【月下の悪鬼】


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 彼《ソレ》がほんのわずかな自我を持ったのは偶然だった。何百、何千のサンプルを使い、様々な薬品投与や外的刺激、遺伝子操作や改良など、多くの実験が行われた結果、彼《ソレ》は奇跡的に得られた産物だった。
 上層部からすれば決して褒められるものではなかったが、研究者たちはその幸運を喜び、彼《ソレ》に名前を与えることにする。
 その国では当たり前の平凡な名前。その意味するところは、彼《ソレ》が、全くの個性のない白紙であることでもあった。
「ねえ……貴方は本当に私たちの希望なのよ。お願い。このまま消滅しないでちょうだいね」
 彼《ソレ》は培養液の中で漂いながら、自分に声をかけた人物を初めて認識した。
 そして、彼《ソレ》は声の主を愛しいものと判断する。愛しいという定義すら分かっていない彼《ソレ》にとってはその感情は酷く不可思議なものだった。恐らく、インプリンティングの一種であったに違いない。
 彼《ソレ》の視覚情報によって解析され理解された彼女の姿は、一般的なレベルからすれば、地味で冴えない部類だった。黒い癖のある髪の毛は手入れもされておらず脂ぎりボサボサで、黒ブチの度の強いメガネが彼女の青白い不健康な顔の中心に不釣合いにおさまっている。身体つきも不摂生がたたって、女性的な魅力には乏しいほどにやせ細り、白衣に隠れたその腕や足はまるで枯れ果てた枝のようだった。女性にもかかわらず妙に身長が高いのもその異様さを決定付けていた。まるでナナフシ。彼《ソレ》があの昆虫を知っていたならそう思ったであろう。
 それでも彼《ソレ》は彼女を美しく尊いものだと認識する。刷り込みによって彼《ソレ》は彼女に母性を感じたからだ。
 それ以来、彼《ソレ》は彼女の動きを追うのが日課になっていた。
 彼《ソレ》の目――というものがあればだが――には、彼女はいつも忙しそうに研究に没頭し、自分を甲斐甲斐しく世話をしてくれている母親に映っていた。
 彼女は様々な情報を彼《ソレ》に教えていった。一般的な知識や教養、語学、そして、下世話な芸能ゴシックネタに、彼女の母の祖国である遠い島国の文化や言葉まで……。
 彼《ソレ》は、その時間が楽しかった。彼女との二人きりの時間が愛しかった。彼女を独り占めできるのが嬉しかったのだ。
 ある日のこと。彼女は一枚の写真を彼《ソレ》に見せる。そこには、女性のように美しい金髪の青年と仲良く肩を組む彼女が写っていた。
「聞いてくれる……? 彼ね、私に結婚しようって言ってくれたのよ」
 その言葉の意味をすでに学んでいた彼《ソレ》は酷く困惑する。素直に喜ぶべきなことはこれまで得ていた知識で分かっていた。だが、それをそのまま受け入れられない自我があった。
 それは教えてもらったこともない感情。酷く長い沈黙ののち、彼《ソレ》はこう答えることにした。
「オメデトウ御座イマス。私モ嬉シイデス」
「ありがとう……。今度、貴方にも紹介するわね。彼は私と同じ研究者なのよ」
 嬉しそうに頬を染め、はにかむ笑顔は、写真の彼女と同じだった。


 目の前には信じられない光景が広がっていた。彼女とその同僚である研究者たちが床に横たわっている。
 そのどれもが胸や頭部が破損し、血を流していた。いや、頭部の形が残っている死体は胸部を貫かれ絶命した彼《・》女《・》だけだった。
 何より彼《ソレ》が目の前に広がる光景を信じられなかったのは、この絶望的な世界に唯一立っている人物が、以前彼女から見せられた写真の男だったからだ。
 男は、PCや書類を面倒くさそうに漁りながら、役に立ちそうなものを雑多にアタッシュケースに詰め込むと、興味もなさげにその場を去って行く。そして、最後に何かのピンを抜き、研究室内部に放り投げる。
 爆発。
 その衝撃で培養層のケースがひび割れ、彼《ソレ》は無慈悲な世界へと投げ出される。
『アアアア! 母ョ、私ノ母ヨ』
 彼《ソレ》は心の中で叫びながら、彼女の元に這い寄っていく。だが、すでに彼女に息はない。
 心臓があるべき部分に大きな穴があき、今もそこから血が流れ続けているだけだ。
 楽園から放り出された彼《ソレ》は悪夢の中にいた。あらゆるところから炎が立ちこめ、警報音が耳障りに鳴り響く。生者もすでに一人もいない。そこにあるのは、数分前まで人だった肉の塊。
 それは今までの蜜月の日々から突然突きつけられた不条理な現実だった。
『セカイハ地獄ダ』
 初めて世界に生まれ出た彼《ソレ》は、祝福してくれない世界を酷く恨んだ。


