【夏と花火と……】


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夏と花火と……


 朝、眼が覚めた。
 うっすらと明るくなっている部屋の中、掛け布団代わりのタオルケットをお腹の上からどけ体を起こして伸びを一つ。
 友達にも密かに自慢している手入れ抜群の髪の毛が水が流れるような音を立てて体の上を流れた。
「ううぅんっ」
 思わず上がる声はそのまま、誰も聞いてないんだし。
 そのまままたベットに倒れこむ。
 クーラーの良く効いた中、自分の体温が残るベットは二度寝に最適だ。
 目を瞑るだけでほら、心地よいまどろみがまた……
「って、寝ちゃダメだってば!」
 枕元の時計を確認するとまだ午前5時すぎ、平日どころか夏休みの今は普通に考えると起きるはずの無い時間帯なんだけど。
 指先をお腹へと持ってくる。
 確かに伝わる柔らかな感触、余分な感触。
 自制を怠るとすぐにこれだ。
 いや、友達とふたば商店街デザート食べ歩きとかしたせいなんだけど。
「美味しいお店多いからつい食べちゃうんだよねー」
 でも季節は夏、海が近かったりプールとかあるせいで水着着る機会も多いし。
 もそもそとパジャマ代わりのTシャツと短パンを脱ぎ捨てて、ランニング用のシャツとジャージを着込む。
 本当はもっと軽い服のほうが良いんだけど、こっちの方が汗良くかくし何より無駄なお肉が見えなくて済むから一石二鳥なんだよね。
「さて、行きますか」
 夏用に薄手のカーテンを開けると外は既に明るくなっていた。
 雲も無いし今晩の花火大会は楽しめそう。
 昨日の晩に友人と待ち合わせのメールをしていたのを思い出す。
 とりあえず換気に窓を開けるとムワっとした空気が室内に入り込んできた。
「うーわー、やる気無くなっちゃう」
 まぁでも、
「目的があるとやる気もでちゃうよね」
 脱ぎ捨ててあった服を拾い上げて玄関横の洗濯機に放り込む。
 後はスイッチ一つで帰ってきた頃にはベランダに干すのに丁度良い頃合になっているだろう。
 走りやすいように長い髪は首の後ろ辺りでゴム紐で纏めておく。
 履きなれて少しだけ草臥れたシューズに足を入れて、何度か軽くつま先を立てる。
 準備万端、と思いきや忘れ物忘れ物。
「帽子にタオルっと、朝で気温が多少は低いとはいえ朝ごはん食べずに動くと何かあったら怖いもんね」
 帽子は片手に、タオルを首に通して外へ出る。
 周りの住人はまだ寝てるだろうことを考慮してゆっくりと扉を閉じるのが寮生のマナー。

 さぁ、走ろうか。

 まだ眠りに就いている街の中を一人走っていく。
 明るくなってきているとはいえまだ6時にもなっていない時間帯、誰もいない。
 立ち並ぶ寮を見上げても夏の暑さに私のようにクーラーを使っているのかどの窓も閉まってカーテンが引かれたままだ。
 後1時間もすればちびっこ達が夏休みのラジオ体操に出てくるだろう。
 でも今はほとんど人気が無い。
 そんな中を、走る。
 夏休みに入ってから始めたとはいえ慣れてきたのかそんなに辛くは無い。
 息と体を弾ませながら、走る。
 道順なんて無い、適当に走っているだけ。
 大きな公園が少し離れたところにあるけれど、林とかあって女子高生一人で走るにはちょっと怖い。
 だから、気ままに静かな住宅地を走っていく。
「んー、やっぱ人いないなー」
 時々すれ違う人もいるが、車の量も少ない上に住民の半分近くが学生の住居区域ではこんな早朝に外にいるのは私と同じように朝の運動をしている人か24時間営業のお店に商品を搬入している人たちくらいだ。
 後、他に外にいる人と言えば。
「おはようございまーす!」
「おはよう、今日も朝から元気だねぇ」
 青い服に帽子、何時も同じ格好の人。
 住居区域から店の並ぶ商業区域との境目にある交番。
 その前に立っている人がいた。
 毎朝のランニングで会うようになってからこの人がいるって知った。
 挨拶すれば笑顔で返してくれる。 
 話したことなんて無いけど、私の少し気になっている人。
 毎日会えるわけじゃ無いんだけど、なんとなくこの人に会うために私は毎朝走っている。


