【陽炎 後編】


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  陽炎 -カギロヒ-  
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     三

 結果から先に言えば、祈の怪我はただ床に頭を打ちつけたときに出来た擦り傷からの出血で、遠藤はそれを自らの異能である治癒の力を使って治してくれた。
「もう、大丈夫なんですね?」
 悠斗と一緒に祈をフロアの端にある広めのソファシートに祈の体を寝かせると、遠藤はゆっくり頷いた。
「よかった……」
「――おっと」
 マキナはそれきり、支えを失ったように屈みこんでしまった。悠斗はとっさに背後から彼女の腕を取ったが、それでは勢いだけを削ぐだけにすぎなかった。結局、そのはずみで悠斗は尻餅をついたが、マキナは静か床へ両手をつき、スカートの裾がふわりと広がる。
「いてっ」じーんと骨に響くような痛みが広がる。
「尻餅くらいじゃ治さないよ」
 少し笑って、すかさず遠藤が言った。
「わかってますよ」
 こっちだって願い下げだ。
「森村さんもどこか怪我してるんじゃない?」
 遠藤の視線はマキナに移っていた。
「本当なのか?」
 すぐに悠斗が訊いた。
「わたしは何ともないです」即答だった。
「いや、隠してるよ」
 遠藤はそう言って、まっすぐ悠斗たちに近寄ってきた。そこでようやく悠斗は、自分がずっとマキナを後ろから抱きすくめる体勢になっていたことに気づき、慌てて手を離した。
「いえ、わたしは平気です」
 反射的な行動だったのだろうが、マキナは左腕の肘のあたりを押さえ、身体全体で庇うように肩を引いた。明らかにどこか怪我をしているようだった。
「平気ですから、本当に」もう一度、繰り返して言った。
 遠藤はそれを無視して、マキナの左腕をぐいと掴んで袖をめくった。雪を染めあげたようにしなやかな腕が露《あらわ》になる。肘より少し下のところが鬱血《うっけつ》して、痛々しく腫れていた。祈に走り寄ったときに、テーブルかカウンターの角にでもぶつけたのだろう。
「遠藤さんの手を煩《わずら》わせるほどのことじゃないですから」
 顔を背けながらそう言って、マキナは腕を引っ込めようとした。
「もし祈ちゃんの目が覚めたときに、森村さんが怪我してたら、きっと心配すると思うよ」
 祈の為に。遠藤の台詞は効果的だった。それまで強張っていたマキナの肩がふっと弛《ゆる》んだ。
 痣《あざ》になっている箇所に遠藤が手をかざすと、彼の手から伝わった淡い光が腫れた肘を柔らかく包む。それからしばらくすると、祈を治癒したときと同じようにその輝きが小さくなり、遠藤が手を離したときには痣は消えて去っていた。
 映像を逆回しして見るような感覚だった。治癒能力《ヒーリング》を初めて目の当たりにした悠斗には、そんな大雑把な感想しか持ち合わせていない。
「ありがとうございます……すみません」
 最後のほうの言葉はほとんど聞こえなかった。マキナが俯いてしまっていたからだけでなく、カウンターの向こうの裏口から、マスターと救急隊員らしき人たちの交わす声と固い靴音が近づいていたからだ。
 こういう事態に慣れているいるのか、遠藤はやって来た救急隊員に自分の施した処置と祈の状態を詳細に伝えた。背丈はほとんど変わらなかったし、顔立ちも濃いものでもなかったが、落ち着きを払った態度は場慣れした大人の異能者のそれだった。
 祈を乗せた救急車にはマキナが付き添い、マスターは店を閉めた後で向かうことになった。もちろん今から店仕舞いだ。
 深々とお礼を述べるマスターへしきりに遠慮する遠藤と店を出たのは、それからしばらく経ってからだった。
「検査と言っても、レントゲンとCTくらいだけで済むはずだろうから、経過入院をしたとしても二、三日で帰ってくると思うよ」
 狭い通りで肩を並べて歩きながら、気遣わしげに遠藤が言った。午後の陽射しは傾いて、彼方のビルの頭にすっぽりと隠れてしまっている。
「早く元気になるといいね」
 その言葉の主語は三人分だ。祈と、マキナと、自分。
「そうですね」定型文しか浮かばなかった。遠藤の見立ての通り、悠斗は憔悴《しょうすい》していたし、何よりあの騒ぎの後で初対面の相手とトークをするほどの気力はほとんど残っていなかった。
