【猛る獅子と放課後の天使たち 『承』その3】


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   ◇ ◇ ◇



 オレはそれを見て不審に思った。
 喫茶店のテーブルに昴《すばる》さんとクソ凛人と牧村と、そして亜麻色の髪の奇妙な女が座っているが、その奇妙な女以外、みんな無表情で目が虚ろだった。
 そう、それはまるで最近島内で流行っている天使病と呼ばれる症状によく似ている。
 昴さんたちがそうなったのはその奇妙な女が彼女らの手に触れてからすぐだった。あの女は昴さんたちに何をしたんだ。
 その女は立ちあがり、表情のない昴さんたちを置いて喫茶店から出ていこうとしていた。
「お、おいちょっと待てよ!」
 思わずオレはその女を引きとめようと自分も席を立ち、その女の手を引っ張った。
 すると、その女はあの歪んだ笑みをオレに向けている。全身に鳥肌が立つのをオレは感じた。こいつはまともじゃない。オレを見るその眼は深い暗黒で、深淵を映しているかのように黒々としている。
「お、お前。昴さんたちに何をしたんだ……?」
 オレがそう問いかけると、さらにその口をにやりと歪ませ、
「私は“救い”を与えているの。心に傷を持つこの世の総ての人たちに」
 そう言ってオレの頬にその手を伸ばした。その手とその顔があまりに綺麗で、オレは深くにどきりとしてしまう。昴さんには及ばないとはいえ、女に慣れていないオレには刺激が強い。
「あなたも心に傷を持っているのね。さあ、私を受け入れなさい」
 女はそう言って、頬に触れる手に力を入れ、オレの目を見つめる。オレはその目から自分の目をそらすことができなかった。

 暗転。

 オレは砂漠にいた。
「な、なんだここはあああああ!」
 意味がわからずオレは絶叫してしまう。それは仕方がないだろう。何せオレの目の前には砂漠が無限に広がっているのだから。空は青く澄んでいる。だが鳥は一匹も飛んでいない。辺りを見回しても人はいない。
 どこなんだここは。
 今、ほんの一瞬前までオレは喫茶店にいて、|誰かと《・・・》話していたはずだ。なのになぜこんな砂漠にいるんだ。
 今は冬のはずなのに、真上にある太陽がじりじりと熱を帯び、オレの身体はもう汗まみれになってしまっていた。
 砂漠の砂に足をとられながらもオレは茫然と少しずつ歩く。
 オレはそこにある奇妙なものを見つけた。最初岩か何かと思ったのだが、それは学校の机だった。学校の机が砂に半分埋まり、砂漠中に点々と落ちている。
 オレはその机を見つめ、手でなぞる。
 その机に書かれている多くの落書きを見て、暑いはずなのにオレは震えが止まらなくなった。
 それはオレの机だった。この学園に入学するまでに、外の学校でオレが使っていた机ばかりだった。
 なぜ自分の机だとわかるのかだって? 
 わかるさ、その机の落書きは、忘れようにも忘れられない。オレのことをバカにしていた連中が書き殴っていったものだからだ。「死ね」だとか「ガリ勉野郎」だとか「学校に来るなキモイ」という中傷が机いっぱいに書かれている。
 思い出したくもない悪夢。 
 この学園に来てオレはようやく平穏を取り戻したのに、なぜこんなことを思い出せるようなことを――
 オレはがちがちと自分の奥歯が鳴っていることに気付いた。ああ、発作だ。オレは目の前がぐるぐると回転し、凄まじい吐き気を覚えた。
 『井上が吐いたぞ』『きたねえ寄るな』『おい、お前クラスに迷惑かけるくらいなら学校に来るなよ』
 そんな昔の学校の奴らの声が頭に響く。
「うるさい! うるさい! オレは勉強して偉くなるんだ! いつかお前らを見下してやるんだ!」
 ああ、だけどいつかっていつなんだろう。
 オレは本当に高い城にいけるんだろうか。
 もし、オレの努力が総て無駄になったのなら、オレはオレは――
「もう頑張ることをやめていいのよ。あなたはもう競争しなくていいの」
