ぼくは猫が嫌いだ。
猫はゴキブリやカラスと同じで、人間を食い物にしている数少ない生き物だ。
それらとは違うのは、媚び、甘えること。奴らは己の容姿が人間に好かれていると自覚しているに違いない。それがぼくには人間を手玉に取っているように見える。
特にこの島にはなぜか猫が多く、猫を見ない日が無い。
「きゃー可愛い猫ちゃーん!」
だから通学途中、ガールフレンドのみっちゃんがそんなことを言い出した時、ぼくは心底うんざりした。
みっちゃんは道の隅に置いてあった段ボール箱に駆け寄る。そしてそこから何かを引っ張りだしていた。
猫だ。しかも、不吉な印象を受ける黒猫。
「見てみて、この子凄く可愛い。全然怖がらないしー!」
「ふうん。よかったね」
猫に頬ずりをするみっちゃんから顔を背け、ぼくは一人で歩きだす。
「ちょっとーまってよー。目比《めくらべ》くんってば猫苦手なの? ほら、こんなに可愛のに」
「あのねみっちゃん。ぼくは猫が苦手じゃなくて嫌いなの。なんだよこいつ、全然可愛くないね」
「もう、酷い人ね」
そう言ってみっちゃんはぼくにあっかんべーをして、黒猫を抱いたまま学園のほうへ走っていってしまった。
勘弁してくれよ本当に。
「わー可愛いー」
「ねえ、触っていい?」
「やだこっち見たよね今、かーわーいー!」
「モフモフしていい? していい?」
教室の扉を開くと、そこは地獄だった。
クラスのほとんど(主に女子)が、みっちゃんが連れてきた黒猫に群がっている。ぼくの席はみっちゃんの隣なんだよ。どけよみんな。
そんなことも言えない小心者のぼくは、みんなが猫の虜になっているのを遠巻きに見るだけだ。
みっちゃんの机の上で、黒猫はゴロリゴロリと転がっている。見たところ仔猫ではない。それなのに逃げないということは、よっぽど人間になれているのだろう。飼い猫か? いや、あの段ボール箱の中に入っていたってことは捨て猫? いや、もしかしたら誰かに拾ってもらい、ペットにしてもらうために自分からあの段ボールの中にはいったかもしれない。いやいやいや、そんなことありえないだろう。だが、無いとは言い切れない。この双葉区では何が起きても不思議じゃない。
そう斜に構えてみんなを見下していると、教室の扉が開けられ、担任の教師がやってきた。
「おーいお前らー席つけー」
強面の担任は規則に厳しい。彼ならすぐにここから猫を追い出してくれるだろう。
「せんせー。みっちゃんが猫を校内に持ち込んでまーす。叱ってあげてくださーい」
「ちょ、ちょっと目比くん!」
これで担任は怒り狂い、すぐに猫を追い出してくれるだろう。そうぼくが確信していると、
「おお、なんて可愛い猫なんだ! 俺にも抱かせてくれ!」
そんなことを言いながらみっちゃんの机の上にいる猫のほうへ寄ってきた。そして猫を抱き上げて、今までも見たことも無い笑顔で猫を撫で始めている。
まてまてありえないだろう!
