怪物記
うーさーぎ、おーいし、かーのーやーまー
――ふるさと
「うなぎがたべたい」
ある土曜日の朝、八雲がそんなことを言ってきた。
「鰻か……」
鰻。白身魚の一種で、高蛋白かつ消化もいいのでスタミナがつき、夏バテにも効果があると言われている。
とは言うものの今はまだ六月。夏の到来はまだ先のことであり、うなぎを食べる習慣のある土用の丑の日もあと一月近くは先だ。
まぁ、今の時期に食べて悪いものではないがそれはそれとして……。
「何で鰻が食べたくなったんだ?」
八雲は子供だが好き嫌いがない、というかなさすぎる。放っておくと人間が食べないようなものまで食べてしまうので人前で食べないように注意しているほどだ。
そして逆に、自分から何か特定の食べ物を食べたいと言うことは珍しい。
「このまえ勉強のお時間にきいた。土曜にたべるお魚で食べるとすっごい元気になるって」
なるほど、人から聞いて興味を持ったのか。たしかに今日は土曜日だ(土用の丑の日とは違うのだが)。
「まぁ、いいか。なら昼食は」
「それに夜もひとばんじゅう元気でつかれしらずだって」
「…………」
余計なことまで教えたのは誰だ。容疑者その一(本命)に事情聴取したいところだが、助手は先週辺りから姿が見えないので尋ねようがない。容疑者その二、三(対抗)の難波君ミナ君も同様だ。
「学者さーん、いますかー?」
私が容疑者の特定に頭を巡らせていると容疑者その四(大穴)がいつものようにやってきた。もちろんノックとチャイムはない。
「ソウコ」
「こんにちは八雲ちゃん、それに学者さんも」
「いらっしゃい。今日は任務も八雲の家庭教師もなかったはずだが、遊びにきたのかね?」
「んー、ちょっとしたお誘いです。学者さん、八雲ちゃん」
「うさぎ食べに行きませんか?」
「ちょうど良かった。我々も……」
うなぎを食べに行こうと思っていたんだ、と言いかけて直前の彼女の言葉が少し違っていたことに気づいた。
「……久留間君、なにを、食べに行くと?」
「うさぎです。うさぎ」
あぁ、うさぎか。一文字違いの。魚でなく哺乳類の。
……なんでまた?
「実は端末にこんなチラシが届いて……」
「チラシ?」
彼女が寄越した学生証端末に映されていたのは、チラシと言うにはカラーが少なくきっちりした書式の……指令書のPDFだった。それには長々婉曲に事情説明が書いてあったが要約するとこうなる。
『昨日、国内の某試験場からトラックで食用の【角兎】六十四羽を運搬していましたがN県笹場山付近で大雨のため事故に遭い、その拍子に【角兎】四十三羽が逃げ出してしまいました。
※ この件について我々の過失はありません
【角兎】は危険度が低く、知能も低い食用ラルヴァではありますが一般の人々に見つかると新種やUMA扱いされて問題になるかもしれません。
※ この件について我々の過失はありません
双葉学園の各チームやお暇な学生におかれましては可能な限り【角兎】捕獲ミッションにご参加ください。お礼の代わりですが、捕獲した【角兎】はめしあがって構いません。美味です。
※ この件について我々の過失はありません』
「…………」
そんな訳で私と八雲、それに久留間君たちはうなぎならぬうさぎ狩りに出かけることになったのだった。
第九話 【角兎】
・・・・・・
「ハイジ、ツノウサギってどんなラルヴァ?」
件の山に着いて山道を歩き始めてから少しした頃、ただ歩くのも退屈だったのか八雲が私に尋ねてきた。
しかし、どんなラルヴァかと聞かれても。
「角がある兎。肉が美味い。栄養がある。以上」
「……それだけ?」
「ああ」
角兎に関しては説明するようなことがあまりない。むしろ魂源力がなければラルヴァですらなくただの高級食材として世に出回っていたであったろう生物だ。
そのせいか、『ラルヴァに関しては殺す研究する共生する全てがあり、ただし売り物扱いは違う』といつだったか誰かに宣言した私のポリシーにも感覚として引っかかってこない。どうやら頭の中で牛や豚と同列に扱っているらしい。
だが、そんなラルヴァでも世間に見つかるとまずい。だからこそ今回のように手空きの学生を使って捕獲しようという流れになったのだろう。
「しかしながら、角兎そのものではなく角兎にまつわる話ならもう少しある。
角兎が食用になった歴史は古く、異能やラルヴァに関することを記した古代中国の著書には始皇帝が食べていたなどという記録もある。この国でも戦国武将に食すものが何人かいたという話もあるそうだ」
角兎は非常に美味なだけでなく、生で一羽食べれば血が昂ぶって三日三晩走れるという逸話があるほどにスタミナがつく。さすがに今のご時勢に兎を生では食べないが、焼いても美味であることは変わらないしそれなりにスタミナもつく。そういった理由で古今の異能力者から好まれている食材だ。
