「【双葉学園レスキュー部の軌跡 蛟の三】」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
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耳元で、呼び出し音が鳴っています。
一回、 二回、 三回、 四回、 五回、 六回。
そうしてようやく繋がったらしく、受話器から声が聞こえてまいりました。
「…はい、こちら双葉学園中等部です。
現在教員の方々が出払っておりますので、私でよければご用件を承りますが」
私《わたくし》はある生徒の名前を、相手の人物に告げました。
私の良く知る名前。いとおしくて堪らない存在。その名前を口にする度に、私の心の内には、さまざまなものが溢れます。
「その方は存じております。
ですが今日は土曜日ですので、直接学生寮に連絡をした方がよろしいかと…」
と、そこで相手様の言葉が一旦途切れました。
「そう言えば……今日、課外授業の予定が組まれていたのを思い出しました。そちらの方へ、用件をお伝えしましょうか?」
私は判断を求めたくて視線を上げました。
そこにあるのは、円らな瞳。私を凝視していらっしゃる。
ああ、そんなに不安がらないでくださいませ。
私はゆるゆると用件を述べ、宜しくお願い致しますと相手様に伝えました。
「…はい。それでは代理として、中等部2年の神那岐《かんなぎ》観古都《みこと》が承りました。
それでは失礼致します。秋津《あきつ》 末那《まな》様」
ぷつり、途切れる音を残して、通話は終わりました。
私の顔の傍に構えられていた受話器が、定位置へと戻されてゆきます。
かつり、と。樹脂どうしが触れ合って、かすかな音を立てました。
遠藤 雅は学園へと徒歩で向かいながら、そこにはいない母に向かって愚痴っていた。主に内容は今日の呼び出しのことだ。
その横に並んで歩く、彼よりより小さな生徒。小等部の制服を着た気の強そうな少女の名は、立浪 みく。
最近、遠藤のアパートを棲家にしている家猫、もとい居候である。今日は授業を受けにいくわけではないから、ランドセルは背負っていない。
遠藤は今年から双葉学園大学一年に入学した新入りである。休日は、そうした新たな土地での気疲れを取る意味で重要な時間だった。
その貴重な休みに学園から呼び出されて、自分の訓練でもないのに数時間拘束されるのだ。しかも実質ロハ。
「ちょっと、いつまでグチグチ言ってるの! せっかくバイト料貰えるんだから文句言わない!」
本人曰く『暇だから』という理由でついてきたみくが遠藤に発破をかける。このペースでとろとろ歩いていては、指定時刻に遅れてしまうのだ。
本日土曜に遠藤が呼び出された実践演習場は学園敷地のうち、自然再現という名目で作られた丘にあるものだ。学園中心部からは少し離れて位置している。
この土地は表向き、新世代の農学技術研究用として学園が確保しているのだが、実際は異能力者が様々な訓練を実施するためのフィールドとして使われている。
ここには対ラルヴァ戦闘の主戦場としても使えるような実戦用設備も用意されているらしい。
もし奴らが学園敷地に大規模発生するようなことがあれば、ここに追い込んで漏らさず殲滅するというわけだ。
みくの言う通り、今回の立会いは学園側からの単位を名目にした強制ではなく、あくまで『依頼』という形の例外で謝礼金が出る。
だがそのバイト料が全てみくに『生活費』という名目で差し押さえ済みという事実を前にしては、やる気が出る筈もない。
「生活能力のない奴に持たせたら、ろくなことにならないでしょ」
「いや、それじゃ俺が甲斐性なしみたいじゃないか。そりゃ料理はできないけさ」
「あら。甲斐性なしみたいに思われたくなかったら、しっかり稼いでもらわないとね、だ・ん・な・さ・ま?」
みくがおどけて笑い、遠藤は気恥ずかしさからか顔を逸らした。足が止まってしまう。
「べ、別にそういうことじゃ……うわっ」
「ほら、そんなことはいいから急ぐわよ!」
言いかけた遠藤の手をみくが取り、強引に引っ張り始める。
どうやらバックレるのは無理なようだった。
大体こういう頼みごとは、一度ホイホイ受けてしまうと、二度三度と体良くお願いされるようになってしまうのだ。
どうせこれから先も、みくが断らせてくれないだろうな……と、遠藤は暗澹たる想いだった。
ああ、母さん。今日もこの力は俺を勝手に引っ張り回します。
俺はそんなこと願ってなんかないのに。
俺はもともと、平々凡々とした大学生活を送りたかったんだよなぁ……。
と、遠藤は心中の母へとまた愚痴をこぼした。
この一ヶ月後には(犯罪的な意味で)人としての道を踏み外しかける羽目になるとは、彼は露ほども考えてはいなかった。
そしてその罪な幸福が、喪われてしまうということも。
遠藤ら二人が、ようやく辿り着いた訓練区域のゲートを通過したとき、区域内では午前一度目の課外訓練を終えたグループが撤収を行っていた。
ここは校舎側にある実技演習場と異なり、より実地向きを目指して作られている。屋内戦闘訓練用の施設もあり、外周は結界機能もあるフェンスでぐるりと囲まれていた。
「おいこらヤマダぁ! 技名叫ぶのはいいがちゃんと一回で当てろっての!」
「ヤマダじゃない! 俺の名前は天空院《テンクウイン》 翔《カケル》だ!」
綺麗に真っ二つになった板状の擬似ターゲット。そして目測を誤って粉砕した低木を片付けながら、自称・天空院 翔はチームメイトへ堂々と言い返した。
