【灰色小咄】


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        灰色小咄

 血の色は水より濃い。
 赤く血が湧き出し、肉が無残に空を躍る。
 肉は切られ、骨は断たれ、そのそれぞれが赤い血溜まりの中に落ちて混ざり合う。
 赤い、赤い、一面の赤。
 奇妙に現実感のある夢の中を、少女は必死になって逃げ惑っていた。
 血でぬるぬるとした床が、沼のように少女の足を取る。前のめりに倒れそうになるのを少女は必死にこらえた。
 鉄のような臭いと、生臭い臭いが少女の鼻腔を突く。
 背後から聞こえてくる、ずるずると這うような不気味な音。
 恐怖に振り返ると、すぐ後ろからソレがやってきた。
 宙にぽっかりと開いた、蠢く赤い『穴』。
 そう形容するしかないような、あんぐりと大口を開けた異形の怪物。それが這うようにして少女に近づく。
 少女はその場から逃げ出した。力いっぱいに。髪を振り乱しながら。
 どれほど走ったのかも分からない。ただ、後ろから迫る音はまだ消えない。少女は走り続けた。
 少女の脳裏に、つい先程目の当たりにした光景が甦る。
 赤く蠢く巨大な空洞。
 それはまるで、頭部がそのまま開いて口になった、蛸のようなものを思わせた。
 その中には、それの中には――――
 思い出して、少女はその日の夕食を地面に吐き出しそうになった。
 口に手を当ててそれを必死に抑える。吐き気は精神的なものだけではない。身体のことを省みない無茶な肉体の酷使が、
少女の身体に警鐘を鳴らす。
 呼吸が荒くなり肺が悲鳴を上げる。
 それでも、少女は走るのを止めない。
 おぞましい悪夢から逃げ延びようと、少女は暗い道を無我夢中に走り抜ける。
 音はもう聞こえない。少女は足を止めた。
 裸足のまま駆けたせいで、足の裏にはうっすら赤く血がにじんでいた。
 痛みはない。当然だ、これは夢なのだから。
 ――気がつくと、目の前に広がる真っ暗闇の中に、そこだけ一点光に照らし出された空間があった。
 少女は逃げ込むようにその中に入った。
 暖かさはなかったが、それでも少女は安心した。
 自身の呼吸の音意外には何も聞こえない、まっさらな静寂があたりに立ち込める
 身体中から一気に力が抜けて、少女は地面へとへたり込んだ。足は棒のようになって、もう一歩も動かない。
 このまま、夢の中で眠ってしまいたいと少女は思った。
 疲労という甘い誘惑に手を引かれて、少女は地面に仰向けになって倒れこんだ。
 意識がぼんやりとして、視界に靄がかかる。
 遠くから這うような音が聞こえてきたが、少女にはもうどちらでもよかった。
 夢なら目を閉じればいい、簡単なことだ。少女はそれを喜んで受け入れた。
 ちいさなまぶたが閉じて、全てが暗く終り行くのに身を任せる。
 その最後の瞬間――――
 少女の目の前が、真っ白なものに包まれた。

       2

 夢から醒めて、現実に引き戻される。
 まぶたを開けると、そこは見知らぬ空間だった。
 肌にぴたりと触れるコンクリートの冷たい
感触に、彼女は少し身じろぎをした。
「――目が覚めましたか?」
 突然声をかけられて、彼女の心臓がびくんと跳ね上がる。
 身体を起こそうとしたが、鉛のように重く感じて思うようにいかず、彼女は目で声のする方向を追った。
 そこには、着物姿の見知らぬ少年が、膝を屈めて彼女の顔を覗き込んでいた。
「古林 歴《れき》さん……ですね?」
 透明感のある、絹のように柔らかい声だった。
 年齢は自分とそんなに変わらないはずだが、彼女は少年の中に、大人のような歳不相応な落ち着きを感じた。
