【早瀬速人の長い夜】

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 早瀬速人の長い夜  庶務の仕事って何やればいいんだ? というのが、このところ早瀬速人が抱く疑問である。  醒徒会の一員として席を占めてはいるものの、早瀬の存在感は少々といわず心もとない。  何かを決済するでもなく、部下や予算が付くわけでもない。何が出来るかも何をすべきかも定かではなく、誰かに相談しようにも体が悪い。仕方なく早瀬は部屋を掃除し、茶碗を洗い、切れかかった蛍光灯を換え、他の役員に手伝いを申し出る毎日を送っている。会長の言いつけで銀座まで菓子を買いに行き、へとへとになって戻ることもしばしばである。そのたびにパシリではないと猛抗議するのだが、聞き入れられることはめったに無い。風紀委員には投げ捨てられ、道行く人に醒徒会の評判を問うても、早瀬の名前が上がることは稀である。  舐められている、と早瀬は嘆く。選挙で当選したはずなのに、学園最強の一角と認めてもらえたはずなのに、扱いはちょっとマメなチンピラといった程度。情けない。あまりにも情けない。  舐められるのは仕事をしていないからだ。庶務として存在感を示せば、こういうことはなくなるはずだ。  ここまで考えて、早瀬の思考は止まるのである。  ――何か目立つ結果でも出せればいいんだけどなあ。  夢想することも無いではなかったが、こと戦闘能力に関して言えば早瀬は醒徒会末席である。功を上げることは叶わない。普段の仕事に精を出そうにも、パシリ仕事しか回ってこない。  打つ手無し。早瀬速人の悩みは深い。      銃声に、浅い眠りを邪魔される。  目を擦りながら体を起こす間に一発。窓から顔を突き出す間にもう一発。音はかすかなものであった。空耳かという考えは、立て続けの三発目によって打ち消された。  他の部屋の様子を窺っても、騒ぎが起きる様子は無い。どうやら、気がついたのは早瀬一人であるらしい。時計を見ると午前一時。寮の消灯時刻はとっくにすぎ、ほとんどの寮生は眠りについている。  夜間訓練が行われているという話も聞かないから、誰かがぶっ放しているのだろう。双葉学園内部では銃の使用がある程度まで認められてはいるが、夜間の使用は厳禁であり、例外はラルヴァ退治のみである。  だとすれば、誰かがラルヴァを追い立てているのかもしれない。  ――もしかしてあいつがやってるのかもな。  早瀬は風紀委員の一人を思い浮かべた。  山口・デリンジャー・慧海。風紀委員長の一人であり、卓越した技量を持つガンスリンガーでもある。きわめて有能だが引き金は軽く、敵と同様無能な味方にも容赦しない。影ではデンジャーの名を奉られることもある、毀誉褒貶の相半ばする人間である。  早瀬にとっては苦手な相手である。初対面の時にいきなり暴徒鎮圧弾を食らわされ、あまつさえ気絶しているところを廊下に投げ捨てられている。これで好きになれというのがどだい無茶な話である。  思わず湧き上がった震えを振り払って、早瀬は肩を落とした。一度刻み込まれた恐怖は中々消えないのである。  疲労が凝って体が重い。今日は使いで隣町まで走り、ようやく休めるかと思ったところで風紀委員から逃げるためにまた走る羽目になった。こういう日に限って宿題はうずたかく積みあがり、どうにか片付けたかと思えば横の部屋から順番待ちしていたエロDVDが回ってくる。体力の消耗は著しく、まぶたを上げておくだけでも一苦労である。  ――寝よう。  早瀬は携帯に目をやった。着信はメール・電話ともに無し。誰かがラルヴァに苦戦して増援を求めれば、それは真っ先に醒徒会役員全員に伝えられる。誰が銃をぶっ放しているにせよ、応援を呼ぶ必要は無いと考えているらしい。ならば自分が行くまでもない。早瀬はベッドにもぐりこんだ。  銃声が響いた。今度は立て続けに3発。誰だか知らないけどさっさと済ませてくれよと、早瀬はもう一度窓の外を見やった。  地から伸びだした巨大な何かが、すぐさまその身を翻して建物の影に消えた。  ――なんだありゃ。  疑問に眉を曇らせながらも、早瀬の決断は素早かった。  既にその身は部屋に無い。階段を駆け下り、量の事務室に外出願いを叩きつけて飛び出す。外に出た後には首をめぐらし、ラルヴァが出たと思しき方角への最短距離を探っている。  ――あれだけでかいラルヴァなら、すぐに対処しないと大変な事になるだろう。  何が出来るとも知れないが、何もせずにはいられない。職務不明の末席といえども、早瀬速人は醒徒会の一員である。  トレードマークとして巻きつける赤いマフラーが、空気をはらんではためいた。携えたライトで闇を切り裂き、影すら落とさぬ神速をもって、早瀬はただひたすらに駆けた。      デリンジャーが、子供を小脇に抱えて、襲い来る触手から逃げている。  早瀬が見て取った状況を一言で言えば、大体こういうところである。  踏みとどまろうとする様子は見られない。銃を振りかざしてはいるが、それは結わえ付けられたマグライトの灯りを振り向けるため。本来の用途に用いる様子はない。抱えている子供の体は力なく垂れ、そのせいで普段どおりの動きが取れないらしい。闇の中に街灯が落とす光を飛び石のようにわたるデリンジャーの顔には、常に無い緊張が浮かんでいる。  不意に、デリンジャーのテンガロンハットを、一条の鋼線が掠めた。  闇を切り裂く銀線がツインテールの髪の毛を何本か奪い去り、驚愕に踏みとどまったデリンジャーを弄うように宙で揺らめく。金属の触手は糸ほどにも細いが、それがさらに無数に解け、デリンジャーの全身にくまなく襲い掛かる。全方位から迫る微細鋼線は宙を走る間にもさらにばらけ、まるで網のようにデリンジャーを押し包んでいく。網の先端が、デリンジャーの体を隙間なく貫くかに見えた。  銃声。  抱えていた子供から手を放し、掌に生じた弾丸を装填、発射。枝分かれした触手の根元、太さ一ミリにも満たない細線を過たず射抜き、次の瞬間には再び子供を抱え込んでいる。神速のクイックドロウと、機械的正確さを具えた射撃が作り出す制空圏。破断した触手はのけぞって暗闇に姿を消し、枝分かれした微細鋼線は勢いをそらされ、そのまま地面に突き立って消える。子供を抱えなおして再び走るデリンジャーが、堪えかねたように荒く息をついた。  ――すげえ。  早瀬は感嘆のため息を漏らした。デリンジャーの技量を間近で見たのは初めてだが、まさに評判にたがわない代物だった。攻防共に隙の無い、ガンスリンガーとしての完成形。大抵のラルヴァなら瞬く間に蜂の巣にされてしまうだろう。味方に向けられることさえなければ、この上なく頼りになるはずの戦力。  しかし、デリンジャーは戦おうとしない。ひたすら逃げることに傾注している。子供を下ろし、踏みとどまることも可能なはずなのに、なぜかそうしようとはしない。抱える子供をうっとうしそうに見やりながらも、捨てる様子も無い。  そもそも、人を助け、しかも逃げるという行動からして、早瀬の知るデリンジャーの柄ではない。脅威をいち早く排除する事で結果的に守るというのがデリンジャーのやり方のはずだ。