【バード・アンド・ナイツ 1 後編】


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「ハメられたんじゃないのか?」
 高等部の棟を飛び出してすぐ、浩介はそう尋ねてきた。
「本当に出し忘れてたのがあったんだ。編集に……夢中だったから」
 浩介もふうん、と曖昧な相槌を返しながらまた道路に視線を返した。
「にしてもタイミングが良いぜ。ありゃあ感づいてたとしか思えんな」
「だったら提出の時何か言うだろ。足止めとかするだろうし……」
 それもそうか。自分で言っていて、つい納得してしまった。
「それもそうだな。っと、ついたぞ」
 漸く走るのをやめた。中等部前である。僕は息を切らしながら、立ち止まる。
 僕はあたりを見回した。今日こそ怪しまれるような気がしたが、周りには特に誰もいなかった。
 グラウンドでは陸上部が帰宅の準備を始めているところだった。コーチらしき人間もいたが、僕に一瞥をくれるぐらいで、特段何かを言いに来る様子もない。
「警戒しすぎだろ」
「……そうかな」
「入学式の日はともかく、今日は別にカメラ回したりしてるわけじゃないぜ?それに普通に高等部の連中も部活やりにきてたりするだろうに」
 あの陸上部だって高等部の奴とかもいるだろ、と指を指した。
「悪い癖だよ」
 僕は特に言い返さなかった。本当は誰かに捕まえて欲しいだけなんだとは、間違えても言うまい。
 出来れば捕まって、会わずに済みたいなんて。

 建物の入り口に来て、僕の足は更にすくんだ。
 やっぱり、会いたくない。玄関前の階段に僕は座り込んだ。
「何やってるんだよ」
それに気付いた浩介も足を止める。
「……怖い」
 あのなぁ、といいつつ、浩介も不承不承隣に座った。
「そりゃ、女の子に免疫が無いのは分かるけど」
 浩介は頭を手で押さえた。面倒くさい奴だ。そう思っているのは良く分かる。
「こうすけぇ」
 僕は情けない声を上げた。浩介が変な声を上げた。
「あー、あー、もー」
 浩介とて、こんな自分には困り果てているようだ。ただ何故か、この時は罵倒の言葉一つ飛んでこなかったのである。
「分かった、分かったから」
「こうすけぇ」
「名前を呼ぶな、名前を。とりあえず離れろ」
 何故か僕は彼に抱きついていた。
「こ~~~すけぇ~~~」
「ど、どうせもう夜も近いし、いないだろ。また日を改めよう。なっなっ」
 僕は涙を流しながら浩介の肩を掴み、彼を振り回した。と、僕らを影が覆う。
「あの!」
「へ?」
 見上げる。と同時に、僕の頭から湯気が上がった。
「あ、あ」
 彼女だった。妹さんが何故か、目の前に立っていたのだ。
「あの時の……えっと」
「斎藤だよ。こっちが与謝野ね」
 彼女は会釈した。僕は茹蛸のようになり、すっかり使い物にならない。浩介は呆れていた。
「――それで、どうしてここに?」
 浩介がははと笑った。そして僕の肩をちょいちょいと突く。
(君の問題なんだから、君で解決しなさい)
(あわわわわわ)
 怯えながらも、僕は何とか、言葉を発しようとした。
「そ、そ、そ」
 が、上手く言葉にならない。
「そ、その、部活動だけど」
「はい?」
 余りの酷さに浩介に蹴られた。これはどうにもなるまい。
 浩介が僕の肩を引くので、おとなしくその場は彼に譲った。
「あははごめんね、芽依ちゃん。この男は喋るのが苦手でねぇ」
 余計なお世話だ。と言いたいが、こういうときは自分が情けなくなってくる。
「それでね。いきなりこんな質問をして悪いんだけど、芽依ちゃんは何か部活とかはやってるの?」
 それに比べ、こいつはどちらかと言えば社交的に出来ていた。
 こういうときばかりは、酷く彼が羨ましくなる。
「えーっと、特には」
 浩介は僕に目配せをした。まだ分からないじゃないか、と反抗したくなるも、僕は黙っていた。
「実はねぇ。僕達、新しく文化部を作ろうとしてるんだけど、部員が集まらなくてさ」
「へぇ、そうなんですか」
「ってなわけで、君に用があったんだよ。もしかしたら僕達の部に――うん?」
 浩介はなんだか不思議な感じがして、横を見た。
 男が立っていた。僕は声の主を見た。身体が細い、しかし身体付きが何故か下を向いている。
「知り合い?」
 浩介は妹さんに尋ねた。妹さんは首を横に振る。
「……探したぞ、ニトクリス」
 事情が分からないが、とりあえず人違いをしているか、何か電波を受信しているかのどちらかであった。
「なんだか知りませんが、とりあえず、こっちは日向さんですよ」
 浩介が気味悪げに、そう返答をした。男がのそのそと一歩ずつこちらに歩み寄る。
「人違いをしてるんじゃ――」
 浩介が男の肩に手をかけようとした。浩介は背が高いから、ちょっとした威圧にもなるのである。それを、男は手で振り払った。