「ちなみに角兎に関しては「ラルヴァを食べるなんて」という批判がラルヴァからのも含めてほとんどない。あの聖痕でもあまり言わない。理由は単純、ラルヴァからも食料として好まれているからだ」
「へー」
知能の高いラルヴァや何を食べるべきか分かる程度の知能をもった肉食ビーストラルヴァからも美味で魂源力も持つ角兎は捕食対象になりやすいらしい。
「まぁ、ラルヴァ自体『人外の総称』であるわけだから明らかに違うものならば同じくラルヴァと銘打たれていても食すに抵抗がないわけだ。人間が人間は食べないが同じく動物の牛や豚は食べるのと変わらない。その辺りは八雲にもわかるだろう?」
「うん」
八雲はコクコクと頷いた。ラルヴァを好んで捕食するラルヴァである女王蜘蛛の子供であるためか、こういった話は理解しやすいようだ。というか恐らくだが彼女の母親である先代女王蜘蛛は角兎を食べたことがあるだろう。
「ただ、人間もラルヴァも揃って角兎を食べ続けた結果百年ほど前に角兎が絶滅しかけた。そのころから人間や知能の高いラルヴァは無闇矢鱈に食べることはやめ、保護や養殖をしながら少しずつ食べるようになったらしい」
幸いにしてかほぼ異能力者とラルヴァの間でのみ知られていたため同時期に絶滅した他の生物の憂き目は見ずに済んだらしい。
「そういった経緯で今日でも角兎は高級食材。養殖でも一羽数万円ほどの価値がある」
「だからソウコたちや、他の人たちも食べにきたの?」
「そうなる」
山道を歩いている人々を見回す。
まず私と八雲のすぐ傍に久留間戦隊。今日は一人欠席で戦隊からの参加者は四人、全員が軽装ではあるがリュックサックを担いでいる。
髪を両側でおさげにした小柄な子だけは人間の二、三人でも詰まっていそうな一際大きいリュックサックを軽々と担いで山道を登っている。たしか、伊緒君という名前のメンバーだったはずだ。
そんな大荷物を担いだ伊緒君は藤乃君と話しながら登っており、リーダーの久留間君はグループの先頭に立って歩いている。
振り返ると、メンバーで唯一の外国人らしい褐色の肌のラニ君が誰とも話さず黙々と殿を歩いている。
彼女達と行動を共にするようになってしばらく経ったせいかいつの間にか彼女達の名前もすっかり覚えていた。本当にいつの間にか。
さて、久留間戦隊と私と八雲だけなら格好も面子もまあまあ普通のピクニックという雰囲気だ。
しかし、私達の後方十メートルにまで視線を広げるとどう見てもピクニックではなくなる。
そこでは道着を着た一団が登っていた。しかもどういうわけか兎跳びでだ。まるで山篭りする武道家のようである。あれはたしか双葉学園の武術系クラブの何某かだったはずだ。先頭に立っているのは学内でも有名な二階堂兄弟の……五つ子らしいので誰だか分からない。多分だが長男か四男か五男のはずだ。
我々の七メートルほど先にも学生のグループがいる。たしかそのうちの何人かはクラウディウス先生の担任するクラスの生徒だったはずだ。時折どういうわけか人が吹っ飛んでいるのが双葉学園らしいと言えばらしいが、やはり尋常のピクニックではない。
それと、なぜかそのグループの中の濃い栗色の髪の女生徒を八雲が注視しており、その顔がどことなく「おいしそうだなー」という風で……なんとなく理由は分かった。
デミヒューマンラルヴァを食べてはいけないと教えているから大丈夫だろう、多分。
と、そのとき、
「きゅーきゅーきゅー♪」
「おにくーおにくー♪ うさぎのおにくー♪」
我々の隣を頭の上に何か普通の生き物でない白く丸い毛玉状の生き物を乗せた学生が通り過ぎて行った。
「……じゅる」
「言っておくが、人と一緒にいるラルヴァも食べてはだめだぞ?」
「…………」
そんな「えー、どうしてどうして?」という顔をされても困る。
「しかし、想定していたよりも学生の数が多いな。これだと一人一羽も口に入らないんじゃないか?」
「大丈夫ですよ、学者さん。今回は捕らえたチームが食べていいことになってますから。うちなら一人頭二、三羽は食べれると思いますよ」
「すごい自信だ」
「あっはっは、――対ビースト戦で久留間戦隊が後塵を拝するわけにはいきませんからね。今日は学者さんと八雲ちゃんにお腹いっぱいうさぎを食べさせてあげます」
訂正、すごい殺気だ。
久留間君もほんの少し前まではピクニック気分といった雰囲気だったのだが、競争相手が多いことを知ってスイッチが入ってしまったらしい。見れば他の戦隊メンバーも感情の起伏が少ない藤乃君以外は意気軒昂している。
……そういえば先日はビースト無敗の称号に頓着していないようなことを言っていたが、それとこれとは別ということだろうか? 食い意地?
