【猛る獅子と放課後の天使たち 『承』その1】






  ※※※
「『心折れたやつらが今』勝ち目は無いみたい
『心折れた戦士になって』あまりに無謀だ
『かまうものかどうでもいいのさ』どの道ボロボロさ」
 ――――筋肉少女帯〈心の折れたエンジェル〉
  ※※※



『承』



 世界の危機なんて俺には関係ねえ。
 世界を救うのは冒険活劇の主人公たちにまかせていりゃいいんだ。俺はただ自分が出来る範囲のことをするだけ。俺はずっとそう思ってきたし、これからもその考えは変わらない。
 でも、もし世界を滅ぼすほどの脅威と悪意が自分に襲いかかってきたら、仲間たちに降りかかったら俺はどうするんだ。
 その時も誰かの助けを待つのか。都合のいい正義の味方が通り過ぎるのを待ってるだけなのか。
 俺は弱い。それは自分が一番よくわかってる。
 世界を護ろうなんて言うほど自惚れてもいない。けど、もしそんな存在と出会ってしまった時俺に何ができる。何を護れる。
『義を見てせざるは勇なきなり、ってな』
 全身に鎧を纏ったあの男は俺にそう言った。
 瞼を閉じれば浮かんでくるあの日の景色。汗のせいでシャツが肌にはりつくほどに暑かった去年の夏。燦々と輝く茜色の太陽。俺を嗤うヒグラシの鳴き声。そして、俺の目の前に現れた異形の怪物。
 全身が泡立つような寒気に、胃液が逆流するほどの恐怖。今でもあの時のことを思い出すことがある。忘れることなんてできない。
 俺はあの時ただ逃げるしかなかった。理解を超えた脅威にただ怯えて逃げ出すしかなかった。だけど、そこに現れた鎧の男が怪物《ラルヴァ》を倒し、俺を救ってくれた。彼がいなかったら俺はこうしてのんびり生きてなんていられなかっただろうな。
 俺もいつかあんな風に人を護れる人間になれるんだろうか。
 世界なんて救えなくていい、ただ身近な、大切な人たちを護れるだけの力と勇気を――

「もう、お兄ちゃんいい加減に起きてー。遅刻しちゃうよ」


 そんな優しく柔らかな声で俺は目を覚ました。
 カーテンの開け放たれた窓からは暴力的なまでの朝の陽ざしが射し、俺の瞼を強引に開かせる。そこには俺を見下ろす金色の瞳があった。
「ああ、おはようメイジー。もう朝か。なんか眠った気がしねーな」
「もう、夜更かしばかりしてるからだよ。私は朝ごはん作ってるからお顔洗って来てね」
 なかなか布団から起き上がろうとしない俺に、メイジーはぷっくりと頬を膨らませてそう言う。メイジーはもう制服に着替えて準備万端らしい。まったく、俺よりずっとしっかりしてるよな。
「へいへい、今起きますよーっと」
 俺も一先ず制服に着替え、顔を洗う。うう、寒い。今度ここの水お湯が出るようにしてもらったほうがいいな。さすがに冬でこれは厳しい。いや、逆にこれで目が冴えるからちょうどいいのかもしれねーけど。洗面所の鏡を見ると、目にクマが出来ていた。あの時のことを夢で見ていたせいだろうな。しかたねー、数学の時間の時にでも寝るか。
 そうこうしていると、美味そうなパンの焦げる臭いがしてきた。
 リビングに戻ると、メイジーが朝食の準備をしていた。こんがり焼けたトーストの上に、半熟のベーコンエッグが乗っており、温かそうなホットミルクが湯気を立てている。
「おお、今日はパンか。美味そうだな」
「いつもお味噌汁にごはんじゃ飽きてるかなって思って。どうお兄ちゃん?」
 席についてパンを齧る俺を、おずおずとした目でメイジーは訪ねてきた。パンの焼け具合や、とろけるような卵の黄身、そのベーコンも塩コショウの加減が完璧だった。
「ああ、すげー美味いよ。メイジーはきっといいお嫁さんになるな」
「ほんと? よかったー。えへへ」
 眩しいまでの笑顔を俺に向け、メイジーも自分のパンを頬張っている。メイジーは中学二年生にしては小柄なほうで、椅子に座っていても足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。その金の髪と金の瞳と相まって、その姿はまるで小さな天使のように見える。
 いつも殺伐とした戦いに身を置いている俺の癒し。メイジーは俺にとって、本当に妹のようなものだ。メイジーにはあまりラルヴァとの戦いには関わってほしくない。戦うか否かはメイジー本人の勝手なのだろうが、それでも俺はメイジーが傷つくのを見たくない。