 ――それだけに思えた。少なくても僕らの視線からは、そうとしか見えなかったのである。
 大きな音が起こる。浩介が壁にめり込んでいた。コンクリート製の壁が、衝撃で音を立てて崩れたのだ。
「俺の恋路を邪魔するな」
 浩介は壁から倒れこみ、そのまま蹲っていた。砕け散った壁が赤みを帯びている。ひっ、と、妹さんも声を上げた。
「さぁ、ニトクリス。俺が一番乗りだろう?それほどに僕が君を愛してると、分かってくれるよな?」
 まだ彼はうつむいていた。一歩一歩近づく。
 僕らも一歩一歩、後ずさった。悪寒が全身に響きだす。――ヤバい。
「ちょっと下がってて」
 僕は妹さんにそう言った。やるしかない。僕とて能力者だ。こういう時は戦わざるを得ないだろう。無論、実戦など初めてであるが。
 彼女を守らねば。
「――お前"ら"も、邪魔をするのか?」
 彼が後ろを振り向くと、そう呟いた。そこには誰もいない。そして彼はあたりを見回す。
「まぁ、良い。何人束になろうと、俺には勝てんさ」
 そう言うと、男は拳を空に放った。圧倒的なスピードで――彼は空気と戦いだしたのである。
 ――よし。
 妹さんは何がなんだか分からない様子であった。すかさず、僕は彼女の手を引いた。
「今のうちに」
 彼女はうなずく。
 僕らは校舎の中に入ると、近くの階段を駆け上った。
 外に出ても逃げ通せる自信がなかった。時計は7時を回るか回らないか。先ほどまでグラウンドにいた人間は誰一人としてもういない。助けを呼ぼうにも、人がいるか分からないのだ。それに広い学園だ。移動時間は相当かかる。僕らの運動能力がそれほど優れている訳でもない。途中で捕まってしまうのが関の山だ。
 となると、校舎に逃げ込むのが懸命だと、その瞬間は思ったのである。
 二階、三階。こっちだ。記憶は鮮明だった。さほど時間も経ってはいないので、当然と言えば当然だが。
 この校舎には、僕達しか知らないはずの隠れ家がある。そこに行こう。――そう思ったのだ。
「あの――」
 彼女が走りながら、僕に何かを言おうとした。大体言いたいことは分かる。さっきの男はどうしたのか、ということだろう。
「僕の能力は……ええと、偽の情報を相手に送り込むんだ。幻覚とか……幻聴とかね。代わりに僕達は見えないようにしたんだ。……能力がまだ効いているなら、彼は無尽蔵に現れるこの僕の幻と戦っていると思う……。そんなに長くはもたないから、じきに追ってくるだろう、けど…」
 彼女はまた不安げな表情を作った。僕はしまった、と思った。言わないほうが、まだ安心できたかもしれない。僕は彼女を引く手を、強く握った。
「――大丈夫さ。」
 大丈夫だろうか。とでも言わなければ、僕もどうにかなってしまいそうだった。いや、大丈夫なようにする。
 彼女も弱弱しくではあるが、頷いてくれた。頑張らないと。僕は決意を改めるため顔を、パンパンと叩いた。そして、窓ガラスが砕け散った。
 男が窓ガラスを突き破って来たのである。
 冗談ではない。ここは三階だ。
「何故逃げる?」
 男は悲しげに俯いていた。刹那、顔を上げる。
「其の男のせいか――いいよ、殺すよ」
 男は笑った。カカカと、まるで人形のように。
 何度来ようと同じ手を使うまでだ。また彼の周りに、僕の偽者を勢ぞろいさせた。
「ほう、また幻術か」
 男はあたりを見回す。そしてまた、ありもしない像と戦う。
 はずであった。
 男の拳が僕の頬を掠める。
「恐らくこの辺だろう」
 頬を触る。血が流れていた。あたりはしなかったが、その風圧で切れてしまったのだろう。恐らく当たっていたら、一たまりも無かったろう。
「馬鹿な…」 
 確かに五感を狂わせた。だが、彼の拳は、それでも尚、ほぼ正確に僕の顔を打ち抜こうとしてるのである。
「もう――見えてるんだよ」
 そんな。
「確かに俺が純粋な人間だったら、その能力だけで逃げおおせたかもしれないな」
 男はくくと笑う。
「だが残念だったな――俺はラルヴァだ」
 僕達はただ立ち尽くしていた。言葉も発せず。身動きもとらず。
 男がのそのそと、また歩み寄った。
「どうした?もう降参か?」
 男がピタリと止まる。男は怪訝そうに見つめた。そして僕らを手で触れると、すぐにその場を去った。
「……またまた幻覚か」
 ――そう、既に僕らは逃げたあとであった。

