【姉妹】

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【姉妹】」(2009/07/28 (火) 23:29:24) の最新版変更点

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 らのらのhttp://rano.jp/1032 |BGCOLOR(#4876FF):COLOR(#fff):&bold(){ 送信日時 7月某日}| |BGCOLOR(#4876FF):COLOR(#fff):&bold(){ 送信者  久本昭二}| |BGCOLOR(#4876FF):COLOR(#fff):&bold(){ 件名   大島さんへ}| |BGCOLOR(#E0FFFF):こんな夜にいきなりごめんなさい。どうしても伝えたいことがあるんです。&br() 僕は今、血塗れ仔猫に追いかけられています。先生の話は本当でした。血塗れ仔猫は「います」。&br()もう助からないと思います。左腕をちぎられてしまいました。何とか逃げて隠れることができましたが、時間の問題だと思います。だから、せめて大島さんに僕の気持ちを伝えておこうと思います。&br()好きです。&br()こんな僕だけど、あなたのことが好きです。&br()この小さな島から本土のみんなに大声で伝えたいぐらい、あなたのことが大好きです。&br()放課後に図書館でたくさんおしゃべりをしてから、僕はあなたに告白する決心がつきました。&br()本当なら直接伝えたかったけれど、それももうかないません。&br()血濡れ仔猫の足音が聞こえてきました。そしてこのモバイル手帳も電池切れのようです。&br()生きて帰りたい。生きて帰って、またあなたの顔を見たい。&br()&br()&br()&br()さようなら&br()&br()&br()&br()|      担任は本当に悔しそうな様子で、三人の死をみんなに伝えた。  それはみんなで共有している時の流れが、いっせいに止まったかのようだった。刻みゆくことを止めた死んだ時間は、クラスメートの背中に重く圧し掛かった。  小山真太郎《こやましんたろう》と野口道彦《のぐちみちひこ》という、ひときわ存在感のある二人が死んでしまった。いなくなってしまった。  存在がなくなる。あって然るべきものがなくなっている。  この計り知れない虚無感と違和感が、みんなに顔を上げることも許さない。このひどい結末に、すすり泣く声も聞こえてきた。  そして、誰もが「どうして?」と、首を横に傾けたことがある。  それは三人目の犠牲者・久本昭二《ひさもとしょうじ》のことであった。  真太郎と道彦に混じって、どうして真面目な昭二も一緒になって幽霊病院にいたのかが、みんな理解できなかった。 「お姉ちゃん、何ぼーっとしてるの? しっかりしてよ!」 「ああ、ごめんごめん」  ベンチに呆然として腰掛けていた大島亜由美《おおじまあゆみ》は、妹に呼ばれて立ち上がる。それからラケットをしっかり握りなおし、バドミントンの相手をしてあげる。  ここは裏山の頂上である。人工的に造成された山には展望台が設置されており、ちょっとした公園として整備されている。展望台の下は急な崖となっており、汚い緑色をした東京湾に面している。小刻みな波は白い泡を立てながら、人の手によって作られたあざとくわざとらしい岩肌を舐めていた。 「ああんもーう、どこ放ってるのお姉ちゃーん!」  考え事をしながら叩きつけたシャトルは、妹を軽がると飛び越えて林の奥深くへ入ってしまう。妹の背中が鬱蒼とした木々に紛れたのを確認してから、亜由美は重いため息をついた。  正直言って、今はこうして妹の面倒を見る心境ではない。血塗れ仔猫によって犠牲になったクラスメートのことを思うと、心はいっそう痛んだ。 「どうして・・・・・・久本くんが殺されなきゃいけないの・・・・・・?」  久本昭二。いつの日か学校でゆっくり会話をした、おとなしいけど、どこかさりげなく素敵な側面のある男子。あの日、蜂蜜にも似た甘い夕暮れ時の陽射しが図書室にさしていた。 『ちゃんと人の目を見て話なさい! そんなんだから小山や野口にいじめられるんだぞ!』 『うん・・・・・・。僕、こういうの苦手で、どうも』 『久本くんはちゃんと背筋伸ばして、しっかり前を向いて行動したほうがいいよ。そのほうがカッコいいって』 『・・・・・・うう』  読書感想文の本を借りるため、図書室に足を運んだ放課後のことだった。  そこで亜由美は、昭二が一人で黙々と勉強しているのを見た。たくさんの参考書や書物を机に積んで、ふだん教室で見せることのない真剣な目つきでシャープペンシルを動かしていたのだ。