それが一体なぜ。  浮かぶ疑問に蓋をして、早瀬は走るデリンジャーの前に躍り出た。 「よう! 助けに来――」  銃声。  のけぞった鼻先を銃弾が掠めていくのを、早瀬は確かに見たと思った。  そのまま勢いで地面に手を付きブリッジ。時ならぬ体操を強いられて早瀬の背骨が悲鳴を上げ、折悪しく翻ったマフラーが顔に覆いかぶさって視界をさえぎる。不意に腹に突きつけられた冷たい感触に、早瀬は小さく悲鳴を上げた。 「Shit! 急に出てくんな!」  重たい何かを腹に落とされ、早瀬はアスファルトの上で潰れた。なんとかマフラーをのけて見ると、載せられていたのはデリンジャーが抱えていた子供だった。体勢から察するに、今ので頭は打っていないようだが、代わりに肘をこっぴどくぶつけたらしい。意識が戻る様子は無く、その利発そうな顔立ちは大きくしかめられて台無しになっている。小学校高学年といったところだろうか? 目が覚めればたぶん大泣きするだろう。早瀬は子供に同情を覚えた。  子供をゆっくりと地面に横たえ、何とか立ち上がる間、デリンジャーは油断無く辺りに目を配っている。時折こちらに向ける目はむやみに鋭いが、ラルヴァを前にしているとあってはそれも無理ない話だろう。まずは緊張をほぐすことが大事だ。早瀬はデリンジャーに向かって、余裕の笑みを浮かべて見せた。 「大丈夫か? なんだか知らないが加勢するぜ! なーにこう見えてもおれは醒徒会の一員――」  銃声。振り向きもせず放たれた弾丸が早瀬の耳をわずかにこそぎ取り、闇の中で何かを撃ち落としている。金属の軋る音が辺りの暗闇を縫い、早瀬の背筋に汗が伝った。デリンジャーは早瀬に目を向けず、ただ小さく口を動かした。 「いいからさっさと助け呼べ。こっちは両手ふさがってんだ」  形無しである。早瀬は携帯を取り出すと、醒徒会に向けてアラートを発した。醒徒会専用モデルとして支給された携帯には無数の追加機能が付属しているが、緊急通信はその中でももっとも重要なものだ。  コール1回で反応。 「もしもし早瀬くん? 状況を報告してちょうだい」  生徒会副会長、水分理緒。深夜だというのに、その対応はきわめて素早い。あるいは副会長も、既にこの騒ぎに気がついていたのかもしれない。さすがだ。ここは醒徒会役員らしい行動をとらねば。  早瀬はデリンジャーに目をやった。まず報告すべきはラルヴァが出たこと、およびその詳細だ。それを詳しく知っているのは最初に遭遇したデリンジャーだ。早瀬はデリンジャーに携帯を突き出して目配せした。すぐさま意図を理解したデリンジャーが口を開き、  即座に携帯を打ち抜いて破壊した。  破片が飛び散ったが、地には落ちない。宙を走った銀色の鋼線が、全て空中で捕捉してしまっている。直前で手を引いた早瀬の腕を鋼線が掠め、肌に赤い筋を穿った。こそぎとられた皮膚が、地に落ちて小さく湿った音を立てた。  痛い。だがはやせはそれどころではなかった。連絡不能。携帯は破壊され、予備は無い。いまのやり取りで副会長が状況を察してくれる事を祈るしかない。早瀬はデリンジャーに怒りの目を向けた。 「いきなり撃つってなんなんだ?」 「腕ごと持ってかれたほうがよかったか?」 「説明になってねえよ! 撃つならラルヴァだろ? 携帯じゃなくて!」 「騒ぐな間抜け。ラルヴァを撃ったんだ」 「じゃあ何で携帯吹っ飛ぶんだよ? おかしいだろ」 「ごちゃごちゃうるさい。いいからさっさと餓鬼拾え!」  言葉を交わす間にも、デリンジャーは周囲に目を配っては引き金を引き、触手の接近を阻んでいる。早瀬は改めて辺りの闇に目をやった。あちこちで閃く銀光は、いまや数えることも困難なほど。そこかしこで軋る金属音が、次第に距離をつめてきている。ふとした考えが、早瀬の脳裏に浮かび上がった。 「あれ、もしかして俺たち囲まれてる?」  ああ、とデリンジャーが満面の笑みを浮かべた 「せいぜい助けてくれよ、何が出来るか知らないけど」      餓鬼がラルヴァで遊んでた、とデリンジャーは言う。 「餓鬼ってこれ?」 「これだよ」  子供の体を、デリンジャーはつま先で小突いた。 「『ラルヴァで遊ぶ』ってのはどういう意味だ?」 「コイツに餌やってたんだよ」  デリンジャーは辺りの暗闇を指した。 「とりあえず気絶させて、ラルヴァの方にも一くさり叩き込んだ。そしたらこのざまだ。なんだか知らないがバカみたいにでかくなりやがった。撃つたんびにでかくなりやがる。しょうがないから逃げてるんだ」 「ああ、だから捨ててないのか」 「大事な証人捨てたらアイスに怒られると思ってな」  デリンジャーがわずかに頬を膨らませた。 「なるほどな……あれ、通報はしてないよな?」 「してない。するまでも無いと思ったんだ、最初は」 「元の大きさってどのぐらい?」 「猫か兎かってところだな」  ――なるほどねえ。  早瀬は思考をめぐらした。  状況は芳しいとはいえない。このラルヴァがどれほどの速さで成長しているにせよ、いい加減拳銃でどうこう出来るサイズには収まっていないだろう。そんな相手に早瀬の蹴りが効くはずも無い。実体があるからカテゴリービーストなのは間違いないが、そこから先は何もわからない。とにかく間違いないのは、相手は暗闇をものともしておらず、こちらを殺す気満々な事。  包囲の輪は見えないところでじりじりと狭まり、殺気はいまや肌に感じられるほどになっている。辺りを照らす光が瞬き、ギイギイと音を立てて街灯が揺れた。  早瀬は目をむいた。  何重にも絡み付いた鋼線が、街灯を根元から揺さぶっていた。だが力が足りないのか、引き倒すには至らない。灯りの前に、触手が雲のように渦巻いた。微細鋼線が街灯のガラスを貫通し、ライトを破壊。デリンジャーと早瀬の周りに暗闇が落ちた。  金属同士の擦れる音が、勝ち誇ったようにそのトーンを上げた。もはや機を見る必要も無いとばかりに、数限りない銀線の群れが、余すところなく二人を押し包んだ。物量による飽和攻撃。全てを打ち落とすことは、どんな達人でも不可能だ。 「終わりかよ!」  ――このままだとな。  苦虫を噛み潰して銃弾を装填するデリンジャーを横目に見ながら、早瀬は内心ため息をついた。  力を使うなら今しかない。早瀬はみなぎる魂源力の全てを解き放った。  世界が、静止した。      早瀬速人は、自身の能力を次のように理解している。すなわち、「『加速』とは、時間を稼ぐ能力である」と。  早瀬の『加速』は、ただ『動きを早める』といった範囲にとどまらない。魂源力《アツィルト》の作用によって、早瀬速人という生命現象の全てが加速されている。脳から発された指令は通常のそれをはるかに逸脱した速度で神経のなかを走り、筋繊維は常に無い速度で収縮。人間の体を複雑な化学反応のドミノ倒しとして見れば、早瀬のドミノは通常の何倍もの速度で倒れるのだ。  これによって、早瀬は三つのものを得る。すなわち、加速された動作と、知覚能力、そして状況を判断するための思考時間である。  ラルヴァや異能者との戦いには、往々にして予測不可能な要素が付きまとう。あいまいな情報を元にして、瞬きにも満たない時間で判断する事を強いられる。