【リトルクラウンサーカス 前編】

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[[ラノで読む>http://rano.jp/1721]]        0  少年は世界を嫌悪していた。  なぜこんなにも世界は醜いのか。  なぜこんなにも大人は汚いのか。  なぜ正しい人間が死んでいくのか。  なぜ自分は無力で小さな子供なのか。  なぜ人は人を傷つけるのか。  なぜ差別があるのか。  その全てに疑問を持って生きていた。  どれだけ正義を叫んでも、結局自分は世界を変えることができない。  何を言っても子供の戯言、世間を知らない子供のワガママで済まされてしまう。  何も出来ないで、ただ布団の中で悔し涙を流すだけだ。  そんな自分にも世界にも少年はうんざりしていた。  だから少年は何もかもを諦めた。  世界も、自分も、全てを投げ出そうと思っていた。 &bold(){荒神の手異聞 リトルクラウンサーカス}         1  視界に映るのは、席に座る子供たち。それを囲うのは真っ赤なテント。毒々しいまでにカラフルな装飾のされたそのテントの中は、どこかパノラマのように不思議な空間を作り出している。  彼はその舞台の中心でスポットライトを浴びていた。派手な七色の服に、顔は白塗り真っ赤なペイント、頭には魔法使いの帽子のような又の分かれた奇抜な帽子。  彼はピエロだった。このサーカス団の一番人気である。  この舞台の上でおどけたように大げさなアクションを振りまき、観客席の子供たちを笑いの渦に巻き込んでいた。  だがそんな観客たちの笑顔に囲まれながらも、彼自身は表面上だけしか笑っていなかった。 (くだらねー。一体俺はいつまでこんな仕事やってりゃいいんだ)  彼の名前は葦原《あしはら》悠介《ゆうすけ》。もう三十を越えているのに、ずっとこんな風にサーカスで働いていいのかいつも悩んでいた。勿論最初はサーカスというものに憧れ、夢を持って入団した。  厳しい下積みを経て、ある種花形でもあるピエロの役を貰うことができた。だが、夢も叶ってしまってそれが“日常”になってしまえば一気に色あせてしまう。  ただ毎日の縁起を業務のようにこなしていくことに葦原はうんざりしていた。  情熱がなくなった、簡単に言えばそうなのだろう。  この葛谷《くずや》サーカスはいつ潰れてもおかしくはない規模の小さい劇団だ。そもそも今の子供たちはサーカスというものに興味がないのだろう。今回も空席が目立ち、チケットは売れ残っている。テントも小さな物のため、あまり派手な出し物は出来ないせいかもしれない。今回も町の空き地で無理を言って公演させてもらっているのだ。誰も彼らのような名の知れないサーカスを望んではいない。  だが今いる子供たちはみんな笑っている。  それは葦原のピエロとしての技量があるためであった。例え少ないとしても、そこにいる観客を満足させることが出来る葦原はやはり才能はあるのだろう。しかしもう、子供たちの笑顔見ても葦原の心に何の感動も与えなかった。ただセオリーどおりのことをこなしていくだけである。  だが、そんな子供たちの中で、一人だけ葦原の目に留まった少年がいた。  七、八歳程度の小さな男の子。一見すると女の子のようにも見えるほどに線が細く弱弱しい。どこか作り物染みた、まるでお人形のような少年だった。その少年が葦原の目に映ったのは彼が笑っていなかったからだ。  顔を伏せ、目をこちらに一切向けていない。頬をぴくりともさせずに、まるで時間が過ぎるのを待っているかのようだった。 (なんだあのガキ。なんのためにここに来てるんだ。なんだか調子狂うな)  葦原は心の中で毒づきながらもその少年が気になっていた。どんなジャグリングも、どんな玉乗りも、どんな客弄りも、どれだけおどけても彼は一切笑わなかった。 (絶対笑わせてやるこのクソガキ――!)  葦原は、年甲斐もなく意地になっていた。        ※※※  少女は鼻の先に冷たいものが当たったのを感じ、ふっと空を見上げる。  真っ暗な夜の空から白い粒がたくさん落ちてきていた。冷たい空気に晒され、その白い粒は町の地面に落ちていく。 「雪――か。これは積もるかもね」  その少女は白い吐息をはきながらそう呟いた。  長い黒髪を後ろに結い、ポニーテールにして揺らしている。しかし毛先はこの雪のように白くなっていて、どこか神秘的な雰囲気もかもし出していた。その左手にはブレスレットが輝いている。  彼女の着ているブレザーは双葉学園という、|化物《ラルヴァ》と戦う異能者を育てる機関の制服であった。  彼女の名は難波那美《なんばなみ》。その双葉学園の高等部三年生である。 『那美ってば雪を見るの初めてかしら?』  その声はそこに那美以外の人間はいないのに聞こえてきた。その声は那美の頭に直接話しかけているのだ。那美はいつもの通りに適当に相槌を打つ。 「いや、学園に来る前はそれなりに見たわ。ただ、都心の学園じゃ見ることはないから少し得した気分ね。あんたこそ雪を見るのが初めてじゃないのミナ?」  ミナと呼ばれた彼女の頭の中の人物はくすりと笑って 『私は何百年も生きています。雪だってたくさん見ました。こんなのよりもっとすごい吹雪も』  と言い返した。 「私より人生経験抱負だもんね」 『おばさん扱いだけはやめてもらえるかしら』  二人は頭の中でそう笑って対話していた。  これは那美がおかしい人物なので断じてない。那美の中にミナという存在がもう一人いるのだから。  だがそれは二重人格ではなく、ましてや人間でもない。  ミナはラルヴァだった。那美に取り憑いている(この表現が的確かどうかは不明)ラルヴァだ。那美の左手は事故によってラルヴァと融合してしまった。  それゆえにそのラルヴァの意思であるミナが彼女の精神に宿っているのだった。だから那美はラルヴァの力を制御するために四六時中左手に拘束具《リミッター》であるブレスレットをつけている。  ラルヴァに寄生される人間など珍例なため、学園にモルモット扱いされているものの、研究者であり両親をなくした彼女の後見人である我妻啓子《あがつまけいこ》のお陰もあって、今の彼女はそれに対して不満は無かった。  だが、たった一つ、今不満を感じていることがある。 「まったく、なんで私が裏切り者をとっ捕まえなきゃならないのよ」  それは彼女に課せられた任務だった。  学園から命じられた特別な任務。  それは学園を抜け出した生徒を追いかけ、捕まえること。ただ脱走しただけならば、刑務所などではないのだからそんな風に大げさに刺客を送ることはないだろう。  だがその脱走した生徒は異能者だった。それもとてつもなく強力で凶悪なもの。  その生徒はカテゴリーFと呼ばれる規格外の力を持った異能者だった。世界に害を及ぼしかねない力を持った存在。最悪であり災厄の力。  その生徒は何人もの生徒や教員を殺し脱走したのだ。そんな強大な力と凶悪な力を持った人間が世界に放たれてしまった。  並みの異能者では太刀打ちなど出来ない。そこで“|荒神の手《ゴッドハンド》”と呼ばれる力を持つ彼女がその刺客として送り込まれていたのだ。  ラルヴァを倒すための機関が人間を相手にするなんて皮肉なことだ。那美も人間を相手にするこの任務を最初は受ける気は無かった。だが、化物と融合し、半ばお情けで飼われているような自分の立場でそんな風に断れるわけもない。 (先生に迷惑をかけたくないしね――)  自分が何か問題を起こせばきっと、恩人である我妻にも害が及ぶだろう。