【ぼく、ペテン師:解決編その2】


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       6


 夢を見なかった。
 目が覚めたときには白い天井と、泣きながらぼくを見下ろしているアキ姉の顔が見えた。白い壁に白いシーツに白いカーテン。鼻を刺激する清潔な匂い。ここはどうやら病院のようだ。そうか。ぼくはあの後倒れて運ばれてしまったようだ。
「中也くん、目を覚ましたのね。本当によかったわ……」
 アキ姉はそう言ってぼくの身体を思い切り抱きしめてくる。涙で顔をくしゃくしゃにしていて、目も真っ赤だった。痛い。痛いよアキ姉。体のあちこちが折れているのに抱きついてくるなって。でもぼくは、そう文句を言う前に、
「ごめんアキ姉。また心配かけて」
 自然とそんな言葉が口に出た。それは|嘘の言葉《ペテン》ではなくぽつりと出た本心の言葉。ぼくはアキ姉の頭を撫で、頬に軽くキスをした。するとアキ姉は驚いたように顔を真っ赤にして跳びはねた。
「もう、中也くんずるい! そんなことされたらお姉ちゃん怒れないじゃない!」
「へへ。先手を打ってやったよ。いつものお返しだ」
 ぼくは顔を赤くして俯くアキ姉の頭を撫でようと手をシーツから手を出そうとするが、ずきりと激痛が走った。
「駄目だよ中也くん無理しちゃ!」
 ぼくの右手の指には包帯が巻かれている。
 奥瀬裕也によって切り落とされた人差し指が確かにそこにあった。
「よかったね中也くん。すぐに救急車が来て処置してくれたおかげで指もちゃんとくっつくって」
 ぼくも自分の指を見て安心した。指が無ければ食事の時や勉強とのときに困るからね。
「……龍之介は?」
 ぼくは大怪我を負っていた龍之介の安否が気になっていた。あれだけの怪我だ。もし死んでしまっていても不思議じゃない。
「龍くんはね、今もまだ集中治療室だって……。でもなんとか一命は取り留めたってお医者様が言ってたからきっと大丈夫よ」
 ぼくはそれを聞いて安心する。龍之介のことだ。即死じゃない限りあいつは死なないだろう。ゴキブリ以上に生命力の強い奴だから。
「姉さん。ちょっと喉渇いたから飲み物買って来てくれないか」
「うん。わかった。じゃあ中也くんの好きなおしるこおでんジュース買ってくるね!」
 ぼくがそう頼むと、とびきりの笑顔でアキ姉は病室を飛び出て行った。そしてぼくもゆっくりと痛む身体を立ち上がらせ、病室を出ていく。
 アキ姉がいると面倒だ。
 今のうちに済ましてしまおう。
 ぼくはそのへんを歩いていた看護師に浅木先輩《・・・・》の病室を教えてもらい、その病室まで壁に手をつけながら歩いていく。
 ぼくより大怪我の浅木先輩も入院しているだろうと踏んだがどうやら正解のようだ。
 なんとか浅木先輩の病室へ辿りつき、ノックをする。
「はあい。どうぞ」
 すると、中から女の子の声が聞こえてきた。
 がらりと引き戸を開けると、虚ろな目でベッドに横になっている浅木先輩と、それを看病していた野村さんがそこにいた。
「あっ、中也さん。大丈夫なんですか?」
「うん。彼よりよっぽど軽傷だよ。それよりちょっといいかな」
「あっ、はい。でもちょっと待って下さい」
 野村さんは浅木先輩の折れた両腕に自分の手を重ねていた。そして驚くことにその手は薄く光っている。
 これは異能、か。
「治癒能力者《ヒーラー》なのかい、野村さんは」
「はい。傷をちょっと癒す程度ですけど……。こんなのこんな大怪我にはほとんど意味無いものですけど、私にできるのはこれくらいですし……」
 それを聞いて足りなかったパズルのピースがそろいぼくは確信《・・》した。誰が青鬼で、誰が赤鬼なのかを……。
「野村さん。ぼくは今起きたばかりだからよくわからないんだけど、奥瀬先輩はどうなったの?」
「はい。今は警察病院にいるみたいですけど、異能犯罪者として裁かれると思います。それにしても今でも信じられないです。まさか奥瀬先輩がストーカーだったなんて……。しかもあっくんをこんな大怪我させて……。二人は親友だったのに……」
