七夕と言えば天の川だが、本当のところ、こんな大都市に近い場所では天の川など見えはしない。  今や天の川が見られるのはごく限られた田舎くらいのものだ。  しかし私の見たい物はそれとは別だから特に問題はない。  足元を気にしながらの移動だったため二、三分かかったが、屋上東端にたどり着き手近な配管に腰掛ける。 背後には配電盤の壁面があるので、もたれかかって上空を見られるのも楽でいい。  座席の具合いを確かめがてら、ちらと上空を見る。 今夜は雲もほとんどなく星もまばらに見えるが、やはり天の川は見えない。  それだけを確認して私は、持ってきた小論文に目を落とした。  午後 十一時五十七分  教員証のアラームが再び鳴る。  読みかけの小論文に、しおり代わりに手持ちの赤ペンをはさんだまま閉じ、アラームを止め、簡易照明を落とす。  そして教員証を上着の右ポケットに押し込んでから夜の空を見上げる。 澄んだ空気がそよと吹き、心地よく私の頬をなでた。  手元の紙束もゆるやかな風を受けてカサリと音を立てる。 その音が収まると、辺りは虫の音さえ聞こえない静寂に包まれた。  いよいよだ。  1年間待ちわびた瞬間。  七月七日 午前 零時  分厚い空気の層にかすむ星空から一つ、星が流れた。 それを合図にしたように、一つ、また一つと星が流れていく。  それらはやがて流星群と呼べるほどの、優しくとめどない流れとなった。   一九九九年以来、七月七日午前零時にはこういった流星群が見られるようになったらしい。  らしい、と言うのは私自身がこれを初めて目にしたのが七年前のことだからだ。  当時、私は中国地方の片田舎にある中学校で教鞭をとっていた。 その学校は山の頂上に立てられていて、陽が落ちると空を覆う一面の星を見ることが出来た。  あの日、寝付けず散歩に出た私は中学校への通学路を一人歩いていた。 空はいつもどおり澄んでいて、見上げれば夏の星座がいくつも見えた。 かすかながら天の川さえも見えた。  と、天の川から一つ星が流れた。 なぜだか私にはそれが、誰かのこぼした涙のように感じられた。  翌日、その体験を同僚に話したが、彼も同じ時間帯に天の川を見ていたらしいのに流星は見ていないと言う。  妙に思った私は、誰か他に見た者はいないかと教職員たちに聞きまわったが、一人として流星を見た者はおらず、私は彼らに「幻でも見たのか」と言われる始末だった  翌日、私はこの話を聞きつけた校長に呼び出された。  私は何かお説教でもされるのか、と恐々としながら校長室の扉をくぐったが、校長の態度はいたって平静だった。  結局お説教などはなく、校長は私に先日見た「流星群」について質問したうえで、あれに関して現在までに解っていることを説明してくれた。  私は校長が「流星」を知っていたことに驚いたが、説明された事柄は私をもっと驚かせた。  校長による「流星群」の説明はこうだ。  ごく一部の者にしか見えないこと、一九九九年に初めて確認されたこと、それ以降毎年、七月七日午前零時に見られること、そして流星を見た者は例外なく何らかの不幸な出来事に遭っている、ということ。  正直いうと「何らかの不幸な出来事に遭っている」なんて話を信じる気にはなれず、私はその後の日常生活でそんな事はすっかり忘れていた。  大切な人を失うまでは。  彼女は職場の同僚で、ここ何ヶ月か私と深い付き合いを持つようになっていた。  笑顔がかわいらしく、優しく理解ある教師として生徒たちにも慕われていた彼女は、夜の田舎道を自家用車で帰宅中に突然消えた、と公には報じられていた。  彼女には身寄りがなかったため、ことの詳細は職場に尋ねてきた警官から、校長と私が聞くことになった。  警官が懐から取り出して見せた何枚かの現場写真には、ボンネットに巨大な手形のような跡がつけられ、無残にひしゃげた車が写っていた。  