【エヴァンジェル・グローリア -Evangel Gloria- 前編】


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  エヴァンジェル・グローリア  -Evangel Gloria-
ラノで読む

     一

 華も散り、梅雨独特の酔っ払いの吐息のような生温かい風があった。小高い山々の頂上から裾野へ漂ってくる嵐気《らんき》も、それに当てられたようにあちこちふらふらと流れていく。
 一本差しの大太刀を携《たずさ》えた少女の前で、一際《ひときわ》濃い夜風が吹き、周囲にまとわりつく靄《もや》を遠くへ押し流した。
 それまで水底に沈んでいた町のように、闇と水煙に漂う校舎が姿を現す。
 ここは学園とも、それ以前に通っていた学校とも似ている。那由多《なゆた》由良《ゆら》は漠然と思った。
 規模や造りはまるで違うのに、どこかに懐かしい空気が感じられる。設立の目的は違っていたとしても、|学舎《まなびや》というのは存外どこも同じ雰囲気を形作るように設計されているのだろう。地理的には山間部にある田舎の小さな小学校なのだけれど、昼間の平日であれば、休み時間の沸くような喧騒が目に浮かぶ気がした。
 事前に開錠されていた渡り廊下の入り口の扉は、立て付けが悪いのかギィと軋ませながら内側に開いた。最初は慎重に進むつもりだったが、夜の校舎では甲高い扉の音が暗闇の奥まで響きわたってしまい、由良は忍ぶのを諦めた。
 角が欠けた廊下のタイルや、セロハンの跡が残ったままの白璧が。由良はそれらにゆっくり目を移しながら、野球投手がマウンドの状態を確かめるように足場を払い、最後に非常灯の緑がぼんやりと浮かぶだけの正面の暗がりを見据えた。

 ペタペタペタと素足で廊下を走るような音が向こうから聞こえてくる。それが非常灯の前を通過したとき、黒くまばらな影が一瞬壁に映った。
 白い大玉で、全周に吸盤の生えた巨大なツボ押しボールのように見えた。吸盤と思ったのは、大玉は地面から少し浮いており、縦横に棒のようなものが大振りに回転していたからだ。加えて、ペタペタペタという廊下のタイルに吸着しては剥がれていく一定のリズムもあった。
 しかし輪郭がはっきりしてくると、吸盤のように思われていた棒は無数の人の手足だった。
 赤ん坊のように小さく膨れたものや、干乾びたミイラのようなもの。手という手、足という足が、狂った芸術家の剣山アートみたいに、中心の白い球体からみっしりと生えている。
 左手に提げた大太刀『国綱《くにつな》』を鞘から抜きはらいながら、由良は言った。
「さしずめ転がり目玉というより、転がり手足ですわね」
 どこに耳があるのか知らないが、ふんと鼻で小馬鹿にしたような由良の物言いが気に入らなかったらしい。廊下を走り、地を掻くように跳ねる手足がベタベタベタベタッといっそう忙《せわ》しなく迫ってくる。
 すると転がり目玉の白い体の真横――地面と並行していて、比較的安定を保っている部分――に突き出ている手首が、肩のあたりまで伸びて現れた。その手には家庭科で使うような、刃周りの四角い菜切り包丁が握られている。それが国綱と同じように青白い夜光を浴びて、モーターの弱いドリルのようにぐりぐり回っていた。
 肩ごしに由良はちらっと背後の扉のほうへ眼を向けて、それを隙と判断した転がり手足が一気に接近した。
 刃と刃がぶつかり合う音がしたかと思うと、跳ね上げられた菜切り包丁がストンと天井へ垂直に刺さる。
「――?」
 由良は細い眉をハの字にひそめた。今、包丁を振るった手を別の手が押さえつけたように見えた。
 体《たい》が入れ替わり、由良は長い廊下を背に、転がり手足は逆に扉に追い詰められた形になる。違和感は一瞬のことで、向き直った由良は無表情の三歩手前くらいの冷静な顔つきに戻り、太刀を持つ右手を下ろした。
「あら、逃げませんの?」
 じりじりと振り返り、手足を由良へ差し伸ばす転がり手足に挑発するように言った。
 白い毛玉の奥から「ヴオオオオ」と船の汽笛に似たうなり声が吐き出される。