 ・・・・・・


『えー、何それ。オジンじゃん?』
「オジンって、ちょっと酷くない!?」
『いや、だって20代半ばっしょ? うちらとえーっと……6,7は離れてるじゃん』
 湯上りのバスタオル姿で話す携帯越し、友人が酷い事を言ってくる。
 いや、年齢差を実際に考えてみればそうなんだけどさ。
『珍しくあんたが恋バナしてくれるっていうから期待したのにさー』
「恋バナなんて言ってませんー。気になる人がいるっていっただけですー」
 生徒手帳の電話機能を使いながら押入れを引っ掻き回す。
『一緒じゃん、もうちょっと同年代とか狙おうよーうちら花も恥らう女子高生よジョシコーセー』
「うるっさいなー、別に良いじゃないそれに恋に落ちてるって訳じゃないんだし」
『あー、あんたみたいなタイプは一度踏み外してのめり込むとトコトン落ちるタイプだとあたしゃ思うね』
「踏み外して無いし、のめり込んでも無いよ!」
 ようやく見つけた浴衣と雪駄の箱を引きずり出しながら反論する。
 う、結構重い……な。
 他に何か入ってたっけなーなんて思いながら引く。
『嘘付け』
 少し強い口調が返ってきた。
 喧嘩売ってるのか。
「嘘じゃないですー」
『毎朝のランニングの目的をあたしが知らんと思うてか』
 思わず動きが止まった。
「え、や、ええ?」
『その動揺が証拠だっての、毎朝楽しそうに走ってんじゃん』
 電話の向こうで楽しそうに、いや、意地悪そうに笑う声が聞こえる。
『いやね、うちのマンションからあそこの交番良く見えるのよ。んで、ゲームやり過ぎて夜が明けちゃってさ。コーヒー片手に朝日見てたらどっかで聞いた事あるような声がしたわけよ』
「ちょ、え」
『気のせいかなーって思ったんだけど、あんた朝ランしてるって言ってたし。それからも何度か徹夜する度に聞こえるのよねぇ』
「それは、その……挨拶くらいするわよ」
『あたしらに朝会ってもあんなに元気そうな挨拶したこと無いじゃん』
「そりゃ友達にする挨拶とは別よ」
『だいたい、太るのも気にせずに甘いもの食べに行ったりする意識弱いあんたが毎朝あんな時間に走る? 無理無理、何か良いことでもなきゃするわけないっしょ』
「うー」
 思わずへたり込む。
 そんなに意思弱かったかなぁ私。
『ま、今度みんなで緊急リポートだぁね』
「緊急リポートって誰に?」
『んーなの決まってるじゃん、そのお廻り』
「ダメー!!」
 両手で生徒手帳を持って叫ぶ。
『あたたた、み、耳が』
「そんなことしたら絶交だからね!」
『あー、はいはい分かった分かった。この話は花火会場でみんなでゆっくり聞くよ』
「しないわよもうっ」
 遅れんなよー、と最後に笑いながら言い残して電話は向こうから切られた。
 気の合う友人の一人なのだけど、どうにも人を弄るというかなんというか……いや良い子なんだけど本当に。
 乱雑に引っ張り出された浴衣の箱を見て思う。
「そういえば何時もジャージ姿だっけ、これ着てるのみたら何か言ってくれるかな?」
 呟いてから頭を振る。
 そんな姿を見られたら何も言い訳ができない、いや別に見せるだけなら。
「って、落ち着け私。別にそんなつもり無いんだから」
 バスタオルを取り払い、下着の胸元に浴衣を抱き寄せて思う。
 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ大人っぽい下着なのは皆には内緒にしておこうと。


