【福音】


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  福音 -エヴァンジェル-  
ラノで読む

     一

 ちりちりと刺す首筋の痛みに身をよじると、今度はその感覚が顔いっぱいに広がった。
 唐橋《からはし》悠斗《ゆうと》が目を上げると、窓の外から昇ったばかりの細長い朝日が、顔の前を横断していた。カーテンを閉めないで寝てたか。
 こういうことは最近特に多い。独りでいるとき、ふとした拍子に考えるともなく考えてしまい、眠るともなく気がつくと眠ってしまっている。そして目が覚めて悠斗が真っ先に感じるのは、いつもその〝考え〟が未決のまま、保留されたまま頭の隅に残っていること。
 朝日から逃れるように、熱のこもるベッドから体を起こす。時計を見ると、無駄に早起きしていたことに気がついた。
 本当は自分でも分かっている。悠斗の望む望まないは別として、考える先にある〝答え〟がいくつかは提示されていることに。だがそれをあえて選ばないようにして探すうちに、完璧な答えを見つけられない悠斗の頭は、これ以上の負荷を嫌い、強制的に思考を停止させるために意識を奪う。遠回しに、それら以外の他に選択肢はないのだと言い聞かせるように。
 そんな煩悶《はんもん》が、ずっと続いている。
 制服に着替えてから、普段より早くアパートを出る。
 途中、昼食を買うためにコンビニへ立ち寄り、それからしばらくして部屋の戸締りを思い出すようなごく当たり前な流れで、とある少女の名前が頭をよぎる。
 森村マキナ。双葉学園に通う悠斗とクラスメイトであり、喫茶店〔ディマンシュ〕で働くウェイトレス。悠斗の大切な|友人だった《ヽヽヽヽヽ》。だった、というのは、向こうはそう思っていないからだ。
 対等な友好関係とは、互いの立ち位置を認め合うことで成立する。少なくとも悠斗はそう思っている。友人なら友人の、恋仲には恋仲なりの距離と接し方がある。だからこそ、今は過去形で表わさなければならない。
 回りくどい言い方を止めると、絶賛フラれ中なのだ。しかも「これからもわたしたち友達でいましょうね」みたいな一定レベルまで関係を回復できるような展望はなく、ただ「もう二度と近づかないでください」とご丁寧に絶縁宣告されている。敗者復活はおろか出場停止の状態だ。
 けれど悠斗とマキナは同じクラスだし、二人の生活圏である学園島は広いようで狭い。否が応にも教室の出入口で顔を合わせるし、街中ですれ違うこともあった。
 それでも、以前のようにわざわざ呼びとめて、くだらない世間話やお互いに共通する話題も持ちかけることはなくなった。二人の他に第三者がいれば、不自然にならない程度に挨拶はする。それも最近少なくなってきた。
 つながりが薄れてきている。ずるずると時間を引きずって行くほどに、下から擦り切れていく。それは本来途切れることなく積み重ねていくはずのもので、ずっと先まで心配するはずのなかったもの。
 重々しいスライド式の鉄扉の通用門をくぐる。煉瓦《れんが》造りの赤茶けた幅の広い道路が校舎に伸びている。島全体が学園であるから、実際のところ校門はいらないんじゃないかと悠斗は思った。気分の問題か。
 残暑と言うにはまだかくしゃくとした陽の光に、肌寒いくらいの秋風が吹く妙な好天が続いている。道路脇には蒸し蒸しした青い芝生が広がって、遠くでは朝練に勤しむ運動部の掛け声と、行進曲を練習している金管楽器のアンサンブルが聞こえてきた。
 陽射しが強いと、視線も自然と下がった。悠斗の手荷物は学生鞄だけだったが、ほとんどの教科書は教室に置いてあるから薄っぺらだった。それでもなぜか重たく感じる。
 角を曲がったとき、つと顔を上げると、悠斗は見えない壁にぶち当たったみたいにその場で硬直した。