 僕は走りながら、これからどうするか、と言うことを考えていた。
 校舎東側の四階にまでやっとたどり着く。三階からでないと西と東が行き来できないという、無駄な構造の校舎をここまで呪うことは今までは無かった。はずだ。だがもうゴールだ。
 突き当たりの第二視聴覚室。扉に手をかけると、幸い鍵は開いていた。
「入ろう」
 部屋中のカーテンは閉めてあり、部屋は薄暗かった。
「……中学時代、良くここを使ってたんだ」
と言いながら、僕は壁に何故かかかってある天幕を外した。
 すると掃除用具箱が出てくる。
「どうしたんですか?」
「この部屋に……用があるわけじゃないんだ」
 僕は用具箱の横に立つと、勢い良くそれを右にずらした。何故かそれは機械仕掛けであり、多少の力で簡単に右にズレるようになっている。
 そしてそこには、扉があったのだ。
「この部屋は……?」
「さぁ……」
 何せ中等部にいた頃、見つけた僕らも相当ビックリした場所である。この部屋が何であるかは良く分かっていない。だが僕らにとっては、ここは格好の遊び場であった。学校の中でありながら、遊んでいても誰にも咎められない。ただ、入り口の視聴覚室を部室として使っている部があったのが問題であったが――。
 懐かしいな、と思った。畳にちゃぶ台があるだけの不思議な部屋である。そこには昔遊んだ玩具なんかが、無造作に残されていた。誰もここには気付いてないらしい。
「はぁ――」
 そして僕は、一気に倒れこんだ。彼女も同様に。
「ごめんね」
 僕はそう彼女に言った。何についてごめんね、なのだろうか。どちらかと言えば僕のが被害者である気もしたが、とりあえず謝らずにはいられない気がした。
「いえ――」
 返事が返ってきて、僕は安心した。まだ返事をするだけ良い。本当に黙り込んでしまったら――僕はどうしただろう。
「多分、私のせいなんです。あの人のことは知りませんけど――」
 彼女がそう言った。
「……もし僕らがあそこに居合わせなかったら、君が彼にやられてたかも知れない。僕からしたら、そっちの方が問題だよ――」
 彼女はえ?と、言った。僕はなんでもない、と言葉を濁す。
 こんな時に告白まがいの事を言ってしまう自分が、たまらなく恥ずかしく思えた。
「さっき、私のこと、誘いに来た、って言いましたよね」
「ああ……」
 もっとも、それを言ったのは浩介である。――アイツはアイツで、今は大丈夫だろうか。助けに行きたいのは山々だが、今はどちらかと言えば、僕らの方が助けられる側である。
「私でよろしければ――」
 それを聞いた僕は飛び上がりそうになった。
 なんだ。
 応じてくれたじゃないか。
 だったらもっと、早く言えば良かった。念のため、僕は彼女に聞き返した。
「――本当に?」
「ここから逃げられれば――ですけど」
 其の言葉を聞いて、僕は下を向いた。