「唐橋くん、だっけ。ひょっとして森村さんの彼氏?」
 目の前を虎が横切ったかのようにギョッとして、悠斗はすっ転びそうになった。
「ちがっ、違うって!」思わず敬語を忘れていた。
「森村はその、クラスメイトで、友人です」
「ああ、そうなの?」遠藤はアテが外れて驚いていた。
「そうです」
「付き合ってどのくらい?」
「だから彼女とかそういうんじゃなくて!」
「ごめんごめん。友人としてって意味で」
 片手で謝る仕草を作って、(そういうことにしておくよ)と、遠藤は少し面白がった顔で先をうながした。完全に担《かつ》がれている。
「半年とちょっと」
 悠斗は仏頂面《ぶっちょうづら》のまま答えた。だが祈の恩人であることを思い出して、すぐに怒りの鞘を納めた。
「それまでの間に、今日みたいに誰かが大怪我したことはなかった?」
「俺が知っているなかではなかったと思います。少なくとも」
「そうか」遠藤は腕組みすると、それきり黙りこんだ。
「何か気になることでもあるんですか」
 うーんと、遠藤は言い出しづらいのではなく、考えがまとまらないという様子で唸っていた。やがて自分自身にも確認を取るように、一言一言を区切りながら話し始めた。
「僕も、ああいう突発的な治癒を必要とされる状況の対処には慣れてきたから、傷病者の周りにも目を配るゆとりも持てるようになったんだけど」
 怪我人の周囲に立つ人間にはさまざまなタイプがいる。事態についてゆけず呆然とする者、手を尽くして見守る者(悠斗はこれにあたる)、元凶に腹を立てる者、我が事のようにショックを受けて体調を崩す者、パニックを起こして何をするわけでもなく慌てふためく者。おおまかに大別すると、これだけあるらしい。
 そして、森村マキナはそのどれにも該当しないのだという。
「森村は〝手を尽くして見守る者〟じゃないんですか?」
「そうだよ。たぶん、そうなんだけど」渋るように、言葉の歯切れが悪くなった。「彼女、自分の怪我のこと隠そうとしてたろ」
「俺たちに心配させたくなかったんじゃ」
「あれ、気づいてなかった?」
 組んでいた腕を解いてから、悠斗に振り向いた。
「森村さん、僕が痣《あざ》を治したあともずっと肘のところ掴んでたよ」
 あ、と思って悠斗は立ち止まった。 
 遠藤の言うとおり、マキナは搬送先についての説明を聞かされているあいだ、痣のあった箇所に手を置いていた気がする。
 傷が癒えたとしても、痛みを知覚した事実は変わらない。犬や猫だって、治ったあとも傷跡を舐めたりもする。だがそれが何だというのだろうか。
 意図を読みかねている悠斗の表情を見て取ったのか、遠藤はこう切り出した。
「責任感が強いというか、優しすぎるんだよ、森村さんは」
 遠藤は自分にだけ見えるなにかを捉《とら》えるように、遠くへ視線を巡らせる。その先には、太陽を覆い隠しているビジネスビルがそびえている。
「身の回りの不幸をみんな自分の所為《せい》だと思ってる。仮に正当な加害者がいたとしても、そこから自分のミスだけを見繕《みつくろ》って自身を糾弾する。そうやって絶えず誰かに謝って、いつまでも自分を許すことが出来ない人」
 森村マキナという少女は、〝自分で罰を作り、ひとりで責任《せめ》を背負う者〟なのだと。
 わたしが――
 再生中に読み込みが失敗したオーディオみたいに繰り返されていた言葉。大きな声で呼びかけて、それで鎮まったと思っていた。だが実際にはそれは壊れたままで、重大な欠陥を残したまま、何もなかったふうに再び動かしてしまった。
 ほんの数十分前の出来事だ。過去という頭の倉庫へ処理される直前だった記憶が、未だ乾ききっていない鮮烈な色彩を添えて戻ってきた。
 赤い回転灯《サイレン》に誘われて救急車を囲む人の群れ。心配して外に出てきた近所の住人に事情を訊かれ、やがて車に乗り込んでいった。その時もじっと片腕を抱いていた。それは痣になった場所を思い出しているような、そんな生易しい仕草ではなかった。
 痣が癒えていてなお、その痛みを忘れないように、きつく、堅く握り締めているようだった。
 他人の声を憚《はばか》りながら遠去かるマキナの後姿は、あの時は判断できなかったが、すでにその内は自責と後悔で満ちていた。