 こんなこと有賀《あるが》さんや未来来《みらく》に言ったら『過保護』だとか笑われるな。黙っとこ。
「そうだお兄ちゃん。新聞持ってきたよ、読む? そうは言っても学園新聞だけど」
「ああサンキュ」
 俺はメイジーから新聞を受け取り、ざっと広げる。学園新聞は新聞部が作ったものだが、学生が作ったにしては本格的で、学園内の細かな情報まで載っているし、普通の新聞よりも俺たちにとっては親しみやすかった。
 けど、俺は一面に載っているその記事を見て少し眉を寄せる。
『天使病患者増加。ここ最近双葉学園の生徒たちが発症している謎の奇病“天使病”の発症者が三十人を超えた。この事態を重く見ている学園の上層部、及び醒徒会、異能研究者や付属のカウンセリング機関が動きを見せているようだが、未だに治療法や原因は公表されていない――』
 結構な大ごとになっているようだ。幸い、俺の知り合いに天使病を発症した奴はいない。俺はこの事件を他人事のように思っていた。どこか別世界の話だと。特に何も考えず、砂糖をたっぷり入れたホットミルクを口に含む。
「天使病……。怖いねお兄ちゃん」
 新聞を覗き込んでいたメイジーが少し怯えた声でそう言った。無理もない。俺だって自分が天使病にかかったらと思うとぞっとする。多感な時期のメイジーではその想像も強くなるだろう。俺はメイジーを安心させるために勤めて明るい声で言う。
「平気だってメイジー。俺たちは大丈夫さ」
 根拠のない言葉だ。だけど今の俺にはそんな言葉しか出てこない。
「そうだメイジー。今度許可とって甲高いネズミの国に行こうぜ。最近物騒なこと多いし、たまにはぱーっと楽しまないとな」
「ほんとお兄ちゃん?」
 俺がそう言うとメイジーはぱあっと明るい表情になった。
「ああ、ほんとだ。そうだ、みんなも呼ぼう、鵡亥《むい》姉妹や舞華《まいはな》さん、有賀さんも。きっと楽しいぞ」
 俺がみんなの名前を言うと、何故かメイジーはなぜか眉間にシワを寄せた。あれ? 怒ってる? なんで?
「もう、お兄ちゃんなんて知らない!」
 そう言って不機嫌な表情でパンをちょっと齧っただけで残してしまい、そのまま出て行ってしまった。おいおいちゃんと食べないと昼まで持たないぞ。
 取り残された俺は、わけもわからず茫然とする。
「はあ、反抗期かねえ。年頃の女の子だし、しかたねーか」
 俺は溜息をつきながらパンをホットミルクで流し込み、マフラーを首に巻き、ダッフルコートを羽織って急いで寮を出る。
 外に出ると身を切るような冬の厳しい寒さが俺を襲う。風が吹くたびに頬が切られるようだ。メイジーはスカート姿だったが、女子ってよくあんな素足丸出しの格好で平気だな。俺には絶対無理だ。
 ちらりと腕時計を見て時間を確認する。急がないと間に合わないな。
 俺は少し早歩きで学園へ向う。
 学園はいつもと同じように賑やかだ。
 数え切れないほどの学生たちで溢れ、誰も彼もが忙しそうにしている。俺は校門を潜る途中で見知った連中から声をかけられる。
「おはようゼンザ!」
「ちーっすゼンザ」
「おはようございますゼンザくん」
 そう挨拶してきたのは数人のクラスメイトたちだった。登校してきたクラスメイトたちが俺のことをそう呼ぶ。“前座《ゼンザ》”と。
「だからゼンザじゃねえ! お前らいつになったら名前覚えるんだよ!!」
 ややこしい名前とは言え、いい加減に覚えろってんだよ。もう結構長い付き合いになるのに。まあ毎度のことだし諦めちゃいるけど。
 主役になりきれない俺に相応しい呼び方かもしれないが、あんまりだよな。
 適当にクラスメイトたちと雑談しながら玄関に向かうと、わあっと言う声が俺たちの背後から聞こえてきた。
「なんだ?」
「おい、アレ見ろよ。紅葉賀《もみじのが》のお嬢様だぜ」
 俺もクラスメイトの声につられて後ろを振り向く。するとそこにはやけに美人の上級生がゆったりとした歩調で玄関に向かってきている。男子だけでなく、女子も彼女を見て目を輝かしていた。
 その歩く姿はさながら“王”のように堂々としており、ふんわりとした栗色の髪が風になびいている。
 その後ろにはその美人さんと似た顔の男子がボディガードのようについていた。姉弟か?
