【鉄の心は揺るがない】

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[[ラノで読む>http://rano.jp/1285]] ---- 「バウバウ!!バウバウ!!」 国守鉄蔵《くにもりてつぞう》の朝は早い。 灰色の朝、大小の生き物が控えめなお喋りを始める頃に起床する。寝床から台所に一直線に向かった後、朝には決まって容器一杯に湛えた水を丁寧に飲み干す。 美味い。  十分に一晩の渇きを癒した後は手の平一杯の水でざぶざぶと顔を洗い、歯を磨く。神経質なぐらいに丹念に。前歯の表。裏。奥歯。奥歯の裏から舌の上まで。自分が納得するまで磨く。 歯を磨いた後、生地の粗いタオルを片手に、住まいである用務員室を後にする。用務員室から繋がる狭い渡り廊下の先にある勝手口から外に出る。 朝が早いせいか、靄《もや》はまだ晴れないが気にすることも無い。 爺むさいシャツを脱ぎ、物干し竿に引っ掛かるよう投げ捨てる。表れた上半身は力強さを微塵も感じさせる事は無かったが、老人の其れとしては十分に整っていた。 先程までは小声で囁いていた小鳥達も、朝の迎えを感じると次第に楽しさを抑えられないのか、饒舌になっていた。 宿舎の庭に一人の老人。 ゆっくりと目を閉じ、体の全てで息をする。 「今日も空気が美味いの……」 この世の幸せを一身に受け止めた微笑み《ほほえみ》は、恐らく貴方の不幸をも受け止めるだろう。 国守鉄蔵《くにもりてつぞう》は終わった物語の主人公である。  国守鉄蔵は双葉学園の住み込み用務員として日々を過ごしている。学生達が謳歌する青春。 青春といっても一般的な学生達の日常とは異なる面も多いのは確かだが、それでも各々が切り開いていく日々の為、ほんの少しの手助けをするのが今の生き甲斐である。 「んむぬ。本日の予定は害虫駆除じゃったかの」  日課の乾布摩擦の後、一汁三菜の慎ましやかな朝食を終え、一念発起し、ジャージを着込む。太古に栄えた、両脇に一本のラインが入った緑色のジャージ。 全体的に毛玉が幾つも付いていたり、補修の為かジグザグに縫った後がある裾。この衣服こそが国守鉄蔵の正装なのだ。  学園の仕事といっても、備品のチェックや一部建築物の補修。害虫駆除に、草刈や花壇の手入れ。そしてトイレ掃除などだ。双葉学園の広さは一般的な学園とは一線を画している。 一区画ですら広大であるにも関わらず、それがいくつもある。だが、広大な敷地面積を隅から隅まで整備する事の苦労も、 彼にとっては日替わりの運動場の様なものであり案外楽しんでいたりする。  現在の住まいである用務員宿舎の一室の片隅で屈みこむ一人の老人。 「んむぬぬ。覚書はどこじゃったかのう。このままでは今日の仕事場が解らんぞ……」 案外ボケ老人でもある。  引き出しをひっくり返したり、ちゃぶ台をひっくり返したり暴れまわったが、無事に昨日書き留めたメモを見つける事ができた。 メモには「自ぜん区、がい虫、たくさん、あとそうじ」と金釘流で書き連ねてあり、書いた本人ですら解読に時間がかかったが。  靄も立ち消え、うっすらと湿り気のある空気が立ち込めていた。河辺にある舗装されたランニングコースを、自転車で爆走し粉塵を撒き散らすバーコードハゲの老人の姿があった。 「うほほほほー!!、今日は害虫駆除じゃぞー!!ケンゾー!!」 「バウバウバウバウ!!」 ややあって愛車の轟天号《じてんしゃ》を片手運転で爆走させつつ、空いた手で竹箒《たけぼうき》をグルングルン回転させながら 愛犬のケンゾー《しばいぬ》と暴走機関車の如く疾駆するのだった。  小気味良いブレーキ音を響かせ、勢い良く両の足を地面に降ろす。 「そいじゃ虫さんの営みがどんなモンか見に行くとするかのゥ」 「バウ!!」  森林公園内のいくつかある雑木林で害虫が異常発生している。  先日、国守鉄蔵に学園から連絡があった。 本来は醒徒会庶務が担当する業務の一つではあるのだが、如何せん人手が足りない。 雑務に日々を追われ、着手出来ない案件のうち、比較的容易な案件は用務員が担う事となっていた。今回依頼された雑務の一つが害虫駆除である。 「あのハヤテとかいう小僧さんも大変じゃのう。んむ?ハヤタじゃったか?まぁ、どうでもいいかの」 どこまでもぞんざいに扱われる庶務が不憫である。  幾つかの雑木林を巡ったが今の所は目立った害虫の異常発生というものは見受けられなかった。 「なんじゃい。別に言うほど虫さんは湧いとるワケでもなさそうじゃのう、ケンゾー」 「バウバウ!!」 木々から伸びる枝葉の隙間から陽光が薄く漏れ始めており、それらに照らされた愛犬の顔をワシワシと撫で回す。 「しかしじゃぁぞ、学童の健やかな日々を守る為にも、もーちぃと頑張ってみるかのぅー」 心なしか愛犬の背筋も伸びた様に見えた。笑みを浮かべながら鉄蔵は次の雑木林へと向かう。  道すがら公園のベンチに深く腰を下ろした女学生がいた。公園のベンチに一人、ぽつねんとしている。 純白の長靴下から続いている靴のつま先を見つめながら、肩を落としていた。 女学生を見遣る。樹木のざわめきと愛犬の粗い呼吸だけが、ほんの一時の公園の全てだった。 鉄蔵は愛犬としばしの間見詰め、破顔一生し一言だけ相棒に呟いた。 「行ってきてやってくれんか?」 主の言葉を聞き届けた従者は、大地を蹴る軽快な音をたてながら女学生の元へと向かった。 「やっこさんはケンゾーに任せてワシゃ仕事に戻るとするかの」 少しだけ眉尻を下げながら次の雑木林へと歩みを進めた。  雑木林を歩いていると、ふと前面に霧が立ち込めている小沼が見て取れた。一歩、二歩と霧に歩みよる度それに比例して耳障りな音が大きくなっていく。 距離を縮める度に霧の正体が明らかになっていく。  霧と見紛う蚊の大群であった。蚊の大群は木々の合間に見え隠れする小沼の上で、気の向くままに踊り耽っていた。 「あぁぁああぁ。見てるだけで体が痒くなってきたわぃ。