【桜の花が開くまで 第一章 01】


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第一章 崩れる日常

「ヤァァァァッ!」
 耳をつんざくような大きな掛け声だった。声の主は明らかに女性。しかもまだ若い。
 しかし、そこに間をおかず、更に大きい男の声が雷の様に響く。
「声が小さい! やりなおし!」
「ハイッ!」最初の声の主がそれに応じた。
  再び道場内に掛け声が響く。今度のものは先ほどのものよりも、大きく鋭いものとなった。
 今度は男の声はしなかった。その代わりに聞こえるのは風切り音と道場全体がきしむ音。
 ここは剣崎道場。剣道と居合いを教えている、長野県の竹上市にある小さな道場である。
 道場の持ち主で師範を勤めるのが剣崎尚正《けんざき しょうせい》、今年で六十五歳になる剣道と居合道の範士であった。髪は既に真っ白になってしまっているが、肌はつやつやとしており、引き締まった体躯をしている。道場を一歩出てしまったら冗談好きな、顎まで覆う髭を蓄えた気のいいおじいちゃんでしかないのだが、道場の中では年を感じさせない機敏な動きと威厳を見せた。
 小さな、さして名前も知られていない道場ではあるのだが、剣道や居合道に詳しい人間の間では知る人ぞ知るという存在の道場であり人物だった。弟子もあまり取らず一般には知名度もない。どうやってこの道場を運営しているのか、維持してるのか、桜子もそれが少しは気になる年頃になっていた。
 桜子というのは、諸葉桜子《もろは さくらこ》。この剣崎道場のに通う数少ない弟子の一人。今は中学三年生であり、先ほどの掛け声の主でもある。剣道をはじめて七年目、居合をはじめて三年目。この道場に通い出して、六年目。そしてもうすぐ、高校一年生になる。
 今は三月の中盤。冬の長いこの長野の竹上市にも、そろそろ春の息吹が聞こえてくる季節である。
 桜子が進学する予定の高校は竹上市の中では最上位の進学校と言ってもよい東筑摩高等学校だった。公立ではあるが全国模試でも割と上位に食い込む高校で、そもそも内申書が良くないと通っている中学がなかなか受験すらさせてくれないという学校でもあった。桜子は当然のように通っている中学から、この高校を受験する事を薦められ、そして少なからぬ努力の甲斐もあったが、合格という結果を得た。
 彼女にとって、今が人生で一番楽しい気楽な時期の一つだろうというのは、多くの人が納得できる事であろうし、そしてそれは当事者である桜子本人が素直に認める所でもある。桜子の将来は開けていた。
 ――はずだった。
 ジリリリと少し離れた所から、呼び出し音が響いた。電話のベルである。この道場はこの西暦2019年にしてまだ固定電話を使っており、なおかつその電話機がアンティークの黒電話なのだった。「古いものは壊れないし、間違いがない」と尚正は口癖のように言っていたが、事実、今大騒ぎしながら主を呼び出している黒電話はどうやら今までに調子が悪くなった事こそあっても、壊れた事はなかったらしい。
「休め!」尚正の声が響く。
「ハイッ!」桜子も返す。
 素早く、しかし音も立てずに尚正が道場を出て行った。残された桜子は、打ち込み練習に使っていた木刀をおろして、その場で正座して待つ。
 すっかり息が切れていた。
 剣崎道場では肩や肘や手首を壊さないギリギリの重さと長さの木刀を素振り用に使う。その為、木刀の大きさや重さ等は師範の尚正自身が選び、またそれで練習をする時は尚正も、少なくとも桜子については必ず立ち会った上でやらせている。尚正がいない時の木刀での素振りは厳禁なのだった。尚正曰く「好きにやらせるとどこか身体を壊すから」ということであった。この重い木刀を使っての素振りや打ち込み練習についても、尚正曰く、「この方が実戦的だから」なのだそうだが、この時代に実戦も何もあるのかと桜子は内心では思っていた。