彼女はその横顔にときめいてしまった。 『ねね、久本くんってさ、何か目指してるものがあって勉強してるの?』 『うん。僕はどうせ一般人だから、教員になりたい。歴史が好きだから普通の大学でしっかり勉強して、歴史をみんなに教えたい』 『おー、なんかすごいなあー。私将来のことなんて、何も考えずに生きてるのに・・・・・・。久本くんはそこまでしっかり考えてるんだねえ』 『・・・・・・たいしたことじゃないよ、うう』 『いやいや、すごいと思うよ。とっても素敵だよ』  日は傾き、周りを囲む林は一段と暗くなる。西の空を見やると、まさに日が沈もうとするところであった。新宿、渋谷、六本木。個性ある高層ビルの影が、黒い棒となっていくつも延びていた。カラフルなネオンサインも、いたるところで強く主張するように輝いている。高台から望む夕焼けは血の色のように赤かった。  はっきり言って、小山のようなうるさいだけの乱暴者なんかよりも、久本くんのほうがよっぽど大人っぽくてカッコよかった。どうしてあいつら二人だけならともかく、久本くんまで殺されなくちゃ・・・・・・。  そこまで考えて、亜由美はぶんぶんと首を左右に振る。なんてひどいことを考えてしまったのだろう。小山だって野口だって、大切なクラスの「仲間」だった。それをまるで、死ぬならあの二人だけでよかったという風に考えてしまうのは、不謹慎さもはなはだしい。こんな醜い自分を久本くんが見ていたとしたら、きっと悲しい顔をされてしまうだろう。 「久本くん・・・・・・。うう、こんなのって、ないよ・・・・・・」  展望台の明かりがぱっと点いた。グラウンドの白い砂地が淡く浮かびあがる。  久本くんは自分にまっすぐな気持ちを伝えてくれた。あの気の弱い久本くんが、勇気を出して自分に気持ちを打ち明けてくれた。だけど、私は彼に自分の気持ちを伝えることはもうできない・・・・・・。  ろうそくの明かりを追いやるように、上空をまっさらな藍色が押し寄せる。埠頭のライトが湾岸をオレンジに染めつくし、何十本も並ぶクレーンが赤い障害灯を点滅させ始めた。  東京タワーが赤々と輝きだしたのをみて、亜由美ははっと気がついた。 「美玖《みく》? 美玖、どこ行ったの?」  考え事に没頭しすぎて、すっかり妹の存在を忘れてしまっていた。いつのまにか辺りは暗くなっており、展望台からは夜景が広がっている。  美玖から返事がこない。亜由美は背筋が凍りつくのを感じていた。  まずい。今の双葉島は「夜になったら表を出歩けない」 「ないなあ・・・・・・。お姉ちゃんったらどこに飛ばしたのよ、もう!」  頬を膨らませて美玖は言った。膝を地面に突き、生い茂る雑草を両手で掻き分けながら、小さなシャトルを探していた。  せっかくお姉ちゃんが、久々に遊びに連れてってくれたのに。これじゃ、シャトル探しで一日が終わっちゃうじゃないの。もう。  美玖は不満だった。中学生になってから、亜由美は自分が忙しいことを理由にまったくかまってくれなくなった。姉の目が日ごろの学園生活に向いてしまい、自分を見てくれなくなってしまった。それがたまらなく寂しいのであった。  だから今日は学校帰りの姉を捕まえて、遊びに行くことをいつもより強くねだった。亜由美がほんの少しだけ、面倒そうな横顔を見せたのを美玖は見逃さない。少しでもそのようなそぶりを見せたのが、悲しくて仕方がなかった。 「もう、お姉ちゃんは美玖のことなんてどうでもいいのかなあ?」  もう小学六年生なのだから、しっかりしなさい。  もう小学六年生なのだから、そうやって猫みたいにはしゃいでないで大人しくしなさい。  そう、このごろ亜由美に突っぱねられてきた。でも美玖はどうしても納得がいかない。  私はお姉ちゃんが好き。毎日いっぱい遊んでくれたお姉ちゃんが好き。  勉強を教えてくれお姉ちゃんが好き。お料理を教えてくれたお姉ちゃんが好き。  ラルヴァから私を守ってくれた、異能力者のお姉ちゃんが世界中の誰よりも大好き。  美玖は早くシャトルを見つけて、亜由美とバドミントンの続きをやりたかった。どんどん辺りは暗くなっていき、このままだと見つけられなくなってしまう。  そんなの、絶対に嫌だ。美玖は夢中になって探しまわった。  地面に這いつくばっているそんな美玖に、何者かの手が差し出される。  その手のひらには、彼女が必死になって探していたシャトルがあった。 「あ、どうもありがとう! やったあ、どこにあったんだろう!」  美玖はシャトル受け取ると、ひよこを両手に抱くようにそれを優しく包み込む。それから、シャトルを見つけ出してくれた人物にお礼を言いたくて、顔を上げた。 