【ある怠惰な教師の花天月地】


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   ある怠惰な教師の花天月地
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 四月といえば花見。花見といえば桜。
 日本人が共有するそんな観念がもたらす需要に従い、東京都双葉区、この学園学園島にも幾つかの桜の群生地が造られている。
 学園都市島の要たる双葉学園、その中にもその一つがあるのだが、これが思ったより人気が無い。
 教師や風紀委員の目が近すぎるため祭りにかこつけて羽目を外したい生徒が寄り付き難い、ただそれだけの理由だ。
 他の群生地と比べるとやや規模は小さいが、かといって景観が明確に見劣りするというわけでもない。そんなわけで風景を静かに楽しみたい人間にとってはここは意外な穴場であった。
 さて、始業式を皮切りとした年度初めの喧騒が一段落ついて間もないある日、その穴場たる桜並木の只中。人の気持ちを心地よく弛緩させる春めいた陽気、それにまるで似つかわしくない強張った面持ちでしゃがみこんでいる一人の少女がいた。
 少女が手をかけ必死に身体を揺すっているのは地面に横たわる中年男、ややだらしないという評価を受けるであろう着崩したスーツが何より目に付く男である。
 倒れた男を少女が介抱している…のではない。その証左とばかりに、
「う、う~ん…」
 男の体がもぞもぞと揺れ、手足がぴんとのばされる。要するに男は単に昼寝をしていたのだ。
 度重なる振動により形を成した意識が下した半ば反射的な命令に従い、男の瞼が開かれる。まず認識したのは競い合うように咲き乱れる薄紅色の花。そしてほっとした顔でこちらを見下ろす少女。
(…誰だっけ?)
 記憶には無い。更なる情報を求めて少女の全身を見回す。
(うちの生徒、かぁ…)
 少女の纏う制服から得られた事実に心中溜息をつく男。只の少女だったなら無視して昼寝の続きと決め込むつもりだったのだが、彼女が双葉学園の生徒となるとそうはいかない。
「あの…ひょっとしてここの先生ですか?」
「そうだよ~。入学したてで道にでも迷ったのかい?」
 そう、生徒に声をかけられたとなると彼としては――教師である身としては無視するわけにはいかないのだ。
(まったく、今日の仕事はもう終わりと思ったんだけどねぇ)
「そんなことありません!というかそれどころじゃないですよ先生」
「ん?どういうことなのかな」
 制服を見るに所属は中等部。太ってるというわけではないが頬を膨らませる様も相まって何となく丸っこいという印象を感じる。足の筋肉の付きぐあいから見るに運動部に入ってるというほどでもないけど運動は好きっぽい。
 面倒くさいと思ってるくせに話をしながらこうやって観察してしまうあたり職業病だねぇ、顔には浮かべぬままそう自嘲する教師。そんな彼の内心に気付く由もなく、少女はあたふたと手を小刻みに動かしながら話を続けた。
「なんでかわかんないけどここから出れなくなってるんです。先生、何とかしてください!」
「う~む、なるほどねぇ。…まずはちょっと試してみようか」
「ひょっとしてあたしのこと疑ってるんですか…?」
「ごめんごめん、そういうつもりじゃないんだよ」
 この桜並木は基本的に一本道で、片方が高等部の教室があるエリアに、反対側に行くと運動部の部室棟が集まるエリアに繋がっている。
(もしも出ることができたらどっちも人が多いから余計な用を抱え込まされそうで嫌だ~…なんて口にはできないよねぇ)
 少女の言葉にあまり疑いは感じなかった。本来なら迷いようが無い一本道であり、少女の口調にも嘘は感じとれない。
 それに、かすかにだがこの場自体からも違和感のようなものを感じる。
 やれやれとぼやきつつ教師はようやく重い腰を上げ、大きく一つ伸びをして歩き出した。


 低い枝に結びつけたハンカチをほどき、教師は肩をすくめてそれをポケットに突っ込む。目印として設置したものだったが、道なりに、また道を外れて何度も脱出を試み、全て同じこの場所に戻ってくるという結果が出たことでその役目は終わったのだ。