 このような疑問を持ちつつも桜子が尚正に従っているのは、剣道や居合道が好きだからということもあるが、この厳しくもある師範が実の所、とても頼もしく、また気が回る事も知っていたからであった。他の道場よりも厳しい稽古をつける道場ではあるが、筋肉痛や打ち身以外の身体の故障やトラブルは桜子はここに通い始めてから経験した事はない。これが結構凄い事らしいというのをわかったのは、つい最近の事だったが。
 付け加えるならば、桜子は「強い父」の姿を尚正に見ていたのかも知れなかった。桜子の父親の幸広は、父親としては申し分ない人物と言ってもいいのだが、可愛くて出来のいい一人娘を溺愛しすぎていたし、それが故に桜子には「ウザ」くて頼りない人物に見えていたのも間違いない。彼女は優等生ではあったが、やはり思春期の少女なのである。
 桜子は待った。いつもならば師範は二三分で戻ってくる。尚正は長電話は好きではなかった。
 が、今回の電話は長いようだった。五分は過ぎた。しかし、戻ってはこない。
 五分が過ぎ、十分が過ぎ、桜子が流石にどうしたのかと思い始める頃に、どすどすと音を立てて尚正が戻ってきた。珍しい事だった。そして、道場の扉を開けるなり、
「桜子よ」
「はい」
「今日はもう上がりなさい」
「え?」
 桜子は戸惑った。これはいつもの師範らしくない行動である。よほどの事がない限り、途中で稽古を中止するというのは尚正はしない。まして、今日の予定では後二十分もやれば全ての稽古が終わるはずである。
「なにか急な用事でもできたんですか?」
「ん――」尚正はグッと口を真一文字に結んで黙り込んだ。「いや、――多分急ぎではない。が、ちと用事が出来た。急いだ方が良いとは思う」らしくない、要領を得ない返事が戻ってきた。
「ともかく今日は帰りなさい」尚正は繰り返した。
「わかりました。それでは失礼させていただきます」桜子は立ち上がった。
 向き合って、礼。
 稽古終了の合図である礼が終わると、また尚正は大きな足音を立てて道場を出て行った。今度は電話がある部屋とは別の部屋へと向かったようである。
 (なんでだろう?)
 稽古が早めに終わった事それ自体は桜子には別にどうということもなかった。本音を言えば少し嬉しいくらいである。この所の稽古は厳しさも増していたから。尚正の事も尊敬しているし、剣道も居合道も好きだが、やはり厳しいのは歓迎出来ない。
 でも――。
 心にわずかな引っかかりを感じつつ、桜子は立ち上がって更衣室に向かった。

 桜子の家は剣崎道場からそう遠く離れてはいない。歩いて二十分、自転車では八分ほど、剣崎道場から見て南西の方向にある。
「うう、寒い――」桜子は薄い駱駝色のハーフコートの襟をかき合わせた。かけた眼鏡も白く曇る。
 春が近づいてきているとはいえ、内陸部にある竹上市はまだまだ寒い。残雪も日の当たらない所にはチラホラ残っている。
 今日は一度家に帰ってから道場に来たので制服ではなかった。時間も少しだが余ってしまった感じである。
 このまま帰るのもつまらないな、と眼鏡についた曇りを毛糸の手袋で拭きながら桜子は思った。
 今日は土曜日、明日は日曜日。稽古もなければ、友達との約束もない。
 だから、チーズケーキでも焼こう、と決めた。
 頭の中でざっと家にあるはずの材料を思い出す。足りないのは、チーズ、カッテージチーズがいいが多分これは家の冷蔵庫にはもう無い。フルーツソースも十分に残っているかはわからない。もしかしたら粉砂糖も。
 買ってこなくちゃいけないな。
 桜子はサドルにまたがると思い切りペダルを踏んで走り出した。
 剣崎道場の前から北へ行くと商店街がある。目的地はそこにあった。

