【Sweet or Bitter?】


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 *できるだけラノにあるバージョンを読んでいただくとうれしいです




 二月十三日の放課後のこと――
 夕刊配りのアルバイトを終え、いつものように「野鳥研究会室」へやってきた工克巳《たく
みかつみ》が目にしたのは、いつもよりもより渋い表情で腕を組んでいる会長の姿だった。
 野鳥研究会こと裏|醒徒《せいと》会の長である蛇蝎《だかつ》兇次郎《きようじろう》は、
もとよりたいていの場面でしかめっ面に近い顔をしているが、今日は一段と気難しそうに見え
た。
 戸の閉まった音ではじめて気づいたのか、兇次郎が克巳のほうへ視線を走らせる。
 そして、こういった。
「きさまが食べきれぬほどチョコをもらうということはなさそうだな。チョコを持てあましそ
うな中等部男子に心あたりはないか?」
「たしかにおれはチョコをもらうアテとかありませんけど。中等部生とはあんまりつきあいが
ないんで、そういうやつの目星もありません。チョコがご入り用なんですか?」
 会長の意図がつかめぬまま、克巳はとりあえずありていに答えた。バイトと裏醒徒会での雑
務で忙しいので、克巳は中等部の棟舎には必要最低限のあいだしかいないのだ。しかもときお
り怪物《ラルヴア》討伐隊に招集される。クラスでの克巳は、空気の上にキセノン並の稀ガス
なのだった。
 兇次郎は難しそうな顔をしたままだ。
「育勇園に持っていく数が足りぬのだ。しかし今年は予算もない。去年は材料を買う金だけは
あったので自作したのだがな」
「いくゆうえん……って、島にある孤児院でしたっけ」
 そういえば会長も孤児院出身なのだったと、克巳は思い出していた。育勇園には、主に怪物
や異能がらみの事件や事故で保護者を亡くした子供たちのうち、異能力をすでに持っていたり、
潜在させていると判定された少年少女が集められている。兇次郎からすれば他人とは思えない
子たちなのだろう。
 もちろん、単なる同類哀れみではないはずだ。きたるべき蛇蝎兇次郎の治世を支える、人垣
候補づくりを兼ねているにちがいない。
 兇次郎は、右手の人差し指、中指、薬指を立てて、いう。
「孤児院で甘いものが食べられる機会は年に三度だ。クリスマスと、自分の誕生日、そして、
バレンタイン。世間一般でのバレンタインデーというのは、不幸な子供にチョコレートを恵む
風習ではないのだと知った時は、驚きあきれたものだ。まさか、軽薄な色事を菓子業界が煽っ
てできただけの、人為的な仕掛けで成り立ったイベントだったとはな」
「けど、蛇蝎さんは結構チョコもらえるんじゃないんですか?」
 克巳が水を向けてみると、兇次郎はむず痒げに鼻を鳴らした。
「フン。奇態な趣味の女生徒が声をかけてこないではないが、我輩に寄越すのなら育勇園に持
っていけといってある。我輩に渡したところで右から左へ育勇園の餓鬼どもの口に収まるだけ
だともな」
 と、稀代の偽悪家である兇次郎がうそぶいたところで、仮眠ベッドに寝転んでいた竹中《た
けなか》綾里《あやり》がいきなり起きあがった。
 綾里は、ふだんのお気楽モードからは考えられないほどするどい視線で兇次郎を見据え、
「兇ちゃん、私が明日あげるチョコは、ちゃんと自分で食べないとダメなんだからね。ちゃん
と克《か》っちゃんや陸《りく》ちゃんのぶんもあるんだから、没収して孤児院の子に横流し
したりしたらメ~なんだよ!」
 と、いい渡した。兇次郎のほうは、喜ぶどころか素っ気もない返しをする。
「余分はないのか?」
「そんなにお金ないよ~。……あ。そういえば、手作りチョコの材料をいっぱい仕入れてる人
の心あたりならあるかも?」
「なんだ、クラスの男子全員に義理チョコを配ろうとでも考えている手合か?」
「んーん。そんなにたくさん配るわけじゃないんだって。失敗してもいいように、多めに買う
んだとかいってたよ。兇ちゃんが作り方教えてあげれば、あまりの材料はもらっちゃってもい
いんじゃないかなあ……?」
 ふるふると首を振ってからの綾里の答えに、兇次郎の目が光る。
「この際、駄目で元々だ。綾里、そいつの家まで案内しろ」
 常ではありえない性急さの会長の様子に、克巳は驚きを禁じえなかった。年に一度、孤児院
へチョコレートを持ってきてくれるボランティアさん――それが、蛇蝎少年の原風景を構成す
るひと幕なのかもしれない。
 いっぽう、綾里は困惑した表情になっていた。
「……住所は聞いてないなあ。材料買ったときにチョコレートショップであって、ちょっとお
話ししただけだし」
「モバイルの番号はわからんか?」
「それなら交換したよ~」
 といって、綾里は生徒手帳兼汎用モバイルツールの液晶画面を示す。ちらりと見ただけで、
