【桜の花が開くまで 第一章 02】


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ラノで見る(01冒頭から開始です)

 桜子は表紙に目を通した。そこには、

 『学校法人双葉学園への入学の手引き』

 と、ある。
 桜子は一瞬何の事かわからなかった。
 より正確には、とてもイヤな予感がしたので、脳が理解する事を拒否したのかも知れない。
「あの、この、双葉学園、って何?」桜子は師範におそるおそる聞いた。
「見ての通りだ。初等部から大学までの一貫教育をしている学校。原則として全寮制。それは初等部についてもそう。所在地は東京湾の新興埋め立て地にある双葉区、そこのほぼ全域が双葉学園のキャンパスとなっておる。私学という扱いだが実質的には半国立と言っても良いな――」
「師範――」桜子は肺から息を絞り出すような声で聞いた。「もしかして――」
「そうだ」尚正は顔色一つ変えずに小さく頷いた。「わしはお前にこの学校に入学して欲しいと思っている。これは入学案内用のパンフレットだが、入学願書の方もすぐに用意出来る」
 井高と松尾は完全に視線をあらぬ方向にそらしている。幸広はわけがわからないという顔、聡実は横から覗き込んで興味深そうにパンフレットをめくったりしていた。
「今から受験ですか? 無理です」桜子は言った。
「受験の必要はないぞ。手続きさえ済ませば、即入学が許可される事になっている」
「こんな学校わたし知りません」
「行けば知る事になるだろう。論より証拠という奴だな」
「わたし、もう東筑摩の制服買ったんですけど」
「うむ。それは残念だな。それにかかった費用はこちらで負担出来ると思う」
「友達も同じ高校に行くんです――」
「それは寂しかろう。わしも桜子の顔が見られなくなるのはさびしいと思っとるよ」尚正の声にまた幸広がピクリと反応した。
「一生懸命勉強したんです。合格する為に――」
「知っておる。その努力はどこに行っても無駄になるまい。お前には才能もあるが、まず努力家だ。それはわしもよく知っているし、得難い資質と言える」
「あたしこんな学校行きません。大体知りません」
「お前はこの学校に行くだろうし、そしてそこで知る事になるよ」
「行きませんよ!」
「いや、行く。絶対にな。お前は必ずそうする」
 尚正は当たり前の事だと言わんばかりに断言した。
 桜子はまたキレた。立ち上がって叫ぶ。
「師範っ!」
 その声に飛び上がったのは、幸広と松尾だった。井高は居心地悪そうに座り直しながら、ポケットからハンカチを取り出し額の汗をぬぐった。聡実は桜子が放り出したパンフレットを拾い上げた。
「なんだ、桜子」尚正の返事にまた幸広がピクリと肩を揺らした。
 娘を尚正に呼び捨てにされるのがとても気になるらしい。信じる信じないでは警察を信じるが、愛しているかどうかでは間違いなく娘を愛している、というか溺愛しているのが幸広だった。それはそれこそ桜子が聡実のお腹にいる頃から。
「わたしの人生はわたしの人生ですっ! わたしがどうしたいか決めます。師範を尊敬は――、してるけど、わたしはこんな学校なんかには絶対行きませんっ!」
 尚正は黙って聞いていた。そして、茶封筒の奥に手を突っ込むと、数枚の写真を取り出した。
 様子をちらちら見ていた井高が尚正のその行動に慌てた。
「剣崎さん、それはまだ――」
「ごまかしてもしょうがなかろう。どうせすぐにわかる」
「ですが――」井高はなおも渋った。
「この子は大丈夫だ」尚正は動じず、井高を制した。「ここはわしにまかせてくれ」
「どうなっても知りませんよ――」尚正がガンとして動かないのを見て、井高は渋々引き下がった。