 悠斗の少し前を一人の少女が歩いていた。長めの銀髪を後ろで結いあげて折り返し、陽射しも焼くのをためらうような透けた白いうなじ。制服を優等生然と着こなし、ほっそりとした脚を包む黒いハイソックスから露出した脚は色白の肌をより華奢に見せている。
 悠斗が突っ立っているあいだも、森村マキナは昇降口へと続く低い階段を手摺り伝いに上っていく。
 彼女の異能は異能者の視界を共有すること。だから目が不自由でも、近くに異能者さえいれば、一般人と遜色ない生活を送ることができる。
 園芸部だろう。ジョウロと肥料袋を軍手で抱えた一団がマキナと入れ違いに下足場から出ていき、その中に知り合いがいたのか、軽く会釈をしたときに横顔が見えた。
 眼は伏せたまま、ふわりと柔らかい笑みが浮かんでいた。向けられた相手が安堵するような、距離のない笑顔だった。
「だーれだ☆」
 急に視界をひんやりとした誰かの両手に塞がれた。耳元でささやかれた声は、暑苦しいほどに男声だった。
「ブン殴っていいか、鵜島《うしま》」
 鬱陶《うっとう》しそうに両手を払い、悠斗が振り返ってみるとクラスメイトの男女が立っていた。
「ザンネーン。手だけはあたしでした」
 女生徒のほう、蓬《よもぎ》は両手を広げて可笑しそうに答えた。襟髪をざっくばらんに散らしたショートヘアで、同じ制服を着ているマキナと違い、あまり整然としていないところから全体的に鵜島と並んでだらけた印象を受ける。
「なんだよ、少しは喜べよ」
 男にしては少し長い髪を後ろで縛り、アイロンをあててないようなしわくちゃカッターシャツを着崩した鵜島が言う。
「野太い声でささやかれて、素直に喜べるわけないだろ」
「器の小さい男よ。お前の浪漫はそんなものか」
「ロマンもへったくれもあるか。このクソ暑い日中に、暑苦しいことすんなって言ってるんだ」
「だーかーらー、手はあたしだって言ってるじゃない」
 ムッと両手を腰にあてて蓬が言い返した。根本的に話がかみ合っていない。
「ところで唐橋、お前なにこんなところで突っ立ってるんだ?」
 鵜島は日除けの代わりに額に片手を乗せて、校舎の屋上のほうを見上げながら呟く。「ここから吹奏楽のパンツは見えねぇハズだが」
 鵜島が首を前に突き出し、蓬がその後頭部を平手で張った。小気味良い音が校舎の壁に響く。
「ナチュラルに覗いてんじゃないわよ」
 合奏とは違う音に気付いたのか、トランペットとトロンボーンを吹いていた女子生徒が視界から消えた。悠斗も一緒に睨まれた気がする。
「後でいい場所教えてやるよ。東校舎の科学室がちょうデュ――」
 もう一発、蓬が今度は鞄で殴り倒した。置き勉をしない蓬の鞄はかなり重そうに見えた。

     二

「二人とも、連休中はどこか行かなかったのか?」
 蓬と鵜島は実家が関東らしく、まだ帰省しているものだと勝手に思っていた。
 三人で下足場をあがって、悠斗は――マキナに追いつかないように、気持ちゆっくりとした足取りで廊下を歩いた。
「俺はバイトの先輩が自分勝手にシフト組んじゃったもんだから、全然出られなくてさ」
 悠斗が軽く笑うと出し抜けに、前を歩いていた鵜島が振り向いた。
「お前なぁ、まだ森村ちゃんとケンカしてんの?」
 そっちに話題を持って行かれないように先手を打ったのに、あっさり無視されてしまった。
「別に、喧嘩はしてない」喧嘩のほうがずっとマシだ。「まあ色々だ」
「そら来た。森村ちゃんもお前と同じようなことしか答えねぇし」
 蓬は何か言いたそうに悠斗に視線を投げかけていたが、悠斗が黙ったままでいると結局目をそらして鵜島の方へ顔を向けた。キッと鵜島を一睨みして言い放つ。
「鵜島。あんたデリカシーなさすぎ」
「あぁん? 何でだよ」
 鵜島は不機嫌そうな声をあげたが、それ以上は何も言わなかった。
