【猛る獅子と放課後の天使たち 『承』その2】


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   ◇ ◇ ◇


 ぐるぐるぐると目が回りそうです。
 私は今階段を降りています。それは無限の螺旋階段。周りは世界を囲うような灰色の壁だけが見え、窓も無く、一体ここがどこなのかまったくわかりません。
 ふっと螺旋階段の手すりから下を覗き込んでも、螺旋階段が延々と続くだけで、底があるのかどうかも不明です。それはまるで底なしの地獄に続いているかのようです。
 鉄製のその冷たく錆びている階段に足を踏み出すたびにかつんかつんと、その空虚な空間に寂しく音だけが響き渡ります。
なぜ降りなければならないのかわかりません。ただ、自分はこの階段を降りていかなければならないという気がしてならないのです。
 ですがもう何時間、何十時間、何百時間と階段を降りているような感覚がしますが、景色が変わることはありません。気が狂いそうです。いえ、本当はもう頭がおかしくなっているのかもしれません。
 なぜ私はこんなところにいるのでしょうか。
 おかしいです。確か私は、あの喫茶店で藤森《ふじもり》くんとお茶をしていて、それで、それで、駄目です、思い出せません。ですが、私が最後に見たものは、天使のような美しい女の子の笑顔でした。
 あれは誰だったのでしょうか。
 知っているような、知らないような。クラスメイトだったような、違ったような。まるで誰の心の中にも存在するもののように、当たり前のように私に笑いかけていた女の子。
 彼女の名前はなんだったでしょうか。もうそれすらも思い出せません。
 まるで私がいた世界は夢の出来事で今いるこの灰色の階段地獄、階段の手すりに触れるとリアルな赤錆の嫌な感覚が手のひらに伝わってきます。足も疲労で棒のようになっており、一歩足を踏み出すたびに転ばないように気をつけないと階段を永久に転がり落ちていくことになるでしょう。
 降りた先に何があるのかわからないのに、それでも今はただ降りていくしかないのでしょう。何もしなければ何も景色は変わりません。
 うんざりとして心の中が孤独と不安と恐怖で押しつぶされそうになっていたとき、少し下のあたりで光が漏れていました。
 私は胸がはずみました。その光が漏れている場所は扉でした。鉄製の扉から光が漏れているのです。もしかしたらあそこが出口なのかもしれません。たとえそうでなくてもこの息の詰まるような螺旋階段から解放されるのならどこでも構いません。
 私は駆けるようにその扉の所まで階段を降りて行きます。早くこの灰色の世界から解放されたい。日の光を浴びたい。そんな衝動だけが私を突き動かしていきます。
 もしかして鍵がかかっていて開かないのでは、そんな不安を胸に抱きながらゆっくりとドアノブを回しました。すると扉はすんなりと開き、私は思い切ってその扉をばたんと開きます。 
 その扉の向こうにある景色を見て、私は眼を疑いました。
 その扉の向こう側には、サーカスがありました。きらびやかな派手でカラフルな装飾のテントに、スポットライトを浴びる曲芸師や猛獣たち。それらを囲うたくさんの観客の笑顔。今私の後ろに存在する灰色の螺旋階段の空間とはまるで別世界です。
 これはなんなんでしょう。なぜ扉の先にサーカスがあるのでしょうか。意味がわかりません。ただ私は空中からそのサーカスを見下ろしています。
 なぜだかとても懐かしい気分になってきます。思い出が押し寄せ胸が押しつぶされそうでした。
 舞台の中心で派手な格好のピエロがおどけながら手品をしている姿を見て、私は思い出しました。
 そう、このサーカスは私が子供のころに見たものとまったく同じでした。
 パパとママと三人で見た最後のサーカス。家族で過ごした最後の夜。私は胸が張り裂けそうになり、心臓が押しつぶされそうでした。
 ああ、なんてことでしょうか。その観客の中に私は見つけてしまいました。
 子供のころの自分と、それを挟むように座っているパパとママの姿を。
 何も知らない子供の私は、無邪気に笑っています。そんな私を見てパパとママも幸せそうに笑っています。私がパパとママの手を握ると、パパとママも私の手を握り返してくれます。
 このときは本当に幸せでした。
 世界の仕組みも知らず、ただ明るく綺麗な世界だけがこうしていつまでもいつまでも続いて行くのだと信じて疑いませんでした。
 ですがそれは愚かなことだったのです。私は何も知らない子供でした。
 やがてサーカスは閉幕していきます。ちょび髭を生やした団長さんが団員を引き連れて挨拶をしていました。観客たちは惜しみない拍手をし、私も席から立ち上がりぴょんぴょんと跳ねてそれを見ていました。
でもそれは夢の時間の終わりを告げるものでしかありません。
サーカスは幕を下ろし、観客たちも席を後にしていきます。パパとママも「帰ろうか優子」と言い、私を真ん中にして手を繋いで帰路につこうとしていました。
駄目です。
それ以上は駄目です。
ここから先は見たくはありません。やめてくださいお願いします。