 大通りで遠藤と別れて、悠斗はそのままアパートへ帰った。部屋に戻っても何かするわけでもなく、気がつくと窓の外は見慣れた暗闇が広がっていた。カーテンを閉めてから、灯りもつけずに風呂場へ向かう。
 あれから食事らしい食事を摂る気分ではなかったが、それでも風呂を焚く習慣はそれよりは勝っていたらしい。と、呆けた頭でバスタブにお湯を張っていると、悠斗は唐突に、学園島にやって来た日のことを思い出した。
 初めて学園島を訪れ、自ら編入を決めた日だった。そして学園島にやって来て始めて知り合った同級生が彼女だった。
 あの日からまだ半年しか経っていなかった。いや、三年のあいだしかその身分《ステータス》を保てない高校生にとって……
「熱っ!!」
 温度設定を間違えていたのか、バスタブに手をかけていた悠斗の指先に、地獄の釜湯と化した熱湯が噛みついた。驚いて飛び上がった背後をさらにシャワーのノズルが追い討ちをかける。
「クソッ……」悪態をつきながら浴槽の蛇口を閉めた。
 刺激に次ぐ強打で、頭のなかで宙ぶらりになっていた記憶と記憶の鉤《かぎ》が突然絡んだ。テレビのリモコンを踏んづけてしまったように、それは悠斗の意思に断りもなく急に蘇った。
――わたしはここでしか生きられないから。
 話のはずみで本当に、本当にの一瞬だけ、不意に心を離れて浮き上がった言葉。
 ここでしか生きられない。
 森村マキナは異能者だ。それは、本来は失われているはずの視力を回復させるくらいには力を持っている。
 言いかえれば、マキナは異能力なしに日常を享受することができないのだ。ここではごく当たり前のようにしていられることにも、世間では制限が生じる。
 異能はそれを知らない人の目に触れてはいけない。当然のルールとして教わり、暗黙の了解として異能者たちの意識に深く根付く事柄だ。人々に異能の存在が広がりはじめ、それに呼応するように各地でラルヴァが跳梁《ちょうりょう》を激しくしている。世界全体がこうした新しい時代への転換期を迎えつつあり、その狭間に生まれた異能者には、個人差はあれど様々な問題や悩みを抱えている。悠斗にも、マキナにも。
 俺は何も彼女のことを知らない。ただ同級生《クラスメイト》として、友人として、異性として、楽な気分でいられる関係に寄りかかったまま、それ以上の詮索は無用だとばかり決め込んで、知らぬ顔で接してきた。
 いくらでも機会はあったはずだ。けれど、それをしなかったのは悠斗自身だ。
 舌打ちはしたが、今度は声にならなかった。

     四

「どうして、唐橋さんがここにいるんですか」
 マキナの声には批難の色はなく、怯《おび》えるように震えた口調だった。
 優等生徒然とした制服の着こなしに、白のスクールソックスがひざ下丈まできちんと上がっている。ただいつもと違う印象を受けるのは、陽光を溶かしたような銀色の髪が、日差しの少ないこの場所の陰鬱さにあてれられて重くくすんで見えるからだ。
 やはりここに来るべきではなかったと、遅まきながら悠斗は思った。少なくとも、あの話を訊いた俺は立ち寄ってはいけなかった。嘘をつかれていたことを知り、疑ったことを知られる。
 もう、後戻りはできない。
「なんで嘘なんかついたんだ?」
 図書室という場所に遠慮して小声で言った。悠斗の見回した限りでは他に生徒はいなかった。部屋の中央では、窓から伸びた細長い夕陽が大机たちに差しこみ、その陽の中に雪の影がぼんやり浮き上がって、一本一本が横倒しになった蝋燭《ろうそく》のように揺らめいている。
「これ、祈《いのり》の親父さんの書いた本だろ? 森村に一体なんの関係があるんだよ」
 完全にマキナの方へ向き直り、悠斗は一歩だけ前に出た。軽く握った右手を胸の前に寄せ、マキナは俯《うつむ》いたままそこから一歩引いた。しばらくそうして二人の間に沈黙の波が隔て、それが過ぎ去ってからマキナの唇が動いた。
「中はまだ読んでいないんですね」
「ああ、適当にページをめくっただけだ」
「そうですか」
 再び沈黙。今度は早く返事が来た。遠慮がちに顔を上げると、傍目にでも分かる作り笑顔で、
「何も訊かずにそれ、わたしに返してもらえません……よね」
 まるで消しゴムを借りるみたいに気軽な感じで言いかけて、途中で諦めてまた俯《うつむ》いてしまう。
「これを俺が読んだら何か都合が悪いのか」