とりあえず噴霧器と防護服を取りに戻らんと」 ひとりごち、蚊の大群に背を向け雑木林から抜け出そうとした瞬間何かの気配を感じた。 木々の隙間から刺す陽光を一瞬だけ黒く塗りつぶす影。突然の闖入者は木漏れ日の陽光を幾重にも切り裂いた。 「いや、いやいやいや。これはーそうじゃの。酒の肴にしかならんわィ」 深い霧へと切り込む影。 自然界の中で進化した物とは違い、その境界を一足飛びに別の次元の樹形図を以って派生し進化した昆虫。 古い時代の少年達の至宝の一つ。 縦一直線に伸び、 その体躯は酷く不自然な形の、透き通る二対の翅《つばさ》を窶《やつ》した ──蜻蛉《トンボ》の姿だった。 「蜻蛉《トンボ》の怪、神蜻蛉《カミヤンマ》。  当世風に言うと、らるば……じゃったか。  あの小僧さん……害虫駆除なぞと言っておきながら碌《ロク》な仕事まわしよらんの」 ラルヴァ”神蜻蛉《カミヤンマ》”は暫く池の上を旋回し、一心不乱に両脚を動かし一面の霧を捕食する。 「こんな都市部にまで降りくるとは……鬼神蜻蛉《キシンヤンマ》か」 旋回飛行を止め、小沼の上でホバリングするラルヴァの複眼が国守鉄蔵を正面に捉える。 「──ああそうかィ、なんじゃ。とりあえず、その前にちょっと待ってくれんかの?」 問答無用、明確な殺意を持ちながらラルヴァは突撃してきた。一瞬の判断で国守鉄蔵は後方へゴロゴロと転げる。 「なんじゃいなんじゃい、せっかちなヤツじゃ。少しはこちらの準備を待つとかうひひひィいッツ!!」 全身を凍て付かせる金属と金属を叩きつける音が雑木林を突き抜ける。 ラルヴァが上顎《うわあご》と下顎《したあご》をぶつけ発する威嚇音。老人が諫《いさ》める間もなくラルヴァは突撃してきた。 必死の形相を浮かべながらラルヴァから遁走する。そもそも、そもそもだ、異能者の集まる双葉学園ではラルヴァの発生率は低いと聞いてはいたのだが。 「ぬぉぉおおおッッツ!!小僧さんや聞こえ取るかのぉお!!こりゃぁ、虫駆除するってれべるじゃねぇぞぃッツ!!」  双葉学園用務員、爆走するバーコードハゲ。国守鉄蔵《くにもりてつぞう》は慟哭《どうこく》した。  ただひたすら走った。狙い定めたかのように木々が眼前を覆う事もあったが。その都度、軽業師の如く木々の合間をするりと掻い潜る。 ラルヴァも後方から追って来たが枝葉が邪魔をしている為か、上手く鉄蔵に追いつく事が出来ずにいる。 「ふひィ、ふひびィ!!其れ見だごどが、ング……ごの鉄蔵様に追いづごうハァハァ、んぞ……ング、十年早いわィ!!カーッ!!ペッ!!」 幾度も喉の奥から込み上げる痰と格闘しながら、ラルヴァとの障害物競走に興じていた。  突如、後方からの威圧感が消えた。  国守鉄蔵はその事に気付きはしたが、落ち葉を蹴り上げながらお構いなしに走り続けた。  この学園は、異能の能力を持つ多くの若者達が集う、双葉学園。 後は学園の若者達に任せ、自分は出来るだけ邪魔にならない場所へと避難し、裏方に徹するべきだ。 ラルヴァを撒いたと確証が持てたのならば、その時には近くのライフラインから醒徒会役員へ連絡を行い応援を要請しようと考えていた。 「老いぼれには若干重労働すぎるわィ」  額からは汗が止め処なく溢れ、背中や胸元を伝う汗がシャツに張り付き辟易した。 上空や周囲を十分確認した後、走る速度を緩め、立ち止まった。  目蓋を細め、頭、首元、両肩、両腕、腰周り、太腿から両脚、両足。全身の力を落とし。五感の全てを研ぎ澄ます。 環境音に耳を澄ませる。力任せに暴れる風は無いか。敵意を以って自分を睨め付ける存在は。 蟲《むし》の怪《け》の毒々しい微かな匂いは感じないか。手練手管に長ける怪《け》の罠ではないのか。  視界の全てを断ち切り、皮膚は地球《せかい》の創造物のみに触れ、遮断し、黒く塗りつぶす。 再び辺りの雑木林を見回す。木木の合間の奥には一般人もよく利用するランニングコースが見え隠れしている。一つの懸念が胸奥を侵食する。 「……これは、いかん……いかんぞッッツ!!」  国守鉄蔵は眉間に幾筋もの皺をよせ、険しい表情のまま駆け出した。 「ばうばうばう!!」  国守鉄蔵の鉄壁の従者にして家族、そして親愛なる相棒、国守ケンゾーは一人の少女へと駆け寄る。 「え?あ、わわ……ワンちゃんどうしたのかな?」  彼方遠くにあった意識が引き戻された少女は突然の来客に困惑を隠せない。 それでも国守ケンゾーは、我侭な子供が母親の胸に甘えるかのように少女の胸元へと飛び込む。 「きゃ!!わ、こら、ちょっと駄目だってば……あはは、くすぐったいよ!!」 ベンチに腰掛けていた少女に柴犬が何度も覆いかぶさる。なすがままではあったが、少女は円らな黒い瞳の来客を快く迎え入れた。 「どうしたのかな?ご主人様とはぐれて迷子になっちゃったのかな?」  少女の問いかけを気にする事も無く、柴犬は執拗に頬《ほほ》を舐める。柴犬の首元を見ると首輪が付いており、首元には将棋の駒のような五角形の板が吊り下げられていた。 板には犬の名前と思しき言葉が書かれている事をかろうじて読み取る事はできた。勢いのある筆使いで記されており、少女は少しばかりは悩んだのだが。 「えーっと、そっか、君の名前はケンゾー君……であってるよね?」 少女が問いかけると柴犬は少女に覆いかぶさる形で威勢良く、一度吠えた。 「そっかそっか、ケンゾー君かー」 語りかけるように柴犬に話しかけると、それに答えるように少女の肩や胸元に柴犬は前足を押し付けた。 「そうだね、私も自己紹介しなきゃだね。私の名前は時坂一観《ときさかひとみ》っていうの。解るかな?」 時坂一観は少し困った顔で話しかける。先程よりもまた一層大きな声でケンゾーは吠えた。 「本当かなー?解ってくれたのかなー?ふふふ」 しばらくの間、一観とケンゾーはベンチの上でじゃれ合っていた。  その内に少女は空を見上げ、ため息を漏らす。誰に話すでもなく、滔々《とうとう》と語り始めた。 「私のお兄ちゃんの事なんだけどね?  妹の私としては最近心配なんだよ?  どこからか女の人を連れてきたりして、なんだかんだで今は一緒に住んでたりするし。  