「……悪《ワリ》ぃな」
 気遣わしげな蓬と、今いち要領を掴めていない鵜島に、悠斗はそれぞれ違う意味で謝った。
 この場で二人に全部打ち明けてしまってもいいのではないか。そう思う一方で、そうすることがマキナへの不義理だと思い当ってしまう。
 ――わたしの異能力のこと、別に言いふらしても構いませんから。
「にしても気になるんだよなぁ。何をやったら、ラルヴァにでも愛想が良さそうな森村ちゃんにあんな態度を取られるんだ」
「そんなに分かるもんか?」
「そりゃあ、お前らがあんな露骨に離れたりしてれば猫でも気がつく」
 ――優しくしてるのは自分の周りに常に異能者を置くためにやってるんだって。
 彼女の言い分の通りならば、異能者でないラルヴァには愛想が悪いのかもしれない。勝手に冗談を考えて、自分で可笑しかった。
 マキナは自分に異能の存在を気づかせ、光と彩りに溢れた世界を与えてくれた少女、倉持《くらもち》祈《いのり》を一生かけて庇護する覚悟を決めている。恩人として、血縁として。そうすることが間違いだと誰が言えるだろうか。
 全てに於《お》いて優先されるべきは祈であって、それ以外は添え物にすぎない。おそらくマキナが学園島に住んでいることや、喫茶店でウェイトレスとして働いていることも、祈を取り巻く環境に付随している状況であって、感情的な執着を挟む余地はない。なかったように見えていた。
「俺が全面的に悪いって話だよ」
 笑って言ってやった。あるはずのなかった隙間をこじ開けて、取って代わろうとしたのは自分だ。
 ただ笑うしかなかった。低く、間抜けな笑い方だった。
「だーもうじれったい!」
 突然、蓬が天井を仰いだかと思うと声を上げた。「唐橋、ちょっと付き合いなさい」
「え、ちょっ、待てって」
 問答無用と言った様子で、蓬は悠斗のズボンのベルトをむんずと掴んでぐいぐいっ引っ張る。二、三歩進んだところで振り返り、蓬は自分の鞄を鵜島に投げて寄越した。
「鵜島は先に教室に行ってて」
「おいおい、いまどき略奪愛は時代遅れだぞ」
 おどけた調子で応えた鵜島の顔面に、悠斗の鞄が飛んだ。いつの間にか蓬が投げていた。鵜島が薄っぺらな鞄を受け止めているのを尻目に、蓬はベルトを掴んだままずんずんと早足で歩いていく。
「待てよ! 俺だって断る権利くらいあるだろ!!」
「うじうじとウジ虫野郎が一人前に権利を叫ぶんじゃないわよ!!」
 グイと力任せにベルトを引っ張られ、悠斗は腰より上の身体の中身が今にも飛び出しそうになるのを堪えた。 
「分かった自分で歩くからベルト離せとりあえず絞まってるんげガ――」
 悠斗のこめかみに嫌な汗が伝い出し、その背中に向かって悪友の声が廊下に響いた。
「もうじき吹奏楽の朝練が終わるぜ。他人に聞かれたくない話なら屋上で済ませとけよ」

     三

「鵜島《あいつ》の言うことも、たまには役に立つじゃない」
 吹奏楽部の部員と階段ですれ違っただけで、屋上に他の生徒は誰もいなかった。
 蓬は出入り口の扉から死角になっていた日陰まで悠斗を引っぱった。ベルトから手を除けて振り返り、金網のフェンスがある後ろに離れた。
 蓬がそっとフェンスに寄りかかると、かしゃっと一度だけ金網が軋《きし》む音を立てた。悠斗も極限まで締められていたベルトを緩めてから、後ろの壁に背中を預けた。そこだけ見てると変態ね、と蓬がボソリと口走ったが悠斗は無視した。
「さて、唐橋はどこまで知ってるの?」
「なにをだよ」
「マキナちゃんのこと。少しは考えてるんでしょ?」
 蓬が言っているのはおそらく一般論での話だ。喧嘩したから、仲直りをする気はあるのかと訊いているのだ。
「考えてるけど、俺だけがどうこうしてどうにかなる問題じゃない」