 竹上駅の東口からは四車線道路がまっすぐに伸びていた。その道沿いに駅前通り商店街がある。書店や衣料品、インテリアショップ、宝飾店、雑貨屋、様々な店が軒を並べるこの商店街の端に、このあたりでは唯一の製菓材料店兼ケーキ店の『レーヴ・デュ・ミエル』がある。まだ若いパティシエの夫婦が二人で経営している小さな店だった。
 店にはいるとすかさず「いらっしゃい」と声がかかる。
 軽く栗色に染めた髪をきつくまとめ、そこに可愛いピンク色のキャップを被った小柄な女性がショーケースの向こうで桜子に笑いかけていた。キャップとおそろいのピンクのエプロンにピンで止められた小さなプラスチックのネームプレートには「店長 前橋節子」とだけ書かれていた。この店の店長でオーナーの奥さんである節子さんだった。
 ケーキやお菓子の材料を買う為に何度もやってきている桜子はすっかり覚えられている。
「桜子ちゃん。今日はどっち?」
「えへへ、今日は材料の方なので――。カッテージチーズとフルーツソースが欲しいんだけど」
「カッテージ、カッテージね――、どれくらい欲しいの?」店の奥にある大きな業務用冷蔵庫へ向かいながら節子が聞いてきた。
「ええと、三百グラムほどなんですけど。もうちょっと多くてもいいんだけど」
「三百グラムね。んー、どこだっけ?」
 節子が探してくれている間、桜子はショーケースを眺めていた。定番のチーズケーキやショートケーキ、エクレアやシュークリーム、クッキーなどの定番商品の他に、旦那さんが考案したらしい綺麗にデコレーションされたオリジナルケーキが幾つか並んでいる。もっともその大半は売り切れていたが。
 よく喋る節子に比べると対照的な寡黙な旦那さんだったが、彼のつくるケーキやタルトは女の子がつい手を出したくなるような可愛らしくて華やかな飾り付けが多い。デザインについては、もしかしたら節子が手伝っているのかも知れないのだが。
「ああ、あった、あった――、これね。二種類あるんだけど、どちらにする?」
 戻ってきた節子がカウンターに、綺麗に包装された二つの包みを置いた。
「こっちは四百グラム入りね。ちょっと割安で量も多い。こっちの方は三百グラム入り。割高だけど、旦那はこっちの方が品はいいって言ってるわよ。ただ、そんなに品質としては違わないとも言ってたけど」
「んー」
 桜子は悩んだ。値段はどちらもほぼ同じ。どちらも買って試してみたいが、フルーツソースも欲しいし、まだ中学生だから懐にそんなに余裕がある訳ではないのだった。
「じゃあ」
「うん?」
「こっちにします」結局、割安な方を選んだ。
「まあ、そうね。まだ練習、なんでしょ?」
「ええ、まあ、まだそんなにうまくないし――」ケーキやクッキーを作る事には慣れたが、うまくなったという実感は桜子にはなかった。ある意味で剣道や居合いよりも難しいと桜子は感じている。レシピに書かれた通りのものにはなっている自信はあるが、ここに並んでいるケーキやクッキーと比較すると、明らかに「家庭の味」である。材料はたいして違わないはずなのだが。
「そんな事はないでしょ。今度もっていらっしゃい。旦那に食べさせてみるから」
「やっ、やめてくださいっ――!」桜子はフルフルと手を振って断った。とんでもなかった。本職の人に試食させるなどいくらなんでも出来ない。恥ずかしいし、申し訳ない。
「そぅお? じゃあ気が変わったら言ってね」節子は強くは言わなかった。如才ない性格の人だった。強引に出るようでも押しつけはしないのである。
「――あ、そうそう、ちょっとこれ見て」
 そう言いながら節子がニコニコしながら、レジの隣から取り出したのは、薄い小冊子だった。
「見たことあるでしょ、これ」と、桜子にそれを手渡した。
「はい。あ、でも、これって」
「そ、旦那とあたし」
 薄い小冊子の上には大きく奔放な書体で『たけがみ』と書いてあった。竹上市のタウン情報やイベントを紹介している情報誌である。桜子も竹上駅前で配布されているのを貰った事がある。桜子の母も買い物に行った時に持ち帰ってくる事がよくあった。
