【猫髭博士と怖い噂 五怪目「井戸女」】



 「井戸女」


「井戸女の噂、知ってる?」
 放課後の部室で、篠田《しのだ》啓子《けいこ》が本を読んでいると、同じオカルト研部員の小野《おの》正美《まさみ》がそんなことを言い出した。
 彼女たちは怪談話が好きで、こういった噂をいつも集めていた。正美の言葉に興味を持った啓子は本を閉じ、彼女と向き合う。
「なにそれ。初耳だけど」
「遅れてるわねー。それでもオカ研の部員?」
「うるさいわ。いいから教えてよそれ、何? 井戸だって?」
 そう、と言って正美は周りを気にしながら声を潜める。
「あのね。ほら、西区に誰も住んでない朽ちてる学生寮があるじゃない」
「ああ、知ってるわよ。私の通学路にあるもの。あそこがどうしたの?」
「そこの庭にね、井戸があるのよ。珍しいでしょ」
 啓子は井戸なんてあったかしらん、と記憶をたどりにその寮の敷地を思い出す。あそこはもう誰も人が手入れをしておらず、敷地内には雑草が無造作に生え、寮の建物も幽霊屋敷のようにオンボロ状態だ。その敷地内には確かに、小さな井戸があったような気がする。
「ああ、あったわね。そういえば」
「その井戸に、出るんだって」
「出るって何が?」
「鈍いわね。これよ、これ」
 そう言って正美は両手を前に突き出し、だらんと力なく手首を下げる。それは幽霊を表現するジェスチャーであった。
「幽霊が出るって? バカバカしいわね」
「ちょっと、オカ研の部員がバカバカしいとは何よ。そういう噂があるんだからしょうがないじゃない。夜にあそこを通るとね、井戸の中から女の声が聞こえてくるのよ。『助けて……助けて……』ってね。昔あの井戸に落ちて死んだ女の子が、夜な夜な助けを求めるんだって」
 正美は自分の首を絞め、舌べロを出しながら幽霊の苦しそうな声を真似する。それを見て啓子はプッと吹き出す。
「やだぁ。何よそれ。嘘でしょ」
「ほんとよほんと、声を聞いたって友達の友達の友達の親戚のいとこの友人の子供の上司が言ってたらしいわ」
「信憑性無さ過ぎよ!」
 そんな雑談をしているうちに、そろそろ下校の時間が迫っていた。
「さて、じゃあわたしは帰ろうかな」
 と、正美は立ち上がった。鞄を肩にかけ、帰る支度をしていた。
「啓子はまだ帰らないの?」
「うん。この本読み終えてから帰るから、先に帰ってて」
「わかったわよ。あんまり遅くまでいたら幽霊が出るわよ幽霊」
「出ないわよ。この部室にそんな曰くのある話しはありませーん」
 本を読みふける啓子に呆れながら、正美は他のオカルト研究部員たちと一緒に、「じゃあ」と部室から出ていった。



 それから二時間後、すっかり本に夢中になってしまっていたのか、啓子が本を読み終えたときにはもう辺りは真っ暗であった。
「やだ。早く帰らないと寮母さんに怒られちゃう」
 啓子は学園から飛び出した。
 なぜかその日は、外に人の気配がなかった。とても静かな夜で、物音もしない。風だけが強く吹き、木を揺らしていた。
(あと十分で門限が来ちゃう)
 門限が過ぎれば寮の門は締められるし、晩御飯は抜きになってしまう。色々と面倒だ。急がなくてはならない。
 啓子はスピードを上げて走るが、どうにも間に合いそうにない。
「そうだ、近道をしよう」
 ふと、啓子は思いつく。その近道は例の封鎖されたオンボロ寮の敷地内を真っすぐ通り抜けることだ。初等部のときにはよくその近道を使っていたが、寮が閉鎖してからは使わなくなっていた。寮のことはもはや記憶の隅にわずかに残っているほどだ。さっきの正美との会話で思い出したようだ。
(よし、ここね)
 啓子は軽くフェンスをよじ登り、その寮の敷地内に足を踏み入れた。雑草がちくちくと足に当たり、あちこち虫が飛んでいる。このままじゃ全身がかゆくなりそうなので、啓子はその場を突っ切ろうと走り出す。
 しかし、突然声が聞こえた。