 そんな彼の様を少女はそれ見たことかという表情で軽く睨んでいた。
 この異常事態にまるで緊張が見られない姿を見て自分の話を本気で聞いていないんじゃないかと憤慨しているのだということは教師にも如実に分かったのだが、
(そういうつもりは無いんだけどねぇ)
 実に割に合わないとまた心中でぼやき、教師は少女に向き直った。
「大体事情は把握したよ。推測だけど先生たちはこの桜並木のほぼ半分ほどの大きさの空間に閉じ込められていて外への脱出ができなくなっている。しかも電波も同じみたいだ」
 念のために再び教師用の携帯端末を取り出し電話をかけてみるが結果は同じく「電波の届かない場所~」。それを見届け、教師は話を続ける。
「ラルヴァの能力による現象で似たようなものがあるって話は幾つか聞いたことがあるけど、多分違うんじゃないかな~」
「何でそう思うんですか?」
「もしこれがラルヴァの仕業なら、今の今まで何もしてこないってのはちょっと暢気すぎるんだよねぇ。なにしろここは異能者だらけで、しかも並のラルヴァなんか片手で捻り潰せそうなのが山ほどいるんだからさ」
「は、はあ…」
 物騒な言葉に引き気味なのか腰が引けている少女がおずおずと口を開く。
「じゃ、じゃあ、異能者がこんなことしたんですか…?」
「ラルヴァの場合と一緒だね。先生たちを閉じ込めるだけで何もしてこないってもはやっぱりおかしい。でもまあ、こっちには理解できない理由で異能を使う人もいるから可能性が無いわけじゃないんだけどね~」
「そ、そうですか…だったらなんであたしたちはここから出れないんですか?」
「まあ概ね見当はついたよ。結論から言えば別に心配する必要もない。安心していいよ~」
「安心していいよ~なんて言われても…」
 困り顔で言外に説明を求める少女。教師はぽりぽりとこめかみを掻いてぽつりと、
「説明がちょっと面倒だから省略ってことで…」
「駄目ですよ!」
「だよねぇ…」
 こういう時に結城君がいてくれたら文句を言いつつも説明を代わってくれるんだけどねぇ。教師は大きく一つ溜息をつく。
「桜ってのは、綺麗なものだよねぇ」
 桜の木を指差して――もっとも、四方どこを指差しても桜なのだが――言う教師。少女も促されるままに視線を動かす。
「そうですよね…」
 そよ風に細枝がなびき、淡い色の桜花がさわさわと揺れる。少しの間黙って桜に見入っていた二人だったが、やがて教師が沈黙を破った。
「日本人は桜が大好き。さて、何でだと思う?」
「え、え、えーと…うーん…」
 突然の質問に目を丸くした少女は口をへの字に曲げて考え込み、
「桜の花ってすぐにぱっと散っちゃうじゃないですか。それに他の花と違ってぼんやりとした薄い色だし。なんか儚いって感じがするんですよね。少なくともあたしはそこが好きです」
「うん、百点満点だよ~」
 少女の答えに我が意を得たりと頷く教師。
「そう。儚さ。日本人は儚いものが大好きで、だから桜も大好き。和歌なんかでも儚く散るってことで死の象徴として描かれることも多いし、そういえば桜の木の下には死体が埋まってるって小説もあったよねぇ」
「はあ」
 この話がどうつながっていくのか読めず曖昧に返すしかない少女。
「死の世界って言ってしまうと怖いイメージだけど、桜にはこの世の外の世界、ここではない世界を思い起こさせる、そんなイメージもあるんだよ。先生的にはこの世のものとは思えないくらい綺麗だから、って言う方がすきなんだけどね~」
「あ、あたしもそれなら分かります」
 この小さな閉鎖世界には少女と教師と、後は一面の桜だけ。外の喧騒から一切隔離された静謐の中の桜からは、確かにこの世のものならざるものが宿っているかのような神秘的な雰囲気が立ち上っていた。
「そしてね、魂源力(アツィルト)ってのは人の意思を具象化する力なんだ。…まあ物凄くばっさりとした言い方だけどねぇ」
「?」
 少女は突然の話題変換に首をひねる。