山の中腹に開けた広場のような場所があり、久留間戦隊や他のグループも皆そこを拠点にした。久留間戦隊はその広場の一角に陣取り、作戦会議を始めている。
「さてと、それじゃ準備を始めましょうか。伊緒、リュックの中身を出して」
「はーい!」
久留間戦隊で一人だけリュックサックを担いでいた伊緒君はその荷を降ろし、封を開けて中から縄や刃物、籠型の捕獲器、トラバサミなどを取り出した。
「罠?」
「はい、なにせ相手はラルヴァとはいえ小動物ですからね。捕まえるにはどうしても頭数が要ります。あたし達久留間戦隊は今日四人しかいませんからその分を罠でカバーしないといけません」
なるほど。久留間君たちの身体能力なら捕まえるのは手間ではないだろうが、ここは山中で相手は小動物。見つけるだけでも一手間だからな。
「じゃあ役割分担ね。あたしは単独で獲物を追うから、藤乃と伊緒は二人で注意深く探りながら動いて」
「はい」
「頑張ります!」
二人もまた先の二人同様に久留間君に応える。こうしている久留間君は実に隊長、という感じだが八雲はそういった久留間君を見るのは初めてなのか、どこか興味深そうにしている。
「ラニはタープの組み立てと罠の設置をお願いね」
「了解しましたと答えます」
タープというのはキャンプ用品の一種であり、言ってみれば布製の屋根を立てるもので、強い日差しや雨を防ぎ、その下で料理と食事を行うための道具だ。
見れば罠に混ざって畳まれたタープや縮めたポールもあの大きなリュックの中に入っていた。サイドポールの数や布のサイズからすると大人数用のレグタングラー型のタープだ。おそらく、昨日降った雨が今日も降ることを考慮して持ってきたのだろう。
「学者さんと八雲ちゃんはどうしますか?」
「ソウコといっしょがいい」
「うん、じゃあおんぶしてってあげる。学者さんはどうしますか?」
「久留間君、タープの組み立てだが何なら私が代わりにやっておこう」
「え、いいんですか?」
「ああ、罠はともかくタープくらいなら私でも簡単に組み立てられる。何より、私は誰に同行しても狩りの足手まといになってしまうからな」
私もフィールドワークが多いので人並み以上には体力があるはずだが、彼女達と一緒に行動する上で人並み以上の体力というものが何の気休めにもならないことはこれまでの経験でわかっている。
それに数の限られた半争奪戦のような今回のうさぎ狩りなら私がいないほうがより多く捕まえられるだろう。
「わかりました。それじゃあお願いします。ラニはこのまま罠の設置に向かってね」
「…………はいと答えます」
「ならこれで決定。じゃあみんな、いっぱい捕まえるよー!」
「「おー!」」
久留間君の掛け声に八雲と伊緒君の掛け声が重なった。
こうして久留間戦隊+一名、それと複数の学生グループによるうさぎ狩りが始まった。
・・・
「……参ったな」
自らタープの設立を申し出てはや三十分、私は頭を抱える羽目になった。
タープの組み立て方は知っている。タープの両端に空いた穴にメインポールの先端を挿し込み、二本のメインポールを柱として立てた後に付属のロープを杭で地面に打ちつけて固定。そこからさらにサイドポールとロープを増やして屋根を広く、かつ安定したものにするのだが……まず前提として大きな問題があった。
「立てられない……」
正確には、立たせていられない。
メインポールを立ててからロープで固定するまではメインポールを支えていなければならないのだが、一人ではそれがあまりに難しい。これが大人数用のタープで組み立ても複数人を前提としていることもそれに拍車をかける。
何とか一人で出来ないかと色々工夫してみたが結果は芳しくない。
このままでは私は自分から仕事に名乗り出ておきながら何も出来ずに久留間君たちの帰りを待ちぼうけているだけの駄目な男になってしまうのではないだろうか?