あとはたまーにお兄ちゃんの部屋から一緒に住んでる女の人とは別な女の人の声とか聞こえてきちゃったりして。やや、うん、まぁ、お兄ちゃんに限っては変な事は無いと思うんだけど。  そうそう、あと、お兄ちゃん結構カッコいい所があるから、別な女の人とも仲良くなってたりするし。ホント、妹としてはこれからの不安が一杯なんだよ。後はね後はね──」  国守ケンゾーは彼女の横に行儀良く腰を落ち着かせ、その言葉を静かに聞いていた。否定する事も、肯定する事もせず、ビー球の様な瞳は少女の顔だけを映し、捉えていた。 しばらくは少女の悩みに耳を傾けてはいたのだが、優しく身体を撫でる感覚と暖かな陽気が心地よく気付かないうちに眠りに落ちた。 「……それでこないだなんかはね。って、寝ちゃったのか」  そのまま一観は静かに撫で続けていたが、彼女もまた、流れてきた木々が掻き鳴らす波の音と暖かな香りに押されるようにゆっくりと目蓋を下ろした。  園内にも人がまばらに増えてきた。何時までも聞き覚えのある体操の音楽に合わせ体を動かす人や、ランニングコースを走る人。  しかし、緩やかな時間が流れる公園での一時は、恐怖に包まれた。  上空から鋭く広場に何かが飛び込んできた。視界の端に違和感を覚えた人々は何事かと広場に視線をやると、そこには余りにも巨大なトンボの姿があった。 現実感の薄い光景に呆気にとられ、公園の人々は口を広げトンボをみつめていたのだが、一度トンボが上顎と下顎を打ち鳴らし威嚇音を発すると恐怖に顔を引き攣《つ》らせ悲鳴を上げた。 「う、うわぁ!!ラルヴァだっ!!」  どこの誰とも知れぬ男性の一人が大声を張り上げる。異変に気付くのが遅れた人々も男性の声が聞こえた方を振り向きラルヴァの姿を捉えると、一目散に逃げ出した。 辺りから人気が無くなるには然程時間はかからなかったのだが、まだベンチには時坂一観だけが取り残されていた。  国守ケンゾーはいち早く周囲の異変に気付いたが、一観は深い眠りに落ちており一向に目が覚める様子が無かった。 状況は一刻を争う。強硬手段になるが止むを得ない。国守ケンゾーは一観に慇懃に頭を垂れると、勢い良く少女のスカートを引っ張った。 「ひゃぁっ!?なななに、お兄ちゃんそんな心の準備が!!って、あれ?」 立ち上がり、ずり落ちたスカートを身を引くように直しながら、辺りの異変に気付いた。 剣呑な空気が辺りを押し潰しており、一帯からは生き物という生き物の気配が常人でも解る程に失せていた。 ただ不気味なまでに巨大なトンボの姿以外を除いて。 「何あれ?…ラ、ラルヴァなの?」  ラルヴァが時坂一観に気付き、彼女の方へと体躯を大きく翻《ひるがえ》す。巨大な複眼を一瞬のうちに上下左右にせわしなく動かすさまは、獲物を品定めするかのようだった。 ラルヴァの視線を浴び恐怖に身をすくめてしまった一観のスカートの裾を、ケンゾーは何度も引っ張る。すぐにこの場所から逃げろ、逃げるんだ。  必死の訴えも届かないままラルヴァは二対の翅を羽ばたかせ目にも止まらぬ速さで突撃してきた。 目を見開き、一観は何も出来ぬまま呆然と立ち尽くす。ラルヴァと身体がぶつかる直前に、ケンゾーは一観の膝に体当たりをし、彼女の体勢を崩した。 一観は勢い良く腰を地面に打ち付ける。間一髪でラルヴァの攻撃を回避する事は出来たが、次の手はもう無い。 「うっ、ぁ、ああ、かは……」 助けを求めようと声を出そうとするが喉の奥から出てくるのは乾いた呼吸だけで、立ち上がる事もままならない。 傍らに立つケンゾーは鋭く眼を細めラルヴァを威嚇するが、ラルヴァはケンゾーを特に意識するでもなく少女を見据える。 「グルルルッ……ガアッ!!」  唾液と咆哮を散らしながらケンゾーは先手を打った。常日頃の表情は消えうせ、一匹の獣としてラルヴァに牙を向ける。 俊敏に大地を蹴り上げながら前方のラルヴァへと跳びかかるが余裕を持ってかわされてしまう。 着地と同時に駆け出し常に相手に背後をとられる事が無いように位置関係に気を配る。ラルヴァが攻撃する為に高度を下げ突撃してくる。 それを回避しあわよくば一撃を加えようとするが、相手も速く避けられる。 一進一退の攻防が繰り広げられる。未だどちらにも外傷は無かった。  鬱陶しく攻撃を仕掛けてくる動物を縊《くび》り殺す為、ラルヴァは自身を空高くへと舞い上がらせる。ケンゾーは上昇するラルヴァをにらみつける。 その時、強烈な逆風がケンゾーをたたきつけ、一瞬だが視界を閉ざしてしまった。無論、ラルヴァもそれを見逃す訳もなく追い風に乗るようにケンゾーに襲い掛かった。  反射的に旋回し回避しようとするも間に合わずラルヴァの両脚に胴体を掴まれた。  ラルヴァから逃れる為に脚の節目に狙いをつけ全力で喰らい付くと同時に、ケンゾーも胴体の一部をえぐりとられる。 「キャワンッ!!」  攻撃に怯んだラルヴァはケンゾーを一旦手放し距離を置いた。甲高い鳴き声と鮮血を噴き上げながら地面に落下するケンゾー。 ぼとりと地面に放り出されたケンゾーの背中にはこぶしほどの大きさの穴が開いており、どくどくと血が流れ出していた。 「わんちゃん、もういいから逃げて!!」 一観が悲痛な声を上げると同時にケンゾーはゆらりと立ち上がった。  国守ケンゾーは何も諦めてはいなかった。前方でホバリングを続け、一つの瞬きのうちに様々な方向へ、不気味に小首を傾げつづけるラルヴァを見据えた。 前足は地面を掴み、後ろ足は何時でも跳ぶ為の力を伝える。胴体は流れるままに大地にゆだねる、視線は眼前の敵性対象《ラルヴァ》へ。尻尾は未だ衰えぬ戦意の如く屹立させた。  まだ、もう少しだけ。体力も十分ある。背中の怪我はかなり痛いがなんとかなる。もう少しだけ、時間を稼ぐことができるのなら。 ケンゾーがラルヴァの予備動作を逃さない為に全神経を集中させていると、ラルヴァの複眼には自分以外の何者かの姿を捉えているようだった。視線は一観よりも後方に注がれている。 白熱しすぎていたせいか、気付くのが遅れていたようだ。