それだけは避けたかった。そんなことを本人に言えばきっとビンタでもされて説教されるのだろうが。 「ともかく、その生徒がこの町に逃げ込んだって情報が確かなら、ここで決着をつけてやるわよ」  那美はポケットから生徒手帳を取り出した。だがそれは普通の生徒手帳ではなくあらゆる情報やラルヴァの感知機能のついたハイテクな端末である。  そこから那美は任務に必要な情報が入ったファイルを開く。  すると、そこには一人の女生徒の顔写真とプロフィールが出てきた。 〈早乙女玲子《さおとめれいこ》〉  そう名前欄に書かれている。前髪を揃えている艶やかな黒髪に、綺麗な顔立ち。一見美人できっと異性に好かれるのだろうと思えるのだが、那美はその彼女の目を見て、鳥肌が立つのを感じた。  見覚えのあるその瞳。  深淵のようなどろどろと黒く濁った瞳。  それは世界を憎む者の眼だ。  かつて自分がしていた眼。事故に合い、ラルヴァに寄生され、視界に映る全てを憎んで、何もかもを壊したいと思ったあの日の自分の目と同じ。  恐らく自分も、我妻に会わなければこんな眼をしたまま実験体として死んでいたのかもしれない。そう思うと那美は玲子を他人のように思えなかった。  それまで彼女は優等生らしく、表向きは今まで何も問題行動を起こしたことはない。だが、数週間に何の前触れもなく異能が覚醒し、何人もの命を奪っていった。  何を思い、何をもってして玲子が人を殺して、逃げ出したのか。それは那美にはわからない。きっと、理解できないだろう。  だが、それでも那美は任務としてではなく、純粋に玲子の凶行を止めたいと思っていた。そのことを彼女は自覚していないが。 『早く見つけないと大変なことになるでしょうね』 「わかってるわよミナ」  雪の降る町を彼女はマフラーを巻きながら歩いていく。この寒さだ、持久戦になるのは避けたい。体力が人並み以上とはいえ限界がある。  だがそれも玲子も同じのはず、いや、どこか温かい場所に隠れているのかもしれないが。ともかく一般市民に被害を出させるわけにはいかない。  那美は端末にインストールされている魂源力《アツィルト》感知ソナーを展開させる。魂源力に反応するものだが、せいぜい半径二十メートル以内程度の異能者を曖昧に感知するだけなのであまり当てには出来ない。  那美は辺りを見回す、なんてことのない住宅街。同じような家が規則正しく並んでいる。夜の闇に照らす家の窓から漏れる光は、こうして一人で歩いている那美を少し寂しくさせていた。 『なに、那美ったらホームシックかしら?』 「そ、そんなんじゃないわよ。ただ寒いし早く帰りたいなーって。だから早く終わらせるわよ」 『はいはい、そういうことにしておきましょう』 「本当だからね、先生に会いたいとか思ってないからね!」  そうミナに頭の中で話しかけながらずんずんと那美は歩を進めていく。すると、何だか騒がしい音が聞こえ、角を曲がったところが明るく照らされていた。  那美はなんだろうかと急いでそこに向かうと、空き地にサーカスのテントが張られていたのだった。  寂れている看板には“葛谷サーカス”と書かれ、中から笑い声が聞こえてくる。 「わあ、サーカスだ! 初めて見た!」  那美が思い描くようなサーカスのテントよりも大分こじんまりとしているが、それは間違いなくサーカスのテントであった。  生まれてはじめてみるサーカスのテントを前にして那美は少し心が躍っていた。まるで幼い子供のように目を輝かせている。そんな珍しい一面を見せる那美に、ミナは微笑ましそうにこう言った。 『中入ってみる?』 「え、いや、でも。早乙女の奴を追わないと。私たちは遊びに来たわけじゃないし……」  那美はなごり惜しそうにテントを見つめるが、この間にも玲子の脅威が町に迫っていることを考えるとのんびりしていられない。それにチケットもないのだから入ることはできないだろう。 「うう、さよならサーカス!」  那美は諦めて、そう言いながらテントの前を走り去っていく。            ※※※  早乙女玲子は夕食を楽しんでいた。  この町の住宅街のなんでもない一つの家、その家のリビングで玲子は椅子につきながらテーブルの上のハンバーグを食べていた。 「なかなか美味しいわね。他人の家の料理って癖があるからあまり合わないと思ったけど」  長い髪を耳にかきあげ、玲子は美味しそうにハンバーグを口に運んでいく。 「空腹は最高の調味料ってところかしら。温かいお味噌汁なんかあったら最高だったんだけどね」  料理で寒さを癒すことはできないので、玲子はエアコンのスイッチを入れて暖房を入れ始めた。 「これでよしっと」  そう言い再びハンバーグを食べ始める。  玲子はとてもリラックスした様子でこの家でくつろいでいる。だがここは彼女の家ではない。まったくの赤の他人の家であった。 「しかし、この臭いはどうにかならないのかしら」  そう独り言を呟き、玲子はリビングに転がっている“もの”をその冷たい眼で睨みつけた。  そこにはこの家の住人である夫婦と、そしてまだ小さな子供が床に転がっていた。だが眠っているのではない。  彼らの眼や口といった穴という穴から血が洪水のように溢れ出ていた。どうみても絶命している。とてつもない苦しみを味わったようで、その死に顔は壮絶なものであった。血の臭いが混じった死臭が部屋に充満している。  そんな死体が転がる中を、玲子はまるで、せいぜい虫が死んでいるくらいの調子で夕食を進めている。この彼女が食べているハンバーグもこの一家の夕飯なのであった。玲子は学園から逃れた後に、空腹を覚え、この一家を玲子の持つ異能《ちから》で皆殺しに、その空腹を満たしたのだ。  ただ食べ物を食べるためだけに、人を何人も殺す。それが早乙女玲子のスタンスであった。もはや彼女の心は人間のものとは一線を隠してしまっている。人間が持ちえる倫理観は彼女に通用しない。 「にゃー」  そんな死体の転がる凄惨な空間の中に、間抜けな鳴き声が響いた。  玲子がその方向に眼を向けると、子猫が一家の死体を見つめて不思議そうに首をかしげている。主人たちの死を理解できていないようであった。 「飼い猫か。おいで、ほら、お食べ」  玲子はハンバーグの切れ端を投げてよこした。猫は嬉しそうにそれにがっついている。玲子はそれを愛おしそうに眺める。 「動物はいいわ。人を裏切ったりしない。嘘もつかない。人間なんて、みんな死んじゃえばいいんだ」  玲子はそう呟きながら、ふと、外が騒がしいのに気づき、少しだけ窓のカーテンを開けた。まだこの一家を殺したことを誰にも気づかれてはいないだろう、そういう自信はあったのだが、それでも念のため彼女は外を覗き見た。  すると、少し離れたところからテントの先っちょが目に入る。 「サーカス? こんな時代に?」  そのサーカスのテントから子供たちの笑い声が聞こえてきた。  それを不快に思いながら、玲子はこの家に置いてあったジャンパーを着込み、そのまま玄関に向かう。 「うるさい声ね。まあいいわ。私は私のやるべきことをやるだけ」  玲子は悪魔のような微笑を浮かべ、雪の降る町へ赴いた。                2  葦原がどれだけ道化の演技を続けても、少年は笑うことがなかった。  もう自分の演目の時間も終わりに近づいている。彼に出来ることはもう何も無い。裏で猛獣使いの吉田が「時間過ぎてるぞ、そろそろ交代だ」と、声には出さず口の動きだけで葦原に伝えた。読唇術を心得ている葦原はそれを理解する。だがまだ変りたくはなく、それを無視し演劇を続けようとした。 (こんな中途半端に終われるか。あのガキだけまだ一回も笑ってない)  葦原は自分でもわからない感情に突き動かされていた。たった一人の少年のために必死になっていた。なぜだろう。少しだけ昔のような熱を取り戻しているかのような感覚を葦原は覚えていたのだ。  一つ一つの芸に身を入れ、感情を込めて演技を進める。  それでも少年は無反応だった。光の無い焦点の合わない瞳でぼーっとこちらに顔を向けているだけ。彼の周りを見ても、彼の親や友達は見当たらない。ならなぜ少年はここに来ているのか。なぜ楽しんでもいないのにわざわざサーカスに足を運んだのか。葦原は少年のことが気になってしょうがない様子である。  だが、それに見かねたシルクハットの団長がとうとう止めに入ってきた。 「さあお調子者のピエロの演技はこれで終わりだよ。さあ、お次は猛獣使いによる火野枠繰りです! お楽しみに!」  そう言って葦原を奥へと下がらせた。団長の判断は正しかった。長い時間していたため、もう既にピエロの演技に子供たちは飽きはじめていたのだから。  それに気づいた葦原は、大人しく控え室に入っていく。最後に横目で少年のほうを見るが、やはり猛獣使いの出し物を見ていても彼の感情に変化はないようであった。 (まったく、最近のガキはよくわかんねーな)  彼は控え室では道化の笑顔を解き、ごく普通の三十歳の男に戻っていた。派手な格好や派手なメイクはそのままだが、このすれた表情のこの男があの舞台上のピエロと同一人物だとはとても信じがたいだろう。  葦原はタバコに火をつけながらなぜ自分があの少年にあそこまで固執していたかを考えていた。 (そうか、あれは俺だ。ガキの頃の俺の目にそっくりだ)  葦原は自身の少年時代を思い出していた。世界に何の希望も抱いていなかった少年時代。学校に行けば無能だといじめられ、家に帰れば母親はずっと泣いていて、父親は彼を殴りつけていた。  この先もずっと何もいいことはない。自分の人生はきっとずっと灰色のままだ。  だったら世界なんか滅びてしまえ。  何度そう心の中で願ったかわからない。  だがそんな葦原の灰色の世界を一変させたのがサーカスであった。  故郷の町にやってきたサーカス団。そこで葦原は初めてサーカスというものを見たのであった。そのサーカス団は初回で無料チケットを配っていた。そのチケットを配っていたピエロを見て、葦原はサーカスというものに興味を引かれたのであった。そしてその豪華で巨大なテントの中を潜った時、そこに別世界を葦原は見たのだ。  まさにそれは楽園のよう。  猛獣に小人。  ワニ女に空気男。  手汗を握る空中ブランコに綱渡り。  様々な曲芸が彼の心を掌握していた。葦原は生まれて初めて心からの感動というものを覚えていたのだった。瞬きするのも忘れ、眼を離すことなどとてもできなかった。  そして何より彼に影響を与えたのはあのチケットを配っていたピエロだった。小太りで愛嬌のある白塗りのメイクで、彼は舞台の上に立っていた。  彼はおどけた調子で芸を初め、一言も言葉も発さずパントマイムだけで観客たちの心を掴んでいた。子供たちは大声でピエロの行動で笑い、葦原もいつしか自然に笑顔になっていた。  葦原はその時気づいた。自分が笑ったのが一体何年ぶりなのかを。  自分が笑っていることに気づいた葦原は、自然と自分の瞳から涙を流す。楽しいはずなのに、なぜ涙を流しているのかは葦原自身にもわからなかった。  だが葦原は自分が見て感じてきたあの灰色の世界は、ほんの一部でしかなかったのだと理解した。  世界には、こんなにも素晴らしいもので溢れているのだ。  葦原が涙を流していることに気づいたその小太りのピエロは、彼の下に近寄って手を握った。葦原が驚きながらそのピエロの行動を見つめていると、ピエロは手を離し、葦原に手を開くように促した。  葦原が恐る恐る手を開くと、ぽんっとその手から薔薇の花が出てきたのであった。その瞬間周りの観客の子供たちは大きな驚きの声を上げて、みんな笑っている。簡単な手品だが、子供だった葦原にはそれはまるで魔法のようにも見えた。  そしてピエロは優しく葦原の頭を撫で、舞台へと戻っていった。  少年だった葦原にとってそのピエロは道化ではなく、聖者のように思えたのだった。  この時葦原は決心していた。いつか大人になったら、サーカス団に入り自分もピエロとして子供たちに笑顔を与える人間になるのだと。  そしてそれから数年後。葦原は劣悪な家庭環境から抜け出し、夢を叶えてサーカス団のピエロになったのだった。 (なのに、なんで俺はこんなに不安なんだろうな)  葦原はタバコの煙吐きながらそう考えていた。道化の仕事はきちんとこなせているし、ミスだってほとんどない。  だが、同年代の人たちはみんな結婚したり子供がいたりとしているのに、自分はこんな風にいつまでも派手な格好をして派手なメイクをして、子供騙しの芸を続けていていいのかと焦っていた。  そして、こんな考えが頭によぎっている今の自分は、子供たちを笑わせるピエロに相応しくないのだと、自分が一番よく理解していた。 (潮時かもな)  そう心の中で呟きながら、葦原はタバコを灰皿に押し当て火を消す。だが、そんな風に思う葦原の脳裏にはあの笑わない少年の顔が張り付いている。  あの少年の笑顔を、葦原は見たいと思っていた。  だが、そうこう考えているうちにサーカスは全ての演技を終え、名残惜しくも閉幕していった。        ※※※  サーカスのテントから離れ、那美はひたすら魂源力ソナーをぶんぶんと振り回して、玲子の行方を捜す。  雪の降り方が激しくなっていき、少しずつ地面に雪が積もり始める。  寒さで指が震えていく。両手に手袋をつけているが、それでも足りないくらいだった。 『那美。少し休みましょう。あまり気を張るのはよくないわ。万全じゃなければもし早乙女玲子を見つけても太刀打ち出来るかどうか……』 「何よ。やけに自身ないじゃないミナ。私は大丈夫よ、それに早乙女はきっと私たちがこうしている間にも何をしているかわからないわ」  早乙女玲子は悪魔だ、そう那美は教師たちに言われていた。自分も怪物だの化物だの、挙句の果ては荒神だのと言われてきたが、玲子は心も非情で冷酷な人間で、まさに悪魔のように人の命をなんとも思わないと教えられた。  とても一人の女子高生を指して言う言葉ではない。だが、現に玲子は学園の関係者を何人も殺している。  だが那美はその玲子に殺された人たちに違和感を覚えていた。  多くの死者の中、一番多かった犠牲者は兵器開発局という、学園付属の研究機関の研究者たちだった。  自身がラルヴァと融合した稀有な例として、兵器開発局の研究の対象にされたこともあって、那美はあの機関が少し異常なものだと感じていた。 あそこはまともな研究なんてしていない。接した研究者のほとんどが人間らしい感情を持たず科学に狂信している者ばかりだったからだ。  本来玲子と何の接点もないはずだ。  ただ、あるとすると玲子の異能関係だろう。那美は開発局が玲子に対して何らかのアクションを起こし、そして殺されたのだろうと予測していた。  自分と同じモルモット扱いをされたのかもしれない。人間扱いされず、悪魔と呼ばれた少女。早乙女玲子。  それは那美の想像の域を出ないが、もし那美が我妻に出会わなければ、玲子のように世界に牙を剥く存在になっていたかもしれない。  玲子は、那美がなっていたかもしれない可能性の存在。  今の那美を思えばそんな可能性があったことは考えたくは無い。だが誰でも、どんな人間でも世界に憎しみを抱くきっかけは存在するのだ。  