「そして、意思とは何も明確な意思だけじゃない。無意識の想いに反応しても不思議じゃないんだよ………ああ、もう疲れた。結論だけ言うよ」
「ええっ!?」
 驚く少女をよそに教師は淡々と話を続けた。
「この閉鎖空間は桜に異界のイメージを投影する人間の無意識が、多数の異能者が集まるという条件によって島中に満ちた魂源力に反応して――まあ幾つかの偶然も加味されてのことだけど――偶発的に発生した、感覚に干渉する一種の空間結界だね。正に桜の花のように儚いものだから長くても半日もすれば消えてなくなる、だからのんびり待ってりゃいいよ~」
 はいこれで解決、と宣言する教師。少女は慌てて教師に詰め寄り再び身体を揺さぶる。
「そんなの困りますよ!」
「人生は結構長いもんだよ、半日くらいの寄り道くらいどうってことないさ~。それとも何かどうしても急がなきゃいけない用事でもあるのかい?」
「え、あー、まあ…はい」
「ふーむ、ちょっと脅かしすぎたかなぁ。ここにはいい意味でお節介な人が多いからねぇ、きっとそんな誰かが動いてくれるさ。半日待たなくても警察の人が迎えに来てくれるよ」
「でも……おかあさんが…心配…するから……」
 少女の勢いに押され宥めに入る教師だったが、勢いこそ削がれたものの少女の意思は変わる様子はない。少女の強い視線を受け流そうとするかのように視線をあちらこちらにそらす教師だったが、ついに諦めたように肩を落とし再び少女に向き合った。
「先生、この結界っての、どうにかできないんですか?」
「魂源力の流れに干渉できるほどの強力な異能者ならどうとでもできると思うけどね、今の先生の力じゃどうにもならないね。君は…異能者じゃないよね、先生の授業には来てない筈だし」
「はい、あたしは異能者なんかじゃないです」
 教師が主に担当している授業、『異能習熟基礎』はごく僅かな例外を除いて、異能者として学園にやってきた、又は学園内で異能に覚醒した生徒にとっては必修の授業だ。やる気が無いように見える、というかぶっちゃけ有るか無いかで言えば無い方な教師であったが、それでも自分が受け持った生徒は(流石に全員と自信を持って言い切れるわけではないにしろ)ああこんな生徒が居たな、程度には最低でも記憶してはいる。もしもそれを彼に問い質したと仮定すれば、「教師というのはそういうもんですよ」とどこか諦観と達観が入り混じったような口調でそう答えるであろう。
 ともあれ、目の前の少女は異能者ではなく、従って結界を解除する手段は取ることができない。少女はただ唇を噛みしめ俯いた。
「でも、ま、一つだけ手はないことはないんだけどね」
「!本当ですか!」
 少女が勢い良く顔を上げて教師に迫る。教師は小さく頷き返し、再びポケットから教師用の携帯端末を取り出した。
「その前に確認しておかないとねぇ」
 何度か通話を試みてみるがやはりどこにも繋がらない。
「一応君のほうからも試してもらえないかな?」
「あ、は、はい」
 教師の言葉に一拍遅れて反応した少女は、しまった場所を忘れてしまったのか手をあちこちに入れて探し回った後、ようやく同じ形の携帯端末を取り出すと何度か電話をかけてみた。
「こっちもつながらないです…。それじゃ教えてもらえませんか?」
「いや、まだ確認は終わってないよ」
「え?」
 よく分からないという顔をする少女。そんな彼女を眺め「厄介ごとにはあまり関わりたくはないんだけどねぇ」と口内で愚痴り、教師は決定的な言葉を口にする。
「なんとなくね、見当はついてるんだよ。でもねぇ、やっぱり事が事だけにしっかり確認はしておかないと僕の責任問題になりかねないからね。だからはっきりさせておこう」
 教師のどこか眠たそうな瞳。それが、そのイメージは変わらぬまま重圧を纏ったものへとすりかわる。少女の脳裏に反射的にそんな感じの言葉にならない思考が湧きあがった。
「君が、何のためにここに来たラルヴァなのかを、ね」


「な、何言ってるんですか先生」
 宙に浮かぶ言葉を吹き払ってしまおうとするかのように手を振り回しながら否定する少女。