「え・・・・・・? あなた、だぁれ・・・・・・?」  黒い病的なドレスに身を包んだ少女の赤い目が、美玖を見下ろしていた。 「美玖! そこをどきなさい!」  亜由美の叫びを背中に浴びて、美玖は反射的に横へと飛んだ。  横殴りに放ったウェーブが、血塗れ仔猫の首を狙って滑空していく。突然向かってきたカッターに、異形はすかさず鞭を手繰り寄せ、両手に持って防御する。縦にぴんと張った鞭と正面から衝突したウェーブは、きゅんと鋭利な音を立てて霧散した。 「逃なさい! 早く逃げなさい美玖ぅ!」  亜由美は短めの剣を取り出していた。しかし、それは相手を斬るものではない。「空間」を斬るものだ。魂源力を刀に流し、一気になぎ払う。連射も利く便利な飛び道具だ。  血濡れ仔猫も縦横無尽に右腕を振り回し、ウェーブを一つ一つ確実に落としていく。噂どおりの強敵だと亜由美は舌打ちをする。 (こっちにおびきよせるしかない!)  妹を守るためにも、それが最適だと彼女は判断した。距離をとると、血塗れ仔猫も逃がすまいと追ってきた。伸縮自在の鞭を、たとえ遠距離でも一方的に突きつけてくるから、つくづく卑怯なキャラねと彼女は毒づいた。  二人は展望台のグラウンドで対峙する。亜由美が手元の剣を構えると、相手もゆらりとした動作で右手を上にあげ、ばしぃんと地面をたたきつけた。砂や小石が飛び散り、グラウンドに穴が開く。やはり自分を殺すつもりでいるようだ。 「あんたね・・・・・・罪の無い久本くんを無残に殺したの・・・・・・」  血濡れ仔猫は何も語ろうとしない。泡立つような濃厚の血液を連想させる、赤い瞳をこちらにじっと向けるのみであった。  その無表情が、ますます亜由美の怒りを煽る。空間を袈裟切りにして、ひときわ大きなウェーブを繰り出した。  敵が難なくそのカッターを鞭で粉々にしたとき、亜由美が白兵戦を仕掛け、最接近してきたのを見る。  ドスンと、血塗れ仔猫の腹に蹴りを入れた。その無表情が苦悶に歪んだのを見て、ますます亜由美は燃えさかる。 「あんたたちはそうやって何人の人間を殺してきたの」  すっと屈み、まるで踊るように長い右足を振り回す。足払いをしかけたのだ。 「あんたたちはそうやって、何人の人たちを悲しませたの」  前のめりになって転倒していく血塗れ仔猫の背骨に、容赦なくかかとを叩き込んだ。グラウンドに顔面から衝突した異形は、うつぶせになって地面にのめり込むかたちとなった。  苦痛からうっすらと涙に濡れる彼女を、亜由美は踏みつけた。自分の奥歯をひびが入りそうなぐらいかみ締めて、何度も後頭部を踏みつける。 「みんなみんなあんたを許さないんだから! 私はあんたのようなラルヴァを許さない! 人類の敵を許さない! 異能者として、世界の平和を守っていく立場として、ラルヴァはみんな私が始末してやる! 一人残らず虐殺してやる!   あんたたちラルヴァは、強かろうがカラスだろうが無害だろうが友好的だろうが、みんな人類の敵なのよ。私たち異能者に駆除されるべき有害なものなのよ!」  つま先で血塗れ仔猫の顔面を蹴り飛ばした。めきっと、何かが砕けたような音が夜の公園に響く。  自分の鼻血で真っ赤になった敵は、しくしくとか細い声で嗚咽を漏らし始めた。亜由美はそれにぎょっとする。 「なんであんたが泣くのよ? 泣きたいのは私のほうよ!」  と、四つんばいになっているそのわき腹を、思い切り蹴る。血塗れ仔猫は再び、その場でうつ伏せに倒れた。 「返して。久本くんを返して。何も悪くない善良な彼を返して。・・・・・・泣いてないで早く返せって言ってんでしょこの悪趣味なクソ猫がああああああ!」  背中に深く、自分の剣を突き立てた。かはっと、血塗れ仔猫は声にならない悲鳴を上げる。  この日の亜由美は、上級クラスの相手を圧倒していた。年頃の少年・少女は、ポテンシャル以上の力を発揮するときがある。大切な人を殺された怒り。悲しみ。そういったみずみずしい感情が若い血潮を滾らせ、本来の魂源力を凌駕するのだ。 「さっきからなんで泣いてるの? 気持ち悪いんだけど? 意味が解らないんだけど!」  血濡れ仔猫は大量の涙を流していた。それも、心から悲しそうに泣いているのである。これだけ痛めつけたせいなのか、あるいは心中では感情が高ぶっているのか、亜由美には理解できない。血や砂をたっぷり付けたその横顔から感じ取れるのは、「悲痛」の二文字である。 「あんたが、何が悲しくて嫌なのか知らないけど、常識的に考えてあんたのしてきたことは許されないから。だから、あんたをここで私が始末する。島のみんなが安心して表を歩けるようにするため、学校の傷ついたみんなに笑顔を取り戻すため、私はここで決着を付ける!」  