 ・・・・・・


 走る、走る。
 暗がりの中を走る。
 粘り気のある湿度の高い闇の中を走る。
 綺麗に着付けしたはずの浴衣は無理に走ったのと汗に塗れてグチャグチャ。
 気にしない、走る。
 あれだけ毎朝走ってたのに息なんて乱れに乱れている。
 どうでもいい、走る。
 目からは涙が滲んで視界が所々ぼやけている。
 関係ない、走る。
 走らなきゃならない、何故ならは。
「やだ、やだぁっ!」
 後ろから何かが追いかけてくるから。
 犬みたいだけど、黒い、赤い。
 早くて大きくて怖くて。
 こんな事なら会場への近道だって公園なんて通らなきゃ良かった。
 血塗れ子猫の事件があってからラルヴァは何処にでも出るから戦闘能力の無い子は一人で夜に出歩いちゃダメってあれほど言われてたのに。
 ちょっとなら良いよねーって交番に行って、でもあの人はいなくて。
 待ち合わせに間に合いそうも無いからって、公園なんて通らなきゃこんな、こんな!
「ひいぃっ」
 ほらまた少し距離が縮まった。
 向こうは私の恐怖を楽しむように少しずつ距離を詰めてくる。
 出口へ向かおうとすると先回りして公園の中へ、中へと追い詰めてくる。
 私はどうすることも出来ずにただ、走るしかない。
 生徒手帳とお財布が入った巾着はもう手元には無い、走って逃げている内に何処かへ落としてしまった。
「きゃぁっ!」
 何か一気に距離を詰め、私の足を舐めた。
 ざらっとした感触がふくらはぎを撫でる。
 私の恐怖を煽っているのか。
「いやあぁ」
 腕に嵌めた時計が電子音を鳴らす。
 友達との約束の時間だ。
 間に合わなかった。
 友人たちは私が遅れたことに怒っているかもしれない。
 もしかしたら探しに来てくれるかもしれない。
 でも多分間に合わない。
 もう、あとどれくらい走っていられるか分からないから。
 息は吸っているのか吐いているのかも分からないくらいに荒れて。
 足は履いていた雪駄なんてとっくの昔にどっかで脱げて日が落ちてそんなに時間も経っていないアスファルトの地面が蓄えた熱で裸足の底を焼く。
 ほんの一時間前にお風呂に入って綺麗にした肌は転んだりしたせいで体中擦り傷だらけ。
 天使の輪が出きると自慢の髪は振り乱されて酷いことになってる。
 でも、今はそんなことよりも。
「死にたくない、死にたくないよぅ」
 怪我したって良い。
 髪が痛んだって良い。
 友達との約束に遅れたことだってもうどうでも良い。
 あの人に綺麗なままで会えなかったのは悔しいけれど。
「誰か、助けて、誰かぁ」
 私は必死に足を動かす。
 止まれば、必ず死ぬ。
 能力の無い私だけど、あれが何かは分かる。
 双葉学園に通う学生だから授業で習った。
 ラルヴァ、化け物、人以外の何か。
 私の後ろを追いかけてくる何かも間違いなくラルヴァ。
 知ってるけど、あんなの見たことなんて無い。
 私が見たことのあるラルヴァは人に近い友好的なタイプだけ。
 こんな牙を剥いて人を襲うような凶悪なのなんて、知らない。
「あぁっ!」
 足が限界を訴え私は舗装された道路の傍、草むらの上に倒れこんだ。
「痛っ」
 本当に限界だったのか、足が痙攣を起こし何箇所か同時に攣りだしている。
 思わず足に手を延ばそうと体を起こした顔の数十cm先。
「あ」
 そいつの顔があった。
 赤い眼と、黒い体毛、そして涎を垂らして開かれた口の中から呼吸と共に漏れ出す異臭。
 体の大きさは大型犬ほどだが、私はこんな犬なんて見たことない。
 犬には変な角なんて無い、目が三つあったりもしない。
「いや、いやぁ」
 お尻をついたまま、雪駄の脱げた攣っている足と震える手で少しずつ後ろへ下がる。
 そいつも、ゆっくりと私にあわせるように前へ。
「あ、あああああ」
 やがてそれほど進む事も無く両手足が限界に達し完全に背中が地面についた。
 草独特の匂いがして、髪の毛が地面に広がっていく。
 視界には暗い公園の、木々に切り取られた夜空の中で花火が綺麗にその短い命を散らしていた。
「花火大会、始まっちゃった」
 視界の端から赤い瞳がゆっくりとこちらに……