「誰だあれ。あんな美人いたか?」
「何言ってんだゼンザ。三年の紅葉賀|昴《すばる》さんだよ。後ろについてんのは双子の弟だな。あんまり学園に顔ださないし、俺も久しぶりに見たけど」
「ふーん。まあ俺は興味ねーや」
 しかし紅葉賀というのは聞いたことがあるな。確かどっかの金持ちの家系だったはずだ。よく使う家電製品とか食料品に“紅葉賀グループ”と書かれているのを見る。でも俺たち学生のトップである醒徒会にとんでもない資産家がいるし、別に珍しいことでもねーだろ。
 その金持ち美人改め、昴先輩は、おっとりとした表情で、確かに苦労知らずのお嬢様って感じに見える。亀のように遅い歩き方で、なんだか足元が危なっかしい。
 俺が心配した通りに、昴先輩は足元の石に躓き、ぐらりと倒れこみそうになっていた。周りの生徒も「きゃあ」と声を上げる。
「ちっ、しかたねえな」
 俺はバッグをクラスメイトに投げてよこし駆け出す。間一髪、地面に身体をぶつける前に俺は昴先輩を抱きとめることに成功する。まったく、気をつけろっての。
「なによあいつー!」
「あたしたちの昴様に気軽に手を触れるなんてありえなーい」
「キー!」
 というヤジが飛んでくるが無視。だったらお前ら助けろよな。
「………………ありがとうございます」
 昴先輩はぼおっと俺の顔を見て、ぺこりと頭を下げた。
「ああ、いえ、別に大したことじゃないですよ。足元に気を付けてくださいよ」 
 金持ちのお嬢様というと「オーホッホッホ」とか笑いだす高飛車な感じをイメージするが、彼女は見た目通りにおっとりとしてる性格のようだ。
 ふと、視線を感じ、俺は前を向く。すると、そこには鬼のように醜く顔を歪めている昴先輩の弟がこっちを睨んでいた。
「え……? なんすか?」
「ぼくのお姉ちゃんに触れるな! お姉ちゃんに触れていいのはぼくだけなんだ、離れろ!」
 弟さんはそう叫んで、回し蹴りを俺に放ってきた。俺はそれを鼻先ぎりぎりで避け、昴先輩から手を離し、距離をとる。なんなんだこの人は!
「ちょ、ちょっと先輩。落ち着いてください。俺が何して――」
「うるさい! ぼくがお姉ちゃんを抱きとめるつもりだったんだ! それを邪魔しやがって!」
 そう言いながら今度はその場から跳躍して、右足で俺に蹴りを入れようとした。俺はそれを手で掴み防ぐ、だが弟さんは空中で身体を捻り、今度は左足のつま先で俺の頭を狙ってきた。それも腕で防御するが、びりびりとした衝撃が走り痺れるようだった。
 くそ、この人はどうかしてるのか。いきなり暴力をふるってくるなんて、周りの生徒も悲鳴を上げるだけで止めようともしない。仕方なく俺は彼の懐に潜り、掌低を放った。ずむりという感触が手に伝わり、完璧に決まった。
 弟さんはその勢いで地面を転がって行く。喧嘩なんかしたって知られたら親父に怒られるな。でも暴力をふるってきたのはあっちだし、護衛だ護衛。
 弟さんは息をするのも苦しそうにこちらを睨んでいた。まったく。面倒事に巻きこもうとしないでくれ、頼むから。
「このガキ……このぼくを誰だと思っている……」
 弟さんは怒りを露わにして、再び俺に向かってこようとしていた。
「…………おやめなさい凛人《りんど》さん。紅葉賀の恥になるような行いは慎んでください。彼はわたくしを助けてくれました」
 ぴしゃりと厳しい声で弟さんを制止したのは昴先輩だった。まるで母親が駄々をこねる子供を叱るようで、その瞬間弟さん改め、凛人先輩は大人しくなって黙ってしまった。
「ああごめんなさいお姉ちゃん。もう喧嘩はしないから許して。ほら、プリン買ってあげるから。お姉ちゃんごめんなさい」
 凛人先輩は慌てて姉に謝り俺の横を素通りした。昴先輩はもう一度ぺこりとお辞儀をして去って行ってしまった。
 まったくなんなんだよ。朝から疲れたぜ。
「おいおい大丈夫か」
 クラスメイトがからかうような口調でそう言う。
「けっ、お前ら見てただけじゃねーか。少しは止めに入れっての!」
「わりーわりー。だって俺らお前みたいに強くないし」
「別に俺だって強くねーよ」
 クラスメイトに持たしていたバッグをばっと受け取り、俺も教室へと歩いて行く。
「まてよゼンザー」
「だからゼンザじゃねえっての!」






 午前中の授業は特に何もないまま終わった。と言っても半分以上寝てたから全然覚えてないんだけど。でも頭使わず寝てるだけでも腹は減るようで、昼休みを知らせるチャイムと共に俺の腹もぐるると鳴いている。まってろ俺の腹の中の小人たちよ、すぐにその鳴き声を止めてやる。
 俺は空腹を満たすために購買部へと向かった。朝はパンだったし昼は何か米が食べたいな。シャケ弁当にでもするか。