 悠斗一人の問題ではなく、マキナも同時に関わってくるのだ。天秤のように、一方に働きかければもう一方が傾く。それは現在進行形で絶妙に不安定なバランスでシーソーゲームを続けていて、一度間違った錘《おもり》を乗せると即座にひっくり返り、二度と元に戻ることができない。だから悠斗は拘泥している。
「はぁ? えらく悠長に構えてるわね。マキナちゃんが心変わりするのを待ってたら、間に合うものも間に合わなくなるっていうのに」
「間に合わないって、何のことだよ」
 えっ、と目を瞠《みは》った蓬はすぐに訝《いぶか》るような表情に変わった。「冗談でしょ?」
「冗談が言えるほど陽気な気分でもない」
「えー……じゃあ本当に知らなかったんだ」
 へぇー、と蓬はフェンスから体を起こした。じろじろと悠斗を観察するような視線を向ける。
「けっこう意外。唐橋って周りが見えなくなるタイプなんだ」
 へぇ、と蓬はひとりで納得している。感心している風な言葉だったが、悠斗にはそれが嘲笑のように聞こえた。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ!」
 勿体ぶるような言い方に、つい責めるような返しになってしまった。
 口に出してしまってから、悠斗は後悔した。それなのに蓬に謝ろうという情動が起こらず、自分に対する嫌悪感もうまく処理できず、時間に任せて抜け落ちるのをじっと耐えるしかなかった。
「ご、ごめん」身を縮ませた蓬がうなだれたまま謝った。目を落としたまま、その瞳が右へ左へそわそわと揺れる。
「知ってると思ってた。マキナちゃんが他のクラスに編入するって話」
 編入する。他のクラスに移る。離れる。
「なんで」
「ほら、あたしらのクラスって、何て言うか、異能活動があんまり派手じゃないでしょ? あたしの知ってる限りでは、直接的に実害を与える異能持ちがほとんどいないっていうか、怪物《ラルヴァ》相手に一対一で通用する力を持ってない。あたしや、唐橋《あんた》やマキナちゃんもそう」
 千差万別の異能者を、学園は無作為にクラス分けしているわけではない。理科系、文科系と分けるようにおおよその共通項を判断して割り当てている。クラス単位でグループ分けができれば、カリキュラムも組み易く効率的な授業が行うことができるからだ。戦闘系の異能クラスや非戦闘系のクラスで、微妙なところではそれぞれに特化した授業が実践されている。
「良い意味でも悪い意味でも、双葉《ウチ》の学園って生徒に寛容なのよ。異能を理由にすれば教室で授業を受けなくても単位を貰える方法もあるし、何もしなくても高いマンションに住む方法もある」
 自慢できるようなやり方じゃないけどね、と蓬は小さく付け加えた。
「マキナちゃんの言い分としては、『向学の為、実践的な異能力訓練を多く受けられる他クラスへの編入を希望したい』ってことらしいの。ホントのところはどうか知らないけど。それで、希望したクラスっていうのが」
 蓬が告げたのは、他クラスにさほど興味を持たない悠斗でも噂に聞いたことのある――もちろん良い噂ではない――対ラルヴァ、対異能者戦闘を主眼に置いた本格的なカリキュラムを組むことで有名なクラスだった。
「冗談にしては笑えない」
「あたしも、冗談言うほど陽気な気分じゃないんだけどなあ」
 蓬は頭を掻いて髪を乱しては撫でつける。蓬の髪は梳き流すほど長くない。手櫛を入れて、手首を軽く振るだけで終わっってしまうそれをイライラと繰り返している。
 深く踏み込みたくないけど、心配だからこのまま放っておくわけにもいかない。言外にそう言いたげに。
 蓬がそういう女の子らしい仕草ができることを、悠斗は改めて知った。いじらしいなとも思う。
 本当に周りが見えてなかったんだな。
 ガチャと悠斗の少し後ろで扉の開く音を耳にした。開いて、誰かを探すようにゆっくりとした足音が、悠斗と蓬のいるほうに向かってきた。