これでは従者失格だなと自嘲した。 「──すまん、苦労させたな」  遅いぜ、爺さん。  後方からゆっくりと歩いてくる老人に、時坂一観もやっとの事で気が付いた。 「あ、あ……おじいちゃん!!ここは危ないから早く逃げて下さい!!」 「まぁ、そうじゃの。危ないの」 「そんな、のんきな事言ってるヒマなんてないですから早く逃げて学園の人を!!」 「一応呼ぼうとはしたんじゃが、なんじゃ。逃げおおせた人達がとっくに通報しとるんじゃなィかの」 「だったら早く!!」 囃し立てる少女の頭の上に、幾重もシワの重なった手の平を置き、ぽんぽんと叩いた。 「ここまで泣かんでよう頑張ったの。怖かったじゃろ。後はジジイと相棒に任せて嬢ちゃんは逃げんしゃィ」  老人の言葉に緊張の糸がふつりと切れたのか、一観の瞳からは涙が止め処なく溢れ出してきた。 「そかそか、ちょっと動けなさそうか。それじゃぁ、ジジイがちょっと頑張ってみるから、それなりに応援してくれると、嬉しいんじゃ」  涙で目元を赤く腫らした一観を背に、未だラルヴァを牽制しているケンゾーの元へと歩み寄る。 「背中。痛そうじゃな」 相棒は答えない。 「まだ、なんとか、一緒に頑張ってくれるか」 頬の肉を震わせ、わふっと一息だけ返事をするのを見届けた。 「そうか。……お前さんにばかり貧乏くじ引かせて悪ィな。ほんに久しぶりじゃがやるだけやってみるか」 風が凪いだ。 「聞け、異類異形の蟲の怪よ」  底冷えするような冷たさを纏った言霊に、ラルヴァは戦慄し身を二つ程後退させる。 「この国の、防人の一人として名乗ろう」  一言、また一言と言葉を紡ぐ度に老人の魂源力はその器を徐々に満たしてゆく。 「金剛不壊《こんごうふかい》の鬼の蔵」  確かな質量を伴って魂源力が実体化する。指先、手の甲、前腕、上腕。少しずつ、しかし確実に姿を現す。 「鬼瓦《おにがわら》の鉄蔵《てつぞう》たぁワシの事じゃッッツ!!」  そこにあるのは憤怒が全てといわんばかりの鬼瓦の表情そのものであった。 魂源力は全ての部位を実体化させ、鉄蔵の全身は日本式の鎧に覆われる。 古き戦乱の世を戦い抜いた兜と、悪鬼羅刹を模した面頬によって表情は隠れ、その奥から覗く眼光は幽鬼の如く。魂源力を伴った鎧の実体化。 「──”剣蔵《けんぞう》”・壱の蔵ッッツツ!!」  鉄蔵が一声上げると傍らに控えていた従者は天高く咆哮し飛翔する。一匹の獣は空中で弧を画きながら回転し勢い良く地面に──”突き刺さった”。 それは一瞬の変化だった。刀身に帯びた湿り気と、刃紋から滴り落ちる焔火。その柄は獣毛によって織り成された紐に巻かれ、一振りの太刀として雄々しく聳《そび》え立っていた。  壱の蔵・鬼斬《おにきり》。国守”剣蔵”が魂源力によって変化した姿だった。鉄蔵は太刀を緩やかに抜き、両手で構え、切先をラルヴァへと向ける。 「始め」 言葉を発すると同時に、ラルヴァは鉄蔵へと疾走する。しかし、鉄蔵は眼前から迫り来る脅威に微動だにもしない。  鬼神蜻蛉《キシンヤンマ》は恐怖していた。目の前の敵を完璧に殺す。反撃のわずかな可能性も残してはならない。この生き物は、先刻までもてあそんでいた軟弱な生き物ではない。 何がいけなかったのか。捕食者に脅える日々はあの日、あの人間の手によって去ったのではなかったのか。人間にもてあそばれ、命を散らしてきた仲間達の怨嗟の念が私の全てだ。 そう、もてあそんで何がいけない。貴様達が行ってきた事の全てではないか。強ければどんな命であろうと、自我による手慰みの対象でしかないのだろう?  速度に身を任せたまま、ラルヴァは上顎と下顎を鳴らし鉄蔵の鎧袖に喰らい付く。上顎と下顎は金属を無理に擦り合わせた時の金切り声を響かせる。  だが、鎧を噛み砕こうとしたはずのラルヴァの顎の全てが、大きな亀裂を走らせた後に砕け散った。 「お前さんのアゴもたいそう強いのは、ワシも知るところじゃが。ワシの鬼瓦はそれ以上に堅固での」  面頬を通し乾いた声で呟きながら、鉄蔵はラルヴァの胴体を即座に左手で鷲掴み流れるように地面へと叩き付ける。叩き付けられたラルヴァは少量の液体を巻き上げた。 「一昔前の話にゃなるが、鎧の硬さだけでいったのなら、そうじゃの」 ラルヴァは反撃の為に身を起こそうと、尚も懸命に翅《はね》を震わせる。だが鉄蔵は、小枝を折るように翅を踏みにじり、右手に握り締めた太刀を大きく振りかぶり言葉を続ける。 「──東方不敗じゃ」 ラルヴァの頭部を一刀両断の下に切り伏せた。  敵性対象が息絶えた事を見届け、ケンゾーも変化を解きそのまま地面へと、しな垂れかかる。 「わんちゃん!!ケンゾー君!!」 時坂一観はケンゾーへ駆け寄り、その頭に涙でぐしゃぐしゃになった顔を摺り寄せた。 「ケンゾーも大仕事でちょっと疲れたみたいじゃ。これからコイツの手当てをせにゃならんから、もしよかったらお嬢ちゃん手伝ってくれんかィ?」 「はい!!いくらでも手伝います!!」 若干鼻にかかった声で一観は小気味良い返事を返した。 「うむ。こんだけ気立ての良いお嬢ちゃんならコイツも頑張った甲斐があったの」  しばらく一観がケンゾーを頭を抱えていると、荒いイビキをかきながら国守ケンゾーは深い眠りについた。 「私を守ってくれたんだよね。……ありがとう」  まだ今日という日は始まったばかりだが、一日分の仕事を終えたような気分だ。 学園の案件は日を改め処理するとして、今は目の前の少女の無事な姿を守れただけ良しとしよう。少女と相棒が寄り添うその光景に国守鉄蔵は満足げに頷いた。 「あ、お爺さんも助けて頂いて、本当にありがとうございました。私、時坂一観って言います。お爺さんは学園の人ですか?」 ふと鉄蔵に一美は言葉を投げかける。 「ん、ああ、ワシか?ワシはじゃな」 「──双葉学園用務員の国守鉄蔵《くにもりてつぞう》じゃ」 こうして物語は繋がっていく。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品投稿場所に戻る>作品投稿場所]]