 野村さんはまた涙を流している。ぼくはそれを見ていられなかった。
「野村さん、浅木先輩は大丈夫?」
「はい。命に別条はないですけど、恐怖と奥瀬先輩に裏切られたことがショックだったみたいで、ずっとこんな調子なんです」
 浅木先輩はぼけっと口を開け、どこを見るでもなくずっと目を開いたままだ。そこに光はなく、物悲しさを感じさせる光景だろう。生憎ぼくは同情なんて概念がよくわからないのでかける言葉が見つからないが。
「それに、あっくんはもうこれで完全にプロボクサーの道が断たれてしまいました。もう二度とリングに立てないってお医者さんが……」
 両手両足を完璧に折られ、心も閉ざしてしまった浅木先輩を、野村さんは愛おしそうに眺めていた。
「大丈夫だよあっくん。私がいるから。私がずっとそばにいてあげるから」
 その瞳は慈愛に溢れ、一生浅木先輩に尽くすことを決意しているように見えた。まるで聖母のように、浅木先輩の頬を優しくその細い指でなぞっている。
 ぼくは浅木先輩の傍に近寄り、虚ろな目をしている浅木先輩の耳元に言葉を贈る。
「“ストーカーの正体はあなたの親友の奥瀬裕也でした。ですが安心してください。ストーカーは逮捕され、もうあなたたち二人を邪魔するものはいません。末永く幸せになってください”」
 それだけを告げると、ぼくは野村さんにぺこりと頭を下げ、病室を出ていく。
 これでいい。
 これでハッピーエンド。
 これで大団円。
 もう事件は終わりだ、解決だ。最高だね。
 真実《・・》なんて糞喰らえだ。
 ぼくは病院の庭に出て、爽やかな風に触れ、青空を見上げた。とても清々しい気分だ。
 ぼくがぼんやりとそうして病院の庭で空を見ていると、突然背中に激しい衝撃が走る。
 あまりに突然のことにぼくはそのまま地面を無様に転がっていく。ただでさえ怪我をしているのに、そのせいでさらに体中が痛い。その上誰かがぼくの腹を思い切り蹴り、うめくぼくの顔面をさらに蹴りあげた。
 ぼくは血を流し地面に仰向けに寝転がり、ぼくを蹴った人物を見上げる。
 その女は魔女のような黒いとんがり帽子に、真っ黒なドレス(いわゆるゴスロリファッションというものだ)を着込んでいる。黒い髪を太い三つ編みにして、大きな隈のある目を厳しく細め、ぼくを見下ろしていた。
 厚底のブーツを履いていて、つま先のあたりにぼくの血がこびりついている。
 その魔女みたいな女をぼくは知っている。知りすぎているくらいに知っている。
「やあユキ姉。久しぶり」
「ええ、久しぶりね愚弟。相変わらず殺してやりたいくらい可愛い顔をしてるわね」








エピローグ(あるいは回答編という名の蛇足)


 夏目《なつめ》雪緒《ゆきお》。
 夏目家の長女にして恐るべき魔女。夏目五人兄弟最強の女。
 ぼくはユキ姉に引きずられて、無理矢理ベンチの上に座らされた。
 ユキ姉は自販機で温かい飲み物を買い、ぼくの隣へと座る。アキ姉と良く似た綺麗な顔立ちをしているが、まったく穏やかさもなく、氷のように冷たい表情をしている。
「ありがとうユキ姉」
 そう言ってユキ姉が持ってきたホットコーヒーを手に取ろうとしたが、その手の甲に爪を立てられ、血が出た。
「いてえ!」
「これはあたしのよ。お前の分のわけないじゃない」
 澄ました表情のまま、ユキ姉は冷たい風が吹く庭で、一人でコーヒーを飲みほした。
「はあ、温まるわ」
「鬼だなユキ姉。ぼくパジャマのままでくそ寒いんだけど」
「あら、あなた自分で買ったらどうなの」
「財布なんてもってないって……。まあいいや」
 ぼくは鼻血を袖で拭い、ユキ姉を見つめる。ユキ姉は普段自分のマンションに引きこもっていて、普段学園にも顔を出さないし、ぼくもユキ姉と直接会うのは半年以上前だ。なのになんでここに? もしかしてぼくや龍之介のお見舞い? いや、それはありえないか。絶対にあり得ないな。
 なぜならユキ姉には優しさが欠けているから。
 ぼくに感情が理解できないように。
 龍之介に痛みが理解できないように。
 アキ姉に悪意が理解できないように。