 そして、その冊子の表紙に写されているのはこの店の中。そして節子ともう一人。
 満面の笑みを浮かべている節子の隣で、パティシエの白い服を着た男性がややぎこちない感じで笑っている。顔立ちは整っているが、真面目すぎという印象で、どこか思い詰めたような顔をしている。写真の中でも口元はともかく目は笑っていなかった。彼が節子の夫でこの店のオーナーでパティシエの浩之だった。
「旦那は取材を受けるのいやがったんだけどね」節子はおかしそうに言った。
「はあ」それはなんとなくわかった。なにしろ殆ど店の表の方には浩之はこない。奥にはいて、今も黙々とお菓子やケーキを作っているのだろうけど。
「でもね――、ウチも今は売り上げとか安定してきたけど、もう絶対大丈夫、ってほどじゃないから。――あ、これは桜子ちゃんにいう事じゃないか」
「はあ」確かに聞かされても困る。
「だから、受けたのよ。取材申し込みのメールが来た時に相談しないで即決しちゃってね。後で取材の話聞かせたら、文句こそ言わなかったけど凄いいやそうな顔してた」
 桜子はただ頷く事しかできない。それに、そうだろう、と思う。
「取材に来た編集者さんは結構綺麗な女の人でね。そうそう、桜子ちゃんにちょっと似てたかな」
「いえ、わたしは別に――」父親や母親は桜子に『綺麗だ』を連発する事はしばしばあった。しかし、それ以外の人には今まで言われた事はない。親の欲目というものだろうと桜子は解釈していた。学校の友達とかクラスの人には『かたい』とか『大人っぽい』とかそういう言われ方をするのは実によくある事だったのだが。
「冗談抜きにあなたは美人になると思うわよ」節子はそうこともなげに言った。「あたしみたいなチンクシャと違って、背もスラッとしてるし」
 桜子にはどう返せばいいのかわからなかった。美人になると思う、というのも微妙な気持ちになる言葉でもあったし。それに節子が自分で言うほど、自分に自信がない訳でもない事くらいは桜子にだってわかる。三十にはなっているかならないかくらいの筈だが、パッと見た感じでは年齢がさっぱりわからない人だった。少なくとも三十には見えない。二十代のどこかという感じの童顔で表情がコロコロ変わる、明るい節子が男性に人気がなかった筈もない。
「編集者さんも気をつかってくれてたんだけど、ますます緊張しちゃってね。結局、応対は殆どあたしがしたし、写真はこんなになっちゃうしで」
 店の奥の方から、ゴトリと音がした。節子が桜子の方を見てニヤリと笑う。
「でもねぇ――」節子は心持ち声を大きくした。「たけがみを持ってね。ここに来てくれた新規のお客さんが今日何人かきたのよ。だから一応取材を受けた事は成功だったって訳」
 桜子にもやっとわかった。新規のお客が増えた事が節子は嬉しかったのだろう。だから、いつもにも増して饒舌になった、という事らしい。
「へえ――」桜子はたけがみを手にとってあらためて見直した。写真の中のこの二人とこの店の後ろに何かが見えたような気がした。だがその感じはすぐにどこかへ消えてしまったが。
「そう言えば、フルーツソースもいるって言っていたわね。話にかまけて忘れていたわ」
「はい――?」
「あら――?」
 にわかに外が騒がしくなった。救急車のサイレンの音とパトカーのサイレンの音がどちらも聞こえてくる。
 しかも、距離は近い。ショーウインドー越しに窓の外を見ると、やはり何事かと出てきた人や、街行く人が足を止めて遠くの方を覗き込んでいるのが見えた。
「なにかあったのかしらね?」
「そうですね――」
 桜子もちょっと気になった。竹上市は静かな地方都市である。凶悪犯罪などが起きた事はここ何年もない。