「桜子、これを見てみろ」尚正は激高したまま立っている桜子の前にその写真を突き出す。また幸広の肩がピクリと動く。が、前よりも落ち着いた様子だった。尚正と桜子の様子を興味深そうに見ている。
「今度は――、一体――、これは?」
「何に見える?」
「これって、CG、ですか?」
「違うな。何に見える?」
「映画か何かの一シーンとか」
「違う」
「――」桜子は黙って、改めて写真を見直した。写真は白黒。
 そこに写っていたのは、壊れた車の窓にボンネットに上体を突っ伏している人。血を流しているようで、黒々とした液体が周囲に飛び散っている。そして、その近くに立っている警察官の姿。どこかの事故現場のようだ。撮影したのは夜のようで場所は判然としない。
 ただ、大きさがおかしかった。こんな大きさの人間はいないはず。車や隣に立っている警察官と見比べるとどうみても三メートルはある。いや、もうちょっと大きいかも知れない。
「ヘンです」桜子の口から出たのはまずはそれだった。
「そうだな。わしもそう思う」
 今まで動かなかった幸広が身を乗り出して、桜子の手から写真を抜き取る。井高が何か言いたげに身を乗り出したが、軽く首を振って座り直した。
「映画か何かですか」写真をまじまじと見た幸広は桜子と同じ質問をした。
「違う。そういう生き物というか、わかりやすくいえば『鬼』だな、これは」尚正はこともなげに言った。
「鬼――」幸広はつぶやいた。
「他にも色々いるらしいがな。とりあえずはこういうのがいるのだ」
「でも、師範――」桜子が口を挟む。「わたしと何の関係があるのかわかりません」
「それについてはわたしが」井高が口を挟む。「よろしいですね?」尚正は頷いた。
「竹上市ででもですね。この鬼――、のようなものは既に現れていて被害が出ております。詳細は言えませんが、無視する事は出来ないくらいの事件もそれに伴う被害も出てしまっている」
「はあ――」幸広がよくわからないという表情のまま頷く。聡実は幸広の肩口から写真を覗き込み、あらやだ、とか言っていた。
「そしてこの鬼、便宜上鬼と呼ばせていただきますが、このようなものが現れる時、ある種のパターンというものがありまして――」井高は言い辛そうに口ごもった。「それはまあ――、その、特殊な資質をもっている人間がですね、まれにいるのですが、そういう人がいる場合、その周辺に現れる確率が高くなるという調査結果が出ているのです。それも倍とか、三倍とかではなく、もうちょっと高い確率で――」
「それが――、わたし?」桜子はつぶやいた。
「そうだ」尚正が短く肯定した。
「あんまり面白くない冗談ですね、剣崎さん。荒唐無稽だ」幸広が苦笑しながら言った。
「いや、冗談ではないですよ、諸葉さん。問い合わせをしていただければわかりますが」と、松尾。「ただ、自治体の方ではこの件での問い合わせは現在は受け付けておりませんので、総務省の方に問い合わせをしていただく事になりますが。諸葉さんの手続きやサポートについてはわたしと井高さんがやる事になっておりますけどね」
「総務省?」幸広が惚けた顔になった。
「ええ、こちらが番号です。内線番号も書いてあります」と松尾が小さな紙片を取り出して、幸広に渡した。「お疑いになるのももっともだと思われますので、番号はご自分で確認為された方が良いでしょう。必要ならば専用のメールアドレスもお教えしますが」
 幸広は紙片をひったくるようにして受け取ると、物も言わずに応接間を出て行った。足音からすると夫婦の寝室へ入っていったようだ。
「あなた――?」
「パパ――?」
 数分もしない内に寝室から、呻き声のような声が聞こえてきた。続いてなにやら怒鳴っている声がした。そして幸広が戻ってきた。
 顔が真っ赤になっている。幸広は激怒していた。