「初めまして。僕は光前《こうぜん》早太郎《そうたろう》といいます。――お身体のほうは大丈夫ですか?」
 心配するような面持ちで、光前と名乗った少年が彼女を見る。
「ここは……」
 まだ頭が少しうすぼんやりとしていた。
 上半身だけなんとか起き上がると、彼女は周囲を見渡して、次いで少年の顔をまじまじと見つめた。
 綺麗な顔つきだと、そう歴は思った。
 白く卵形の滑らかな顔つきに、つんと反った小さな鼻がのっており、それは男性というよりも女性の顔つきに近かった。
 瞳は少し青みがかっていて、一瞬、ハーフなのだろうかと彼女は考えた。
 けれどそれより気になったのは少年のその服装だった。浅葱色の着流しに、足には漆塗りの高そうな下駄を引っ掛けている。同年代に限らず、あまり見ることのない装いだった。
「ここは今は使われていない工場です。避難するのに無断で使わせてもらいました」
 光前ががらんとしたコンクリートの建物内部を手で指し示して言う。
 『避難』という言葉に、ふと忘れかかっていた重大な何かが歴の頭をよぎった。
 だが彼女がそのことを思い出す前に、室内の奥から聞こえてきた大きな声がそれをかき消した。
「お~い早太ぁ~。いま屋上から――、ん?あれ、もう起きたんだ」
 室内に反響する声とともに、暗闇の中から一人の少女が身を現した。
 その姿を目にして、歴は驚かされた。
 少年の格好も変わっていたが、少女の服装の奇抜さはそれどころではなかった。
 一見するとそれはただの緑のアミーコートだったが、その両袖は肩口のあたりからばっさりと切り取られていて、袖のないインナーを着ているのか、健康的な肌色の両腕が腋元まで覗いている。
 ボトムはホットパンツか何かなのか、大胆に晒された太ももはその付け根まで見えてしまいそうなほどで、コートの裾自体には手は加えられていないにもかかわらず、ボトムが見えないせいで非常にきわどい姿になっていた。
 見ようによってはどころか、どう見ても裸の上にコートをまとっている様にしか見えない。そんな服装だった。
 足には黄色く目立つクロックスをぞんざいに履きこなしており、その目に付く色が、より一層下半身への注視を集めることになった。
 年齢はやはり自分とそう変わらないだろうが、コートの上からでも一目で分かるほどに強調された大胆な身体の起伏は、とても同齢のものだと歴は信じたくなかった。
「真白《ましろ》……。声が少し大きいですよ」
 光前がたしなめるように言う。
「あ~ゴメンゴメン。ほら、こんぐらいじゃないと聞こえないかなぁ~、って」
 悪童のように笑って、真白と呼ばれた少女は長い黒髪をいじりながら答えた。
「古林さん。彼女は翁長《おなが》 真白《ましろ》。――――僕とおなじで、あなたの味方です」
 落ち着いた声で、いや、落ち着かせるような声で早太郎が紹介した。
 『味方』。その言葉に歴は違和感を覚えた。頭はまだはっきりしていなかいものの、それでも自分をここへ連れ去ったのが目の前の少年だという事は明白だったからだ。
「えっ、と、すみません……。さっきから避難とか、味方とか、良く分からないんですけど……。そもそも、あなたたちは一体誰なんですか? 何で私がこんなところに……?」
 その言葉に今度は早太郎が驚いたような表情を見せた。
「――――古林さん。僕達があなたをここへ連れてくる前までの事は覚えていますか?」
 どこか心配するような、気遣うような、しかしはっきりとした言い方で光前が訊ねる。
「ここに来る……、前……?」
 そこで――、記憶が奔流のように甦った。
 ぐちゃぐちゃになった断片的な光景が一つにまとまり、ビデオテープのように巻き戻されて一から再生される。
 夕食後のいつもどおりの家族の団欒。家族同然の幼馴染を交えての、普段の日常。