「それは避けたい……」
いっそ他のグループの手を借りようかと思ったが、わざわざこんなタープを持ってきたグループは我々だけだったらしく、他のグループは全員で狩りに行ってしまっていた。
「さて、どうしたものか……、ん?」
ふとどこかから物音がするのに気づいた。金属製の物をいくつも擦り合わせるようなジャラジャラという音が聞こえる。首をかしげ、どこからの物音か探ろうとすると、
「間抜けがいます。いい気味です。ざまあみろです。天罰です。嘲笑いながらポールを支えます」
物音と同じ方向から声をかけられ、同時に倒れていたタープが立てられた。
そちらに目を向けると、いつのまにか拠点に戻ってきていた褐色の久留間戦隊メンバー――ラニ君がポールを立て、手で支えていた。
「私を手伝いに?」
「手伝うとか勘違い甚だしいです。元々これは私が走子様から任された仕事です。不当に奪われた仕事をへぼの学者から取り戻しているだけです。若干修正です。学者も仕事がしたいならロープを杭で固定すればいいです」
「ああ」
丁寧なような毒舌のような、あるいは単におかしいようなよくわからない口調だったがとりあえずは渡りに船であるので私は杭をロープ端の輪に通し、トンカチで地面に打ち付ける。幸い昨日の雨の後でもこの広場の土はそれなりに固さを保っていたので杭が抜けてしまうことはなさそうだ。
「まったく呆れた話です。私が走子様から申し渡された仕事を奪ったくせになんにもできないなんて最低です。駄目な学者です」
「何も出来なかったのは事実だからそう言われても仕方がないな。ところで君だったら一人でどうやってタープを立てていたんだ?」
純粋にどうやったら立てられるのか疑問なので聞いてみた。
「簡単です」
そう言うとラニ君は片手でポールを支えながらもう片手でまだ杭で打ちつけていないロープを手繰りよせる。手繰り寄せたロープを今度はポールを支える手に掴み変え、空いた手をおもむろに普通の衣服の四倍はありそうな大きな袖口に手を潜らせる。それから袖をジャラリと鳴らし、潜らせていた手を袖中から出すと、その手は適当な大きさの杭らしきものを持っていた。
袖から取り出した杭をロープの輪に通し――そのまま地面に投げつける。
投げつけた、そうそれは間違いないのだが投擲された杭はまるでナイフのスローイングのように真っ直ぐに地面へと突き刺さり、杭は深々と埋まりロープはピンと張った状態で固定された。
「簡単です」
それは流石に真似できない。
「……ジャラジャラ音がすると思ったら袖の中に杭が入ってたのか。君の武器か何かか?」
そういえば、私はラニ君が戦っているところはあまり見たことが無い。ほとんど久留間君だけでことが済んでしまっているせいかもしれない。
「ええまぁ、杭だけでもないですがあとのは見せる必要も無いです。そんなことよりさっさとタープを組み立てます」
「それもそうだな」
我々は組立作業を再開した。
ラニ君に手伝ってもらってから作業は順調に進み、タープは十分としない内に組み立て終わった。
「ありがとうラニ君。助かった」
「だから元々が私の仕事なのでいえいえどういたしましてと言うのも本来なら間違いです。若干修正します。間違いですがここは日本の礼儀作法に則っていえいえどういたしましてと言います」
そう言ってラニ君が顔の横で手を小さく振る。袖口の大きい衣服がパタパタと揺れ、またジャラジャラと音がした。
どうやら手を小さく振ることも含めて「いえいえどういたしまして」という日本の作法だと思っているらしい。まぁ、たしかに頭を下げることをはじめ日本は言葉と動作を連動させていることは多いし、他の国でもそういうことはあるが。
「それでは私は走子様から申し渡されたもう一つの仕事の続きをします」
もう一つの仕事……角兎を捕らえる罠の設置だったはずだ。どうやらそちらを中断して手伝いに(彼女に言わせれば本来なら自分の仕事をしに)来てくれたらしい。
「お礼に私も罠の」
「結構です。いらないです。不必要です。邪魔です」
…………すごい勢いで拒否された。
「広範囲に設置しますし特殊な仕掛けの罠も多々あります。学者の手には負えないと思います。ここでゆっくり狩りの帰りを待っていればいいです」
ラニ君は私に背を向け、すたすたと木々の並ぶ森へと歩いていく。
と、ふと何か思い出したように立ち止まり、背を向けたまま呟いた。
「でも『結果的にタープの完成を遅らせて私の邪魔をして自分では一匹も獲物を狩れない相伴にあずかるだけの男』って駄目すぎです。確定です」
「……………………」