「こんなバカな話があるか!」幸広が怒鳴った。「陰謀だ! 全部何かタチの悪い陰謀だろう! いきなりやってきて長々と居座ったあげく、ウチの娘がバケモノだか鬼だかなんだか知らないが、そんなものを呼ぶとか呼ばないとか。どうせホームページとかも書き換えてあるんだろう? あんた達はみんなあたまがおかしい! 冗談にしても気分が悪い! とにかく帰ってくれ!」
「あなた――」聡実が立ち上がって怒鳴る幸広の服の袖を引っ張る。「ご近所に聞こえるから――」
 幸広はハッと口をつぐんだが、今度は憎々しげに尚正を見下ろして、やや声を潜めて言った。
「せっかく信用してあんたに娘を預けていたのに。まさかこんな事を言い出すと思わなかった。全部最初からあんたの差し金じゃないのか? 大体、前の道場にいた時に、いきなり自分の所で面倒を見たいと言いだしたのもあんたなんだしな」
 それは言い過ぎだ。と、桜子は思った。剣崎道場に行った事自体は後悔はしていない。師範の弁護の為に口を挟む気持ちにもなれなかったが。
「この子には天稟というものがあった。だからそうしたいと言ったまで」幸広の荒々しい態度や言葉もまるで無いかのように、尚正は平然と言い返した。怒ってもいなければ、怯んでもいなかった。
「そんなわけのわからない事を言ってごまかそうとして――」幸広は言いつのる。
「なるほど、確かに。ごまかしと受け取られるのも言われてみればもっとも。ならば、どのような才がこの子にあったか、それを今ここで見てもらうのもよかろうと思う」
 尚正はそういうとスッと立ち上がった。幸広は怯んで、ちょっと身を引いた。
「見てもらう、ってどうやって――」
「どちらにしても、わしがどんな風にこの子を鍛えたか、実は今日ご両親に知って貰おうとは思っていた。だから準備はしてある。車から取ってこよう」
「取ってくるって何を――」幸広はしどろもどろになった。話がどこに流れるのか想像もつかない。
「何、すぐ済む――、鍵を」尚正は松尾から車のキーを受け取ると出て行った。

 尚正が持ち込んできたのは、ずっしりと重い、既に水につけてすぐに使える用になっている太い巻き藁と、紫の刀袋に包まれた日本刀だった。
「庭を借りる」と言って尚正は諸葉家の小さな庭に出た。釣られるように外に出た他の面々が見守る中、庭の片隅で小さな台の上に巻き藁を立て始める。
 桜子はすっかり暗くなった周囲の景色を見回した。特にこれと言って音はしないが、近所の人たちが何事かと思っているのはなんとだくだがわかる。なんでわたしがこんな目に、と思わずにはいられない。
 巻き藁を立ててしまうと、尚正は少し歩き回り、薄暗い足下を調べた。ひっかかるような石でもあったのか、かがみ込んで幾つか拾い上げて、近くにある植木鉢の影に置いた。
「少し狭いし、あまり足下も良くないが、まあこのくらいならば大丈夫であろうよ。桜子――」
「なんですか、師範」
「据え物斬りだ。抜き打ち、左右袈裟、最後に水平斬りでやってみよ」
「ここでですか?」桜子は驚いた。「でも、だって――、これ真剣じゃないんですか?」
「そうだが」
「でも、だって、真剣って事になると――」銃刀法違反ではないか。
「大丈夫だ。ここには警察の方もおられる。いいですな、井高さん」
「ええ、まあ、わたしも見ていると言う事で特別に許可しますよ」井高はあっさり応じた。
「親御さんの前だ。しっかりやれ」
 しっかりやれ、と言われても、桜子は言い返したい気持ちにもなったが、そこはおさえた。
 確かに両親にちゃんと練習の成果を見せた事はなかった。ここで見せておきたいという気持ちもちょっとだけならある。中学の剣道部の試合では団体戦では、桜子自身は勝ったが他の選手が負け越した為に勝ち上がる事が出来なかった。個人戦では二年生の時も三年生の最後の大会も、試合中に竹刀が破損してしまい、ベスト4以上の結果は残せなかった。