 それを応えと受け取った由良は口の端をわずかに吊り上げた。
「私《わたくし》も、そのほうが手間が省けて助かりますわ」
 左足を前に、太刀を下段に構え腰のあたりでそばめた。
 山間《やまあい》の校舎の窓からは、ぼんやりと青白んだ薄明かりだけが斜《はす》に廊下を照らしだしていた。
 闇が膨れる。それが由良の鼻先に触れようとした時、転がり手足が飛びかかった。
 青黒い爪を立て、首を締め上げようと殺到する幾つもの手が、由良の眼前の空間で静止した。
 国綱を掴む由良の両手は、地面と反発させた勢いで高速にすくい上げられた後だった。
 由良の|反発させる力《レコンキスタ》の衝撃を受けた足元のタイルはひび割れ、そこへ両断された|転がり手足《ラルヴア》が熟れすぎた果実のようにボトリと落ちた。

     二

 グラウンドのほうが騒がしくなった。三人一組《スリーマンセル》で馬型の集団《ラルヴア》五頭を相手にすると聞いていたが、いななきと時代劇では定番の蹄《ひづめ》の音が校舎にもかすかに届いてきた。由良は腰に巻いていたポーチから手帳型の携帯端末を取り出す。ワンコールが鳴りやむより先に、受話口に相手が出てきた。
『あ、お疲れさまでーす』
 間延びした労《ねぎら》いと菓子をバリバリと食べる音がいちどに聞こえてくる。
「三年Eクラス那由多由良、こちらは状況終了ですわ」
『んがんぐ。はーい承《うけたまわ》りましたー』
 少しの間のあと、オペレーター役の少女が言った。
『ぷは。お一人なのに早いですねー』手元のジュースが空になったらしく、ずるずるとストローで底を吸う音がノイズみたいに煩わしい。
「下級の下級ですからこんなものでしょう。……それと、電話中は耳元で飲み食いしないでほしいのですけど」
『やだなぁ、これくらい可愛いリーネちゃんの愛嬌ってことで見逃してくださいよー』
 リーネと名乗った少女は、電話の向こうでしなを作ってるような猫撫で声で答えた。
「外のほうは手こずっているようですが」
『わ、クールに無視しましたね』落胆した様子もなく、リーネはすぐに答えた。『あっちは下級のなかに上級が一体混じっていたらしくて、中級目安の編成を組んでたのが裏目に出ちゃったみたいですねー』
 ラルヴァの強さを示す三段階の評価のうち、現代兵器で対応が効くという点においては、中級と下級にそれほど差はない。しかし上級ラルヴァは異能力のみでしか対処が難しいため、今回の島外活動に参加した由良を含む中等部の学生たちでは少し荷が重い。
 異能力以外の攻撃を受け付けないというのはシンプルな話、その対処には潜在的な能力と、対ラルヴァ戦を経験してきた場数が物を言うことが必然的に多くなる。まだ体育の延長線上でしか訓練を行っていない中学生にとって、野球の試合に甲子園球児が飛び入りしてくるようなものである。
「手助けは?」
 耳と肩で携帯端末を挟んで、鞘に太刀を落とし込みながら由良は訊いた。
『監督の先生からは支援の必要はないとのことですー』
 リーネは新しい菓子を開けるつもりなのか、びりびりと包装を破る音が届いてくる。
「そうですか」
 学園側の想定する範囲内でのイレギュラーらしい。
『現状の戦力で状況を打破することとチームプレーの確認が目的のようですから、余計な干渉はしたくないそうです。三人寄ればもんじゃ焼きってやつですよー。あ、那由多さんが足手まといってことじゃないですよ。二人一組《ツーマンセル》推奨のラルヴァを一人でやっつけちゃうんですから立派なもんです』
「この程度は造作もありませんわ」単に夜間訓練にまで付き合ってくれる相手がいないとは、口が裂けても言えなかった。それを知らない少女のフォローに気恥しくなった由良は、身体の向きを変えると、
「あら?」
『どうかしましたー?』
 由良はそれを見下ろしながら言った。
「いえ、切り捨てた件《くだん》のラルヴァの消滅した場所に、動物がいますわ」
『へー、ニャン子ですか? それともワン子?』 
「ウサギですわ」
 白い、染みひとつない、純白のウサギ。
『ウサ子ちゃんですか! いいなー、写真に撮って送ってくださいよー』
「構いませんが、たぶん死んでますわよ」