 その日常の中に、突如ソレは現れた。
 父親が、母親が、妹が、弟が、腐りきった果実のようにぐずぐずに崩れてソレの中に飲み込まれていく。
 祖父が、祖母が、友人が、恋人が、どろどろの粥状に溶けてソコに加えられる。
 目の前で起きた、頭の狂いそうになるような惨劇。いや、実際にあの時私は狂っていたんだろう。そう歴は思った。
 狂って、無我夢中になって、あの場所から一人逃げ出した。全部が全部を夢だと信じて。
 そして今、本当の意味で夢は醒め、現実が彼女の身体に容赦なく圧し掛かって来た。
 涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
 胃の中に溜まっていたものが全て吐き出された。
 ビチャビチャと吐瀉物が床を濡らす。
 床に崩れこんで咳き込む歴の背中を、早太郎がゆっくりとさすった。
「すみません……。辛いことを思い出させてしまいましたね。ですが、全て現実に起きたことです」
 落ち着いた声で、覆しようのない事実を突きつけてくる目の前の少年を、見当違いなのは分かっていても歴は一瞬恨みたくなった。
「あれが……全部、現実……」
 うわごとのように歴が呟く。その声はすすり泣くようにか細かった。
「ええ、そうです」
「…………どうして、あんなことが……」
 歴が喉から声を搾り出すようにして聞く。
 その問いかけに、早太郎は少し迷うようにしたが、やがて決意して歴に答えた。
「……あなたは、あなたは他人と違う力を持っています。あなたを襲った怪物も、その力が目的で、あなたの前に現れたんです」
 告げられた言葉はどこかあいまいで抽象的なものだったが、それでも、その言わんとしていることは歴にも理解できた。
「けど……っ、それじゃあなんで私だけが助かったの? なんで目的の私だけが無事に生き残ったの!?」
 そう叫んだ歴を見て、整った顔を苦しそうに歪めて早太郎が答えた。
「あの怪物は目が見えません。気配だけを頼りにして相手を見つけます、ですから……」
「……間違え、た?」
 早太郎が無言で頷く。
「――それじゃあ、それじゃあ全部私のせい……、なの? 私がいたから……、お父さんやお母さんや、弟や妹やみんな――――!!」
「――あなたは悪くありません」
 はっきりと、早太郎が言った。
 はっと顔を上げて歴が早太郎を見る。この時だけは、彼がどこか怒っている様に見えた。
「責任は全て、間に合わなかった僕達にあります。――あなたのせいではありません」
 早太郎が強い意志を持って答える。
「――あなたの日常は壊れてしまいました。あの化物や、僕たちが壊してしまいました。もう何一つ元通りには戻りません」
 冷たく、厳しく、突き放すように早太郎が言う。
「――――それでも、あなたはまだ未来を選ぶことが出来ます。そして僕達には、あなたの過去を守れなかったことに対して、あなたの未来に責任があります」
 大して年齢も変わらないはずのその少年の
言葉には、決して折れることのない、確かな
強さがあった。
「ですから、安心してください。安心して御家族のために泣いてください。安心して御家族のために悲しんでください。あなたの未来は僕達が守ります」
 その言葉に、歴はどうしようもない安心と安堵を覚えて、涙を流した。
「――あ~……、そうそう」
 その様子を横でずっと見ていた真白が、少しばつが悪そうにして言った。
「さっき言いそびれたんだけどさ、その怪物、――――もうそこまで来てる」
 その言葉が終わるかどうかという瞬間、工場の壁が爆発するように突き崩れて、あのおぞましい化物が工場の中に姿を現した。
「――――真白。彼女を頼みます」