そうして下した判断で、いとも簡単に生死が分かたれていく。『未知』であることは、それだけで刃や炎に負けずとも劣らない危険を孕んでいるのだ。  だが、早瀬速人には、『未知』を恐れる必要が無い。  相手の攻撃を易々とくぐり、スローモーションの世界で心行くまで相手を観察、分析。もし致命的な隙を見つければ、加速した蹴りを叩きつけて粉砕。仮に弱点を見出せなくても、健脚とスピードに訴えれば安全圏まで間違いなく逃亡出来る。そうして持ち帰った情報は、何よりも頼もしい盾となって、仲間の未来を守ってくれる。加えて、高速化された思考能力を持ってすれば、早瀬の頭でもそれなりに有効な作戦を考え出すことができる。  伊達に醒徒会役員を勤めるわけではない。稼ぎ出された時間の中で、早瀬速人は皆を救う策を見出すのだ。    世界が止まったといっても、それは正確な表現ではない。  触手が叩き割った街灯のガラスは、今もゆっくりと地に降り注ぎつつある。周り中に張り巡らされた無数の微細鋼線は、のろのろと宙を這って二人を貫こうとうごめいている。歯を食いしばったデリンジャーの視線は辺りを掃き、どの触手を打ち落とすべきかを探っている。実に頼もしい。  早瀬はライトを振って、辺りの様子を探った。じりじりと突っ込んでくる触手を一本二本と数え、その一つ一つを丹念に精査。しばらく考えをめぐらして、早瀬は会心の笑みを浮かべた。  ――間に合う!  触手による三次元包囲を、三人そろって無傷で切り抜ける方法。並の人間なら実行に移す前に串刺しになるだろう。だが、早瀬速人とデリンジャーが手を組めば、それが充分可能になる。実のところ、じっくりと答えを確かめる余裕まであった。  早瀬はデリンジャーに目を向けた。『加速』を切ることも考えたが、デリンジャーの目を見てそれは不要だと知れた。跳ね上がった眉、丸く開かれた口。どうやら早瀬の動きを逐一捉えているらしい。ガンスリンガーならではの驚くべき動体視力。早瀬は相手がデリンジャーだったことに感謝した。これほどの動体視力を備えていなければ、やり取りに齟齬が生じる可能性があった。  早瀬は宙の一点を灯りでポイントした。即座に意図を理解したデリンジャーが弾丸を発射。周囲のものに比べて圧倒的に早い速度で飛来した銃弾が鋼線を貫き、破断、包囲にわずかな隙が生じた。  別の方向に灯りを振り向け、これまたデリンジャーが触手を破壊。続く三発目と四発目が発射できるかどうかは危うかったが、デリンジャーの腕は確かに目標を撃ち抜いている。見事だった。  これで、全て早瀬の見立てどおりになた。触手を四点打ち抜けば、充分くぐれる隙間が出来る。  早瀬は子供をすくい上げた。  数十キロを持ち上げて背骨が悲鳴を上げたが、タイミングには問題なく間に合った。息を整え、空に向かって身を投げる。デリンジャーの銃撃が作り出した直径ほんの30センチほどの隙間を、早瀬と子供はまっすぐに通り抜けた。  抱えた子供をかばい、背中から着地。阻む触手は存在しない。既にデリンジャーが打ち落としてしまっている。アスファルトが背中を削ったが、早瀬は悲鳴を押し殺した。  ぼやぼやしている暇は無い。合図をおくるまでもなく、既にデリンジャーはこちらに向かって駆け出している。地面を叩いて身を起し、早瀬はデリンジャーに手を伸ばした。大胆に飛び込んだデリンジャーの手を発止とつかみ、狭まる隙間から安全圏へ引っ張り出す。体を支え、勢いを殺さず宙で一回転、着地。手に伝わった柔らかな感触に早瀬は顔を赤らめ、デリンジャーのブーツが地を打ち、触手の隙間が通り抜けられないほどにその大きさを縮めた。いまや、触手の包囲は何も捉えてなどいない。  早瀬は加速を解除した。  世界が速さを取り戻す。全身に引き絞るような痺れが走り、早瀬は思わずうめき声をもらした。魂源力が切れ果て、過剰運動に全身の筋肉が焼け付いている。街灯から降り注いだガラスが頬をわずかに削いだが、それを気にするどころではない。懸命に意識を保とうと頭を振った早瀬の首が、急に強い力で引っ張られた。デリンジャー。早瀬のマフラーを乱暴に奪い取り、地に落ちた子供に投げかけてガラスからかばう。首を絞められてむせる早瀬に、デリンジャーは獰猛な笑みを振り向けた。 「なんだ今のは。サーカスか? それともマトリックスか?」 「――必殺技だよ」  達成感が痛みを消していく。早瀬は子供を背負って立ち上がった。周囲の触手は動きを止めている。まるで事態が理解できていないかのよう。完全包囲を潜り抜けられた事で、少なからず動揺しているかのようだ。ちょっとは知恵があるらしい。早瀬は笑みを深めた。  とたんに全身に苦痛が走った。もう『加速』には入れない。さっきのようなアクロバットはもう種切れだ。  だが、絶望的かというとそうでもない。  早瀬はデリンジャーに顎をしゃくって、務めて気楽な声を出した。 「よし、じゃあ片付けようか」 「ズタボロの癖に調子にのんな。舞い上がりすぎだ」 「大丈夫。ネタはちゃんとある」  痛みをこらえ、早瀬は精一杯不敵な笑みを作ってみせた。 「普通の弾以外も出せるんだろ? こないだ俺に使った奴を試してくれよ」  眉をしかめたデリンジャーの掌に、これまでとは異なる弾丸が生じた。打ち振られた銃が迫った触手を迎撃し、再び闇へと追い返す。触手の攻撃には、先ほどまでの勢いは無い。 「何も変わんねえじゃねえか」 「今にわかるさ」  早瀬のライトが地を舐め、一つの小さな影を探り当てた。触手に当たって地に落ちた、デリンジャーの暴徒鎮圧弾。早瀬は快哉を上げた。理解が追いつかないといった様子で、デリンジャーが怪訝な顔を浮かべた。 「なんだありゃ」 「デリンジャー、この子供がラルヴァにやってた餌って何?」 「空き缶だ。――ああ、そういうことかよ」 「そういうことさ。コイツは見掛け倒しなんだ。小さな弾丸を食べて、大きく膨らんでるだけなんだよ」  先の観察で、早瀬は触手の先端に口器を見出していた。敵をかじりとるためか、あるいは何かを食べるための器官。ラルヴァを形成しているのは細い鋼線で、それらは闇の中に全体を隠している。銃弾を喰らう度に大きくなったとデリンジャーは言う。ならば、銃弾を食べているというのは打倒な考えだ。そして、銃弾のサイズは高が知れている。ラルヴァの現す姿は微細鋼線。小さな弾丸からでも、充分な長さを作り出せるほどに、細くか弱い金属線。  闇に隠れた化け物の正体は、糸で編まれた張子の虎だ。 「大体、見かけどおりならお前だってとっくにやられてるだろ? そこの街灯だって倒して食べてるはずだ。こいつにはたいしたパワーは無いよ。さっさと片付けちゃってくれ」 「だれが『お前』だ。アタシに指図すんな間抜け」  とうとうとまくし立てた早瀬の胸に重い衝撃が走った。デリンジャーが銃杷を叩きつけたのだ。身をくの字に折った早瀬をよそに、デリンジャーは身をかがめた。 「ほら、さっさとこれつけろ。にしてもだっせえなあ、これ」  子供にかぶせられていたマフラーを拾い上げ、ガラスを振り落として早瀬に差し出す。しかめっ面が、次の瞬間には破顔した。 「早くしろよ、ヒーロー。