 はじめに蓬が気づき、悠斗はその|誰か《ヽヽ》とは死角になる影にいたので、声が聞こえるまで判らなかった。
「良かった」
 安堵した声。微笑んだのだろう、間をおいて言葉が続いた。
「蓬さんここに居たんですね。鵜島さんが呼んでましたよ」
「あ、あたし?」
「『火急の用事だからすぐ戻って来い』と。わたしから言えば分かると話してましたけど、どういうことなんでしょう?」
 あンの糞バカ……とわずかに俯《うつむ》いた蓬が、遠慮がちに悠斗へ視線を逸らした。
「誰か一緒にいるんですか? そこに――」
 森村マキナはその後の言葉を呑みこんだ。可愛らしく小首を傾げて覗いた姿勢のまま固まっている。
「よお」
「……唐橋さんもいらしたんですね」
 ぎこちない返事に、強張った笑みで返される。その短い空白に、悠斗に声をかけたことに対する後悔が滲《にじ》んでいた。伏せた瞼《まぶた》の裏では、藤紫色《ウィスタリア》の瞳が彷徨っているのを感じた。
「ああそうだ。鵜島のバカは何の用だったんだろう。そしてどうでもいい用事だったらブン殴ってやろう。というワケであたしは先に戻ろう」
 三文芝居風の抑揚で、蓬は大きな独り言を呟いた。危険地帯をかわすように二人のあいだすり抜けて、ご丁寧に出入り口の扉もきっちり閉めて去って行った。残された悠斗たちが心配しそうなほど、慌ただしく階段を駆け下りていく音が遠ざかっていく。
 そしてあとには窒息しそうなほど気詰まりな雰囲気だけが、悠斗とマキナの周囲に漂っていた。
 完全な不意打ちでない分、悠斗のほうが立ち直るのは早かった。
「祈は元気にしてるのか」
 離婚調停中の親父か俺は。そもそも少女の様子など、これまで何度も聞いている。
「? 元気ですけど……」
 少し驚いて、答えつつマキナが小首をかしげた。
「や、違う! 俺が言いたいのは」言って、悠斗は踏み込んだ。「編入の話。聞いたんだ。本当のことなのか?」
 風が吹いた。秋日《あきび》の光を背負った雲が、縁に濃い翳《かげ》りを引っつけて流れていく。
「どこまでご存じなのかわからないですけど、編入することは事実です。ちょうど今朝、担任の先生に申請を受理してもらいました」
「俺のせいなのか。俺が森村は追い詰めたりしたから」
 マキナはゆるゆると首を横に振った。「違いますよ。もっと早くこうすれば良かったんです」
「今のままだと、わたしは学園に来た意味が無いんです。結局、ただの一般人のままだと、本当に誰か助けたいと思ったときには何もできない」
 守っている|つもり《ヽヽヽ》だった。そのつもりなだけで、祈の事故を防ぐことができなかったことを、マキナは悔やんでいる。事故が起きたショックよりも、怪我の程度も関係なく、実際には何の安全装置《セーフティ》にもなれなかった。無力感が大きかった。
「でも異能の力があれば何かできると思うんです。きっと、どんな力であったとしても。学園《ここ》にはそれを伸ばす環境が全て揃っていますし、それにわたしは異能者だから」
 マキナは同意を求めるように、同じ異能者である悠斗を見つめた。
「わたしの異能、覚醒のあいまいな状態の異能者の視覚も共有することが出来るんです。だから学外での異能者の早期発見や判別にも役立てられます」
 この伏目の少女は前を踏み出そうとしている。たとえ悠斗から見る方向と異なる先の果てだとしても。マキナの言葉は納得できるものだし、応援したいと思えるものだった。だが、急激な心境の変化をやすやすと受け入れるのは難しい。だから未練がましい声が悠斗の口をついて出た。
「今のクラスはいつまで居られる?」
「一ヶ月ほど。すぐには編入できませんから、事前研修も兼ねて、今度行われる学外調査にわたしも参加するんです。新しいクラスは学外活動が多いみたいなので」
