【托卵】

※一部暴力描写グロテスクな描写等不快な表現を含むので苦手な人は読むのを避けてください。

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「なんて気持ちのいい風なのかしら」
 夏目《なつめ》晶子《あきこ》は学校の帰り道、夕日の下を散歩していた。
 暑い夏が終わり夕方になると涼しげな風が彼女の長い黒髪を揺らし、頬を撫でていた。この爽やかな空気に晶子はなんとも言えない心地良さを覚えていた。
 今日は一緒に暮らしている弟が部活動で帰りが遅くなると言うので、真っすぐに家に帰ることもせずこうして双葉区の街並みを特に当ても無く歩いていた。
「あれぇ? ここどこだっけ?」
 そうして歩いていると、晶子は見知らぬ場所へと出てしまった。そこは汚らしい雰囲気を受ける工場地帯で、もう役目を終えて朽ち果ててしまった廃工場が四方を囲っている。
 その場所は薄暗く、双葉区の中で最も異彩を放っている場所だった。工場地帯の入口には『|立入禁止《キープアウト》』の看板があったのだが晶子は気付かなかったようだ。
 工場地帯はゴチャゴチャと入り組んでおり、道に迷ってしまった晶子は途方に暮れながらも、そのうち人気のあるところに出るだろうと一切の不安もない楽観思考でコンクリートの道を歩いていった。
 そこで晶子は奇妙なものを見つける。
 廃工場の壁に、もたれかかっているような人影があった。辺りは暗いため、近づかなければその人影の姿はよく見えない。誰かが座っているのかしらと晶子はその人影の元へと歩み寄っていった。
 それは明らかに死体だった。
 周囲にはうるさいくらいに羽音を響かせる蠅が飛び回り、死後何日も経過しているようで死体は無残にも腐っていた。
 腐敗の進行度は酷く目を覆いたくなるほどである。顔は白骨化が進んでおり、眼球は既に腐れ落ち空洞になっていてそこからは無数の蛆が這い出ていた。
 視覚的な不快感と強烈な腐敗臭でまともな人間ならばその場で吐いてしまうだろう。
 だが晶子にはそれが死体だと認識できなかった。
 近親相姦で生まれた精神的畸形児である夏目五兄弟。その次女である晶子は、この世界を構成している“負”の要素を理解できない。彼女の目にはそれが死体として映っていなかった。
「綺麗……まるで絵画の天使様みたい……」
 晶子はうっとりとした様子でそう言った。
 彼女の言う通り、死体は人間のものではなかった。
 その死体は人間のような姿をしているが、腕の代わりに白く大きな翼が生えており、足には鳥のような三本の爪がついている。死体の周囲にはこの死体のものと思われる羽毛で溢れかえっている。だが天使というよりも“鳥人間”と表現すべき怪物じみた姿をしていた。おそらくはラルヴァの死体であろう。
 だがその鳥人間の死体でもっとも注視すべきは容姿そのものではない。
 その死体の腹部は巨大風船のように膨れ上がっていたのだ。まるで妊婦のようで、腹部だけは腐ってはおらず白い肌のままだった。
「この中には何がつまっているのかなぁ」
 子供のように無邪気な調子で晶子はその大きくなっている腹を撫でていた。すべすべとしていて、柔らかなそれに触れることは気持ちがよかった。

“マ……マ……”