ここはアタシが片付けるから、さっさと餓鬼を助けてやれよ。それがおまえにゃお似合いだ」  早瀬はうろたえた。渾身のアイディアであったマフラーをダサいとけなされ、そしてデリンジャーにヒーローと呼ばれた。どちらの言葉も受け入れがたい。何かの聞き間違いではなかろうか。 「間抜け面さらしてないでさっさと餓鬼拾え。逃げ道はあたしが作ってやる」  デリンジャーが、地に転がる子供を軽く蹴飛ばした。相変わらず意識が戻る様子は無い。もしかしたら、目覚めるたびに恐怖と痛みで失神しているのかもしれない。早瀬は再び子供に同情した。  金属の軋る音が、再びその強さを増した。  間をおかずにほとばしった無数の暴徒鎮圧弾が、暗闇に吸い込まれて消えていく。もはや餌を与えてはいない。消し飛ばされていくだけの無駄な抵抗。状況は完全に逆転している。いや、それを言うなら、そもそも不利でもなんでもなかったのだ。  早瀬は子供を背負い、悲鳴を上げる全身に鞭を打って駆け出した。 「さっさと戻ってこいよ! お前の分も残しといてやるからな」 「それはちょっと遠慮したいなあ」  苦笑をもらし、次いで痛みに顔をしかめる。銃弾が銀光を叩き落す音の下で、早瀬はひたすらに安全圏を目指して駆けた。     「はい、お疲れ様」 「どうもっす」  水分の差し出してくれたスポーツドリンクは、むやみにおいしかった。  アスファルトに体を預け、空を見上げて息をつく。空を見上げても星は見えない。街灯の真下に寝転がり、黄色い光が目にいたい。ゆるゆると携帯を取り出そうとして懐を探り、もうそれが無いことにようやく思い至った。 「副会長、今何時ですか」 「二時……15分かな」  そんなに時間がたっていたとは。早瀬は思わず目を閉じた。心地よい眠気がせりあがってくる。路上で寝るのも悪くないという考えが、ゆっくりと早瀬の思考を塗りつぶしていく。早瀬は全身の力を抜いた。 「寝るな早瀬! こんなところで寝たら風邪引くぞ!」  顔面をばしばしとはたかれ、早瀬はたまらず身を起こして哀願した。 「誰だか知らないが頼む! 眠らせてくれ! 自分で言うのもなんだけど、俺は今日はよくがんばったほうだと思うんだ」 「うん、わたしもそうおもう。今日の早瀬はがんばったな」  鈴を鳴らすような声。それが誰のものか気付くや否や、眠気がさっと引っ込んだ。  醒徒会会長、藤神門御鈴は、そんな早瀬にねぎらうような笑みを向けた。 「醒徒会庶務の名に恥じない立派なしごとぶりだったぞ。よくやったな、早瀬」  重々しく頷くと、御鈴は早瀬の頭に手を伸ばした。思わず正座して頭を差し出した早瀬にくすくす笑いを漏らしながら、御鈴は早瀬の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でた。 「会長、あの、そういうのはちょっと」 「ん? こうすると早瀬は喜ぶって加賀杜が言ってたぞ。まあなんだ、とにかくがんばったな。よしよし」  抗議する早瀬をなだめるように頭をぽんぽんとはたき、水分がその様子を見て口元を覆った。  ――悪くない。  早瀬の心に熱がこみ上げた。思わずニヤニヤ笑いを浮かべそうになって、早瀬はどうにか口元を引き結んだ。自分がやったことが庶務の仕事かどうかはさておき、人に認められるというのはやっぱり悪くない。会長に撫でてもらえるとなればなおさらだ。 「よし。じゃああとしまつするか。あ、理緒、例の早瀬が助けたこどもってのはどうなったんだ?」  御鈴が声を上げ、それに水分が眉を曇らせた。 「それが、いなくなってしまって」 「は? いなくなったって、意識がもどったのか?」 「みたいです。あとで治療班に見せようと思ったんですけど、どうも勝手に帰ってしまったらしくて」 「うーん、くわしい事情をきこうとおもったんだけどなあ」 「目を離してしまってすみません」 「いや、理緒は悪くないぞ。逃げるその子供がわるい」  水分が深々と頭を下げ、所在なげな御鈴が、手を伸ばして水分を撫でた。  ――妙な話だ。  早瀬は思考をめぐらせた。  早瀬の見たところ、あの子供はそれなりに怪我を負っていた。後頭部に暴徒鎮圧弾を叩き込まれる衝撃は、早瀬の身でも耐え難い。ましてや子供の柔らかい頭蓋骨となればなおさらだ。それだけの怪我を負って逃げるのには何か理由があるのだろうか? そういえば、確かデリンジャーが言うには、あの子供はラルヴァに餌をやっていたらしい。ただの子供と片付けるには、何かときな臭い。ここの学生だろうか? 学生証でも拝んでおくんだったと、早瀬はいまさらながらに後悔した。 「じゃあ、今から子供をさがすか。うーん、眠いな。理緒、明日でいいかな」 「加賀杜さんと龍河さんに頼んで、区内の病院に連絡を入れてもらってます。かかれば見つかると思います」 「うん、じゃあそれでいいな。今日はもう解散にしよう。あ、早瀬はそこでねるなよ、風邪引くぞ」 「うっす。おやすみなさい、会長」 「うん、おやすみ」  正座のまま後ろに倒れ、そのまま地面に寝転がる。早瀬の様子を見て御鈴は笑い声を上げ、水分を伴ってその場を去った。  ぬるい夜風が、早瀬の頬をなでた。体がもう動かない。疲労の限界点は、いまや早瀬の中で次々更新されつつあった。  今度こそ甘美な眠りに身をゆだねるべく、早瀬はゆっくりと目を閉じた。  思いっきり顔面を踏まれた。 「んなとこで寝んな、間抜け」  うろたえながら見上げると、すらりと伸びた足が早瀬の視界に入った。編み上げのブーツから伸びる足はそのまま制服のスカートの奥へと伸び、逆光もあいまって中身は見えないがこれは中々の眺め――。  銃声。 「遺言は『パンツ拝めてラッキーでした』にしとくか」 「もうすこしマシなこといってしにたいです、はい」  神速で這いずった早瀬に、デリンジャーは冷たい銃口を向けた。だが銃口はすぐさま下げられ、変わりに不敵な笑みが取って代わった。早瀬の目を真っ向から覗き込んで、デリンジャーはひらひらと手を打ち振った。 「今日はありがとよ、そいつはお礼だ。とっときな」  言うだけ言ってきびすを返す。お礼が何のことかわからず眉をひそめた早瀬は、ふと自分のマフラーに目をやった。  ところどころガラス破片が食い込んだ赤い生地に、新たに大穴が開いていた。 「お、ナイスデザイン……じゃねえよ! なにすんだこら、おい!」  だがデリンジャーの姿は既に無い。持って行き所のない怒りに駆り立てられて、早瀬はしばし丹念にマフラーにめり込んだガラス片を取り除く作業に没頭した。よれよれのマフラーを弄えながら携帯をまさぐり、無いことに気がついてうなだれた。  早瀬は立ち上って背を伸ばし、マフラーを首に巻きなおした。大きな穴の開いたマフラーの先端が、夜風にあおられてはためいた  ――このさい報告書も書いてしまうか。あいつ書かないだろうしな。  早瀬は寮へと足を向けた。疲労はしびれるほどだが、もはや眠気は吹き飛んでいた。  時刻は三時に至ろうかという辺り、夜はまだまだこれからである。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品投稿場所に戻る>作品投稿場所]]