 パトカーがサイレンを鳴らすとしても、「前方の車そこで止まりなさい」の類ばかりである。しかし、今のはパトカーもただサイレンを鳴らして、多分だが現場に急行しただけで、そういう拡声器の音も聞こえてこなかった。
 二人が耳を澄ましている内に、パトカーと救急車のサイレンは遠くへ過ぎ去っていった。どこで事件があったのかはわからないが、桜子の家の方ではなさそうだった。
 ほとんど聞こえないくらいになってから、桜子と節子はごく自然に視線を交わした。
 節子が口を開く。
「さて、フルーツソースよね。どれにするの?」

 結局、桜子が帰宅の途についた頃には、周りがすっかり暗くなっていた。
 『レーヴ・デュ・ミエル』で桜子が買ったのは、カッテージチーズが四百グラム、お菓子用のフルーツソースは定番だが、ブルーベリーとアプリコットが一つずつ。粉砂糖は結局買わなかった。節子はおまけとして、クッキーが入った小さな袋を二つ袋に入れてくれた。一つは話に付き合わせてしまったお礼という事である。いいですよ、と言ったのだが、節子は強引にもたせた。
 また来てくれればこれくらい安いものよ、とわざとらしく片目をつぶって見せられて桜子も苦笑いして受け取るしかなかった。確かにまたあの店には行くのだろうし。
 桜子の家は『レーヴ・デュ・ミエル』からは自転車では十二分ほどかかる。
 少し自転車をこいでから、桜子は自転車を止めた。クッキーの入った小さな可愛い袋を一つ取り出して封を切った。急にお腹が空いていた事を思い出したのだった。指先を突っ込んで小さな丸いクッキーを一つ取り出して口に含んだ。ドライフルーツが混ぜ込んであるクッキーはサクサクとした食感の、あっさりとした味だった。脂肪分も甘さも控えめで僅かにブランデーの香りがする。自分でつくったものよりも断然おいしくて、食べやすい。
 最初の一つはすぐに胃の中におさまってしまった。もう一つだけ取り出して、口に含んで、クッキーの袋を戻す。
 今度はもうちょっとゆっくり味わいながら、ペダルに足を戻して帰宅を急ぐ。
 思い起こすと、確かに作った人の人となりが出ているような味だと桜子は感じた。色々と控えめなのは間違いなく、でも神経が行き届いた味付け。あの生真面目そうな人が、真剣に女の子が食べるようなケーキを飾り付けたり、考えたりしてるのを想像するとどこかおかしくもあったが、それは胸が温かくなるようなおかしさだった。明るくて如才のない節子が、これは世渡りが下手そうだと桜子にすら思えるあの生真面目なパティシェと結婚したのも何か自然な気がした。
 そんな事を漠然と考えていると、距離を感じる間もなく桜子の家の近くまで来ていた。
 だが何か様子がおかしい。いつもとは違う。
 家の前を見ると黒塗りのセダンが止まっている。今の時代には珍しい車種だった。この時代には、殆どのファミリーカーはワンボックスの電気自動車ばかりである。ガソリン車やハイブリッドほどでないとしても、セダンという形式自体が珍しい車だと言えた。
 その時、ついさっきのサイレンの音が思い出された。パトカーや救急車が向かっていった方向はこちらとは違うはずだが、胸騒ぎがする。桜子のペダルをこぐ足に自然に力がこもった。
 慌ただしく黒いセダンの前を抜けて、自転車を車庫に入れる。チーズやフルーツソースが入った袋をかごから取り出して、桜子は走った。確かに自分の家にこの車は用があるのだ。
 息せき切って、玄関を開けて、家に入る。
「やっと帰ったか」
 桜子にそう声をかけたのは、玄関の土間に立っていた三人の男の一人。
「え?」
 それは聞き覚えのある声と口調だった。間違えようがない。
 剣崎尚正だった。来ている服も道場で礼をしてわかれた時のままの道着姿。残りの二人はきちんとスーツを着た中年男性が二人。
 そして、目の前にはいつもならまだ会社にいる筈の父親の幸広と聡実が二人揃って不安げな様子で立っていた。
 (どういうこと――?)