「どうなんでしょうか」何も面白いことはないのに、短く笑ってからマキナは言った。「こういうことになったのは初めてですから」
「俺も、森村がそこまで深刻になるなんて思ってなかった」
 ただ森村を知る手がかりになればと思っていただけだったのに。
「やっぱりわたし、唐橋さんから見ても動揺してますよね」
 何度もまばたきをしてから、マキナは自分で確かめるように、両手を胸に押し当てた。あれでは心音なんて聞こえないだろうと、悠斗は思った。手が震えている。
「余計にヘンですよね、こんなんじゃ」
「らしくないな」
「それは唐橋さんが知らないだけで、わたしは昔からこうでしたよ」
 嘘つきで、臆病者。
「なあ、教えてくれ。森村は何をそんなに隠したがってるんだ? 今日だって様子がおかしかった」
 今のこの状況に至るまで、今日一日、悠斗はマキナと一言も会話を交わしていなかった。学期末で各授業の教師たちが教科書ページの踏破へ向けた追い込み授業を敢行し、それでクラス全体が忙しかったのもあったが、まったく声をかける暇がなかったわけではない。マキナもそれは同じだったが、いざ悠斗が彼女の席に近寄ろうとすると急にふらりと教室を出ていき、始業ベルの鳴る直前に戻ってきた。
 そのときはまだ避けられているのだという意識はなかった。しかし、授業後も板書のはしりをノートに書き写していたとき、何度か視線を感じた。そのときは決まってマキナも教室にいて、女子と何か話していたり、次の授業の用意をしていたりした。
 祈のことを尋ねたかったのにロクに話もできず、それでいて誰かに見られている感覚。超科学異能者のような閃きと直感力がなくとも、悠斗にだって分かることはある。
「自惚《うぬぼ》れだったら先に謝っとくけど」と前置きしておいてから、ふざけた調子で言った。「俺のことを避けてたのか」
 マキナはニコリともしない。目を伏せたまま答えない。まったく瞳を覗くことができないから、感情の揺れや視線の拠り所といったものの一切が読み取れない。ともすれば立ったまま寝ているのではないかと、場違いな想像をしてしまう。
 そして、相手の反応が薄いのに質問してばかりだと一人相撲をしているのがよく分かる。
 悠斗は頭を掻きながら言った。「なんだか訊いてばっかりだな、俺」
 また間があいた。
「第四章、異能発達におけるリエゾンの第五項」
 意味が分からず返事ができないると、
「本、開いてください。八十八ページです」
 マキナは正面を向いた。
 何故かの問いに答える様子はなく、今言ったことを実行するまで何も受け付けないという態度がはっきりと出ていた。言われるままに悠斗はページをめくった。ちょうどその項目に目を通すのと同時で、マキナが喋りだした。
「『異能分野の細分化がこれからますます進んでいき、社会環境の調整まで含めた精神的な配慮はきわめて重要である。しかし重要であるだけ困難でもある。とりわけ幼年異能者や疾病異能者については先駆けとなる異能者の絶対数は少なく、我々のような知識だけの学者たちでは当人との間に齟齬が生じるであろうことは明らかだ。
 これは一つの例だが筆者の知人にも異能力を発現した児童がいる。その子は現在の医学では快復の困難な目の疾病を抱えていたが、身に宿した異能力によってそれを克服した。しかしながらその異能力は決して万能ではない』」
 悠斗が目をあげると、マキナの音読も止んだ。
「『|その子は他の異能者を媒介にしなければ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》異能力を発揮することができない。それは自分を含む異能者の視覚情報を獲得し、異能者の魂源力を経由して自らに伝達する。そうして周囲の空間を把握するきわめて他者依存的な異能力なのである。これはテレビの送受信の仕組みと酷似しており……』」
 唐橋さん、と子供に言い含めるようにマキナが言った。「わたしの方ばかり見ていたら、本が読めませんよ」
「森村その眼は」
「副作用でしょうか。誰かの魂源力《アツイルト》を利用するとき、ちょうど電球のフィラメントが摩擦熱で光るみたいに眼が反応するんです。常時光っているわけではないですけど……自分の視覚と魂源力が勝手に利用されてるって知ったら、やっぱり気分のいいものではないでしょうし、視覚情報は頭のなかで見ることができるからずっと隠していたんです」