亜由美は剣を抜き取ってしっかり握り直すと、ありったけの魂源力を流し込んだ。エネルギーを過剰に注入された刀は、白い輝きを放った。  次のウェーブで血塗れ仔猫を切り裂いてやる。目を瞑って気の充実を待ち、然るべきタイミングを無心になって待ち続けた。目の前では、まだ敵が苦しそうにもがいている。千載一遇のチャンスだ。  亜由美の両目がかっと開かれる。右腕を夜空高く掲げ、本気の一振りを放とうとした。 「みんなの仇! 死ね、血塗れ仔猫! ラルヴァ!」  しかし、そのときだった。 「お姉ちゃん!」  まさかの声に、亜由美の腕が止まった。握り締める剣から魂源力も消滅してしまう。  驚いて横を振り向くと、逃がしたとばかり思っていた美玖が、そこにいたのだ。 「あんた、どうして!」 「お姉ちゃん一人だけ残して逃げられない! 死んじゃやだよ、お姉ちゃん」 「馬鹿! 死ぬわけないじゃない! 危ないから逃げろって言ったでしょうがあ!」 「やだ! 美玖はお姉ちゃんと一緒にいたい! 久しぶりに遊んでくれたお姉ちゃんが好きだから、もう美玖は一人ぼっちは嫌だから」 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 早くどっか行きなさいよぉ!」 「また、そうやって意地悪言う! 昔の優しいお姉ちゃんに戻ってよぅ!」 「今はどうでもいいでしょうがぁ! 危ないんだからあんたはどっか消えろぉおおお!」  そして、完全に敵に対して気を抜いてしまったのが勝負の分かれ目であった。  まっすぐ向かってくる鞭の先。はっとしてそれだけ確認したときには、すでに遅かった。  亜由美の心臓を、血塗れ仔猫の鞭が貫通した・・・・・・。 「お姉ちゃん・・・・・・?」  美玖はふらふらと、仰向けになって血の海に溺れる姉のもとへ寄った。  結局最後まで、彼女は愛する姉と心からわかり合えなかった。美玖にとって、自分の命などはどうでもよかったのだ。ひたすら心配だったのは自分なんかよりも、大好きな亜由美のことであった。この姉はそれを知らずして、その短い生涯を閉じた。 「お姉ちゃあん・・・・・・うう・・・・・・あああ・・・・・・」  血塗れ仔猫は、その光景を前に動揺していた。なぜ自分がこの姉妹を前にして強い当惑を見せるのか、わからない。  お姉ちゃん。美玖の叫びを耳にするたび、何か心の奥底が共鳴するように震えるのだ。  なぜ、この少女の泣き声に共鳴する?  なぜ、この少女の叫び声に共鳴する?  なぜ、この少女の泣き顔に共鳴する?  血濡れ仔猫はわからない。顔は青ざめ、額に汗が滲んでくる。そして、赤い両目から溢れ出てくる涙。  今日は涙がよく出てきた。亜由美にラルヴァと罵られたときも、どうしてか涙が大量に流れ出てきた。  当然、悲しいと感じたわけではない。心が締め付けられるような思いをしたわけではない。自分の中にある別の誰かが、自分を介して泣いている。そんな表現が適当であった。  眼球がちくちくと強く痛んだとき、彼女の赤い瞳が「青」に点滅を始める・・・・・・。  額に手を当てて苦しんでいる血濡れ仔猫を、美玖は睨みあげた。眉を強く吊り上げて、露骨な憎しみの感情をぶつける。 「お姉ちゃんを返して。私のお姉ちゃんを返してぇ! あんたなんて大嫌い! ラルヴァなんて、人を殺すラルヴァなんて、みんなみんなみんな死んでなくなっちゃええええええ!」  それを聞いた瞬間、異形の両目が紅に瞬いた。  そうだ、誰かに似ているんだ。  そんな考えが浮かんだとたん、落ち着きを取り戻したように血塗れ仔猫はため息をついた。  双葉湯の煙突の上で、彼女は夜空と向き合いながら腰掛けていた。夏の夜のそよ風に、黒い大きなドレスと外に跳ねた後ろ髪が細かくなびく。  自分はいったい何者なんだろう。そのような考え事をしたいときには、こうして夜の煙突に登って星空に語りかけるのが彼女の趣味であった。  親指に、湿った舌の先で触れる。舌の先っぽで指先を一周嘗め回すと、唾液を交えてしゃぶりついた。舌で指の腹をねっとりと舐め、それから深くくわえ込んで吸い上げた。はるか下方から聞こえてくる虫の音に混じり、ちゅぱちゅぱと、親指を吸う水っぽい音が響く。  赤い目をしっとりと濡らし、恍惚とした無表情で親指を離す。小学生の肉や血は、柔らかくて底知れぬ濃厚な味わいがあって、美味だった。その味が忘れられない余り、芳醇な香りの強く残る人差し指にもねぶりついた。  指先に付着する唾液の糸を見つめながら、血塗れ仔猫はふと思った。  では、あの子は誰に似ていたんだろう?  幼い妹。丸いつり目。  お姉ちゃん、という心から姉を求める声。  そういえば自分にも、そんな存在がいたような気がする。 &bold(){ 血塗れ仔猫の短編はこれで完結です} &bold(){ ありがとうございました}