 そして私は殺された。




 本当はダメなんだが、我慢出来ねぇ。
「ふぅーっ」
 胸元からタバコを取り出し火をつける。
 どうせ誰も見ちゃいねぇ夜の公園だ、構いやしねぇ。
 生温い、いや暑いか。
 そう糞暑い真夏の夜に、だ。
「周りのガキどもが楽しそーに花火見物に洒落込んでるってのに何で俺がこんな糞暑い服着てなきゃならねーんだ」
 海が近いというか完全に海に囲まれた双葉島は海風のせいで夜になるとぐっと湿度が増しやがる。
 顎を伝う汗を拭ってタバコをもう一口吸う。
「ふぅー、ま、そんな所に就職した俺の所為だぁな」
 花火大会の警備に引っ張り出されるのが面倒で警らに行ってきますと上司に言って出てきたんだが。
「まだ不純異性交遊の現場に出くわすにゃちょーっと早かったか」
 覗きをしても巡回だといえば通らなくも無いのは一種の職権濫用だろうか、まぁ今は人気も全く無いから関係ない。
 空を見るとまだ花火が始まって間もない。
 ムードが高まってこっちに来るのはまだ先の話だろう。
 何となく公園内を散策する。
「くっそ、蒸し暑いったりゃねー」 
 タバコを咥えたまま、歩き出すが2,3分も経たぬうちに拭ったはずの汗がまた顎を伝う。
 帽子を取ると額に堰きとめられていた汗がまるで水を被ったかのように垂れてきた。
 手の甲で拭い払うと汗が珠となって飛んでいく。
「風もねーし移動すっかなぁ」
 短くなって熱く感じてきたタバコを履き捨て靴で踏んで鎮火。
 区民に見られればイメージダウンも甚だしい。
 鬱蒼と茂る林が昼間は影を作る恩恵を与えてくれる半面、夜になれば視界を遮り気味が悪いったらありゃしねぇ。
 とりあえず次のタバコ吸い終ってから考えよう。
 残り少なくてクシャクシャになったソフトタイプのタバコを取り出し一本口に咥える。
 ジッポなんて洒落たものを持ってるわけでもなし、コンビニで売っていた100円ライターで火を灯す。
「お、始まったか」
 紫煙を吐きながら空を見上げると大輪の花が一つ咲いていた。
 会場自体は海岸で今いる公園からは多少離れてはいるが、ここも花火鑑賞と決め込むには中々悪くは無い。
「欠点があるとすりゃ酒とつまみが無いってことか」
 暑さはあっちも似たようなものだろう。
 人が少ない分こっちの方が快適かもしれない。
「どうせ公園の外に出りゃあっちに行きたい、あれは何処? ってやつらの相手ばっかだしな」
 確か公園の中に自販機が設置してあるところがあったはずだ。
 そこでジュースでも買って一人で花火見物と洒落込もう、と歩きだした。
 さっきまでとは違って花火が地面を照らしてくれる。
 歩きづらくは無かった。
「あっれ、何処だっけか?」
 しかし、しばらく歩いたが自販機が見当たらない。
 無駄に広いこの公園、今更ながら迷ったのかもしれなかった。
「あー、向こうで花火が上がってるってことたぁこっちか?」
 記憶の片隅に残っているかなり曖昧な地図から花火大会とは逆の方向へと足を向ける。
 公園を抜けるまでに自販機の一つや二つあるだろう。
 そう考えながら、また新しいタバコに火を点けた。