 仰向けにひっくり返ったまま、眼を閉じたウサギは動く気配を見せない。
『げ、それは遠慮しておきます……』
 リーネの声が小さくなり、電話の奥で少し引いているのが分かった。
「おそらくラルヴァが寄生する宿主として、今まで操られていたのでしょう」
 由良はウサギの傍《かたわ》らに屈みこみ、まだ温かさの残る亡骸を一度だけ撫でた。それから独り言のように呟いた。「運が悪かったですわね」
『なにか言いました?』
「なんでもありませんわ」
 現状ではこうして学校を丸ごと隔離して、人的被害を抑制することはできても、自然の動植物にまでは手が回りきらない。絶滅危惧種《レッドリスト》や営利施設でもない限り、当然ながらまず人が優先される。
『ナムナム……。それで、転移のほうはどうしましょーか? すぐにでも準備を始められるので、ご要望とあらばセッティングしておきますけど』
 由良は携帯を顔から離し、グラウンドのある方向へ首をめぐらせて耳をすませた。間に空き教室を挟んであるから様子を窺《うかが》うことはできないが、どうやら馬追い祭りはだんだんと収まりつつあるようだった。
「戻りますわ。どこに向かえばよろしいのかしら」
『はいー。えっと、今いる場所は』
「校舎西の下足場の近くですわ」
『それじゃ、そのまま廊下をまっすぐ行って、来客用の東玄関に向かってくださいー』
「承知しました」
 何気なく窓の外へ目を向けると、細い雨が静かに降り始めていた。

 島外活動をするにあたっての移動は様々ある。物見遊山の公共交通機関の利用や、自衛隊の航空支援までピンキリだ。そしてごく僅かだが異能者の能力による移動方法も存在する。瞬間転移《テレポート》と呼ばれる超能力では代名詞的な異能力である。
『コールが五回鳴るのが聞こえたら、受話機をあげてくださいねー』
 ではでは一度切りますー、とオペレーター役のリーネと一旦の通話を終えた。
 由良は校舎東にある来客用の玄関に来ていた。下足場の傍にあった通用口と違って、両開きの少し大きな扉がある。その隅に観葉植物の鉢と一緒に置いてある緑色の公衆電話の前に立って、コールが鳴らされるの待っている。
 今回テレポーターを務めといるのは、さっきまで由良と電話をしていたリーネだった。
 リーネの異能力は「電話回線を通じて対象を瞬間転移させる」というもので、細かい原理は知らないが、公衆電話のように設置場所が固定されている電話機同士を基点《ポイント》にしなければならないらしい。
 ちなみに今回の行きの移動は、小学校から二キロ離れた消防署の公衆電話であった。いきなり渦中の現場に転移移動するのは危険とはいえ、こうも距離があると即応性の面で課題は多そうだ。ただでさえ携帯電話が普及しきってしまっているこの時代に、真っ向から全力で逆走している不憫な能力であった。
 いつまで経っても、電話は一向に反応しない。電話機の裏側を覗いてみても、コードが切れているような様子はない。
「もし」
 もしかしたら、トラブルでも起こったのかもしれない。同じ学園の異能者とはいえ、オペレーターの彼女は初等部から進級したばかりなのだ。腹を立てるよりも先に懸念が浮かぶ。
「お嬢さん」
 突然、由良の膝裏を異様にくすぐったい何かが触れた。ひうっ、と背筋と心臓とが一度に引っ張られるような変な声が上がってしまい、由良は動転しながらも飛び下がって太刀の柄に手をかけた。
 振り返ると白い耳が立っていた。
 もう少し目線を落とすと、あの白ウサギだった。丸みのある赤い目、髭の伸びた鼻先をひくつかせながら器用に爪先立ちして、由良を見上げている。
「いやはや、ようやくお気づきになってくれましたな」
 鼻と口を同時にむにゃむにゃ動かしながら、白いウサギが少し芝居がかった喋りで語りかけてきた。
「ラルヴァでしたの」
 警戒を保ったまま、由良は素っ気なく言った。
「左様であります。ついこの間までは化け兎などと呼ばれておりましたが」
 ウサギのラルヴァは深々とお辞儀をして言った。
「この度は危ないところを救っていただき、貴女《あなた》様に一言お礼を述べようと思いまして、こうした次第でございます」