 だが、そんな絶望の淵にいるオレの目の前に、凛として綺麗な声の天使が舞い降りた。
 オレが顔を上げると、そこには綺麗な白い羽根を生やした女の子がいた。亜麻色の髪の毛でとても美しい。それは天使に間違いないだろう。
 オレはその優しい胸に抱かれ、総ての苦しみから解放されていくような気もちになっていた。
「さあ、私を受け入れなさい。溶けて、みんな一緒になるのよ。総てが平等の、悲しみも苦しみもない世界へ」
 そうだ。それこそが救いだ。
 オレはまるで母に抱かれているような気持で、うっとりととろけていく。
 もういいんだ。戦わなくていいんだ。努力しなくていいんだ。ああ、天使様、天使様――
「…………………気をしっかり持ちなさい井上さん。彼女は天使なんかじゃありませんよ」
 心が沈んでいく瞬間に、そんなのんびりとしている声、しかし芯の通った声がオレを堕落の海から引きあげてくれた。
 オレは天使に抱かれながらその声の方を振り返る。
 その砂漠の山に、天使よりも美しく、神々しい、世界の王のような堂々たるゆっくりとした歩調で歩いてくる少女の人影があった。ふんわりとした栗色の髪の毛。行儀よく背筋の伸びた肢体。それこそがオレの本当に求める天使の姿。
「…………あなたがオメガサークルの失敗作ですね。ようやく見つけました」
 気丈な声で天使を睨みつける昴さんがそこにいた。




   ◇ ◇ ◇




 アタシが“ノイズ”と呼ばれた少女を見たのはオメガサークルの研究施設内であった。
 研究員に肩を抱かれ、虚ろな表情で白い廊下を歩いているのを少しだけ見ただけだが、アタシの視線に気づいたノイズはこっちに視線を向け、歪んだ微笑みを見せたのだった。アタシはそれに恐怖を感じ、きっと彼女は悪魔に違いないと思えた。
 アタシを含むオメガサークルの改造人間たちは記憶を奪われ、投薬により命を握られている。だから誰も逆らうことなんてできない。
 だがノイズは違った。
 彼女の“異能《ちから》”は誰よりも強力で、記憶を奪うこともできず、薬も効かず、異能を制御する拘束具《リミッター》すらなんの役にも立たなかったらしい。彼女の能力はオメガサークルを遥かに凌ぐものだったのだ。
 それ故にノイズは商品にも兵器にもならない失敗作と認定され、失敗作につけられる汚名、“雑音《ノイズ》”のコードネームを与えられた。
 ノイズが施設を壊滅状態に追い込み、脱走したと聞いたのはアタシが双葉学園にスパイとして派遣されてから数年経ったころだった。
 そして今、ノイズが双葉学園に潜入しているという情報を掴み、アタシがノイズを見つけ出し始末するという任務を課せられたのだ。
 だがそんな強大な敵を相手に、アタシがどうにかできるのだろうか。たった一人で聖痕《スティグマ》の殺し屋も相手にできるのだろうか。
 そう悩むアタシの脳裏に、ノイズの不気味な笑みが張り付いている。





「おい、大丈夫かあんた」
 その声と共にアタシは眼を覚ました。目に入ってきたのは葉の枯れた木々だった。背中には冷たい感触。どうやらアタシはベンチの上で寝かされているようである。
 ここは一体どこなんだ。そう思い立ち上がろうとした瞬間、激しい頭痛が再びアタシを襲った。薬を飲まなければ。だが苦痛に顔をゆがめるアタシを、ふっと誰かが覗きこむ。
「なんで倒れてたか知らねーけど、無理に動かないほうがいいんじゃないか」
 その人物は大きなスポーツバッグを肩にかけ、ギラギラとした鋭い目でアタシの顔を見つめてそう言った。
 こいつは誰だ。そうだ、アタシが倒れる直前にアタシを抱きとめた男。聖痕の刺客? いや、そんなわけないか。ならば学園の生徒だろうか。
 アタシはふと、気を失う直前に聞いた彼の名前を思い出す。
「ゼンザ……?」
「前座じゃねえ! 茜燦《せんざ》だ。西院《さい》茜燦だ! まったくどいつもこいつも間違えやがって……」
 彼は頭をがしがしと掻きながらそう怒っていた。なるほど、ややこしい名前のせいで彼はよく名前を間違われるのだろう。