 そう言うと、早太郎が怪物に向かって歩き出した。
「だ、駄目っ――!」
 止めようとする歴の手を、横から真白がつかんで静止した。
「あ~ダイジョブ、ダイジョブ。心配ないない。内臓啜り《クランクブッチャー》ぐらいなら早太一人で十分だって。――――それに今あいつ、スゲー怒ってるし」
 場違いなほどにのんきな様子で真白が言う。
 その態度に何か歴は言おうとしたが、そうしてる間に早太郎は怪物の目前にまで近づいていった。
 化物はまるで巨大な蛸とでもいったような醜い姿をしていた。肥大化した頭頂部からは何本もの触手が伸びており、触手の先には吸盤の変わりにごつごつとした石の歯のようなものが無数についていた。
 その体色は壊れた臓器のように灰色によどみ、そのところどころに毒々しい青や緑の斑紋が出来ている。
 化物の頭頂部がばっくりと開いた。歴が小さく悲鳴を上げた。あの赤く蠢く大口だ。
 だがそれを気にした風もなく、早太郎は怪物の大口へと歩みを進める。
 自ら自分の元へとやってくる哀れな獲物を見定めて、化物がその鋭い触手を何本も早太郎めがけて伸ばした。
 その動きはすばやく、完全に捕食者の一撃だった。
 それに対して、早太郎の動きは驚くほど緩慢で、ゆっくりとしたものだった。
 下駄を床に脱ぎ捨てて、着流しの帯をほどいて緩める。
 そして触手が早太郎の身体を捕らえようとした次の瞬間、早太郎の姿が消え、代わりに着流しの中から何かが飛び出した。
 一瞬で巨大化したそれは、目にも止まらないほどの速さで化物との距離を詰め、その巨体に真正面からぶつかった。
 化物の体が吹き飛ばされる。
 着流しがはらりと冷たい床の上に落ちると、その先には、雪のように白い体毛に覆われた、一匹の巨大な狼がいた。
 驚きで言葉の出てこない歴を、真白が見て笑う。
「ひっひっひっひ、いいね~、そのビックリ顔。超カワイイ。――ようく見ときなよ、あれが早太。――早太郎の持つ『力』さ」
 その言葉に歴はどきりとした。あれがついさっきまで、目の前にいて自分を慰めてくれた少年の姿なのか。
 白い狼が咆哮を上げる。
 吹き飛ばされた化物が起き上がり、裂けんばかりに大口を開けて威嚇する。
 いまや全ての触手が伸びて、縦横に早太郎の体躯を狙って跳ね回っていた。
 だがその一つ一つを易々とかいくぐって、再び早太郎が蛸のような化物の身体に肉迫する。
 直線的に突進してくる白い砲弾を迎え撃って丸呑みにしようと、内臓啜りがその巨大な口を早太郎に向けた。
 しかし狼はそのまま化物の胃に収まる気などさらさらなかった。化物の口の目前で四肢を縮めて一気に跳躍すると、鋭い牙と爪をむき出しにして化物の背中に飛び掛った。
 硝子を引っ掻いたような、耳をつんざく悲鳴が工場の中に激しくこだまする。
「うっわ、強烈……」
 両手で耳を力いっぱい押さえて、げんなりした顔で真白が言う。
 ぶよぶよとした灰色の皮膚に喰らいついて、触手の付け根ごと容赦なくその身体を引き裂いていく早太郎。
 その体躯を、暴れ回る触手の一本が打ちつけた。
 したたかに弾き飛ばされた巨大な白狼は、そのまま空中で一回転して、上手くコンクリートの地面に着地した。
 もはや趨勢は、歴の素人目にもはっきりとしていた。
 化け物はすでに何本も触手が食いちぎられ、体につけられた傷口からは紫色の体液があふれ出している。
 それに対して早太郎のほうは、返り血はあっても目立った外傷はまったく見受けられなかった。
「ほら、ぜんぜん大丈夫だった」
 どこか誇らしげに自慢するように、真白が歴の脇を小突いた。
 だが、いまの歴にはそんなことも気にならなかった。
 ――なんて強いのだろう。目の前で繰り広げられた光景を見て、歴はただそう思った。