 早瀬速人の長い夜  庶務の仕事って何やればいいんだ? というのが、このところ早瀬速人が抱く疑問である。  醒徒会の一員として席を占めてはいるものの、早瀬の存在感は少々といわず心もとない。  何かを決済するでもなく、部下や予算が付くわけでもない。何が出来るかも何をすべきかも定かではなく、誰かに相談しようにも体が悪い。仕方なく早瀬は部屋を掃除し、茶碗を洗い、切れかかった蛍光灯を換え、他の役員に手伝いを申し出る毎日を送っている。会長の言いつけで銀座まで菓子を買いに行き、へとへとになって戻ることもしばしばである。そのたびにパシリではないと猛抗議するのだが、聞き入れられることはめったに無い。風紀委員には投げ捨てられ、道行く人に醒徒会の評判を問うても、早瀬の名前が上がることは稀である。  舐められている、と早瀬は嘆く。選挙で当選したはずなのに、学園最強の一角と認めてもらえたはずなのに、扱いはちょっとマメなチンピラといった程度。情けない。あまりにも情けない。  舐められるのは仕事をしていないからだ。庶務として存在感を示せば、こういうことはなくなるはずだ。  ここまで考えて、早瀬の思考は止まるのである。  ――何か目立つ結果でも出せればいいんだけどなあ。  夢想することも無いではなかったが、こと戦闘能力に関して言えば早瀬は醒徒会末席である。功を上げることは叶わない。普段の仕事に精を出そうにも、パシリ仕事しか回ってこない。  打つ手無し。早瀬速人の悩みは深い。      銃声に、浅い眠りを邪魔される。  目を擦りながら体を起こす間に一発。窓から顔を突き出す間にもう一発。音はかすかなものであった。空耳かという考えは、立て続けの三発目によって打ち消された。  他の部屋の様子を窺っても、騒ぎが起きる様子は無い。どうやら、気がついたのは早瀬一人であるらしい。時計を見ると午前一時。寮の消灯時刻はとっくにすぎ、ほとんどの寮生は眠りについている。  夜間訓練が行われているという話も聞かないから、誰かがぶっ放しているのだろう。双葉学園内部では銃の使用がある程度まで認められてはいるが、夜間の使用は厳禁であり、例外はラルヴァ退治のみである。  だとすれば、誰かがラルヴァを追い立てているのかもしれない。  ――もしかしてあいつがやってるのかもな。  早瀬は風紀委員の一人を思い浮かべた。  山口・デリンジャー・慧海。風紀委員長の一人であり、卓越した技量を持つガンスリンガーでもある。きわめて有能だが引き金は軽く、敵と同様無能な味方にも容赦しない。影ではデンジャーの名を奉られることもある、毀誉褒貶の相半ばする人間である。  早瀬にとっては苦手な相手である。初対面の時にいきなり暴徒鎮圧弾を食らわされ、あまつさえ気絶しているところを廊下に投げ捨てられている。これで好きになれというのがどだい無茶な話である。  思わず湧き上がった震えを振り払って、早瀬は肩を落とした。一度刻み込まれた恐怖は中々消えないのである。  疲労が凝って体が重い。今日は使いで隣町まで走り、ようやく休めるかと思ったところで風紀委員から逃げるためにまた走る羽目になった。こういう日に限って宿題はうずたかく積みあがり、どうにか片付けたかと思えば横の部屋から順番待ちしていたエロDVDが回ってくる。体力の消耗は著しく、まぶたを上げておくだけでも一苦労である。  ――寝よう。  早瀬は携帯に目をやった。着信はメール・電話ともに無し。誰かがラルヴァに苦戦して増援を求めれば、それは真っ先に醒徒会役員全員に伝えられる。誰が銃をぶっ放しているにせよ、応援を呼ぶ必要は無いと考えているらしい。ならば自分が行くまでもない。早瀬はベッドにもぐりこんだ。  銃声が響いた。今度は立て続けに3発。誰だか知らないけどさっさと済ませてくれよと、早瀬はもう一度窓の外を見やった。  地から伸びだした巨大な何かが、すぐさまその身を翻して建物の影に消えた。  ――なんだありゃ。  疑問に眉を曇らせながらも、早瀬の決断は素早かった。  既にその身は部屋に無い。階段を駆け下り、量の事務室に外出願いを叩きつけて飛び出す。外に出た後には首をめぐらし、ラルヴァが出たと思しき方角への最短距離を探っている。  ――あれだけでかいラルヴァなら、すぐに対処しないと大変な事になるだろう。  何が出来るとも知れないが、何もせずにはいられない。職務不明の末席といえども、早瀬速人は醒徒会の一員である。  トレードマークとして巻きつける赤いマフラーが、空気をはらんではためいた。携えたライトで闇を切り裂き、影すら落とさぬ神速をもって、早瀬はただひたすらに駆けた。      デリンジャーが、子供を小脇に抱えて、襲い来る触手から逃げている。  早瀬が見て取った状況を一言で言えば、大体こういうところである。  踏みとどまろうとする様子は見られない。銃を振りかざしてはいるが、それは結わえ付けられたマグライトの灯りを振り向けるため。本来の用途に用いる様子はない。抱えている子供の体は力なく垂れ、そのせいで普段どおりの動きが取れないらしい。闇の中に街灯が落とす光を飛び石のようにわたるデリンジャーの顔には、常に無い緊張が浮かんでいる。  不意に、デリンジャーのテンガロンハットを、一条の鋼線が掠めた。  闇を切り裂く銀線がツインテールの髪の毛を何本か奪い去り、驚愕に踏みとどまったデリンジャーを弄うように宙で揺らめく。金属の触手は糸ほどにも細いが、それがさらに無数に解け、デリンジャーの全身にくまなく襲い掛かる。全方位から迫る微細鋼線は宙を走る間にもさらにばらけ、まるで網のようにデリンジャーを押し包んでいく。網の先端が、デリンジャーの体を隙間なく貫くかに見えた。  銃声。  抱えていた子供から手を放し、掌に生じた弾丸を装填、発射。枝分かれした触手の根元、太さ一ミリにも満たない細線を過たず射抜き、次の瞬間には再び子供を抱え込んでいる。神速のクイックドロウと、機械的正確さを具えた射撃が作り出す制空圏。破断した触手はのけぞって暗闇に姿を消し、枝分かれした微細鋼線は勢いをそらされ、そのまま地面に突き立って消える。子供を抱えなおして再び走るデリンジャーが、堪えかねたように荒く息をついた。  ――すげえ。  早瀬は感嘆のため息を漏らした。デリンジャーの技量を間近で見たのは初めてだが、まさに評判にたがわない代物だった。攻防共に隙の無い、ガンスリンガーとしての完成形。大抵のラルヴァなら瞬く間に蜂の巣にされてしまうだろう。味方に向けられることさえなければ、この上なく頼りになるはずの戦力。  しかし、デリンジャーは戦おうとしない。ひたすら逃げることに傾注している。子供を下ろし、踏みとどまることも可能なはずなのに、なぜかそうしようとはしない。抱える子供をうっとうしそうに見やりながらも、捨てる様子も無い。  そもそも、人を助け、しかも逃げるという行動からして、早瀬の知るデリンジャーの柄ではない。脅威をいち早く排除する事で結果的に守るというのがデリンジャーのやり方のはずだ。それが一体なぜ。  浮かぶ疑問に蓋をして、早瀬は走るデリンジャーの前に躍り出た。 「よう! 