 そう桜子は思ったが、声にはでなかった。

 結局、夕食もまだだったが、尚正と残り二人の男には応接間に上がって貰う事になった。
 聡実が夕食を一緒にどうぞと尚正と二人の男に勧めたが、三人とも強く固持した。「お構いなく」と繰り返すのだが、大の男を三人家の中に待たせたままで、それで気持ちよくご飯が食べられるはずもなく、結局、桜子も両親も話を先にしようということで落ち着いたのである。桜子はコートを脱いで、黒い厚手のセーターとジーンズという格好になっていた。
 尚正は勿論、桜子の両親とは顔見知りであるが、残りの二人は見た事もない。それは両親ともそうだったようだ。
 二人の男はそれぞれ名刺を出した。幸広が手に取る。
 年配の男は井高と名刺にあった。こちらは長野県警総務部所属の警部と肩書きにあった。
 一見して桜子の父の幸広と同じような年配であるらしい松尾は、長野県庁職員らしい。所属しているのは危機防災課と記述してあった。
 桜子にはこの三人が家に来る理由がさっぱりわからない。それは幸広も聡実もそうであるらしかった。また、桜子が来る前には話らしい話はしていなかったようである。付け加えるなら剣道と居合道の師範である尚正がこれに組み合わさっているという事になると、更にますます話が見えない。
 尚正と二人の男はソファに座ったまま黙っていた。出されたお茶にも手をつけようとしない。
「どういうことでしょうか――」幸広が痺れをきらして口火を切った。明らかに渋々とであったが。
「お宅の娘さんの事でちょっとお話がありまして」井高がそういうと、瞬時に幸広は真っ青な顔になった。聡実は膝につけた拳をギュッと握りしめる。
 当の桜子にしてみれば、「え?」という感じだった。
 警察の御厄介になるような事は多分何もしていない――、はずだ。
 学校からの帰り道で買い食いをした事はあるが、その程度。あるいは、自動車がまるでやってこない横断歩道を信号が青になるのを待ちきれず、赤の状態で渡った事もある。だが他に何か。
 しかし、なんだろうと考えている桜子の隣で、
「うちの娘が何かしでかしたんでしょうか――」と、幸広が言った。
「パパ、ちょっと」桜子は思わず口を挟んだ。
「お前は黙ってろ。パパが話をするから。――それで、どんな事をうちの娘が」
「だから、パパ、あたしは何も――」
「お前は黙ってろ、桜子。お前が何かしたならパパの責任だ」
 父親の声と態度に桜子の中で何かがキレた。瞬間的に怒りがわいてくる。
「パパ――」桜子は低い声で、力を込めていった。剣道や居合で鍛えているからか、父親よりも数段迫力がある。地の底から響くような桜子の声に、井高も松尾もピクリと身体が揺れた。聡実は更に身体を硬くする。尚正は動じない。
「――?」幸広がおそるおそる娘の方に首を向ける。
「わたしが何かやったと思ってるの、パパ」桜子の言葉は低かったが鋭かった。眼鏡の奥の目つきも鋭くなっている。
「いや、でも、警察の方が――」しどろもどろである。
「パパは警察とわたしとどっちを信じるの?」
「いや、しかし――」
「どっちなの?」桜子の追求は厳しかった。聡実はオロオロしている。松尾は居心地がとても悪そうに視線があらぬ方向に動く。尚正はやはり黙ったままである。
「――いや、これは言い方が悪かった。申し訳ない」井高がなだめるような口調で口を開いた。
「別にそちらの娘さんがですね、法律上問題あるとか、道義的にどうか、その手合いの問題を起こしたとかそういう事でここにやってきたのではありませんので」井高は一言一言区切るように言った。
「むしろですね、わたくしどもの方では、こちらの娘さんがそういう意味ではまるで問題がない所か、極めて健康で優秀な生徒である事も既に存じております。――えーとですね、確か、今の中学では女子剣道部の部長もなさってたのも存じておりますし、二年生の時にはクラス委員も経験がありますな。成績も常に優秀でこの度、東筑摩高等学校にもめでたく合格した事もこちらとしては既に承知しております」東筑摩高等学校はこのあたりでは一番の進学校である。卒業生のほぼ全員が中央の有名私大か国立大学に進学する。という事で、合格が決まった時は、桜子本人よりも両親の方が喜んだのは言うまでもない。
 ここまで聞いて、ようやく、なんだ――、とばかりに幸広はホッとした顔になった。聡実の表情にも明るさが戻る。
 桜子は両親が井高の言葉であっさり豹変した事が疳に触った。結局わたしを信じてない。
 が、少し話にも興味が出てきたので、気を取り直して聞いてみる気分にはなった。悪い話、というよりも、桜子やこの家に問題があるというのではなさそうである。
「ではどんな話でしょう?」幸広が今度こそ不思議そうに井高に聞いた。
「それは――」と、井高が話しかけた所を今までずっと黙っていた尚正が制止した。
「わしから話そう」
「そうですか。それじゃお願いします」井高は明らかに助かったというホッとした顔になり説明役をあっさりと明け渡した。
「封筒を」尚正が松尾に促した。松尾は慌てて、小脇にずっと持っていた大きな茶封筒を尚正に手渡す。
「これを見てみなさい、桜子」尚正が封筒の中からパンフレットのようなものを取りだして、桜子に渡した。幸広は何か不満そうに身じろぎをした。聡実は好奇心満々で首を伸ばす。



つづく

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