兇次郎はうなずいた。
「よし、いくぞ」
「え……番号だけで住所わかるの?」
「学園の在学生管理システムは、すべてわが脳裏の裡にある」
 口の端にすこしだけ得意げな笑みを見せ、兇次郎は自らの頭を人差し指で突きついた。それ
に対して綾里は、いきなり兇次郎へ飛びついて、その長身のてっぺんを右手でかきまわしなが
ら歓声をあげる。
「兇ちゃんってやっぱすご~い、なでなで」
「ええい、重い、まとわりつくな! 我輩はおまえとちがって繊細なのだ」
「だって、その子のうちまでチョコの材料もらいにいくんでしょ~? さすがに兇ちゃんだけ
行っても無理だと思うよお? 知り合いじゃないし」
「そのくらい歩け。いくら身体強化の異能者だといっても、いい加減身体がなまるぞ。最近は
怪物討伐の話もきていないではないか」
「ぅ~……」
 ようやく、ここで克巳が口を挟んだ。
「おれは別口でチョコを集められるか、やってみましょうか?」
「いや、もし首尾よくいけば荷物持ちが必要だ。きさまも同道しろ」
「はい!」
「じゃあ克っちゃんおんぶ~」
 さっそく克巳へ飛びかかろうとする綾里を、兇次郎が制止する。
「工は荷物持ちだ。いいから歩け。N7283D0」
「む~。兇ちゃんのスパルタ」
 口では文句をいったが、綾里は兇次郎がつむぎ出す、この「コード」には逆らえない。長身
痩躯をピンと伸ばし、目的地へ向け歩きはじめた兇次郎に続く。
 ロッカーからザックを取り出して背負い、戸締まりしてから会長と綾里の後ろに従いつつも、
克巳は首をひねってこんなことをいった。
「竹中さんって、こんなにしゃべるキャラだったっけ……?」


 学園第二キャンパスから出て歩くこと十五分ほど。暮れ急ぐ二月の太陽が空に暮色を投げか
ける中、裏醒徒会の三人は目的の住所にたどり着いていた。
 正確には門をくぐってから三分ほど経つのだが。いまだに屋根は視界に入ってこない。
 純和風の日本庭園を左右に見まわして、克巳が歎息した。
「島にこんなすごいお屋敷があったんですか。知らなかった」
「それにしても顔パスとか、兇ちゃんほんとすごいねえ」
 すっかりテンションが回復して、綾里もにぎやかだ。さっきまでは、十分ほど歩いただけで
いまにも眠りこけそうになっていたのだが。
 彼女のいうとおり、先ほど門の前で強面《コワモテ》の黒服お兄さんに呼び止められかかっ
たのだが、黒服さんは兇次郎の顔を見ると、軽く会釈をしただけでとおしてくれたのだ。
 しかし、当の本人はあっけらかんとこういった。
「いや、ここが何者の屋敷なのかは知っているが、我輩は今日まできたことなどないぞ。無論、
向こうからあいさつにきたこともない」
「じゃあ、なんで入れてもらえたんでしょうか?」
「おおかた、我輩が醒徒会選挙に立候補したときにある程度身辺を洗ったのだろう。ここに鎮
座している連中からしても、醒徒会の役員は軽視できない存在であるしな。落選した我輩のこ
ともまだ憶えているとは、殊勝なことだ」
 そんな壮語を述べる兇次郎は、態度だけはまちがいなく大物の器だった。克巳などはやや肩
幅が狭くなっているというのに、重厚な庭園の空気に呑まれていない。どれだけ荘厳な雰囲気
の場所であろうが、巨大な権威をまとった雲上人に遭遇しようが、兇次郎が物怖じする事態な
どありはしないのだろう。
 会長の大度を見習わなければと、克巳がどうにか背筋を伸ばそうと苦心していると、なにや
ら騒がしい複数の声が響いてきた。右手に続いていた白壁が途切れたところで、ひときわ大き
なかけ声が轟く。
「いっけえ! 燃素業熱陣《カロリツク・バスター》!!」
 そして爆音と少年たちの悲鳴。
 さすがに兇次郎も足を止めた。三人の視線の先には、和風庭園にはまったく似つかわしくな
い、円形闘技場のミニチュアのようなものが設えられており、場外に弾き飛ばされたなにかが、
ふらふらと兇次郎たちのほうへと滑空してきた。
 目の前に飛んできたものをキャッチし、克巳がつぶやく。
「有翼虹蛇《コアトル》? なんでこんなところに」
 それはセイバーギアというオモチャだった。この機体は、克巳が弟の克次《かつじ》に作っ
てやった、ほかにはないカスタムモデルなので、これがあるということは、持ち主がこの場に
いるということを意味している。
 円形闘技場のようなものは、どうやらセイバーギアのリング、それも高級版だったらしい。
「いえーい、四人抜きー!」
 と、リングの赤コーナーで勝ち鬨をあげているのは、中等部の制服を着ている少女だった。
赤毛のショートカットで、見るからに元気そうだ。青コーナーで意気消沈している側は、初等
部の男子児童たちだろう。
 リングアウトした自分のセイバーを追いかけてきたのは、やはり工克次だった。
「……あれ? 蛇蝎さんと兄ちゃん!」