 たすけて……

 たすけて……

 それは苦しそうな女の呻き声であった。
 啓子は足を止める。全身に鳥肌が立ち、どっと冷や汗が出てくる。
『その井戸に、出るんだって』
 部室での正美との会話が頭をよぎる。あんなのは嘘だ。くだらない怪談話だ。きっとこれは空耳に違いない。
 そう思いこもうとしても、声はやはりはっきりと啓子の耳に聞こえてくる。
「嘘よ、井戸女なんていないわ!」
 啓子は声が聞こえてくる方向を振り向く。そこにはポツンっと、小さな井戸が置いてあった。
 石垣で組み立てられていて、寮の隅っこに申し訳なさそうにそれは存在している。そこは月明かりも当たらず、不気味さを強調してた。
 ごくり、と啓子は息を飲む。
 カリカリと井戸からは壁を這うような音も聞こえてくる。気づけば啓子はその井戸の前に立っていた。
(オカ研たるもの噂の真相を確かめなきゃ……)
 啓子は自分にそう言い聞かせる。だが実際は恐怖心を打ち消すためであった。その声と音が、空耳だと確認するためにやってきたのだ。恐怖を乗り越えるためにはそれが恐怖の対象ではないと確認する必要がある。でなければ啓子はずっとこの恐怖心を抱えたまま生きなければならない。
(あんなの、ただの噂よ!)
 そうして啓子は井戸の中を、覗きこんだ。
「たすけて!」
 その瞬間、そんな叫び声と共に井戸の中から女の顔が出てきた。濡れた髪が顔に張り付いていて、不気味さを演出している。啓子は直感で理解する。これが井戸女だ。井戸女は実在したのだ!
「ひぃ!」
 それは井戸の淵に手をかけ、這いあがってこようとしていた。その手は硬直している啓子の手をガッと掴む。井戸の水で濡れた手が、啓子の手を強く握りしめる。
「いやあああああああ! 離して!」
 啓子は泣き叫びながらその手を振り払おうとした。だが頑なに井戸女はその手を離さない。恐慌状態に陥った啓子は、地面に落ちていた大きな石を、空いている手で拾い上げ、井戸女目がけて思い切りぶつけた。
「はなせ! はなせ! 落ちろおおおおおおおおおおおおお!」
 何度も何度も石で殴りつけ、ゴツゴツ、と嫌な音がして井戸女の頭からは鮮血が飛び散る。井戸女の手は緩み、そのまま井戸の底へ真っ逆さまに落ちていった。それと同時に啓子は駆けだしていた。さっきまでの出来事を夢だと思い込むようにそこから逃げ出し、自分の寮の部屋に駆けこんだ。そして一晩中布団を被りながら震えていた。



 その翌日、一睡もできなかった啓子は、重い瞼をこすりながらなんとか学園に登校した。
(昨日のあれはなんだったんだろう。いや、考えない方がいいかしら……)
 あの井戸女の執念に満ちた顔を思い出すと、今でも震えが止まらない。
 そうして玄関に向かって力なく歩いていると、前に着物姿の男がいた。それはオカルト研究部では有名な人であった。
「猫髭《ねこひげ》博士!」
 啓子は彼に駆け寄る。猫髭はラルヴァ研究をしている学者だ。あの井戸女のことを何か知っているかもしれない。
「ん? どうしたんだい?」
「あの。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
「なに?」
「井戸女ってご存知ですか? あの、古寮のところにある井戸に出るって言う幽霊です」
 啓子が恐る恐る尋ねると、猫髭は意外にも笑い始めた。
「あははは。きみはあんなのを信じているのかい。あれはきみたちの先輩が考えた創作怪談さ。井戸女なんて実在しないよ。あそこで転落死したなんて話はない。そもそも人工島で井戸なんてありえないだろう。あれは管理人の趣味で作られたただのオブジェさ。だからあそこは底が浅いし、石垣は登りやすいから、あそこから落ちて死ぬなんてことはほとんどありえないんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。でもあそこは地面がぬかるんでいて、井戸の中を覗くと滑りやすくて落ちやすいんだ。今までも何人か落ちたことがあるみたいだけど、みんな自力で這い上がってきたみたいだよ。それが創作の元になってる出来事だ。まあ危ないからあの古寮共々近いうちに取り壊すみたいだけどね」
 それじゃあ急ぐからね、と猫髭はその場から立ち去ってしまった。
 一体どういうことだ。啓子は立ち尽くす。
 井戸女は存在しない。ただの創作怪談。
 それが事実ならば、啓子が見たのは恐怖心が生んだ想像の産物なのだろうか。
 そうだ。そうにきまっている。啓子はあれは幻だったと信じることにした。猫髭が井戸女は存在しないと言うのなら、それは事実なのだ。
 啓子は胸のつかえが取れ、軽い足取りで教室に向かった。
 教室の扉を開くと、しんっと静まり返り、不穏な空気が流れていた。
「おはよう……ってどうしたの?みんな」
 啓子がそう友達に尋ねると、友達は涙を浮かべながら啓子にこう言った。
「あのね啓子ちゃん。正美ちゃんが昨晩亡くなったんだって」
「うそ」
 啓子の心臓が止まりそうになる。正美が死んだ? なんで?
「昨日の帰りに、正美ちゃんは井戸女の噂を確かめるために古寮の井戸を見に行くって言ってて……私は怖いから先帰っちゃったんだけど」
 その友達もまた、オカルト研究部の部員で、正美はこの女の子と一緒に帰ったのだ。
 しかし、あの後正美が井戸に……。啓子は胸騒ぎがした。
「それでね、いつまで経っても帰ってこないから警察の人とかと一緒に正美ちゃんを夜中に探したの。そしたら、正美ちゃんが井戸で死んでいるのが見つかったのよ」
 友達はわっと涙を滝のように溢れさせながら、こう言った。
「正美ちゃんは誰かに殺されたみたいなの。頭を大きな石で割られて、井戸の中に落とされたみたい」

 オワリ



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最終更新:2010年08月03日 20:12
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