 一見して角も見当たらず、言葉を話す以外はただのウサギのようだった。上目遣いに赤い目が由良の顔を覗きこんで、ぶるっと首を振った。
「礼など無用ですわ。人間《こちら》の都合で倒したのですから、恨み事は言われても感謝される覚えはありません」
 見極めるように、じっと白ウサギを見返した。「むしろ私の前に現れて、即座に斬り捨てられる可能性も考えませんでしたの」
「正論な評論ですな。しかしながらワタシも……失礼」
 小走りに由良の横を通った白ウサギは、その後ろに置いてある公衆電話に前足をかけた。電話機の棚の中段にあった円盤を逆さにしたようなステンレス灰皿を手に取ると、自分の耳と耳の間に器用に被せた。どうやら帽子のつもりらしい。
「しかしながらワタシも紳士の端くれ。話の分かる方とそうでない方の見分けはつきますのであります」
 ウサギの紳士は身振り手振りを添えて、舞台役者のように情感たっぷりに言った。
「……ワタシが呪いから解放されて倒れ伏していたとき、貴女様は憐れみの言葉をかけてくださいました。はじめはワタシも立ち去る腹積もりでございましたが、人に優しくされたのは久方ぶりなもので、つい」
 そんなことも口走った気がする……というだけで、由良としてはそれ以上の同情ではなかったのだが。
「意識はありましたのね」
「耳が良いのが自慢でございまして」片耳をなでつつ言う。「ワタシの体を使い|ヤツ《ヽヽ》めが貴女様に凶刃を振るっていたときも、それを傍観する自由だけはありました。なんとか一度はヤツに抗《あらが》ってみましたが……」
 ウサギ紳士の言葉に、由良は心当たりがあった。
「包丁を振り下ろした手を阻んだのはもしかして」
「ざっつらいと、いぐざくとりぃにございます」帽子がわりの灰皿を軽く持ち上げてみせた。「もっとも、貴女様の剣術はワタシの助力を必要としなかったようでしたが」
 どうやら敵意はないらしい。そう判断して、由良はうんざりしたように、前髪を軽くをかき上げた。
「その『貴女様《アナタサマ》』と持ち上げた呼び方はやめてくださる。聞かされるこっちがむずむずしてきますわ」
「では他に何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「那由多でいいですわ」
「ナユタ様ですか。力強く、広大無辺な響きでありますな」
「分かったらもういいでしょう。さっさとどこかへ行きなさい」
 邪険に追い払おうとして、ウサギ紳士が食い下がった。
「そうはいかないのでありますよ。ワタシをあのような醜い毛玉の塊に変えたヤツめに一矢報いなければ、腹の虫が収まらないのでございます。コケにされた屈辱は晴らさなければなりません」
 ぐっと前足を力ませながら語るが、やはりウサギである。どこか抜けていて迫力は微塵も感じられない。
「外のほうもそろそろ片付きますし、気負うだけ無駄というものですわ」
 由良が急かすように会話を打ち切ると、ウサギ紳士が首をかしげ、南天の赤い実のような目をしばたかせた。「外、とは?」
「グラウンドの馬型《ラルヴア》ですわ。あれで今日の退治は終わり」
「ではナユタ様はどうしてこちらに?」
「どうしてって、帰るために」
「では後ろのヤツのことは見逃すのでございますか?」
 なにを、と言いかけて振り向こうとした由良の腕に、植物の蔓《つる》が無言で絡みついていた。

     三

 それは電話台から少しの隣に飾ってあった太い幹の観葉植物――が広げる大きな葉の影に潜んでいた。
「弟切草《オトギリソウ》にございます」ウサギ紳士が言った。
 名前だけなら由良も聞いたことがった。
 兄が弟を切り殺したとき、その返り血を浴びて咲いたという逸話がある花。
 また一本、蔓が由良の指をがんじがらめにしようと巻きつく。
 由良は冷めた表情で、それをぶちぶちと腕に絡んだ蔓ごと引き抜いた。
「ほとんど雑草ですわね、これ」
 目の高さまでつまみ上げてみると、全長としては二十センチくらいの大きさしかなく、小粒の蕾《つぼみ》の群れに混じって黄色い花弁が口のように閉じたり開いたりしている。由良から逃れようと葉や根をじたばたさせている以外は、ウサギ紳士が黙っていれば普通のウサギにしか見えないのと同じように、何の変哲もないただの植物だった。