熱血だけで生きているという噂は、この場合真実の一端を突いている。それ以外では生きていけない、という意味で。
「いやー、やっぱ天空院センパイは絵になるッスねえ! 俺もあれくらい華麗に立ち回りたいもんです!」
訓練を観戦していた市原和美はやたらと盛り上がっていたが、対する誠司はそんな彼の様子にあきれ顔だ。
彼女は服装こそいつものブレザーだが、使い慣れた得物である六尺棒をフェンスに立てかけ、手を保護する為のグローブをつけている。腰にはポーチと、その側面に差し込まれた模擬戦用のシースナイフ。
本日午前の課外訓練にねじ込まれた、秋津との模擬戦に備えた格好だ。普段は付けていないネクタイをわざわざ締めてきているのは、誠司なりの出動時の備えなのだと市原は知っている。
「バカはバカに惹かれるってことかな…」
誠司は聞こえないように呟いてから、その理屈だと、彼に慕われている自分もバカの部類なのだろうかと考えてみた。まあ大体あってる、と結論する。
クラスは異なるが、天空院は誠司と同級生にあたる。前線大好き(と、誠司には見える)の彼と誠司は知らない仲ではない。
加えて言えば彼は、数少ないレスキュー部に友好的な生徒の一人でもあった。
ちなみに本名は山田なんとかだった気がするが誠司は覚えていない。今や出席簿ですら天空院で通しているから、本名を知る者はごく少数だ。
彼は極度のヒーロー願望が高じて異能力者になってしまった類なので、その精神状態を高く安定させるために必要な措置なのだという。
学園も考慮して名簿を変えるくらいなのだから、もっともな理由……なのだろう、多分。誠司はそう納得することにした。
そして天空院とは少し方向性は違うが、市原和美もその顔に似合わず、ヒーローに成りたくて学園に在籍している者の一人である。
ただ、彼の場合はまだ現実的なタイプだ。
「決めポーズとかをこだわるあまり、周りに被害を出すのは、ちょっとね」
誠司は天空院を眺めながら呟いた。
高等部2年生の中でも、前衛に必要な全ての性能を満たしうる彼の異能力は特筆すべきものがある、と誠司は思う。逆に少々ワンマン気味なところがあって、考課ではマイナス点を付けられてしまっているが。
技名叫びながら戦うのも周りからすればいい迷惑だろうし、正に今の訓練のように、勢い余って物を壊すこともある。ただ、前線維持能力・破壊力は折り紙つきだ。
「それにしてもセンパイ、落ち着いてますね。やっぱアレですか、禅の心得とか」
ようやく熱が醒めてきた市原の言葉に、誠司はやや複雑に、あはは、と苦笑した。
「残念だけど私は実家の習俗すら知らないんだ。農家だからって農業に詳しくないのと同じ」
教わるのはもっぱら武道ばかりだったし、と続ける。彼女の父はもう齢五十を過ぎているが、腕っ節ではまだ到底かなわない、と誠司は思う。
「あれ、華道とか茶道とかもできるんじゃなかったッスか?」
「教わりはしたけど、ナントカ流、ってわけでもないからね。礼儀作法としては参考になるけど、実際の役に立つとはとても……ん、出番かな」
春出仁先生がこちらを見ているのに気付き、誠司は得物を取って……ふとその隣に、彼より頭半分背の高い、見慣れない男が居ることに気がついた。
歳の頃は三十か、四十か。歳の特定し難い中性的な顔立ちに、中分けのだらりとした長髪。
スーツは基本フォーマルだが、少し隙を見せるよう、見苦しくない程度に着崩している。
学園の教職員、という雰囲気ではなかった。
だが、先生からすぐにフィールドに入るようにと言われ、誠司はその人物のことを、それ以上分析することは出来なかった。
障害物多数あり。開始時は別々の、互いに目視出来ない地点から。リミットはお昼までで、タイムオーバーは双方負け。
以上のようなルールで開始された模擬戦は、正直なところ全ての点で誠司に有利な条件を整えてある。逆に言うと、それでやっと勝ち目が見えるというところだが。
どちらにせよ一対一では、訓練としては全く意味がない、と誠司は思う。そんな状況は滅多に来るものではなく、彼女達の行うだろう戦いは大抵一対多か、多対多だからだ。サシの決闘ではない。
誠司はスタート地点の林から、屋内訓練用として備えられている施設へと向かって進んでいた。
移動目標として目立ち、彼ならば見通しの悪い雑木林より、建物の周りを主戦場にすると踏んだからだ。
遠ければ遠いほど彼女には不利になる。ならば最善は待ち伏せることだと考えて、誠司は林から建物周りを観察出来る位置で、低木の陰に屈んだ。
彼女はそうして一息ついたが、父から教えられたこと……相手を常に慮り警戒心を維持することを、このときも忘れはしなかった。
彼女は正直なところ、父親をあまり好いていない。しかしその教えが、結果的にその身を度々救ってきたのは皮肉な話である。
誠司が一撃目を辛くも避けることが出来たのは、彼女の反射神経の賜物ではない。
姿を現すのが遅すぎるという点から一つの可能性を思いつけたことが、葉の凍る音に対する一瞬早い反応を呼び起こしたからだった。
咄嗟に棒を手離し、近くの葉が多い広葉樹の下へと素早く転がり込む。彼女を追跡するように地面と雑草が凍り付いていくが、彼女の身体に届くことなく停止。
それを確認しながら、誠司は秋津の発想に感心する。
彼は、屋根の上からこちらを狙ってきていたのだ。
秋津宗一郎は別に、高い方が有利という古典兵法を知っているわけではない。