 勝てない訳ではない、と決勝戦の試合を見ていても思ったが、負けは負けである。準備やうんも含めての勝敗だというのは桜子もよく承知している。それでも二度続けて同じようなトラブルで敗退したというのは悔しかった。
 やってみようか――。桜子は腹を決めた。近所の手前少し恥ずかしいが、もうしょうがない。ここで断ってもこの師範は決して引いてくれないのは経験上わかってもいた。
「服装はこのままで良いのですか?」
「かまわん。靴もスニーカーでよい。」
 そういうと尚正は刀袋から鞘に入ったままの日本刀を取り出して、桜子の方に無造作につきだした。
「暗いからよく足場を確かめておけ。わしも確認したが、自分でもよく見てみろ」
「わかりました」
 慎重に足場を確かめる。刀を振り回した時に引っ掛かりそうなものはないか、万一手元が狂ってすっぽ抜けた時にも危なくはないか。大丈夫だった。特に何も問題がない。このおかしなシチュエーション以外は。
 さっきまで大声を上げて怒っていた幸広も、オロオロしていた聡実も、松尾や井高と並んで興味深そうに見ている。
 尚正が彼らに手招きをして、桜子の後ろにみんなを立たせた。ここならば万一の事故もない。
 桜子は巻き藁の前に立ち、自然体をとった。冷たい空気が気を引き締めるのに助けとなる。
 目を閉じて、一つ大きく深呼吸をしてから、息を整え、それが定まった所で、左刀に持った刀に右手をそえて鯉口をきる。
 僅かの間が空いた。そして――、
「イヤァァァッ! ――ハッ! ――ハァァァッ!!」
 静かな夜の静寂に桜子の掛け声が響き渡り、鋭い剣風が三つが殆ど重なるようにして唸った。
 そして、切り落とされた巻き藁が下に落ちる。
 軽く刀を振ってから、息を整え、そして刀を鞘に戻す。
 カチンと音が鳴って、刃が完全に鞘に収まると、桜子はいきなり恥ずかしくなった。
 やはりというべきか、近所のどこかの家でガラッと窓が開けられた音が聞こえる。しかも、複数。
「見事だな」みんなと一緒に桜子の後ろで見守っていた尚正が短く褒めた。
「はい――」さっさと家に入りたい――。桜子は小さな声で応じた。
「確かにこれは見事な物ですね。中学生で、女の子で、片手での水平斬りとは見事」井高も言った。警察官だけに、武道はやっているのでわかるのだろう。
 両親はというとあっけにとられていた。
「天稟はあるでしょう?」尚正が言うと井高は頷いた。「確かに。普通じゃありませんな」
「さて、中に戻りましょう」尚正はそういうと、見事にバラバラになった巻き藁に近づくと、そのうちの一つ、最後に水平に斬り落とされた固まりを手に取って拾い上げた。「後の片付けはお願い出来ますかな、奥さん」
「え? あ、はい」聡実は頷いた。

 全員が応接間に戻って来た中で、桜子はすっかり自己嫌悪の中にいた。
 静かな住宅街に響き渡った自分の奇声を思うと身悶えしたいほど恥ずかしい。道場の中では気がつかなかったが、驚くほど響くものだったのが改めてわかった。
 師範の独特のペースにみんな巻き込まれすぎだ。自分も含めて。誰も彼も、特に親たちが。
 庭から戻ってきてからの両親はというと、父の幸広は何か黙って考え込んでいるし、母の聡実は井高にあれこれと質問している。「へぇー、そんなに」とか「そういうことなんですかー」とか、脳天気な母親の声が聞こえてきて神経に障る。夜の静寂に近所中に娘の奇声が響き渡ったというのに、あまり気にしてないらしい。
 気がつくとまだ日本刀を手に持っている事に気がついた。返さなければ、こんな物騒な物。
「師範――、これ」ずっしりと重い、日本刀を尚正に差し出す。
 尚正は切り落とされた巻き藁の断面をじっと見ていて動かなかったが、桜子の声に顔を上げた。
「おお、そうだな。だが、わしに返す前に、その刀をよく調べてみよ」
「あ、はい」