 アタシはその名前に聞き覚えがある。彼は学園でも少し名の知れた人物だった。四つの属性を持つ魔術刀、“四宝剣”。そして超科学で造られたモンスターバイク“|戦女神の梟《パラス・グラウクス》”を操るオールラウンダーな戦士だと聞いている。オメガサークルも彼の持つ秘められた可能性に関心を持っていた。
 それに西院家は退魔の家系としても優秀だったらしい。それを思い出しアタシは先ほど戦った空蝉《うつせみ》一族のことも思い出す。そうだ。アタシは奴との戦いで倒れたんだった。さっと腕時計を見るとそんなに時間は経っていない。アタシが倒れていたのはほんの数分のようである。
「それで……ゼンザくん。ここはどこなんだ」
「……もういいや。ここは商店街の隣の双葉公園だよ。あんたが倒れたからすぐに運んできたんだ。大丈夫なのか、ほれ、これ額にでも当てろよ」
 そう言ってゼンザはアタシに濡れたハンカチをよこした。どうやら公園の水で冷やしてきたらしい。
「……すまないな」
 そのハンカチを受け取りアタシは辺りを見回す。確かにここは公園のようで、目の前に大きな池があり、もう日暮れが近いせいか公園に人気は無かった。茜色に染まる公園はなんだか不気味で、まるで異世界のように見える。
 アタシはポーチから薬を取り出し、ようやくそれを飲み頭痛が消えていく。一先ずこれで落ち着きを取り戻すことができた。
「なああんた。名前は? 俺だって名乗ったんだ、そっちの名前くらい教えてくれないと不便だろ」
 その問いに答えるか少し迷ったが、学園で使っている名前ならば何も問題ないだろう。
「アタシは三年Y組の秋山《あきやま》梓《あずさ》だ。世話になったようだ、礼を言う」
「おっと先輩だったのか。タメ口でずっと話してたよ。すんません秋山さん」
「いや、アタシはそんなこと気にしない。今まで通りでいい。名前も梓って呼び捨てで呼んでくれ。かたっ苦しいのは苦手なんだ」
「そうかい。そりゃ俺もそっちのがいいさ。それで梓、風紀委員に絡まれてたようだけど、その腕の怪我に関係あるのか?」
 ゼンザはぎらりとアタシの腕を見た。あのエセ侍、空蝉|刀哉《とうや》にやられた腕の怪我や、ボロボロになっているスカート、風紀委員でなくても不審に思うのは当然だろう。
「これは……別になんでもない。ただのかすり傷さ」
「言いたくないなら仕方ないが、俺も今調べてることがあってね。それと何か関係があるのなら見過ごすわけにはいかない」
 ゼンザは少しだけ険しい表情になっていた。その顔からは怒りと、ほんの少しの哀しみが垣間見える。
「調べていること……。なんだそれは……?」
 ゼンザは少し言い淀むが、ベンチから起き上がって座っているアタシの隣に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「“天使病”って聞いたことがあるだろう?」
 天使病。
 アタシはそれをよく知っている。
 最近学園で発生している謎の奇病だ。それは精神的な病気で、ある日何の前触れもなく廃人になってしまう生徒が大勢発生した。すでに患者は数十人に及ぶ。まるで心を失ったように虚ろな目で、起きながら夢をみているかのように誰の声も患者たちには届かないのだという。死んでもいなく、生きてもいない。そんな状態がずっと続くのだとか。
 ただその患者たちに共通しているのは、うわ言のように『天使様、天使様』と呟くらしく、それゆえに便宜上“天使病”と呼ばれている。
 それはノイズに攻撃を受けたオメガサークルの研究員たちとまったく同じ症状だった。
 それ故にオメガサークルは双葉学園にノイズが紛れ込んで攻撃を仕掛けているのだと判断したのだ。
 そう、この何万という生徒の中にノイズはいる。
ノイズは人の心の傷に入り込む。まるで知り合いのように振る舞うことも可能らしい。誰もあいつを敵だと思わない。誰もあいつを疑わない。世界を味方につけることがあいつには出来る。
 何が天使だ。ノイズは悪魔だ。奴は世界を破滅に導く。