 ようやく僕はモバイル学生証を取り出した。ラルヴァ感知は今のところは無い。
 すぐさま僕は、知り合いの風紀委員である近藤に通信をした。
「もしもしー。あ、与謝野さんー。どうなさりましたー?」
 近藤は何時にもまして暢気な口調で喋っていた。いや、事情が事情だから、そう聞こえるだけだろう。
「近藤……それが、"多分"ラルヴァに襲われてるんだ、けど…」
 近藤はいきなり大声を上げた。相当慌てているのが声で分かる。僕は出来るだけ明瞭に、事情を伝えた。さすがに風紀委員だけあって、すぐに冷静な反応となった。ただし、その男に大しては、彼女もまた驚嘆の色を隠せずにいるようだが。
「――30分ほどくれませんかー。それほどの脅威に立ち向かえるだけの人数を用意するとなると―ー」
 30分。ここに来る時間を考えると、35、6分はかかるか。
「夜分にごめん……それじゃ」
 通信を終わらせた。それを確認して、妹さんが声をかけてきた。
「大丈夫なんですか?」
「あと30分で来るって。……それまでに奴が来ないって保障もないけど」
「そうですか……」
だが、もし来たら。果たしてどうするのか。
「僕の能力は既に破られてるし――」
 彼女はそれほど強くもなさそうだった。そもそも、能力者なのであろうか。だとすると、幾分かは楽になるかもしれないが……対応できるほどの能力があるならば、前二度の交戦でどうにかしてるか。
 でも、何かに頼らなくちゃやっていられないか。僕は尋ねようとした。
「あ、君の能力は…」
「駄目ッ!」
「え?」
 僕は突然声を荒げた彼女の顔を見据えた。
「駄目って、何が……?」
 顔が赤く染まった。思わず声を上げてしまったらしい。彼女もそんな声を出すのか、と僕はなんとなく意外に思った。
「そ、その……わ、私の能力は戦闘向きじゃないですから」
「と、いうと……?」
「ええと…」
 また言葉を淀ませた。そのまま、無言の間が流れ出す。聞きなおすにも、どうにも聞きなおせない。
 だが、僕とてだんだん嫌になってきた。さすがに慕情で盲目になっているとはいえ、いい加減、この状況には限界だ。
 五分も経って、漸く僕は声を上げた。
「あの、さ」
 あの男は誰なのだ。君も誰なのだ。どういう事情なのだ。聞かねばならぬことが、山のように頭を過ぎる。聞いてしまえ、聞いてしまえ。
 上手く動かない口を、何とか形にしようとする。
 だが、その問いを発することを、男は許してはくれなかった。
 扉が突如として砕け散った。そのまま男の手刀が振り下げられられる。
「ここか」
 かくも早く見つかるはずもない。前からだいぶ離れているし、そもそもこの部屋の存在自体、僕か浩介を除いたら、殆ど知っている人間はいないはずなのだ。それにだ。僕らがいくら普通に喋っていたとは言え、ここは奥の間なのである。余程部屋の近くにいなければ、到底声など漏れるはずも無い。男の聴覚がそれほど優れているとも思え――。
 いや――。そうか――。
 彼女がさっき、声を上げていた。
 かくも単純なことに、何故気付かなかったのか。あの瞬間に逃げるべきであった。ああ。
 僕は男を見据えた。男は最初の時同様、何故か下を見続けていた。
 こうなってしまえば、最早袋小路である。奴はもう、幻覚を看破している。そしてこの狭い部屋。逃げるとすれば背中の窓か。ここが四階でもなければ、その可能性もまだあっただろう。一応僕らの間にちゃぶ台があったが、これはどうせ何の役にも立ちはしないだろう。
「投了だな」
 顔を上げ、そう言った。男のぶっきらぼうな言動が耳に刺さる。そうだな。もう。駄目――だろうな。
 僕は笑った。こういう時は笑うしか無いのだろう。恐怖が膨れ上がりすぎると、何故か人間は笑ってしまうのだ。それが事実だと、僕も気付いた。それに呼応して男の口角も上がった。
 ははは。心の中でついに僕は、声すら上げ始めていた。
 錯乱した僕の目に、彼女が映る。
 震えていた。
 其の様子を見て、僕は一挙に我に帰った。
 彼女の頭に手を置く。
「大丈夫だよ」
 僕はそのまま、彼女を後ろに下がるように手で示した。
「――ほう」
「僕は、彼女を守りたいんだ」
 下手ながら、それらしく構える。こうなれば、一瞬の隙を衝くしかない。
 いくら奴が僕の能力を破ったとはいえ、まだ完全に無効化したわけじゃない。
 きっと、あと一撃のチャンスはあるだろう。
「せいぜい後悔はせんようにな」
 そう言うなり、男は瞬く間にちゃぶ台を壁に放り投げると、僕との距離をつめた。今こそ好機。
 僕が飛び掛る。いや、僕の像だ。恐らく彼の目にはそう映っているはずだ。
 実際はとっさに身をかがめている。
 だが拳は――矢張りその屈めた拳を掬い上げるように振りあがってきた。
 困惑しただろう。目は上から、耳と触覚は下から。目は頼れない。だが、他の五感もまた、信用できないのだ。
 それが僕の能力だ。五感を全て狂わせる。ラルヴァだから能力を看破できた、と彼は言ったが、基本は矢張り人間の五感と変わらないらしい。先ほど僕らの像に足止めを食らったように。
 本当の僕は、屈めたまでは正解だが、そのまま左側に迂回したのだ。彼の拳が空を切り、そして体勢を崩す。
 すかさず拳を振り上げた。いくら僕が弱いと言っても、この距離で、全力で一撃を与えれば――。
 僕の全力が彼の顔に打ち込まれた。同時に、激痛が走る。
 鉄――。彼の身体は、そう形容する他はない。ただ僕の拳だけが、徒に痛んでいるのが分かる。
 男の能力が肉体硬化である――そう気付くのに時間は要らなかった。
「残念だったな」