私は眼をそらしたいのに身体が言うことをききませんでした。すぐにこの扉を閉めて、眼を瞑り、耳を閉ざし、あの螺旋階段を駆け降りたくてたまりません。この先を見るぐらいならあの何もない無間地獄に戻った方がましです。
 ですが目の前の光景は私のそんな願いを無視し、ぐにゃりと景色を歪ませていきます。
 そこに映っているのはパパとママと私がサーカスの帰り道を歩いているところでした。
 真冬の寒い夜道を、三人で肩を寄せ合い歩いています。
 何も知らない私はバカみたいに星空を指さし笑っています。そんな私を見るパパとママの眼は、とても優しいもので、優しすぎるものでした。そこには諦めや絶望の色が見えますが、愚かな子供でしかない私はそれに気づくことはありません。
「もうすぐママもパパも優子ちゃんも星になるのよ」
 ママはとてもとても悲しい眼をして私にそう言います。白い息を吐きながら辛そうな笑顔を向けています。
「そうなの? じゃあ私はあの一番大きい星みたいにいっぱいいっぱい光る星になりたいな」
 ママの言葉の意味もわからずはしゃぐ私の頭をパパはそっと撫でてくれます。その手はとても温かいものでした。でもいつもは大きく感じるパパの手が、その時は少し小さく感じました。
 私たち三人は展望台へとやってきました。
 そこから眺める夜の海の景色は夜空の星と相まって美しいものでした。
 パパとママはその海沿いの柵に手をかけ、ママと一緒に柵の向こう側へと降りて行きます。私もパパに抱きかかえられ柵の向こう側に下ろされます。「わあっ」と私はそんな声をあげてその海を見ていました。数センチ足を踏み出せば、そのまま暗い海の底へと落ちていくことになります。
「ねえ優子ちゃん。生まれ変わっても私たちの子供でいてね」
「いこう。星になろう」
 パパとママはそう私告げると、私の腕をひっぱりそのまま――
「いやあああああああああああ!」
 私は身体を無理矢理動かし、必死にその扉を閉めました。するとさっきまでの光景は嘘のように消え去り、また私は灰色の螺旋階段の世界へと戻ってきます。鉄製のその扉にもたれかかりずるずると腰を下ろし、私は荒波のように襲ってくる感情を抑えることができませんでした。
「うう、パパ……ママ……」
 子供のころの思い出がどっと押し寄せ、私は誰もここにはいないので大声で泣きました。涙が止まらず拭いても拭いても零れてきます。
 優しかったパパとママ。
 私を愛してくれたパパとママ。
 眠れない私が駄々をこねても怒らず、いつもいつも絵本を読んでくれたパパとママ。
 でも二人とも死にました。
 あの日、サーカスを見たあの夜、パパとママは私の手を引っ張り海へと沈んでいきました。
 海に叩きつけられた時の激痛、氷のように冷たかった海水に全身の力が奪われ、闇のような暗い海をパパとママと一緒に沈んでいったことが今でも昨日のように思い出すことができます。
 その海の中で混乱し、恐怖でもがく私をパパとママはずっと掴んでいました。私は死にたくないと必死にそれを引きはがそうとしました。私は怖かったのです。必死に離すまいとするパパとママが。死の底に沈んでいくのが。
 そして私は奇跡的に一人だけ助かったのでした。すぐ近くに灯台があったこと、人がいたこと、色々な偶然が重なって私だけが生き延びました。あの時パパとママの手から抜け出さなければ私もそのまま死んでいたでしょう。
 パパとママが死を選んだ理由を聞いたのは双葉学園に引き取られた後のことでした。私が知らなかっただけで、家は多額の借金を背負っていたそうです。毎日苦しんでいたパパとママ。それでも私にそんなそぶりを一度も見せたことはありませんでした。
 私は偽りの幸せしか見えていなかった愚か者です。
 人の悲しみに気付くことができなかったのです。
 私はゆっくりと立ち上がり、螺旋階段の柵に手をかけます。そこから下をのぞけば無限に続く穴。
 私はその穴をずっと見ていると吸い込まれそうな気持になっていきます。
 いっそ落ちてしまえば何もかもが楽になる。
 ぼんやりと地その底を眺めていると、自然と私の身体は傾いていきました。
「あ」
 間抜けな声と共に、私の体はまるで紙クズのようにふわりとその穴へ向かって落ちて行きました。
 真っ逆さまに。
 落ちていく。
 堕ちていく。
 ひゅるるんひゅるるんと風が身を切り、くらくらとするような風圧を受け、落ちていきます。落ちながら周りの景色を見ていてもずっと螺旋階段が続いています。
 永久に落下が続くかと思われましたが、一瞬目の前が暗くなったかと思うと、今度の私は冷たいコンクリートの上で寝転がっていました。
 そのまま仰向けになり上を見上げると、真っ青な空がありました。目線をあちこちに向けると給水タンクやここを囲うような柵が見えます。
 この場所には見覚えがありました。
 ここは学園の屋上です。私は重たい身体を無理矢理立ち上がらせて、それを直視しました。
 目の前にいる一人の人物。
 屋上の柵の向こうに立っている一人の女の子。
 その姿はあの日のパパとママに重なります。
 どくんどくんと私の心臓は鐘を打ちます。嫌な汗が滝のように流れ、吐き気を堪えないと胃の中のものを総て吐きだしてしまいそうでした。