杭を地面に突き立てたように深々と私の心に言葉を突き刺したラニ君はそのまま駆け出し、すぐに姿が見えなくなった。
私は三分ほどその場に立ち尽くした後でうさぎを狩りにいくことを決意した。
・・・・・・
拠点を出てうさぎ狩りを始めてから二時間ほど経過したころ、私は深々と溜息をついた。
うさぎ狩りを始めた私はあえて昨日の雨でぬかるんだ山道に踏み入って地面に目を凝らしながら歩いていた。
拠点のものとは違い水分を多く含んだ地面の感触、泥による汚れは少々不快ではあるが今更慣れたことであり、むしろぬかるみに関してはプラスの方が大きい。
なぜならぬかるんだ地面にはそこを通った動物の足跡が残っている。そこから兎と同一の角兎の足跡を探す。
加えて角兎がこの山に逃げ込んだのはつい昨日のことであるのを考慮、角兎が他の動物の匂いが染みついた獣道を避けると推定し、新しく木や草を分け入った形跡がある道を辿れば理屈の上では角兎を見つけられるはずだ。
角兎を見つけ、私一人で相対したとしてもいつもと違い私がやられる危険性はない。角兎は角がある以外は兎と変わらない、角もほとんど飾りのようなものなのでそれこそ強さだって兎と同じ程度だ。いくら私でも兎には負けない。
……が。
「見つけること、負けないことと……そして捕まえることは別の話だな……」
先刻から二度ほど角兎を発見し追いかけたのだが、見事に二度とも逃げられてしまった。
兎と同じ、ということは兎と同じ程度には速く走れるということ。さらに障害物と凹凸に溢れた山中であることを加味すれば異能力者でも猟師でもない人間では手に負えない相手になる。
角兎に危険はない。しかしだからと言って捕まえられるとも限らないのである。
「ホイホイと捕まえられるなら逃がした連中が逃がした時点でさっさと捕まえているか」
そうして無駄な労力を使っているうちに、空では日が傾いていた。既に夕刻、あと一時間もすれば夜になるだろう。
「引き際だな」
さて、帰り道はどっちだったか。二度角兎を追いかけて駆けたせいか現在地がよくわからない。
一先ず地図を広げ、コンパスと標高計をコートの内ポケットから取り出して方角と数値をチェック。時間と太陽の位置、方角、標高を照らし合わせて大まかな位置を算出する。
「拠点はここから南に三十分といったところか」
幸いなことにここは普通の山であり、コンパスの働きを狂わせる魔境の類ではないらしくある程度正確に現在地を知ることが出来た。
私は地図を畳み、適当な木の枝を折る。その枝で密集した枝葉を払いつつ、山中に並ぶ木々に方向感覚を狂わされないよう小まめにコンパスを確かめ、拠点に向けて歩を進めた。
・・・
(疑問に思います)
(山中いたるところに罠を仕掛けて回りましたが、その内のいくつかが兎の捕獲する前に潰れています。……間違いです)
(捕獲した後に、捕獲した兎ごと罠を潰されています。兎は食べられています)
(他のグループの仕業です。……否定します)
(兎を罠ごと生のまま食べる人間はいないです。多分です)
(これは野生動物の仕業です。可能性は高いです)
(野生動物の移動痕跡を発見します。確定です)
(推定全長九メートル、推定体重百五十キロ弱)
(下手なラルヴァより危険です。兎以上は確定です)
(もしも……私の挑発に乗って学者が一人で兎狩りをしていたらと仮定します)
(……学者死ねます。余裕です)
・・・
帰り道を歩いていて不意に地面に足をとられた。ぬかるみに足を滑らせたのかと思ったがどうもそうではないらしい。
足元を見ると太い、トラックのタイヤほどの轍に足を取られていた。
「……轍?」
それはいかにも不自然だ。なぜならここは樹木の密集した山中の森、トラックが入り込めるわけがない。
しかもよく見ればその轍は一本しかない。
ひょっとすると、トラックほどの大きさのタイヤを付けた大型二輪車かもしれない、そう思って轍の行き先に目を向けると……なぜか樹木の一本に辿りついたところで轍が消えていた。まるで、轍の主が木登りでもしたかのように
「……ッ!?」
そこまで考えて、背筋につららを差し込まれたような悪寒を感じた。
これまでに幾度となくラルヴァの出現する地域に踏み込んで感じたのと同じ、生物として避けられない感覚。
その悪寒に従って後方に飛び退いた直後――木の上から何かが落下してきた。
それは重い着地音を鈍く鳴らし、細密な網目の模様を泥で汚し、長すぎる体躯を這いずらせている。
……それが何なのかということは回りくどく考えずとも一瞬で理解できたが、それと一人で対面しているという事実をあまり考えたくなかった。