 ユキ姉は『優しさ』が理解できない。
 ユキ姉もまた、夏目家の呪われた性質を持っているのだ。
 ユキ姉は自分にも他人にも絶対的に厳しくする。甘えやぬるま湯を絶対に許さず、幸福という概念すらも否定する。
 それが夏目雪緒という存在だった。
「ユキ姉。なんでここに来たんだ。何が目的だ」
 ぼくがそう尋ねると、ふっと目を瞑り、真っ赤な唇を動かして答える。
「愚弟の尻を拭いによ」
「なんだって?」
「中也。あんたは甘い。甘すぎるのよ。偽善と言ってもいいわ。いいえ、賢治お兄様の言葉を借りれば、そう、ペテンね」
「――っ」
 そう言われ、ぼくは何も言えなくなってしまう。
 なぜだかわからないがユキ姉は気付いている。真実に。
「何を言ってるのさユキ姉……」
「誤魔化しても無駄よ。探偵部のあの気持ちの悪い男から話は聞いたわ」
「朝顔くんか。なんで部外者に依頼のことを話しちゃうんだよ……」
 ぼくは思わず溜息をついてしまう。口が軽すぎだよ朝顔くん。ユキ姉にそんなことを話したら嬉々として踏み込んでくるんだから。
「あら部外者だなんて心外ね。龍之介に探偵部を作れって言ったのはあたしよ。言わばわたしが探偵部のボスってところね」
「げっ、本当かよ……」
 ならぼくたちの行動は全部ユキ姉に筒抜けなのか。いやだなそれ。本当に。
「そ、それで。ぼくの何が偽善だっていうんだよユキ姉。犯人の奥瀬裕也が逮捕されてめでたしめでたしだろ」
「そうね。あんたは嘘は言っていないわ。でも本当のことを言っていない。そうね?」
 ぼくはどきりと心臓が高鳴るのを感じた。
「な、なんのことさ」
「ストーカーは、真犯人は|野村桃子自身《・・・・・・》だということをよ」
 ユキ姉は淡々と告げた。
 ユキ姉もぼくと同じ真実に辿りついていたのだ。
 全部なにもかも野村さんの自作自演だということに。
 そう、野村さんこそが“赤鬼”だったということに。
「甘いのよあんたは。真実を隠したところでその先に未来はないわ」
「何言ってんだよユキ姉。野村さんがストーカーだなんてありえないだろ。なんでそんなことをしなくちゃいけないんだよ」
 それでもぼくは真実から目を背けたくて思わず反論してしまう。無駄だというのに。
「それがあり得るのよ。むしろそうじゃなきゃ辻褄が合わないの」
 ユキ姉はぐいっとホットコーヒーをぽいっと投げ捨てて近くにあったゴミ箱に見事に入れ、容赦なく言葉を続ける。
「浅木昭雄が犯人ではなく、奥瀬裕也がもし犯人なら野村桃子の部屋に侵入したり、盗聴器や盗撮カメラを仕込むことは不可能だわ。それが全部野村桃子の自作自演なら納得できるでしょう」
「そ、そんなの何かをして侵入したかもしれないだろう。それにぼくたちを襲って、そして掴まったのは紛れもなく奥瀬裕也だ。それが何よりもの証拠だろ」
「そうね、あなたたちを襲い、浅木昭雄に大怪我を負わせたのは確かに奥瀬裕也でしょう。風邪をひいたふりをしていたのは声を誤魔化すためだし、アリバイがあったと言っていても彼のような身体能力者なら凄まじいスピードで寮と野村桃子の寮を一瞬で移動することくらい容易でしょう」
「そうだね。きっとそうやって奥瀬裕也はぼくたちを襲ったんだ……」
「けど、そこで奥瀬裕也が犯人となると矛盾が出来るわね。そう、龍之介がつけたはずのスタンガンの痕が奥瀬裕也の顔にはなかった」
「……」
「なぜ怪我が消えていたか。そんなのは簡単よ、治癒能力者《ヒーラー》に治してもらったに決まってるわ。ここは常識が通じない双葉学園ですもの。そして、彼の近くにいる治癒能力者は彼女しかいないわね」
「……野村さん」
 そう、野村さんが治癒能力者だと知り、ぼくもこの真実に確信が持てたのだ。
 |野村さんと奥瀬先輩がグルだということに《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
ストーカーの被害はすべて野村さんの狂言で、それを狂言だと悟られないように奥瀬先輩はぼくたちや浅木先輩を襲ったのだ、|野村さんのために《・・・・・・・》!