それを那美は痛いほど知っている。 『那美。あなたは早乙女玲子と違うわ。違う人間よ。あなたが何かを背負うことなんてないのよ』 「わかってるわよミナ。そんなんじゃないさ、そんなんじゃ……」  少しだけ感傷的になっている自分をミナに悟られて、那美は玲子の境遇に対して考えることをやめた。たとえ彼女に何か理由や動機があったとしても那美のやるべきことに変りは無いのだ。  たとえどんな理由があろうと玲子のしたことは許されることじゃない。開発局の研究員だけではなく、何の関係も無いであろう教員や生徒たちも巻き添えを食って何人も死んでいるのだ。彼らの無念を思えば足を止めるわけにはいかない。  雪道を歩き続ける那美は道路に置かれた自動販売機を見つける。怒りと焦りと同情の混じったもやもやとする感情を落ち着かせ、身体を温めようと缶コーヒーを買った。  プルタブを開け、那美はコーヒーを口に含んでいく。少し苦めの味が口内に広がり、胃の中に温かさが広がっていく。 「こういう寒い中で飲むホットコーヒーって凄くおいしいよねえ」 『そうね。砂漠にオアシスの逆バージョンってところかしら』  そうして一息ついた那美は、何か妙な臭いが町に漂っていることに気づいた。そして、その臭いは那美のよく知るものであった。 「ミナ、この錆びた鉄のような異臭は……」 『ええ、間違いないわね……』  那美は駆け出し道路の角を曲がる、するとそこには三人の若者が顔中から血を洪水のように流して雪の中に沈んでいた。苦痛に顔を歪ませ、おびただしい血があたりに飛び散っている。  確認するまでも無く彼らは絶命している。血が白い雪ににじみ、不気味で異質な雰囲気を町に作り出していた。まさにその光景は地獄のよう。サーカスがいる平和な町が恐怖と死に染まっていく。  那美は缶コーヒーを握った左手に力を入れる。するとスチールの缶は粉々に砕け散ってしまった。  その瞬間彼女の持っていた魂源力ソナーが反応を示した。つまり近くに異能者がいるということである。 『那美、近くにいるみたいよ。気をつけてね』 「わかってるわよ」  那美は静かに感情を押し殺すようにそう呟く。  だが、その表情はまさに荒ぶる神のように憤っていた。          ※※※ 「ねえちょっとそこの姉ちゃん。こんな雪の夜に一人でどこ行くの?」  玲子が雪の降る町を歩いていると、ガラの悪い三人の若者にそう絡まれてしまった。美しい容姿を持つ玲子は、学園にいるころからもこの手の人間に絡まれることが多々あったので、彼らを無視しそのまま通り過ぎようとした。 「おい、無視すんなよ」  だが若者たちはへらへらと笑いながら素通りしようとした玲子の腕を掴み挙げた。下卑た笑い顔の彼らを、玲子はただ虫ケラを見るような眼で睨みつけているだけであった。  そんな玲子の態度が気に喰わなかった若者は、ぎりぎりと彼女の腕を締め付けている。 「おいおい。そんな眼されると俺らも怒っちゃうよ。いいじゃん、こんなとこほっつき歩いてるなんてそっちもその気なんだろ」  三人の若者は玲子を囲い、壁際に追い詰める。だが、実際に追い詰められているのは彼ら三人のほうだということに彼らは気づいていない。  玲子はふうっと溜息をつき、面倒だなという風に瞼を閉じた。 (まったく、男ってなんて気持ち悪いんだろう。どうしていつもこんなに高圧的なのかしら)  そう思いながらゆっくりとその三人のほうに唇を向けた。男たちはそれを見て自分たちの言いなりになるのだと勘違いしたが、そうではなかった。  玲子はその口から息を吹き出していたのだ。  玲子がそうして息を吹くと、口から真っ黒な白い粒が大量に溢れ、空を舞い彼ら三人を囲っていった。  まるでそれは黒い雪。  天から降る白い雪に混じったその黒い雪は幻想的な雰囲気で、御伽噺の世界のようであった。 「な、なんだこりゃ」 「黒い……雪?」 「手品か?」  そんな暢気なことを言う三人を、玲子は殺虫剤をかけられ死にゆく虫たちを見るような眼で見つめていた。 「じゃあね。害虫」  その言葉を聞いた若者が、何かを玲子に言おうとしたが、その行動をとることはもう二度とできなくなっていた。  声が出ない。  彼ら三人はとてつもない苦痛を身体全身に感じ、悲鳴を上げようとしても喉から何も声を発することが出来ないことに気づく、そしてじぶんたちの死期を悟った。 「あ……が……」  彼らは何も出来ないまま、顔中の穴からごぽごぽと血を溢れ出させて地面に倒れこんでいった。あふれ出る血は積もる雪を赤く染め、玲子は汚らしい害虫の血が純白な雪に混じっていったのを不快に感じているようで、眉を少し歪めている。玲子が吐き出した黒い雪もゆっくりと地面に落ち、まるで幻のように消えていってしまった。  この黒い雪が玲子の異能の正体である。  玲子は自身のその力を“|黒死の雪《イビル・スノー》”と呼んでいた。   その黒い雪に触れた人間は、彼らやあの家の住人のように血を吐き出して苦痛の中死んでゆく。その黒い物体が何なのか玲子も理解してはいない。異能によって生み出された未知のウィルスかもしれない。いや、ウィルスならば自分も感染してしまうだろう。免疫が出来ているのかもしれないが、玲子にとって異能の原理なんてものはどうでもよかった。  ただ、この異能のせいで自分が生きていた世界が狂ってしまったことを呪っていた。  死を操る力。  彼女の異能を研究していた開発局の人間は彼女の能力をそう評していた。ほんの数週間前に何の前触れもなく彼女はその異能に目覚めたのだった。  彼女はその時のことを思いだす。  仲の良かった同級生の女の子。それが彼女の異能の最初の犠牲者だった。いつものように一緒に昼食をとっていた。だが玲子の口から溢れ出た黒い雪に触れた瞬間彼女は死んだ。  血を吐き出し、彼女の目の前で絶命した。  血に沈む友人の顔を玲子は一生忘れることはできないだろう。いや、忘れる気もない。自分が犯した罪を玲子は自覚していた。  彼女の死は玲子に責任は無い、そう学園側に言われたが、玲子は自分自身を許すことが出来なかった。何度自分の命を絶とうしたかわからなかった。  そんな彼女の能力はカテゴリーF種と認定され、一時は軟禁されたりもしていた。  そしてそれから、兵器開発局は彼女に異能の研究を申し出たのであった。それが全ての始まり。玲子が世界に敵意を向けるきっかけになった出来事だった。 (私は絶対に許さない。開発局も、学園も、この世界そのものも)  玲子がそう考えながら歩いていると、突然彼女の持っていた学生帳型の端末が鳴り響いた。玲子が驚いてそれを取り出すと、その一機能であるラルヴァ感知機能“KANNAGI”のソナーが反応を示していた。その反応は大きく、上級以上のものであった。だが、同時に異能者の反応もある。ラルヴァと異能者が同時に存在する。これはおかしなことだった。 (この近くにラルヴァが? いや、こんな町中にこんな強大なラルヴァがいるなんて考えられない、だとするとこの奇妙な反応は――)  玲子はふと思い出した。ラルヴァの力を身体に秘めた強力な異能者のことを。 (まさかあいつが……。学園側もなかなか強烈な奴を追っ手によこしてくれるじゃないか)  玲子は理解した。  すぐそこに刺客が来ているのだと、ラルヴァの力を持つ彼女が来ているのだと。そして玲子はその場を全力で駆け出した。     後編へつづけ この作品は荒神の手のシェアで本人ではありません 問題ある箇所は治します ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]