[[ラノで読む>http://rano.jp/1285]] ---- 「バウバウ!!バウバウ!!」 国守鉄蔵《くにもりてつぞう》の朝は早い。 灰色の朝、大小の生き物が控えめなお喋りを始める頃に起床する。寝床から台所に一直線に向かった後、朝には決まって容器一杯に湛えた水を丁寧に飲み干す。 美味い。  十分に一晩の渇きを癒した後は手の平一杯の水でざぶざぶと顔を洗い、歯を磨く。神経質なぐらいに丹念に。前歯の表。裏。奥歯。奥歯の裏から舌の上まで。自分が納得するまで磨く。 歯を磨いた後、生地の粗いタオルを片手に、住まいである用務員室を後にする。用務員室から繋がる狭い渡り廊下の先にある勝手口から外に出る。 朝が早いせいか、靄《もや》はまだ晴れないが気にすることも無い。 爺むさいシャツを脱ぎ、物干し竿に引っ掛かるよう投げ捨てる。表れた上半身は力強さを微塵も感じさせる事は無かったが、老人の其れとしては十分に整っていた。 先程までは小声で囁いていた小鳥達も、朝の迎えを感じると次第に楽しさを抑えられないのか、饒舌になっていた。 宿舎の庭に一人の老人。 ゆっくりと目を閉じ、体の全てで息をする。 「今日も空気が美味いの……」 この世の幸せを一身に受け止めた微笑み《ほほえみ》は、恐らく貴方の不幸をも受け止めるだろう。 国守鉄蔵《くにもりてつぞう》は終わった物語の主人公である。  国守鉄蔵は双葉学園の住み込み用務員として日々を過ごしている。学生達が謳歌する青春。 青春といっても一般的な学生達の日常とは異なる面も多いのは確かだが、それでも各々が切り開いていく日々の為、ほんの少しの手助けをするのが今の生き甲斐である。 「んむぬ。本日の予定は害虫駆除じゃったかの」  日課の乾布摩擦の後、一汁三菜の慎ましやかな朝食を終え、一念発起し、ジャージを着込む。太古に栄えた、両脇に一本のラインが入った緑色のジャージ。 全体的に毛玉が幾つも付いていたり、補修の為かジグザグに縫った後がある裾。この衣服こそが国守鉄蔵の正装なのだ。  学園の仕事といっても、備品のチェックや一部建築物の補修。害虫駆除に、草刈や花壇の手入れ。そしてトイレ掃除などだ。双葉学園の広さは一般的な学園とは一線を画している。 一区画ですら広大であるにも関わらず、それがいくつもある。だが、広大な敷地面積を隅から隅まで整備する事の苦労も、 彼にとっては日替わりの運動場の様なものであり案外楽しんでいたりする。  現在の住まいである用務員宿舎の一室の片隅で屈みこむ一人の老人。 「んむぬぬ。覚書はどこじゃったかのう。このままでは今日の仕事場が解らんぞ……」 案外ボケ老人でもある。  引き出しをひっくり返したり、ちゃぶ台をひっくり返したり暴れまわったが、無事に昨日書き留めたメモを見つける事ができた。 メモには「自ぜん区、がい虫、たくさん、あとそうじ」と金釘流で書き連ねてあり、書いた本人ですら解読に時間がかかったが。  靄も立ち消え、うっすらと湿り気のある空気が立ち込めていた。河辺にある舗装されたランニングコースを、自転車で爆走し粉塵を撒き散らすバーコードハゲの老人の姿があった。 「うほほほほー!!、今日は害虫駆除じゃぞー!!ケンゾー!!」 「バウバウバウバウ!!」 ややあって愛車の轟天号《じてんしゃ》を片手運転で爆走させつつ、空いた手で竹箒《たけぼうき》をグルングルン回転させながら 愛犬のケンゾー《しばいぬ》と暴走機関車の如く疾駆するのだった。  小気味良いブレーキ音を響かせ、勢い良く両の足を地面に降ろす。 「そいじゃ虫さんの営みがどんなモンか見に行くとするかのゥ」 「バウ!!」  森林公園内のいくつかある雑木林で害虫が異常発生している。  先日、国守鉄蔵に学園から連絡があった。 本来は醒徒会庶務が担当する業務の一つではあるのだが、如何せん人手が足りない。 雑務に日々を追われ、着手出来ない案件のうち、比較的容易な案件は用務員が担う事となっていた。今回依頼された雑務の一つが害虫駆除である。 「あのハヤテとかいう小僧さんも大変じゃのう。んむ?ハヤタじゃったか?まぁ、どうでもいいかの」 どこまでもぞんざいに扱われる庶務が不憫である。  幾つかの雑木林を巡ったが今の所は目立った害虫の異常発生というものは見受けられなかった。 「なんじゃい。別に言うほど虫さんは湧いとるワケでもなさそうじゃのう、ケンゾー」 「バウバウ!!」 木々から伸びる枝葉の隙間から陽光が薄く漏れ始めており、それらに照らされた愛犬の顔をワシワシと撫で回す。 「しかしじゃぁぞ、学童の健やかな日々を守る為にも、もーちぃと頑張ってみるかのぅー」 心なしか愛犬の背筋も伸びた様に見えた。笑みを浮かべながら鉄蔵は次の雑木林へと向かう。  道すがら公園のベンチに深く腰を下ろした女学生がいた。公園のベンチに一人、ぽつねんとしている。 純白の長靴下から続いている靴のつま先を見つめながら、肩を落としていた。 女学生を見遣る。樹木のざわめきと愛犬の粗い呼吸だけが、ほんの一時の公園の全てだった。 鉄蔵は愛犬としばしの間見詰め、破顔一生し一言だけ相棒に呟いた。 「行ってきてやってくれんか?」 主の言葉を聞き届けた従者は、大地を蹴る軽快な音をたてながら女学生の元へと向かった。 「やっこさんはケンゾーに任せてワシゃ仕事に戻るとするかの」 少しだけ眉尻を下げながら次の雑木林へと歩みを進めた。  雑木林を歩いていると、ふと前面に霧が立ち込めている小沼が見て取れた。一歩、二歩と霧に歩みよる度それに比例して耳障りな音が大きくなっていく。 距離を縮める度に霧の正体が明らかになっていく。  霧と見紛う蚊の大群であった。蚊の大群は木々の合間に見え隠れする小沼の上で、気の向くままに踊り耽っていた。 「あぁぁああぁ。見てるだけで体が痒くなってきたわぃ。とりあえず噴霧器と防護服を取りに戻らんと」 ひとりごち、蚊の大群に背を向け雑木林から抜け出そうとした瞬間何かの気配を感じた。 木々の隙間から刺す陽光を一瞬だけ黒く塗りつぶす影。