ねえ優子ちゃん――

 その女の子はこちらを振り向きます。長い三つ編みに、可愛らしい眼鏡。
 駄目です。それは駄目です。パパとママの死を見せられ、今度は彼女の死もまた見なければならないのでしょうか。

 ねえ、優子ちゃん。藤森くんをよろしくね――

 そう微笑む彼女は、ゆっくりと向こう側へ落ちていきます。
「雨宮《あまみや》さん!」
 私がそう悲痛に叫んでも落ちていく彼女を止めることはできません。私の手が彼女手に届くことはありませんでした。
 私は愕然として彼女のいなくなった柵に掴まり、ゆっくりとその下を覗きこみます。
 私はそこにある光景を見て膝を崩しました。
「なんなのこれ……なんなのよ……」
 そこにあるのは真っ赤な地球。
 彼女の死体と血で埋め尽くされた肌色と赤で埋め尽くされている世界でした。
 いったいどれだけの彼女がそこに倒れているのでしょうか。
 億、兆、京、那由多、数え切れない死体で地球は溢れていました。
 私はそれを直視することができずに空を見上げます。
 すると空からは無数の点がこちらに近づいてきました。段々と近づいてくるそれは次第に輪郭をはっきりさせていきます。
 ああ、空から降ってくるそれもまた彼女でした。
 無数に落ちてくる彼女が地面にたたきつけられ、また死体の数を増やしていきます。
 それはまさに地獄。延々と繰り返される地獄。
「もうやめて! 雨宮さんが死ぬところなんてもう見たくないの!」
 喉が裂けるほど叫んでも目の前の光景は消えてくれません。眼をどれだけ瞑っても頭に流れ込んできます。
 もうこんな辛い光景は嫌。もう誰も死ぬところなんて見たくない。
 どれだけそれを願っても人は死に、不幸は襲ってきます。それがこの世界です。
世界は優しくなんかない! 綺麗な物なんて全部ウソ! 希望なんて、どこにもない!
 私はもう駄目でした。もう顔を上げることもできません。

「大丈夫よ。安心しなさい。私があなたを幸せにしてあげるわ」

 ふんわりした優しい声がこの地獄に響きました。私は驚いてその声が聞こえる後ろを振り向きます。
するとそこには天使がいました。
亜麻色の長い髪を風に揺らし、綺麗な顔をした女の子。その背中には真っ白な羽根が生えています。これを天使と呼ばずになんと呼びましょうか。
あまりに神々しいその輝きに、私は思わず見惚れてしまいます。天使は私に近づき、そっと抱きしめてくれました。彼女の体はとても温かく、とろけるように気持ちの良いものでした。
「どんなに明るく振る舞っても、あなたの中にある心の傷は消えないわ。どれだけ夢をみてもこれからずっと苦しんでいくの。人並みの幸せを望めば望むだけ辛い思いをするわ」
 言い聞かせるような天使の声は、まるでママのように愛に溢れているものでした。私は彼女に体を預け、天使はその羽根で私の体全体を包んでいきます。
「でももう苦しまなくていいの。泣かなくていいの。私が救ってあげるから。私を受け入れなさい」
 そしてゆっくりと私の体は本当に溶けていきます。
 どろりどろりと溶けていきます。
 どろり。
 どろり。
 どろり。