「なにやってるんだおまえたち」
「公園でギアバトルやってたら、あのお姉ちゃんがコロセウムで対戦しようっていうから、み
んなでついてきたんだ」
 兄の質問に、弟は無邪気な答えを返した。
「こんなすごいお屋敷のお嬢さまがセイバーギア?」
「いや、あれはちがうだろう。おそらく、この屋敷で養われている食客だ」
 兇次郎がそういって、克巳の安直な疑問を吹き払う。コロセウムのそれぞれのコーナーにい
たギアバトラーたちも、三人に気づいた。
 先に反応したのはジャリボーイズのほうだった。
「克次の兄ちゃん!」
「っしゃあ、これで勝てる!」
「アニキの〈|小 白 蛇《タイニイパイソン》〉で、そこのKY女にヒトアワ吹かせてやって
ください! 小学生相手にガチでやるとか、空気読めてないっすよ!」
「てかげん無用っていったのは、きみらのほうでしょうがー!」
 紅い鳥型セイバーを右手に、左手を腰にやって中等部の女生徒は反論したが、
「いや、セイバー持ち歩いたりしてないし。小学生じゃないんだから」
 と、克巳がいうや、そちらへ猛然と詰め寄った。
「なに? なに、なんなの? 中学生がセイバーに夢中になっちゃ駄目とかいう気なの!? 学
園だって黙認っていうかむしろ推奨してるし、子供のケンカに異能持ち出すよりよっぽど健全
だと思わない? 私の名は米良《めら》綾乃《あやの》! さあ、あんたもギアバトラーなら
リングに立ちなさい、いざ尋常に勝負!」
「だからセイバー持ち歩いたりしてないって、小学生じゃないんだから」
 克巳が繰り返すと、女生徒――綾乃はいきなり背を向けるや地面にかがみ込み、指で「の」
の字を書きはじめた。
「中学生がセイバーギア常時携帯してたら駄目ですかそうですか……」
 起伏の激しすぎるテンションに克巳はついていけなくなってしまったが、兇次郎は平静に、
来訪の目的を果たすべく質問する。
「厨房へ案内してもらいたいのだが?」
「そうはおっしゃいますが、ここには厨房もいくつかあるわけですけど」
 と、応じながら顔をあげた綾乃は、兇次郎の顔を見るやしゃきっと起立する。
 一瞬でテンションも全回復していた。
「もしやあなたは野試合連敗記録更新中と噂の〈魔王〉蛇蝎兇次郎!? きゃー、実はファンな
んですよっていうかどんだけ弱いのか一度お手合わせしてみたかったんですよねー!」
 だが兇次郎は克巳よりも容赦ない。
「セイバーギアを常に持ち歩いても許されるのは小学生までだ」
「……中学生がセイバーギア常時携帯してるのはそんなに駄目なことでしょうか? え、ブレ
イズフェザーもそう思う? マジですか……」
 またしてもテンションが奈落に沈んだ綾乃は、自分のセイバーと会話をはじめていた。
 変わりやすいなどというレベルではない乙女心を扱いかねて、兇次郎と克巳は顔を見合わせ
たが、そこで綾里が口を開いた。
「時坂《ときさか》一観《ひとみ》ちゃんたちがチョコを作ってるって聞いたんだけど~?」
 三たびテンションを吹き込まれて、綾乃は即座に回答する。
「あー、はいはいはいはい。第四厨房がチョコ作り用に開放されてますよ。本命三つ確定とか、
あ《ヽ》の《ヽ》リア充は苦しんで死ぬべきだと思いますね!」
「時坂――ああ、あいつか。妹がいたとは知らなんだな」
 そもそものはじめに綾里が見せてくれたモバイルの画面では、本当に番号しか確認していな
かったらしく、兇次郎がつぶやいた。学園の管理コードの法則を憶えているだけで、さすがに
すべてのデータベースを記憶しているわけではなかったようだ。
 綾乃が意外そうな顔をする。
「およ、〈魔王〉さまもご存知とか、なにげに時坂先輩ってすごいの?」
「一度銀行強盗から助けたことがあるだけだ」
 すごいことをさらりといってのけ、兇次郎は克次たち四人へ向けて声をかけた。
「もう暗くなる、きさまたちは帰るように」
 野鳥研究会室をセイバーギア同好会室に変えかけた実績のある小学生たちは、すでに兇次郎
にすっかりなついているので、みな素直にうなずいた。
『はーい』
「次は負けないからなメラ美!」
「ハッハー、いまのはメラ美ではない、メラだ! 私の炎は百八式まであるぞ、ギャギィ!」
「だせぇ、効果音口でいうとかだっせー!」
「生意気なことをいうのは、私の本気を引き出せるようになってからにしてもらおうか!」
「今度はみてろよ。じゃあねー」
「おーう、ばいばーい! ――じゃあ、ご案内しますね」
 変なあだ名をつけられてしまったが、綾乃はノリノリで返す。克巳はあきれかえり、綾里は
くすくす笑っていたが、兇次郎はこういった。
「小学生とえらくウマが合うようだな」
「なんですか、小学生と同レベルだから小学生と遊ぶのが合うんだろう、みたいなそのいいか
た! 私はただの『小学生と遊んであげる優しいお姉さん』なんですよー! 先輩もそうなん