 腹部に手を当てていると、中からそんな声が聞こえたような気がした。
“ママ……ここから……出して……”
 声は次第にはっきりとしてきて、晶子に訴え始めた。それは幼い子供のような声で、晶子はその悲痛な叫びにどうしたらいいのだろうと困ってしまう。
(どうしたらいいのかしら。お腹の中から出たがってる……)
 そう思った晶子は鞄の中身をぶちまけ、その中にあった美術の授業で使用した彫刻用のナイフを取り出した。
 そのナイフの刃を腹部に当て、晶子はそのまま縦に切り開く。
「えいっ」
 腹部は異様に柔らかく、非力な晶子でも豆腐を切るように簡単に裂くことができた。
 わずかな切り口から、まるでダムが決壊したかのように大量の腐った血液が溢れだし腹部は崩壊を起こして大きく破裂した。その中からはドロドロの汚濁に塗れた体液と、腐敗して液状化した胎盤が溢れ出てきて地面を汚していく。
 その血と腐液の中にはいくつもの胎児が浮かんでいた。胎児たちも既に腐乱しており緑色の不気味な姿に変わっていた。だがやはり胎児も人間のものではなく、かすかに腕が畸形化しており羽のようになっている。
 十や二十の胎児たちの死体の山の中に、一人だけきちんとした大きさに成長している赤ん坊がいた。赤ん坊にはへその緒がついていない。その代わりに、赤ん坊は他の胎児たちを食んでいた。母のお腹の中で他の兄妹たちを食べて生きながらえてきたようだった。
 その赤ん坊も母親と他の胎児たち同様人間ではなく、腕からは薄い羽が生え、目はぎょろぎょろとしていた。異常なまでに骨ばっていて、口はくちばしのように尖っているが口内にはサメのような鋭い歯が並んでいる。不気味で恐ろしい姿をした化物の赤ん坊である。
「まあ可愛い赤ちゃん」
 晶子はぽんっと手を叩いてその赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊はぺっと食んでいた胎児の骨を口から吐き出してピギャアピギャアと泣きだした。母親の身体から離れたからなのか、先ほどのようにテレパシィで会話することはなかった。晶子はその赤ん坊をあやすように「たかいたかーい」と可愛がり始める。
「私がママになってあげるからもう泣かないで」
 鳥人間の赤ん坊を晶子が抱くと、きちんと泣きやむのだった。腐液と血に汚れている赤ん坊を抱きかかえながら晶子は帰路についた。
 あれほど迷った道なのに、何故かこの赤ん坊に出会った後、晶子は迷うことなく工場地帯を抜けることができたのだった。



「まっててね赤ちゃん。今からミルク作ってあげるから」
 近所のドラッグストアで粉ミルクを買ってきた晶子はエプロンを身につけて支度を始めた。赤ん坊は大人しく畳の上で眠っていた。
 幼いころに母親を亡くした晶子は、下の子である二人の弟の母親代わりとして生きてきた。そのため赤ん坊や子供の扱いには慣れている。上には二人の兄と姉がいるが、彼らは弟たちの世話も家の手伝いもしなかった。そのため間に挟まれていた晶子は自然と家事が得意になっていたのだ。
「はい赤ちゃん。お待たせ」
 哺乳瓶に入った人肌程度に温めたミルクを赤ん坊に飲ませてあげようと、哺乳瓶を赤ん坊の口に近付けるが、
「ギャピィ!」
 と叫び声をあげて哺乳瓶を叩いて床に落としてしまった。
「どうしたの赤ちゃん。ミルク嫌いなの?」
 晶子は困惑しながら畳にこぼれてしまったミルクを必死にタオルで拭いていた。その隙に赤ん坊はヨチヨチと歩き始め、買い物袋の方に近づいていった。
「ギピャァギピャア」
 赤ん坊は奇声を上げながらその買い物袋の中に入っている生肉を取り出している。肉の入ったパックをくちばしで器用で破き、その中の豚肉をぐちゃぐちゃと音を立てながら食べ始めた。おいしいのか、喜んでいるように赤ん坊はがっついている。
「ああ、それは今日の私たちの晩御飯なのに……」
 でも仕方ないか、と晶子は肩を落とした。赤ん坊がおいしく食べてくれれば自分たちは野菜炒めでも十分だ。
 晶子は生肉を食む化物の赤ん坊を微笑ましく思い、優しく微笑んだ。
 すると、赤ん坊に異変が起きた。
「あれ? この子ってこんなに大きかったかな」
 赤ん坊は一回り大きくなっていた。肉を食むたびに、じょじょに大きくなっていく。羽が生えそろい、体に筋肉がつきはじめていく。
「育ち盛りなのね。もっとお食べ」
 晶子は愛おしそうに赤ん坊の頭を撫でた。
 その瞬間、赤ん坊の目がぎょろりと剥かれ鋭い牙が光った。




◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 疲れた。夏目|中也《ちゅうや》は心の中で愚痴を言い、夜の住宅街を歩いていた。
 中也は重い体を引きずって自分と姉が住むアパートまで帰ってきた。彼は“部活動”を終えたところで、身体中に血の匂いが染みついていた。
(帰ったらまずシャワーを浴びるか。アキ姉には悪いけどごはんはその後にしてもらおう)
 極力気を付けたものの、彼のシャツには返り血がこびりついていた。生活費に余裕はないのだが、買い換えるしかないだろう。
 アパートの階段をカンカンと音を立て登り、自室の扉の前に立った。
 灯りがついているから姉である晶子も帰っているだろう。あの危なっかしい晶子がきちんと帰宅しているか中也はいつも心配になってしまう。
「ただいまアキ姉」
 中也は扉を開いて部屋に入った。
 しかし、おかしなことに返事は返ってこなかった。いつもなら無邪気な笑顔で彼に飛びついてくるのだが、今日に限っては声すら聞こえない。
「アキ姉。いないの?」
 中也はわずかな不安を覚え、靴を吐き捨てて玄関から上がった。すると突然激しい物音と、鳥の鳴き声のような奇妙な声が聞こえてきた。
「アキ姉!」
 中也が部屋に飛び込むと、そこにはおぞましい光景が広がっていた。
 部屋の中には巨大な赤ん坊がいた。
 だがその赤ん坊はどう見ても人間ではなかった。常人が見れば嫌悪感と不快感で目をそむけたくなるような不気味な姿をしていた。
 羽毛に覆われた巨大な腕に、オレンジと緑が混ざりあった肌の色。頭は鳥のようにくちばしが伸び、知性を一切感じさせない狂気を宿した目がぎょろぎょろと蠢いている。
 そしてその鳥人間の赤ん坊に、晶子は覆いかぶさられていた。馬乗りになっている赤ん坊は牙を剥いて今にも喰らいかかりそうにも関わらず、晶子はまるで母親のような慈愛に満ちた表情で赤ん坊に微笑みかけている。
「ママと一緒におねんねしたいのね。いいよ、子守唄を歌ってあげる」
 晶子はぽつりとそう呟いていた。自分が襲われていることが彼女にはわからないのだ。このままでは食べられてしまう。とっさに判断した中也は鞄の中に隠し持っていたある物を取り出した。
 ずっしりとした重さと、冷たい鉄の感触が手に伝う。
 ベレッタM92。五兄妹の末っ子にして武器マニアの龍之介《りゅうのすけ》から護身用にと譲り受けた半自動拳銃だ。中也はすぐさま安全装置《セーフティ》を外し、スライドを引き、赤ん坊に拳銃を向けた。
「アキ姉! 顔を伏せて!」
 そう叫ぶと同時に中也は拳銃のトリガーをためらうことなく引いていた。感情のブレがない中也は精密な射撃が得意だった。
 乾いた発砲音の直後、赤ん坊の大きな頭はポップコーンのように弾け飛んだ。生まれてまもないため、体はまだ未成熟で酷く柔らかいようだ。
 脳漿が部屋の四方に飛散し、砕かれた頭蓋骨が壁に突き刺さっていく。割れた頭からは大量の血液が溢れ出て、目の前の晶子の顔に雨のように降りかかった。
 それでも赤ん坊の怪物は死んではいない。
 頭を吹き飛ばされても、わずかに体を動かし、足の鋭い爪で晶子を引き裂こうとしていた。だが中也は続けて二発、三発、四発と弾丸を赤ん坊の身体に撃ちこんでいく。ようやく動かなくなった赤ん坊は、そのままずしんと音を立てて倒れ込んだ。地震でも起きたかのようにオンボロアパートは大きく揺れる。
 完全に死亡したことを確認し、中也は拳銃を下ろして晶子のもとへと駆け寄った。
「アキ姉、大丈夫? 怪我は無い?」
 放心状態の晶子に中也は呼びかける。
 彼女はゆっくりと立ち上がり、中也を見てにこりと笑った。
「赤ちゃん……どこ? いなくなっちゃった」
「……アキ姉」
「きっと本当のママのところに行ったんだね」
 冗談でも、比喩のつもりでもなく晶子はそう言っているようだった。彼女は赤ん坊の死を理解できず、その死体すらも認識の外に置いていた。
 怪物の血を浴びて肌と綺麗な黒髪が真っ赤に染まっている。だが赤ん坊が撃たれた時に舞い散った純白の羽が晶子に降り注ぎ、その無邪気な笑顔を見て、中也は彼女が天使のように思えた。
 それほどにその時の晶子は美しかった。幼いころに自分を寝かしつけてくれた母親によく似ている。
 立ち尽くす中也に晶子は言った。
「ねえ中也くん。私も赤ちゃん欲しいな」


(了)


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最終更新:2010年09月13日 18:37
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