もっと単純に、自身の異能力……眼で捉えた相手を狙う、という性質を、ここなら十分に活かせることだけを自覚していた。
彼は施設の陸屋根の上を歩き、誠司の姿を視界に収められる位置を探す。こちらに位置が割れている以上、彼女は動くことが出来ないだろう、と彼は考えていた。
だから予想に反して誠司が木陰から飛び出してきたとき、彼は面食らって一瞬反応が遅れた。が、彼はすぐに自身の異能力を起動。
建物に向かって疾走する誠司の背後に細長い霧が現れ、彼の視線の動きに従って、彼女を追いかけ始める。
それを誠司は空気や草が凍結する音で捉え、すぐさま別の木陰へと飛び込む。冷気の霧は彼女まで届かず、再び追跡は途切れた。
彼女は体勢を素早く立て直すと、上着を脱いで軽く丸め、開けた場所へと放り投げた。一瞬遅れて反対側に飛び出す。
投げられたブレザーが空中で凍りつき、地面に落下する間に、誠司は軒下にダイブ。
視線を誘導されたこともあって、宗一郎の異能力は届かず、追いかける彼の視界は屋根に遮られた。
彼は慌てて身を乗り出して下を確認する。軽率な行動だったが、誠司が飛び道具を持たないため、まだ致命的ではなかった。
せり出したひさしに阻まれて、相手の姿は見えない。
宗一郎は歯噛みした。
誠司はふう、と息をついて、地面に腰をおろした。泥を払いながら、自分を隠すひさしを見上げる。
ここまではそれなりに上手くやれたかな、と彼女は思った。宗一郎の異能力に対して、彼女の立てた推測――見えない場所には攻撃出来ない、が当たっていたことも大きい。
誠司はポケットから私物の携帯端末を取り出し、時間を確認する。正午まで、あと一時間強。
相手が建物の上に居る限り、誠司の姿を捉えることは出来ない。つまりこれ以上無茶をしなくても、ここで時間一杯まで膠着状態を維持すれば十分ではある。
彼女には別に、勝つ必要がないのだから。だが、
「秋津くん、聞こえる?」
大きく深呼吸すると、誠司はやや大きめの音量で、彼に声をかけた。建物は高めの四階建てだが、声は届いているはずだ。
返事はないが、誠司は構わず続ける。
「聞き忘れていたんだけど。先生に何を言われたんだい?」
何となく予想はついていたが、誠司は敢えて尋ねることにした。
察することも重要だろうけれど、ヒトはせっかく言葉を話すのだから。彼女は、自分は話すことも決して得意ではないと思っているが、それでも必要だと思うからこそ、誰とでも言葉を交わそうとするのだ。
回答は、彼女が別の話題を振ろうかと考え始めた頃に返ってきた。
「……今のお前じゃ、誠司先輩にも到底敵いはしない、と言われました」
誠司は、ああそれは腹が立つね、と思い、同時に、彼もごく普通の少年だったんだなと少し安心もした。
無能力者に劣ると言われて、腹が立たない人もそういるまい。まして、彼はまだ子供なのだから。
ただ、それだけでは勝負して白黒付けようとする理由には弱いから、彼女は質問を続けた。
「勝って、先生を見返したいだけ?」
それだけだったら、負けてやってもいいし、引き分けでもいい。単に自分が満足したいだけなのだとすれば。
誠司は名誉に頓着しないし、そうした相手の為に何かしてやる義理も感じない。
「…僕は、評価されなければならないんです。」
だが、彼女の予想は外れた。
「父も、母も、いないんです。だから、僕が頑張らないといけないんだ」
それは誠司宛の返答というより、自分に言い聞かせる、暗示のような呟きだった。
「だから――」
「分かったよ。もう、いい」
誠司はそれ以上聞く気がせず、話を打ち切った。
うんざりしたわけではない。
彼にそれ以上語らせるのが忍びなかった。
彼の想いを思慮が浅いと断ずることは出来るだろう。
しかし童にも、童の考えがあるのだ。それが言葉だけで覆せるものならば、苦労はしない。
だからこそ彼女は宣言した。立ち上がり、あくまでいつも通りの調子で。
「決着を付けようか。
こうしているのも何だしさ」
勝たなければいけない理由が出来たと彼女は思う。
彼の論理が間違っていると感じるように、自分の論理もまた、彼には受け入れられないのかもしれない。
それでもきっと、彼の為になる筈だと。
「……そうだよね、兄さん」
誰にも聞こえないように、誠司は呟いた。
施設は室内の階段を用いて屋根の上に到達出来るようになっていた。屋上と言わないのは、柵が無いからでしかない。
現実には、家屋の屋根にはよじ登ったりすることになるから、訓練でもそうした方法を用いて上がるべきである。
故に怪我人が出たなどの緊急時のみ利用されるはずの階段だが、宗一郎は気にせず使用した。
誠司先輩もまたそうするだろう。
宗一郎はそう考えて視界を遮る扉を開け放ち、距離を取って待った。
彼はこの段階になっても、自分の異能力の欠点を理解しきっていなかったのだろう。
故に階段の奥から発煙筒の白い煙が現れたとき、彼はその意図を理解するのが遅れた。
うっすらと人影が見えるのを確認し、彼は異能力を発動する。だが、彼の『眼』が煙幕の奥の人影を見失った瞬間、冷気の源は混乱するかのようにうねり、相手まで到達することは出来なかった。
対象が取れないのだ。
宗一郎がそのことに思い至った瞬間、煙の中から彼の顔めがけて何かが飛んできた。
彼は咄嗟に屈んで避けたので気付かなかったが、それは誠司の携帯端末。
そしてそれに続いて、彼女自身が煙の中から飛び出す。右手に首から引き抜いたネクタイを輪に持ち、左手は腰の後ろへと。
宗一郎は誠司の姿を視界に捉えようと顔を上げる。