助けに来――」  銃声。  のけぞった鼻先を銃弾が掠めていくのを、早瀬は確かに見たと思った。  そのまま勢いで地面に手を付きブリッジ。時ならぬ体操を強いられて早瀬の背骨が悲鳴を上げ、折悪しく翻ったマフラーが顔に覆いかぶさって視界をさえぎる。不意に腹に突きつけられた冷たい感触に、早瀬は小さく悲鳴を上げた。 「Shit! 急に出てくんな!」  重たい何かを腹に落とされ、早瀬はアスファルトの上で潰れた。なんとかマフラーをのけて見ると、載せられていたのはデリンジャーが抱えていた子供だった。体勢から察するに、今ので頭は打っていないようだが、代わりに肘をこっぴどくぶつけたらしい。意識が戻る様子は無く、その利発そうな顔立ちは大きくしかめられて台無しになっている。小学校高学年といったところだろうか? 目が覚めればたぶん大泣きするだろう。早瀬は子供に同情を覚えた。  子供をゆっくりと地面に横たえ、何とか立ち上がる間、デリンジャーは油断無く辺りに目を配っている。時折こちらに向ける目はむやみに鋭いが、ラルヴァを前にしているとあってはそれも無理ない話だろう。まずは緊張をほぐすことが大事だ。早瀬はデリンジャーに向かって、余裕の笑みを浮かべて見せた。 「大丈夫か? なんだか知らないが加勢するぜ! なーにこう見えてもおれは醒徒会の一員――」  銃声。振り向きもせず放たれた弾丸が早瀬の耳をわずかにこそぎ取り、闇の中で何かを撃ち落としている。金属の軋る音が辺りの暗闇を縫い、早瀬の背筋に汗が伝った。デリンジャーは早瀬に目を向けず、ただ小さく口を動かした。 「いいからさっさと助け呼べ。こっちは両手ふさがってんだ」  形無しである。早瀬は携帯を取り出すと、醒徒会に向けてアラートを発した。醒徒会専用モデルとして支給された携帯には無数の追加機能が付属しているが、緊急通信はその中でももっとも重要なものだ。  コール1回で反応。 「もしもし早瀬くん? 状況を報告してちょうだい」  生徒会副会長、水分理緒。深夜だというのに、その対応はきわめて素早い。あるいは副会長も、既にこの騒ぎに気がついていたのかもしれない。さすがだ。ここは醒徒会役員らしい行動をとらねば。  早瀬はデリンジャーに目をやった。まず報告すべきはラルヴァが出たこと、およびその詳細だ。それを詳しく知っているのは最初に遭遇したデリンジャーだ。早瀬はデリンジャーに携帯を突き出して目配せした。すぐさま意図を理解したデリンジャーが口を開き、  即座に携帯を打ち抜いて破壊した。  破片が飛び散ったが、地には落ちない。宙を走った銀色の鋼線が、全て空中で捕捉してしまっている。直前で手を引いた早瀬の腕を鋼線が掠め、肌に赤い筋を穿った。こそぎとられた皮膚が、地に落ちて小さく湿った音を立てた。  痛い。だがはやせはそれどころではなかった。連絡不能。携帯は破壊され、予備は無い。いまのやり取りで副会長が状況を察してくれる事を祈るしかない。早瀬はデリンジャーに怒りの目を向けた。 「いきなり撃つってなんなんだ?」 「腕ごと持ってかれたほうがよかったか?」 「説明になってねえよ! 撃つならラルヴァだろ? 携帯じゃなくて!」 「騒ぐな間抜け。ラルヴァを撃ったんだ」 「じゃあ何で携帯吹っ飛ぶんだよ? おかしいだろ」 「ごちゃごちゃうるさい。いいからさっさと餓鬼拾え!」  言葉を交わす間にも、デリンジャーは周囲に目を配っては引き金を引き、触手の接近を阻んでいる。早瀬は改めて辺りの闇に目をやった。あちこちで閃く銀光は、いまや数えることも困難なほど。そこかしこで軋る金属音が、次第に距離をつめてきている。ふとした考えが、早瀬の脳裏に浮かび上がった。 「あれ、もしかして俺たち囲まれてる?」  ああ、とデリンジャーが満面の笑みを浮かべた 「せいぜい助けてくれよ、何が出来るか知らないけど」      餓鬼がラルヴァで遊んでた、とデリンジャーは言う。 「餓鬼ってこれ?」 「これだよ」  子供の体を、デリンジャーはつま先で小突いた。 「『ラルヴァで遊ぶ』ってのはどういう意味だ?」 「コイツに餌やってたんだよ」  デリンジャーは辺りの暗闇を指した。 「とりあえず気絶させて、ラルヴァの方にも一くさり叩き込んだ。そしたらこのざまだ。なんだか知らないがバカみたいにでかくなりやがった。撃つたんびにでかくなりやがる。しょうがないから逃げてるんだ」 「ああ、だから捨ててないのか」 「大事な証人捨てたらアイスに怒られると思ってな」  デリンジャーがわずかに頬を膨らませた。 「なるほどな……あれ、通報はしてないよな?」 「してない。するまでも無いと思ったんだ、最初は」 「元の大きさってどのぐらい?」 「猫か兎かってところだな」  ――なるほどねえ。  早瀬は思考をめぐらした。  状況は芳しいとはいえない。このラルヴァがどれほどの速さで成長しているにせよ、いい加減拳銃でどうこう出来るサイズには収まっていないだろう。そんな相手に早瀬の蹴りが効くはずも無い。実体があるからカテゴリービーストなのは間違いないが、そこから先は何もわからない。とにかく間違いないのは、相手は暗闇をものともしておらず、こちらを殺す気満々な事。  包囲の輪は見えないところでじりじりと狭まり、殺気はいまや肌に感じられるほどになっている。辺りを照らす光が瞬き、ギイギイと音を立てて街灯が揺れた。  早瀬は目をむいた。  何重にも絡み付いた鋼線が、街灯を根元から揺さぶっていた。だが力が足りないのか、引き倒すには至らない。灯りの前に、触手が雲のように渦巻いた。微細鋼線が街灯のガラスを貫通し、ライトを破壊。デリンジャーと早瀬の周りに暗闇が落ちた。  金属同士の擦れる音が、勝ち誇ったようにそのトーンを上げた。もはや機を見る必要も無いとばかりに、数限りない銀線の群れが、余すところなく二人を押し包んだ。物量による飽和攻撃。全てを打ち落とすことは、どんな達人でも不可能だ。 「終わりかよ!」  ――このままだとな。  苦虫を噛み潰して銃弾を装填するデリンジャーを横目に見ながら、早瀬は内心ため息をついた。  力を使うなら今しかない。早瀬はみなぎる魂源力の全てを解き放った。  世界が、静止した。      早瀬速人は、自身の能力を次のように理解している。すなわち、「『加速』とは、時間を稼ぐ能力である」と。  早瀬の『加速』は、ただ『動きを早める』といった範囲にとどまらない。魂源力《アツィルト》の作用によって、早瀬速人という生命現象の全てが加速されている。脳から発された指令は通常のそれをはるかに逸脱した速度で神経のなかを走り、筋繊維は常に無い速度で収縮。人間の体を複雑な化学反応のドミノ倒しとして見れば、早瀬のドミノは通常の何倍もの速度で倒れるのだ。  これによって、早瀬は三つのものを得る。すなわち、加速された動作と、知覚能力、そして状況を判断するための思考時間である。  ラルヴァや異能者との戦いには、往々にして予測不可能な要素が付きまとう。あいまいな情報を元にして、瞬きにも満たない時間で判断する事を強いられる。そうして下した判断で、いとも簡単に生死が分かたれていく。