   ◇ ◇ ◇



 目覚めると、ぼくは暗闇にいた。
 いや、目覚めるという表現が正しいのかどうかもわからない。さっきまで寝ていたという感覚がないからだ。まるで突然この暗闇に放り込まれたようなわけのわからない状況。
 ここはどこなんだ。さっと地面に手をつくと、硬く冷たい感触。ここは土の上じゃない。ざらざらしてて凹凸が激しい。これは石の床か? ぼくが身体を動かそうとすると、じゃらりという音がして、ぼくの足の動きを止めた。手でそれに触れてみると、それが何かすぐにわかった。
 鎖だ。太く、錆びている鎖。
 どうやら鎖がぼくの足を縛りつけているようだった。一体何故? もしかしてぼくは監禁されているのか? いつ? だれに? どこで?
 なにも思い出せない。
 確か最後に見た光景は、喫茶店でお姉ちゃんと牧村で……。あれ? もう一人いなかったか? 亜麻色の髪の女の子がいたはずだ。あれは誰だ。誰だったんだ。混乱しているのかなんだか記憶が曖昧になっている。どういうことなんだろうか。
「おーい、誰かいないのか! ぼくは紅葉賀《もみじのが》凛人《りんど》だ! 要求はなんだ? 金か? 紅葉賀財閥に対する復讐か? 答えろ!」
 ぼくはとりあえずどこかに人がいるのかどうか確認するためにそう叫んでみる。だが帰ってくるのは自分の声の残響だけだ。そして再びこの闇の空間は静寂に包まれる。
 誰もいないのか。
 ぼくはこれからどうなる。何が起きてるんだ。
 ぼくは途方に暮れ、仕方なく、とりあえずこの空間を把握するために壁に手をつけ歩いてみる。どうやらこの空間はとても狭いようで、せいぜい畳四畳半ぐらいの小さな部屋だ。部屋全体を歩くのには鎖は十分な長さで、あくまでこれは逃げ出さないようにするためもののようだ。壁の一部に扉のようなものを見つけ、叩いたり、蹴ったりするが、鉄製のためかまったくびくともしない。
 ぼくはがっくりと肩を落とした。
「しかしここは……“あそこ”に似ているな……」
 ふと、ここがぼくが昔いたある場所と重なった。
 紅葉賀本家の地下にある牢獄。日の光が届かない暗い世界。ぼくは五歳のときから十五歳の間までずっと、その暗く狭い世界に閉じ込められて生きてきた。
 それは本当に地獄だった。地獄しか知らずにぼくは生きてきたんだ。
 そう、お姉ちゃんに助けられるまで、ぼくはずっと、ずっと――
 紅葉賀財閥は財の世界を牛耳る存在の一角で、財界のトップである“成宮《なりみや》”には及ばないが、凄まじい財力と権力を持つ一族だ。だが、鬼のように慈悲のない、悪魔のように狡猾で、亡者のように金に執着しているぼくの父、紅葉賀|義邦《よしくに》が当主を続けている以上紅葉賀に関わる人間が幸せになることはないだろう。
 ぼくはその実の父親に地下に監禁されていた。
 それは思い出したくもない過去だ。今こうして同じ状況に陥らなければずっとぼくはその辛い過去から逃げることができた。なのにぼくをここに閉じ込めてそれを思い出させようというのか。一体だれが何のために。
 ぼくはそっとその目の前にある鉄製の扉に手を触れる。
「この扉……。人間のぼくなら無理だろうけど、『化物』としてのぼくなら壊せるかもしれない……」
 『化物』――。
 父がぼくのことを心底嫌悪した眼でそう呼んだことを今でも忘れることはできない。
 天から与えられたこの“力”が、父の逆鱗に触れぼくを地下へと押しやったのだ。呪われた異形の力。でも、今はそれに頼るしかない。
 ここが暗く、誰もいないことが幸いだ。
 ぼくは全身に力を入れ、力の解放を行う。数年ぶりに行う“変身”は少し不安だったけど、問題なくぼくの体全体を歪めていく。
 ごきりごきりと骨格は人間のそれとは違うように変形し、皮膚が引っ張られていく。
 今のこのぼくの醜悪な姿を見たら、普通の人なら卒倒するだろう。
 恐らく今ぼくは、鋭い牙と爪を持ったトカゲのような猫のようなキリンのような、そんな意味のわからない生き物の見た目をしているだろう。
 双葉学園においてぼくのような変身系能力者は珍しくは無い。だが、この姿を免疫のもたない人が見ればただの化物と変わらない。父は異能やラルヴァのことを知らなかったのだから仕方のない話だが。
 異端や異質を否定し続けてきた父にとって、異端にして異質そのものの存在であるぼくのことを人間扱いしなかった。