でしょう、〈魔王〉蛇蝎さま?」
「我輩は、五年、十年先にわが手足となる人材を探しているだけだ」
「ここにきたのも、育勇園の子たちを懐柔するためにチョコの材料を手に入れるためなんだよ
ね~」
 裏醒徒会の秘密を守る意識が微塵もない綾里は、あっさりと口を滑らした。
 が、綾乃は感心したようにうなずくだけだ。
「ヘー、ボランティアですか。なるほど、魔王さまはうちの御前の競争相手ってワケだ。たま
に御前も育勇園の様子を見に行かせてますねえ。ときどきだけど引き取られてくる子もいますよ」
「ふむ。相対的に沈んだとはいっても、いまだ本邦異能集団の第一人者か、敷神楽《しきかぐら》
の家は」
「そういえばそんな表札でしたっけ。ここのお屋敷も、古いのを本土からそのまんま移築しまし
たって感じですね」
 一朝一夕では生えてこないだろう、青々と苔むした庭石を見て、克巳が相づちを打つ。
「敷神楽は退魔師として歴史のある家柄でな。九九年以前からの異能者の血筋だ。古い家だから
といって、すぐれた異能者ばかりを輩出する、というわけではない。が、異能の力と異能者を管
理していくには、やはり長年蓄積されてきた経験は得難いものだ。学園の運営にも、アドバイザ
ーとして参画しているという噂があるな」
「ほー。魔王さま詳しいですねえ。私より絶対事情通だ」
 難しいことは右の耳から左の耳へ逃がしていたことがあきらかな顔で、綾乃は大仰に感歎して
みせる。それから、母屋なのか離れなのかもわからないが、目の前に偉容を見せる立派な構えの
御殿を指差した。
「縁側からあがっちゃってください。奥行ってすぐが第四厨房です。私はこれで……っていうか
着替えるの忘れてました」
 学校帰りに公園で小学生児童に声をかけ、制服から着替えるのも忘れて陽が傾くまでギアバト
ルに興じる女子中学生というのはどうなのだろう。
 と思ったのは兇次郎と克巳だけのようで、綾里はぱたぱたと手を振っていた。
「はーい、メラ美ちゃんありがとうね~」
「いえいえ、どういたしまして」
 広大なお屋敷の角を曲がって、綾乃の姿が見えなくなる。三人が縁側から廊下にあがると、す
ぐにカカオの匂いが漂ってきた。綾乃のいうとおり、厨房はすぐ近くらしい。


 外からの見た目は純然たる和風建築の邸宅だったが、内部は必要に応じて改装されているよう
だ。こと水回りに関しては、タイルとステンレスを用いた洋風様式のほうが断然使い勝手がよい。
 入口で割烹着を拝借した裏醒徒会の三人は、どこぞの美食倶楽部の厨房もかくやと思わせる、
清潔で整頓された調理場へと入り込んでいた。
 目の前のステンレス台の上にはいくつかバットが置かれていて、できたてとおぼしき手作りチ
ョコが入っていた。
「それなりの出来に見えるが。失敗をおそれて大量に材料を買い込むほどなのか?」
 ひとつめを一瞥して値踏みめいたことをいう兇次郎へ、綾里が異を唱える。
「兇ちゃんはデリカシーないんだから~。手作りなんだよ、みばえや味じゃなくって、ココロが
大事なの~」
「ならばなおのこと、入魂の一発勝負で作りあげるべきではないのか?」
「もお、兇ちゃんは屁理屈ばっかりだなあ」
 乙女心への理解が足りないと、綾里が兇次郎の無粋をとがめたところで、並んでいたバットを
順に見ていた克巳が、急に立ち止まって引きつった声をあげた。
「こ、これは……」
 そこには、形をなしていない、黒褐色の塊がわだかまっていた。それまでのバットの中身は、
完成度に差はあれどそれぞれ手作りチョコの体裁にはなっていたのに、この〈作品〉だけがひと
きわ異彩を放っている。
 兇次郎は、ひと目見ただけで失敗の原因を看破していた。
「テンパリングがなっていないな。分離してしまっている」
「こうなっちゃったチョコっておいしくないんだよねえ」
 と綾里がつぶやいたところで、厨房の奥から調理器具をひっくり返したらしい金属音が聞こえ
てきた。金切り声と、なだめるような声も。
「ああもう! いっそ全裸にチョコ塗りたくって『私がギフトです祥吾《しようご》さん!』と
かいったほうがいいんじゃないのかなこれは!?」
「おおお落ち着いてくださいメフィさん」
「まだ材料はありますから。きっとつぎはうまくいきますよ」
 兇次郎たちが騒ぎの現場を見にいってみると、三人の少女が調理台に向かっていた。手首まで
チョコレートづけになった右腕を掲げて、肩で息をしているのが、たぶん調理器具をイッテツ返
しした上に金切り声をあげていた当人だろう。固まったチョコがひび割れて、震える右手から剥
がれ落ちる。左右からなだめているのは、どちらも中学生くらいの子だった。なだめられている
ほうは綾里とおない歳くらいのようだ。
「一観《ひとみ》ちゃん、調子どうかなあ?」