 ああ。矢張り。歯向かうべきでは無かった。
 目が熱くなる。
 僕は。やはり。救えないのか。
 もう遅い。
 男の拳が、勢い良く振りあがる。僕は目を瞑った。

 一秒。二秒。
 なんともない。
 生きてる。

 僕は、目を開けた。
 男がいない。ただ、血が滴っていた。
 僕は血の出所を見る。天井だ。
 男がいる。男は天井に、身体ををねじ込まれたようにして、そこにいた。ちょうど、さっき浩介が壁に突き刺さっていたいたように。
「馬鹿、な」
 そう発するのすらやっとなほどであるらしい。どうやら、天井に男を押し込んだ力は、相当なものであったようだ。硬化しても尚強烈な打撃となったのだろう。
「な、なんで――」
 僕は僕で、状況が飲み込めずにただその様子を呆然と見つめるばかりであった。
 何が起こった。誰かが助けに来たのか。いや、矢張り目の前には誰もいない。
 まさか。僕は後ろを振り返った。彼女が立っている。当然なのだが。だが、変だ。
「甘い」
 ――笑っている。
 僕は何故か、彼女から一歩後ずさりをした。
「甘い、甘いぞ、我が同胞よ。この程度の一撃に気付きもしないで、私と添い遂げるだ?」
 目が紅く、鋭く光っていた。これが、彼女の能力か?
 戦闘向きじゃない。彼女は確かにそう言った。だが、彼女が男を倒したのは、まさか、疑いようの無い事実である。
 僕は混乱した。嘘なら嘘で、そんな嘘をつく理由がどこにあったというのだ。
 息絶え絶えの男が、それでも起き上がろうとする。我に返った。いずれにせよ、早く逃げないと。
「貴様の殻は、そんな――」
 男が今度は扉の残骸に打ち付けられた。彼女が手を下したわけではない。どういうことだ?
「だから甘いと言ってるんだよ」
 そう言いながら、すたすたと彼に近づくと、男の髪を乱暴に引っ張り、男と顔を見合わせていった。
「貴様ら下等種が下等種たる所以を知れ」
 その刹那である。すかさず男が彼女の手を掴んだ。そのまま顔を鷲づかみにする。
 そして男は彼女ごと窓を突き破った。
 真逆。
 ついに心中でもするつもりなのだろうか。僕は慌てて窓に近寄って、外を覗いた。