 利用という言葉に自分自身を嘲《あざけ》る響きがこもっていた。それと同時に、悠斗がその秘密を暴いたことを暗に責めている口調だった。くっきりと見開かれた双《ふた》つの瞳に、西洋人の遺伝子が混じる青みがかった淡い紫の虹彩が、妖美な光を帯びていた。
「こうして目を合わせて話すのは初めてですよね」
「ああ」とため息みたいに言ってしまって、あわてて付け加えた。「綺麗な色をしてる」
「藤紫色《ウィスタリア》って言うんだそうです」
「ウィスタリア……」
「祈ちゃんと出会うまで、わたしはそれがどんな色なのか知りませんでした。そもそも、色という意味すら理解できなかった」
 マキナは窓際に立ち、ガラス窓に手をかけると外の景色にむかって話しかけていた。
「暖かい夕陽の茜、真っ白な雪、四季の色。今まで全部祈ちゃんがわたしに見せて、わたしに教えてくれた。祈ちゃんはわたしの目になってくれていたんです。だからそれに報《むく》いなければならないんです。どんなことよりも一番大事なのに」
 だらりと下げられたマキナの手には、悠斗も失念してしまっていた管弦コンサートのチケットが握られていた。そういえば自分はどこにしまったんだっけか。
「祈ちゃんを通して視《み》る世界に、いつも唐橋さんが映るから。あの子と同じように、気がつくと|あなたの姿を追うようになってしまったから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
 曇天が陽光を塞ぎ、周囲の明るさが影をひそめていく。蛍火のように幽《かす》かなマキナの眼が、ガラス窓にもどかしく浮かんでいた。間接的な視線は悠斗に向けられていた。
「|そんなことに惑わされていたから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。祈ちゃんが足を滑らせてしまったことにも気づけなかった。あのとき、一瞬でもあの子から接続を切って、自分のためだけに異能力《ちから》を使ったりしたからあんなことになったんです!」
 ひと息に言って、振り向いたマキナはチケットを悠斗に押し付けた。取らなければいいのに、本を片手に持っていた悠斗は咄嗟のことでそれを受け取ってしまった。
「もう二度とお店には来ないでください。祈ちゃんにも、わたしにも近づかないでください。学園でも」
 感情を押し殺したような淡々とした通告だった。あらかじめ練習していたたような、その意味より言葉だけが先回りして空々しく伝わってきた。
「おかしいだろ、そんな一方的に森村の言い分だけを並べ立てられて」
 納得できるかよ、と口を開きかけてマキナがそれより大きな声で割り込んだ。
「おかしいのは唐橋さんですよ。他人《ひと》のことを黙って調べようとして、勝手に踏み込んでこられると迷惑なんです」窓の方に一瞬目をやって、悠斗に向き直った。「薄気味の悪い」
 それらが最初から本気で言っているんじゃないと分かっていた。向こうの気持ちがうわずっていると、逆にこっちは冷静でいられた。だが、本意でないと心で認識していても――体のほうはその言葉に打ちのめされて、体育祭の行進で手足が同時に前に出てしまうみたいにちぐはぐなまま、どれから動かせばいいのか分からない。
「わたしの異能力のこと、別に言いふらしても構いませんから。電気泥棒みたいなマネして、優しくしてるのは自分の周りに常に異能者を置くためにやってるんだって」
「俺はそんなことしないし、するつもりもない」
 突き放すような言い方をされて、固く答えてしまう。
 口の端に冷笑を浮かべると、マキナはひたと悠斗を見据えて、それをそのまま床に叩きけるように言った。
「だったらどうしてこんな、こんな付きまといみたいな真似するんですか。もしかして、それを材料《ネタ》にわたしを脅《おど》すつもりだったんですか? 言いふらさないって、わたしがずっと誰かにすがって生きているような憐《あわ》れ人間だから」
 優しい言葉をかけられる人間は、どんな言葉が相手を傷つけるのか知っている。その場に最適で、一番効果的な――相手を罵倒し、心を突き刺す冷たい台詞や険しい表情を選ぶことができる。相手の痛みを簡単に想像できるから、実行すると心に無理がたたってガタがくる。