[[ラノで読む>http://rano.jp/1721]]        0  少年は世界を嫌悪していた。  なぜこんなにも世界は醜いのか。  なぜこんなにも大人は汚いのか。  なぜ正しい人間が死んでいくのか。  なぜ自分は無力で小さな子供なのか。  なぜ人は人を傷つけるのか。  なぜ差別があるのか。  その全てに疑問を持って生きていた。  どれだけ正義を叫んでも、結局自分は世界を変えることができない。  何を言っても子供の戯言、世間を知らない子供のワガママで済まされてしまう。  何も出来ないで、ただ布団の中で悔し涙を流すだけだ。  そんな自分にも世界にも少年はうんざりしていた。  だから少年は何もかもを諦めた。  世界も、自分も、全てを投げ出そうと思っていた。 *&bold(){荒神の手異聞 リトルクラウンサーカス}         1  視界に映るのは、席に座る子供たち。それを囲うのは真っ赤なテント。毒々しいまでにカラフルな装飾のされたそのテントの中は、どこかパノラマのように不思議な空間を作り出している。  彼はその舞台の中心でスポットライトを浴びていた。派手な七色の服に、顔は白塗り真っ赤なペイント、頭には魔法使いの帽子のような又の分かれた奇抜な帽子。  彼はピエロだった。このサーカス団の一番人気である。  この舞台の上でおどけたように大げさなアクションを振りまき、観客席の子供たちを笑いの渦に巻き込んでいた。  だがそんな観客たちの笑顔に囲まれながらも、彼自身は表面上だけしか笑っていなかった。 (くだらねー。一体俺はいつまでこんな仕事やってりゃいいんだ)  彼の名前は葦原《あしはら》悠介《ゆうすけ》。もう三十を越えているのに、ずっとこんな風にサーカスで働いていいのかいつも悩んでいた。勿論最初はサーカスというものに憧れ、夢を持って入団した。  厳しい下積みを経て、ある種花形でもあるピエロの役を貰うことができた。だが、夢も叶ってしまってそれが“日常”になってしまえば一気に色あせてしまう。  ただ毎日の縁起を業務のようにこなしていくことに葦原はうんざりしていた。  情熱がなくなった、簡単に言えばそうなのだろう。  この葛谷《くずや》サーカスはいつ潰れてもおかしくはない規模の小さい劇団だ。そもそも今の子供たちはサーカスというものに興味がないのだろう。今回も空席が目立ち、チケットは売れ残っている。テントも小さな物のため、あまり派手な出し物は出来ないせいかもしれない。今回も町の空き地で無理を言って公演させてもらっているのだ。誰も彼らのような名の知れないサーカスを望んではいない。  だが今いる子供たちはみんな笑っている。  それは葦原のピエロとしての技量があるためであった。例え少ないとしても、そこにいる観客を満足させることが出来る葦原はやはり才能はあるのだろう。しかしもう、子供たちの笑顔見ても葦原の心に何の感動も与えなかった。ただセオリーどおりのことをこなしていくだけである。  だが、そんな子供たちの中で、一人だけ葦原の目に留まった少年がいた。  七、八歳程度の小さな男の子。一見すると女の子のようにも見えるほどに線が細く弱弱しい。どこか作り物染みた、まるでお人形のような少年だった。その少年が葦原の目に映ったのは彼が笑っていなかったからだ。  顔を伏せ、目をこちらに一切向けていない。頬をぴくりともさせずに、まるで時間が過ぎるのを待っているかのようだった。 (なんだあのガキ。なんのためにここに来てるんだ。なんだか調子狂うな)  葦原は心の中で毒づきながらもその少年が気になっていた。どんなジャグリングも、どんな玉乗りも、どんな客弄りも、どれだけおどけても彼は一切笑わなかった。 (絶対笑わせてやるこのクソガキ――!)  葦原は、年甲斐もなく意地になっていた。        ※※※  少女は鼻の先に冷たいものが当たったのを感じ、ふっと空を見上げる。  真っ暗な夜の空から白い粒がたくさん落ちてきていた。冷たい空気に晒され、その白い粒は町の地面に落ちていく。 「雪――か。これは積もるかもね」  その少女は白い吐息をはきながらそう呟いた。  長い黒髪を後ろに結い、ポニーテールにして揺らしている。しかし毛先はこの雪のように白くなっていて、どこか神秘的な雰囲気もかもし出していた。その左手にはブレスレットが輝いている。  彼女の着ているブレザーは双葉学園という、|化物《ラルヴァ》と戦う異能者を育てる機関の制服であった。  彼女の名は難波那美《なんばなみ》。その双葉学園の高等部三年生である。 『那美ってば雪を見るの初めてかしら?』  その声はそこに那美以外の人間はいないのに聞こえてきた。その声は那美の頭に直接話しかけているのだ。那美はいつもの通りに適当に相槌を打つ。 「いや、学園に来る前はそれなりに見たわ。ただ、都心の学園じゃ見ることはないから少し得した気分ね。あんたこそ雪を見るのが初めてじゃないのミナ?」  ミナと呼ばれた彼女の頭の中の人物はくすりと笑って 『私は何百年も生きています。雪だってたくさん見ました。こんなのよりもっとすごい吹雪も』  と言い返した。 「私より人生経験抱負だもんね」 『おばさん扱いだけはやめてもらえるかしら』  二人は頭の中でそう笑って対話していた。  これは那美がおかしい人物なので断じてない。那美の中にミナという存在がもう一人いるのだから。  だがそれは二重人格ではなく、ましてや人間でもない。  ミナはラルヴァだった。那美に取り憑いている(この表現が的確かどうかは不明)ラルヴァだ。那美の左手は事故によってラルヴァと融合してしまった。  それゆえにそのラルヴァの意思であるミナが彼女の精神に宿っているのだった。だから那美はラルヴァの力を制御するために四六時中左手に拘束具《リミッター》であるブレスレットをつけている。  ラルヴァに寄生される人間など珍例なため、学園にモルモット扱いされているものの、研究者であり両親をなくした彼女の後見人である我妻啓子《あがつまけいこ》のお陰もあって、今の彼女はそれに対して不満は無かった。  だが、たった一つ、今不満を感じていることがある。 「まったく、なんで私が裏切り者をとっ捕まえなきゃならないのよ」  それは彼女に課せられた任務だった。  学園から命じられた特別な任務。  それは学園を抜け出した生徒を追いかけ、捕まえること。ただ脱走しただけならば、刑務所などではないのだからそんな風に大げさに刺客を送ることはないだろう。  だがその脱走した生徒は異能者だった。それもとてつもなく強力で凶悪なもの。  その生徒はカテゴリーFと呼ばれる規格外の力を持った異能者だった。世界に害を及ぼしかねない力を持った存在。最悪であり災厄の力。  その生徒は何人もの生徒や教員を殺し脱走したのだ。そんな強大な力と凶悪な力を持った人間が世界に放たれてしまった。  並みの異能者では太刀打ちなど出来ない。そこで“|荒神の手《ゴッドハンド》”と呼ばれる力を持つ彼女がその刺客として送り込まれていたのだ。  ラルヴァを倒すための機関が人間を相手にするなんて皮肉なことだ。那美も人間を相手にするこの任務を最初は受ける気は無かった。だが、化物と融合し、半ばお情けで飼われているような自分の立場でそんな風に断れるわけもない。 (先生に迷惑をかけたくないしね――)  自分が何か問題を起こせばきっと、恩人である我妻にも害が及ぶだろう。それだけは避けたかった。そんなことを本人に言えばきっとビンタでもされて説教されるのだろうが。 