 ぼんやりとそんなことを考えながら廊下を歩いていると、購買部の行列の中に、見知った顔を二つ見つけた。そのうちの一人が俺に気付いたようで、ぶんぶんと大げさに手を振っている。
「なんやゼンザ兄ちゃんやないか。こんなとこで会うなんて珍しいやん。ほら明日明、何照れとるんや」
「あ、あの。こんにちは茜燦《せんざ》さん……」
 俺はその同じ顔の二人の女の子たちに手を振り返す。その二人は双子の鵡亥《むい》姉妹だ。ニコニコ笑いながら大きな声で話しかけているのが姉の未来来《みらく》で、その後ろでおずおずと俺を見ているのが妹の明日明《あすあ》だ。二人は見た目がそっくりなのだが、この通り性格が正反対のせいでどっちがどっちなのかすぐわかる。少なくとも俺の名前を間違えているのが未来来だからたとえ演技で騙そうとしてもすぐわかるだろうな。
 この二人には俺の武器やバイクのことでかなり世話になっていてあまり頭が上がらない。特に明日明はそのために色々と|アレ《・・》なことになるし、超科学ってのも使う方は便利なだけだけど、造るほうは大変なんだぁってしみじみ思う。
「よお未来来に明日明。お前たちも今日は弁当か?」
「せやで、今日朝っぱらから明日明に“天啓”が来て弁当どころの話しじゃなかったからな~。明日明のあのあられもない姿をゼンザ兄ちゃんにも見せてやりたかったわ」
「も、もう未来来……その話しはいいでしょ!」
 明日明は顔を真っ赤にして大笑いしている未来来の背中をぽこぽこと叩いていた。まったく相変わらずだなこの姉妹は。
「そうだお前ら、今日は俺が奢ってやるよ。こないだ約束してたけど全然機会なかったし」
「え? ホント? でも、悪いよ茜燦さん……」
「なんやゼンザ兄ちゃん。アタシらの恩をこんな学校の購買で帳消しにできる思うとんのかい。相変わらずケチんぼやなぁ」
「う……。けど俺だってそんな金に余裕ねーしなぁ」
「も、もう未来来! 茜燦さんを困らせちゃ駄目だってば」
「ほーんま明日明は良い子ちゃんだねー。こんな甲斐性無しのどこがええのか」
「何言ってるの、全然そんなんじゃないよ。未来来の言うことなんて真に受けないでね茜燦さん。茜燦さんのことなんて、な、なんとも思ってないんだからね!」
 明日明はまた真っ赤になってぶんぶんと手を振って思い切り否定していた。う、そこまではっきり言われるとちょっとダメージがあるな。まあ、明日明みたいな可愛い子が俺みたいなやつをどうこう思ってるわけないだろうけど。
「なにそれ明日明。ツンデレ? ツンデレキャラにテコ入れ?」
「うう~。未来来なんかもう知らない!」
 ケラケラ笑う未来来に、ぷいっと明日明は半泣きでそっぽ向いてしまった。
「喧嘩すんなってお前ら。ほら、何が食いたい? ここにあるのならなんでもいいぞ……ただし一番高いカニ弁当は駄目だ。俺の三日分の弁当代が消える」
「ケチ! まあええわ。じゃあアタシはど・れ・に・し・よ・う・か・な~」
 文句を垂れながらも未来来は目を輝かせながら弁当を眺めている。ああ、その二番目に高い海鮮丼も出来ればやめてくれよ。あっ、だからそれを手に取るなって。肉食獣のように弁当を見ている未来来の横で、明日明は視線を泳がせていた。
「なあ明日明。お前は何が食べたい? 好きなもん買ってやるよ」
 俺がそう言うと、明日明は一瞬困った顔を浮かべたが、上目遣いで俺の顔を見上げてきた。その姿に俺は思わずどきりとしてしまう。
「あのね茜燦さん。今日はいいから、今度アイスを奢ってほしいの……」
「アイス? そんなんでいいのか?」
「あ、アイスがいいの。あのラウンドパークの中にあるアイスクリームが食べたい……」
 ラウンドパークは学園にあるでかいデパートだ。たしかその中には女子に人気のあるアイス屋があるはずだ。ふーん。普通の女の子みたいに明日明もああいうのが好きなんだなぁ。
「いいよ、今度一緒に喰いに行くか」
「ほ、ほんと? 約束だよ!」
 顔を赤らめながらも純粋に微笑む明日明を見て、アイスだけでそんなに喜ぶなんて明日明もしっかりものに見えて案外子供っぽいところもあるんだな、と思い、自分も嬉しくなってしまった。
「ちょっと何しとんのやゼンザ兄ちゃん。お金お金!」
 そんな明日明と対照的にそう怒鳴る未来来を見て、俺はがっくりと肩を落とした。同じ遺伝子なのになんでこうも違うのやら。
 未来来の弁当代を払った後、アイスとは別に今日も明日明の弁当を奢ってやるつもりだったけど「い、いいですよ。こ、今度アイス奢ってもらえればそれで……」と言ってそそくさと自分で弁当を買ってしまった。俺の財布には優しいがちょっと残念だ。俺も適当に自分の弁当を買い、せっかくだから三人で食べようということになった。