 らのらのhttp://rano.jp/1032 |BGCOLOR(#4876FF):COLOR(#fff):&bold(){ 送信日時 7月某日}| |BGCOLOR(#4876FF):COLOR(#fff):&bold(){ 送信者  久本昭二}| |BGCOLOR(#4876FF):COLOR(#fff):&bold(){ 件名   大島さんへ}| |BGCOLOR(#E0FFFF):こんな夜にいきなりごめんなさい。どうしても伝えたいことがあるんです。&br() 僕は今、血塗れ仔猫に追いかけられています。先生の話は本当でした。血塗れ仔猫は「います」。&br()もう助からないと思います。左腕をちぎられてしまいました。何とか逃げて隠れることができましたが、時間の問題だと思います。だから、せめて大島さんに僕の気持ちを伝えておこうと思います。&br()好きです。&br()こんな僕だけど、あなたのことが好きです。&br()この小さな島から本土のみんなに大声で伝えたいぐらい、あなたのことが大好きです。&br()放課後に図書館でたくさんおしゃべりをしてから、僕はあなたに告白する決心がつきました。&br()本当なら直接伝えたかったけれど、それももうかないません。&br()血濡れ仔猫の足音が聞こえてきました。そしてこのモバイル手帳も電池切れのようです。&br()生きて帰りたい。生きて帰って、またあなたの顔を見たい。&br()&br()&br()&br()さようなら&br()&br()&br()&br()|      担任は本当に悔しそうな様子で、三人の死をみんなに伝えた。  それはみんなで共有している時の流れが、いっせいに止まったかのようだった。刻みゆくことを止めた死んだ時間は、クラスメートの背中に重く圧し掛かった。  小山真太郎《こやましんたろう》と野口道彦《のぐちみちひこ》という、ひときわ存在感のある二人が死んでしまった。いなくなってしまった。  存在がなくなる。あって然るべきものがなくなっている。  この計り知れない虚無感と違和感が、みんなに顔を上げることも許さない。このひどい結末に、すすり泣く声も聞こえてきた。  そして、誰もが「どうして?」と、首を横に傾けたことがある。  それは三人目の犠牲者・久本昭二《ひさもとしょうじ》のことであった。  真太郎と道彦に混じって、どうして真面目な昭二も一緒になって幽霊病院にいたのかが、みんな理解できなかった。 「お姉ちゃん、何ぼーっとしてるの? しっかりしてよ!」 「ああ、ごめんごめん」  ベンチに呆然として腰掛けていた大島亜由美《おおじまあゆみ》は、妹に呼ばれて立ち上がる。それからラケットをしっかり握りなおし、バドミントンの相手をしてあげる。  ここは裏山の頂上である。人工的に造成された山には展望台が設置されており、ちょっとした公園として整備されている。展望台の下は急な崖となっており、汚い緑色をした東京湾に面している。小刻みな波は白い泡を立てながら、人の手によって作られたあざとくわざとらしい岩肌を舐めていた。 「ああんもーう、どこ放ってるのお姉ちゃーん!」  考え事をしながら叩きつけたシャトルは、妹を軽がると飛び越えて林の奥深くへ入ってしまう。妹の背中が鬱蒼とした木々に紛れたのを確認してから、亜由美は重いため息をついた。  正直言って、今はこうして妹の面倒を見る心境ではない。血塗れ仔猫によって犠牲になったクラスメートのことを思うと、心はいっそう痛んだ。 「どうして・・・・・・久本くんが殺されなきゃいけないの・・・・・・?」  久本昭二。いつの日か学校でゆっくり会話をした、おとなしいけど、どこかさりげなく素敵な側面のある男子。あの日、蜂蜜にも似た甘い夕暮れ時の陽射しが図書室にさしていた。 『ちゃんと人の目を見て話なさい! そんなんだから小山や野口にいじめられるんだぞ!』 『うん・・・・・・。僕、こういうの苦手で、どうも』 『久本くんはちゃんと背筋伸ばして、しっかり前を向いて行動したほうがいいよ。そのほうがカッコいいって』 『・・・・・・うう』  読書感想文の本を借りるため、図書室に足を運んだ放課後のことだった。  そこで亜由美は、昭二が一人で黙々と勉強しているのを見た。たくさんの参考書や書物を机に積んで、ふだん教室で見せることのない真剣な目つきでシャープペンシルを動かしていたのだ。彼女はその横顔にときめいてしまった。 『ねね、久本くんってさ、何か目指してるものがあって勉強してるの?』 『うん。僕はどうせ一般人だから、教員になりたい。