 ・・・・・・


 幾つかの広場を抜けて、自販機に出会うことなく丁度公園の中央付近に差し掛かったとき、嗅ぎ慣れない嫌な匂いが鼻に入った。
 本当に、嫌な匂いだ。
 自分たちのものである筈なのに生理的には受け付けない、鉄錆に似た匂い。
「あーあー、全く嫌な所に出くわしちまったなぁ」
 一番の中央部、植えられた芝生が僅かに隆起しているそのど真ん中。
 黒い何かが水っぽい音を立てて何かを啜っている。
 空に花火。
 一瞬の輝きで、啜っているものが一体何なのか。
 赤、青、緑の光に照らされて。
 長い髪と真っ赤に染まった体、そして有り得ない方向へと捻じ曲がった首。
 噛み切られた部分から溢れる液体を、そいつは啜っていた。
 息を荒げて、長い舌を伸ばしピチャピチャと音を立てて。
「お前よう、勘弁してくれよ」
 一歩、足を前へ。
 花火が上がる。
 三つ目が、獲物からこちらへと向きを変えた。
「俺が配属されてから何人目だと思ってんだ」
 一歩、足を前へ。
 低い声がそいつの喉から鳴り響いた。
「なんだそりゃ、威嚇のつもりか? 俺様の獲物を横取りするなってか?」
 一歩、足を前へ。
 獲物を食らっていた体勢が、僅かに喉を上げ関節に力を入れたのか少し沈み込んだ。
「怒ったかよ、畜生風情が」
 一歩、進まずに両手を右腰へ。
 左手で封となっている蓋を解き、右手で冷たい塊を持ち上げ三つ目に突きつける。
 そのまま躊躇無く、人差し指を引き絞った。
 花火が上がる。
 同じ火薬が爆ぜた音を掻き消すように。
 空には4連発の花火が上がっていた。
「ああ、ダメだ。やっぱ俺こいつ苦手だわ」
 ダブルアクションで放たれた弾丸は全て当たりはしなかった。
 ほら、その証拠に俺との距離を黒い畜生が半分も詰めてきてやがる。
 咄嗟に右手の銃を投げ捨てて、左腰へと手を伸ばす。
 二段式伸縮型警棒、それがそこにある。
 右手で逆手にグリップを握りこみ、最後の距離を飛び掛る挙動で襲い掛かってきたその顔面目掛け抜き討った。
 手首と肘に鈍く重い手応えが伝わってくる。
 金属と硬いものがぶち当たる澄んだ様な音ではなく、手応えと同じような鈍く重い肉打つ音が花火の音にかき消えた。
「唸り声は上げても悲鳴はあげねーってか」
 芝生の中、殴り倒された獣は動かない。
 もう一つ花火。
 空へと上がる間隔と量が増えてきている。
 もう打ち上げ時間の半分以上が過ぎていた。
 犠牲者となった哀れな人型へと足を向ける。
 一歩進み。
 花火が上がる。
「ん?」
 もう、一歩。
 さらに一歩。
 三歩目からは小走りとなり。
 捻じ曲げられた細い首の先、赤い化粧をされた。
「おい」
 花火。
 見知った、顔だった。
 朝、暑さと眠気を我慢して仕事場の前に立っていると元気良く挨拶をくれる。
 笑顔が可愛い顔だった。
「……そりゃ怖かったよな」
 今は、笑顔は無い。
 涙の後と、土に塗れて。
 どれだけ怖かったか、辛かったか。