突然の闖入者は木漏れ日の陽光を幾重にも切り裂いた。 「いや、いやいやいや。これはーそうじゃの。酒の肴にしかならんわィ」 深い霧へと切り込む影。 自然界の中で進化した物とは違い、その境界を一足飛びに別の次元の樹形図を以って派生し進化した昆虫。 古い時代の少年達の至宝の一つ。 縦一直線に伸び、 その体躯は酷く不自然な形の、透き通る二対の翅《つばさ》を窶《やつ》した ──蜻蛉《トンボ》の姿だった。 「蜻蛉《トンボ》の怪、神蜻蛉《カミヤンマ》。  当世風に言うと、らるば……じゃったか。  あの小僧さん……害虫駆除なぞと言っておきながら碌《ロク》な仕事まわしよらんの」 ラルヴァ”神蜻蛉《カミヤンマ》”は暫く池の上を旋回し、一心不乱に両脚を動かし一面の霧を捕食する。 「こんな都市部にまで降りくるとは……鬼神蜻蛉《キシンヤンマ》か」 旋回飛行を止め、小沼の上でホバリングするラルヴァの複眼が国守鉄蔵を正面に捉える。 「──ああそうかィ、なんじゃ。とりあえず、その前にちょっと待ってくれんかの?」 問答無用、明確な殺意を持ちながらラルヴァは突撃してきた。一瞬の判断で国守鉄蔵は後方へゴロゴロと転げる。 「なんじゃいなんじゃい、せっかちなヤツじゃ。少しはこちらの準備を待つとかうひひひィいッツ!!」 全身を凍て付かせる金属と金属を叩きつける音が雑木林を突き抜ける。 ラルヴァが上顎《うわあご》と下顎《したあご》をぶつけ発する威嚇音。老人が諫《いさ》める間もなくラルヴァは突撃してきた。 必死の形相を浮かべながらラルヴァから遁走する。そもそも、そもそもだ、異能者の集まる双葉学園ではラルヴァの発生率は低いと聞いてはいたのだが。 「ぬぉぉおおおッッツ!!小僧さんや聞こえ取るかのぉお!!こりゃぁ、虫駆除するってれべるじゃねぇぞぃッツ!!」  双葉学園用務員、爆走するバーコードハゲ。国守鉄蔵《くにもりてつぞう》は慟哭《どうこく》した。  ただひたすら走った。狙い定めたかのように木々が眼前を覆う事もあったが。その都度、軽業師の如く木々の合間をするりと掻い潜る。 ラルヴァも後方から追って来たが枝葉が邪魔をしている為か、上手く鉄蔵に追いつく事が出来ずにいる。 「ふひィ、ふひびィ!!其れ見だごどが、ング……ごの鉄蔵様に追いづごうハァハァ、んぞ……ング、十年早いわィ!!カーッ!!ペッ!!」 幾度も喉の奥から込み上げる痰と格闘しながら、ラルヴァとの障害物競走に興じていた。  突如、後方からの威圧感が消えた。  国守鉄蔵はその事に気付きはしたが、落ち葉を蹴り上げながらお構いなしに走り続けた。  この学園は、異能の能力を持つ多くの若者達が集う、双葉学園。 後は学園の若者達に任せ、自分は出来るだけ邪魔にならない場所へと避難し、裏方に徹するべきだ。 ラルヴァを撒いたと確証が持てたのならば、その時には近くのライフラインから醒徒会役員へ連絡を行い応援を要請しようと考えていた。 「老いぼれには若干重労働すぎるわィ」  額からは汗が止め処なく溢れ、背中や胸元を伝う汗がシャツに張り付き辟易した。 上空や周囲を十分確認した後、走る速度を緩め、立ち止まった。  目蓋を細め、頭、首元、両肩、両腕、腰周り、太腿から両脚、両足。全身の力を落とし。五感の全てを研ぎ澄ます。 環境音に耳を澄ませる。力任せに暴れる風は無いか。敵意を以って自分を睨め付ける存在は。 蟲《むし》の怪《け》の毒々しい微かな匂いは感じないか。手練手管に長ける怪《け》の罠ではないのか。  視界の全てを断ち切り、皮膚は地球《せかい》の創造物のみに触れ、遮断し、黒く塗りつぶす。 再び辺りの雑木林を見回す。木木の合間の奥には一般人もよく利用するランニングコースが見え隠れしている。一つの懸念が胸奥を侵食する。 「……これは、いかん……いかんぞッッツ!!」  国守鉄蔵は眉間に幾筋もの皺をよせ、険しい表情のまま駆け出した。 「ばうばうばう!!」  国守鉄蔵の鉄壁の従者にして家族、そして親愛なる相棒、国守ケンゾーは一人の少女へと駆け寄る。 「え?あ、わわ……ワンちゃんどうしたのかな?」  彼方遠くにあった意識が引き戻された少女は突然の来客に困惑を隠せない。 それでも国守ケンゾーは、我侭な子供が母親の胸に甘えるかのように少女の胸元へと飛び込む。 「きゃ!!わ、こら、ちょっと駄目だってば……あはは、くすぐったいよ!!」 ベンチに腰掛けていた少女に柴犬が何度も覆いかぶさる。なすがままではあったが、少女は円らな黒い瞳の来客を快く迎え入れた。 「どうしたのかな?ご主人様とはぐれて迷子になっちゃったのかな?」  少女の問いかけを気にする事も無く、柴犬は執拗に頬《ほほ》を舐める。柴犬の首元を見ると首輪が付いており、首元には将棋の駒のような五角形の板が吊り下げられていた。 板には犬の名前と思しき言葉が書かれている事をかろうじて読み取る事はできた。勢いのある筆使いで記されており、少女は少しばかりは悩んだのだが。 「えーっと、そっか、君の名前はケンゾー君……であってるよね?」 少女が問いかけると柴犬は少女に覆いかぶさる形で威勢良く、一度吠えた。 「そっかそっか、ケンゾー君かー」 語りかけるように柴犬に話しかけると、それに答えるように少女の肩や胸元に柴犬は前足を押し付けた。 「そうだね、私も自己紹介しなきゃだね。私の名前は時坂一観《ときさかひとみ》っていうの。解るかな?」 時坂一観は少し困った顔で話しかける。先程よりもまた一層大きな声でケンゾーは吠えた。 「本当かなー?解ってくれたのかなー?ふふふ」 しばらくの間、一観とケンゾーはベンチの上でじゃれ合っていた。  その内に少女は空を見上げ、ため息を漏らす。誰に話すでもなく、滔々《とうとう》と語り始めた。 「私のお兄ちゃんの事なんだけどね?  妹の私としては最近心配なんだよ?  どこからか女の人を連れてきたりして、なんだかんだで今は一緒に住んでたりするし。  あとはたまーにお兄ちゃんの部屋から一緒に住んでる女の人とは別な女の人の声とか聞こえてきちゃったりして。