「そうだ、メイジーちゃんも呼びませんか? 私も久しぶりに会いたいし」
「ほほう。やるやん明日明。まずは外堀から埋めていく気やな……怖い! 計算高い女怖い!」
「違うってば未来来! 未来来だってメイジーちゃんに会いたいでしょ?」
「せやな。かわええもんなー。あのふわふわした金髪! 純粋で整った顔! ありゃ男共が放っておかんやろ。そう思うやろゼンザ兄ちゃんも」
「そうだな。メイジーは可愛いからな。変な虫が寄ってこないように俺が気をつけないとライナ小母さんに怒られる」
「だってさ明日明。こりゃ舞華先輩よりもメイジーちゃんが一番のライバルかもしれへんで」
「ちょ、ちょっと未来来」
「は? ライバルって……。舞華さんと明日明は戦闘系の異能じゃないんだから競いようがねーじゃん」
 俺が疑問に思ってそう言うと、未来来は笑いながら俺の腹に肘を打ちこんできた。
「ぐほっ! なにすんだよ未来来!」
「あんなぁゼンザ兄ちゃん。鈍感もたいがいにしとかんとそのうちブスッと誰かに刺されるで。ははははは」
 そう笑って未来来は言うが、その声はなんだか怖く感じた。うう、刺されるって俺別に恨み買うようなことしてないんだが。
「ほら、こんな奴置いといて、早くメイジーちゃんのとこ行こか明日明」
 腹を押さえる俺を置いて、未来来は明日明の手を引っ張りメイジーのいる中等部の教室へと向かっていった。
 だが、俺たちはそこでなんだか騒ぎが起きていることに気付いた。
 メイジーのクラスの前に人だかりが出来、教師も何人かそこにいた。俺は嫌な胸騒ぎを感じた。
 俺は思わず野次馬をはねのけ、教室の扉から中を覗き込んだ。
 俺は絶句する。
 その教室はまるで絶望で満たされているかのように静まり返っていた。誰も声を上げることすらできていない。
 そこには目を虚ろにし、教師が呼びかけても一切反応しない女の子が机の椅子に座っていた。まるで人形のようにどこを見るでもなくぼんやりとしているが、その顔からは生気がまるで感じられない。
 魂がそこにないような、心がどこかへ行ってしまったような、そんな印象を受けた。
 その少女が小声で何かを呟いている。俺はそれを耳を澄ませて必死で聞いた。
「天使様……天使様が迎えに来てくれたの……天使様が……」
 ――天使様。
 ただそれだけを壊れたテープレコーダーのように何度も何度も繰り返し呟いている。まるで機械のように、俺はそれを見て、ひんやりとしたナイフのようなものを首筋に当てられたような気持になっていた。
 なんだこれは。人はこんな無機質な顔になれるのか。
「て、天使病……」
 隣で未来来がそう呟いた。
「こ、これが天使病なのか……?」
 人の心が消えてしまう奇病。
 壊れた人形になってしまう恐ろしい病気。
 俺はそれを初めて見た。
「お兄ちゃん……」
 茫然とする俺の袖を、そこにいたメイジーが引っ張った。その声は震えていて、その金色の瞳にも涙が溢れていた。
「メイジー……お前は大丈夫だったのか?」
「うん。でも、でも……。明子ちゃんが――」
 メイジーは涙を浮かべながらその少女を見つめていた。そうか、この子はメイジーの友達なのか。
「ほら、どいてどいて!」
 教師たちはその女の子を運んで行った。あのまま病院に運ばれて行くのだろう。俺はただそれを見てるだけだった。
 俺の腕をメイジーがぎゅっと握りしめた。痛かったが、メイジーの胸はもっと痛いだろう。無理矢理ここに転入させられて、向こうの友達と急な別れをしたメイジー。それでも明るく礼儀正しいメイジーはこっちでも多くの友達が出来たようだった。なのに、その友達がこんなことになるなんて。
 がくがくと足を震わせ、メイジーはその場に膝を崩してしまう。
「お、おい。大丈夫かメイジー!」
「大丈夫メイジーちゃん!?」
 そのメイジーの顔は青く、汗がにじんでいた。
「貧血みたいやね。保健室に運ぼうゼンザ兄ちゃん」
 貧血。そういえば朝ごはんをメイジーはちゃんと食べていなかった。それに加えてこんなショックな出来事に遭遇したんだ。小さなメイジーの身体がもたなかったんだろう。俺はメイジーを背負う。メイジーの身体は紙のように軽い。もう少し太れよ、育ち盛りなんだから。
「待って茜燦さん。私たちも行く――」
「いや、そんな大人数で保健室行っても迷惑だし、お前たちは教室に戻れ。早く飯食わないと昼休み終わっちまうぞ」
 心配そうに見ている二人をなんとかなだめ、俺は保健室に向かった。
 俺は保健室のドアを数回ノックする。返事は無い。
「あのー、誰かいませんかー」