「まずね、最初からどこかおかしいとは思ってたんだ。こんな状況なら見たこともない、こっちがそう言ってるだけで教師かどうかも分からない僕なんかより友達やクラスメートを頼ろうとするのが普通。それなのにさっき僕が促すまで電話しようとする素振りもなかったよね」
「ごめんなさい、あたし、実は転校したばっかりで友達いなくて…」
 そう弁解をしようとする少女の言葉を断ち切り、教師は更に追求を続ける。
「他にも怪しいところもあるしちょっと鎌もかけてみたりしたんだけど、言い訳を一つ一つ聞いてくのも大変なんでさっさと決定的な証拠を言うよ」
「ええっ?」
「生徒に配られる携帯端末はご存知通話機能と生徒手帳の機能、更にその他諸々の機能を詰め込んだ便利なアイテムなんだ。こんなアイテムを教師が使っちゃいけない法もないから僕らもこれを使わせてもらってる。でもね、例えば生徒手帳の機能なんて教師にはいらないから、当然機能は生徒用のものとは若干違う。そして…機能も違うならやっぱり外見も違ってくる」
「……あ!!」
 瞬く間に顔面蒼白になった少女の手から携帯端末が――教師のそれと寸分違わず同じ外見の携帯端末がこぼれ落ち、ぽん、と軽い音と共に煙に包まれて消える。
「ま、大方春の陽気に誘われた化け狸か化け狐の子供がうちの学園の連中を化かしたら友達に自慢できるってのではるばるやってきた。…そんなとこじゃないかなって思うんだけどねぇ」
「あ、あたし…お鍋にされて食べられちゃうんですか……?」
「…は?」
 人の姿をし、人の言葉を解する存在を殺すならまだしも食べるという考えは教師には微塵も無かった。だが、どうやらビーストタイプらしいラルヴァの少女にとっては実に切実な懸念らしい。
「さっき、『ラルヴァは皆殺しだ』とか言ってる人たちに『かんゆう』とかで声をかけられました。…怖くなって逃げ出したらここに来て閉じ込められちゃいました」
 ぽつりぽつりと語るラルヴァの少女の目から涙が一粒、二粒と流れ落ちる。
「…勝手に入ってきてごめんなさい。…先生に嘘ついてごめんなさい。…でも、あたし他に悪いことしてないんです。…だからどうかおうちに、おうちに帰してください…」
 堰が切れたようにぼろぼろと泣きじゃくるラルヴァの少女の声はついさっきまでと比べ随分と幼く感じられた。背伸びしたい年頃なのかねぇ、と少女にかける言葉を考えつつ教師は冷静な観察者の視線でそう思う。
「そうだね、僕個人としては危ないことには関わりたくないけどね、これでも教師なんで生徒に危害を与えるようなものは見過ごすことはできないなぁ」
「そんなことするつもりないです!…ちょっと驚かせようと思っただけです…おとうさんやおかあさんにも…うぅ…きつく言われてます…」
 自分自身の言葉で父母のことを思い出ししゃくりあげるラルヴァの少女。まいったな、と教師は頭を掻いた。彼の心情はむしろ逆、このラルヴァの少女を危険性のある存在とは思っていなかったのだ。彼女の言動に嘘はない、それが教師がこのラルヴァの少女を観察してきた結論だった。
「だったら好きにすればいいさ」
「………え」
 ラルヴァの少女はぽかんと口を大きく開け、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。そんな彼女に教師は心を落ち着かせるための笑顔を作り言葉を繋げた。
「教師として学園の名誉のために発言させてもらえば、我らが双葉学園は友好的なラルヴァを拒絶することはないよ。確かにラルヴァ全体を敵視する人たちもいて勢いが強かった時もあったけどね、今はそうじゃない。そして、僕自身もその立場に賛同してる」
「本当…なんですか?」
「そうだよ」
「よかった…よかった…」
 「無害なラルヴァをわざわざ探し出してまで狩りだすなんて手間なこと馬鹿馬鹿しくて付き合いきれない、ってのが僕の意見だね」とは彼は空気を呼んで口にはしなかった。それがどの程度影響したかはともかく、なんとかラルヴァの少女の強張った表情が少しほどけ、僅かながら安堵の色が浮かぶ。
「で、確認も済んだことだしお待ちかねのここから出る方法だけど…」
「もうちょっと後にします…急いで逃げ出さなくていいんだって安心したら気が抜けちゃって…」