「恋に臆病だったのは浅木昭雄じゃなくて野村桃子のほうだったのよ。浅木昭雄の気を引くために、正義感の強い彼の気を引くためだけに彼女はストーカーの被害を受けていると嘘をついたのよ。最初はほんの少しの小さな嘘だったのがエスカレートしたのね。野村桃子の思惑通りに浅木昭雄は彼女の力になり、二人は付き合い始めた。でもそんな嘘をついて出来た関係性は長くはもたない。野村桃子は嘘をついた罪悪感もあり、ストーカーの被害がなくなったら浅木昭雄は自分から離れるのではないか。正義感の強い彼は、ストーカーの被害がある限り自分の傍にいてくれるのではないかと思い始めたのね」
 その時の野村さんの気持ちはぼくにはわからない。だけどきっとそれは胸を潰されるほどの不安だったのだろう。狂言がエスカレートするほどにまで追い詰められていったのだ。
「疑心暗鬼に駆られた野村桃子は、自分の狂言が浅木昭雄に疑われていると思い込み始めたのよ。いえ、実際に浅木昭雄は疑ってたのかもね。そうして思いつめた彼女はとうとうとんでもないことを始めたの」
「奥瀬……先輩か。なんで奥瀬先輩が協力したのかぼくにはわからない。ユキ姉はそれも知っているのか?」
「知ってる、というよりは想像ね。でもわかるわ。恋する者の気持ちはあんたには解らないでしょうけどね。愛する人のために自分を犠牲にする。そう『泣いた赤鬼』の青鬼のようにね」
 確かにぼくは恋愛感情というものが理解できない。だからわからない。ふられた奥瀬先輩がなんで犯罪に手を染めてまで野村さんの狂言に協力したのかを。
「奥瀬裕也も野村桃子の狂言に気付いていたのね。そして野村桃子に協力すると言ったのでしょう。彼女からすれば奥瀬裕也の行動が理解できなかったでしょうけど、それでも彼にすがるしかなかった。そこで彼は彼女に言ったのよ『第三者にストーカーの存在を認めさせるのだ』ってね。そこで奥瀬裕也は野村桃子に探偵部のことを話し、ストーカー退治の依頼を持ちかけた。そして奥瀬裕也があなたたちを襲い、ストーカーの存在を認めさせ、浅木昭雄を信用させようとしていたのよ」
 そうだ。だからあのレインコートを着込み、ぼくが野村さんの寮を出るタイミングを知っていたのだ。恐らく野村さんから電話で聞いたのだろう。
「でも問題が起きた。ただ脅して終わるだけだったのに、あんたたちは反撃をした。それが誤算だったのね。そして顔に怪我をして、困った奥瀬裕也は野村桃子に傷を治してもらったわけよ」
 小さな火傷程度なら、きっと野村さんの能力でも治すことが出来たんだろう。それこそが奥瀬先輩と野村さんが繋がっている確信になった。
「探偵部のあなたたちは脅しても怖がるどころか余計に首を突っ込んできた。きちんと調査されれば狂言だってバレるのは時間の問題。そう奥瀬裕也は考えたのね。だからもっと決定的にするために浅木昭雄も、あなたたちも、徹底的に壊してしまおうとしたのよ」
 奥瀬先輩はどんな気持ちで野村さんの“青鬼”になったんだろう。
 愛する人を他人の物にするために、自分が消えても相手を幸せにするために鬼になった奥瀬先輩。その気持ちはぼくにはわからない。だけどきっとそれは全員にとって幸福なことではないはずだ。