 この学園に天使病を発生させているのはノイズに間違いない。
「ああ、アタシも天使病は知ってるよ。きみはそれを調べてるのか?」
「そうだ。俺は天使病の原因を突き止める。学園側も必死に研究しているようだけど、治療法はわからないらしい。なら俺は俺の出来ることをする」
「なぜだ。きみがそんなことをする理由があるのかい」
 ノイズを探さなければならないのに、他の生徒に足を突っ込まれては面倒だ。一体なぜ彼が天使病について調べているのか見当がつかなかった。
 アタシが彼の横顔を見つめると、苦しそうな顔で俯く。
「メイジーが……俺の妹分が泣いてるんだよ。友達が天使病になったって。俺にはそれが耐えられない。親しい人間が哀しむのを、俺はただ見ているだけなんてできない」
 アタシは彼の顔を見て胸が痛むのを感じた。
 身近な人がある日そんな風になってしまったら、とても悲しいだろう。それは改造人間のアタシでもわかる。
「学園側の調査じゃ、患者には魂源力による干渉が発見できたらしい。つまり天使病は誰かの異能による攻撃だ。天使病を引き起こしているのが人間なんだとしたら、俺はそいつを許さない」
「……それがたとえ世界を滅ぼすほどに強大な存在だとしても?」
 アタシが思わずそう尋ねると、彼の眼はかっと見開かれ、そこには真っ直ぐに燃え上がる瞳があった。
「俺は、世界の危機なんてどうだっていいんだ。そんなのはやれるやつがやればいい。だけど、俺の大切な人を泣かす奴は絶対に倒す。それだけだ」
 その眼には決意が込められている。
 そんな彼を見てアタシは自分がとても恥ずかしくなってきていた。組織の言いなりになって、なんの理由もなく戦ってきた自分。逆らえば自分が殺される。ただそれだけのために。
 だが彼は違う。彼は護るべきもののために戦っているのだ。
 アタシはそんなゼンザに賭けてみたくなってきた。
「なあゼンザくん。アタシは天使病を引き起こしている張本人を知っている。アタシはそいつを探している。きみに協力してもらいたい」
 それを聞くとゼンザは、がたりとベンチから立ち上がり驚いている。
「そ、それは本当なのか。だったら俺よりも誰か学園の――」
「ゼンザくん。これはきみだから言っているんだ。もしきみがこのことを学園側に知らせるのなら、アタシは犯人を教えない。これは契約だ。アタシの立場上学園側の力を借りることはできない。だが、アタシ一人では立ち向かうこともできない」
「そんな、あんたは一体何者なんだ……。どうして学園の力を借りようとしない」
「それは言えない。だがきみがアタシに協力してくれるのならばアタシもきみの力になろう。だが犯人の正体を知っているのはアタシだけだ。恐らくどれだけ学園側が勢力を尽くそうとも、あいつを見つけることはできないだろうね」
「くっ……」
 それを聞くゼンザの顔は戸惑っていた。これは半ば脅しだ。協力すれば犯人を教える。学園に伝えるのならばアタシはその場から立ち去るだけ。
 数十秒深く考えながら、ゼンザは再び口を開く。
「わかった……。その契約に乗るよ。それしか道が無いのなら、俺は修羅の道だろうが冥府魔道だろうが突き進むさ」
 アタシはゼンザがそう言うと踏んでいた。彼はそういう人間なのだと、アタシはこの短いやり取りでよくわかったからだ。
「きみと出会えてよかったよゼンザくん」
「よく言うぜ。ほとんど脅迫じゃねーかよ」
 ゼンザは呆れているようだったが、彼の決意に嘘はないだろう。アタシが手を差し出すと、ゼンザはそれに手を重ね握手をする。
 ゼンザがアタシを信用しなくたっていい、アタシは彼を信じることにした。
「あ、お兄ちゃん!」
 アタシたち二人が握手していると、そんな可愛らしい声が聞こえてきた。
 声のした方に視線を向けると、中等部の制服を着た小柄な女の子がこちらに歩いて来る。
「メイジー」