「そう。まあせっかくここまで来たんだ、双葉学園が誇る名所を堪能するのも悪くないんじゃないかな~」
「はい!」
 涙の跡を袖で拭ったラルヴァの少女は、今まで泣きじゃくっていたのが嘘のような笑顔で感嘆の声を上げながら辺り一面に咲き誇る桜に見入りはじめる。
(やれやれ)
 その姿を呆れ混じりに見届けた教師はようやく肩の荷を降ろしたような気分に浸りながらその場に腰を下ろしたのだった。


 一陣の風が木々の間から吹きつけ、その身を桜色に染めて通り過ぎていく。
 その風から振り落とされた無数の花弁がゆるりゆるりと辺り一帯に舞い降り始める。
「すごい、まるで雪みたいです!」
 「怖い人たち」の中で正体を隠し続けるという精神的負荷から開放されたためか、ラルヴァの少女はとにかく高いテンションで無邪気に跳ね回っていた。
 そんな彼女を鷹揚に――といえば聞こえがいいが実際はぼんやりと――眺めていた教師の方といえば…
(うん、単純なパターンの繰り返しが眠気を誘発するというのは世界の真理だね~)
 ラルヴァの少女の活気の高まりと反比例するかのように眠気に苛まれ始めていた。
「ああ面倒だ面倒だ。それでも一仕事やっておかないと」
 やる気を引きずりだすためにわざとらしい台詞を吐き、鞄の中を漁りはじめる教師。
「先生、何をしてるんですか?」
 やがてそれに気付いたラルヴァの少女がとてとてと教師のほうに駆け寄る。
「これかい?これは紙飛行機さ。知らなかったかい?」
「あたしだってそのくらい知ってますよ」
 呆れたように返すラルヴァの少女に「それは良かった」と答え、教師は手首だけの動きで紙飛行機を空に放った。
「うわー、良く飛びますね」
 まだ桜の花弁がふわふわと漂う中を突っ切って静かに飛んでいく紙飛行機。
「あ、あれを拾ってきてくれないかな~」
 驚きの表情で紙飛行機を視線で追いかけていたラルヴァの少女に教師はそう声をかける。
「分かりました!」
 と嬉しそうに立ち上がり紙飛行機を追いかけて走り出したラルヴァの少女は、やがて眉を吊り上げて戻ってきた。
「あたし犬じゃありません!」
 そう言いながらもしっかり紙飛行機を持って帰ってくれるあたり犬属性は十分ありそうだと思った教師だったが当然口には出さない。正直な話これ以上面倒ごとの種を増やすなんて真っ平ごめんだった。
「ま、これなら大丈夫そうだね」
「?」
「ここから出る方法さ。今のうちに教えておこうと思ってね。前に言ったとおり…言ったかな…まあいいや。この閉鎖空間は僕らの感覚を狂わせて堂々巡りさせるものなんだ。だから単独ではどうやっても脱出はできない。道先案内人がいないと…」
 教師は手をのばしラルヴァの少女から紙飛行機を受け取った。
「…そう、この狂わされる感覚なんてどこにも無い紙飛行機が道先案内人さ。これでも僕は子供の頃はマエストロと呼ばれたほどの紙飛行機の天才でね~、こうやってこう、大体でいいんでこの手の動きを覚えてね」
 そうやって教師が示した紙飛行機を投げる手の動きを真面目な顔で反復するラルヴァの少女。
「桜の木に邪魔されない道が真っ直ぐになってる場所で今の動きで僕が作って魂源力も込めておいたこの紙飛行機を投げれば、真っ直ぐに突き進んで君を閉鎖空間の外まで導いてくれるはずだよ」
「本当にありがとうございます、先生」
 すまなそうな顔で頭を下げるラルヴァの少女。
「これも教師の仕事のうちってね。それより、それ」
 と教師が指差したのは先程紙飛行機を飛ばした際挟んでいた、そしてラルヴァの少女が怒った際に地面に落ちた一枚の紙片。
「なんですか、これ?名刺ですか?先生の…『たいだ』って名前なんですね」
「…うん、いい不意打ちだったよ」
 僅かに顔が引きつる教師。彼はその行状から名前をもじって「怠惰先生」とあだ名されていた。と言っても昨日今日の話ではないのでそう呼ばれるのも慣れきっているのではあるのだが、流石に無関係なラルヴァの少女から無垢な口調で呼ばれると少し堪えるらしい。