 翼だ。

 彼女の背中には翼が生えていた。彼女が男を抱え、翼を広げると、そのままグラウンドのほうへ、滑空していった。
 僕は呆気に取られた。
 そしてすぐ我に還ると、すぐさま部屋を飛び出し、階段に向かった。
 これほど急いだことは生まれて初めてかもしれない。それでも階段の長さが、永遠のものにすら思える。
 なんなんだ。どいつもこいつも。そう思いながら僕は、階段を駆け下りている。
 途中何度も転びそうになりながら、玄関が見えるまで、足の痛みすらこらえて、僕はただひたすら走り続けたのだ。
 頭はもう、真っ白であった。

「ふざけるなぁっ!」
 僕が外に出るなり、男の声が聞こえた。風が舞っている。
 男が技を繰り出すと、彼女がひらりと身体を返す。
 そのまま大きな風が起こり、そのまま地面に叩きつけられる。
 それの繰り返しであった。
 小柄な彼女が大きな背丈の男を悠々といなしている様は、見ていて驚かされる。彼女の能力とは、恐らくは翼を使い、風を生み出すものなのだろう。
 それをある時は壁として、ある時は武器として、自由自在に使いまわす。
 ――戦闘能力そのものだ。
「俺がどれだけ苦労して学園に入ったか分かってるのか!それをこんな、それをこんな―やすやすとォ!」
 彼が何度も拳を振りながら、叫び声をあげた。それを一つ一つ、彼女は風ではじき返す。いたずらに体力を消耗するだけだと言うことは、目に見えていた。
 圧倒的だ。
「お前のことなど、知らぬ」
 男はそれでも向かっていった。余程激昂していると見える。最早――悪あがきでしかないのだが。。
「何故だ、ニトクリス!俺は!俺はぁ!」
 と同時に、彼女が両腕を前に突き出した。すると風の渦が巻き起こり男を包み込む。
「そうだな――」
 男は絶叫した。まるで鎌鼬に包まれてしまったようだ。その辺の石やら何やらが、強大な風の渦の力を借りて彼の身体を傷つけていったのである。たかが石である。ところがあの力を使えば、それらも強靭な武器へとはや代わりするのであった。
 彼の硬化能力がとても追いつくものではない。どうやら彼は自分の全てを一度に硬化することが出来ないらしい。あそこを守れば他が傷つく。別のところを守ればさっきの所が傷つく。それの繰り返しであった。そうでなくても満身創痍の肉体が終わりを迎えるのは、そう時間を要するものではないだろう。
「――百年経ったらまたおいで」
 風は止んだ。男の断末魔も、同じく。男は既に意識も無く、仰向けにしてその場にバタリと倒れこんだ。
 もう動く力も無いことを確認した彼女は男から、何かを引っ張り出すように、手を後ろに引いた。すると男から光の塊のようなものが抜け落ちていく。
 あれはなんだろう。
 それが彼女に捕まれ、形となっていく。僕はその掌中を覗くために近づいた。
 ――小鳥だ。何故か彼女の手には小鳥が横たわっていた。恐らくラルヴァであろうソレは、そう形容せざるを得ないほど、余りにも普通の、ありふれた鳥であったのである。
「殺すわけにはゆかんか――」
 そう呟きながら、何をするわけでもなく、彼女はソレを地面に置いた。彼女は彼女で、すっかり元の姿に戻っていた。ただ、目が赤々と光っているのと、豹変したような口調を除けば、であるが。
「ん?」
「あ、あの……その人は」
 僕は倒れこんだ男の人を見た。何故だろうか。先ほどまで感じた威圧感が、もう微塵も感じられなかった。
「ああ、誰かは知らんが、コイツは恐らくただの学生だ」
 誰かは知らない――。
 僕はいっそう訳が分からなくなった。