「弟切草《こやつ》の存在の核は“恨《うら》み”。血と怨恨を糧に成長するのでありますが、この学舎で刃傷《にんじょう》沙汰など起こるハズもなく、やむなく子供たちから『小さな恨み』をかき集めていたようですな」
「小さな恨み?」
「昼食に苦手な物があったとか、転んで擦りむいたとか。それはもう、些細なものであります。とりわけ今は雨の多い時期でありますから」
 玄関扉の半円がガラスになっている部分から外の雨夜を見やって、由良が言った。「外で遊べない恨み、ですか」
 ウサギ紳士が頷いた。
「まるで育たないのも無理ありませんわね」
 弟切草がやたらと暴れるので、少し手荒に揺さぶると、目を回したように大人しくなった。
「こんなところに現れなければ、一生目にするようなヤツですからなぁ。気まぐれに山から下りて来たのでしょうな」
 すると、それまで呑気に喋っていたウサギ紳士が、急にピクリと耳を立てて声を張り上げた。
「いけない!」
 突如、雷雨のような轟音が飛び込んできた。
 廊下の壁を突き破って、大きな影が粉塵《ふんじん》の中から躍り出た。
 闇にも劣らぬ漆黒の体躯《たいく》、濃い茶の栗毛で、地面につきそうなほど長い尾が垂れている。
 それがこのラルヴァを言い表すことのできるすべてだった。達磨落としの途中であるかのように、首から上はすっぱりと失われており、首の断面のあたりにわずかながら前髪のような毛が盛り上がっている。
 首のない、馬の形をしたラルヴァ。
 とっさに由良が屈みこむと、ラルヴァはその横を駆け抜けていったが、それは遅れて気付くと振り返った。
 首のない馬ラルヴァは気が触れたように尾を振り乱し、踏みならす蹄《ひづめ》が足元のタイルを粉々に砕いていく。
「首無し馬でございますよ」
「見れば分かりますわ」廊下の床に身を起こしかけた由良が悪態をついた。「まったく、外の班は何をやってますの……」
 由良が大きく開いた穴から外の様子を窺《うかが》おうとすると、ウサギ紳士が叫んだ。「今は悠長に構えている場合ではないでございますよ!!」
 首無し馬の咆哮が廊下に響《とよ》み、由良たちへ駆け寄ると跳ね馬のごとく立ちあがると、前脚を大きく振り上げた。
「――くッ!」
 由良は自身の異能力の引き寄せる力でウサギ紳士の耳を強引に手繰り寄せ、それを掴んで近くにあった教室の扉に飛びついた。二つの大槌《ハンマー》のような前脚が、由良たちの元居た位置に突き刺さる。
 衝撃でタイルの破片が飛び散り、気づかずに落としてしまっていた弟切草が、その場でもみくちゃにされていた。
「いたっ、耳が痛いのでございますよ!! もっとソフトに!!」
「痛いのと死ぬのどっちがいいんですの!」
 肩からぶつかるようにして取りつくと、今度は足の裏に反発させる力を纏わせ、引き戸の扉を思いきり蹴り倒した。
 由良たちの転がりこんだ先は空き教室だったらしく、黒板は取り外され、掃除用具の入っているロッカーとわずかな机と椅子が隅に寄せられているだけで、窓際はカーテンで仕切られていた。
「耳なし紳士になるくらいならそれでも構いません!」
 至極真剣な兎顔で言い放つ紳士を無視して、由良は開けっぱなしにされていた掃除用のロッカーにウサギ紳士を放り投げた。勢いよくシュートされたロッカーが、その反動で折よくガタンと閉じられる。
「だったら、そこで大人しくしていなさい」
 由良は叱りつけるように言って、刀の柄に手をかけて首無し馬に相対した。由良は首無し馬を斬る気でいる。
 扉の向こうから激しい|馬蹄の音だけが《ヽヽヽヽヽヽヽ》迫ってきた。突風と、目の前に壁を置かれたような圧迫感が続いて押し寄せてきた。
「まさか姿を」
 それに応えるように、ぱっと首無し馬が再び姿を見せたとき、その両脚はすでに頂点に達していた。
 常人であればその場を下がって態勢を整えるとこであったが、由良は躊躇なく首無し馬の腹下に潜りこみ、二本立ちになっている後ろ脚の脛《すね》を、抜く手も見せず斬りつけた。