距離はまだ5メートル以上。このままでは相打ちにもならない。
だがその瞬間。彼の眼は強烈な閃光に灼かれた。
勝敗は決した。
戦っていた二人だけでなく、状況観察用のカメラ映像を確認した誰もがそれを確信した。
宗一郎が目を押さえてうろたえる間に誠司は素早く後ろに回りこみ、ネクタイを引っ掛けて目隠し。同時に腰のナイフを抜いて首筋に押し当てた。頭を後ろに強く引っ張られる形になり、宗一郎が僅かに呻く。
一瞬遅れて、今回の勝利の立役者である、装備開発局製作の高出力ライトが屋根の上を跳ね転がる。かなり頑丈に作ってあるらしく、投げ捨てられたにも関わらず外装は割れなかった。
誠司は始めから彼の視覚を潰すことだけを目的としていた。相手は必ずこちらを目視する必要があるのだから、タイミングは非常に簡単だ。
もし彼が閃光対策を行ってきた際には、誠司はもう一つの隠し玉――音響手榴弾を使うつもりだった。
そこまでやるのは若干、大人げないとは思っていたが。
「……こんな負け方は不満かもしれない。でも、『君はあまりに能力に頼り過ぎている』」
誠司は宗一郎の耳元で、それだけを言った。自分語りはともかく、説教は柄ではない。
ぐっ、と彼が言葉に詰まるのを感じたが、誠司はフォローの言葉を継ぐ気はなかった。
ここで彼女が何を言っても、慰めにはならないのだから。
強力過ぎるが故に、それだけで何でも出来ると思い込んでしまうことは、よくある。
異能力は、一対一で人を殺すには過剰過ぎるし欠点もある。それを省みず、『異能力で戦うこと』に拘り過ぎたのが敗因なのだと伝わればいい。誠司はそう思った。
「そこまでだ。訓練終わり。二人ともこちらに戻ってくるように。
菅君、投げたものはキチンと回収してくること」
スピーカーから春出仁先生の声が流れ、誠司は安堵する。
正直、遠くから見ると下級生虐めのような姿に見えそうで、嫌だったのだ。
誠司はナイフを仕舞い、目隠しのネクタイを外す。
そして投げ付けた携帯端末が何処に行ったか探そうと、辺りを見回した。
……彼女は詰めが甘かったのかもしれないが、それを責めることは出来ないだろう。
それでも、宗一郎の目つきに気付いたその瞬間。
誠司は咄嗟に彼の視界から身を逸らしつつ右手で彼の目元を覆い隠そうとし。
その右腕が肘辺りまで凍りついていく。
「――っ!」
だが、誠司はそのまま右手を振り抜いた。
硬化した手のひらで頬を思い切りぶん殴られ、宗一郎は屋根を転がった。
身体が急に重くなったような感覚がして膝が折れ、誠司もそのまま倒れこむ。
油断したなぁ、と彼女は苦笑する。
うまく彼を昏倒させられただろうか。まだ戦う気だったら……いやそもそも、このままでも死ぬかもしれないか。
そう考えながら、誠司は、眠るように意識を手放した。
次に目覚めたとき、誠司がまず見たのは知らない青年の顔だった。
だれ、と誠司が口を開くと、彼は表情を輝かせた。横合いから覗く市原の顔にも彼女は気付く。
そこでようやく、誠司ははっきりと覚醒した。
「今、何時くらい…?」
「1時を回ったところッス。中々起きないから心配しましたよ」
安堵からか、答える市原は妙にテンションが高い。そう、と返事をして、誠司は右腕へと視線を向ける。
彼女の右腕は何事もなかったかのようにそこにあった。
が、夏服のブラウスに血がしぶいた跡があったり、付けていた筈のグローブがなかったりするのに彼女は気付く。
思いつくのはあまりぞっとしない事実だったので、誠司はそれ以上のことを想像するのは止めておいた。
「調子はどうッスか?」
「……悪くはないよ。むしろいいくらい。
どうも、お世話になりました。…ええと」
誠司は礼を言おうと、身体を起こす。
「遠藤。遠藤 雅って言います」
「私は立浪みく。マサのおかげで助かったんだから、せいぜい感謝しなさい?」
誠司は少女の物言いに思わず笑ったが、ありがとう、と言葉を返した。
ヘマをやった、という落ち込んだ気分が、幾分安らいだからだった。
そうして彼女はようやく、周りの慌しさに気付く。
誠司が寝ていたのは始めに控えていた、フェンスの外だ。そこに午後の訓練予定者を含め、十数名の生徒が集まっていた。
春出仁先生は何か打ち合わせをしているようだし、他の教員も状況確認がどうのこうの、と話しているのが誠司に確認できた。
「市原くん、状況説明」
「え。えーとですね…」
市原は言いにくそうに口ごもる。仕方ないので誠司はみくへと説明をお願いした。
「ついさっきだけど、山口の方でラルヴァが建物を占拠したって。
たまたま向こうに醒徒会役員がいて被害は抑えられてるらしいけど、増援を送るとかなんとか…」
なるほど、と誠司は納得した。恐らく今訓練に来ている面子から増援を選抜するのだろうな、と。
市原がこわごわ尋ねる。
「センパイ、まさか……」
「まさか、なんて言われるのは心外だけど」
誠司は、彼が何を危惧しているか分からないでもなかった。身の心配をして貰えるのは純粋に幸せなことだ、と彼女は思う。
それでもレスキューを掲げている以上、
「自分の好きなときだけ出動できるものじゃない、ってこと」
誠司はそう言って、気合を入れるように立ち上がった。
彼女は秋津宗一郎がどうしたかについて、敢えて尋ねなかった。
それは、自分が今知っても詮無いことだと考えたからで。せいぜい叱られた程度だろうし、反省してくれればそれでいい、と思っていた。
神那岐観古都がことづてを伝えた後、彼が学園都市からいなくなっていたことを誠司が知るのは、まだ少し先のことである。