 部屋に入るとつんとした薬品と、保健室独特の清潔な匂いが鼻を刺激した。保健の先生がどうやら今はいないみたいだから、俺はとりあえずメイジーをベッドに寝かせようと、保健室のベッドに向かった。そこには白いカーテンが引かれていて、俺はそれをさっと開く。俺はそこにある光景を見てドン引きする。
 そこには二人の男女が一緒のベッドに寝転んでいたのだ。
「なななななななななななななっ――!」
 子犬のような小柄な女の子と、女みたいな整った顔をした男子生徒が幸せそうに眠りこけていたのだ。二人とも同じベッドでシーツに包まり、すーすーと寝息を立て、むにゃむにゃと寝言を言っている。思わずこっちが赤面してしまう。
 俺が後ずさりし、ベッドから離れると、
「あら、この保健室に真っ当な病人が来るなんて珍しいわね」
 というハスキーだが艶のある声が聞こえてきた。その声のほうを振り向くと、一升瓶を片手に持った白衣の女性が立っていた。ソバージュのかかった髪に、ちらちらと目線に困るくらいに短いタイトスカートを穿いている。酔っているのか、ほんのりと顔が赤い。
「ほ、保健の先生ですか?」
「そうよ~。臨床心理士の羽里《はねざと》由宇《ゆう》よ。ゆーちゃんって読んでね。えへへへへ」
 笑いながらそう言うと、一升瓶をらっぱ飲みし始めた。何なんだこの人。本当に保健医なのか。
「あ、あの。知り合いが貧血で倒れたんでベッド借りたいんですけど。その、妙な先客がいまして……」
「ああん? またあいつら来てるのかしら……」
 ひっくとしゃっくりしながら羽里先生はさっきの二人がいるベッドへと歩みよって行った。
「こらぁクソガキ共! 昼間っからさかってんじゃないわよ!」
 そう叫んで羽里先生は二人が寝ているシーツを思い切りひっくり返した。その二人は「わーっ」と言ってごろごろと床を転がって行く。
「おい藤森《ふじもり》、牧村《まきむら》、お前らいつもいつもここをホテル代わりに使いやがって、そろそろ使用料とるぞガキ共」
 羽里先生は寝ぼけている男子生徒の頬をぎりぎりと掴んでいた。それでようやく二人とも目が覚めたようで、まずいといった顔をしていた。
「そんなやらしいことしてませんよ先生。私は藤森くんがまた発作を起こしたので付き添いで来たんですよ。藤森くんがうなされてたので添い寝してあげたんです。ねー藤森くん」
「うん。牧村さんの手暖かくて気持ちよかったよ」
 二人はお互いにニコニコ笑いながら手を繋いでいた。なんなんだこのバカップルは。
「うるさい。鬱は甘え! とっとと教室戻れ!」
 カウンセラーとは思えないことを言って、羽里先生はその二人を蹴って追いだした。まったく相変わらず変な人ばっかだなこの学園は。
「んで、その子が貧血? 早く寝かせてやりな。その子の担任には私が連絡しておくから。どこのクラスだい?」
 俺がメイジーの学年とクラスを伝えると、電話で適当に連絡をしていた。俺はその間にメイジーをベッドに寝かせてやる。まだその瞳には涙が残っており、俺はそれを指ですくってやる。
「メイジー……」
 俺はそんなメイジーを見るのが辛かった。
 いつもころころと笑顔を俺に向けて、たまに頬を膨らませて怒ったりするのがたまらなく愛おしく思えた。そんなメイジーがこんなに悲しそうにしているのを見て胸が痛んだ。
 天使病。
 あれを直接見て俺は恐怖を覚えずにはいられなかった。
 もしあれが自分自身やメイジー、鵡亥姉妹とかの親しい人間がなってしまったらと思うと震えが止まらない。不安に押しつぶされそうになった俺はメイジーのちっちゃな手を握る。冷たく、白い手。握ったら壊れてしまいそうなガラスみたいに繊細な手。
 俺はメイジーや他の仲間たちを護れるんだろうか。身近な人間を、大切な人たちを護り通せるんだろうか。
 あの鎧の男のように強くなれるんだろうか。
「その子、さっき天使病を発症した子のクラスメイトみたいね」
 突然耳元でそう囁かれ、俺は思わずどきりとしてしまう。振り向くと羽里先生が鋭い目で俺とメイジーを見ていた。
「そうですよ。それでショック受けて倒れたんですよ」
「ふぅん。まあ無理もないわね。友達が廃人になったりしたら」
「羽里先生は何か天使病について知らないんですか? カウンセラーだし、何かわからないんですか?」
 俺が尋ねると、羽里先生は含みを持った微笑を浮かべた。
「知ってるわよ。天使病の研究にも私は携わってるもの。でも駄目ね。まだ全然治療のめどは立ってないわ。なんたって精神的なものなのに、その原因が外的なものだから仕方ないのだけれど」
「外的な原因……?」
 俺はその言葉を聞き逃すわけにはいかなかった。もしかして天使病は病気じゃないのか!?