 桜子は慌てて確認した。確かにそれも本当ならやっておかなければいけない事の一つ。
 柄にも鍔にも鞘にも異常なし。そして、刀身を――、
「え?」
 鞘から半ば抜かれた鋼鉄の刀身は光の下で冷たい光を反射している。しかし、そこには、
「師範、これ――、刃がついてない!」
 全部引き抜いてみた。しかし、この刀のどこにも刃はつけられてない。これでは斬れないはずだ、普通なら。
 両親も井高も松尾も、桜子の周囲に集まってきた。
「はあ、これじゃあ登録証はいりませんなぁ」と、覗き込んだ井高。まるで驚いていない。
 一方で松尾や両親は驚いて声もないようだ。
「ペーパーナイフよりも、切れ味は悪いでしょうねぇ、はは」と、井高。わざとらしく本来なら刃のついている部分を指の腹で撫でる。
「わしはさっきお前に嘘をついた。そこは謝る。確かにそれには刃付けはされとらん。当たり前だ。それは練習用の模造刀だからな」と、尚正が静かに言った。「だが、お前が斬った切り口はこうだ。自分でいく見てみるがいい」と、桜子に巻き藁の断片をわたした。
 桜子は部屋の照明の真下に行ってじっくりと見てみた。我ながら見事な切り口と思う。師範が試技で披露して斬って見せてくれたものと比べても、桜子の目ではどのくらい違うのかはわからない。
 これだけ見れば自慢していいくらいだろうが、桜子にとっては悪夢そのものだった。正確には、この一連の悪夢の証明書というべきか。
「これがさっき話していたお前の資質だ、桜子」尚正は宣告した。
「なんで?」桜子はその場にへたり込んでしまった。
「そんな事わしが知る訳無かろう。わしがわかっていたと言えるのは、お前に剣の天稟があり、どうやらこういう、なんというかな――? 変わった資質というか、能力があるのではないか、ということだけだ」
「いつからですか?」
「剣の天稟については、最初にお前を見掛けてから。こっちの資質については覚えとらんよ。わしもまさかと思っていた。最近までは。前の大会で負けた試合で竹刀を壊したろう? あれで、おや、と思った」
 桜子は思い出した。確かに試合で壊した竹刀を道場に持ってきていた。竹刀の先端が相手選手共々ぐだぐだに裂けて、使用不能になったのである。その試合は勝てたが、次の試合で桜子は負けた。
「あんな壊れ方は普通せんよ。竹刀の中に爆竹でも仕掛けたような壊れ方だからな。そりゃ気になって調べもする。ただ、本当の意味でどういうものかわかったのは今だ。一応予想は立てていたが、実際におまえがやらかした時は正直わしも驚いた」
 苦笑しながら平静に話し続ける尚正の言葉に幸広も聡実も今は静かに聞いていた。井高も松尾も口を挟まない。ただ、この二人は明らかにほっとした様子になっている。
「そこで最初の話に戻るが――、桜子よ、お前は双葉学園へ行け。今のままのお前では、高校生活の三年間の内に、多分最低でも一回、運が悪ければもっと多く、あの鬼のようなものがお前の近くに現れるだろう。そういう統計結果も確か出ていたと思う。そうでしたな、井高さん?」
「そうです、そうです。わたしが読んだ資料でも大体そんな感じだったと思います。まあ、さっきは驚いたが。なんせ正直な所、半信半疑でしたからねぇ」
「あの――、すいません」聡実がおずおずと口を挟んだ。「そこに行くと桜子はどうなるんでしょう?」
「とりあえずは安全が保証出来る、という事ですかな」尚正は言った。「それは桜子にとっても、あなた方にとっても、ですぞ。双葉学園内にはあれらは現れない。そういう風になっておるのです。日本中どこにいてもあのようなものが絶対に現れないという保証はないが、少なくともこの子がここにいるよりは、どちらにとっても確率としてはぐっと少なくなるはず」
「それなら――」今度は幸広が口を開く。「それなら、一家全員でその双葉区に引っ越しを――」