 でもこの真実を語れば、奥瀬先輩が作った野村さんの幸せは消えてなくなる。
 この事件で一番の被害者は浅木先輩だろう。自分を壊した親友と、それを頼んだ恋人に気付かず、その愛を受けて生きていかなければならない。
「それでユキ姉。その想像が真実だとして、ユキ姉はどうするつもりなの。なぜこの病院にきたんだ」
 ぼくは嫌な予感がしてユキ姉の顔を覗いた。
 そこには恐ろしく冷徹な目をした魔女がいる。総ての幸福を、偽りを許さない、絶対的な厳しさを持った目だ。
「決まってるじゃない。野村桃子と、浅木昭雄にこの真実を話すのよ」
「――!」
「偽りの幸福をあたしは許さない。偽りの言葉をあたしは許さない。偽りの愛をあたしは許さない」
 そう呟くユキ姉の言葉は雪のように冷たく、ぼくの背筋を凍らせていく。
「甘えやぬるま湯は徹底的に破壊する。それがあたしの役目だから。野村桃子と浅木昭雄が偽りの幸福に身を任せているのなら、完膚なきまでに叩き伏せる」
「そんな、ユキ姉――」
「だってそうでしょう。真実を知った先にこそ真実の愛があり、真実の幸福がある。それに耐えられない愛なんて最初から存在しなくていいわ」
 顔をぼくに近づけ、ユキ姉は冷たくそう言い放った。
 確かに偽りで作り上げられた幸福や愛は長く持たないだろう。それでも奥瀬先輩が必死で作り上げた野村さんの幸福を、ユキ姉は壊そうというのだ。
 そんなこと、許していいのか。
 奥瀬先輩の犠牲も、浅木先輩の怪我も、全部無駄になる。
 だけどぼくには何が正しいのかわからない。
 ユキ姉が言うこともきっと正しいのだろう。
 ぼくにユキ姉を止めることはできない。止める言葉を持たない。
「じゃあまた会いましょう中也。あたしは野村桃子のところへ行くわ」
 そうしてユキ姉はベンチから立ち上がり、ゆっくりと病院の中へと入っていった。ぼくはただそれを見送るしかない。
 ユキ姉の真実をどう受け取るかは、彼らに任せるしかないのだろう。

「ちゅーやくーん」

 遠くからぼくを呼ぶ声が聞こえる。
 ユキ姉と入れ違いに、アキ姉がホットコーヒーを持ってぼくのもとまで駆け寄ってきた。ぱたぱたと長い黒髪を風に揺らし、寒そうにコーヒーを自分の頬に当てている。
「もう勝手に動いちゃ駄目じゃない! まだ安静にしてなきゃ!」
 アキ姉はぷりぷりと怒りながらぼくの隣に座った。そうしてぼくの手にぎゅっとホットコーヒーを握らせ、
「あったかいね」
 と、頬を赤らめてそう言うアキ姉を、少しだけ可愛いと思った。
 ほんの少しだけ奥瀬先輩の気持ちがわかったかもしれない。きっとこれが愛おしいということなんだろう。
 ぼくはアキ姉の肩を抱き寄せ、身を寄せ合った。
「どうしたの中也くん。さっきから変だよ?」
 アキ姉は驚き、赤面していた。ぼくはそれに答えず、しばらくの間そうやってじっとしていた。
 するとアキ姉もぼくの肩を抱いて、目を瞑っている。
 人の温もりも、ホットコーヒーも、この冷たい空気の中では心地いい。
 こうしている間だけ、自分が生きているとぼくは実感できた。

    おわり






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