まるで原形をとどめていないその様は、一目見ただけでは彼女の自家用車だとは判断しかねたが、かろうじて読み取れるナンバープレートの数字を目にしては、彼女のものに間違いないと理解せざるを得なかった。  しかしこの写真が現実のものなら、これはどう見ても事故などではない。  私がそのことを警官に質問すると、彼の口からは「これは魔物の仕業だ」という答えが返ってきた。  普段ならそんな馬鹿な、となる所だが「流星を見た者は例外なく何らかの不幸な出来事に遭っている」という校長の言葉を聞いていた為か、そのときの私には警官の言葉に対する嫌疑も反論も浮かんでは来なかった。  ただ、彼女は魔物に殺されたか連れ去られたかして、どちらにしろもうこの世にはいないだろうと言うことだけは、はっきりと理解できた。  不思議なことに悲しいとは感じなかった。  それから数日後、私は再び校長室に呼び出され、「双葉学園」という東京の学校に転勤してもらうことになった、と告げられた。  その学園の名前には私も聞き覚えがあった。 東京湾に作られた人工島内に巨大な敷地を持つ、日本一と言っても過言ではない規模の学園で、ありとあらゆる分野の教育が受けられると評判だったからだ。  はじめは突然の辞令に驚いたが、少し考えるとこれは先日の事件と関わりがありそうだと思い至った。  つまり私はあの事件に自分が思うよりずっと深く関わっていて、「流星を見た者は例外なく何らかの不幸な出来事に遭っている」という校長の言葉から、恐らくは私自身よりも周囲への影響を考えての処置なのだろう。  言ってしまえば厄介払いだ。  そこまで理解すれば、私に辞令を断る理由など何もなかった。  七月七日 午前 零時七分  静かに流れ続けていた星々は徐々にその数を減らし、ついには涙の最後の一粒を流し終えた。  結局、辞令を受けこの双葉学園に配属された私は、その後一年近くを中等部の教師として過ごし、消えた彼女のことを思い出すこともなくなっていた。  だが、眠れず散歩にでたあの夜、私は再び流星群を見た。  否応なく一年前の七月七日からの数日間が想起され、双葉学園に来た日から得た知識と結びついていく。  かつての校長が言ったあの言葉。 あれは私が普通の人間とは異なる世界に足を踏み入れ、その影響を好むと好まざるとに関わらず周囲の者へも与えてしまうという意味だったのだ。  警官の言ったことも妄言ではなく、事実この世界には数限りない魔物が存在し、日々この世界に生きるもの達を文字通りの意味で食い物にしている。  彼はその事実を知っていたのだ。  あの頃の私に彼らのような、今の私のような知識さえあれば「流星群」を見たときすぐに彼女の前から姿を消していただろう。  そうだ、彼女が死んだ責任は私にある。  私がそばにいたから彼女は死んだのだ。  私さえいなければ彼女が死ぬことはなかったのに。  一年近くも経った今になって、私はようやく自分自身の愚かさに気づき、人目を憚ることもなく、大声を上げて啼いた。  翌日、私は異能力研究室への転属を願い出、理事会の承認を得て、この六年間のほとんどを異能力の研究に費やしている。  週一回の講座を持つことを条件に、だが。  (そういえばまだ願い事を書いていなかったな)  上着の内ポケットから短冊とボールペンを、右ポケットから教員証を取り出し、短冊を上に、教員証を下に重ねてひざの上に置く。    (やはりこれしかないかな)  少し瞑目してから短冊にペンを走らせる。  この六年、願い事は変わっていない。  とても個人的で身勝手な願いだ。 ――ずっと悲しんでいられますように――  あの一年間、悲しむことを忘れていたのは私の罪だ。  このままどうか私を許さないでいておくれ。  星になった彼女に、私はそう願った。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品投稿場所に戻る>作品投稿場所]]