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耳元で、呼び出し音が鳴っています。
一回、 二回、 三回、 四回、 五回、 六回。
そうしてようやく繋がったらしく、受話器から声が聞こえてまいりました。
「…はい、こちら双葉学園中等部です。
現在教員の方々が出払っておりますので、私でよければご用件を承りますが」
私《わたくし》はある生徒の名前を、相手の人物に告げました。
私の良く知る名前。いとおしくて堪らない存在。その名前を口にする度に、私の心の内には、さまざまなものが溢れます。
「その方は存じております。
ですが今日は土曜日ですので、直接学生寮に連絡をした方がよろしいかと…」
と、そこで相手様の言葉が一旦途切れました。
「そう言えば……今日、課外授業の予定が組まれていたのを思い出しました。そちらの方へ、用件をお伝えしましょうか?」
私は判断を求めたくて視線を上げました。
そこにあるのは、円らな瞳。私を凝視していらっしゃる。
ああ、そんなに不安がらないでくださいませ。
私はゆるゆると用件を述べ、宜しくお願い致しますと相手様に伝えました。
「…はい。それでは代理として、中等部2年の神那岐《かんなぎ》観古都《みこと》が承りました。
それでは失礼致します。秋津《あきつ》 末那《まな》様」
ぷつり、途切れる音を残して、通話は終わりました。
私の顔の傍に構えられていた受話器が、定位置へと戻されてゆきます。
かつり、と。樹脂どうしが触れ合って、かすかな音を立てました。
遠藤 雅は学園へと徒歩で向かいながら、そこにはいない母に向かって愚痴っていた。主に内容は今日の呼び出しのことだ。
その横に並んで歩く、彼よりより小さな生徒。小等部の制服を着た気の強そうな少女の名は、立浪 みく。
最近、遠藤のアパートを棲家にしている家猫、もとい居候である。今日は授業を受けにいくわけではないから、ランドセルは背負っていない。
遠藤は今年から双葉学園大学一年に入学した新入りである。休日は、そうした新たな土地での気疲れを取る意味で重要な時間だった。
その貴重な休みに学園から呼び出されて、自分の訓練でもないのに数時間拘束されるのだ。しかも実質ロハ。
「ちょっと、いつまでグチグチ言ってるの! せっかくバイト料貰えるんだから文句言わない!」
本人曰く『暇だから』という理由でついてきたみくが遠藤に発破をかける。このペースでとろとろ歩いていては、指定時刻に遅れてしまうのだ。
本日土曜に遠藤が呼び出された実践演習場は学園敷地のうち、自然再現という名目で作られた丘にあるものだ。学園中心部からは少し離れて位置している。
この土地は表向き、新世代の農学技術研究用として学園が確保しているのだが、実際は異能力者が様々な訓練を実施するためのフィールドとして使われている。
ここには対ラルヴァ戦闘の主戦場としても使えるような実戦用設備も用意されているらしい。
もし奴らが学園敷地に大規模発生するようなことがあれば、ここに追い込んで漏らさず殲滅するというわけだ。
みくの言う通り、今回の立会いは学園側からの単位を名目にした強制ではなく、あくまで『依頼』という形の例外で謝礼金が出る。
だがそのバイト料が全てみくに『生活費』という名目で差し押さえ済みという事実を前にしては、やる気が出る筈もない。
「生活能力のない奴に持たせたら、ろくなことにならないでしょ」
「いや、それじゃ俺が甲斐性なしみたいじゃないか。そりゃ料理はできないけさ」
「あら。甲斐性なしみたいに思われたくなかったら、しっかり稼いでもらわないとね、だ・ん・な・さ・ま?」
みくがおどけて笑い、遠藤は気恥ずかしさからか顔を逸らした。足が止まってしまう。
「べ、別にそういうことじゃ……うわっ」
「ほら、そんなことはいいから急ぐわよ!」
言いかけた遠藤の手をみくが取り、強引に引っ張り始める。
どうやらバックレるのは無理なようだった。
大体こういう頼みごとは、一度ホイホイ受けてしまうと、二度三度と体良くお願いされるようになってしまうのだ。
どうせこれから先も、みくが断らせてくれないだろうな……と、遠藤は暗澹たる想いだった。
ああ、母さん。今日もこの力は俺を勝手に引っ張り回します。
俺はそんなこと願ってなんかないのに。
俺はもともと、平々凡々とした大学生活を送りたかったんだよなぁ……。
と、遠藤は心中の母へとまた愚痴をこぼした。
この一ヶ月後には(犯罪的な意味で)人としての道を踏み外しかける羽目になるとは、彼は露ほども考えてはいなかった。
そしてその罪な幸福が、喪われてしまうということも。
遠藤ら二人が、ようやく辿り着いた訓練区域のゲートを通過したとき、区域内では午前一度目の課外訓練を終えたグループが撤収を行っていた。
ここは校舎側にある実技演習場と異なり、より実地向きを目指して作られている。屋内戦闘訓練用の施設もあり、外周は結界機能もあるフェンスでぐるりと囲まれていた。
「おいこらヤマダぁ! 技名叫ぶのはいいがちゃんと一回で当てろっての!」
「ヤマダじゃない! 俺の名前は天空院《テンクウイン》 翔《カケル》だ!」
綺麗に真っ二つになった板状の擬似ターゲット。そして目測を誤って粉砕した低木を片付けながら、自称・天空院 翔はチームメイトへ堂々と言い返した。
熱血だけで生きているという噂は、この場合真実の一端を突いている。それ以外では生きていけない、という意味で。