「あの、……あの!やっぱり聞かせてもらうよ」
 彼女がその言葉に応じて、こちらを向いた。
「君は――君は誰なんだ?」
 彼女はそれを聞いて、空を見た。釣られて僕も空を見る。先ほどの風のせいか、桜の木が花弁を散らしている。
「日向芽依だよ。――今は、な」
 今は、か。
 今と昔が別の人なんてこと、ありえるんだろうか。
 だが、目の前の人間は確かに入れ替わったようだった。ただ、彼女はまだ"日向芽依"のままでもあるそうだが。
 そんな考えを打ち消すように、彼女は僕に抱きついてきた。
「あわ、わわわ!」
 こんなこと、当然人生では今までに一度も無かったから、僕は酷く狼狽した。もたれ掛かった彼女は、そのまま口を開いた。
「すまないな。"芽依"も私を心配していたから、どうしてもこの姿を見せたくは無かったのだが――」
 そういうと、彼女の言葉は止んだ。と同時に、僕のブレザーが見る見るうちに鮮血に染まっていく。
「それに私も、そんなに強いわけじゃないからな――」
 どうやら、僕が階段を必死に下りてる間に、彼女は男の攻撃を、それも何度か食らっていたらしい。好意から抱きついたのではなく、彼女もまた、疲弊していたと言うことか。
 僕は、どうしていいかは分からなかったが、一先ず彼女を抱きしめ返した。とりあえず、災厄はさったはずだ。もう、大丈夫だ、というつもりで。
 もう少しで風紀の人たちも来るだろう。その時にはきっと助かるだろう。それまではこうしておこうと思ったが、ふいの彼女が僕の手を払った。
 彼女は背伸びした。そうして、僕の顔に顔を近づけてきたのだ。僕は恥ずかしくて、あるいは少し期待していたのか、目を閉じる。
 そうして待つ。
 だが、いくら待てど、口元には何の気配も無かった。
 あれ。じゃあ何を――。
 僕は目を開けた。と同時に、彼女は僕に行動を起こした。
 かぷり。
「えっ――」
 僕の耳が、少し痛んだ。
 何をするかと思えば、僕の耳たぶを彼女は噛んだのである。
 口づけではない。だが、それ以上にこれは、余程気恥ずかしいものだ。
 彼女は実は吸血鬼か何かで、血でも吸われるのかと思ったが、本当にただ噛まれただけだった。痛みもごく僅かで、貫通すらしていない。
 彼女がどうして僕にそんなことをしたのか良く分からなかった。だが、僕の動悸だけは無駄に早くなっていたのだ。
「あいつらは、一人ではない……。また私のことを襲いに来るだろう」
 彼女が何かを言っていた。頭が沸騰しそうな僕には、何を言ってるのか、良く分からなかった。
「私を、いや、私"達"を――」
 彼女はまた僕に顔を近づける。吐息が顔にかかる。また動悸が加速した。
「守ってくれ――」
 彼女はそう言うと、一歩下がった。
 そして僕は、確かに首を縦に振った。その頼みが何であれ、茫然自失の僕には、そうするしか出来なかったのだろう。
 もしかすると……好かれたのが嬉しかったのかもしれない。
 それを確認すると、彼女はまた、僕に倒れこんだ。

 ふと手の平を開いた。花弁が僕の手に、ひらひらと落ちてきたからだ。
 僕はその花弁を見つめる。
 美しく舞う桜の花びらは、僕らに新しい出会いを予感させるものではない。僕は確か、そう思っていたはずだ。
 どうやら、途轍もない出会いの予感を、これは知っていたのか。
 近藤の声が遠く響くのを聞きながら、僕は胡乱に、そんな事を考えていたのだった。



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