やや、うん、まぁ、お兄ちゃんに限っては変な事は無いと思うんだけど。  そうそう、あと、お兄ちゃん結構カッコいい所があるから、別な女の人とも仲良くなってたりするし。ホント、妹としてはこれからの不安が一杯なんだよ。後はね後はね──」  国守ケンゾーは彼女の横に行儀良く腰を落ち着かせ、その言葉を静かに聞いていた。否定する事も、肯定する事もせず、ビー球の様な瞳は少女の顔だけを映し、捉えていた。 しばらくは少女の悩みに耳を傾けてはいたのだが、優しく身体を撫でる感覚と暖かな陽気が心地よく気付かないうちに眠りに落ちた。 「……それでこないだなんかはね。って、寝ちゃったのか」  そのまま一観は静かに撫で続けていたが、彼女もまた、流れてきた木々が掻き鳴らす波の音と暖かな香りに押されるようにゆっくりと目蓋を下ろした。  園内にも人がまばらに増えてきた。何時までも聞き覚えのある体操の音楽に合わせ体を動かす人や、ランニングコースを走る人。  しかし、緩やかな時間が流れる公園での一時は、恐怖に包まれた。  上空から鋭く広場に何かが飛び込んできた。視界の端に違和感を覚えた人々は何事かと広場に視線をやると、そこには余りにも巨大なトンボの姿があった。 現実感の薄い光景に呆気にとられ、公園の人々は口を広げトンボをみつめていたのだが、一度トンボが上顎と下顎を打ち鳴らし威嚇音を発すると恐怖に顔を引き攣《つ》らせ悲鳴を上げた。 「う、うわぁ!!ラルヴァだっ!!」  どこの誰とも知れぬ男性の一人が大声を張り上げる。異変に気付くのが遅れた人々も男性の声が聞こえた方を振り向きラルヴァの姿を捉えると、一目散に逃げ出した。 辺りから人気が無くなるには然程時間はかからなかったのだが、まだベンチには時坂一観だけが取り残されていた。  国守ケンゾーはいち早く周囲の異変に気付いたが、一観は深い眠りに落ちており一向に目が覚める様子が無かった。 状況は一刻を争う。強硬手段になるが止むを得ない。国守ケンゾーは一観に慇懃に頭を垂れると、勢い良く少女のスカートを引っ張った。 「ひゃぁっ!?なななに、お兄ちゃんそんな心の準備が!!って、あれ?」 立ち上がり、ずり落ちたスカートを身を引くように直しながら、辺りの異変に気付いた。 剣呑な空気が辺りを押し潰しており、一帯からは生き物という生き物の気配が常人でも解る程に失せていた。 ただ不気味なまでに巨大なトンボの姿以外を除いて。 「何あれ?…ラ、ラルヴァなの?」  ラルヴァが時坂一観に気付き、彼女の方へと体躯を大きく翻《ひるがえ》す。巨大な複眼を一瞬のうちに上下左右にせわしなく動かすさまは、獲物を品定めするかのようだった。 ラルヴァの視線を浴び恐怖に身をすくめてしまった一観のスカートの裾を、ケンゾーは何度も引っ張る。すぐにこの場所から逃げろ、逃げるんだ。  必死の訴えも届かないままラルヴァは二対の翅を羽ばたかせ目にも止まらぬ速さで突撃してきた。 目を見開き、一観は何も出来ぬまま呆然と立ち尽くす。ラルヴァと身体がぶつかる直前に、ケンゾーは一観の膝に体当たりをし、彼女の体勢を崩した。 一観は勢い良く腰を地面に打ち付ける。間一髪でラルヴァの攻撃を回避する事は出来たが、次の手はもう無い。 「うっ、ぁ、ああ、かは……」 助けを求めようと声を出そうとするが喉の奥から出てくるのは乾いた呼吸だけで、立ち上がる事もままならない。 傍らに立つケンゾーは鋭く眼を細めラルヴァを威嚇するが、ラルヴァはケンゾーを特に意識するでもなく少女を見据える。 「グルルルッ……ガアッ!!」  唾液と咆哮を散らしながらケンゾーは先手を打った。常日頃の表情は消えうせ、一匹の獣としてラルヴァに牙を向ける。 俊敏に大地を蹴り上げながら前方のラルヴァへと跳びかかるが余裕を持ってかわされてしまう。 着地と同時に駆け出し常に相手に背後をとられる事が無いように位置関係に気を配る。ラルヴァが攻撃する為に高度を下げ突撃してくる。 それを回避しあわよくば一撃を加えようとするが、相手も速く避けられる。 一進一退の攻防が繰り広げられる。未だどちらにも外傷は無かった。  鬱陶しく攻撃を仕掛けてくる動物を縊《くび》り殺す為、ラルヴァは自身を空高くへと舞い上がらせる。ケンゾーは上昇するラルヴァをにらみつける。 その時、強烈な逆風がケンゾーをたたきつけ、一瞬だが視界を閉ざしてしまった。無論、ラルヴァもそれを見逃す訳もなく追い風に乗るようにケンゾーに襲い掛かった。  反射的に旋回し回避しようとするも間に合わずラルヴァの両脚に胴体を掴まれた。  ラルヴァから逃れる為に脚の節目に狙いをつけ全力で喰らい付くと同時に、ケンゾーも胴体の一部をえぐりとられる。 「キャワンッ!!」  攻撃に怯んだラルヴァはケンゾーを一旦手放し距離を置いた。甲高い鳴き声と鮮血を噴き上げながら地面に落下するケンゾー。 ぼとりと地面に放り出されたケンゾーの背中にはこぶしほどの大きさの穴が開いており、どくどくと血が流れ出していた。 「わんちゃん、もういいから逃げて!!」 一観が悲痛な声を上げると同時にケンゾーはゆらりと立ち上がった。  国守ケンゾーは何も諦めてはいなかった。前方でホバリングを続け、一つの瞬きのうちに様々な方向へ、不気味に小首を傾げつづけるラルヴァを見据えた。 前足は地面を掴み、後ろ足は何時でも跳ぶ為の力を伝える。胴体は流れるままに大地にゆだねる、視線は眼前の敵性対象《ラルヴァ》へ。尻尾は未だ衰えぬ戦意の如く屹立させた。  まだ、もう少しだけ。体力も十分ある。背中の怪我はかなり痛いがなんとかなる。もう少しだけ、時間を稼ぐことができるのなら。 ケンゾーがラルヴァの予備動作を逃さない為に全神経を集中させていると、ラルヴァの複眼には自分以外の何者かの姿を捉えているようだった。視線は一観よりも後方に注がれている。 白熱しすぎていたせいか、気付くのが遅れていたようだ。これでは従者失格だなと自嘲した。 「──すまん、苦労させたな」  遅いぜ、爺さん。  