「いやー、やっぱ天空院センパイは絵になるッスねえ! 俺もあれくらい華麗に立ち回りたいもんです!」
訓練を観戦していた市原和美はやたらと盛り上がっていたが、対する誠司はそんな彼の様子にあきれ顔だ。
彼女は服装こそいつものブレザーだが、使い慣れた得物である六尺棒をフェンスに立てかけ、手を保護する為のグローブをつけている。腰にはポーチと、その側面に差し込まれた模擬戦用のシースナイフ。
本日午前の課外訓練にねじ込まれた、秋津との模擬戦に備えた格好だ。普段は付けていないネクタイをわざわざ締めてきているのは、誠司なりの出動時の備えなのだと市原は知っている。
「バカはバカに惹かれるってことかな…」
誠司は聞こえないように呟いてから、その理屈だと、彼に慕われている自分もバカの部類なのだろうかと考えてみた。まあ大体あってる、と結論する。
クラスは異なるが、天空院は誠司と同級生にあたる。前線大好き(と、誠司には見える)の彼と誠司は知らない仲ではない。
加えて言えば彼は、数少ないレスキュー部に友好的な生徒の一人でもあった。
ちなみに本名は山田なんとかだった気がするが誠司は覚えていない。今や出席簿ですら天空院で通しているから、本名を知る者はごく少数だ。
彼は極度のヒーロー願望が高じて異能力者になってしまった類なので、その精神状態を高く安定させるために必要な措置なのだという。
学園も考慮して名簿を変えるくらいなのだから、もっともな理由……なのだろう、多分。誠司はそう納得することにした。
そして天空院とは少し方向性は違うが、市原和美もその顔に似合わず、ヒーローに成りたくて学園に在籍している者の一人である。
ただ、彼の場合はまだ現実的なタイプだ。
「決めポーズとかをこだわるあまり、周りに被害を出すのは、ちょっとね」
誠司は天空院を眺めながら呟いた。
高等部2年生の中でも、前衛に必要な全ての性能を満たしうる彼の異能力は特筆すべきものがある、と誠司は思う。逆に少々ワンマン気味なところがあって、考課ではマイナス点を付けられてしまっているが。
技名叫びながら戦うのも周りからすればいい迷惑だろうし、正に今の訓練のように、勢い余って物を壊すこともある。ただ、前線維持能力・破壊力は折り紙つきだ。
「それにしてもセンパイ、落ち着いてますね。やっぱアレですか、禅の心得とか」
ようやく熱が醒めてきた市原の言葉に、誠司はやや複雑に、あはは、と苦笑した。
「残念だけど私は実家の習俗すら知らないんだ。農家だからって農業に詳しくないのと同じ」
教わるのはもっぱら武道ばかりだったし、と続ける。彼女の父はもう齢五十を過ぎているが、腕っ節ではまだ到底かなわない、と誠司は思う。
「あれ、華道とか茶道とかもできるんじゃなかったッスか?」
「教わりはしたけど、ナントカ流、ってわけでもないからね。礼儀作法としては参考になるけど、実際の役に立つとはとても……ん、出番かな」
春出仁先生がこちらを見ているのに気付き、誠司は得物を取って……ふとその隣に、彼より頭半分背の高い、見慣れない男が居ることに気がついた。
歳の頃は三十か、四十か。歳の特定し難い中性的な顔立ちに、中分けのだらりとした長髪。
スーツは基本フォーマルだが、少し隙を見せるよう、見苦しくない程度に着崩している。
学園の教職員、という雰囲気ではなかった。
だが、先生からすぐにフィールドに入るようにと言われ、誠司はその人物のことを、それ以上分析することは出来なかった。
障害物多数あり。開始時は別々の、互いに目視出来ない地点から。リミットはお昼までで、タイムオーバーは双方負け。
以上のようなルールで開始された模擬戦は、正直なところ全ての点で誠司に有利な条件を整えてある。逆に言うと、それでやっと勝ち目が見えるというところだが。
どちらにせよ一対一では、訓練としては全く意味がない、と誠司は思う。そんな状況は滅多に来るものではなく、彼女達の行うだろう戦いは大抵一対多か、多対多だからだ。サシの決闘ではない。
誠司はスタート地点の林から、屋内訓練用として備えられている施設へと向かって進んでいた。
移動目標として目立ち、彼ならば見通しの悪い雑木林より、建物の周りを主戦場にすると踏んだからだ。
遠ければ遠いほど彼女には不利になる。ならば最善は待ち伏せることだと考えて、誠司は林から建物周りを観察出来る位置で、低木の陰に屈んだ。
彼女はそうして一息ついたが、父から教えられたこと……相手を常に慮り警戒心を維持することを、このときも忘れはしなかった。
彼女は正直なところ、父親をあまり好いていない。しかしその教えが、結果的にその身を度々救ってきたのは皮肉な話である。
誠司が一撃目を辛くも避けることが出来たのは、彼女の反射神経の賜物ではない。
姿を現すのが遅すぎるという点から一つの可能性を思いつけたことが、葉の凍る音に対する一瞬早い反応を呼び起こしたからだった。
咄嗟に棒を手離し、近くの葉が多い広葉樹の下へと素早く転がり込む。彼女を追跡するように地面と雑草が凍り付いていくが、彼女の身体に届くことなく停止。
それを確認しながら、誠司は秋津の発想に感心する。
彼は、屋根の上からこちらを狙ってきていたのだ。
秋津宗一郎は別に、高い方が有利という古典兵法を知っているわけではない。
もっと単純に、自身の異能力……眼で捉えた相手を狙う、という性質を、ここなら十分に活かせることだけを自覚していた。