「それは無理です」松尾が言った。「あそこは特殊な地域です。関係者以外は立ち入りは出来ても居住は出来ないでしょうね」
「関係者以外って」幸広は絶句した。「自分の娘なのに――」ぐったりとした様子でソファの上に腰を下ろして頭を抱える。
「非常に残念ですが、諸処の理由によってこう決められたということです。心中お察ししますが」お役人らしい几帳面さで松尾が丁寧に、しかし、断ち切るように断言した。
「師範――」うつむいたままの桜子がぽつりと口を開いた。「師範はわたしが行った方がいいと思いますか?」
「うむ。色々な意味でそう思う。どちらにしても一度でもお前の周囲にあのようなものが現れたら、その時点でお前は強制的に送り込まれる事になってしまう。望んでいく形ならばともかく、無理矢理放り込まれるのはお前にとっても侵害だろうし。それにお前がここにいるのはお前自身よりも、他の人間にとって危険だ。今はな」
「今は?」桜子は顔を上げた。
「双葉学園では普通の学校とは違う事も色々と教える。その中の一つがお前の持っているような資質を鍛えたり、とぎすます事でコントロールする術《すべ》だ。基本的な事だが、習得は難しい。ヨガや禅に近いというか、訓練の中にはそのようなものもあるだろう。だが、習得する事で、あのようなものたちを寄せ付けない、近くに寄せない、そういう事も出来るようになる。後でネットででも調べればよいと思うが、双葉学園を卒業して、普通の大学へ行ったり、就職していたりするものも少なからずいる。だから、それが出来るようになれば、またここで生活も出来る」
「じゃあ、この近くにもいるというかいたんですか? あたしみたいな事になった人が」
「それは言えん。言っちゃならん事になっておる。ただそういう事例が今までにあったか無かったかについては、あったと断言しても良い。それに訓練がつつがなく済んで、コントロールする術が身につけば、また普通の生活も出来る様になる。そこはわしが保証する」
「わかりました――」桜子の返事に、惚けた様子でソファに寄りかかっていた幸広が呻き声を上げた。
「行ってくれるか、桜子」
「あの――、返事は今じゃないと駄目ですか?」
「早い方がいいと思う。お前の方の準備も、あちら側の準備もあるだろうから。しかし、一週間ほどなら構わんよ。むしろ、今日から二日、もしかしたら三日はわしも忙しくなるから、返事は四日後くらいでよいだろう。どちらにしても行く事になるだろうが、自分で決めるというのが大事な事だ」
「はい」
「さて、それではお暇しますか、井高さん、松尾さん。すっかり遅くなってしまった。諸葉さん、それに奥さん、長々と失礼した」尚正は立ち上がると、幸広と聡実の方に深々とお辞儀をした。少し遅れて井高と松尾も立ち上がってお辞儀をする。
 帰ろうとする三人の後を、桜子は慌てて追いかけた。聡実も後に続く。しかし、幸広はうつむいたままソファに座っていた。
 家から出た三人はほぼ無言で黒いセダンに乗り込んだ。運転手は松尾である。桜子も聡実も見送りに出たが、何を言っていいかわからず、黙っていた。
「それでは奥さん、わたしらはこれで――」松尾が車を出そうとする。
「師範」桜子が声をかけた。松尾の動きも止まる。
「なんだ、桜子」
「最後に一つだけ質問いいですか?」
「構わんよ。なんだ?」
「双葉学園って言ってましたけど」
「うん?」
「どうしてそんなに詳しいんですか?」
「それか」尚正は薄く笑った。「あそこにはわしの知り合いがいる。では、行っていいか?」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
 松尾は車を発進させた。ガソリン車を模した警告音を立てながらも、電気自動車らしく滑るように車は加速して暗い町の中に消え去っていった。