それは蛇だった。大蛇だった。
より正確に言うならアミメニシキヘビ。全長はおよそ九メートル。熱帯雨林などに生息する蛇の中でもオオアナコンダを除けば最大級の種。熱帯雨林などに生息。
熱帯雨林などに生息。
「……なぜ、日本の山の中にいる」
・・・
「ソウコ、変な顔のおサルがいる」
「え、どこどこ? あ、ホントだ。アイアイだねー」
「あいあい?」
「南の島にいる海外のお猿さんだよー」
「……ここ南の島じゃないよ?」
「きっと輸入されて人に飼われてたんだね。でも、飼えなくなってこの山に捨てられちゃったのかもしれない。この山はそういうのが多いって聞くし」
「……かわいそう」
「そうだね。ペットは飼い始めたらちゃんと最後まで責任もって育てないとダメだよ」
「蛇やワニを捨てて大変なことになったなんてニュースも聞くし」
・・・
どうしてこんなところに大蛇がいるのかという疑問は捨て置くことにした。
どういうわけか大蛇は異常に興奮しており、近くにいた私を完全に敵と認識しているらしい。
大蛇はその長大な体躯をくねらせながらこちらに這いずり寄ってくる。
幸いなことに私の体は蛇に睨まれたカエルとはならず、命の危険を感じてそれこそ脱兎のごとく逃げ出せたが、大蛇との距離はまるで開いてはくれない。
足も無いというのに大蛇の移動速度は中々に速い。そして現状、私だけに重くのしかかる問題があった。
「足場が、悪すぎる……!」
昨日の大雨でぬかるんだ地面は人が走ることにあまりにも適さない。ともすれば足をとられて転びそうになる。だが、大蛇はこの足場を苦にする様子もなく、全く速度を落とさずにこちらに迫ってくる。このハンディは大きい。
近づかれれば私に打つ手は無い。大蛇は私を簡単に絞め殺せるが、私は大蛇に敵わない。
大蛇の締め付けには骨はおろか鉄骨ですら捻じ曲げる力がある、凶器と言っても過言ではない。対して私の手には武器になりそうな道具が何もない。コンパスや地図、ライターではどうしようもなく、仮にナイフか何かを持っていたとしてもそんなものでは大蛇相手にはどうしようもない。あれを狩ろうとするなら最低でも拳銃が必要だが生憎持ち合わせていない。
相対して初めてわかったが、私にとってこの大蛇は下手なビーストラルヴァよりもよほど大きな脅威だ。むしろ、ある種のラルヴァに付き物の「これさえ突けば一般人でも勝てる」という明確で簡単な弱点がないため私にしてみれば余計に、
「性質《たち》が悪い、ッ……!」
言い捨てるが、ただその一言を呟いただけで気管に負担がかかりはじめてきた。長時間の登山とぬかるみでの全力疾走で体力を激しく消耗している。どうやら全力疾走を続けるにもそろそろ限界らしい。
が、あちらは依然減速しない、スタミナの残量が違いすぎる。こちらがこれだけ疲労を感じているのだからあちらも当然感じて然るべきなのだが、人間と動物の差か、あるいは他にも要因があるのかあちらには衰える気配がまったくない。
残りのスタミナを鑑みてこのままのペースで走れる時間はそう長くないが、それでも逃げられるだけは逃げるしかない。この時間、拠点への帰途についている学生も多いはず。拠点に近づけばそれだけ彼らと合流する可能性は高くなる。私ならともかく双葉学園の学生なら大蛇くらいは何とかできるはずだ。
――そう思っていた矢先に私の右足は地面から現れた何者かに捉えられた
「ッ、なッ!?」
不意の衝撃に転倒し、激痛を伝える右足に目をやれば、私の足は鉄の牙に噛みつかれていた。
一瞬、潜んでいたビーストラルヴァにでも襲われたかとおもったがそれは違った。それは動物の牙ではなく人工の鉄の牙であり、トラバサミという名の罠だった。
「角兎用の罠、か!?」
逃げるための思考に集中しすぎて足元の罠に気づかなかった自身の迂闊さを省みる余裕はなかった。
なぜなら、付かず離れずの距離にあったはずの大蛇の巨体が私の目の前にある。
私が転倒した隙に至近距離まで近づいた大蛇は鎌首をもたげ
長い凶器が身体を締め上げた
・・・
「ただいまー」
「ただいま」
「あ、隊長に八雲ちゃんお帰りなさー……すっごい大量ですね!?」
「うん、ちょっと張り切りすぎちゃった」
「がんばった」
「すっごーい!」
「私達があまり獲れなかったので心配していましたが、これだけあれば全員分大丈夫そうですね」
「夕飯が楽しみねー。……あれ? 藤乃ー、灰児さんは?」
「私達が戻ったときにはいませんでした。どうやらタープの組み立てが終わった後に一人で狩りにいったようですね」