『未知』であることは、それだけで刃や炎に負けずとも劣らない危険を孕んでいるのだ。  だが、早瀬速人には、『未知』を恐れる必要が無い。  相手の攻撃を易々とくぐり、スローモーションの世界で心行くまで相手を観察、分析。もし致命的な隙を見つければ、加速した蹴りを叩きつけて粉砕。仮に弱点を見出せなくても、健脚とスピードに訴えれば安全圏まで間違いなく逃亡出来る。そうして持ち帰った情報は、何よりも頼もしい盾となって、仲間の未来を守ってくれる。加えて、高速化された思考能力を持ってすれば、早瀬の頭でもそれなりに有効な作戦を考え出すことができる。  伊達に醒徒会役員を勤めるわけではない。稼ぎ出された時間の中で、早瀬速人は皆を救う策を見出すのだ。    世界が止まったといっても、それは正確な表現ではない。  触手が叩き割った街灯のガラスは、今もゆっくりと地に降り注ぎつつある。周り中に張り巡らされた無数の微細鋼線は、のろのろと宙を這って二人を貫こうとうごめいている。歯を食いしばったデリンジャーの視線は辺りを掃き、どの触手を打ち落とすべきかを探っている。実に頼もしい。  早瀬はライトを振って、辺りの様子を探った。じりじりと突っ込んでくる触手を一本二本と数え、その一つ一つを丹念に精査。しばらく考えをめぐらして、早瀬は会心の笑みを浮かべた。  ――間に合う!  触手による三次元包囲を、三人そろって無傷で切り抜ける方法。並の人間なら実行に移す前に串刺しになるだろう。だが、早瀬速人とデリンジャーが手を組めば、それが充分可能になる。実のところ、じっくりと答えを確かめる余裕まであった。  早瀬はデリンジャーに目を向けた。『加速』を切ることも考えたが、デリンジャーの目を見てそれは不要だと知れた。跳ね上がった眉、丸く開かれた口。どうやら早瀬の動きを逐一捉えているらしい。ガンスリンガーならではの驚くべき動体視力。早瀬は相手がデリンジャーだったことに感謝した。これほどの動体視力を備えていなければ、やり取りに齟齬が生じる可能性があった。  早瀬は宙の一点を灯りでポイントした。即座に意図を理解したデリンジャーが弾丸を発射。周囲のものに比べて圧倒的に早い速度で飛来した銃弾が鋼線を貫き、破断、包囲にわずかな隙が生じた。  別の方向に灯りを振り向け、これまたデリンジャーが触手を破壊。続く三発目と四発目が発射できるかどうかは危うかったが、デリンジャーの腕は確かに目標を撃ち抜いている。見事だった。  これで、全て早瀬の見立てどおりになた。触手を四点打ち抜けば、充分くぐれる隙間が出来る。  早瀬は子供をすくい上げた。  数十キロを持ち上げて背骨が悲鳴を上げたが、タイミングには問題なく間に合った。息を整え、空に向かって身を投げる。デリンジャーの銃撃が作り出した直径ほんの30センチほどの隙間を、早瀬と子供はまっすぐに通り抜けた。  抱えた子供をかばい、背中から着地。阻む触手は存在しない。既にデリンジャーが打ち落としてしまっている。アスファルトが背中を削ったが、早瀬は悲鳴を押し殺した。  ぼやぼやしている暇は無い。合図をおくるまでもなく、既にデリンジャーはこちらに向かって駆け出している。地面を叩いて身を起し、早瀬はデリンジャーに手を伸ばした。大胆に飛び込んだデリンジャーの手を発止とつかみ、狭まる隙間から安全圏へ引っ張り出す。体を支え、勢いを殺さず宙で一回転、着地。手に伝わった柔らかな感触に早瀬は顔を赤らめ、デリンジャーのブーツが地を打ち、触手の隙間が通り抜けられないほどにその大きさを縮めた。いまや、触手の包囲は何も捉えてなどいない。  早瀬は加速を解除した。  世界が速さを取り戻す。全身に引き絞るような痺れが走り、早瀬は思わずうめき声をもらした。魂源力が切れ果て、過剰運動に全身の筋肉が焼け付いている。街灯から降り注いだガラスが頬をわずかに削いだが、それを気にするどころではない。懸命に意識を保とうと頭を振った早瀬の首が、急に強い力で引っ張られた。デリンジャー。早瀬のマフラーを乱暴に奪い取り、地に落ちた子供に投げかけてガラスからかばう。首を絞められてむせる早瀬に、デリンジャーは獰猛な笑みを振り向けた。 「なんだ今のは。サーカスか? それともマトリックスか?」 「――必殺技だよ」  達成感が痛みを消していく。早瀬は子供を背負って立ち上がった。周囲の触手は動きを止めている。まるで事態が理解できていないかのよう。完全包囲を潜り抜けられた事で、少なからず動揺しているかのようだ。ちょっとは知恵があるらしい。早瀬は笑みを深めた。  とたんに全身に苦痛が走った。もう『加速』には入れない。さっきのようなアクロバットはもう種切れだ。  だが、絶望的かというとそうでもない。  早瀬はデリンジャーに顎をしゃくって、務めて気楽な声を出した。 「よし、じゃあ片付けようか」 「ズタボロの癖に調子にのんな。舞い上がりすぎだ」 「大丈夫。ネタはちゃんとある」  痛みをこらえ、早瀬は精一杯不敵な笑みを作ってみせた。 「普通の弾以外も出せるんだろ? こないだ俺に使った奴を試してくれよ」  眉をしかめたデリンジャーの掌に、これまでとは異なる弾丸が生じた。打ち振られた銃が迫った触手を迎撃し、再び闇へと追い返す。触手の攻撃には、先ほどまでの勢いは無い。 「何も変わんねえじゃねえか」 「今にわかるさ」  早瀬のライトが地を舐め、一つの小さな影を探り当てた。触手に当たって地に落ちた、デリンジャーの暴徒鎮圧弾。早瀬は快哉を上げた。理解が追いつかないといった様子で、デリンジャーが怪訝な顔を浮かべた。 「なんだありゃ」 「デリンジャー、この子供がラルヴァにやってた餌って何?」 「空き缶だ。――ああ、そういうことかよ」 「そういうことさ。コイツは見掛け倒しなんだ。小さな弾丸を食べて、大きく膨らんでるだけなんだよ」  先の観察で、早瀬は触手の先端に口器を見出していた。敵をかじりとるためか、あるいは何かを食べるための器官。ラルヴァを形成しているのは細い鋼線で、それらは闇の中に全体を隠している。銃弾を喰らう度に大きくなったとデリンジャーは言う。ならば、銃弾を食べているというのは打倒な考えだ。そして、銃弾のサイズは高が知れている。ラルヴァの現す姿は微細鋼線。小さな弾丸からでも、充分な長さを作り出せるほどに、細くか弱い金属線。  闇に隠れた化け物の正体は、糸で編まれた張子の虎だ。 「大体、見かけどおりならお前だってとっくにやられてるだろ? そこの街灯だって倒して食べてるはずだ。こいつにはたいしたパワーは無いよ。さっさと片付けちゃってくれ」 「だれが『お前』だ。アタシに指図すんな間抜け」  とうとうとまくし立てた早瀬の胸に重い衝撃が走った。デリンジャーが銃杷を叩きつけたのだ。身をくの字に折った早瀬をよそに、デリンジャーは身をかがめた。 「ほら、さっさとこれつけろ。にしてもだっせえなあ、これ」  子供にかぶせられていたマフラーを拾い上げ、ガラスを振り落として早瀬に差し出す。しかめっ面が、次の瞬間には破顔した。 「早くしろよ、ヒーロー。ここはアタシが片付けるから、さっさと餓鬼を助けてやれよ。それがおまえにゃお似合いだ」  早瀬はうろたえた。