歴史が好きだから普通の大学でしっかり勉強して、歴史をみんなに教えたい』 『おー、なんかすごいなあー。私将来のことなんて、何も考えずに生きてるのに・・・・・・。久本くんはそこまでしっかり考えてるんだねえ』 『・・・・・・たいしたことじゃないよ、うう』 『いやいや、すごいと思うよ。とっても素敵だよ』  日は傾き、周りを囲む林は一段と暗くなる。西の空を見やると、まさに日が沈もうとするところであった。新宿、渋谷、六本木。個性ある高層ビルの影が、黒い棒となっていくつも延びていた。カラフルなネオンサインも、いたるところで強く主張するように輝いている。高台から望む夕焼けは血の色のように赤かった。  はっきり言って、小山のようなうるさいだけの乱暴者なんかよりも、久本くんのほうがよっぽど大人っぽくてカッコよかった。どうしてあいつら二人だけならともかく、久本くんまで殺されなくちゃ・・・・・・。  そこまで考えて、亜由美はぶんぶんと首を左右に振る。なんてひどいことを考えてしまったのだろう。小山だって野口だって、大切なクラスの「仲間」だった。それをまるで、死ぬならあの二人だけでよかったという風に考えてしまうのは、不謹慎さもはなはだしい。こんな醜い自分を久本くんが見ていたとしたら、きっと悲しい顔をされてしまうだろう。 「久本くん・・・・・・。うう、こんなのって、ないよ・・・・・・」  展望台の明かりがぱっと点いた。グラウンドの白い砂地が淡く浮かびあがる。  久本くんは自分にまっすぐな気持ちを伝えてくれた。あの気の弱い久本くんが、勇気を出して自分に気持ちを打ち明けてくれた。だけど、私は彼に自分の気持ちを伝えることはもうできない・・・・・・。  ろうそくの明かりを追いやるように、上空をまっさらな藍色が押し寄せる。埠頭のライトが湾岸をオレンジに染めつくし、何十本も並ぶクレーンが赤い障害灯を点滅させ始めた。  東京タワーが赤々と輝きだしたのをみて、亜由美ははっと気がついた。 「美玖《みく》? 美玖、どこ行ったの?」  考え事に没頭しすぎて、すっかり妹の存在を忘れてしまっていた。いつのまにか辺りは暗くなっており、展望台からは夜景が広がっている。  美玖から返事がこない。亜由美は背筋が凍りつくのを感じていた。  まずい。今の双葉島は「夜になったら表を出歩けない」 「ないなあ・・・・・・。お姉ちゃんったらどこに飛ばしたのよ、もう!」  頬を膨らませて美玖は言った。膝を地面に突き、生い茂る雑草を両手で掻き分けながら、小さなシャトルを探していた。  せっかくお姉ちゃんが、久々に遊びに連れてってくれたのに。これじゃ、シャトル探しで一日が終わっちゃうじゃないの。もう。  美玖は不満だった。中学生になってから、亜由美は自分が忙しいことを理由にまったくかまってくれなくなった。姉の目が日ごろの学園生活に向いてしまい、自分を見てくれなくなってしまった。それがたまらなく寂しいのであった。  だから今日は学校帰りの姉を捕まえて、遊びに行くことをいつもより強くねだった。亜由美がほんの少しだけ、面倒そうな横顔を見せたのを美玖は見逃さない。少しでもそのようなそぶりを見せたのが、悲しくて仕方がなかった。 「もう、お姉ちゃんは美玖のことなんてどうでもいいのかなあ?」  もう小学六年生なのだから、しっかりしなさい。  もう小学六年生なのだから、そうやって猫みたいにはしゃいでないで大人しくしなさい。  そう、このごろ亜由美に突っぱねられてきた。でも美玖はどうしても納得がいかない。  私はお姉ちゃんが好き。毎日いっぱい遊んでくれたお姉ちゃんが好き。  勉強を教えてくれお姉ちゃんが好き。お料理を教えてくれたお姉ちゃんが好き。  ラルヴァから私を守ってくれた、異能力者のお姉ちゃんが世界中の誰よりも大好き。  美玖は早くシャトルを見つけて、亜由美とバドミントンの続きをやりたかった。どんどん辺りは暗くなっていき、このままだと見つけられなくなってしまう。  そんなの、絶対に嫌だ。美玖は夢中になって探しまわった。  地面に這いつくばっているそんな美玖に、何者かの手が差し出される。  その手のひらには、彼女が必死になって探していたシャトルがあった。 「あ、どうもありがとう! やったあ、どこにあったんだろう!」  美玖はシャトル受け取ると、ひよこを両手に抱くようにそれを優しく包み込む。それから、シャトルを見つけ出してくれた人物にお礼を言いたくて、顔を上げた。 「え・・・・・・? あなた、だぁれ・・・・・・?」  黒い病的なドレスに身を包んだ少女の赤い目が、美玖を見下ろしていた。 「美玖! そこをどきなさい!」  亜由美の叫びを背中に浴びて、美玖は反射的に横へと飛んだ。  