「そうよ、天使病は誰かが故意に発症させているの。これは異能によるテロと言ってもいいわ」
 それを聞いてぐらりと世界が歪むような感じを受けた。それはどういうことだ。誰かが異能であの症状を起こしているのか。
「に、人間の仕業なんですか……。病気でもラルヴァでもなくて……」
「ええ、魂源力による干渉が脳波に見られるからね。でもそれがあまりに強力すぎて異能停止システムをフル使用しても無駄だったわ」
 あんな酷いことを人が、異能者がやっているなんて俺は信じられなかった。凄まじい悪寒が身体を支配する。俺は今まで考えたことなかった。いや、異能による犯罪者が多くいることは知ってる。子供じゃないんだから『悪い人なんていない』なんて都合のいいことを思ってもいない。
 だけど俺はどこかそれを別世界のように思っていたのだ。人間による悪意の攻撃を。それが自分の身近で起こるなんてことを。
 ラルヴァとは別次元の脅威。それは、どうしようもなく恐ろしい。
「それって公表されてないですよね。いいんですか、俺みたいなただの学生にそんなこと話して……」
「まあ情報漏洩は処罰の対象だけどバレなきゃいいでしょ。だってあんた、面白そうだし」
「面白そう?」
「そう。とても言い眼をしてるわ。何かやってくれそうなそんな眼」
 羽里先生はにやりと笑い、マニキュアのついた長い指を俺の唇に押しつけた。
「このことは秘密よ。誰にも言っちゃやーよ。さあ、あんたも教室に戻りなさい。子の子なら大丈夫よ、少し寝ればすぐ調子良くなるわ。専門家に任せておきなさい」
 一升瓶抱えてる保健教師なんて信用できないにもほどがあるが、確かに俺がここにいてもしょうがないだろうな。
 押されるように保健室を出て、俺は重苦しい気持ちで自分のクラスへ戻った。




 午後の授業はぼんやりと考えごとをしてしまって、ほとんど教師の言葉は頭に入ってこなかった。今日一日まともに勉強してないな、と自分で苦笑し、授業の終わりのチャイムと共に俺はバッグをかついだ。
「おーいゼンザー。映画みにいかねー。カンフーのやつだぜ」
「いや、わりぃな。俺は放課後ちょっと用事があるんだ」
 そう言って俺は足早に教室を出た。
 俺はたまに自分の無力を呪いたくなる時がある。
 自分に一体何ができるだろうか。
 たとえ世界を救う力が無くても、俺は、俺の出来ることをするしかない。
「あら。珍しいわね。もう帰るの?」
 俺が二年の廊下を歩いていると、電動車椅子に乗った女子がそう話しかけてきた。
「ああ舞華さんか。別に、大した用事じゃないですよ」
 舞華|風鈴《ちりり》さんは俺のチームメイトだ。電動車椅子に乗ってるってことはこれから戦闘演習だろう。
 俺の様子が少し変なのを悟ったのか、彼女はじっと俺を見つめていた。
「西院くん、あなた大丈夫? ちょっと表情がいつもより暗いわよ」
「よくわかりますね。それも異能のおかげですか?」
「意地悪ね。そのくらいわかるわよ。だっていつも見てるんだから……」
 後半の言葉はゴニョゴニョとしていて聞き取れなかったが、舞華さんは少し拗ねたように顔を背けてしまった。まったく。女ってのはよくわからない。でもそれがメイジーと重なり、俺の胸はちくりと痛んだ。
「ねえ西院くん。メイジーちゃんのこと聞いたわ。メイジーちゃんのクラスメイトが“天使病《てんしびょう》”を発症したんでしょ? 私たちのクラスも何人か天使病を発症した子がいるわ。あれって、なんなんだろうね」
「そうですね。でももし、もしもの話ですけど、あれが人為的なものなら、俺はそいつを許せません」
 この時の俺はどんな顔をしていただろう。舞華さんは視力が弱い。だからちゃんと俺の表情が見えているんじゃないだろう。その空気を敏感に悟っているんだ。顔を背けてもきっと悟られてる。
「そうね。あれが人為的なものなら私も許せないわ。人の心を弄ぶような真似……。どうしてそんなこと言うの? もしかして何か天使病について知ってるの?」