異能力研究者の夜  七月六日、午後 六時  双葉学園研究棟内にある私室で、私は生徒たちの提出した小論文に目を通していた。  私の講座は中間、期末考査などは設けておらず、その代わりに月末締めで、400字詰め原稿用紙10枚程度の小論文を提出することを生徒たちに義務付けている。  といっても毎月必ず提出しろと言うのではなく、学期ごとに一度、1年で計3回の提出だ。  せっかちな、または勤勉な生徒は4月末にいきなり提出する場合もあるし、マイペースな学生は6月末(事実上、一学期最後の締め切り)に提出する場合もある。  大半が最終締め切りの提出だったが、こういった提出物一つとってもみても彼らの個々の個性が見える気がして楽しいものだった。  現在、この手の文書はそのほとんどがデータで扱われるようになっているが、私は生徒たちに「紙」で提出させている。  単純に私自身がモニターよりも紙媒体で文字を読むのが好きなこともあるが、提出物への添削や私見を書き加える場合などは、やはりデジタルデータよりも紙のほうが便利だった。  提出された小論文はほとんどがPCからの打ち出しだったが、まれに手書きの物もあり、そういった物は書き直した鉛筆の跡などからその生徒がどこで悩んだか、どう考え直したかが伺えて実に良い。  さて、切り上げ予定の時間まではまだまだ間がある。 一つずつ、じっくり読んでいくとしよう。  午後 八時  ふいに外から「ポン」と言う音が聞こえてきた。 その音は二度、三度と続き、窓からは赤や青の光が差し込んでくる。  明日のために花火の試し打ちでもしているのだろうか。  私は机上の「七夕祭り」と題されたチラシに目をやる。 イベントのプログラムとともに派手なコスチュームに身を包んだ男女一組のレスラーがプリントされていた。  この二人は私が知る限り、ここ五年ほど七夕祭りのたびに双葉学園にやってきてはプロレス興行を打っていて、毎回お約束の接戦を繰り広げては引き分け、それでも人気が衰えないという不思議なレスラーだった。 ……何らかの異能が働いていると考えるのは穿ちすぎだろうか。  そんな考えを中断して私は再び生徒たちの提出物に没頭することにした。  午後 十一時三十分  デスクに置いた教員証からアラーム音が響く。  午後九時ごろに食事を取ってから約二時間、目を通した小論文の数は全体の三分の一ほどになっていた。  私の講座は他のカリキュラムに比べ小さな物だが、それでも常軌を逸した規模のこの学園、受け持つ生徒の数もまたそれなりの数になる。  小論文すべてに目を通し終わるのは二、三日後になりそうだ。  私は教員証に手を伸ばしアラームをとめると上着の右ポケットにねじ込み席を立つ。  思わず「どっこいしょ」という言葉が出てしまうのは若くない証拠だろうか。  積み重なった小論文の山から一つを手に取りつつ、左ポケットに入れてあった屋上の鍵を引っ張り出し、キーホルダーの札に「研究棟・屋上」と書かれているのを確認してまたしまう。  そして私は屋上への階段に向かった。  研究棟内は既に私以外の人影はなく、廊下にも非常灯が点っているのみだった。  私は右ポケットから教員証を取り出し、簡易照明を点灯し前方にかざす。  この教員証はモバイル、携帯電話、GPSなどの機能がこれでもかと盛り込まれた便利な代物で、懐中電灯代わりに使える簡易照明もそれらの機能のうちの一つだ。  これと飲食物さえあれば災害時も安心、といった風情だ。  一体、誰がここまで大量の機能を一つにまとめようと思ったのだろうか。  午後 十一時三十五分  屋上と階段を隔てる扉にたどり着いた私は早速、鍵をポケットから引きずり出して鍵穴に挿しこみ回転させる。  すると鍵はすぐに「カチャリ」と音を立てて開き、私は鍵を引き抜いてから扉を開け放った。  研究棟の屋上は大きな配電盤や配管、エアコンの室外機などがいくつも並び、普段はメンテナンス業者以外の者はめったに出入りしない場所だ。  私は配管に躓かないように注意しながら、商業区画などの明るい場所から最も離れた屋上東端に向かう。  少しでも星が見えやすいように、という気休めだ。  