横殴りに放ったウェーブが、血塗れ仔猫の首を狙って滑空していく。突然向かってきたカッターに、異形はすかさず鞭を手繰り寄せ、両手に持って防御する。縦にぴんと張った鞭と正面から衝突したウェーブは、きゅんと鋭利な音を立てて霧散した。 「逃なさい! 早く逃げなさい美玖ぅ!」  亜由美は短めの剣を取り出していた。しかし、それは相手を斬るものではない。「空間」を斬るものだ。魂源力を刀に流し、一気になぎ払う。連射も利く便利な飛び道具だ。  血濡れ仔猫も縦横無尽に右腕を振り回し、ウェーブを一つ一つ確実に落としていく。噂どおりの強敵だと亜由美は舌打ちをする。 (こっちにおびきよせるしかない!)  妹を守るためにも、それが最適だと彼女は判断した。距離をとると、血塗れ仔猫も逃がすまいと追ってきた。伸縮自在の鞭を、たとえ遠距離でも一方的に突きつけてくるから、つくづく卑怯なキャラねと彼女は毒づいた。  二人は展望台のグラウンドで対峙する。亜由美が手元の剣を構えると、相手もゆらりとした動作で右手を上にあげ、ばしぃんと地面をたたきつけた。砂や小石が飛び散り、グラウンドに穴が開く。やはり自分を殺すつもりでいるようだ。 「あんたね・・・・・・罪の無い久本くんを無残に殺したの・・・・・・」  血濡れ仔猫は何も語ろうとしない。泡立つような濃厚の血液を連想させる、赤い瞳をこちらにじっと向けるのみであった。  その無表情が、ますます亜由美の怒りを煽る。空間を袈裟切りにして、ひときわ大きなウェーブを繰り出した。  敵が難なくそのカッターを鞭で粉々にしたとき、亜由美が白兵戦を仕掛け、最接近してきたのを見る。  ドスンと、血塗れ仔猫の腹に蹴りを入れた。その無表情が苦悶に歪んだのを見て、ますます亜由美は燃えさかる。 「あんたたちはそうやって何人の人間を殺してきたの」  すっと屈み、まるで踊るように長い右足を振り回す。足払いをしかけたのだ。 「あんたたちはそうやって、何人の人たちを悲しませたの」  前のめりになって転倒していく血塗れ仔猫の背骨に、容赦なくかかとを叩き込んだ。グラウンドに顔面から衝突した異形は、うつぶせになって地面にのめり込むかたちとなった。  苦痛からうっすらと涙に濡れる彼女を、亜由美は踏みつけた。自分の奥歯をひびが入りそうなぐらいかみ締めて、何度も後頭部を踏みつける。 「みんなみんなあんたを許さないんだから! 私はあんたのようなラルヴァを許さない! 人類の敵を許さない! 異能者として、世界の平和を守っていく立場として、ラルヴァはみんな私が始末してやる! 一人残らず虐殺してやる!   あんたたちラルヴァは、強かろうがカラスだろうが無害だろうが友好的だろうが、みんな人類の敵なのよ。私たち異能者に駆除されるべき有害なものなのよ!」  つま先で血塗れ仔猫の顔面を蹴り飛ばした。めきっと、何かが砕けたような音が夜の公園に響く。  自分の鼻血で真っ赤になった敵は、しくしくとか細い声で嗚咽を漏らし始めた。亜由美はそれにぎょっとする。 「なんであんたが泣くのよ? 泣きたいのは私のほうよ!」  と、四つんばいになっているそのわき腹を、思い切り蹴る。血塗れ仔猫は再び、その場でうつ伏せに倒れた。 「返して。久本くんを返して。何も悪くない善良な彼を返して。・・・・・・泣いてないで早く返せって言ってんでしょこの悪趣味なクソ猫がああああああ!」  背中に深く、自分の剣を突き立てた。かはっと、血塗れ仔猫は声にならない悲鳴を上げる。  この日の亜由美は、上級クラスの相手を圧倒していた。年頃の少年・少女は、ポテンシャル以上の力を発揮するときがある。大切な人を殺された怒り。悲しみ。そういったみずみずしい感情が若い血潮を滾らせ、本来の魂源力を凌駕するのだ。 「さっきからなんで泣いてるの? 気持ち悪いんだけど? 意味が解らないんだけど!」  血濡れ仔猫は大量の涙を流していた。それも、心から悲しそうに泣いているのである。これだけ痛めつけたせいなのか、あるいは心中では感情が高ぶっているのか、亜由美には理解できない。血や砂をたっぷり付けたその横顔から感じ取れるのは、「悲痛」の二文字である。 「あんたが、何が悲しくて嫌なのか知らないけど、常識的に考えてあんたのしてきたことは許されないから。だから、あんたをここで私が始末する。島のみんなが安心して表を歩けるようにするため、学校の傷ついたみんなに笑顔を取り戻すため、私はここで決着を付ける!」  亜由美は剣を抜き取ってしっかり握り直すと、ありったけの魂源力を流し込んだ。エネルギーを過剰に注入された刀は、白い輝きを放った。  次のウェーブで血塗れ仔猫を切り裂いてやる。目を瞑って気の充実を待ち、然るべきタイミングを無心になって待ち続けた。