 ゼンザはその少女のことをそう呼ぶ。なるほど、どうやら彼女が彼の言っていた妹分のようだ。メイジーは英国人のような金髪に、琥珀のようなくりくりとして綺麗な金色の瞳をしている。ボサボサの髪のアタシは彼女のさらさらとした髪に憧れてしまう。彼女は名前の通り日本人ではないのだろう。“妹”ではなく“妹分”という呼び方からしてなんとなく二人の関係性がわかる。
「おいメイジー。危ないだろこんな夕暮れに一人で歩いてちゃ。それにもう身体は大丈夫なのか?」
「もう大丈夫だよお兄ちゃん。ごめんね、迷惑かけかって。それに私もう小さな子供じゃないんだよ」
 子供扱いするゼンザに、少しだけ頬を膨らませるメイジーの姿はとても愛らしく、女のアタシでもなんだか頬が緩んでしまいそうになる。そんな彼女はアタシに気付いたらしく、ゼンザの背中に隠れながらこちらをじっと見ていた。その姿は小動物のようで微笑ましい。
「お兄ちゃん……この人は……?」
「ああ、先輩の秋山梓さんだ」
「あ、あの……中等部二年のメイシャルリント・ジーオレノです。長いのでメイジーと呼んでください……」  
「三年の秋山梓だ。よろしく――えっと、メイジーちゃん」
 そう名乗り合うが、なんだかアタシをみるその視線は刺を感じさせ、アタシとゼンザをちらちらと交互に見ていた。なるほど、どんなに可愛くて小さくても“女”というわけか。
「それでメイジー。こんな夕方までどこ行ってたんだ。今日はもう早く帰ったと思ってたぞ」
「病院……行ってたの……」
 そう言うメイジーの顔は段々と暗くなっていく。そういえばこの子の友達が天使病になったと言っていた。
「うう……ひっく……。せっかく……こっちにきて友達もたくさんできたのに……もういやだよお別れは……」
 メイジーはぼろぼろと涙を流し始めた。ゼンザと顔を合わせて張り詰めていた感情が解かれたのだろうか、ゼンザの胸に顔をよせて嗚咽交じりに泣いている。ゼンザはそんな彼女の頭を優しく撫で、黙って彼女が泣き止むのを待っている。
 こんな風に感情をぶつけられる相手がいるということに、アタシは少しだけ嫉妬してしまっていた。
 黄昏の日差しに照らされ、身を寄せ合う二人の光景はまるで絵画のように美しく、とても神聖なものに見えた。アタシのような日陰ものが踏み入れない、綺麗な世界。アタシは汚れた世界ばかり見てきたが、世界はそれだけではないのだと、闇があるように光があるのだと、思わずにはいられなかった。
 だが、それでも世界に蔓延する悪意は誰にでも容赦なく襲いかかってくる。

「おーおー仲の睦まじいことで、己《おれ》はそういうの見るとぶっ壊したくなるぜ!……でござる」

 突然どこからかそんな嘲笑う声が響いてきた。
 アタシはブレザーの袖から鎖を取り出し、ゼンザもメイジーを抱き、辺りを警戒している。どこからかわからないが、とんでもない殺意の重圧《プレッシャー》がアタシたちを取り囲んでいた。
 間違いない、この純粋な悪意と殺意。それは殺し屋のものだ。
「気をつけろゼンザくん。敵が近くにいる!」
「敵……? 敵って誰なんだ……!?」
「天使病を起こしている犯人、その手下だ……」
 それを聞いたゼンザ、真剣な顔つきになりアタシの背中に背中を預けた。
「いいかメイジー。俺から離れるなよ」
「う、うん。わかったお兄ちゃん……」
 その声は恐怖で震えているが、ゼンザを信頼しているのが伝わってくる。まったく、羨ましいことだ。
 しかし敵はどこにいる。声だけは聞こえたが姿が見えない。周りを見回しても風に吹かれる朽ちた木々がざわついているだけだ。
 どこだ。
 どこだ。
 どこだ。
「どこを見ている、ここだぜ!……でござる」
「――!」
 アタシとゼンザは同時に上を向く、しかしそこにも誰もいない。夕日に染まる空だけが静かにそこにあるだけだ。
 だがアタシの異能“|自動追尾鎖《オートロックチェーン》”は敵の攻撃を感知していた。じゃらりと鎖はアタシの腕を引っ張る。それは、アタシたちの真下だった。
 アタシはぎょっと眼を疑った。アタシたちの足元からナイフの刃先が生えてきたのだった。そしてナイフの刀身が見え、次には手までも地面から生えてくる。いや、それどころか人間そのものが地面から出てきたのであった。