「……大丈夫かな?」
「大丈夫でしょう。この山には角兎以外のラルヴァはいそうにありませんでしたから」
「そっか、なら大丈夫だね」
「ええ。ところでラニもまだ戻ってないのですが」
・・・
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
今まさに大蛇は私の身体を締め上げようとしていた。
だが、それが実行に移されることはなく、逆に
何処からか伸びた長い鎖が大蛇の身体を締め上げていた。
「……大失敗です」
聞き覚えのある、ほんの数時間前に聞いたばかりの声。
大蛇を締めつける長い鎖を辿った先に彼女――ラニ君はいた。
鎖は彼女の衣服の左右の袖から飛び出していた。
袖口の大きい衣服とはいえどうやってあれだけの鎖を隠していたのかは謎だが、事実として彼女の袖からは鎖の束が飛び出し、それが私の命を救っていた。
「やっちまいましたです。放っておけば勝手に蛇に襲われて勝手に私の罠にかかった勝手に走子様に手を出す勝手な学者が勝手に死んでいたはずです。そんな学者をついつい助けてしまった私の優しさと愚かさに涙が出てきます。プチ後悔です。私に命を助けられた学者には感謝と反省を要求します」
独り言なのか私に話しかけているのか不明瞭な言葉(私の罠とか言わなかったか?)を口走りながらもその手元は鎖を手繰り、蛇をさらに締め上げる。
だが、蛇もただ締め上げられるだけではない。その長い蛇腹を存分に捩じらせ、鎖を振りほどこうとする。
「おっとっと、です」
ウェイトが違いすぎるためか、蛇が身体を捩じらせる都度ラニ君の身体が浮かびかける。ラニ君には久留間君ほどの腕力はないらしく蛇との引き合いは一進一退、どちらが競り負けてもおかしくない状態。言わばこれは大蛇と身体強化系異能力者の力比べの綱引きだった。
が。
「埒が明かないです」
そう言うと、ラニ君は鎖を手繰る手のうち右手を袖の中へと潜らせた。
恐らくは杭や鎖同様に袖の中に隠された、彼女の異能の身体能力を持って振るわれる武器を取り出すためだ。
「いきます」
直後に右手の鎖は手放され、代わりとばかりに右手の袖から出てきたのは…………これ、いいのか?
「バキューンです」
彼女の袖から出てきたのは拳銃だった。
コルト社製44マグナム『コルト・アナコンダ』8インチモデルは彼女の口にしたような可愛らしい擬音とは程遠い爆音を響かせ、射出された弾丸は大蛇の頭部を穿ち貫き砕きバラ撒いた。
私を追いかけていた恐るべき大蛇は異能力者の異能とも力比べとも関係なく、文明の利器で息絶えた。
……それはまぁ、私も追われているときは拳銃があればと思いはした。思いはしたが、異能力者が異能と関係なく拳銃使うというのは……、
「いい……のか?」
「異能を使うのが異能力者の特権なら武器を使うのは人間の特権です。という訳で人間かつ異能力者の私は何の遠慮もなくダブルで特権を使っただけです。銃刀法違反とか裏でクリアしちゃえばノープロブレムです」
「……なるほど」
異能を使うのが異能力者の特権なら武器を使うのは人間の特権。確かにそれは正論ではあった。……何か腑に落ちないが。
ラニ君に協力してもらい私の右足を挟んでいたトラバサミは無事外すことができた。ハイキングのため厚手のズボンをはいていたのが功を奏したのか、外してしまえば傷もそれほどではなかった。自分の足で歩くこともできそうだ。
「さて、問題があります。プロブレムです。実はこれちょっとマジでヤバイです。つうかあれもこれも全てそこの蛇と学者のせいです。責任とってほしいです」
大蛇と相対していたときよりも明らかに困った様子でラニ君はやはりよくわからない言葉を発した。
「何か問題があるのか?」
「私の仕掛けた罠にかかっていた角兎はそこの蛇に食べられて全滅です……」
なるほど、道理で妙に興奮していてスタミナ切れもしない大蛇だと思ったが生の角兎を何匹も捕食していたからか。
「それに私自身の狩猟時間ものろま学者のせいで遅れに遅れたタープ組み立てと、蛇に追われた迂闊学者のレスキューのせいで激減です。だから結局私は一匹も角兎をとれてないです……」
「ああ、問題というのはそれか。しかし、久留間君なら全員分をとっているだろうから君の分も……」
「バカ!です! 一匹もとれないなんて醜態をさらして走子様から分けていただくだけなんてハイパー屈辱的な展開は御免です! プチ腹切ります! フジサンです!」
……ラニ君は日本語が堪能なようでいてやはりどこか変だった。