七夕と言えば天の川だが、本当のところ、こんな大都市に近い場所では天の川など見えはしない。  今や天の川が見られるのはごく限られた田舎くらいのものだ。  しかし私の見たい物はそれとは別だから特に問題はない。  足元を気にしながらの移動だったため二、三分かかったが、屋上東端にたどり着き手近な配管に腰掛ける。 背後には配電盤の壁面があるので、もたれかかって上空を見られるのも楽でいい。  座席の具合いを確かめがてら、ちらと上空を見る。 今夜は雲もほとんどなく星もまばらに見えるが、やはり天の川は見えない。  それだけを確認して私は、持ってきた小論文に目を落とした。  午後 十一時五十七分  教員証のアラームが再び鳴る。  読みかけの小論文に、しおり代わりに手持ちの赤ペンをはさんだまま閉じ、アラームを止め、簡易照明を落とす。  そして教員証を上着の右ポケットに押し込んでから夜の空を見上げる。 澄んだ空気がそよと吹き、心地よく私の頬をなでた。  手元の紙束もゆるやかな風を受けてカサリと音を立てる。 その音が収まると、辺りは虫の音さえ聞こえない静寂に包まれた。  いよいよだ。  1年間待ちわびた瞬間。  七月七日 午前 零時  分厚い空気の層にかすむ星空から一つ、星が流れた。 それを合図にしたように、一つ、また一つと星が流れていく。  それらはやがて流星群と呼べるほどの、優しくとめどない流れとなった。   一九九九年以来、七月七日午前零時にはこういった流星群が見られるようになったらしい。  らしい、と言うのは私自身がこれを初めて目にしたのが七年前のことだからだ。  当時、私は中国地方の片田舎にある中学校で教鞭をとっていた。 その学校は山の頂上に立てられていて、陽が落ちると空を覆う一面の星を見ることが出来た。  あの日、寝付けず散歩に出た私は中学校への通学路を一人歩いていた。 空はいつもどおり澄んでいて、見上げれば夏の星座がいくつも見えた。 かすかながら天の川さえも見えた。  と、天の川から一つ星が流れた。 なぜだか私にはそれが、誰かのこぼした涙のように感じられた。  翌日、その体験を同僚に話したが、彼も同じ時間帯に天の川を見ていたらしいのに流星は見ていないと言う。  妙に思った私は、誰か他に見た者はいないかと教職員たちに聞きまわったが、一人として流星を見た者はおらず、私は彼らに「幻でも見たのか」と言われる始末だった  翌日、私はこの話を聞きつけた校長に呼び出された。  私は何かお説教でもされるのか、と恐々としながら校長室の扉をくぐったが、校長の態度はいたって平静だった。  結局お説教などはなく、校長は私に先日見た「流星群」について質問したうえで、あれに関して現在までに解っていることを説明してくれた。  私は校長が「流星」を知っていたことに驚いたが、説明された事柄は私をもっと驚かせた。  校長による「流星群」の説明はこうだ。  ごく一部の者にしか見えないこと、一九九九年に初めて確認されたこと、それ以降毎年、七月七日午前零時に見られること、そして流星を見た者は例外なく何らかの不幸な出来事に遭っている、ということ。  正直いうと「何らかの不幸な出来事に遭っている」なんて話を信じる気にはなれず、私はその後の日常生活でそんな事はすっかり忘れていた。  大切な人を失うまでは。  彼女は職場の同僚で、ここ何ヶ月か私と深い付き合いを持つようになっていた。  笑顔がかわいらしく、優しく理解ある教師として生徒たちにも慕われていた彼女は、夜の田舎道を自家用車で帰宅中に突然消えた、と公には報じられていた。  彼女には身寄りがなかったため、ことの詳細は職場に尋ねてきた警官から、校長と私が聞くことになった。  警官が懐から取り出して見せた何枚かの現場写真には、ボンネットに巨大な手形のような跡がつけられ、無残にひしゃげた車が写っていた。  