 しゃがみ込み、その額に手を触れようとして、
「がっ!?」
 芝生の上を横へ、吹き飛ばされた。
 右手に持っていた二段式警棒は緩んだ手の中から何処かへ。
 うつ伏せに転がされた体を、勢いのまま横へとロール。
 何かが空を噛む音が響く。
 一瞬前、頭があった場所を牙が通り過ぎていた。
 左腕が痺れている。
 丁度左の肩口に体当たりか何かを食らったようだった。
 感覚が鈍い、攻撃と同時に頭の角か爪でも立てられたのかもしれない。
 激しい痛みが脳を揺さぶる。
「死んだ振りたぁえらく上等な真似しやがるじゃねぇか、あぁ!?」
 地面に平行なままの体を飛び跳ねるように上へ起こした。
 左手の指先にぬるりとするもの、結構な出血だ。
 舌打ち一つして顔を敵へと向ける。
「大人しくくたばりゃいいものを」
 花火が上がる。
 三つ目のうち右目が光を無くしていた。
 先程の警棒での一撃は上手く顔面を捉えていたようだ。
 伸びた鼻先、液体がだらだらと零れ落ちている。
 赤くは無い。
「来いよ、お前はあの子とは別のところへ送ってやる」
 左の半身になって手招き……をしようとして左手が上がらなかった。
 ああ、ダメだこりゃ。
 頭の中で治療系能力者の知り合いを何人かピックアップする。
 どいつもこいつも癖の強い悪友だが、弱みを条件に何とか無償で治療を、
「ぐあっ!?」
 戦闘中に余計なことを考えると死ぬぞ、双葉学園の先生どもに竹刀で頭を尻を叩かれながら教えて頂いたありがたーいお言葉が脳裏を過ぎった。
 背中から地面へと倒され、目の前数十cmの所に二個に減った眼を乗せた歪んだ顔が見えた。
 濁った唸り声を上げて赤と何かの色に染まった牙を覗かせて暗い淵が真下、俺の顔目掛けて迫る。
 考えるよりも早く右手を顔の前へと突き出していた。
「いってててて」
 右手の下腕に痛みが走る。
 そして指先に伝わってくる生暖かい感触。
 突き出した手は、開かれた口の奥深くへ突きこまれていた。
 上手いこと顎が閉じるより早く突っ込めたおかげで閉じきらない口では噛み切ることなんて出来ないだろう。
「やれやれ、咄嗟に思いついたことにしちゃ上手くいったな。ほれ、どうよ。食いたかったんだろ?」
 ぐっと更に深く奥へと腕を突き入れる。
 黒い毛並みに覆われた頭がビクンと震えた。
「いってぇ、最後まで足掻きやがって!」
 離せと言わんばかりに獣が前足二本の爪を右腕の上腕に突き立ててくる。
 この状況が詰みとならないと思っているのだろう。
 こちらの左手はほとんど使い物にならず、右手は喉に突っ込まれている。
 警棒は何処かへ飛んだ。
「まぁ、これで終わりにしとこうや」
 獣の喉の奥、ガチリ、と鉄の音が鳴った。
 突きこまれた右腕に沿うように黒いコードが延びている。
 それは右腰のホルスターの傍へと繋がっていた。
「これなら外れやしねぇ、喉の奥でしっかり味わいやがれ」
 右手の指先が、引き金を引く。
 空には大きな花火が上がり、火薬が弾ける音を響かせた。