 綾里が訊ねると、年少のほうのひとりが振り向いた。
「竹中さん? わざわざきてくれたんですか?」
「じつは、チョコの材料をちょーっとわけてほしいなあって思ってきたんだけどね。ほら、いっ
ぱい買ってたでしょ?」
「あとひとつできれば、のこりは全部お渡ししちゃってもいいんですけど……」
 といった一観の視線の先にいるのは、ひっくり返したチョコを前に拳を固めている少女だった。
おそらく彼女が「メフィさん」だろう。
「なるほど。失敗作の量産が見込まれていたから材料を多く仕入れたのか」
 身も世もないことをいったのは兇次郎だ。|言の刃《コトノハ》が心にささったか、メフィの
肩ががっくりと落ちる。
「ところで、そちらのおふたりは?」
 一観に問われて、綾里は兇次郎と克巳を前面に引っ張り出した。
「兇ちゃんと、克っちゃんだよー」
「蛇蝎兇次郎だ。時坂祥吾のこともいちおう知っているぞ」
「工克巳です。蛇蝎さんの部下をさせてもらってます」
 綾里の紹介では紹介になっていないので、ふたりとも自分で名乗った。兇次郎の口上を聞いて、
一観の表情が変わる。
「蛇蝎さんと竹中さんは、兄を助けてくれたことがあるんですよね。その節はうちの兄がお世話
になりました」
「たまたま居合わせただけだ。我々は正義のヒーローというわけではない」
 ぺこりと頭をさげた一観に対し、兇次郎は鷹揚に応えると、そちらも名乗ろうとしていた、メ
フィともうひとりのほうへ視線を移した。
「で、おまえたちが永劫機《アイオーン》の化身か。メフィストフェレスに、コーラルアーク」
「どうして私たちのことを?」
「あ、名乗り損ねているうちに先に名前をいわれてしまいました……」
 あっさりと正体を見破られて、メフィとコーラルは驚いたが、兇次郎はこともなげに、いう。
「知っている者にとっては周知の事実だ。隠すつもりがあるならもうすこし気を遣うほうがいいぞ」
「永劫機って、超科学の粋を集めた最高傑作でしたっけ。……なんか、おれの装置《デバイス》
と根本原理が同じとか信じられないなあ」
 どこから見ても人間のふたりをまじまじと眺めてから、克巳はため息をついた。超科学技術者
なら噂くらいは聞いたことのある永劫機だったが、実物を目にしてみるとレベルの差に目眩を覚
える。この上に、戦闘時の永劫機はロボット兵器になるのだ。魂源力《アツイルト》だけでは稼
働エネルギーが足りず、魂そのものを喰ってしまう燃費の悪さとはいえ、永劫機は単騎でワンマ
ンアーミーたりうるオーパーツであった。
 そんなケタちがいの超科学技術の結晶が、バレンタインのチョコ作りに苦戦しているというの
だから、世の中は変なものである。
「それで、どんなものを作ろうとしているのだ?」
 兇次郎に問われて、一観たち三人は顔を見合わせたが、
「お料理すっごいうまいんだよ兇ちゃん。お菓子作りもプロ級なんだから」
 そう、綾里が補足すると、意を決した表情になったメフィがおずおずと紙を差し出した。どう
やらチョコのデザイン画らしい。
 ちらと見ただけで、兇次郎はあきれ顔になった。
「初心者がいきなり凝ったものを作ろうとしてはいかんな」
「……う」
 容赦ない兇次郎の駄目出しに、メフィの声が詰まる。
 横から克巳がのぞいてみたところ、百合の紋様に飾られた十字架型という、かなりデザイン性
の高い完成予想図が描かれていた。崩れた泥の城のようななにかが爆誕する腕前で、はたして本
当に作れるのだろうか。
 絵はけっこう上手なようなのだが――と思ったところで、なにか文字が書かれていることに気
づく。

  Geehrt Dunkel Schwarze Schleuderer
  Von Ihr Treu Diener
  Liebe wird gesetzt und geschickt

「げーひりと・だんける・すわるぜ・すふれうでらー……? ドイツ語ですか、これ?」
「なんちゃってだがドイツ語のようだな。『暗黒銃士へ、あなたの忠実なしもべより愛を込めて』
――か?」
 首をかしげた克巳へ兇次郎が解説してやったが、
「闇《ヽ》黒銃士です」
 と、メフィが微妙なアクセントのちがいを訂正する。
「…………」
「何系の発想なんだ、それは?」
「甘くて苦い、チョコレートにするには最適かなあ、と思いまして」
 兇次郎の質疑に、すました表情でメフィが答える。外見はともかく、やはり人間とは少々異な
るセンスをしているようだ。
「まあ、いい。こちらとしては、できるだけ多くの材料を譲ってほしいのだ。よって、あまり試
行錯誤をして材料を無駄にしてもらうわけにはいかん。テンパリングの失敗程度なら再加熱をす
ればカバーできるが、湯煎をしくじって水分を混入したり、まして直火で溶かそうとして焦がし
てしまうなど言語道断だ」