彼は施設の陸屋根の上を歩き、誠司の姿を視界に収められる位置を探す。こちらに位置が割れている以上、彼女は動くことが出来ないだろう、と彼は考えていた。
だから予想に反して誠司が木陰から飛び出してきたとき、彼は面食らって一瞬反応が遅れた。が、彼はすぐに自身の異能力を起動。
建物に向かって疾走する誠司の背後に細長い霧が現れ、彼の視線の動きに従って、彼女を追いかけ始める。
それを誠司は空気や草が凍結する音で捉え、すぐさま別の木陰へと飛び込む。冷気の霧は彼女まで届かず、再び追跡は途切れた。
彼女は体勢を素早く立て直すと、上着を脱いで軽く丸め、開けた場所へと放り投げた。一瞬遅れて反対側に飛び出す。
投げられたブレザーが空中で凍りつき、地面に落下する間に、誠司は軒下にダイブ。
視線を誘導されたこともあって、宗一郎の異能力は届かず、追いかける彼の視界は屋根に遮られた。
彼は慌てて身を乗り出して下を確認する。軽率な行動だったが、誠司が飛び道具を持たないため、まだ致命的ではなかった。
せり出したひさしに阻まれて、相手の姿は見えない。
宗一郎は歯噛みした。
誠司はふう、と息をついて、地面に腰をおろした。泥を払いながら、自分を隠すひさしを見上げる。
ここまではそれなりに上手くやれたかな、と彼女は思った。宗一郎の異能力に対して、彼女の立てた推測――見えない場所には攻撃出来ない、が当たっていたことも大きい。
誠司はポケットから私物の携帯端末を取り出し、時間を確認する。正午まで、あと一時間強。
相手が建物の上に居る限り、誠司の姿を捉えることは出来ない。つまりこれ以上無茶をしなくても、ここで時間一杯まで膠着状態を維持すれば十分ではある。
彼女には別に、勝つ必要がないのだから。だが、
「秋津くん、聞こえる?」
大きく深呼吸すると、誠司はやや大きめの音量で、彼に声をかけた。建物は高めの四階建てだが、声は届いているはずだ。
返事はないが、誠司は構わず続ける。
「聞き忘れていたんだけど。先生に何を言われたんだい?」
何となく予想はついていたが、誠司は敢えて尋ねることにした。
察することも重要だろうけれど、ヒトはせっかく言葉を話すのだから。彼女は、自分は話すことも決して得意ではないと思っているが、それでも必要だと思うからこそ、誰とでも言葉を交わそうとするのだ。
回答は、彼女が別の話題を振ろうかと考え始めた頃に返ってきた。
「……今のお前じゃ、誠司先輩にも到底敵いはしない、と言われました」
誠司は、ああそれは腹が立つね、と思い、同時に、彼もごく普通の少年だったんだなと少し安心もした。
無能力者に劣ると言われて、腹が立たない人もそういるまい。まして、彼はまだ子供なのだから。
ただ、それだけでは勝負して白黒付けようとする理由には弱いから、彼女は質問を続けた。
「勝って、先生を見返したいだけ?」
それだけだったら、負けてやってもいいし、引き分けでもいい。単に自分が満足したいだけなのだとすれば。
誠司は名誉に頓着しないし、そうした相手の為に何かしてやる義理も感じない。
「…僕は、評価されなければならないんです。」
だが、彼女の予想は外れた。
「父も、母も、いないんです。だから、僕が頑張らないといけないんだ」
それは誠司宛の返答というより、自分に言い聞かせる、暗示のような呟きだった。
「だから――」
「分かったよ。もう、いい」
誠司はそれ以上聞く気がせず、話を打ち切った。
うんざりしたわけではない。
彼にそれ以上語らせるのが忍びなかった。
彼の想いを思慮が浅いと断ずることは出来るだろう。
しかし童にも、童の考えがあるのだ。それが言葉だけで覆せるものならば、苦労はしない。
だからこそ彼女は宣言した。立ち上がり、あくまでいつも通りの調子で。
「決着を付けようか。
こうしているのも何だしさ」
勝たなければいけない理由が出来たと彼女は思う。
彼の論理が間違っていると感じるように、自分の論理もまた、彼には受け入れられないのかもしれない。
それでもきっと、彼の為になる筈だと。
「……そうだよね、兄さん」
誰にも聞こえないように、誠司は呟いた。
施設は室内の階段を用いて屋根の上に到達出来るようになっていた。屋上と言わないのは、柵が無いからでしかない。
現実には、家屋の屋根にはよじ登ったりすることになるから、訓練でもそうした方法を用いて上がるべきである。
故に怪我人が出たなどの緊急時のみ利用されるはずの階段だが、宗一郎は気にせず使用した。
誠司先輩もまたそうするだろう。
宗一郎はそう考えて視界を遮る扉を開け放ち、距離を取って待った。
彼はこの段階になっても、自分の異能力の欠点を理解しきっていなかったのだろう。
故に階段の奥から発煙筒の白い煙が現れたとき、彼はその意図を理解するのが遅れた。
うっすらと人影が見えるのを確認し、彼は異能力を発動する。だが、彼の『眼』が煙幕の奥の人影を見失った瞬間、冷気の源は混乱するかのようにうねり、相手まで到達することは出来なかった。
対象が取れないのだ。
宗一郎がそのことに思い至った瞬間、煙の中から彼の顔めがけて何かが飛んできた。
彼は咄嗟に屈んで避けたので気付かなかったが、それは誠司の携帯端末。
そしてそれに続いて、彼女自身が煙の中から飛び出す。右手に首から引き抜いたネクタイを輪に持ち、左手は腰の後ろへと。
宗一郎は誠司の姿を視界に捉えようと顔を上げる。
距離はまだ5メートル以上。このままでは相打ちにもならない。
だがその瞬間。彼の眼は強烈な閃光に灼かれた。
勝敗は決した。