 車の赤いバックライトが見えなくなってから、桜子と聡実は家の中に戻った。桜子はぐったり疲れていた。多分、それは聡実も幸広も同じだろう。
 応接間に戻ると幸広が今はもう顔を上げて、しかし疲労の色を顔に浮かべて座っていた。
「行ったか?」
「ええ、お夕飯にしましょうか。なんだかお腹空いちゃったし」
 遅い夕食は静かなものになった。おかずはシチューに豚と大根の煮物。それにポテトサラダ。そしてスーパーで買ってきた焼き鳥。これは幸広の酒の肴である。
 いつもなら夕食の時はつけておく食卓の脇にあるテレビも電源をオフにしたままになっている。
 桜子はお腹こそ空いていたが、食卓に座る前までは、とても夕食を食べる気にはなれなかった。しかし、実際に食べ始めると、やはり身体は正直なもので、口にするほどに食欲がわいてくる感じになる。
 二度目のご飯のおかわりに立ち上がった時、それまでずっと黙りこくったまま、ぼーっとした様子で日本酒を飲んでいた幸広が口を開いた。
「なあ、桜子」
「なに、パパ」桜子は自分のお椀にご飯を盛りながら返事をした。
「お前、その、なんだ、あの、双葉学園とかいうヘンな学校へ行くのか?」微妙に呂律が回らない。
「ん――」桜子の手が一瞬止まった。「多分、そうなると思う。まだよくわからないけど」
「そうか」幸広は手酌で杯に酒をつぐとグイと一気に煽った。「なんでこんな事になったんだろうな」
「そんなのわかるわけないでしょ」
「だなぁ」幸広はまた杯に酒をついだ。いつもならペースがあまり早いと制止する聡実も今日は何も言わなかった。その代わりに、
「ご飯が終わったら今日は早くお風呂に入って寝なさいよ、桜子」と聡実。
「そうする」

 風呂から上がった後、桜子は自分の部屋でドライヤーで濡れた髪を乾かしながら、尚正達が置いていったパンフレットをめくっていた。桜子の髪は長いので時間がかかるのである。
 教育理念、教育環境、周辺環境、沿革――、どれも別に特におかしな事は書いてない。パッと見には。
 だが、初等部から大学までの一貫教育だとか、クラブ活動の異常な多さだとか、卒業生の進路の雑多さなど、細かく見ていると明らかに異常な所があった。高等部だけとっても、進学校であり、商業高校であり、工業高校でもある。農業高校でもあるようだ。そして交通アクセスを見ると文字通り他の地域からは遮断されている。そして無闇にキャンパスが広い。
 体のいい隔離施設じゃないの、と桜子は思ったが、社会に出ている先輩なども一応いるらしい。
「先輩からのメッセージ」などもちゃんと掲載されている。
 しかし、それもよくよく読むとどこかヘンな事がある事に桜子は気がついた。
 曰く、「双葉学園で自分の新しい可能性に気がつきました」
 曰く、「双葉学園で学ぶ事で自分が何をするべきかわかった気がします」
 曰く、「双葉学園で学んだ事が確実に社会の安定に繋がっている事を日々実感しています」
「おかしいよ、ここ――」
 しかし、そうつぶやきながらも桜子にはわかっていた。
 自分もそのおかしな一員になるのだろう、と。

 次の日、幸広と聡実が娘の手作りのチーズケーキを口にする事はなかった。



第二章につづく

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かなりな部分が前にアップされたものと違っています。
多くは地味な変更点なので、殆ど気にしなくてもいいくらいですが。
長い話の序章という位置づけだったのですが、思っていたよりも長くなりました。
楽しんでいただければ幸いです。
まだあまり面白いシーンになってない気もするが。

PN:REDFOX777a
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