後方からゆっくりと歩いてくる老人に、時坂一観もやっとの事で気が付いた。 「あ、あ……おじいちゃん!!ここは危ないから早く逃げて下さい!!」 「まぁ、そうじゃの。危ないの」 「そんな、のんきな事言ってるヒマなんてないですから早く逃げて学園の人を!!」 「一応呼ぼうとはしたんじゃが、なんじゃ。逃げおおせた人達がとっくに通報しとるんじゃなィかの」 「だったら早く!!」 囃し立てる少女の頭の上に、幾重もシワの重なった手の平を置き、ぽんぽんと叩いた。 「ここまで泣かんでよう頑張ったの。怖かったじゃろ。後はジジイと相棒に任せて嬢ちゃんは逃げんしゃィ」  老人の言葉に緊張の糸がふつりと切れたのか、一観の瞳からは涙が止め処なく溢れ出してきた。 「そかそか、ちょっと動けなさそうか。それじゃぁ、ジジイがちょっと頑張ってみるから、それなりに応援してくれると、嬉しいんじゃ」  涙で目元を赤く腫らした一観を背に、未だラルヴァを牽制しているケンゾーの元へと歩み寄る。 「背中。痛そうじゃな」 相棒は答えない。 「まだ、なんとか、一緒に頑張ってくれるか」 頬の肉を震わせ、わふっと一息だけ返事をするのを見届けた。 「そうか。……お前さんにばかり貧乏くじ引かせて悪ィな。ほんに久しぶりじゃがやるだけやってみるか」 風が凪いだ。 「聞け、異類異形の蟲の怪よ」  底冷えするような冷たさを纏った言霊に、ラルヴァは戦慄し身を二つ程後退させる。 「この国の、防人の一人として名乗ろう」  一言、また一言と言葉を紡ぐ度に老人の魂源力はその器を徐々に満たしてゆく。 「金剛不壊《こんごうふかい》の鬼の蔵」  確かな質量を伴って魂源力が実体化する。指先、手の甲、前腕、上腕。少しずつ、しかし確実に姿を現す。 「鬼瓦《おにがわら》の鉄蔵《てつぞう》たぁワシの事じゃッッツ!!」  そこにあるのは憤怒が全てといわんばかりの鬼瓦の表情そのものであった。 魂源力は全ての部位を実体化させ、鉄蔵の全身は日本式の鎧に覆われる。 古き戦乱の世を戦い抜いた兜と、悪鬼羅刹を模した面頬によって表情は隠れ、その奥から覗く眼光は幽鬼の如く。魂源力を伴った鎧の実体化。 「──”剣蔵《けんぞう》”・壱の蔵ッッツツ!!」  鉄蔵が一声上げると傍らに控えていた従者は天高く咆哮し飛翔する。一匹の獣は空中で弧を画きながら回転し勢い良く地面に──”突き刺さった”。 それは一瞬の変化だった。刀身に帯びた湿り気と、刃紋から滴り落ちる焔火。その柄は獣毛によって織り成された紐に巻かれ、一振りの太刀として雄々しく聳《そび》え立っていた。  壱の蔵・鬼斬《おにきり》。国守”剣蔵”が魂源力によって変化した姿だった。鉄蔵は太刀を緩やかに抜き、両手で構え、切先をラルヴァへと向ける。 「始め」 言葉を発すると同時に、ラルヴァは鉄蔵へと疾走する。しかし、鉄蔵は眼前から迫り来る脅威に微動だにもしない。  鬼神蜻蛉《キシンヤンマ》は恐怖していた。目の前の敵を完璧に殺す。反撃のわずかな可能性も残してはならない。この生き物は、先刻までもてあそんでいた軟弱な生き物ではない。 何がいけなかったのか。捕食者に脅える日々はあの日、あの人間の手によって去ったのではなかったのか。人間にもてあそばれ、命を散らしてきた仲間達の怨嗟の念が私の全てだ。 そう、もてあそんで何がいけない。貴様達が行ってきた事の全てではないか。強ければどんな命であろうと、自我による手慰みの対象でしかないのだろう?  速度に身を任せたまま、ラルヴァは上顎と下顎を鳴らし鉄蔵の鎧袖に喰らい付く。上顎と下顎は金属を無理に擦り合わせた時の金切り声を響かせる。  だが、鎧を噛み砕こうとしたはずのラルヴァの顎の全てが、大きな亀裂を走らせた後に砕け散った。 「お前さんのアゴもたいそう強いのは、ワシも知るところじゃが。ワシの鬼瓦はそれ以上に堅固での」  面頬を通し乾いた声で呟きながら、鉄蔵はラルヴァの胴体を即座に左手で鷲掴み流れるように地面へと叩き付ける。叩き付けられたラルヴァは少量の液体を巻き上げた。 「一昔前の話にゃなるが、鎧の硬さだけでいったのなら、そうじゃの」 ラルヴァは反撃の為に身を起こそうと、尚も懸命に翅《はね》を震わせる。だが鉄蔵は、小枝を折るように翅を踏みにじり、右手に握り締めた太刀を大きく振りかぶり言葉を続ける。 「──東方不敗じゃ」 ラルヴァの頭部を一刀両断の下に切り伏せた。  敵性対象が息絶えた事を見届け、ケンゾーも変化を解きそのまま地面へと、しな垂れかかる。 「わんちゃん!!ケンゾー君!!」 時坂一観はケンゾーへ駆け寄り、その頭に涙でぐしゃぐしゃになった顔を摺り寄せた。 「ケンゾーも大仕事でちょっと疲れたみたいじゃ。これからコイツの手当てをせにゃならんから、もしよかったらお嬢ちゃん手伝ってくれんかィ?」 「はい!!いくらでも手伝います!!」 若干鼻にかかった声で一観は小気味良い返事を返した。 「うむ。こんだけ気立ての良いお嬢ちゃんならコイツも頑張った甲斐があったの」  しばらく一観がケンゾーを頭を抱えていると、荒いイビキをかきながら国守ケンゾーは深い眠りについた。 「私を守ってくれたんだよね。……ありがとう」  まだ今日という日は始まったばかりだが、一日分の仕事を終えたような気分だ。 学園の案件は日を改め処理するとして、今は目の前の少女の無事な姿を守れただけ良しとしよう。少女と相棒が寄り添うその光景に国守鉄蔵は満足げに頷いた。 「あ、お爺さんも助けて頂いて、本当にありがとうございました。私、時坂一観って言います。お爺さんは学園の人ですか?」 ふと鉄蔵に一美は言葉を投げかける。 「ん、ああ、ワシか?ワシはじゃな」 「──双葉学園用務員の国守鉄蔵《くにもりてつぞう》じゃ」 こうして物語は繋がっていく。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品投稿場所に戻る>作品投稿場所]]

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