目の前では、まだ敵が苦しそうにもがいている。千載一遇のチャンスだ。  亜由美の両目がかっと開かれる。右腕を夜空高く掲げ、本気の一振りを放とうとした。 「みんなの仇! 死ね、血塗れ仔猫! ラルヴァ!」  しかし、そのときだった。 「お姉ちゃん!」  まさかの声に、亜由美の腕が止まった。握り締める剣から魂源力も消滅してしまう。  驚いて横を振り向くと、逃がしたとばかり思っていた美玖が、そこにいたのだ。 「あんた、どうして!」 「お姉ちゃん一人だけ残して逃げられない! 死んじゃやだよ、お姉ちゃん」 「馬鹿! 死ぬわけないじゃない! 危ないから逃げろって言ったでしょうがあ!」 「やだ! 美玖はお姉ちゃんと一緒にいたい! 久しぶりに遊んでくれたお姉ちゃんが好きだから、もう美玖は一人ぼっちは嫌だから」 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 早くどっか行きなさいよぉ!」 「また、そうやって意地悪言う! 昔の優しいお姉ちゃんに戻ってよぅ!」 「今はどうでもいいでしょうがぁ! 危ないんだからあんたはどっか消えろぉおおお!」  そして、完全に敵に対して気を抜いてしまったのが勝負の分かれ目であった。  まっすぐ向かってくる鞭の先。はっとしてそれだけ確認したときには、すでに遅かった。  亜由美の心臓を、血塗れ仔猫の鞭が貫通した・・・・・・。 「お姉ちゃん・・・・・・?」  美玖はふらふらと、仰向けになって血の海に溺れる姉のもとへ寄った。  結局最後まで、彼女は愛する姉と心からわかり合えなかった。美玖にとって、自分の命などはどうでもよかったのだ。ひたすら心配だったのは自分なんかよりも、大好きな亜由美のことであった。この姉はそれを知らずして、その短い生涯を閉じた。 「お姉ちゃあん・・・・・・うう・・・・・・あああ・・・・・・」  血塗れ仔猫は、その光景を前に動揺していた。なぜ自分がこの姉妹を前にして強い当惑を見せるのか、わからない。  お姉ちゃん。美玖の叫びを耳にするたび、何か心の奥底が共鳴するように震えるのだ。  なぜ、この少女の泣き声に共鳴する?  なぜ、この少女の叫び声に共鳴する?  なぜ、この少女の泣き顔に共鳴する?  血濡れ仔猫はわからない。顔は青ざめ、額に汗が滲んでくる。そして、赤い両目から溢れ出てくる涙。  今日は涙がよく出てきた。亜由美にラルヴァと罵られたときも、どうしてか涙が大量に流れ出てきた。  当然、悲しいと感じたわけではない。心が締め付けられるような思いをしたわけではない。自分の中にある別の誰かが、自分を介して泣いている。そんな表現が適当であった。  眼球がちくちくと強く痛んだとき、彼女の赤い瞳が「青」に点滅を始める・・・・・・。  額に手を当てて苦しんでいる血濡れ仔猫を、美玖は睨みあげた。眉を強く吊り上げて、露骨な憎しみの感情をぶつける。 「お姉ちゃんを返して。私のお姉ちゃんを返してぇ! あんたなんて大嫌い! ラルヴァなんて、人を殺すラルヴァなんて、みんなみんなみんな死んでなくなっちゃええええええ!」  それを聞いた瞬間、異形の両目が紅に瞬いた。  そうだ、誰かに似ているんだ。  そんな考えが浮かんだとたん、落ち着きを取り戻したように血塗れ仔猫はため息をついた。  双葉湯の煙突の上で、彼女は夜空と向き合いながら腰掛けていた。夏の夜のそよ風に、黒い大きなドレスと外に跳ねた後ろ髪が細かくなびく。  自分はいったい何者なんだろう。そのような考え事をしたいときには、こうして夜の煙突に登って星空に語りかけるのが彼女の趣味であった。  親指に、湿った舌の先で触れる。舌の先っぽで指先を一周嘗め回すと、唾液を交えてしゃぶりついた。舌で指の腹をねっとりと舐め、それから深くくわえ込んで吸い上げた。はるか下方から聞こえてくる虫の音に混じり、ちゅぱちゅぱと、親指を吸う水っぽい音が響く。  赤い目をしっとりと濡らし、恍惚とした無表情で親指を離す。小学生の肉や血は、柔らかくて底知れぬ濃厚な味わいがあって、美味だった。その味が忘れられない余り、芳醇な香りの強く残る人差し指にもねぶりついた。  指先に付着する唾液の糸を見つめながら、血塗れ仔猫はふと思った。  では、あの子は誰に似ていたんだろう?  幼い妹。丸いつり目。  お姉ちゃん、という心から姉を求める声。  そういえば自分にも、そんな存在がいたような気がする。 &bold(){ 血塗れ仔猫の短編はこれで完結です} &bold(){ ありがとうございました}

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