まるで原形をとどめていないその様は、一目見ただけでは彼女の自家用車だとは判断しかねたが、かろうじて読み取れるナンバープレートの数字を目にしては、彼女のものに間違いないと理解せざるを得なかった。  しかしこの写真が現実のものなら、これはどう見ても事故などではない。  私がそのことを警官に質問すると、彼の口からは「これは魔物の仕業だ」という答えが返ってきた。  普段ならそんな馬鹿な、となる所だが「流星を見た者は例外なく何らかの不幸な出来事に遭っている」という校長の言葉を聞いていた為か、そのときの私には警官の言葉に対する嫌疑も反論も浮かんでは来なかった。  ただ、彼女は魔物に殺されたか連れ去られたかして、どちらにしろもうこの世にはいないだろうと言うことだけは、はっきりと理解できた。  不思議なことに悲しいとは感じなかった。  それから数日後、私は再び校長室に呼び出され、「双葉学園」という東京の学校に転勤してもらうことになった、と告げられた。  その学園の名前には私も聞き覚えがあった。 東京湾に作られた人工島内に巨大な敷地を持つ、日本一と言っても過言ではない規模の学園で、ありとあらゆる分野の教育が受けられると評判だったからだ。  はじめは突然の辞令に驚いたが、少し考えるとこれは先日の事件と関わりがありそうだと思い至った。  つまり私はあの事件に自分が思うよりずっと深く関わっていて、「流星を見た者は例外なく何らかの不幸な出来事に遭っている」という校長の言葉から、恐らくは私自身よりも周囲への影響を考えての処置なのだろう。  言ってしまえば厄介払いだ。  そこまで理解すれば、私に辞令を断る理由など何もなかった。  七月七日 午前 零時七分  静かに流れ続けていた星々は徐々にその数を減らし、ついには涙の最後の一粒を流し終えた。  結局、辞令を受けこの双葉学園に配属された私は、その後一年近くを中等部の教師として過ごし、消えた彼女のことを思い出すこともなくなっていた。  だが、眠れず散歩にでたあの夜、私は再び流星群を見た。  否応なく一年前の七月七日からの数日間が想起され、双葉学園に来た日から得た知識と結びついていく。  かつての校長が言ったあの言葉。 あれは私が普通の人間とは異なる世界に足を踏み入れ、その影響を好むと好まざるとに関わらず周囲の者へも与えてしまうという意味だったのだ。  警官の言ったことも妄言ではなく、事実この世界には数限りない魔物が存在し、日々この世界に生きるもの達を文字通りの意味で食い物にしている。  彼はその事実を知っていたのだ。  あの頃の私に彼らのような、今の私のような知識さえあれば「流星群」を見たときすぐに彼女の前から姿を消していただろう。  そうだ、彼女が死んだ責任は私にある。  私がそばにいたから彼女は死んだのだ。  私さえいなければ彼女が死ぬことはなかったのに。  一年近くも経った今になって、私はようやく自分自身の愚かさに気づき、人目を憚ることもなく、大声を上げて啼いた。  翌日、私は異能力研究室への転属を願い出、理事会の承認を得て、この六年間のほとんどを異能力の研究に費やしている。  週一回の講座を持つことを条件に、だが。  (そういえばまだ願い事を書いていなかったな)  上着の内ポケットから短冊とボールペンを、右ポケットから教員証を取り出し、短冊を上に、教員証を下に重ねてひざの上に置く。    (やはりこれしかないかな)  少し瞑目してから短冊にペンを走らせる。  この六年、願い事は変わっていない。  とても個人的で身勝手な願いだ。 ――ずっと悲しんでいられますように――  あの一年間、悲しむことを忘れていたのは私の罪だ。  このままどうか私を許さないでいておくれ。  星になった彼女に、私はそう願った。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品投稿場所に戻る>作品投稿場所]]

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