 ・・・・・・


 朝、相変わらず馬鹿みたいに蒸し暑い中を仕事場の前に立つ。
「あぢぃ」
 眠気も酷い、気を抜けば意識が何処かへ飛んでいきそうだ。
 そこを気力でなんとか堪える。
 あと、五分いや十分だろうか。
「馬鹿言うな、昨日サボってた癖に。今日はもうずっとそこで立ってろ」
 背後のガラス一枚を隔ててクーラーが程よく効いた空間では上司が書類の整理に追われていた。
「ひでぇ! あんまりだ! 鬼上司め!」
「こっち向くな、前向いて立ってろ。知らないところで5発全弾撃ちやがって、クビになってないだけありがたいと思えこの馬鹿」
「へーい」
 体の傷は花火見物帰りの悪友を無理矢理呼びつけ治させた。
 痛みももう無い。
 空を仰ぐ。
 昨夜にあれだけ上がっていた花火は当然だがもう無い。
 変わりに今日も無駄に元気な太陽が少しずつ湿度と引き換えに気温をあげていた。
 ふと、何時も挨拶してくれたあの子のことを思い返す。
 もうちょっと早くあの場に行っていればと悔やむ。
 そうすれば二人だけの花火見物でも出来たのだろうか、と。
 まぁ、こっちは20代も半ば。
 花も恥らう女子高生様とは別次元の世界に生きる人間だ。
「あぢぃ」
 もう何度目になったか分からないセリフが口から漏れた。
 と、静かな居住地域の方から規則正しい音が聞こえてくる。 
 時計を見ると5時半を少し過ぎた頃、遅くも無く早くも無い。
「おはようございまーす!」
「おはよう、今日も元気だねぇ」
 首の後ろで纏められた黒髪が走るのにあわせて左右に揺れる。
 何時もの笑顔だ。
 昨晩見た別人のような表情とは違う生気に溢れた表情。
 上気して頬が少し赤いのは運動して血行が良くなったからだろうか。
「……エロいな」
「何か言いました?」
「いや、今日も暑くなるから気をつけなよ」
 少し怪訝そうな表情を浮かべ、はい、と元気に応えて少女は走り去っていく。
 その後姿を見えなくなるまで見送り、
「あ、ダメ、限界」
 ガツンと脳が揺さぶられた。
 立っていられない程の眠気が意識を奪おうとするのを必死に堪えて仕事場の中へと入る。
「お前、昨日の晩に能力使ってたのか」
 上司が書類を書くのを止めてこちらを睨む。
「すいませんねー、毎度毎度のことで」
「全く持って面倒だ」
「便利な能力ですよ、死んだ人も生き返らせる程のね」
 俺も異能力を持っている。
 対象の時間を数時間巻き戻させるという能力。
 死んだのが能力の範囲内であれば死ぬ前にすら戻すことが出きる。
 あの子はあの獣に襲われる前の状態に戻った。
 死ぬほどの恐怖を感じた記憶も無いだろう。
「その代償が丸一日昏睡ですがね」
「寝込むお前の分の仕事を俺がやらなきゃならんのだろうが、全く持って面倒だ」
「それについては本当に感謝感激雨あられってやつで……あ、マジ無理」
 デスク備え付けの椅子に崩れるように腰を下ろしてデスクへ突っ伏する。
 上司が薄れ行く意識の中で何か言っているのが分かったが、言ってる内容はさっぱり頭に入っちゃこないのは何時ものことだ。
 完全に眠りに入る前にさっき会ったあの子のことを思い返す。
 寝ていた所を警ら中の俺が発見したということで昨日の晩は納得させた。
 合流した友達らしい同年代の女の子達が、朝無理に早く起きているからとか何とか言っていたのであっさり納得してくれたのが楽で良かった。
 出来れば顔見知りに能力使うのは勘弁して欲しい。
 さて、そろそろ本当に限界だ。
 また目が覚めて朝、あの子に会えるだろうか。
 そのときは花火大会を楽しめなかった分、一緒に花火でもしようと誘ってみても良いかもしれない。
 OKしてくれるだろうか、それとも年齢差があるから嫌がられるだろうか。
 そんな事を考えながら、意識はまどろみの中へ溶けていった。





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