勢いにのせて金槌を手に取った羽生奈々瀬は、天井に向かって腕ごとを猛烈に突き上げ――そこで彼女の動きは止まる。
天を衝くポーズで固まっていた。
「裏切れない……奈々瀬は……様にだけは、嫌われたくない……」
彼女の脳裏に浮かぶのは想い人の笑顔。
すべてを包み込むようなやさしいまなざし。あまいチョコレートのようなビターボイス。繊細でありながら理知的なこころ。それらすべてが羽生奈々瀬を責める。
机の主にしてクラスメートである憧れの男子生徒、舞い散る紅い薔薇の花びらのなかで佇む彼のほほえみ。
――たとえ恋敵のチョコレートだとしても、それを卑怯な行いで葬るような女があの方に相応しいといえるかしら……。
憎しみと虚栄心にさいなまれた奈々瀬は、全身をプルプルと震わせながら、それでも憎き恋敵のチョコを前にしてどうすることもできない。
ツインテールの黒髪を震わせて唇をかみながら涙を零した。
「嫌われるのはいや……」
夕陽が刺し込み長い影を落とす教室の床に、ぽたぽたと雫が落ちて染みをつくる。奈々瀬は寂しげに立ちすくむことしかできない。
奈々瀬ははっきりと孤独を感じた。
嫉妬する醜い自分。愛される資格のない孤独な自分。人生によくあるほろ苦い絶望だともいえるが、それはまるで深い森の中に足を踏み込んでしまい進むことも戻ることもできなくなった哀れな迷子のようで。
「永遠に泣き続けるしかない無力感が私の魂をさいなみます……ああ、奈々瀬は今世界で最も悲劇的な美少女です……!」
ふいにそのとき、教室の扉がガラガラと開けられた。
「誰!?」
ふわりとカーテンが風に舞い、羽生さんの瞳に少年の姿が映りこむ。
「……羽生さん?」
「はい?」
調子っぱずれな生返事で羽生さんはフリーズする。
妄想内の彼ではない。本物の、辻 宗司狼(つじ そうじろう)がいる。
想い人本人が奈々瀬に訊ねかけた。
「……こんな時間まで残ってどうしたの」
「いえ、その……重大な任務があったので」
とっさに金槌と五寸釘を背後に隠しながら奈々瀬は答えるが、場違いな返答を気にかけていられる余裕などパニックした頭にはあるはずもない。まごうことなき現実の想い人がそこにいて、しかも二人っきりで会話まで交わしている。
――ふたりっきり。あれ? ふたりっきり?
結論に至るまでざっと10秒。
――ええと 奈々瀬はいまふたりっきりかしら?
そう、夕焼けに照らされた教室で二人っきり。
奈々瀬が手にしているのはバレンタインデーに備えて全力で作り上げた手作りチョコレートであるならば、もはや全ての舞台が完成している。
――これは、これはこれはもしかしていまここでロマンティックに告白しろという神から与えられ給うた運命……かしら。いえ、そうにちがいありません。
羽生奈々瀬のなかで答えは出た。
それどころか告白して恋人になり結ばれて結婚して子供をもうけて「あなた、ご飯よ。はい、あーんして」とエプロン姿でかいがいしく世話する健気な若奥様になった将来設計まで組み立てられている。
「ならば。後は実行するのみです」
「……実行?」
「辻くん。いえ、宗司狼様」
「……!」
反応しない宗司狼の態度を呼びかけへの受容と受け取る奈々瀬。
「『恋は人を生かし、また殺す』と無名の詩人が詠んだように、奈々瀬もまた恋に殺されようとしていました。どこにも救いなどありはしないと。ですが、そんな私を救い出してくれる騎士《ナイト》がいるのです。わかっていただけますか?」
「…………………………」
無言であとずさろうとしている宗司狼に構わず間合いをつめて奈々瀬が愛のスペシャルチョコレートを差し出そうと歩みを速める。宗司狼はまるで蛇に睨まれた蛙のように動けない。人、これを絶体絶命という。
「あれぇ? 宗ちゃん教室に入んないの? なんでなんで?」
宗司狼の隣から顔を出したのは、彼の友達である天上院 佑斗(てんじょういん ゆうと)だった。
「誰ですかあなた!?」
「誰ですってそっちこそ誰だよ! ってはにゅーじゃないか!」
「あなたはお馬鹿の天上院佑斗!」
ロマンチックな愛世界がいっぺんに霧散していく。同時に、奈々瀬と宗司狼のしあわせな結婚生活もガラガラと音を立てながら崩壊していった。
「そんなことより宗ちゃん、早くセイバーとっておいでよ。バトルする時間なくなっちゃうじゃないか」
「あ、うん……だね」
ジト目でにらみつけながらプルプル震えている羽生奈々瀬をさりげなく避けつつ辻宗司狼は自分の机にまでくると、ハートマーク入りの包み紙を手に取った。
意外な行動に思わず奈々瀬が声をかける。
「あの辻くん。その包みはチョコレートでは」
宗司狼は困ったように頬を掻いた。
「ああ、これは母上からのプレゼントだから。
セイバーギアの新パーツ、今日に佑斗と勝負するために持ってきた……」
ぶっきらぼうにそれだけ答えると、宗司狼は佑斗と一緒に教室から出て行ってしまった。
足音が徐々に遠ざかっていく。
奈々瀬は一気に脱力してへなへなと崩れ、ぺたんと床の上に座り込んだ。
はぁ、と大きく溜息をつくと、ゆっくりと、無表情に顔を上げた。
「……うふふ、そういうことね。やはり奈々瀬たちの愛にとって最大の障害は天上院佑斗――あのお邪魔虫と、そしてセイバーギア」
ジジジ、と嫉妬の炎を燃やしながら羽生奈々瀬は立ち上がる。渡しそこねたチョコレートを宗司狼の机にそっと入れると、暗い炎を揺らめかせながらつぶやく。
「でも、覚悟するがいいわ。最後に勝利するのは奈々瀬たちよ。なぜなら、愛とは何物よりも尊いのだから……おーほっほっほっほ!」
夕闇に包まれた3-Aの教室に哄笑が響き渡る。
それは恋する乙女の笑い声だった。