「ともかく、その生徒がこの町に逃げ込んだって情報が確かなら、ここで決着をつけてやるわよ」  那美はポケットから生徒手帳を取り出した。だがそれは普通の生徒手帳ではなくあらゆる情報やラルヴァの感知機能のついたハイテクな端末である。  そこから那美は任務に必要な情報が入ったファイルを開く。  すると、そこには一人の女生徒の顔写真とプロフィールが出てきた。 〈早乙女玲子《さおとめれいこ》〉  そう名前欄に書かれている。前髪を揃えている艶やかな黒髪に、綺麗な顔立ち。一見美人できっと異性に好かれるのだろうと思えるのだが、那美はその彼女の目を見て、鳥肌が立つのを感じた。  見覚えのあるその瞳。  深淵のようなどろどろと黒く濁った瞳。  それは世界を憎む者の眼だ。  かつて自分がしていた眼。事故に合い、ラルヴァに寄生され、視界に映る全てを憎んで、何もかもを壊したいと思ったあの日の自分の目と同じ。  恐らく自分も、我妻に会わなければこんな眼をしたまま実験体として死んでいたのかもしれない。そう思うと那美は玲子を他人のように思えなかった。  それまで彼女は優等生らしく、表向きは今まで何も問題行動を起こしたことはない。だが、数週間に何の前触れもなく異能が覚醒し、何人もの命を奪っていった。  何を思い、何をもってして玲子が人を殺して、逃げ出したのか。それは那美にはわからない。きっと、理解できないだろう。  だが、それでも那美は任務としてではなく、純粋に玲子の凶行を止めたいと思っていた。そのことを彼女は自覚していないが。 『早く見つけないと大変なことになるでしょうね』 「わかってるわよミナ」  雪の降る町を彼女はマフラーを巻きながら歩いていく。この寒さだ、持久戦になるのは避けたい。体力が人並み以上とはいえ限界がある。  だがそれも玲子も同じのはず、いや、どこか温かい場所に隠れているのかもしれないが。ともかく一般市民に被害を出させるわけにはいかない。  那美は端末にインストールされている魂源力《アツィルト》感知ソナーを展開させる。魂源力に反応するものだが、せいぜい半径二十メートル以内程度の異能者を曖昧に感知するだけなのであまり当てには出来ない。  那美は辺りを見回す、なんてことのない住宅街。同じような家が規則正しく並んでいる。夜の闇に照らす家の窓から漏れる光は、こうして一人で歩いている那美を少し寂しくさせていた。 『なに、那美ったらホームシックかしら?』 「そ、そんなんじゃないわよ。ただ寒いし早く帰りたいなーって。だから早く終わらせるわよ」 『はいはい、そういうことにしておきましょう』 「本当だからね、先生に会いたいとか思ってないからね!」  そうミナに頭の中で話しかけながらずんずんと那美は歩を進めていく。すると、何だか騒がしい音が聞こえ、角を曲がったところが明るく照らされていた。  那美はなんだろうかと急いでそこに向かうと、空き地にサーカスのテントが張られていたのだった。  寂れている看板には“葛谷サーカス”と書かれ、中から笑い声が聞こえてくる。 「わあ、サーカスだ! 初めて見た!」  那美が思い描くようなサーカスのテントよりも大分こじんまりとしているが、それは間違いなくサーカスのテントであった。  生まれてはじめてみるサーカスのテントを前にして那美は少し心が躍っていた。まるで幼い子供のように目を輝かせている。そんな珍しい一面を見せる那美に、ミナは微笑ましそうにこう言った。 『中入ってみる?』 「え、いや、でも。早乙女の奴を追わないと。私たちは遊びに来たわけじゃないし……」  那美はなごり惜しそうにテントを見つめるが、この間にも玲子の脅威が町に迫っていることを考えるとのんびりしていられない。それにチケットもないのだから入ることはできないだろう。 「うう、さよならサーカス!」  那美は諦めて、そう言いながらテントの前を走り去っていく。            ※※※  早乙女玲子は夕食を楽しんでいた。  この町の住宅街のなんでもない一つの家、その家のリビングで玲子は椅子につきながらテーブルの上のハンバーグを食べていた。 「なかなか美味しいわね。他人の家の料理って癖があるからあまり合わないと思ったけど」  長い髪を耳にかきあげ、玲子は美味しそうにハンバーグを口に運んでいく。 「空腹は最高の調味料ってところかしら。温かいお味噌汁なんかあったら最高だったんだけどね」  料理で寒さを癒すことはできないので、玲子はエアコンのスイッチを入れて暖房を入れ始めた。 「これでよしっと」  そう言い再びハンバーグを食べ始める。  玲子はとてもリラックスした様子でこの家でくつろいでいる。だがここは彼女の家ではない。まったくの赤の他人の家であった。 「しかし、この臭いはどうにかならないのかしら」  そう独り言を呟き、玲子はリビングに転がっている“もの”をその冷たい眼で睨みつけた。  そこにはこの家の住人である夫婦と、そしてまだ小さな子供が床に転がっていた。だが眠っているのではない。  彼らの眼や口といった穴という穴から血が洪水のように溢れ出ていた。どうみても絶命している。とてつもない苦しみを味わったようで、その死に顔は壮絶なものであった。血の臭いが混じった死臭が部屋に充満している。  そんな死体が転がる中を、玲子はまるで、せいぜい虫が死んでいるくらいの調子で夕食を進めている。この彼女が食べているハンバーグもこの一家の夕飯なのであった。玲子は学園から逃れた後に、空腹を覚え、この一家を玲子の持つ異能《ちから》で皆殺しに、その空腹を満たしたのだ。  ただ食べ物を食べるためだけに、人を何人も殺す。それが早乙女玲子のスタンスであった。もはや彼女の心は人間のものとは一線を隠してしまっている。人間が持ちえる倫理観は彼女に通用しない。 「にゃー」  そんな死体の転がる凄惨な空間の中に、間抜けな鳴き声が響いた。  玲子がその方向に眼を向けると、子猫が一家の死体を見つめて不思議そうに首をかしげている。主人たちの死を理解できていないようであった。 「飼い猫か。おいで、ほら、お食べ」  玲子はハンバーグの切れ端を投げてよこした。猫は嬉しそうにそれにがっついている。玲子はそれを愛おしそうに眺める。 「動物はいいわ。人を裏切ったりしない。嘘もつかない。人間なんて、みんな死んじゃえばいいんだ」  玲子はそう呟きながら、ふと、外が騒がしいのに気づき、少しだけ窓のカーテンを開けた。まだこの一家を殺したことを誰にも気づかれてはいないだろう、そういう自信はあったのだが、それでも念のため彼女は外を覗き見た。  すると、少し離れたところからテントの先っちょが目に入る。 「サーカス? こんな時代に?」  そのサーカスのテントから子供たちの笑い声が聞こえてきた。  それを不快に思いながら、玲子はこの家に置いてあったジャンパーを着込み、そのまま玄関に向かう。 「うるさい声ね。まあいいわ。私は私のやるべきことをやるだけ」  玲子は悪魔のような微笑を浮かべ、雪の降る町へ赴いた。                2  葦原がどれだけ道化の演技を続けても、少年は笑うことがなかった。  もう自分の演目の時間も終わりに近づいている。彼に出来ることはもう何も無い。裏で猛獣使いの吉田が「時間過ぎてるぞ、そろそろ交代だ」と、声には出さず口の動きだけで葦原に伝えた。読唇術を心得ている葦原はそれを理解する。だがまだ変りたくはなく、それを無視し演劇を続けようとした。 (こんな中途半端に終われるか。あのガキだけまだ一回も笑ってない)  葦原は自分でもわからない感情に突き動かされていた。