 その人物がナイフをそのまま下からアタシの顔に向かって伸ばしてくるが、アタシはそれを鎖で受け止め、足でゼンザを蹴って突き離し、自分自身もその反動で後ろへと下がる。
 アタシに蹴られ、ごろごろとゼンザは地面を転がり「な、何するんだよ!!」と叫ぶが、目の前の光景を見てその口を閉じた。アタシたちがさっきまで立っていた場所にそいつは突然現れたのだ。
 地面から生えてきたその人物は「ちっ……でござる」と呟いてそこに佇んでいる。
 そこの人物は先ほどの空蝉刀哉と負けず劣らずの珍妙な格好だった。
「己は空蝉|影丸《かげまる》。刀哉兄ちゃんが世話になったんだってね。だが己は刀哉兄ちゃんほど甘くねーぜ。容赦なんかしないぞ……でござる」
 そんな声が顔につけられている狐のお面から聞こえてくる。お祭りに使われるような稲荷の面だ。影丸と名乗るそいつは、狐面に全身を覆う黒いコート姿で、それはまるで忍者を思わせる風態だった。だが得物はクナイではなく大きくごつい軍用のナイフで、異様過ぎるその格好と相まってもはや嫌な汗が出るだけで笑えない。
「お前も、空蝉一族の暗殺者か……」
「そうだ、己たち空蝉三兄弟はノイズ様のためならばなんでもするのさ。たとえ世界を敵に回そうが構うものか……でござる」
 狐面のせいで表情もわからないが、その声からは冷徹な印象を受けた。
 影丸の姿は夕日の逆光で出来た大きな木の影の上に立っていて、まるで狐のお面だけが闇に浮いているように見える。
 いや違う。アタシは眼をこすり、影丸の姿を凝視する。
 その姿は本当に闇に溶け込んでいた。そして再び地面に吸い込まれるように潜って消えてしまった。いや、地面の中に入ってるんじゃない。地面は抉れても膨らんでもいない。
「気をつけろゼンザくん。奴は地中を潜ってるんじゃない、“影”を移動してるんだ! 恐らく瞬間移動《テレポート》の一種だろう」
 どうやら影丸は、影から影へと移動することができるようだ。
「ああ、言われなくてもわかってるさ。だけど影なんていくらでもあるぞ、一体どこか襲ってくるか予測がつかない」
 確かにそうだ。だがアタシの異能なら――
 ほんのわずかな沈黙。風が吹き、木が揺れる。
 その刹那、アタシの鎖が「ちゃり」と音を発した。
「――――そこだ!」
 アタシが伸ばした鎖はアタシの真後ろで、その鎖は地面に伸びていく。そしてそこから出現した影丸のナイフを絡め取る。
「今だゼンザくん!」
「よし、下がってろメイジー!」
 ゼンザは影丸に向かって駆けだし、手に持っていたスポーツバッグを影丸に向かって振り下ろした。
「ちっ――でござる」
 そう呟いた影丸はナイフを捨て、その手でゼンザのバッグを防御しようと手を十字に組むが、そのバッグが影丸に当たった時、凄まじい音がした。バッグの中に重いものが入っているのだろうか、凄まじい衝撃を受け影丸の小柄な身体は向こう側へと吹き飛んでいってしまった。
「おいゼンザくん……その中何が入ってるんだ? 隋分重そうだが……」
「ああ、これか?」
 ゼンザはバッグを開き、その中のものを取り出した。
 それはなんと形容すればいいだろうか。それは刀、四本の刀だった。だがその四つの鞘は連結しており、とても不思議な形状をしている。
「それは、四宝剣……」
「そうさ、これが西院に代々伝わる退魔の剣。俺の武器だ。だが、これはラルヴァを倒すための刀だ。人間相手に使いたくはない」
 そう言うゼンザの顔には迷いが見えた。当然だろう。たとえ戦闘慣れしている双葉学園の生徒と言っても、“人間との戦い”は想定されていない。
「だがゼンザくん。やらなければこちらがやられる。相手はこちらの命を全力で奪ってくるつもりだ」
「わかってる。わかってるさ……」
 アタシたちは地面に転がってぴくりとも動かない影丸を見つめる。これで決着がついたのだろうか。
「くくくく……でござる」