「ああ、いえ、ちょっとそういうこともあるかなって思っただけで、深い意味はないですよ」
「そう、もし私にできることがあるなら力になるわ。メイジーちゃんは私にとっても可愛い妹みたいなものだもの」
「ありがとうございます。それじゃ」
 俺は舞華さんに挨拶だけして校舎を出る。
 外には相変わらず寒い。まるで世界そのものが温かさを失っているようだ。
 人から心を奪う天使病。
 それを患った人は、まるで身体の中に冬が来たかのように心を凍てつかせてしまう。
 俺に出来ることなんてあるのかなんてわからない。
 それでも俺は、何かをせずにはいられない。
 ただ手をこまねいてじっと総てが終わるのを待つなんてことはできやしない。
 俺は天使病について調べることに決めた。恐らく学園側はパニックを恐れて大掛かりな捜査をしていない。でも俺にはそんなこと関係ない。
 絶対に犯人を見つけ出してやる。
 メイジーや、みんなが安心できるために、俺は、出来ることをやるだけだ。
 一日の授業が終わり、ここからは俺の時間だ。俺が何をしようと文句を言われる筋合いはない。冬の日暮れは早い。
「さて、行くか」
 と、言ったものの、まずどこから調べたらいいのか見当もつかない。
 俺は一先ず商店街へ向かった。人の集まるあそこなら何か情報がつかめるかもしれない。
 商店街は放課後の学生たちで賑わっていた。しかしこうも人が多いと逆にどこから手をつけていったらいいかわからないな。
 なんとなくぶらぶらと歩いていると、
「ちょっとそこのあなた、お待ちなさい!」
 という高圧的な声が聞こえてきた。一瞬自分のことかと思い振り返ると、風紀委員がある女生徒に絡んでいたのだった。まったく、風紀委員の中にはああしてすぐ怒鳴りつけてくる奴もいるから困るな。自分たちは正しいことをしていると思っているのだろう、いや、実際島の風紀を護るためにはああいう態度が正しいのかもしれない。なにが良くて悪いのかなんて俺にはわからないからどうでもいいが。
 事実その声を掛けられていた女生徒は、俺から見ても少し不審だった。
 ぼさぼさとした黒髪のパーマで、腕を怪我しているのか、包帯のようなものを左腕に巻き、制服もあちこち破れたりしていた。その姿はまるで路地裏の野良猫のようだ。
 風紀委員に問い詰められあたふたとしているのもなんだか怪しい。
 そして風紀委員に手を取られ、連行されようとした瞬間、俺の横何か黒いものが通り過ぎた。
「ピエロだ、気狂いピエロが出たぞぉ!」
 そんな叫び声がどこからか聞こえ、俺は前を走って行ったピエロのような格好をした黒い物を眼で追う。それはまるで曲芸師のように跳びはね、商店街を突き進んでいく。
 さらに俺の後ろから何人もの風紀委員がそのピエロを追いかけて走って行った。すると、さっきの女生徒に絡んでいた風紀委員もそれに合流し、ピエロを追いかけて行ってしまった。
 風紀委員から解放され、その女生徒は安心しきったように溜息をついていた。だが、突然頭を押さえ、ぐらりと身体のバランスが崩れ、がくりと倒れてしまう。
「ちっ、あぶねえ!」
 俺は思わず駆け寄って、そいつが倒れきる前になんとか抱きとめる。そういえば朝もこんなことあったな。そう考えていると、その女は朦朧とした目つきで俺を見上げる。
「誰……?」
「俺か? 俺は二年の西院《さい》、西院|茜燦《せんざ》。そんなことよりこんなところで寝ちまったら風邪引くぜ」
 思わずそう名乗ってしまったが、その瞬間その女生徒は気を失ってしまった。
 また面倒事かよ。ああ、めんどくせぇ。

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最終更新:2010年01月15日 16:00
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