たった一人の少年のために必死になっていた。なぜだろう。少しだけ昔のような熱を取り戻しているかのような感覚を葦原は覚えていたのだ。  一つ一つの芸に身を入れ、感情を込めて演技を進める。  それでも少年は無反応だった。光の無い焦点の合わない瞳でぼーっとこちらに顔を向けているだけ。彼の周りを見ても、彼の親や友達は見当たらない。ならなぜ少年はここに来ているのか。なぜ楽しんでもいないのにわざわざサーカスに足を運んだのか。葦原は少年のことが気になってしょうがない様子である。  だが、それに見かねたシルクハットの団長がとうとう止めに入ってきた。 「さあお調子者のピエロの演技はこれで終わりだよ。さあ、お次は猛獣使いによる火野枠繰りです! お楽しみに!」  そう言って葦原を奥へと下がらせた。団長の判断は正しかった。長い時間していたため、もう既にピエロの演技に子供たちは飽きはじめていたのだから。  それに気づいた葦原は、大人しく控え室に入っていく。最後に横目で少年のほうを見るが、やはり猛獣使いの出し物を見ていても彼の感情に変化はないようであった。 (まったく、最近のガキはよくわかんねーな)  彼は控え室では道化の笑顔を解き、ごく普通の三十歳の男に戻っていた。派手な格好や派手なメイクはそのままだが、このすれた表情のこの男があの舞台上のピエロと同一人物だとはとても信じがたいだろう。  葦原はタバコに火をつけながらなぜ自分があの少年にあそこまで固執していたかを考えていた。 (そうか、あれは俺だ。ガキの頃の俺の目にそっくりだ)  葦原は自身の少年時代を思い出していた。世界に何の希望も抱いていなかった少年時代。学校に行けば無能だといじめられ、家に帰れば母親はずっと泣いていて、父親は彼を殴りつけていた。  この先もずっと何もいいことはない。自分の人生はきっとずっと灰色のままだ。  だったら世界なんか滅びてしまえ。  何度そう心の中で願ったかわからない。  だがそんな葦原の灰色の世界を一変させたのがサーカスであった。  故郷の町にやってきたサーカス団。そこで葦原は初めてサーカスというものを見たのであった。そのサーカス団は初回で無料チケットを配っていた。そのチケットを配っていたピエロを見て、葦原はサーカスというものに興味を引かれたのであった。そしてその豪華で巨大なテントの中を潜った時、そこに別世界を葦原は見たのだ。  まさにそれは楽園のよう。  猛獣に小人。  ワニ女に空気男。  手汗を握る空中ブランコに綱渡り。  様々な曲芸が彼の心を掌握していた。葦原は生まれて初めて心からの感動というものを覚えていたのだった。瞬きするのも忘れ、眼を離すことなどとてもできなかった。  そして何より彼に影響を与えたのはあのチケットを配っていたピエロだった。小太りで愛嬌のある白塗りのメイクで、彼は舞台の上に立っていた。  彼はおどけた調子で芸を初め、一言も言葉も発さずパントマイムだけで観客たちの心を掴んでいた。子供たちは大声でピエロの行動で笑い、葦原もいつしか自然に笑顔になっていた。  葦原はその時気づいた。自分が笑ったのが一体何年ぶりなのかを。  自分が笑っていることに気づいた葦原は、自然と自分の瞳から涙を流す。楽しいはずなのに、なぜ涙を流しているのかは葦原自身にもわからなかった。  だが葦原は自分が見て感じてきたあの灰色の世界は、ほんの一部でしかなかったのだと理解した。  世界には、こんなにも素晴らしいもので溢れているのだ。  葦原が涙を流していることに気づいたその小太りのピエロは、彼の下に近寄って手を握った。葦原が驚きながらそのピエロの行動を見つめていると、ピエロは手を離し、葦原に手を開くように促した。  葦原が恐る恐る手を開くと、ぽんっとその手から薔薇の花が出てきたのであった。その瞬間周りの観客の子供たちは大きな驚きの声を上げて、みんな笑っている。簡単な手品だが、子供だった葦原にはそれはまるで魔法のようにも見えた。  そしてピエロは優しく葦原の頭を撫で、舞台へと戻っていった。  少年だった葦原にとってそのピエロは道化ではなく、聖者のように思えたのだった。  この時葦原は決心していた。いつか大人になったら、サーカス団に入り自分もピエロとして子供たちに笑顔を与える人間になるのだと。  そしてそれから数年後。葦原は劣悪な家庭環境から抜け出し、夢を叶えてサーカス団のピエロになったのだった。 (なのに、なんで俺はこんなに不安なんだろうな)  葦原はタバコの煙吐きながらそう考えていた。道化の仕事はきちんとこなせているし、ミスだってほとんどない。  だが、同年代の人たちはみんな結婚したり子供がいたりとしているのに、自分はこんな風にいつまでも派手な格好をして派手なメイクをして、子供騙しの芸を続けていていいのかと焦っていた。  そして、こんな考えが頭によぎっている今の自分は、子供たちを笑わせるピエロに相応しくないのだと、自分が一番よく理解していた。 (潮時かもな)  そう心の中で呟きながら、葦原はタバコを灰皿に押し当て火を消す。だが、そんな風に思う葦原の脳裏にはあの笑わない少年の顔が張り付いている。  あの少年の笑顔を、葦原は見たいと思っていた。  だが、そうこう考えているうちにサーカスは全ての演技を終え、名残惜しくも閉幕していった。        ※※※  サーカスのテントから離れ、那美はひたすら魂源力ソナーをぶんぶんと振り回して、玲子の行方を捜す。  雪の降り方が激しくなっていき、少しずつ地面に雪が積もり始める。  寒さで指が震えていく。両手に手袋をつけているが、それでも足りないくらいだった。 『那美。少し休みましょう。あまり気を張るのはよくないわ。万全じゃなければもし早乙女玲子を見つけても太刀打ち出来るかどうか……』 「何よ。やけに自身ないじゃないミナ。私は大丈夫よ、それに早乙女はきっと私たちがこうしている間にも何をしているかわからないわ」  早乙女玲子は悪魔だ、そう那美は教師たちに言われていた。自分も怪物だの化物だの、挙句の果ては荒神だのと言われてきたが、玲子は心も非情で冷酷な人間で、まさに悪魔のように人の命をなんとも思わないと教えられた。  とても一人の女子高生を指して言う言葉ではない。だが、現に玲子は学園の関係者を何人も殺している。  だが那美はその玲子に殺された人たちに違和感を覚えていた。  多くの死者の中、一番多かった犠牲者は兵器開発局という、学園付属の研究機関の研究者たちだった。  自身がラルヴァと融合した稀有な例として、兵器開発局の研究の対象にされたこともあって、那美はあの機関が少し異常なものだと感じていた。 あそこはまともな研究なんてしていない。接した研究者のほとんどが人間らしい感情を持たず科学に狂信している者ばかりだったからだ。  本来玲子と何の接点もないはずだ。  ただ、あるとすると玲子の異能関係だろう。那美は開発局が玲子に対して何らかのアクションを起こし、そして殺されたのだろうと予測していた。  自分と同じモルモット扱いをされたのかもしれない。人間扱いされず、悪魔と呼ばれた少女。早乙女玲子。  それは那美の想像の域を出ないが、もし那美が我妻に出会わなければ、玲子のように世界に牙を剥く存在になっていたかもしれない。  玲子は、那美がなっていたかもしれない可能性の存在。  今の那美を思えばそんな可能性があったことは考えたくは無い。だが誰でも、どんな人間でも世界に憎しみを抱くきっかけは存在するのだ。  それを那美は痛いほど知っている。 『那美。あなたは早乙女玲子と違うわ。違う人間よ。