愕然とするぼくをよそに、生徒たちもわいわい騒ぎ始めた。
「先生! この猫をクラスで飼ったらどうでしょうか」
クラス委員のメガネがそんなことを言い出した。ふざけるな。
「うむ。命の大切さを学ぶのにいいかもしれないな。このクラスの中で猫が怖いやつや、猫アレルギーのやつはいるかー?」
「いませーん」
「それで猫を飼うのに賛成のものは?」
「賛成でーす」
と全員で大合唱。
ぼくは呆れて言葉が出なかった。
その日の昼に、生物研究部から借りてきた猫用のケージを、教室の後ろに置いた。
ついでに猫を飼うために必要なものもすべてそろえたらしい。この猫は利口で、躾をしなくてもトイレをきちんと砂でする。
それから毎日その黒猫はみなに可愛がられ、育てられていった。猫が大好きなみんなは、授業に集中せず、猫ばかり気にしている。担当教科の教師たちはそれを叱ろうとするが、猫の可愛さに何も言わなくなってしまった。
ここまで来ると異常だ。
この何の変哲もない黒猫の、どこにそんな魅力があるというのだろう。そのへんにたくさんいる野良猫と何も変わらない。
それなのにこのクラスはその黒猫に支配されていくようだった。
ぼくはちょっとした危惧を抱く。
ひょっとしてこの猫、化猫なんじゃないか……
猫の世話係はクラス全員で交代してやることが決まった。
嫌だ嫌だと思っていても、やがてはぼくにその当番が回ってきた。
仮病で休もうと思ったのに、家にまでみっちゃんは押し掛け、無理矢理学校までぼくを引っ張った。
「さあ目比くん。クロのお世話をよろしくね」
みっちゃんはそう言ってぼくをケージの前に立たせる。
黒猫は緑の瞳でぼくを見つめた。
その鋭い目は嫌悪感しか湧かず、不気味な黒い毛並みが朝の日差しを受けて光るのも気持ち悪かった。
「にゃおー」
猫はそう鳴き、ケージの間から手を伸ばして、媚びたように首をひねる。
きっとこれをみんなは可愛いと思うのだろう。だけどぼくは違う。
こうなったら徹底して心を殺し、猫の世話をしよう。今日一日の我慢だ。
まず朝はトイレの砂を変えてうんちを捨て、その後黒猫のクロ(嫌になるくらい安直な名前だ)に餌をあげた。
昼になればまた猫の世話だ。自分の昼飯もまだなのに、なんで猫に餌をあげなきゃいけないんだろう。すぐ餌を出して購買に行こうと思ったのに、黒猫はぼくの制服に爪をひっかけ、離れようとはせず、甘えてくる。
うざい。無理矢理引きはがして、ケージに閉じ込めようとすると、
「ちょっと目比くん。当番の人はクロちゃんとお昼は遊ばなきゃいけないんだよ!」
みっちゃんがぼくをそう叱った。
まじかよ。せめて休憩時間くらいゆっくりさせてくれ。げんなりするぼくに人権なんてないって言う風に、みっちゃんはケージから黒猫を取り出してぼくに押し付けた。黒猫は「みゃー」と鳴く。小憎たらしい。
そうして放課後。
ようやく黒猫から解放される時が来た。
さっさと帰ってしまおうと鞄を手にとって席を立つと、隣のみっちゃんがまたもやぼくの腕を掴んで引き留める。
「なんだよ、もう学校は終わりだろ。帰らせてくれよ」
「駄目だよ。ちゃんと下校までクロちゃんと遊んであげなきゃ。それに晩ごはんの時間まで帰っちゃ駄目」
ぼくはふうっと溜息をついた。みんなこんな面倒なこと毎日してるのか。
これだったらみっちゃんが家に持ち帰って正式に飼えばいいだろうに。ああ、みっちゃんは寮住まいか。そう思いながらも、睨んでくるみっちゃんには逆らえず、ぼくは放課後まで残ることになった。
猫じゃらしで猫と遊んでいるうちに、日が沈み始め、校内に残る生徒に帰宅を促す放送が流れた。校内の電気も消えていき、不気味な茜色と、紫色の闇が混濁したような雰囲気が、校舎を包んでいく。
「さて、もうぼくも帰っていいよな」
いや、帰る前に食事だけは与えておく必要があるだろう。
ぼくはキャットフードを取り出した。だけどふと、この校舎の暗闇がぼくの心にも影を落とす。
鞄の中には夜食用に買ってきた板チョコがある。
ぼくはそれを砕き、キャットフードの中に大量に混ぜる。
それに美味しそうにかぶりつく黒猫を確認し、ぼくは教室を飛び出した。
やった。やってやった。
チョコレートは猫に毒だ。心臓に負担をかけるらしい。即効性があるかはわからないが、次に俺の当番が回ってくるまでにはきっと死ぬだろう。
ぼくはスキップまじりで家に帰り、その日は気持ちよく布団にもぐった。
悪夢を見た。
巨大な黒猫が迫ってくる夢だ。
黒猫は鋭い牙と爪を剥き、悪魔のように細い目でぼくに襲いかかってきた。
そしてぼくは猫に食べられ、咀嚼され、殺され――
その直後、ぼくははっと目を覚ます。
ふう、やっぱり夢だよなあれは。妙にリアルだから少し焦ってしまった。
目をパチクリさせて、視界を広げていくと、目の前に奇妙なものが見えた。
それは白い柵。いや、四方八方を囲う、プラスチック製の巨大な檻であった。なんだこれは。そう思い立ち上がろうとしたが、上手くいかず転んでしまう。だけど痛くは無い。下はベッドだから……いや、これはベッドじゃない。ただのタオルだ。ぼくはタオルを下に引いて寝ていたのか?