 自身を襲った理不尽な悪夢。その元凶をいともあっさりと打ち倒してみせた目の前の存在が、歴の心に強く焼き付いた。
 止めを刺そうと、早太郎がゆっくりと瀕死の化物に近づく。
 今際の際、必死の抵抗を試みようと、化物が残った触手を集めて、大口を開けて威嚇する。
 そのとき、悪食の化物の血沼のような赤い口内から、それまで目に付かなかったものが、歴の目に入った。
「――――お父……さん……っ!?」
 一瞬、その言葉に早太郎が気をとられた。
 その一瞬の隙を見逃さず、化物が束ねた触手を鎚のように早太郎めがけて振るった。
 驚異的な瞬発力で早太郎が回避しようと横に飛んだが、その咄嗟の反応も間に合わず、横腹に鈍器のような触手の束を打ち当てられて早太郎の体が吹き飛ばされた。
 白い巨体が地面に打ち付けられて、口元から血を吐く。
「早太ッ!?」
 真白が驚いて声を上げた。
 早太郎がよろよろと立ち上がって化物を見ると、目の前に信じられない光景が飛び込んできた。
 あんぐりと開いた化物の口腔の奥に、人の形をした物体が張り付いている。
 それは中年の男性――歴の父親の姿だった。
 一人だけ丸呑みにされた歴の父は、他の家族のように噛み千切られることなく、そのまま内臓啜りの体の一部となってその体に取り込まれていたのだった。
 もう意思も意識も残っていない。かろうじて残った脳と心臓とが生命活動を続けているだけの、人と呼ぶのもためらわれる惨めな生き物。
 それだけではない。良く見れば、化物の体の中には、他の歴の家族――歴の家族だったモノの姿が眼に入った。
 食虫植物の体内で、消化されきれないまま形の残った虫の死骸のように、無残な姿でそこにあるかつての家族たち。
「あンっの野郎……! 中ッ途半端なマネしやがって……ッ!」
 それを見て真白が苦々しそうに吐き捨てる。
 自身の消化能力を超えた分量を喰らい尽くしたために、化物はその胃の全てを吸収し切らないままここへやってきたのだ。
 呆然と立ち尽くす歴。
 もし家族のその姿を直に目の当たりにしなければ、まだ彼女は心のどこかで現実から目を背けることも出来ただろう。
 全てを悪い夢だと決め付けて、布団の中にもぐりこみ、永遠に来ることのない悪夢の目覚めを待ち続けることも出来ただろう。
 だが、その最後に残った一縷の希望は、今、完全に打ち砕かれた。
 最悪の現実が、目の前にあった。
 化物と隼太郎の形勢が逆転する。
 依然、優位に立ち、化物の命を握っていたのは早太郎のほうだったが、早太郎は手を出下すべきかどうかを迷っていた。
 這い伸びてくる数本の触手をなんとかかわしながら、早太郎は歴の姿を見た。
 同じくして、歴もまた迷っていた。
 彼女の目にも、早太郎があえて止めを刺していないのが見て取れていた。
 それは自分に気兼ねしてのことなのだろう。
 事実、彼女は迷っている。
 他の家族はともかく、父親は、確かにまだ生きて、あそこで息をしている。
 もし歴が決断をすれば、今すぐにでも早太郎はこの化物に止めを刺すだろう。
 だがそれは同時に、化物に取り込まれた父親の死をも意味している。
 苦しみにあえぐ、父親の形を残したモノに歴の目が釘付けにされる。
 躾は厳しかったが、惜しみない愛情を注いでくれた自慢の父親。
 そして今や、人と呼べるかどうか定かでないほどに変わり果てた、自分の父。
 それを見て、――それを見て、彼女は決意する。
 ついに触手の一本が早太郎の足を捕らえた。
 一瞬、歴と隼太郎の視線が互いに交錯する。
「――、して……」
 彼は言った、過去はもう二度と戻らないと。
 彼は言った、家族のために悲しんでいいと。
 彼は言った、私の責任を持ってくれると!!