 彼《ソレ》に出来ることは彼女の死体を研究所の外へと運ぶことだけだった。吹雪が舞う氷点下の白銀の外界で、酷い時間をかけて彷徨い、彼《ソレ》は安全な場所を探した。
 そして、ようやく人気のない森を見つけると、彼《ソレ》はそこを安住の地とすることにする。
 彼《ソレ》は彼女の死体を木々の中に隠すことにした。万が一、あの男に見つかってしまうかもしれないと思ったからだ。
 彼《ソレ》は彼女と共にそこに留ろうと決めていた。
 だが、時が過ぎると共に彼《ソレ》は衰弱していく。培養液で育てられていた時と違い、自主的に栄養分を探す必要があったからだ。
 もちろん、極寒の地に手軽に得られる栄養分などがあるはずもない。
 ネズミのような小動物などは存在したが、緩慢な動きしか出来ない彼《ソレ》が捕らえることはほぼ不可能。元が洞窟の掃除屋と呼ばれる化物《ラルヴア》の一種であった彼《ソレ》にとって、すばしっこい小動物を捕らえることなど無理だったのだ。
 わずかに残った意識の中で、このまま死ぬのも悪くないと彼《ソレ》は思い始めていた。彼女と一緒ならそれもいいだろうと……。
『彼女ト一緒……』
 そう思った瞬間、偶然にも木々の隙間から白銀の月光が彼女の身体に降り注ぐ。その姿は神々しく、彼《ソレ》にとっては神に召される聖母のように見えた。
 そして、彼《ソレ》の心の中に彼女が殺された出来事がフラッシュバックする。
 無力な自分を庇い、倒れていった彼女の姿と言葉を。
「貴方は私たちの希望……だから…だから、生きて頂――」
 彼《ソレ》の培養層を庇いながら、彼女の死体は培養層に真っ黒な跡をつけ、床に沈み込んでいた姿を……。
 彼《ソレ》は一つの決心をする。
『私ハ彼女ヲ食ッテデモ生キ延ビナケレバナラナイ……』
 凍りついた彼女の身体に近づくと、その凍った身体を優しく包み込む。
 そして、彼《ソレ》は酷く長い時間をかけ、彼女の身体を溶かし、己の血肉の贄としていった。その行程で彼《ソレ》は、人としての肉体の構成を理解していく。
 次に彼《ソレ》はカレとなり、彼女の脳を消化する過程で彼女の全てを知る。その生まれや育ち、彼女のささやかな人生を彩っていった小さくとも大切で幸せで悲しくて楽しくて嬉しい出来事。
 そして、志半ばで死ぬことへの慙愧……。愛した人物に裏切られ殺された悲しみと憎しみ。それらと相反する、全てを受け入れた安穏な思い。清濁綯い交ぜになった感情が、彼《かれ》の心をより深く形成していった。
 不定形で不安定だった生命体は、永い時間をかけて人としての心と形を手に入れる。その姿は、彼女を殺した男に酷似していた。正確にはその男の幼年期を想起させる姿。
 恐らく、それは彼女の心が生み出した愛されたかった理想の姿。そして、彼《カレ》だったものが彼女のために形作った愛したいという願望。
 かくして化物《ラルヴア》は人となり、その力の殆どを打ち捨てて、人としての生を歩みだす。仄暗い復讐の炎を心に宿しながら。









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