 斬る、というよりは打撃に近かった。由良の得物である大太刀『国綱』は真剣ではなく模造刀だ。そして自身の異能である『|引力と斥力を交互に操る力《レコンキスタ》』を、太刀を振るう動作と組み合わせて使う。過大な斥力の反発力を利用して、物体を切断に近い破砕をすることが可能だが、今の一撃はただ刀を引き抜く動作に引力を使っただけで、速さはあれど威力はそれほどない。
 だが模造刀とはいえそれなりに鋭利な刃であるため、馬足を浅く斬るくらいのことはできた。斬りつけておいて、由良はそのまま脇へ逃げた。
 一際高いの嘶《いなな》きが、声帯機能のないはずの全身から発せられる。
 怯《ひる》んでいる首無し馬を側面から両断せんと由良が構えると同時に、馬の鳴き声が異様なものへ変質した。
 なんと弟切草が、由良がつけた傷口から首無し馬の体へ入り込もうとしていた。
 血管が浮き出るのとは違う、全身を絡みつくような螺旋を馬の皮膚に描き、急成長を遂げる根が首無し馬を取り込むのに時間はかからなかった。
 漆黒の体に緑の血が通い、馬体の表面を斑点のように黄色い花が咲き群れている。そして首無し馬の所以たる首根から、植物でできた馬の首がむくむくと生えてくる。
(これは……)
 まるで庭師に刈り取られた樹木の馬だ。鱗のように、しかし柔らかい葉を重ねた馬首が静かに動く。由良のほうへ鼻先を向け、それは止まった。そして風も無いこの教室で、顔を形作っている葉が、ざわざわとモザイクが波打つように揺れている。
 |このラルヴァは笑っている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「安い挑発を」由良は忌々《いまいま》しく吐き捨てた。「その頭、私《わたくし》がもう一度|剪定《せんてい》してさしあげますわ」
 こたえの代わりに、植物の馬首が蝿《ハエ》を追い払うように首を振るい、二本の蔓《つる》が由良に突き込んできた。
 思った以上に鋭く、速かった。
 由良は太刀を構えたままぎりぎりで躱《かわ》し、身を捻《ひね》りざま一本を切断した。 
「所詮は雑草ですわね」にやりと笑って、斥力で床を蹴って一気にラルヴァとの間合いを詰める。
 再びラルヴァの馬首から蔓の鞭が放たれた。
 今度は由良ではなく、ウサギ紳士の隠れている掃除用具ロッカーへ、一直線に伸びていく。ひぃと、中で逃げ惑う小さな悲鳴が聞こえた。
「この、往生際の悪い!」
 由良はほとんど条件反射で急停止して、無理な体勢で蔓を叩き落とした。それを待ち構えたように、別の蔓が由良の首と太刀を持つ右腕を捕えた。
「ぐ――ぁ」
 敵もそれほど馬鹿ではなかった。くぐもった唸り声に愉悦が混じっている。
 息の詰まる圧迫感を意識の外に押しやり、由良は太刀をあっさり投げ出すと、靴の踵《かかと》で蹴って後ろへ滑らせた。同時に空いた右手で、首を締め上げる蔓を引力を使って引き千切る。そのまま後方へ飛び、右手に継続させている引力を右腕全体に纏わせ、そこに絡みつく蔓も強引に処理する。
「かは、ごほっ……」
 すぐさま太刀を掴み上げ、首筋をさすりながら呼吸を整えてラルヴァと対峙した。一瞬とはいえ、首を締め上げた力は強く、由良の視界はまだ少し暗んでいた。
(ラルヴァは……?)
 乾いた蹄の音が二、三鳴ったかと思った途端消滅する。
 由良は顔をあげて身構えたが、ラルヴァの姿は消えてしまっていた。また闇討ちが来るのかと周囲へ注意を払ったが、どうも様子がおかしい。先の首無し馬の能力であれば、不可視の状態にすることはできても、気配や物音まで隠すのには至らなかったハズだ。
(弟切草と首無し馬の融合で、不可視の性能が向上した可能性はありますが)
 仮定し、由良は太刀を握る両手を無意識のうちに固くする。
 張り詰めた静寂を破って、背後のロッカーが勢いよく開き、
「や、ヤツは逃げたでございますよ、ナユタ様!」
 ウサギ紳士が頭からずり落ちる灰皿を押さえながら言った。



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