 声を出すよりも先に足が動いていた。本が手から離れた。悠斗の右手が、後ずさろうとしたマキナの肘のあたりをつかんだ。それは三日前、マキナが遠藤に治してもらった痣のあったところだった。
 あのとき遠藤はマキナを〝自分で罰を作り、ひとりで責任《せめ》を背負う者〟と評した。それは半分は当たっていた。
 ――絶えず誰かに謝って、いつまでも自分を許すことが出来ない人。
 マキナの意思に関わらず、異能の制約が前提として他人の力を必要としている。それが生来持ち合わせているはずの彼女のひたむきな優しさに意味を持たせ、誰かに親切にする行為のすべてに理由を作ってしまった。彼女の無償の善は「異能の代価としての偽善」に成り下がってしまった。
 自分の意思とは別のところで罰が作られ、どうすれば分からないまま、それを背負うことしかできなくなった者。
「離してください」
 ただ触れているだけの悠斗の手は、振り払おうと思えばできるはずなのに。うなだれたマキナは消え入りそうな声で懇願した。「離して……」
「なんでそんな辛そうなんだよ」
 マキナは幼子が嫌々するように小さく首を振った。
「お願いだから」言葉を続けようとした口元がゆがみ、一度|堪《こら》えるようにきゅっと唇を結んで「これ以上、わたしを困らせないでください」
 初めて出会った時に印象的だった、陶器のように色白で血の気の通った頬に涙の筋が流れた。伏し目がちで、人形のような少女はずっと人間だった。掛け値なしに、等しく他人に優しくできる女の子だった。だから俺は彼女に惹《ひ》かれているんだと、悠斗は確信した。
「力になりたいんだ」
 少し強くつかんだ肘を華奢な体ごと引き寄せた。女の子の柔らかい体とくすぐったい髪の感触が、悠斗の腕のなかにすっぽりと収まった。
「わたしは……」
 潤んだ藤紫の瞳が悠斗を見上げ、涙の伝った彼女の唇が艶《つや》やかに光った。互いに息がかかって、視線が交《まじ》わる。鼓動が共鳴する。
「俺は森村のこと――」
 不意に言葉が途切れた。最後まで言い終えるより前に、濡れたマキナの唇が悠斗の唇に押しあてられた。
 その一瞬で、周囲の背景が灰色に褪《あ》せる。目の前の少女の行為だけが際立つ。白い掌を悠斗の胸に乗せながら、きつく瞼《まぶた》を閉じて、日ごろの大人しい振る舞いが嘘みたいで戸惑うくらいに真剣な口づけだった。
 永遠というほど大げさな時間ではなかったが、それが息苦しいと感じるくらいには長かった。先にマキナがあえぐように顔を離した。
 今度こそ悠斗を突き放すために、その胸を軽く押しやって、二歩三歩とマキナはそのまま後ろに下がる。
「さようなら」と、低くはっきりした声で彼女は言った。
 すり抜けていく。決して、二度と振り返りはしなかった。マキナが足早に遠ざかっていくと、本棚に並ぶ書籍や傷だらけの長机や夕陽の色目が、現実味を帯びてきた。
 繋がるはずの想いも、紡《つむ》ぐはずの大切な言葉も置き去りにして、静寂だけがひしめく図書室に悠斗だけが独り残された。
 互いに求める気持ちは確かにあって、それなのに受け入れられない。マキナにしてみれば、さっきの|キス《あれ》は決別を選んだ証明だった。何もかも終わり。もう関わらない。|あなたを視るのはこれで最後《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
(俺に何ができる?)
 日常が変化していく。かちりかちりと、歯車が合わさり縦横に広がり膨れていく。新たに噛み合う歯車を求めて空転しながら、一方で思いもよらない箇所を動かし始めている。
 あれだけの決意を突きつけられて、だから自分は諦めるのか。悠斗のそばを離れていくとき、雪を焼く夕陽が眩しいかのように目を細め、笑っているようにも、涙を堪えているようにも見えた。
 今を逃げたとしても、異能はこれから先もマキナを苛《さいな》む。いつかきっと、運命が彼女自身を押し潰すのは自明だった。
 悠斗は床に落ちた本を拾い上げながら、一つのことを繰り返し考えていた。
(彼女の為に何をすればいいのか)
 答えは必ず見つけ出さなければならない。


 -続く-



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