 一緒に母のお腹から出てきたお姉ちゃんは異能を持たず、ごく普通の人間だった。それ故にぼくは父からも『いらないもの』扱いされ地下の牢獄に閉じ込められたのだ。
 ぼくを生んだ母さんは父の言いなりだった。地下室に閉じ込められる前にも、母はぼくの前に顔を出さなかった。化物の息子を生んだと思っているのか、母はぼくを最初から存在しなかったかのように扱っていた。そんな母はぼくが地下室から出てきたころにはもう死んでしまっていた。
 ぼくのような化物の息子が生まれたことは紅葉賀の恥だと父も母も思っているのだ。
 だがお姉ちゃんだけは違った。
 ぼくとお姉ちゃんは十五歳になったある日、お姉ちゃんはまるで神のように閉ざされたぼくの暗黒の世界に再び光をもたらしてくれた。
 十五歳になっていたお姉ちゃんは、すでに紅葉賀の次期当主としてのカリスマ性を発揮し、父を説き伏せたのだ。
 そうしてぼくは人の世界に戻り、その数年後双葉学園に、お姉ちゃんと一緒にやってくることになった。もともとぼく一人だけがスカウトされたのだが、お姉ちゃんがぼくと一緒にいたいといってくれたのだ。それが何よりもうれしかった。ぼくはお姉ちゃんのためならなんでもしようと思った。永遠に、未来永劫お姉ちゃんだけを愛し続けるのだ。
 そして、再びぼくは試練に立たされている。
 あの時の同じ状況。だが今はもう無力な子供じゃない。学園で異能の制御も教えられ、力を最大限に引き出すこともできる。
 ぼくはその鉄製の扉に向かって拳を突き出そうと構える。
「おやめなさい。その先へ行っても辛いものが待っているだけよ。この先にあるのは“真実”。あなたが忘れている“心の傷”」
 だが、突然その空間に女の声が響いた。
 驚き辺りを見回してもそこには暗闇があるばかりで誰もいない。人の気配もない。
「空耳……か?」
 その声は真実と言っていた。心の傷があると。
 それはなんだ、この扉の先に何があるんだ。いや、考えてもしょうがない。この先に何があろうと進まなければ状況は変わらないままだ。
 今度はお姉ちゃんが助けてくれるとは限らない。
 ぼくは謎の声を無視し、全力でその鉄製の扉を殴った。轟音と共にその扉は外に吹き飛んでいき、完全に破壊することができた。
 強烈な光が差し込みぼくは眼を伏せる。やがて眼が光りに慣れ、ぼくはゆっくりと目を開ける。
「な、なんだ……これは……」
 そこは紅葉賀本家の和室だった。
 なぜあの空間と実家の和室が繋がっているのか、ぼくは驚き後ろを振り向くが、もうそこには扉もあの部屋も存在せず、ただただ和室の障子があるだけだった。
 そしてぼくは気付く、鼻を刺激している血の臭いを。
 この臭いは隣の部屋からしてくるのだと解り、ぼくは身体を震わせる。
 和室の隣は母の部屋だ。
 ぼくは障子をばんっと開き、その部屋の光景に眼を疑った。
 母が死んでいた。
 ずたずたに身体を引き裂かれ、引きちぎられ、ボロ雑巾のように布団の上に転がっている。
「な、なんだよこれ!」
 これは夢だ! じゃなきゃありえない。
 母はそもそもぼくが地下を出た時にはもう死んでいたんだ。ここに死体があるわけがない。しかもこの母の死体はまるで、今殺されたかのように血がテラテラとしていて腐ってもいない。
 その母の死体の向こうに、うごめく人影があった。
 ぼくはそれを見てただ身体を震わせるしかなかった。
 そこに立っているのは化物。ぼくとまったく同じ姿をしている化物だった。
 だがそれはぼくよりも小柄で、そうそれは、それは、子供ころのぼくだったのだ!
 嘘だ。こんなのは夢だ。悪夢だ。ぼくが母を殺した? そんなバカな!
 誰かが呆然とするぼくの首筋を撫で、耳元で囁いた。
「だから言ったでしょう。真実を知ることが正しいとは限らないの。でもあなたは自分の“心の傷”に触れてしまった。もうあなたは戻ることはできない」
 その声はとても優しくて天使のようだった。ぼくはその声を聞いた瞬間とても救われるような気分になってきていた。
「でもいいの。もうお眠りなさい。罪の意識にも、家にも縛られることももうないわ。さあ私を受け入れなさい」
 ふわっとした天使の羽がぼくを包みこみ、温かな胸に抱かれぼくは溶けていく。
 どろりどろりと溶けていく。


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