あなたが何かを背負うことなんてないのよ』 「わかってるわよミナ。そんなんじゃないさ、そんなんじゃ……」  少しだけ感傷的になっている自分をミナに悟られて、那美は玲子の境遇に対して考えることをやめた。たとえ彼女に何か理由や動機があったとしても那美のやるべきことに変りは無いのだ。  たとえどんな理由があろうと玲子のしたことは許されることじゃない。開発局の研究員だけではなく、何の関係も無いであろう教員や生徒たちも巻き添えを食って何人も死んでいるのだ。彼らの無念を思えば足を止めるわけにはいかない。  雪道を歩き続ける那美は道路に置かれた自動販売機を見つける。怒りと焦りと同情の混じったもやもやとする感情を落ち着かせ、身体を温めようと缶コーヒーを買った。  プルタブを開け、那美はコーヒーを口に含んでいく。少し苦めの味が口内に広がり、胃の中に温かさが広がっていく。 「こういう寒い中で飲むホットコーヒーって凄くおいしいよねえ」 『そうね。砂漠にオアシスの逆バージョンってところかしら』  そうして一息ついた那美は、何か妙な臭いが町に漂っていることに気づいた。そして、その臭いは那美のよく知るものであった。 「ミナ、この錆びた鉄のような異臭は……」 『ええ、間違いないわね……』  那美は駆け出し道路の角を曲がる、するとそこには三人の若者が顔中から血を洪水のように流して雪の中に沈んでいた。苦痛に顔を歪ませ、おびただしい血があたりに飛び散っている。  確認するまでも無く彼らは絶命している。血が白い雪ににじみ、不気味で異質な雰囲気を町に作り出していた。まさにその光景は地獄のよう。サーカスがいる平和な町が恐怖と死に染まっていく。  那美は缶コーヒーを握った左手に力を入れる。するとスチールの缶は粉々に砕け散ってしまった。  その瞬間彼女の持っていた魂源力ソナーが反応を示した。つまり近くに異能者がいるということである。 『那美、近くにいるみたいよ。気をつけてね』 「わかってるわよ」  那美は静かに感情を押し殺すようにそう呟く。  だが、その表情はまさに荒ぶる神のように憤っていた。          ※※※ 「ねえちょっとそこの姉ちゃん。こんな雪の夜に一人でどこ行くの?」  玲子が雪の降る町を歩いていると、ガラの悪い三人の若者にそう絡まれてしまった。美しい容姿を持つ玲子は、学園にいるころからもこの手の人間に絡まれることが多々あったので、彼らを無視しそのまま通り過ぎようとした。 「おい、無視すんなよ」  だが若者たちはへらへらと笑いながら素通りしようとした玲子の腕を掴み挙げた。下卑た笑い顔の彼らを、玲子はただ虫ケラを見るような眼で睨みつけているだけであった。  そんな玲子の態度が気に喰わなかった若者は、ぎりぎりと彼女の腕を締め付けている。 「おいおい。そんな眼されると俺らも怒っちゃうよ。いいじゃん、こんなとこほっつき歩いてるなんてそっちもその気なんだろ」  三人の若者は玲子を囲い、壁際に追い詰める。だが、実際に追い詰められているのは彼ら三人のほうだということに彼らは気づいていない。  玲子はふうっと溜息をつき、面倒だなという風に瞼を閉じた。 (まったく、男ってなんて気持ち悪いんだろう。どうしていつもこんなに高圧的なのかしら)  そう思いながらゆっくりとその三人のほうに唇を向けた。男たちはそれを見て自分たちの言いなりになるのだと勘違いしたが、そうではなかった。  玲子はその口から息を吹き出していたのだ。  玲子がそうして息を吹くと、口から真っ黒な白い粒が大量に溢れ、空を舞い彼ら三人を囲っていった。  まるでそれは黒い雪。  天から降る白い雪に混じったその黒い雪は幻想的な雰囲気で、御伽噺の世界のようであった。 「な、なんだこりゃ」 「黒い……雪?」 「手品か?」  そんな暢気なことを言う三人を、玲子は殺虫剤をかけられ死にゆく虫たちを見るような眼で見つめていた。 「じゃあね。害虫」  その言葉を聞いた若者が、何かを玲子に言おうとしたが、その行動をとることはもう二度とできなくなっていた。  声が出ない。  彼ら三人はとてつもない苦痛を身体全身に感じ、悲鳴を上げようとしても喉から何も声を発することが出来ないことに気づく、そしてじぶんたちの死期を悟った。 「あ……が……」  彼らは何も出来ないまま、顔中の穴からごぽごぽと血を溢れ出させて地面に倒れこんでいった。あふれ出る血は積もる雪を赤く染め、玲子は汚らしい害虫の血が純白な雪に混じっていったのを不快に感じているようで、眉を少し歪めている。玲子が吐き出した黒い雪もゆっくりと地面に落ち、まるで幻のように消えていってしまった。  この黒い雪が玲子の異能の正体である。  玲子は自身のその力を“|黒死の雪《イビル・スノー》”と呼んでいた。   その黒い雪に触れた人間は、彼らやあの家の住人のように血を吐き出して苦痛の中死んでゆく。その黒い物体が何なのか玲子も理解してはいない。異能によって生み出された未知のウィルスかもしれない。いや、ウィルスならば自分も感染してしまうだろう。免疫が出来ているのかもしれないが、玲子にとって異能の原理なんてものはどうでもよかった。  ただ、この異能のせいで自分が生きていた世界が狂ってしまったことを呪っていた。  死を操る力。  彼女の異能を研究していた開発局の人間は彼女の能力をそう評していた。ほんの数週間前に何の前触れもなく彼女はその異能に目覚めたのだった。  彼女はその時のことを思いだす。  仲の良かった同級生の女の子。それが彼女の異能の最初の犠牲者だった。いつものように一緒に昼食をとっていた。だが玲子の口から溢れ出た黒い雪に触れた瞬間彼女は死んだ。  血を吐き出し、彼女の目の前で絶命した。  血に沈む友人の顔を玲子は一生忘れることはできないだろう。いや、忘れる気もない。自分が犯した罪を玲子は自覚していた。  彼女の死は玲子に責任は無い、そう学園側に言われたが、玲子は自分自身を許すことが出来なかった。何度自分の命を絶とうしたかわからなかった。  そんな彼女の能力はカテゴリーF種と認定され、一時は軟禁されたりもしていた。  そしてそれから、兵器開発局は彼女に異能の研究を申し出たのであった。それが全ての始まり。玲子が世界に敵意を向けるきっかけになった出来事だった。 (私は絶対に許さない。開発局も、学園も、この世界そのものも)  玲子がそう考えながら歩いていると、突然彼女の持っていた学生帳型の端末が鳴り響いた。玲子が驚いてそれを取り出すと、その一機能であるラルヴァ感知機能“KANNAGI”のソナーが反応を示していた。その反応は大きく、上級以上のものであった。だが、同時に異能者の反応もある。ラルヴァと異能者が同時に存在する。これはおかしなことだった。 (この近くにラルヴァが? いや、こんな町中にこんな強大なラルヴァがいるなんて考えられない、だとするとこの奇妙な反応は――)  玲子はふと思い出した。ラルヴァの力を身体に秘めた強力な異能者のことを。 (まさかあいつが……。学園側もなかなか強烈な奴を追っ手によこしてくれるじゃないか)  玲子は理解した。  すぐそこに刺客が来ているのだと、ラルヴァの力を持つ彼女が来ているのだと。そして玲子はその場を全力で駆け出した。     後編へつづけ この作品は荒神の手のシェアで本人ではありません 問題ある箇所は治します ---- [[トップに戻る>トップページ]] [[作品保管庫に戻る>投稿作品のまとめ]]

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