 実地訓練とは名ばかりの、廃棄された遊園地を周るオリエンテーリングなのだそうだ。形としてそれで実績を作ってから、晴れて編入手続きが完了する。
「授業にはしばらく出られないですね。これから編入のための学力考査もありますから。先生に許可をいただいて、しばらくは学園を休んで寮で勉強するつもりです」
「森村は頭良いから、テストは楽勝だろうな」
「そんなことないですよ。でも、唐橋さんがそう言ってくれるのなら心強いです」
 嬉しそうな顔で、声は淡々としていた。
 唐橋さんがそう言ってくれるのなら。
 素直な称賛と受け取ったか、それとも厭味と取ったか。少なくとも表面上は喜んでいるように見えた。久しぶりの会話らしい会話に、マキナの警戒心が薄れたのかもしれない。それとも、もう悠斗のことは何でもないのかもしれない。
 先に戻ってますね、とマキナは小声では階下に消えた。それを見送って、悠斗は時間を少し置くために、出入り口の影からキリンのごとくそびえる貯水槽の下まで移動し、急かすように校舎の鐘の音がフェンスの向こうから飛び込んできた。
「どうすりゃいい。俺は何も進んでいないじゃねぇか……」
 選択を迫られていた。今すぐにでも決断が必要だった。
 逃げられるなら、その分だけ飛び込んでいくしかない。
 会見は予鈴の鐘と共に終了した。

     四

 行き交う人の流れを視界に収め、ファティマは街路灯の上に座っていた。
「絢爛《けんらん》たる幸福世界、栄光と繁栄の坩堝《るつぼ》。この環《かん》世界は何を求めている?」
 小人《こびと》とは言い難い尖った耳。均整のとれたしなやかな肢体の上は、浴衣とは違う、色調を紫で統一した極端に丈の短いドレス。背中に羽はなく、決して妖精とも違う、こめかみの上のあたりに生えた捩《ねじ》れた角。童話というより、魔術書から呼び出された色欲を司る悪魔のような姿だった。
「生命は相等しく還元され、源なる魂もまた遍《あまね》く大地に再分配される」
 人形ほどのとても小柄な身体とはいえ、街路灯の縁に投げ出されたファティマの脚はすらりと長く、十分に異性の目を引く彼女の姿を、通行人の誰一人として気にかける様子がない。ファティマも人間観察が趣味ではないのか、その冴えた藤紫色《ウィスタリア》の瞳の焦点を誰かに差し向けることはなく、通り過ぎていく人の波を無感動に眺めていた。
「けれど我らは廻《めぐ》らない。淘汰される。消滅する。この環世界に拒み続けられる――」
 呟いていたファティマの瞳が焦点を結び、ぐるりと眼だけを動かしてそこへ向ける。
 視線の先に、葡萄色のパーカーを目深《まぶか》に被った少女がいた。体の線は細く、胸の前を手で押さえ、車道の横に設けられた歩道柵と建物のあいだを跳ねるピンボールのようにおぼつかない足取りで、ファティマのいる街路灯のほうへ歩いてくる。他の通行人たちはパーカーの少女の様子を不審に思い、あるいは鬱陶しそうに避けながらも、それ以上の関心をよせなかった。
 と、ファティマのすぐ真下にまで来たところで突然、パーカーの少女はオフィスビルの細い脇道へと静かに折れた。
 そのとき、影の中にうずくまるように少女の体がかくんと落ちたのをファティマは見逃さなかった。
「貴様は、ここで何をしている」
 ファティマの背後から、雑踏にかすれてしまいそうな重く低い声が呼びかけてきた。独り言ではなく、明らかに対象を見据えた――ファティマへ向けて発せられた言葉だった。
「あら、お帰りなさい我らが『楽園の守護者』。予定よりお早い帰還ね」
 ファティマは笑顔を見せながら甘い声で振り返る。
「あは、スーツ姿も様《サマ》になって、案外そっちのほうが似合ってるんじゃなくて? 『守護者』なんて辞めてしまえばいいのに」
 ファティマの軽口に構わず、雑踏の中からはっきりとした答えが返ってくる。