戦っていた二人だけでなく、状況観察用のカメラ映像を確認した誰もがそれを確信した。
宗一郎が目を押さえてうろたえる間に誠司は素早く後ろに回りこみ、ネクタイを引っ掛けて目隠し。同時に腰のナイフを抜いて首筋に押し当てた。頭を後ろに強く引っ張られる形になり、宗一郎が僅かに呻く。
一瞬遅れて、今回の勝利の立役者である、装備開発局製作の高出力ライトが屋根の上を跳ね転がる。かなり頑丈に作ってあるらしく、投げ捨てられたにも関わらず外装は割れなかった。
誠司は始めから彼の視覚を潰すことだけを目的としていた。相手は必ずこちらを目視する必要があるのだから、タイミングは非常に簡単だ。
もし彼が閃光対策を行ってきた際には、誠司はもう一つの隠し玉――音響手榴弾を使うつもりだった。
そこまでやるのは若干、大人げないとは思っていたが。
「……こんな負け方は不満かもしれない。でも、『君はあまりに能力に頼り過ぎている』」
誠司は宗一郎の耳元で、それだけを言った。自分語りはともかく、説教は柄ではない。
ぐっ、と彼が言葉に詰まるのを感じたが、誠司はフォローの言葉を継ぐ気はなかった。
ここで彼女が何を言っても、慰めにはならないのだから。
強力過ぎるが故に、それだけで何でも出来ると思い込んでしまうことは、よくある。
異能力は、一対一で人を殺すには過剰過ぎるし欠点もある。それを省みず、『異能力で戦うこと』に拘り過ぎたのが敗因なのだと伝わればいい。誠司はそう思った。
「そこまでだ。訓練終わり。二人ともこちらに戻ってくるように。
菅君、投げたものはキチンと回収してくること」
スピーカーから春出仁先生の声が流れ、誠司は安堵する。
正直、遠くから見ると下級生虐めのような姿に見えそうで、嫌だったのだ。
誠司はナイフを仕舞い、目隠しのネクタイを外す。
そして投げ付けた携帯端末が何処に行ったか探そうと、辺りを見回した。
……彼女は詰めが甘かったのかもしれないが、それを責めることは出来ないだろう。
それでも、宗一郎の目つきに気付いたその瞬間。
誠司は咄嗟に彼の視界から身を逸らしつつ右手で彼の目元を覆い隠そうとし。
その右腕が肘辺りまで凍りついていく。
「――っ!」
だが、誠司はそのまま右手を振り抜いた。
硬化した手のひらで頬を思い切りぶん殴られ、宗一郎は屋根を転がった。
身体が急に重くなったような感覚がして膝が折れ、誠司もそのまま倒れこむ。
油断したなぁ、と彼女は苦笑する。
うまく彼を昏倒させられただろうか。まだ戦う気だったら……いやそもそも、このままでも死ぬかもしれないか。
そう考えながら、誠司は、眠るように意識を手放した。
次に目覚めたとき、誠司がまず見たのは知らない青年の顔だった。
だれ、と誠司が口を開くと、彼は表情を輝かせた。横合いから覗く市原の顔にも彼女は気付く。
そこでようやく、誠司ははっきりと覚醒した。
「今、何時くらい…?」
「1時を回ったところッス。中々起きないから心配しましたよ」
安堵からか、答える市原は妙にテンションが高い。そう、と返事をして、誠司は右腕へと視線を向ける。
彼女の右腕は何事もなかったかのようにそこにあった。
が、夏服のブラウスに血がしぶいた跡があったり、付けていた筈のグローブがなかったりするのに彼女は気付く。
思いつくのはあまりぞっとしない事実だったので、誠司はそれ以上のことを想像するのは止めておいた。
「調子はどうッスか?」
「……悪くはないよ。むしろいいくらい。
どうも、お世話になりました。…ええと」
誠司は礼を言おうと、身体を起こす。
「遠藤。遠藤 雅って言います」
「私は立浪みく。マサのおかげで助かったんだから、せいぜい感謝しなさい?」
誠司は少女の物言いに思わず笑ったが、ありがとう、と言葉を返した。
ヘマをやった、という落ち込んだ気分が、幾分安らいだからだった。
そうして彼女はようやく、周りの慌しさに気付く。
誠司が寝ていたのは始めに控えていた、フェンスの外だ。そこに午後の訓練予定者を含め、十数名の生徒が集まっていた。
春出仁先生は何か打ち合わせをしているようだし、他の教員も状況確認がどうのこうの、と話しているのが誠司に確認できた。
「市原くん、状況説明」
「え。えーとですね…」
市原は言いにくそうに口ごもる。仕方ないので誠司はみくへと説明をお願いした。
「ついさっきだけど、山口の方でラルヴァが建物を占拠したって。
たまたま向こうに醒徒会役員がいて被害は抑えられてるらしいけど、増援を送るとかなんとか…」
なるほど、と誠司は納得した。恐らく今訓練に来ている面子から増援を選抜するのだろうな、と。
市原がこわごわ尋ねる。
「センパイ、まさか……」
「まさか、なんて言われるのは心外だけど」
誠司は、彼が何を危惧しているか分からないでもなかった。身の心配をして貰えるのは純粋に幸せなことだ、と彼女は思う。
それでもレスキューを掲げている以上、
「自分の好きなときだけ出動できるものじゃない、ってこと」
誠司はそう言って、気合を入れるように立ち上がった。
彼女は秋津宗一郎がどうしたかについて、敢えて尋ねなかった。
それは、自分が今知っても詮無いことだと考えたからで。せいぜい叱られた程度だろうし、反省してくれればそれでいい、と思っていた。
神那岐観古都がことづてを伝えた後、彼が学園都市からいなくなっていたことを誠司が知るのは、まだ少し先のことである。
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