「僕の名前は『退田 裕穂(のきた ひろお)』って読むんだ。まあそれはどうでもいいんだけどね。もし誰かに君の正体がばれちゃってもいいようにその裏に君のことについて一筆書いておいたよ。持って行くといい」
 慌てて名刺を裏返して確認したラルヴァの少女が、何度も頭を下げると大事そうにそれをポケットにしまう。それを確認し教師――裕穂は大きく一つのびをする。
「ま、世の中話が通じる人ばかりじゃないからお守りくらいに思ってあまり頼りきりにしないように。それじゃ僕はもう一眠りするから、遅くならないうちに帰るんだよ~」
「え?え?」
 そう言い残すや否や、裕穂は困惑するラルヴァの少女をよそにその場に腰を下ろし鞄を枕にごろりと横になった。
 ついていけなくて呆然とするラルヴァの少女と、だらしない寝顔の裕穂。
 その状況はまるで二人が出会ったときのそれに回帰するかのようで、そしてあっという間に春眠と再びの邂逅を果たした裕穂の口からは更にその再現度を上げんとばかりに暢気な寝息が漏れだし始めたのだった。


 密やかな夜風が裕穂の頬をくすぐり、十分に惰眠を満喫した教師に覚醒を促す。
「……もう、夜かぁ」
 瞼を上げると、降り注ぐ淡い月光を受け止めてぼう、と光る桜の花。
 花弁の淡い桜色が月光に溶け込む姿は昼の姿よりもなお神秘的、陳腐ではあるがそうとしか言いようのないものであった。
「夜桜ってのも乙なものだねぇ。これで酒さえあれば後は何もいらないってのも満更大げさな話でもないってことか~」
 感慨深く首を振る、その視線の先に月光が地面に作り出す陰影で浮き彫りになった何かが留まる。
 それを見やった裕穂の顔が困ったようにほころんだ。

   ――このごおんはきっとわすれません。――

「やれやれ、変化の術は合格でも国語は赤点だね、こりゃ」
 どこか垢抜けない印象のある地面に刻まれた悪筆に、そして担任でもないのについ採点してしまう自分自身に二度呆れる裕穂。
「それに恩なんてかしこまらなくても、お互い様なのにさぁ」
 立ち上がり埃を払った裕穂は少しだけ逡巡した後、高等部の方へ歩き出す。
 空間結界がまだ残っているのか否か、裕穂にはそれを知覚する術はない。だが、裕穂はまだ結界が残っているとは微塵も思っていなかった。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花。人の想像力は、ただの木からすら幽霊を作り出してしまう。
 だが、逆に言えば枯れ尾花を枯れ尾花としっかり認識しているのなら、そこに幽霊の現れる余地はない。
「…桜は桜。どんなに綺麗でも異界の入口になるって訳じゃないんだよねぇ」
 名残惜しげに一度だけ振り返り、裕穂はぽつりと呟く。
 そう、桜に対する異界を思わせるイメージが魂源力と反応して空間結界を作り出しているのだと、そう理屈も込みで把握している裕穂の前には空間結界が現れる余地はない。
 正確性に欠ける喩えを承知で述べるなら、あるいはネバーランドへ行くことができるのは子供だけという言い方が近いのかもしれない。
 実に日本人的な感性を持っていたラルヴァの少女――あるいは先祖のどこかで人間の血が混じっているという可能性も十分にありそうだ――がいたからこそ、空間結界の条件は満たされた。
 ……そして、裕穂が午後の一時を余計なものに遮られず怠惰に過ごせる条件も。
 道の先からかすかに犬の鳴き声が響いてきた。
 聞き馴染みのある鳴き声だ。闇の向こうに未だ姿は見えないが、犬のリードを引いているであろう人物も想像がつく。
「あの子はあれで口うるさいからねぇ…」
 裕穂は肩をすくめてぽりぽりとこめかみの辺りを掻いた。
 多分顔を合わせるや否や「先生がいないせいで大変だったんですよ!」とかなんとかこっちを詰問するんだろう。
 ならばこちらは「なに、侵入したラルヴァをどうにかこうにか足止めしてたんだよ」とでも答えてやろうか。
 うん、何も嘘はついてない。
 裕穂はにんまりと頷き、本日最後の仕事をさっさと終わらせるべく足を速めるのだった。




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