おかしい、何かがおかしい。
檻の外へ目を向けると、そこは見たことも無い光景が広がっている。
いや違う。見たことがある、光景だ。そこからは自分のクラスの教室が見渡せる。
だけど、そのすべてが巨大化していた。
なんなんだこれは。
異常事態を打破すべく、ぼくは誰か人を呼ぼうと試みる。
「にゃーーーーー!」
……ん。なんだ今の妙な声は。どこで猫が鳴いてるんだ。
「にゃー! にゃー!」
…………これ、ぼくの声? ぼくの声なのか?
意味がわからない。なんで人間の言葉が喋れないのだろうか、なんでこんな媚びたような声しか出ないんだ。
混乱したぼくは、頭を抱えようと手を出したが、目に映ったそれは人間の手じゃない。
出し入れ可能な爪に、ぷにぷにとした肉球。そして黒い毛。
猫だ。猫の手だこれ。いや、前足か。よく体全体を見回すと、体獣に黒い毛が生えている。おしりにはしっぽもある。
しばらく一時間ほど考え込んでから、ぼくは結論を導き出した。
ここはぼくのクラスで、この檻は猫用のケージだ。そして、ぼくは、あの黒猫のクロだ。
何を言っているのか自分でもわからない。
理屈はわからないが、ぼくはあの黒猫になってしまっているということだ。なんということだろう。鬼畜に堕ちることになるなんて、予想もしなかった。
がっくりと項垂れていると、ガラリと教室の扉が開かれた。
「クロちゃーん! 会いたかったよ!」
みっちゃんが元気よく教室に一番乗りで入ってきて、ケージを開け、ぼくを抱きしめる。みっちゃんの大きな胸に抱かれても、猫の姿じゃ全然気持ち良くも無い。むしろちょっと苦しい。
「にゃあ、にゃあ」
ぼくはみっちゃんに自分のことを伝えようとするが、「どうしたの? お腹すいた?」と言ってまったく伝わらない。当り前か、今のぼくは猫の鳴き声しか出せないからだ。
その直後またも扉は開かれる。
「あっ、目比くんおはよう!」
そう言ってみっちゃんはその方向を振り返る。
目比だって? 待て、目比はぼくだ。ここにいる。なのになんでそっちを向くんだ。
教室の扉から現れたそいつは、ぼく――ではなかった。
制服を着て、二足歩行をしている人型の黒猫だった。
そんな化猫を、みっちゃんは「目比くん!」と呼び、そいつの腕に抱きついた。
「えへへ目比くん。昨日はいきなり夜中に私を呼びだしたりして……意外と大胆なんだね。私初めてだったけど、嬉しかったよ」
みっちゃんは頬を赤く染めながら、化猫を上目遣いで見た。
待て、初めてってなんだよ! なんだその恥ずかしそうな顔は! 一体何があったんだ!
「また、キスしてよ目比くん」
そう言ってみっちゃんは目を瞑り、つんと唇を突き出す。そして、それに化猫も唇(?)を近付けて行く。
やめろ!
「ニャニャニャー!」
……見たくないものを見てしまった。
その後化猫は、ぼくのほうへ近づき、ケージの前に顔を寄せ、不気味にニヤリと笑らい、ぼくの額にデコピンをした。そして、大声で笑いながらみっちゃんを抱きしめた。
まるで地獄だ。
どうやらこの化猫が、みんなにはぼくに見えるようであった。
クラスメイトがみんな集まってもそれをぼく扱いする。
それは奇妙な光景だ。
そしてクラスメイトたちにぼくは世話をされるようになる。本能的なものが働くのか、猫じゃらしを出されると意思に関係なく飛びついてしまうし、最初は恥ずかしかった皆の前での排泄もやがて気にならなくなった。
そうして一ヶ月が過ぎようとしていた。
自分が猫で、猫がぼくという状況に慣れてしまった。
人間に戻る手は無いとあきらめ始めると、案外猫の暮らしも悪くない。
みなには愛され、ちやほやされ。勉強も将来の心配もいらない。このアングルならパンツは見放題だし。好きなだけ食べて、好きなだけ遊んで、好きなだけ寝る。気が楽だ。
気持ちまで猫になってきたのか、みっちゃんのこともどうでもよくなってきた。
むしろ醒徒会長が買ってる白いトラ柄の猫が可愛く見えてきた。
猫の暮らしはいい。
猫最高。
でもどうしてだろうか、最近心臓がたまに痛む。それだけが悩みの種だった。
オワリ
最終更新:2010年07月21日 00:59