渾身のアイディアであったマフラーをダサいとけなされ、そしてデリンジャーにヒーローと呼ばれた。どちらの言葉も受け入れがたい。何かの聞き間違いではなかろうか。 「間抜け面さらしてないでさっさと餓鬼拾え。逃げ道はあたしが作ってやる」  デリンジャーが、地に転がる子供を軽く蹴飛ばした。相変わらず意識が戻る様子は無い。もしかしたら、目覚めるたびに恐怖と痛みで失神しているのかもしれない。早瀬は再び子供に同情した。  金属の軋る音が、再びその強さを増した。  間をおかずにほとばしった無数の暴徒鎮圧弾が、暗闇に吸い込まれて消えていく。もはや餌を与えてはいない。消し飛ばされていくだけの無駄な抵抗。状況は完全に逆転している。いや、それを言うなら、そもそも不利でもなんでもなかったのだ。  早瀬は子供を背負い、悲鳴を上げる全身に鞭を打って駆け出した。 「さっさと戻ってこいよ! お前の分も残しといてやるからな」 「それはちょっと遠慮したいなあ」  苦笑をもらし、次いで痛みに顔をしかめる。銃弾が銀光を叩き落す音の下で、早瀬はひたすらに安全圏を目指して駆けた。     「はい、お疲れ様」 「どうもっす」  水分の差し出してくれたスポーツドリンクは、むやみにおいしかった。  アスファルトに体を預け、空を見上げて息をつく。空を見上げても星は見えない。街灯の真下に寝転がり、黄色い光が目にいたい。ゆるゆると携帯を取り出そうとして懐を探り、もうそれが無いことにようやく思い至った。 「副会長、今何時ですか」 「二時……15分かな」  そんなに時間がたっていたとは。早瀬は思わず目を閉じた。心地よい眠気がせりあがってくる。路上で寝るのも悪くないという考えが、ゆっくりと早瀬の思考を塗りつぶしていく。早瀬は全身の力を抜いた。 「寝るな早瀬! こんなところで寝たら風邪引くぞ!」  顔面をばしばしとはたかれ、早瀬はたまらず身を起こして哀願した。 「誰だか知らないが頼む! 眠らせてくれ! 自分で言うのもなんだけど、俺は今日はよくがんばったほうだと思うんだ」 「うん、わたしもそうおもう。今日の早瀬はがんばったな」  鈴を鳴らすような声。それが誰のものか気付くや否や、眠気がさっと引っ込んだ。  醒徒会会長、藤神門御鈴は、そんな早瀬にねぎらうような笑みを向けた。 「醒徒会庶務の名に恥じない立派なしごとぶりだったぞ。よくやったな、早瀬」  重々しく頷くと、御鈴は早瀬の頭に手を伸ばした。思わず正座して頭を差し出した早瀬にくすくす笑いを漏らしながら、御鈴は早瀬の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でた。 「会長、あの、そういうのはちょっと」 「ん? こうすると早瀬は喜ぶって加賀杜が言ってたぞ。まあなんだ、とにかくがんばったな。よしよし」  抗議する早瀬をなだめるように頭をぽんぽんとはたき、水分がその様子を見て口元を覆った。  ――悪くない。  早瀬の心に熱がこみ上げた。思わずニヤニヤ笑いを浮かべそうになって、早瀬はどうにか口元を引き結んだ。自分がやったことが庶務の仕事かどうかはさておき、人に認められるというのはやっぱり悪くない。会長に撫でてもらえるとなればなおさらだ。 「よし。じゃああとしまつするか。あ、理緒、例の早瀬が助けたこどもってのはどうなったんだ?」  御鈴が声を上げ、それに水分が眉を曇らせた。 「それが、いなくなってしまって」 「は? いなくなったって、意識がもどったのか?」 「みたいです。あとで治療班に見せようと思ったんですけど、どうも勝手に帰ってしまったらしくて」 「うーん、くわしい事情をきこうとおもったんだけどなあ」 「目を離してしまってすみません」 「いや、理緒は悪くないぞ。逃げるその子供がわるい」  水分が深々と頭を下げ、所在なげな御鈴が、手を伸ばして水分を撫でた。  ――妙な話だ。  早瀬は思考をめぐらせた。  早瀬の見たところ、あの子供はそれなりに怪我を負っていた。後頭部に暴徒鎮圧弾を叩き込まれる衝撃は、早瀬の身でも耐え難い。ましてや子供の柔らかい頭蓋骨となればなおさらだ。それだけの怪我を負って逃げるのには何か理由があるのだろうか? そういえば、確かデリンジャーが言うには、あの子供はラルヴァに餌をやっていたらしい。ただの子供と片付けるには、何かときな臭い。ここの学生だろうか? 学生証でも拝んでおくんだったと、早瀬はいまさらながらに後悔した。 「じゃあ、今から子供をさがすか。うーん、眠いな。理緒、明日でいいかな」 「加賀杜さんと龍河さんに頼んで、区内の病院に連絡を入れてもらってます。かかれば見つかると思います」 「うん、じゃあそれでいいな。今日はもう解散にしよう。あ、早瀬はそこでねるなよ、風邪引くぞ」 「うっす。おやすみなさい、会長」 「うん、おやすみ」  正座のまま後ろに倒れ、そのまま地面に寝転がる。早瀬の様子を見て御鈴は笑い声を上げ、水分を伴ってその場を去った。  ぬるい夜風が、早瀬の頬をなでた。体がもう動かない。疲労の限界点は、いまや早瀬の中で次々更新されつつあった。  今度こそ甘美な眠りに身をゆだねるべく、早瀬はゆっくりと目を閉じた。  思いっきり顔面を踏まれた。 「んなとこで寝んな、間抜け」  うろたえながら見上げると、すらりと伸びた足が早瀬の視界に入った。編み上げのブーツから伸びる足はそのまま制服のスカートの奥へと伸び、逆光もあいまって中身は見えないがこれは中々の眺め――。  銃声。 「遺言は『パンツ拝めてラッキーでした』にしとくか」 「もうすこしマシなこといってしにたいです、はい」  神速で這いずった早瀬に、デリンジャーは冷たい銃口を向けた。だが銃口はすぐさま下げられ、変わりに不敵な笑みが取って代わった。早瀬の目を真っ向から覗き込んで、デリンジャーはひらひらと手を打ち振った。 「今日はありがとよ、そいつはお礼だ。とっときな」  言うだけ言ってきびすを返す。お礼が何のことかわからず眉をひそめた早瀬は、ふと自分のマフラーに目をやった。  ところどころガラス破片が食い込んだ赤い生地に、新たに大穴が開いていた。 「お、ナイスデザイン……じゃねえよ! なにすんだこら、おい!」  だがデリンジャーの姿は既に無い。持って行き所のない怒りに駆り立てられて、早瀬はしばし丹念にマフラーにめり込んだガラス片を取り除く作業に没頭した。よれよれのマフラーを弄えながら携帯をまさぐり、無いことに気がついてうなだれた。  早瀬は立ち上って背を伸ばし、マフラーを首に巻きなおした。大きな穴の開いたマフラーの先端が、夜風にあおられてはためいた  ――このさい報告書も書いてしまうか。あいつ書かないだろうしな。  早瀬は寮へと足を向けた。疲労はしびれるほどだが、もはや眠気は吹き飛んでいた。  時刻は三時に至ろうかという辺り、夜はまだまだこれからである。 ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品投稿場所に戻る>作品投稿場所]]

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