「オレを監視するために来たのか」
 男の言葉には色がない。だが同様にファティマも歌うように語りかけながら、どこか白々しく、他人事のような声色だった。
「滅相もない。『守護者』殿には全幅の信頼を寄せているからこそ、こうして都会の散歩とシャレこませていだたいてますので」ファティマはすっと見下すような目で、「その様子だと、話し合いはご破算に終わったようね」
「ああ。貴様が出向いたほうが早かっただろうな」
「なになに、なにかしら。この蠱惑《こわく》的な姿が好みな偏った趣味の殿方だったとか?」
 街路灯の上から身を乗り出したファティマが愉快そうな声をあげる。ハープを掻き鳴らすように、腰にまで湛《たた》えた冴えた黒髪に、ファティマのしなやかな指先が流れた。同時に額の側面に伸びた異形の角が強調される。
 そこにいるはずの男の存在感がしばらく途絶え、あいだの沈黙には呆れが混ざっていた。
「結論から言えば、我々が彼らの崇高な研究の被験体になる他に選択の余地はないそうだ。あるとすれば大人しくそれを受け入れるか、抵抗して滅ぼされるだけだ、と」
「この国の尊い慣習である『対話による決着』はどこにいったのかしら」
「国の形と個々の意思は必ずしも同一ではない。目的のために急《せ》くこともある。誰も貴様のように永遠に生きられるわけではないからな」
「イジワルな言い方。あなたにだってこの体は殺せるし、そもそも長生きしても良いことないし」
 笑みを浮かべていたファティマの軽口が、輪をかけてフラットになる。「だって、心は老けていくもの」
 鐘の音が雑踏をすり抜けて聞こえてくる。離れた広場にある楕円のオブジェに埋め込まれたレトロな大時計が、巨大な振り子に合わせて鳴動していた。その下を歩いていく人々は当たり前の光景のように、素知らぬ顔で過ぎていく。
 ファティマは肌に深く沈んでいく鐘の音を気持ち良さそうに浴びながら、
「まあ、反抗するしかないんじゃない? 逃げるのにはもう無理なくらい仲間を受け入れ過ぎたわ。それにナントカ学園ってのが、ちょうどいいタイミングでこっちに調査に来てくれるみたいだし。捨てる神あれば拾う神ありって感じ?」
 口の中で転がすように、ファティマは内心呟いた。あのウサギが言うには『良い人たち』らしいが、はてさて。
「アレはどうする」
「どれのこと?」 
「さっきまで貴様が覗いていた奴だ。隠しているつもりだったのか」
 肩と脚を揺らして笑いながら、ファティマがさらりとこう答えた。
「言わなくたってあなたは拾っていくつもりでしょう。新しい仲間だもの。ねぇ、優しい優しい『守護者』さん」
 舌打ちした『守護者』と呼ばれた男は、パーカーの少女が消えたビル群の狭間に入って行った。
「本当に見境のない、底抜けにお人好しな男」
 誰にも聞き取れないくらい微細な唇の動きで、ファティマが呟く。
 だからこそ彼を信頼して『守護者』を任せられるのだ。今では必要不可欠なほど、彼の力は『楽園』を支える柱となり、その屋根の下により多くの仲間を救うことができた。だがこれは本人に直接言うとつまらないし、この先も絶対に口に出すつもりもないが。
「男、か」
 まだ耳に響いてくる鐘の音が、不意にファティマの比較的浅い部分の記憶を共鳴させた。
 まだファティマが『楽園』を築いておらず、独り街を彷徨《さまよ》っているときに遭遇した出来事を。突如、異能を与えられ、それが廻《めぐ》って環世界の小さな流れを変え、被るはずの災厄から事なきを得た少年のことを。 
「唐橋悠斗。あなたはその力で、この環世界で何を為す……?」
 小柄な身の内に残っていた鐘の音が途絶えると共に、彼女の回想は余韻に消えた。


 -続く-



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