 だからこそ、彼女は彼を信じて言った。
「殺して――、殺して、あげてください」
 その言葉に、目の前の狼の姿をした少年が、静かに頷いた。
 触手が力任せに一息で引きちぎられ、早太郎が悲鳴を上げる化物めがけて走り出す。
 なおも往生際悪く、化物はずるずると這ってこの場から逃げ出そうとする。しかしそれを逃がすことなく、血にまみれた白い狼が、その体を巨大な顎で噛み砕いた。

       3

「すみません。着物を取ってもらえますか」
 そう言われて気がついた。狼に姿を変えるときに服を脱いだのだから、人に戻れば当然その体に何も身に着けていないのだ。
 コンクリートの上に落ちた着流しと帯を取って、それを目の前の巨大な狼に差し出した。
「ありがとうございます」
 そう言って器用に着物を背中にかけると、狼の姿が縮んで、元の少年の姿に戻った。
 着物の帯を早太郎が締める。口の端からは少し血が垂れていたが、それを拭うと、見た目には最初に会ったときと何一つ変わらない姿になった。
 だが、我慢をしているだけで。着物の下には無数の傷跡が出来ているはずだった。
「――大丈夫ですか?」
 そう早太郎が歴に聞いた。しかしそう聞きたいのは歴のほうだった。
「オイ早太、アタシには何にもナシか」
 不機嫌そうに頬を膨らませた真白が割って入ってくる。
「ああ、すみません真白。心配をかけましたか?」
「ほんとに済まないと思ってるなら愛してると十回言え。じゃなきゃ許さん」
「好きですよ、真白」
「愛を感じねぇ」
 さっきの戦いの最中に、早太郎に叫んだときの彼女の表情はきわめて真剣そのものだった。
 歴はふと、この二人の関係が気になったが、
詮索するのはやめた。なにより、まともに頭が働くとは思えなかった。
 歴の前に、床に転がる下駄が目に入った。それは早太郎の履いてたものだ。
 それをぼんやりと持ち上げようとすると、突如、歴の体に黒い何かが巻きついて引き寄せられた。
「ほんッとに往生際悪ィなコイツ」
 歴の体を抱きとめて真白が言う。見ると、つい今歴がいたはずの場所に、すでに息絶えたはずの化物の触手が伸びていた。
 歴が体に巻きついたものを見ると、それは黒い獣毛に覆われた、ふさふさとした尻尾だった。
 その尻尾は、真白のお尻から伸びていた。
「そんなにじろじろ見られると、こう、なんつーの? まいっちんぐ?」
 尻尾を歴の体から離して真白が言う。
 そのまま、まだ動く触手の一本に真白が近づいてそれを蹴り飛ばした。
 化物はもうどんな反応も見せなかった。完全に息絶えたのだろう。
「――さて、っと。んで? これからどーすんの」
 真白が早太郎と歴の両方に聞く。
 それは歴も気にしていたことだった。
「そうですね……」
 早太郎は向き直ると歴に訊ねた。
「歴さん。もしよければ、僕達と一緒に来ませんか?」
「一緒に……?」
 鸚鵡のように繰り返して、その言葉の意味を反芻する。
「僕達は、双葉学園という、僕達と同じような力を持った人間同士が集まる場所で暮らしています。もしまだ、これからどうするかを決めてないなら、そこで僕達と一緒に暮らしながら、自分の将来をゆっくり考えて見ませんか?」
 もちろん、そういった場所に来るのがいやなら他の選択肢もありますし、僕達も出来得る限りの手助けをさせてもらいます。最後に早太郎はそう付け加えた。
 けれど、歴は他の選択肢は考えていなかった。
「わたしも、連れて行ってください。その、――双葉学園に」
 そう答えた歴に、早太郎は嬉しそうな顔を、真白はどこか面白くなさそうな顔をしてみせた。
 歴は、もう悩むことをやめた。もはや自分の縋れる過去が何もないなら、せめて未来に縋って生きてみようと、そう思った。
「それと――歴《れき》じゃないです」
「――え?」
「私の名前は古林 歴《あきら》。歴《れき》じゃなくて、歴《あきら》です」
 それを聞くと、自身の間違いに気づいて、早太郎が頬を赤く染めた。
 その顔はとても歳相応のものに見えて、歴はふと、早太郎のことを可愛いと思った。



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