 そういいながらも、兇次郎は周囲に目を配って機材や材料のそろい具合を確認している。また
しても言の刃に貫かれ、メフィがふらついた。
「……!!」
「すごい、これまでの失敗はすべてお見とおしです」
 と、コーラルが兇次郎の眼力に感歎しているうちに、家事万能の裏醒徒会長はプランを組み立
てていた。
「どうやら材料の余裕はあるようだな。我輩が手本をひとつ作るから、それに合わせて作業すれ
ばよかろう。生地は面倒だからそちらのぶんも焼いてしまうぞ。――工、メレンゲを泡立てろ。
卵は五個、砂糖は八〇グラムだ。綾里、粉をふるっておけ。薄力粉とココアパウダーを六〇グラ
ムずつ」
「了解です」
「は~い」
 ふたりに作業を割り振って、兇次郎自身は全卵五個を次々と割り、さらに克巳がよりわけた卵
黄と、砂糖を一緒にボールへ入れて混ぜはじめた。
「生地から作るんですか……?」
「こんな巨大な十字架を、溶かしたチョコレートを型に流し込むだけで作ろうとしたのが失敗の
原因のひとつだ。だいたい、食うほうもつらいだろう」
 一観の質問に対し、兇次郎は端的な答えを返した。メフィ謹製の完成予想イラストには寸法ま
で書いてあったのだが、縦横ともに二〇センチ、厚みは七センチもあることになっているのだ。
そんなチョコの塊は、食べるほうもひと仕事になってしまう。
 もっとも、兇次郎がチョコ分を節約しようと考えているのも、ほぼまちがいないことであろう
が。ビスキュイにしろ、必要分量よりあきらかに多く焼こうとしている。
 兄より家事性能は高い一観は、すぐに重要なことに思いあたった。
「オーブンの余熱は何度ですか?」
「ああ、二〇〇度で頼む。そっちのふたり、ボールをあと二個、それに深手鍋を準備してもらお
うか。チョコレートに取りかかるのはもうすこし先だから、まだ見ていなくていい」
 メフィとコーラルにも指示をだすと、兇次郎は、克巳からは泡立てたメレンゲを、綾里からは
ふるい終わった粉を受け取って、さらにつぎの指示を下す。
 時間ロスのないみごとな作業配分で、オーブンで生地を焼成している間にクレーム・アングレ
ーズが、焼いた生地を冷ましている間に、作ったばかりのアングレーズをベースにしたチョコレ
ートクリームとカプチーノクリームが仕あがっていた。
 生地を三層にして、そのあいだに二種類のクリームを挟み、ベースの完成である。メフィのぶ
んは十字架の形に型抜きをして、ひとまずは冷凍庫に入れて冷やしておく。
 兇次郎がメフィに声をかけた。
「さて、ようやく本題だ。まずはコーティング用のチョコレートから作るぞ。割っておいたバニ
ラビーンズを散らしてある牛乳、砂糖、水と水飴を鍋に入れて火にかけ、沸騰寸前でおろし、ふ
やかしておいた板ゼラチンを溶かす。それにチョコレートを加え、空気を入れないように混ぜれ
ばできあがりだ」
 手順をよどみなく説明し、自ら手を動かして範をしめす兇次郎に対し、
「えーと……は、はい」
 と、鍋の柄を持つメフィの手つきは、どうにもあぶなっかしい。
「もうすこし火を弱くしておけ、沸騰してしまうぞ」
 にはじまり、
「だから火を弱めろといったろう、いまさらはずしても余熱で沸点を超える、鍋の底を氷水にあ
てろ!」
「こら、鍋をひっくり返す気か? こんなこともあろうかと、そっちのバットに準備させてある。
工、持ってきてやれ」
「そんなに高い位置からカレットを投入するとはねるぞ。永劫機だからその形態でも火傷はしな
いのか?」
「泡立てとはべつの要領だ。ミキサーのヘッドを上下に動かすな」
 ――と、兇次郎の小言は絶えることがなかった。
 つぎのガナッシュクリームはどうにか二、三の小言でクリアしたが、よほどふだん使わないエ
ネルギーを使っているのだろう、メフィの足元はふらふらになっていた。もとから高級白磁のよ
うな貌も、より皓《しろ》くなっているように見える。
「どうした、限界か? 下地をガナッシュで覆ってグラサージュすれば、完成といえば完成だぞ。
味としてはもう変わらん。あとはデコレーションするかしないかだけだ」
 兇次郎の口から放たれるのは常に叱咤であり、心配するような響きを持つことはまずなかった。
しかしそれは、無神経に突き放しているということを意味してはいない。
「いえ……最後までやります」
 顔をあげてメフィが応える。兇次郎は口の端にかすかな笑みを浮かべて、ダブルボイラーの番
をしている綾里へ声をかけた。
「できているか?」
「は~い、ばっちり溶けてるよ~。温度もおーけーだよ。四二度で湯加減最高?」
 といって、綾里が鍋をあげて持ってくる。身体強化のわりにおぼつかなげな足取りだが、兇次
郎が見ている限り大惨事が起きることはない。だばぁしてしまうような気配があれば、即座にコ
ードを発して姿勢を取り戻させることができるのだ。