 影丸は突然そう笑いだし、身体をゆっくりと起き上がらせていた。狐面からは表情は読み取れないが、そこからは余裕を感じ、まったくダメージを受けている様子はない。
「そうか、それが四宝剣か。ということは、貴様は西院の者か……でござる」
 影丸はゼンザのほうを向き肩で笑っていた。そんな異様な影丸を見て、ゼンザは刀の柄に手を置き、いつでも抜刀できるように身構えている。
「お前、俺のことを知っているのか……?」
「ああ知ってるさ。昔は退魔士の家系だったらしいが今はもうその力はほとんど残っていないんだろう。大昔は己たち空蝉一族と肩を並べるほどだったらしいが、その末裔が双葉学園などという不抜けた組織に飼われているとはな。落ちたものよ……でござる」
 バカにしたような、見下しているような言葉で影丸はゼンザを挑発していた。同じ退魔の家系である西院と空蝉。恐らく大昔には何らかの確執があったのかもしれない。だが今の時代にまでそんなものを引っ張るなんて馬鹿げている。ゼンザの顔を横目で見ると、眉間に皺を寄せ、怒りの色が見えた。
「おいゼンザくん。安い挑発に乗るんじゃないぞ」
「わかってるよ。家が退魔士だったのは大分昔の話さ。俺には関係ない」
 そう強がっているが、自分の一族をバカにするようなその物言いを、黙って聞いていられるほど彼は冷たい人間ではないのだろう。自然と柄を握る手は強くなっていく。
「そんなことないもん。お兄ちゃんはあなたよりもずっとずっと強いもん!」
 しかし、影丸に反論をしたのはゼンザではなくアタシたちの後ろにいたメイジーだった。涙を眼に浮かべながらも、目の前の殺し屋を毅然と睨みつけている。
「よせ、メイジー」
「だってだって……。お兄ちゃんをバカにするなんて私許せないもん……」
 メイジーの肩や足は震えている。それはそうだ。殺し屋のプレッシャーをこんな小さな子が受けたら普通は恐怖で口も開けないだろう。
「ああ美しきかな兄妹愛ってか。己はそんな綺麗ごとを見るとぐちゃぐちゃのバラバラにしたくなるんだよね……でござる」
 くくくとメイジーを見て嘲笑う影丸のその声は、冬の空気のように冷たく、悪意に満ちていた。駄目だ。こいつにこれ以上喋らせては駄目だ。
 アタシは無言で影丸の方へと手を突き出し、鎖を全力で伸ばす。鎖は真っ直ぐと影丸の方へと向かっていくが、影丸はまたも木の影に潜りこみそれを避けた。
「しまった――!」
 次はどこだ、どこから来る!?
 アタシとゼンザがばっと辺りを見回すが、どこにもいない。だが突然「きゃあ!」とメイジーの悲鳴が聞こえ、アタシとゼンザは顔を青くする。
 後ろを振り向くと、メイジーの首筋にナイフを当てている影丸の姿があった。
「メイジー!!」
 悲痛に叫び駆け寄ろうとしたゼンザを、影丸は手を前に突き出しそれを制止した。
「おっと、それ以上近寄るんじゃねえよ西院のガキ。この白い首に刃を突きたてられなくなければな……でござる」
「お兄ちゃん……」
「くそ……」
 ゼンザは立ち止り、苦々しい表情でただ影丸を睨みつけるしかなかった。
「くくく、そうだ。大人しくしていろ。さすがの己でも四宝剣を持った異能者と、改造人間を二人同時にするのは分が悪い。おーおー怖い顔してるな。卑怯と罵るかい? それは己にとって最高の褒め言葉だ……でござる」
「な、何が望みだ……」
「さてな。どうしてやろうか。そうだ、その四宝剣を己に寄こせ。その刀はお前みたいなやつが持っていても宝の持ち腐れだ。己たち空蝉一族がしっかり使ってやるぜ……でござる」
「わかった……」
「駄目お兄ちゃん! それは大切なものなんでしょ!」
 メイジーはそう叫ぶが、ゼンザは黙って四宝剣を影丸のもとへ投げる。メイジーの命と四宝剣、天秤に掛けるまでもないだろう。だが、これでゼンザは戦う術を失ってしまった。
「素直でよろしい……でござる」
「これでいいだろ。メイジーを早く離せ!」
「バカが。この己が約束を護ると思ったか? 女の血を浴びるなんて久しぶりだからな。思い切りいかせてもらうぜ……でござる」