「という訳で責任とって何とかしてほしいです!」
「何とかしてほしいと言われても……」
私だって二度も角兎を逃がして結局一匹も捕まえていない。今からでは捕まえなおす余裕もないだろう。角兎が残っているかも怪しい。
となると……。
「代わりの食べ物をもっていくしかないか」
「そんな代わりの食べ物なんてどこに…………アレです?」
「アレです」
横たわる長い長い爬虫類を指差す。
より正確に言うならアミメニシキヘビ。全長はおよそ九メートル。熱帯雨林などに生息する蛇の中でもオオアナコンダを除けば最大級の種。熱帯雨林などに生息。
そして、
「アミメニシキヘビは鳥肉と似た味で意外と美味いらしい」
・・・・・・
夜になり、拠点では火を焚いての夕食の支度が整っていた。
メインディッシュはもちろん各グループが集めた角兎だ。ちなみに角兎は他の食材も手に入ったので各グループで平等にわけることになった。
そして他の食材こと、私とラニ君で持ち帰ったアミメニシキヘビも捌かれ即席のタレをつけて炙り焼きになっている。
「ハイジ、これうなぎのかばやき? 土曜の牛の日?」
「うなぎではないが蒲焼ではあるな……。しかし、蛇を陸鰻、山鰻と呼ぶ地域もあるらしいので間違いではないのかもしれん」
「ふぅん」
このアミメニシキヘビは一匹で他の角兎と同じかそれ以上の量があり、他にも他グループが狩った野鳥やら野兎やら猪もあり食材の量は予定の倍以上になった。
……なんとも野性味あふれる食卓である。
ちなみに、アミメニシキヘビは私と八雲と久留間戦隊の面々以外は誰も食べないかと思っていたが、あの白い毛玉のようなラルヴァを連れた背の高い女生徒や、他の学生も加わったことで案外あっさりと無くなった。
……身体強化系の面々の並外れた食事量と、それを上回るあの女生徒の食事量によるところが大きかったのは特筆すべき事項だろう。
「ふぅ……」
メインディッシュの角兎は資料でも言われているように大変美味で、何より食べたことで今日一日の疲れが消えていく感触がした。今は心地よい満腹感だけが残っている。
全員の食事も終わり、周りは後片付けに入っている。私も手伝おうとしたのだが久留間君に「学者さんは足の怪我があるから」と断られた。
そうして一人だけ手持ち無沙汰になった私は適当な丸太に腰掛けている。
後片付けの作業では紙製の食器や燃えるゴミを炎の異能を持った学生が燃やし、それ以外の持ち帰るべき器具や燃えないゴミも手分けして片付けている。
食べられた動物の骨は角兎のものを除き、穴を掘って埋めることになったらしい。
「…………」
生物は他の生物を食し、血肉にして繁栄していく。
あの大蛇のように己の身と牙で獲物を狩る動物もいれば、今回の我々のように罠や拳銃で狩猟をする人間もいる。そうして狩った者が狩られた者を食べて生きていくのが弱肉強食というものだろう。
「もっとも……」
私はちらりと骨だけになった角兎に目を向ける。角兎の骨は一般人に見つかるとまずいので学園へと持ち帰る予定だが……。
ひ、ふ、み……と角の数を数えてみると蛇に食べられていたものを含めても四十一羽だ。
たしか、逃げ出したのは四十三羽だった。つまりあと二羽がどこかにいるのだろう。その二羽はもう他の動物に食べられているかもしれないし、何かの事情で死んでしまっているかもしれない。
けれどもしも、その二羽が生き残りつがいになったなら……何十年か後にはこの峠で角兎が繁栄しているかもしれない。
強者に食べられても、不慮の出来事に死しても種は残り、弱者とて連綿と命を繋げていく。
そんなことが繰り返されて、この世界には多くの生物が生きている。
怪物記 第九話
了
登場ラルヴァ
【名称】 :角兎
【カテゴリー】:ビースト
【ランク】 :下級C-1
【初出作品】 :怪物記 第九話
【他登場作品】:
【備考】
微量の魂源力と角があること、その血肉に強力な強壮効果がある以外は普通の兎と変わらないラルヴァ。草食。
古来より異能力者と一部のラルヴァが好んで食している高級食材。
魂源力をもつラルヴァだからか、あるいは美味ゆえの何者かの隠蔽かは不明だが昔から一般世間には食材として出回っていない。
しかし稀に一般世間でも見つかることがあったらしく、書物にもわずかに文献が残っている。
百年ほど前に乱獲で天然の角兎は全滅しかかったため人間と一部のラルヴァそれぞれが養殖を始めた。
生のままで一羽食べれば三日三晩走り続けられるという噂があるが事実である。
最終更新:2010年07月03日 23:14