 大理石の台の前に立つ兇次郎のかたわらに、入れ子の鍋が置かれた。下の鍋にはお湯が、上の
子鍋には溶けたチョコレートが入っている。
「さて、テンパリングというのは、ただチョコレートを溶かして成型しなおすことではない。チ
ョコレートの主成分であるココアバターの油脂分の結晶構造を整え、色合いと口どけをよくする
ための作業だ」
 そう前置きをして、兇次郎は大理石台の上に、鍋の中身六割ほどの溶けたチョコレートを流し
た。ステンレスのヘラ――スクレーパーとスパチュラで、かき混ぜていく。
 いつの間にか、ギャラリーが増えていた。
「なにこのパティシエの技。魔王さまマジ半端ないんですけど」
「大理石のテーブルって、こうやって使うものだったのか。なんのためにあるんだコレって思っ
てたけど。はじめて見たよ」
「なんだか私、自分のチョコがみすぼらしく見えてきました……」
 綾乃のほかにも人がいる。どうやら、一観たち三人の前にチョコレートを作っていたグループ
が、固まった自作品を取りにきたらしい。そしてそのまま、蛇蝎兇次郎のキッチンショーに魅入
っているというわけだった。
 混ぜられていくうちに、だんだんとチョコレートは冷えて、粘性が強くなっていく。スパチュ
ラから落ちるチョコが、流れ出さずにツ《ヽ》ノ《ヽ》のようになる。
 すこし固くなったチョコレートを再び鍋に戻し、合わせて全体をかき混ぜながら、兇次郎は注
釈を加えた。
「この状態では、融点が低く風味の劣る構造の結晶はすべて溶けてしまっている。ただし、温度
が高ければいいというものではないぞ。六〇度を超えるとカカオバターが変質して、冷やしても
固まらなくなってしまうからな。テンパリングができていれば、二〇度の環境で三分以内にきれ
いに固まる。心配なときは、スプーンですくってみるなりして確認しろ。それと、テンパリング
しおえたチョコレートの温度管理も重要だ。三〇度を保っていれば基本的に問題ないが、つぎに
テンパリングするホワイトチョコレートの場合、融点がより低いので二九度くらいを心がけてお
いたほうがよい」
 ギャラリーたちが、ふむふむとうなずき、メモを取る。一観とコーラルもすっかりそちらがわ
に並んでいた。
 テンパリングを終えたぶんの温度管理を克巳に任せ、兇次郎は続いてホワイトチョコもテンパ
リングする。
 白黒二種類のチョコレートがそろったところで、綾里が準備していた絞り袋を受け取り、テン
パリングしたチョコを詰めた。
「文字と紋様はこれで描く。あとはセンスだ」
 といって、兇次郎は耐油紙の上にすらすらとリリィ・クレストを描いていく。さらにチョコレ
ートを大理石に少々流すと、伸ばしてから固まりかけのところにパレットナイフを入れて、紙の
ようにすくい取った。
 ひだをつけながらそれを丸めると、たちまちバラの花ができる。
 細長いプラスチックシートの上にチョコを流し、荒いノコギリの刃のようなギザギザがついた
ゴムのスクレーパーで余分なチョコを追い出して線をつける。シートをよじっておいて、チョコ
が固まってから剥離させると、カールしたチョコレートリボンができた。
「すごい……」
 一同が歎息する中、兇次郎はやや冷えてきた絞り袋の中身を鍋に戻し、新しい袋をメフィへ渡
した。
「デモンストレーションはここまでだ。あとは自分でやるように。我々はこちらの目的を果たさ
せてもらう」
「でたー『ね、簡単でしょ?』宣言! バーロー、見ただけでそんな超絶技コピーできるわけあ
るかッ!?」
 外野から飛んできた綾乃のヤジは、ひょっとするとメフィの心の叫びを代弁していたかもしれ
ない。
 しかし兇次郎は「必要なぶんは見せたということだ」とばかりに、綾里と克巳へてきぱきと指
示を下し、育勇園へ持っていくためのチョコレートを作りはじめてしまった。
 クリームを挟んだビスキュイにガナッシュとグラサージュをかけて、チョコレートケーキを仕
あげる行程ではメフィももう一度アドバイスをもらえたが、その後は見事なまでに放任された。
 大事なのはみばえや味じゃなくてココロ――と綾里に指摘されたので、では一番ココロがこも
るデコレーション部分以外は、完璧でケチのつけようのない旨いものをくれてやろうじゃないか、
という、兇次郎なりの心意気だったのだが、もちろんそんなことを公言する蛇蝎兇次郎ではない。
 裏醒徒会の三人が帰ったあとも、二月十四日に日付が変わるころまで、敷神楽邸の第四厨房に
は灯りが点っていたという。


 二月十四日の放課後――
 育勇園の子供たちは、去年よりも豪華なバレンタインギフトに大喜びしていた。
 育勇園には美人のお姉さん職員がいるので、ふだんは裏醒徒会のイベントに参加をしない相島
《あいじま》陸《りく》も顔を出す。とはいえ、学園きってのプレイボーイである陸は当然なが