 そう言いながら影丸はその狐面をカクカクと揺らし嘲笑っていた。なんて奴だ。最初からそのつもりだったのか。
「やめろ! メイジーに手を出すな!」
「お兄ちゃん!」
 二人の叫びを無視し、影丸はナイフをメイジーの首筋に近づけていく。
 もう駄目だ。アタシは思わず目を瞑ってしまう。だがその瞬間、

「お止めなさい影丸」

 という凛とした声が公園に響き、影丸はぴたりとその手を止めてしまった。アタシはその声の主を見て驚きを隠しきれなかった。
 影丸を制止したのは一人の女。亜麻色の長い髪の毛を風に揺らし、堂々たる様子でこちらに歩いてきたのは、間違いなくアタシが探していた人物だった。
「ノイズ!!」
 アタシが怒りを込めてあいつの名前を叫ぶと、むこうもアタシに気付いたようで、天使のような悪魔の微笑みを向けてきた。アタシはそれを見てぞくりと背筋を凍らせる。
 まるでこの世の総ての絶望を煮詰めたような黒い瞳が射抜くようにこっちを見つめている。思わず足が震え、アタシは誤魔化しきれない恐怖を覚えていた。
「お、おい梓。あいつはなんだ……。何者なんだ……?」
 ゼンザもノイズがただものではないと身体で感じているようで、どっと汗を噴き出していた。
「あいつはノイズ……。あいつが天使病の原因だ!」
「あの女が……!?」
 アタシがそう言うと、ゼンザは驚いたようにノイズを見つめていた。当然だろう、見た目だけなら自分たちの年齢と変わらない普通の女の子だ。だが奴自身から発せられる異質な空気は尋常じゃない。
「お久しぶりねタブラチュア。あら、確か今は秋山梓だったかしら。私もここでは柏木蛍って名前があるのよ。どう? 可愛いでしょう。ふふ、どうでもいいわね。名前なんて些細なものよ」
 ノイズはそう私に言った。何か言い返してやりたかったが、ノイズはふっと影丸のほうへと振り向いた。あの影丸が委縮しているように小さく震えている。
「影丸さん。女の子に傷をつけようなんてしちゃダメよ。私が許さないわよそんなことは」
「ご、ごめんなさいノイズ様。しかし、こいつらは己らの邪魔を――」
「だからって争いごとをしていては誰も救われないのよ。その子は私が“救済”してあげるわ」
 そう言いながらノイズは、ゆっくりとその白い手をメイジーの頬に寄せていた。
「な、何……?」
「まて、メイジーに何をする気だ!」
 ゼンザがそう叫んでも、ノイズは一切気にせずにこりと笑っている。
「だから“救済”よ。これでこの子も悲しみもない、誰も傷つかない世界にいけるのよ」
 ノイズがそう言い終わると同時に、メイジーの瞳から光が消え、立つ力も失ったかのようにがくりと項垂れてしまった。
「メイジー!」
「ほら影丸。その子を離してあげなさい。もうそれは何の意味も持たない器だから」
「わかりましたノイズ様……でござる」
 そう言って影丸はメイジーをどんと突き離し、ゼンザは駆け寄ってなんとか抱きとめる。
 ゼンザがどれだけ呼びかけても、メイジーは心を失ったかのように口を開かなくなってしまっている。
「さあ帰りましょう影丸。私たちの城へ」
 満足したような顔のノイズと共に、影丸は再び闇の中に溶け込んでいく。
「逃がすか!」
 アタシが鎖を伸ばし二人を捕えようとするが、二人はもう影の中へと姿を消してしまい、鎖は空を切るだけだった。
 まるで最初から誰もいなかったかのようにしんっと場が静まり帰る。そこに残されたのはアタシとゼンザと、そして天使に心を奪われたメイジーだけであった。
 ゼンザは愕然と肩を落とし、その場に膝をついてしまう。
「畜生、畜生!」
 ゼンザは自らの拳を何度も何度も地面へと叩きつけ、まるで自分を責めているようだ。皮が破れ、血が滲んでいる。
 そんな痛々しいゼンザにアタシはかける言葉が見つからない。
 ただ荒ぶる獅子のような彼の慟哭が、虚しく茜色の空に響くだけだった。


  『転』へ続く




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