ら本日のスケジュールが詰まりに詰まっており、チョコレートを渡しにきたはずの育勇園で逆に
女性職員からいくつかチョコをもらい、ホワイトデーのお返しを約束しただけでさっさと行って
しまった。
 兇次郎としては、陸のもとに集まってきたチョコレートの中から、本人が食べきれないぶんを
ここの子供たちに渡すことができるので、今日のところはそれで充分なのだが。
 むしろ意外だったのは、最近ほとんど顔を見せなかった笑乃坂《えみのさか》導花《みちか》
がやってきたことだった。しかも、チョコレートを携えて。
「どういう風の吹きまわしだ、笑乃坂」
「今日のわたくしは|冴ノ守《さえのもり》ですわ、会長。父の名代としてまいりましたの」
「ほう。最近は旧家の鞘あてが活発だな。門閥の再結成でもするつもりでいるのか?」
 チョコレートを持たされていたのはそういうわけかと、兇次郎は得心した。育勇園にちょっと
した援助や寄付を申し出てくる個人や団体が、このところ増えているようだ。そして園内のこと
を見学したがっている。ここから優秀な異能者が続けて出ているのかもしれない。
 しかし導花は、そういう裏事情のことなど一顧だにしていなかった。
「興味ありませんわ。〈家〉の単位での集まりなど、他人に比べて信がそれほど置けるというわ
けではないのに、頼りになるかといえば大してなりませんもの」
「ではなぜきたのだ?」
「会長のお考えと同じですわ。わたくしは使う人間を、〈家〉ではなく〈個〉で選びます。異能
の強さで」
「単純に強いだけの人間はいらん。そちらで引き取ってもらうと面倒が減っていい。学園の一生
徒、一異能者となるぶんにはいずれ我輩の配下になるが、|聖 痕《ステイグマ》やオメガサー
クルの手先になられると始末に悪いからな」
「父に話しておきますわ。藤神門《ふじみかど》に取られるよりはましか、とでもいいだすかも
しれません」
 そういうと、導花はコートのポケットから右手を出す。その手には、小さな包みがにぎられて
いた。もちろんなにかは察しがつくが、兇次郎はあえて訊ねてみる。
「なんだそれは」
「会長のぶんのチョコレートですわ」
「不要だ。あっちの餓鬼の群れに投げてやれ」
 すげない調子で、兇次郎はあごをしゃくった。そちらでは、綾里と克巳が歓声をあげる子供た
ちにチョコレートを配っていた。最大の目玉であるホールのチョコレートケーキは、夕食のあと
にでも細かく切られて全員にすこしずつ振る舞われるのだろう。
 導花の柳眉が、わずかにつりあがる。
「これはわたくしのポケッポマネーで買ったものですわ。受け取ってもらわないと困ります。わ
たくしが洋菓子を食べないことはご存知でしょうに。あっちの子供らにあげるには数がたりませ
ん、不公平ですわ」
 いやに理屈っぽく反駁する導花に、兇次郎は怪訝げな顔を向けた。
「工と相島のぶんはどうした」
「もう渡しました。同じものですから、どうぞご安心になってお収めください。たとえ中元や歳
暮と同レベルの贈物であろうと、渡そうとした鼻先を折られるのはよい気分ではありませんわ」
「それは悪かった。だがじつをいうとだな、返礼の予算を考えるのが面倒なのだ」
 どうやら、これが兇次郎の本音だったらしい。導花は華やかに笑う。
「いやですわねえ、貧すれば鈍すというではありませんか。蛇蝎兇次郎ともあろうおかたが、そ
んなことに脳髄を絞ってはいけませんわ。金銭をかける必要はないのです、気持ちさえ伝われば。
極端な話、三月十四日にメールを一本入れるだけでもよろしいんですのよ、それで本当に気持ち
が通じれば、ですけれど」
「それが一番難しい。千金を費やしても、心が入っていないことはある。しかしたいていは、高
価な贈物で入ってもいない気持ちを買うことができるだろう」
「ですがそれは、本当ではありませんわ。会長は、偽りのない心をつかめていますわよ、すくな
くとも、いまのところは」
 導花の視線の先には、兇次郎に忠実なふたりの学園生の姿があった。いずれ、ここの子供たち
の中からも、兇次郎を支える人材が出てくるだろうか。
 兇次郎は腕を組んで、だれにともなくこういった。
「すべての人間と心通わすことはできん。むしろできない相手のほうが多かろう。だが、理屈と
法規と損得勘定だけでは、決して人を治めることはできぬのだ」
 しかし己にならばすべての人間を治めることができる——そう信じることができるだけの不遜
な自負を、兇次郎は持っていた。


 他方――
 時坂祥吾が、契約者たるメフィストフェレスの心と、蛇蝎兇次郎のパティシエとしての腕前、
そのどちらにより感動したのかは、本人に訊いてみないとわからない。
      〈おしまい〉


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